青春小説 「囚人バッジは、いらないよ」
教育って何だろう、僕らの受けてきた教育は、かなりおかしいのではないだろうか。どんな教育が正しいかは、いまいちわからないけど、とにかく、いまのはおかしい。高知県の県立高校を卒業したばかりの十八歳の男の子三人が一枚のビラで異議を申し立てました。
①十八歳の一週間の密議の中身は……
一九六五年三月。
この一週間ほど、高知市奉公人町のパン屋の裏の、母一人息子一人の部屋が僕らの密議の場になっています。
集まっているのは、三人の十八歳の青年。高知市の高知城の近く、追手筋二丁目にある県立追手前(おおてまえ)高校を卒業し、三月三日、四日の地元の国立大学、高知大学の入試を受けて、結果待ちをしています。
大池。
この家の息子。一九四六年七月十八日生まれ。三歳のとき、製パン業を営んでいた父が脳いっ血で亡くなりました。母は、隣のパン屋で働いています。大柄で、快活で、頭脳明晰で、ヒゲの濃い二枚目。高校時代は山岳部。コカコーラの配達員のアルバイトなどをやりながらしのいできました。大学は、文理学部文学科史学を希望。
林。
四七年一月二十六日生まれ。父は、路面電車の運転手。母は、家を出ています。高校時代は、高知市旭町から路面電車で通学。小柄。いき帰りの路面電車の中で指揮の振りをしながら声をあげて歌うという熱心な音楽部員でした。テナー。数学に独特のひらめきがあります。志望は、文理学部数学科。
僕こと、藤崎。
四六年二月二十三日生まれ。三人のうちでは一番若い。高校時代は高知市の隣の伊野町から路面電車で通学。父は、機械すきの紙工場の営繕係。母は、手すきの紙すき。父が浮気に金をつぎ込み、家計はつねにピーピー。両親ともに「中学校を卒業したら就職しいや」。それを押し切って家庭教師や大池と一緒にコカコーラの配達員をして授業料を払ってきました。身長百七十センチメートル。体重五十五キログラム。度の強い眼鏡に陰気な性格。どちらかというと、もてないタイプ。一年生のときの体操部のとき練習中に右手を折ったのをきっかけに退部し、化学部長に。高校に入って三年間、同じ学年の片思いの君をストーカーのように目で追い続けていたせいか、通信簿の成績はがた落ち。しかし、実力試験になると、なぜか高得点をとってきました。大学は、文理学部文学科史学を希望。
三人の共通点は、それぞれ家庭の事情で、地元の国立大学(県下で唯一つの四年制大学)を受けるしか、進学の道がないということくらいです。
大池は、自由な雰囲気の京都市の立命館大学をあこがれていました。しかし、……。
藤崎は、東京の私立大学に進学することになった「彼女」を追っかけて「東京の大学」にいきたかったのですが……。
おっと、ここで、大池の母からパンの耳の差し入れがありました。
食パンの耳だけではなくて、いろんなアンパンのくずも入っていて、けっこういい味です。
「なにも、あんたらあが、そんなことをやらいでも…」
大池の母は、息子たちが、ことをおこすことで不利益になりないか心配なのです。
実は、藤崎も、内心びくびくしていました。
高校の卒業を取り消されないだろうか、大学入試で合格圏内に入っていても、この行動が理由で不合格にならないだろうか……と。
しかし、これはやらなければならない。
ところで、三人の密議の内容のことです。
その中身は、囚人バッジをやめさせようということです。
②「二年十一組」の悲痛な訴え
僕たち三人が囚人バッジのことを知ったのは、大学受験が終わってすぐのことでした。
二年生、三年生とクラスが一緒の藤崎が、大池に、こう持ちかけました。
「面白い先生がおる。いっぺん、家にいってみんかよ。一年生のとき、僕や林が数学を習ろうた間崎英夫先生。二年生になるとき追手(おおて)をやめて別の高校へ勤めゆうけんど、やめたころから林らあ数人で週二回、数学を教わりにいきよった。二年間も、僕らあに、ただで教えてくれた」
藤崎と林はホームは違いますが理系コースで、ほとんどの授業が一緒。藤崎と大池はホームが一緒ですが、大池は文系コースで授業は、ほかの二人とほとんど別です。
藤崎の言葉に興味を示した大池は、藤崎と一緒に間崎先生を訪問してみることにしました。
藤崎は、大池を林に紹介し、三人で市内万々の新興住宅街に住む間崎先生宅を訪ねました。
春風が優しい昼下がりのことでした。
高校から歩いて四十分ほど。田んぼもある道は、藤崎や林にとっては、通いなれた道でした。仲間と恋愛や将来を語り合ってきた道でもあります。
いつものように着物姿の間崎先生は、いつもの落ち着いた話し振りで、三人に大変なことを話しました。
一年後輩の、二年生たちが学校から、ひどい差別を受けているというのです。
間崎先生の話は、こんな内容でした。
<二年生は、一組から六組までが理科コース、七組から十一組までは文科コース、十二組と十三組は一般コースになっていて、組の数字の多いほど成績の悪い生徒がいるという仕組みになっている。そのうえ、全生徒が何年何組というバッジをつけさせてれている>
三人にとって初めて聞く話でした。
「見せしめバッジのようなもんやないか」
「ひどいことを…。二年生はかわいそうや」
「先生らあ、あんまりや」
藤崎も、身体が熱くなるような衝撃を受けました。
こんなことは許しておけん。
「自由主義者」で、決して生徒を呼び捨てにしないで「君」「さん」づけで呼ぶ間崎先生を追い出した学校は、こんなことまでやるようになっていたのです。
「校長や教頭たちが教職員に相談しないでやったようだ。化学の岡田一夫先生が、二年十一組の担任で、しばらくして、この仕組みに気づいて、悩みぬいてねー。教職員会議会議でも教職員組合でも、この仕組みの改善のためにがんばっておられる」
間崎先生の案内で、三人は、岡田先生宅に向かいました。
岡田先生は、二年十一組の生徒たちの苦悩をつづった小冊子を三人に見せました。
みな、強制されたクラスのバッジを「階級章」「囚人バッジ」と呼んで非難していました。
この日から、三人の一週間の密議が始まりました。
③僕たちの気持ちを伝えるビラをまこう」
「追手前高校の門前で、僕たちの気持ちを伝えるビラをまこう」
大池、林、藤崎は、こう決めました。
博学の大池がビラの文案を書くことになりました。
それをもとに三人であれやこれやと手直ししました。
作業をしながら、大池は身の上話をしました。
年の離れた兄がいること。
兄も追手前高校出身だということ。
追手前高校の屋上の時計台に戦時中のアメリカ軍の空襲の跡があること。
姉の夫が東京大学経済学部卒業で、ものすごい秀才だということ。
藤崎にとっても初めて聞く話でした。
ビラの題は「卒業生の声 非民主的な追手前の現状」にしました。
「私達が、在学中に為し得なかったこと、卒業した今になって、痛切に感じる事をここに記し、本当の意味において追手前の将来を背負っている貴方達に、この問題を考えてもらいたく、筆をとった次第です。
私達が、追手前高校における三年間の生活をふり返ってみて、最も痛切に感じることは、年を経るごとに、追手前から民主的な空気が消えていったという事です。この事は年々ひどくなる傾向です。世界でも有数の民主国家であるはずの日本に、しかも、日本の革命と自由の発祥地、土佐に、こんな保守的、復古的な学園があろうとは! 現在の追手前の方針は、フランス革命後の宮廷貴族がとった(王制復古に際して)それにも似ているし、学力向上(過去への郷愁に由来する)にあまりにもあせりすぎるために、私達の眼には、醜悪としか映らないのです」
追手前高校は、一八七八年(明治十一年)十一月十九日創立された高知中学校に始まります。太平洋戦争後の四八年四月、高校になります。
自由の校風でした。校歌の一番は「あおぐは高き時計台 久遠(くおん)の時を刻みつつ 自由は若き魂(たま)に呼ぶ……」とあります。
高知県でも四八年十月、公選制の教育委員会ができ、民主的な教育が模索されました。
五〇年度から高知県は県立高校全員入学制を実施しました。
しかし、五六年三月十九日、高知県は県立高校の選抜試験制を強行しました。
同年八月十六日、県教育委員会は知事の任命制に。
高知県の教育の体質が変わっていきます。
五八年春、高知県の公立小、中、高校の教師たちは政府の教師にたいする勤務評定実施の政策に反対した大運動を展開します。僕たちは小学校六年生で、僕も教師たちのこの運動にエールを送っていました。
僕たちが中学三年生だった六一年十月二十六日、全国中学校いっせい学力試験がありました。中学二年生、三年生全員に国語、社会、数学、理科、英語の試験をして成績をためそうと文部省が実施したものです。
教師、父母から疑問が出て、試験を返上する運動がおこりました。僕も、試験の解答を白紙で提出しました。
六二年三月九日、十日に県立高校入学試験。
前回までは、公立高校は実質的に全員入学でしたが、今回は「八五パーセント」の制限入学制でした。
三月十五日、合格者発表。県下の全日制公立高校を受験した八千六百八十一人のうち千人近くが不合格になりました。悲しい出来事でした。
多くの合格者が、多かれ少なかれ他の人を押しのけることにたいする罪の意識を持ったのではないでしょうか。
僕たちが入学した追手前高校はホームルームとほとんどの授業が別でした。数学、英語などの授業はA、B、C、Dのコース別でした。
ホームルームが済むと、みんなかばんを持って、それぞれの次の教室に、ぞろぞろと移動しました。
学校側の狙いの一つは、ホームルーム(クラス)が一致してことをおこすことをできにくくすることでもあったでしょう。
一年生の終わりごろ、僕や林たちが数学を習っていた間崎英夫先生が、追手前高校を追われるというニュースが僕たちに伝わってきました。
追手前高校は、ある程度自由でおおらかな学校から規律重視、競争重視の進学校に変貌しようとしていました。
「自由な追手前が、これで一掃される。大変なことだ」
教わっていた一年生たちが間崎先生送別のための桂浜遠足をくわだてました。
その日、高校前に大型バスが到着し、総勢四十人ほどが桂浜へ繰り出しました。
桂浜から帰って、今度は高知城へ。
間崎先生が、石垣の上に立って「自由な追手前を守れ!」と演説しました。
その後の追手前高校の変化は急激でした。
毎朝、何人かの教師が校門で生徒の服装のチェックをするようになりました。
実力試験が終わると、職員室前に点数と名前が張り出されるようになっていきました。
ビラは、続きます。
④教育の真の使命は何だろう
「学力向上という至上命令の下に、高等学校教育における人間性を生徒の人権をジューリンしているとしか考えられないような事実があまりにも多く眼につきます。
なるほど、このような学園の雰囲気の下で、いわゆる〝学力〟は向上するかも知れません。しかし、真の学力の向上などということは、大学-有名大学に入学する生徒の数などのように、はっきりと眼に見えて表れるものではないと思います。いや、これでは言葉が不足します。有名大学への入学生の数の多少も、学力向上の結果の一面を表したものであるかもしれません。しかし、高等教育における教育の真の使命は、そればかりでは決してないと思うのです。高校は有名大学への予備校ではなく、また有名大学の卒業証書、高給会社へのパスポートではないはずなのです。
学力向上という目標は、現在の追手前高校には、ぜひとも必要だと思います。私達は大学受験に際して、このことを痛切に感じました。しかし、この目標の為に非民主的、非人道的な手段がとられてよいはずはありません。高校教育におけれヒューマニズムの欠如、これが最も恐しく、しかも、現実に追手前高校内に見られる現象なのです」
高知県の高校で「進学校」といわれるのは高知市の土佐高校、高知学芸高校など私立高校ばかりです。
そのなかで、県教育委員会などは追手前高校を「進学校」として、のし上げたいと、いろいろ手を打っていたのだと思います。
しかし、そのやり方は、学校側が勝手に作った規律を生徒たちに押し付けて学校に従順な生徒にしようと図り、競争をあおって点数のいい生徒たちを持ち上げ、点数の良くない生徒たちを切り捨てていくという、およそ教育という名に値しない行為でした。
僕も、胸の中では、そういったやり方にムカムカしながら、それに乗っかりながら日々を暮らしていました。
授業中は、どこか斜に構えているので通常のテストの成績はあまり良くない。しかし、家でガリガリ勉強しているので試験範囲のない実力テストでは高位の成績を上げる。そして、「ざまぁみろ、先公に頼らなくったって、いい成績は上げられるんだ」と心の中でうそぶく。それが二年生、三年生ころの僕の姿でした。
やせて、ねじくれた気持ちで、陰気に、目だけギラギラ光らせて暮らしていました。
⑤このバッジは軍隊の階級章だ
「囚人バッジの仕組みを具体的に書くと二年生がより傷つくから抽象的に書こう」
「そうやねー」
大池、林、藤崎の思いを伝えるビラは、さらに続きます。
「それでは、追手前高校に見られる、非民主的で、ヒューマニズムに欠けているはなはだしい例と、それらの問題点をあげてみよう。
一、学力(学校における成績)による、完全に学力による学級編成。
これは英才教育-終局の目的は、有名大学への合格者数の増加である-を実行しようとするために、必然的に生まれた結果であろう。つまり、単なる学力の向上をあせるあまりにとった、本来の学校教育の使命や、人間性を全く無視した劣悪な手段なのです。この配慮の浅い手段の為に、多くの生徒の人格が傷つけられ、多くの悲劇が起ころうとしています。小のために、大犠牲とする。あまりにも、非民主的、非人道的ではないだろうか。
一、ホーム番号を示すバッジの強制。
学力による学級編成の劣悪さに更に輪をかけたのが、このバッジをつける事を強制したという事です。多くの生徒にとって、このバッジは病人に鞭(むち)打つと同様の仕うちであったろうし、生徒は、この重い足枷(あしかせ)のために、歩くことも出来なくなったのではないだろうか。ある生徒はこれを称していわく、「囚人番号」だと。また軍隊の「階級章」と同じ意味をもつものだと。
以上に指摘した二つの事実の他にも、
(1)否定しがたい生徒の教師への不信感 (2)傷つきよい生徒の心を無視したような教師の言動、といった問題が、まだまだ沢山あります。私達は、これらの事を考えるとき、追手前の将来を憂慮し、あまりにも非民主的である実例を指摘するとともに、民主主義の立場より、考えてみる必要のあるこれらの問題を提起して、貴方方にこの問題解決、追手前の民主化への第一歩を踏みだしてもらいたいと期待してやみません。
最後に、この私達の主張に対する意見、感想をお寄せください。」
「最後に、ちゃんと僕たちの名前を入れよう」
「そうやねー、名前がないと無責任や」
「昭和三十九年卒業生 大池勝夫 藤崎正義 林泉」
⑥「ところで、どこで印刷しょう」
やっとビラの文章ができあがりました。
さて、印刷です。
林が音楽部から道具を借りてきてガリ版を切りました。林は音楽部で楽譜などを印刷していて、けっこうベテランです。
この日も大池の家での作業です。
謄写版という紙にキリのようなもので傷をつけていくのです。印刷のときは、その傷にインキが入っていくのです。
数時間後にできあがりました。
「ところで、どこで印刷しょう」
「うーん、教組で印刷機を貸してもらおうや」
「市教組(高知市教職員組合)は体制派やき、県教組(高知県教職員組合)で頼もう」
「いってみようか」
切り上がった謄写版を持って三人で、市内の丸の内の教育会館の県教組にいきました。
おずおずと事情を話すと
「ええよ。使いや」
役員らしい男性は快諾してくれました。
謄写版の印刷機をぎっこんばったんとやり、インキをにじましたローラーをぎゅーつと押し付けて何百枚かのビラが生まれました。
大池宅で。ビラを前にした三人。
「決行は、あすの登校時。みんなにビラまきを頼もうや」
「間崎先生の塾にいっていたもの全員に連絡しよう」
「僕のホームの小西の家には電話があるから連絡しよう。政治に関心はないけど、もう合格しているし、けっこういいやつだから協力してくれると思う」
⑦小西もビラ配りを手伝ってくれた
決行の日は一九六五年三月十一日朝。場所は、高知県立高知追手前高校門前。
小西も現れました。
数人のビラまきです。
だれもが初めてのビラまきです。
僕も思いを込めてビラを一枚、一枚、後輩たちに差し出しました。
登校してくる教師たちにも渡しました。
校門で服装検査をしていた教師たちが、冷たいまなざしを向けてきました。
「ありがとう」
ビラを読んだ山崎が、駆け寄ってきました。
「成績不良」で留年して二年生の友人です。
ビラを配り終わって、大池宅でくつろいでいた三人のもとに男性の新聞記者が訪ねてきました。
「なぜ、このビラを?」
大池がてきぱき答えました。
藤崎には、大柄な大池が、それまでよりずーっと大きく見えました。
何日かあとの朝。藤崎は、「伊野」発の路面電車で高知に向かっていました。
立っていた藤崎に、小柄な女の子が近づいてきました。
追手前高校の制服です。この制服が、こんなに似合う子は、ほかにいないなと思いました。一年生です。つぶらな瞳のかわいい子です。
「どうしてビラをまいたの?」
藤崎は、彼女の瞳を見つめながら口を開きました。
路面電車のゴトゴトという音に負けないように、いつの間にか熱弁を振るっている藤崎。
なんか僕の中の何かが変わり始めている、藤崎は、こう思っていました。
【お誘い】
以下のブログへも、ぞうぞ。
● 短歌の花だより
http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/
● 田辺島(たべしま)発
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