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2007年8月

2007年8月14日 (火)

風船爆弾 高知県でもつくられていた。

   ●はじめに 母も高知で風船爆弾の紙をすいていました。

 二〇〇七年八月十四日から、この原稿を書き始めました。

 内容は、以下のとおりです。

 ● 風船爆弾を誰が構想し推進したのか
 ● 風船爆弾 全国各地での製造過程
 ● 風船爆弾 高知県での製造過程
 ● 風船爆弾 占領地などでの製造過程
 ● 風船爆弾を、どこから発射したのか
 ● 風船爆弾は、どんな「効果」をあげたのか
 ● なぜ、風船爆弾作戦は中止されたか
 ● 風船爆弾を知るための参考文献
 ● 風船爆弾 探索日誌

 順次、材料のそろった所から一部でも書き始めるという形で進めたいと思っています。

 なぜ、書こうと思い立ったのか。
 それは、私が、一九九〇年八月に聞いた母・藤原冨士子(旧姓・山脇)の高知市旭で風船爆弾の紙をすいていたという話に触発されたからです。
 冨士子は、一九一九年十二月一日生まれです。
 太平洋戦争が開始されました。
 そうした中、高知市旭で紙すきをしていた冨士子は高知市の旭尋常小学校で同級生だった大工の池田益喜と結婚します。
 しかし、益喜は高知市朝倉の陸軍四四連隊に召集され、入隊して三日目に銃剣術のとき、胸をつかれ、それがもとで亡くなります。
 生まれた長男・征助も病気でなくなります。
 そのあと、冨士子は、陸軍四四連隊の楠(部隊長)の母の付き添い看護婦の仕事をするようになりました。
 「ほいたら、役所からきた人が私を探し当てて、『(旭の)尾崎製紙へ帰って紙をすかざったら軍属やらないかん』ゆうて。
 そして、軍の命令で尾崎製紙で紙をすきだした。
 付き添い看護婦のほうが、ずっと金をとれたけど。
 軽気球ゆうてねぇ。地球を回って、二十四時間たったら爆弾が破裂するがをこしらえよった。風船爆弾いいよった。
 その紙をつくりよった。
 特別の紙で、厚いことはないけんぞ、加工しちゅう。濡れんようにね。もんでも溶けん紙なの。
 仕上がった紙を水の中にやっても溶けんわけ。
 いままで、そんながをすいたことはない。
 すいたらすいたばあ、お金くれる。
 日に五百枚はすける。
 尾崎製紙は、太い工場やけんど、男の人は戦争にいて、すく人は女が二、三人しかおらざった。
 紙すきは、もともと男がおもで、女で紙すく人はよけいなかった。
 紙をつけゆう人は、ほとんど女。
 風船爆弾の仕事は戦争がすむまでやった」
 尾崎製紙工場のことを調べてみると、当時の住所で「土佐郡旭村」にありました。
 そして、ずいぶんと時間がたちましたが、二〇〇七年八月、あるきっかけで、この原稿を書くことにしました。
 休日の十四日、大筋を書き終えました。
 また、明日から調査して、空白を埋めていきたいと思っています。 

   ● 風船爆弾を誰が構想し推進したのか

 風船爆弾(ふうせんばくだん)とは、太平洋戦争において大日本帝国陸軍が用いた兵器です。
 「ふ号兵器」という秘匿名称で呼ばれていました。
 風船爆弾は、神奈川県の登戸陸軍研究所で開発されました。
 この研究所は一九三九年、陸軍科学研究所として開設。四二年に組織を拡充し、スパイ活動をおこなう参謀本部第二部第八課の命令を受け、毒物の青酸二トリルや強力な電磁波を利用した殺人用怪力光線、米国本土爆撃用の風船爆弾などの開発を進めました。
 風船爆弾は、満州事変後の一九三三年(昭和八年)ころから関東軍、陸軍によって研究され、四四年(昭和十九年)から実用化されました。
 一九四四年(昭和十九年)夏、「米国内攪(かく)乱」を目的とし、「ふ」号作戦と呼ばれる風船爆弾造りの極秘指令が全国の和紙産地に下りました。
 開発責任者は、第九陸軍技術研究所(川崎市・登戸研究所)の草場季喜少将でした。
 同年九月三十日、梅津美治郎陸軍参謀総長より井上茂気球連隊長に「一、気球連隊ハ主力ヲ以テ大津、勿来付近ニ、一部ヲ以テ一宮、岩沼、茂原及ビ古間木付近ニ陣地ヲ占領シ、概ネ十月末迄ニ攻撃準備ヲ完了スベシ」という命令が発せられました(大本営陸軍部指令二一九八号)。
 同年十月二十五日に次のような「大本営命令」が出ているといいます(「愛国顕彰ホームページ」から)。
 「気球連隊は米国本土に対し、気球をもってする攻撃を開始すべし。実施期間は十一月初頭より明春三月頃までと予定するも、状況により之が終了期間を更に延長することあり。攻撃開始は概ね十一月一日とす。但し十一月以前に於ても気象観測の目的を以て試射を実施することを得。試射に当りては実弾を装着することを得。
 投下物料は爆弾及び焼夷弾とし、その概数次の如し。
 十五瓩爆弾 約 7500個、五瓩焼夷弾 約30000個、十二瓩焼夷弾 約7500個
 放球数は約15000個とし、月別放球標準概ね左の如し。
 11月 約500個とし、五日頃までの気球数を努めて大ならしむ。
 12月 約3500個、1 月 約4500個、2 月 約4500個、3 月 約2000個
 放球数は更に約1000個増加することあり。
 放球実施に当りては、気象判断を適正ならしめ以て帝國領土並びに「ソ領」への落下を防止すると共に、米国本土到着率を大ならしむるに努む。
(中略)
 今次特殊攻撃を「富号試験」と呼称す。」
 風船爆弾の材質は和紙とコンニャク糊です。
 薄い和紙を五層にコンニャク糊で貼り合わせます。
 乾燥させた後に、風船の表面に苛性ソーダ液を塗ってコンニャク糊を強化します。
 それで、直径十メートルほどの和紙製の風船を作成します。
 それに水素を充填し、自動的に高度を調節する装置をつけます。
 その装置は、高度が低くなると、バラスト嚢を落とし高度を上げます。高度を維持しつつアメリカ大陸を目指すよう設計されました。
 日本本土から直接アメリカ本土空襲をおこなおうというものでした(他の攻撃目標もあったようです)。
 風船爆弾の装備においては少数ながらバリエーションがあります。
 二百五十キロ爆弾一発と焼夷弾四発を配した前期型。
 爆弾二発の初期改良型。
 焼夷弾の性能を上げた物。
 などです。
 製造中の事故により、六人の死者を出しています。
 製造にあたった女子学生の中には紙の扱いによって指紋が消えたという話が残っています。
 風船爆弾の材料としてコンニャク芋が軍需品となったため、おでんのネタからコンニャクがなくなったといいます。
 約九千三百個の風船爆弾が製造されました。
 当時日本だけがその存在を解明していたジェット気流を利用してアメリカ本土に向けて送りました。

   ●風船爆弾 全国各地での製造過程

 風船爆弾の製造には全国各地の多くの国民が動員されました。

 東京都

 東京有楽町の日本劇場(日劇、現在跡地は商業ビル「マリオン」となっている)でも製作されました。
 これは気球を天井から吊り下げて行う満球テスト(水素ガスを注入して漏洩を検査する)のために天井が高い建物が必要とされたためです。
 日劇の他、東京では東京宝塚劇場、有楽座、浅草国際劇場、両国国技館などでも製作がおこなわれました。
 主に動員された女子学生によって作業が行われています。

 埼玉県

 埼玉県での製造の様子が埼玉県平和資料館のホームページに載っています。
 「…厳しい気候条件や総重量200kgに耐え、国内の原料で製造可能な気球の素材として、『和紙とコンニャク糊』が厳選されました。とりわけ楮(こうぞ)の長い繊維を持ち強度に優れた『細川紙』は最適とされ、この有数の産地であり東京にも近い点から、小川町の和紙が実験段階の早い時期から使用されました。
 『風船爆弾』は、満州事変後の昭和8年頃対ソ戦用兵器として関東軍によって研究が着手され、その後陸軍技術研究所等が中心となって開発が進められました。昭和18年以降太平洋戦争の戦局が守勢に回る中、アメリカ本土攻撃を可能とする残された手段として「ふ号」作戦が陸軍に正式採用され、翌年2万個の生産命令が下されました。
 この間、日本橋の紙問屋を通じて気球紙漉きをほぼ独占していたのが、小川町の生産者でした。極秘に進められた特殊な製法に対応するため、大変な苦労の末に規格に合った漉き方や道具が編み出されました。出来る限り薄く丈夫でムラなく大判で、と厳しい条件の中で試行錯誤が繰り返され、この間のやり取りを伝える軍関係者からの手紙も残されています。
 直径10mの気球一個に要する和紙は約600枚でしたから、2万個生産命令下の昭和19年以降、気球紙漉きは全国の和紙産地に展開し、また爆弾や機材の製造などに勤労動員された学生や女子挺身隊など多くの人々が生産に携わりました。」
 「風船爆弾 東へ 1」という記事が埼玉新聞二〇〇七年八月九日付に掲載されました。
 小川町での風船爆弾製造のことが書かれていました。
 「国内有数の和紙産地で、強靭(きょうじん)な和紙作りで知られていた比企郡小川町に気球紙の開発が依頼されたのは一九三三年。軍の正式な指令の十年以上前だった。
 気球紙を専門に扱っていた国産科学工業の意向を受けた日本橋の紙問屋・小津商店から『楮(こうぞ)を使い、薄くて丈夫な紙を漉(す)くよう』求められた。試作品作りは極秘のため、選ばれた二つの漉き家(工房)のみで進められた。
 同町は東京から近く、砲弾火薬を湿気から守る砲兵紙など、軍需紙を漉いていた。強靭な紙質が急激な水素ガスの膨張にも耐え得るとされたものの、難点は厚さ。工夫を重ね、二年がかりで開発に成功した。
 透き通るほどの和紙大小二種類を五枚重ね合わせ、厚さ約一ミリ程度の一枚の原紙にした。縦と横を交互に重ねることで楮の繊維がからまり、さらに強い紙になったという。この手法が模範として全国の和紙産地に伝えられた。
 (中略)同町内には当時、約五百五十軒の漉き家があった。第二次世界大戦に入った一九四一年ごろから仕事は忙しくなり、一日に一人で五、六百枚、多いときで千枚漉いた。
 (中略)

 風船爆弾と小川和紙

 直径10メートルの水素気球1個に対し、大小5枚を重ね合わせた原紙が約600枚必要だった。和紙の大判は約200センチ×約73センチ、小判は約67センチ四方。(後略)」(八月九日付)
 埼玉県大和町(いまの和光市)にあった中外火工品会社が風船爆弾をつくっていました。
 江戸東京博物館(東京都墨田区横網一の四の一)に、そこで働いていた男性の遺族が寄贈した資料があります。
 二つの封筒(青い風船爆弾の用紙でつつんであります。一九四五年三月十一日付)に入った一〇三号気球の気球部分の製造の仕様書など八十七件です。
 持っていたのは中外火工品株式会社社員で風船爆弾の気球部分、部品の製造工場で指揮監督をしていた人です。

 神奈川県川崎

 「風船爆弾 東へ 3」(埼玉新聞二〇〇七年八月十一日付)には、風船爆弾の高度保持装置の製造、検査が極秘におこなわれていた川崎の東芝富士見町工場内の様子が描かれていますかが。
 横浜の共立女学校(現・横浜共立学園)三年生が一九四四年から翌四月までの勤労動員で、この作業にあたらされています。
 ガラスで区切られた調整室には部外者の立ち入りは一切できなかったといいます。ここで高度保持装置のレバーの調整をしました。装置を入れた容器の気圧を変化させ、正常に作動するかを確認すします。レバーをヤスリで削り誤作動を修正しました。
 四五年四月十五日、アメリカ軍が川崎を空襲。同工場は一夜にして消えました。
 「【高度保持装置】風船爆弾が、偏西風に乗った上空で一定の高度を保つための装置。気圧の変化でレバーが作動し、バラスト(砂袋)を落下させ、高度を維持。約3キロのバラスト計28個がすべて落ちる2昼夜後、太平洋を横断する。」

 岐阜県

 岐阜県での風船爆弾製造の様子が、ホームページ「岐阜県下の空襲 平和を願って」に載っています。
 「美濃市牧谷一帯は、当時1,000軒を越える美濃和紙生産業者がいて、全国1,2の和紙生産地でした。1994年3月、生産が始まりました。
 完成した薄い和紙は、武芸川町に運ばれました。岐阜県立武芸高等女学校では、校舎の中で女学生たちが、和紙をこんにゃく糊で貼り合わせる作業をしました。和紙の間に空気が絶対入ってはいけないので、指で強く押してくっつけます。指先が割れて血が出たり、指紋が消えてしまうほどの辛い仕事だったそうです。
 1945年1月より、羽島郡柳津村(現在の柳津町)でも風船爆弾の生産が始まりました。作業は、静岡女子師範学校の生徒130人が、昼夜二交代で、和紙の裁断、気球の張り合わせを行いました。
 岐阜県は、風船爆弾の紙から、気球までを生産していたのです。」

 京都府

 埼玉県大和町(いまの和光市)にあった中外火工品会社の京都第一工場は、京都市美術館と華頂学園という女学校でした。
 京都市美術館一階大ホールは気球の仕上げの場所でした。

 愛媛県

 一九四四年(昭和十九年)五月、陸軍兵器行政本部兵需課より愛媛県製紙試験場に、「ふ号気球爆弾」の風船部分製造の発注があり、楮黒皮処理の水選り・成形加工は学徒動員の女生徒らによっておこなわれました。

 群馬県下仁田町

「風船爆弾 東へ 2」(埼玉新聞二〇〇七年八月十日付)には、風船爆弾製造のさい気球の球皮となる和紙を張り合わせる糊(のり)として使われたこんにゃくの調達について書いています。
 場所は、明治以降、こんにゃくの一大産地としだった群馬県下仁田町です。
 「(風船爆弾の)製造に不可欠な素材だっただけに、下仁田のこんにゃくは軍納を命じられ、全国各地の気球製造工場へと送られた。(中略)食糧難に苦しみながらも、町民は必死にこんにゃくを栽培し、製粉した。その一方で、こんにゃくは全国の食卓から姿を消していった。
 (中略)
 【コンニャク糊】こんにゃく粉にぬるま湯を加えて練ると糊状になる。これがコンニャク糊で、風船爆弾1個に約90キロの粉が必要とされた。当時、地元の製粉業者は軍部から、採算を度外視しても良質な粉を作るよう求められていたという。」

   ● 風船爆弾 高知県での製作過程。

 高知県での風船爆弾の製造過程を明らかにしたいと思っています。
 しかし、ここがなかなかうまくいきません。
 まずは、本などで、そのアウトラインをつかむ仕事をやってみたいと思っています。

 【陸軍兵器行政本部高知監督班が乗り出して…】

 ことは一九四四年(昭和十九年)初めに始まっているようです。
 まずは紙の調達です。
 「勤労動員の事務所は、時の陸軍兵器行政本部高知監督班長中西本勉が、絶対権力を行使して県紙業試験場に置き、勤労動員課長橋田光明氏が軍の管理者を兼ね、又(また)紙業試験場長高橋亨も臨時陸軍技師に兼務されて、科学試験を使命とする紙業試験場も全く軍一色となり、サーベルと軍歌の音で明けては暮れた」(『土佐紙業史』。高知県和紙協同組合連合会)。
 高知県紙業試験場は、高知市旭三丁目にありました。
 この跡地は、いま「こうち男女共同参画センター『ソーレ』」になっています(高知市旭町三丁目一一五番地)。
 「高岡、伊野、安芸、香宗、久礼田等の各加工工場も、勿論(もちろん)軍部の指揮下におかれた……」(『土佐紙業史』)。

 【高知市旭の科学加工紙株式会社が製造に着手】

 「十九年の初め、陸軍航空本部より輸出和紙株式会社に対し、丸フ(まるふ)作戦に協力するよう軍命が下り、同社の山岡茂太郎(やまおか・もたろう)氏は久原某氏ほか女子従業員十名を伴って東京蒲田(かまた)の国産科学工業株式会社に赴(おもむ)き、内密の訓練を受けた。輸出和紙㈱は日本紙業と三浦商工の両社の典具帖紙部が昭和十六年に合併して設立された会社で漉(す)き槽の数も多く技術も高かったので、丸フ作戦の主役として期待されていた。埼玉県小川町の製紙試験場で、楮(こうぞ)一〇〇パーセントの『生紙(きがみ)』と呼ばれた厚手典具帖紙の製造指導を受けて帰高した両氏は、秘密裏にいわゆる風船爆弾の気球原紙の手漉(てす)きによる試験漉きを行うとともに、生産手段の確保を急いだ。」(『私本土佐紙物語』。河野剛久。河野製紙株式会社)。

 【高知製紙株式会社の河野楠一が情報をキャッチして…】

 ここで登場するのが高知市にあった高知製紙株式会社の河野楠一(かわの・くすいち)さんです。
 同社は、一九四三年四月、河野製紙所、塩田製紙所、三浦商工の工場部門が整備統合したものです。発足当時の経営陣は、社長・臼井鹿太郎さん、専務・河野冨助さん、常務・塩田兼三郎さん。河野製紙場は伊野工場(弘井盛重工場長)、塩田製紙所は高岡工場になりました。  
 河野楠一さんは、河野冨助さんの長男です。
 「河野楠一はこの情報をキャッチするや、得意の『因州美濃四幅』の技術を駆使し伊野工場において機械漉(ず)きに成功、直ちに試験漉きの一巻を背に、東京へと急いだ。
 陸軍航空本部にこの試験漉きを見せると、しばらく待たされ後、憲兵に連行された楠一は、情報の入手等に関して二、三日取り調べを受けた。後に楠一は『後にも先にも、あれほど怖かったことはなかった』と当時を語った。
 その後、陸軍航空本部の了解のもとに伊野工場において生紙の製造を行い、巻き取りを関東方面に出荷し続けたが、生紙(きがみ)の機械漉きに成功したのは全国で高知製紙ただ一社であったと聞く。
 これが縁となって、楠一は軍部との関係を深め、頻繁(ひんぱん)に出入りして軍関係の仕事を受注するとともに、資材の配給等に関して特権を与えられることもあった。」(『私本土佐紙物語』)。
 「因州美濃四幅」うんぬんは、河野冨助さんが開発した、手すき「因州美濃四幅」にヒントを得て、コウゾの繊維を短く処理してから機械ずきにした紙のことです。

 【大阪陸軍需品支廠(ししょう)主計中尉の手記】

 生紙(きがみ)を、どう調達したか。
 大阪陸軍需品支廠(ししょう)勤務の主計中尉だった鈴木正二さんが書いています(『写真記録 風船爆弾 乙女たちの青春』。編集・林えいだい。発行所・有限会社あらき書店)。
 「昭和十九年の五月か六月頃、突然、陸軍需品本廠長より私(大阪陸軍需品支廠勤務、主計中尉)に対して、至急上京せよとの極秘命令があり、驚いて東京の本廠に向かいました。
 これが秘密兵器■(「○」の中に「ふ」)作戦の原料和紙である生紙(きがみ)の生産整備命令でありました。
 例の如(ごと)く型通りの戦意高揚激励の後、帝国緒戦の華々しい勝利は残念ながらどこへやら、正直いって次第に劣勢となりつつあり、いまや守戦一方に転じた現在の戦局を、一気に挽回できる新兵器が、こんどの第九陸軍技術研究所(登戸)で開発された。それは直径十メートルにおよぶ紙製の風船爆弾である。一万メートルの上空を恒常的に、西から東に流れる亜成層圏気流気流に乗せて飛ばし、これに時限爆弾を装備して米本土上空で爆発するように仕掛けた。
 これを風船爆弾と呼び、■作戦と命名した……云々(うんぬん)。いうまでもなく極秘作戦である故(ゆえ)、その点は十分注意すること。
 ついては紙類の調達整備を所管する需品本廠に、原紙生紙の生産調達を命じられた。君がその責任担当者だということでありました。
 これは本当に驚き、非常に緊張したことをいまでも憶えております。当時、本廠の直接担当責任者は、慶応大学出身の若い井出佐重少佐でした。
 ■作戦に関しては、廠長以外は極めて少数の関係者だけで、同部隊内でも知る者は殆(ほとん)どいなかった筈(はず)です。勿論(もちろん)、大阪支廠に於(お)いても同様で、支廠長高木大佐、調達科長田中大尉、直接担当の鈴木中尉三人のみでした。
 その後、直ちに全国の各生産県への割り当て数量、月別の配分量などについて細かい打ち合わせを何回か行いました。
 風船一個に要する生紙が六百枚で、風船の第一次目標数が二万五千個か、一万個くらいだったと思います。
 日本に於(お)ける生紙の主要生産地が、私の大阪支廠内に集中していたのです。高知県(土佐紙)、鳥取県(因州紙)、岐阜県(美濃紙)です。
 従ってこれら三県にあった県立紙業試験場長を、それぞれ軍の嘱託にしていろいろと現地での技術の指導援助を仰ぎました。高知県は高橋技師、鳥取県は小位(しょうじ)技師、岐阜場長は加藤技師の三人でした。
 生産数量の割り当ては、従来の三県の実績、設備その他に照らして、およそ高知七、鳥取二、岐阜一の割合にしたと思います。従って、生産割り当ての多かった高知県が、その中で一番苦労が多かったでしょう。
 私も高知県には毎月一回は情報収集、生産督励に出張しました。高橋場長は生粋の土佐人でお酒が好きなので、貴重な配給の酒を目立たないように、水筒に詰めて持参したものでした。
 また、手漉(てす)き工場の工員さんには、無理して少しばかりの石鹸(せっけん)を土産に持って行き喜んでいただきました。 高知県では、ときの高橋知事婦人も寒中冷たい小川の流れにはいって、コウゾの皮むき精製に率先して従事されたことを高橋場長から聞いて、すごく感動したこともあります。
 和紙の生産業者は、殆(ほとん)ど零細企業の家内工業でありましたので、先ず第一に苦労したのは、いままでと違って規格がぐっと大きいことでした。とても手漉きでは無理だとの声もありましたが、なにぶんにも軍の絶対命令ということでみんな頑張ったけです。
 そのため業者によっては、原液の水槽(すいそう)から■(「竹」の下に「責」)の子から全部揃(そろ)えねばなりませんでした。
 紙を漉くということは全身の力を要する重作業でしたので、女性には重労働だったと思います。それでも、お国のために敵本土を爆撃する新兵器の原紙の材料をつくるのだと、みなさんが頑張ってくれたので、納期に遅れたことは一度もありませんでした。
 前述した通り私の管内主力は高知県でしたので、同地での仕事始めの激励会には、支廠長高木六郎大尉同行していただき訓示されました。
 その中で高木大佐が、
 『我が国は神国である。紙は神に通じるのです。昔から日本人は和紙を非常に尊い神聖な物として大切に扱ってきました。神社の御幣(ごへい)や奉書に、そして巻物に……。いま、この紙が神となって神国の危機を救おうとしているのです』と訓示しました。(中略)
 月末の納期近くになると心配で落ち着かず、各地を回って督励と情況の把握に努めました。
 また、後半には高知に下士官一人を常駐させ、自転車で駆け回ってもらいました。」

 【「高知県では上を下への大騒ぎで原料生産に明け暮れた」】

 「軍事課の指示で兵器行政本部が動いた。
 高知県の楮(こうぞ)を迅速に加工させ、気球紙用に全国の産地に配給することを下達したのである。(中略)
 かくして高知県に楮の加工生産の猛烈なノルマが課せられることになった。(中略)
 一九四四年の冬から春にかけて、高知県では上を下への大騒ぎで原料生産に明け暮れた。
 こうして高知の良質な楮が大量に原料として生産されていった。これらは、順次原料不足に悩む和紙の産地に配給されたのである。」(『風船爆弾 純国産兵器『ふ号』の記録』。吉野興一。朝日新聞社)。
 「此(こ)のバルーンは当時東京都蒲田区(かまたく)にあった国産科学工業株式会社代表者小林三男氏が国吉貞吉、浜田裕両氏の援助を受けて製造し、其(そ)の生産高は日産三十球と云(い)はれた。従って生紙の生産は益々(ますます)急を要し、業者は殆(ほとん)ど昼夜兼行の状態にあつたが、一方原料方面に於(おい)ても、生紙(きがみ)の生産と並行して多事多端(たじたたん)となり、原料商畠中宗太郎、西川庄太郎両氏が主となって各家庭に黒楮皮を割りあて、知事、市長夫人はもとより、凡(およ)そ高知市に家を持つ者に対しては、殆(ほとん)ど全部に此(こ)の皮へぐりの労役が課せられた」(『土佐紙業史』)。
 楮(こうぞ)は、植物で和紙の原料の一つです。
 楮を刈り取って、一週間以内に蒸します。まず、楮を一定の長さに切り揃え、『コシキ』と呼ばれる桶をかぶせ三、四時間かけて蒸していきます。蒸し終わったらさめないうちに手早く皮を幹からはぎ取ります。はぎ取った皮を黒皮と呼びます。次に、保存のため黒皮を天日でしっかり乾燥させます。そして、紙をすくのに必要な分だけ黒皮を川などの流水に二十四時間ほどさらし、外皮を取り除きやすくします。ナイフのような道具で外皮を取り除き、内皮だけにします。この内皮を白皮と呼びます。…というのが、原料づくりの工程の一つですが、このナイフのような道具で外皮を取り除き、内皮だけにする作業を各家庭にやらせたのです。
 なお、多事多端は「仕事や処理すべき事が多く、忙しいこと」です。

 【皮へぐりは高岡、伊野、佐川等の地域に対しても】

 「此(こ)の皮へぐりの労役は、独り高知市のみではなく、漸次(ぜんじ)軍の命令によつて高岡、伊野、佐川等の製紙工場を持つ地域に対しても課せられたが、当時科学加工紙株式会社に、巴塘、玉水新地等の遊女が動員されて、不器用な手つきで皮へぐりの労役に就事したのは、戦争の生んだ逸話としてあまりにも最名である。」(『土佐紙業史』)。

 【県下の南国市、安芸市の工場でも製造開始】

 県下の南国市、安芸市の工場でも風船爆弾の製造を開始しました。
 南国市国府地区(旧・国府村)の城東製紙工場も、その一つです。
 「手漉(てすき)和紙は、昭和十六年原材料が配給制になったことなどで企業の合理化を図る必要から会社組織による操業が計画され、個人経営を行っていた工場のうち竹内馬喜、門脇達一、和泉馬治、和泉清馬各氏と旧久礼田村の大川勘之助、徳橋正治、久米茂治の各氏が合同して、城東製紙を設立し操業を開始した。昭和十八年には軍需工場に指定され、風船爆弾用紙の製造が終戦まで行われた。」(『南国史談 第十二号』の「国府地区の製紙業について」。南国史談会)。
 一九四三年初め、安芸市井ノ口に小松俊良さん、井上栄太郎さん、小谷勝博さんほか数人の城東安芸製紙有限会社ができました。
 この会社が、風船爆弾の製造加工を始めました。
 「戦争も益々(ますます)激しくなり昭和十九年には城東安芸(有)(社長小松俊良)は軍から気球原紙の製造加工の注文受け女子挺身隊十数名も来てフル稼働した(後略)。」(『ふるさとのいまむかし』。ふるさとの今昔をさぐる子供と大人の会企画実行委員会=高知市安芸市)。
 「『昭和十九年に、役場からの話で、軍に和紙の貼り合せをして納めるという仕事が回されてきました。近所の和紙業者が合併して城東安芸製紙という会社が作られ、女子の挺身隊もたくさん集まって和紙の貼り合せをしていたようです。挺身隊の人々は近くのお寺に寝泊りしていました。(中略)』
 高知県安芸市で製紙工場を経営する小松光元の話である。」( 『風船爆弾 純国産兵器『ふ号』の記録』 吉野與一)。
 ここは、現場にいって調べてみたいと思っています。

 【高知市旭にバルーンの満球試験工場を建設】

 「当時の日本紙業界の動向を見てみると、まず昭和十九年三月には生紙(きがみ)と名づけられた純楮製薄葉紙の生産が挙国的に行はれた。最も此(こ)の生紙は、本県の徳平元太郎が最初やまと紙と称して之(こ)れが一般に通用していたが、土佐では和紙統制会社を代表する土佐和紙共販株式会社が同社の倉庫を陸軍需品廠(りくぐんじゅひんしょう)の生紙倉庫に当てて県内産紙の取扱いに任じ、更(さら)に其(そ)の七月には、高知市旭町三丁目九四番地(現西日本パルプ敷地)に科学加工紙株式会社を設立すると共にバルーンの満球試験工場を建設して所謂(いわゆる)風船爆弾の製造に着手した。」(『土佐紙業史』。高知県和紙協同組合連合会)。
 この本では、一九四四年七月に高知市旭町三丁目九四番地に科学加工紙株式会社を設立すると共にバルーンの満球試験工場を建設したとあります。
 路面電車通りに面して北にあった輸出和紙株式会社の中に、このバルーンの満球試験工場が建設されました。
 同社の西、すぐ隣の所に旭国民学校四年生の島総一郎さんが住んでいました。
 小説『黒煙突』(『高知文学 高知文学学校研究科作品集』一九九七年五月、高知文学学校)で、この工場のことをえがいています。
 「大通り沿いの広い敷地に、事務所や荷造り場や倉庫が立ちならび、浅く水をはったコウゾを浸すコンクリートの池もいくつかあった。小川を挟んだもう一つの敷地には、手漉(てす)きの工場や紙の乾燥場がつらなっていた。」
 夏休みに入ろうとしていた時、この製紙会社が長年つくってきた和紙のほかに何か別のものをつくり始めるといううわさが流れました。
 工場の中に、直径二メートル、高さ五十メートルほどの黒い煙突が建てられました。天辺には先のとがった避雷針がつけてありました。
 そして、二棟並んで巨大な黒い建物が建ちました。
 近所の人が「もうすぐ、会社の中へは立ち入り禁止になるらしいよ。(黒い建物の中で)大事な物を作るそうじゃ」と教えてくれました。
 その建物の中で気球をつくって、爆弾を取り付けてアメリカまで飛ばすといううわさも聞こえてきました。
 この工場に動員された土佐女子高等学校の生徒・秋沢淳子さんが、工場での作業のことを書いています(『わが戦争体験の日々 往時を生きた89人の記憶』。高知ペンクラブ)。
 「工場の中は蒸気がみなぎり、その中で三角柱の鉄板の上に長方形の和紙を置く。コンニャク糊(のり)を大きな羽毛でのばし、上下、左右に塗ると羽毛で鉄板を押す。ぐるんと廻(まわ)り二面の鉄板が出て来る。同じく塗り廻し三面にもまた塗る。三角柱の中には熱い蒸気が通り、始めの一面の紙は乾燥しているので、はがし集積場に持って行く。バケツに糊を一杯入れ持って来ては繰り返し和紙に糊をつけ羽毛で鉄板を押す。押すのにも力を必要とし熱い鉄板が空廻りする。正位置に戻しては和紙に糊をぬるが、パンと張った厚い丈夫な紙が出来る。隣の部屋では大きな風船に仕上げてゆく。これに爆弾を乗せ気流に乗り目的地のアメリカに落とす構想だった。」 
 科学加工紙株式会社のあった所は現在は、路面電車通りにそった北側です。
 この工場跡には、いまスーパーマーケットの高知サティがあります。

 【女学校の組立作業場には警察署長といえども立入禁止】

 「県立第一高等女学校の講堂及び土佐高等女学校の校庭は、生紙の加工、風船玉の製造に使用せられ、女学生が此(こ)の作業に当たつていたが、此処(ここ)へはたとへ警察署長と雖(いえど)も絶対に立ち入る事を許されなかった。」(『土佐紙業史』)。
 二つの女学校での風船爆弾製造の様子を追っかけました。
 一九四四年二月二十五日、「決戦非常措置要綱」が閣議決定されました。
 「原則トシテ中等学校程度以上ノ学生生徒ハ総テ今後一年、常時之ヲ勤労其ノ他非常任務ニ出動セシメ得ル組織的態勢ニ置キ必要ニ応ジ随時活発ナル動員ヲ実施ス」(原則として中等学校程度以上の学生生徒はすべて、今後一年常時その勤労その他非常任務に出動させる組織的態勢に置き、必要に応じて随時活発な動員を実施する)
 「学校校舎ハ必要アル場合ハ軍需工場化シ又ハ之ヲ軍用、非常倉庫用、非常病院用、避難住宅用其ノ他緊要ノ用途ニ之ヲ転用ス」(学校校舎は必要ある場合は軍需工場化し、またはこれを軍用、非常倉庫用、非常病院用、避難住宅用その他重要な用途に転用する)
 この要綱が実施に移されていきました。
 高知市の高知県立第一高等女学校は、現在は、高知県立高知丸の内高等学校になっています。
 『蛍雪八十年』(高知県立丸の内高等学校同窓会 吉永豊実著)に高知県立第一高等女学校の当時の様子が書かれています。
 「十九年五月本校は軍需品生産の下請け工場に指定されたゆえ県外にゆかない居残り組は二班にわかれ体育館で軍需品生産にあたった。一班は体育館にミシン百台をすえつけて軍服、シャツ、袴下をつくった。白鉢巻をしめてミシンを踏んで競争させられたものである。あわてて手にミシンをかけた生徒もいるほどであったが皆緊張して働いた。他の一班は講堂を工場として当時秘密兵器とされていた『風船爆弾』をつくった。勿論(もちろん)授業はなく朝から晩まで日曜も返上して働いた。この頃は(米軍の)艦載機の空襲も度々(たびたび)あったので登校時は頭巾(ずきん)をかぶり米一合、ほうたい、ヨーチンら自分でつくったカバンに入れ、これをかけて登校した」
 「十九年」というのは一九四四年のこと、本校は「高知県立第一高等女学校」のことです。
 同年四月に三年生になった池川順子さんが「風船爆弾」という手記を書いています(『高知・20世紀の戦争と平和』。平和資料館・草の家)。
 「女学校3年の15歳だった。これからは毎日学校へ出てきて作業をしてもらいます、ということで始まった。(中略)
 3年生の甲乙丙丁の4組のうち、2組が軍服づくりを体育館にミシンを持ち込んでやっていたが、『被服ぐみ』と呼ばれていた。あとの2組が風船爆弾づくりである。」
 池川さんたちは、三つの工程を担当しています。
 その一。教室で。
 「教室の机や椅子(いす)をうしろに積み上げて床をひろくして、南側に5人、北の廊下側に5人が、それぞれ1メートルの間隔をあけて座り、この2組は向き合っていた。各人の横には、直径12~13センチ、深さ8センチぐらいのブリキの缶が置かれ、その中に、あめ色のこんにゃく糊(のり)がたっぷり入っている。各人の後ろには、それぞれのサイズの青緑色の透明がかった紙風船の断片が置かれている。風船の半球の部分を5人が調子を合わせて貼(は)っていく。テープ状に巻かれた『かすがい』を適当に手でちぎりながら、貼りあがった5人が一斉に掛け声を掛けて、前へ繰り出し、向こう側の列も向こう側の列も同じ作業を行う。真ん中の教壇近くに、工場から出張して監督に座っている女工さんが、時々少なくなったこんにゃく糊の補給をする。
 紙風船にかすがいがきちんと糊付けされて、そこに水ぶくれのような気泡ができないよう10本の指で強く押し出す(後略)」
 その二。教室で。 
 「教室の各サイドで作り上げた半球を真ん中で張り合わせると、直径10メートルほどの風船になる。それを皆で折りたたんで、かついで講堂へ持って行き(後略)」
 その三。講堂で。
 「(講堂に持ってきた風船を)また広げてふくらませる。講堂の天井の高さがが足りなくてつかえるので、完全な満球にならない。そこここがしわの半満球の風船を、空気がもれないかと大ざっぱに検査して、最後は足で踏みつぶして空気を押し出す。」
 きつかったのは「気泡ができないよう10本の指で強く押し出す」作業でした。「これがとても疲れる。手の関節に力が入るので、ここが硬く大きくなって、5本の指が閉じなくなり、皆5本の指を広げて、フランンシュタインのような感じであるいていた」
 来る日も来る日も、このような作業のくりかえしでした。
 その年十一月、高知県立第一高等女学校の生徒の一部は動員され、高知を出発しました。
 四年生は、京都府山崎の大日本紡績山崎工場にいき、陸軍被服廠(りくぐんひふくしょう)で軍服、軍靴をつくる仕事をしました。
 五年生は、大阪東淀川区の加島大阪機工株式会社に動員され、武器の部分品をつくる仕事に従事しました。
 両者とも、全員が寮に収容されました。
 池川さんたちの風船爆弾づくりは、いつのころかヒマになってきました。
 そこで、池川さんたちは、出征兵士の留守家庭へ農作業の勤労動員に出かけるようになりました。
 高知市の私立土佐高等女学校は、一九一一年、講堂を新築しています。なぜ、講堂ではなく校庭で作業をやっていたのでしょう。
 同校は、現在、土佐女子高等学校、土佐女子中学校になっています
 「(大きな紙の風船づくりの)作業は原料たる楮(こうぞ)の表皮を除くいわゆる『くさへぐり』から、工場ですいた原料紙の検査、更(さら)にこんにゃく糊(のり)をつかつて原料紙を直径十米(メートル)の大風船に貼(はり)合せる作業である。四五年生が動員されてからは、三年生以下で之(これ)を行い、講堂を工場に代用し、校庭で之(これ)に高圧の空気を充たして強度を実験するなどもやつた。後には市内旭町に工場が出来て、そこに通勤した。」(『五十年の歩み 創立五十周年記念刊行』、土佐女子高等学校 土佐女子中学校)。
 「四五年生が動員されて」というのは、いつのことでしょうか。
 一九四四年十月、学徒動員令ができました。
 同年十一月九日夜、同校五年生は、兵庫県伊丹の大阪機工猪名川工場に出発しました。
 翌十日夜、同校四年生は、兵庫県加古川の日本毛織加印工場に出発しました。
 高知市相模町一の五四にあった社団法人高坂高等女学校でも風船爆弾が製造されていました。
 ここは、現在、高知市立愛宕中学校がある所です。
  高坂高等女学校の生徒だった大谷美壽さんが手記を書いています(『わが戦争体験の日々 往時を生きた89人の記録』。高知ペンクラブ)。
 「(一九四四年)三年生にも学徒動員令が施行され、県内工場(学校内)で作業を行うことになる。
 厚い防空頭巾に血液型を表示した布を縫いつけ、胸に青い学徒動員章と名札をつける。
 (県下野市町からの)通学には高知鉄道と省線を併用、高知駅へは(午前)
七時二〇分頃には着く。四時半起きで炊いたご飯に卵焼き弁当がちょっぴり暖かい。
 三年生の半数は軍網作業で、(高知市)桟橋通りの日本軍網会社より迷彩色された軍網が届き、用途に応じて切断、接合するなどしてカムフラージュを取りつける。(中略)
 他の半数の生徒は、本館二階に隔離されて紙作業に従事する。これは風船爆弾の風船を作るもので、軍の機密漏洩(きみつろうえい)防止のために、憲兵中尉が配属されていた。軍刀を引っ提げ、長靴の音高く周辺を睥睨(へいげい)して、余人の出入りを許さず、終日警戒の歩を緩めない。
 (中略)
 糊(のり)係が蒟蒻粉(こんにゃくこ)を水で溶き、大釜で根気よく練り合わせ煮詰めたものを各自に配る。
 作業工程の指導は女工の筒井さんであった。
 毎朝、朝礼があって廊下に整列して点検を受ける。まず畏(かしこ)まって宮城遥拝(ようはい)し最敬礼。兵士のご苦労を偲(しの)べと真冬でもみな素足である。白鉢巻のいでたちで、賀詞を大声で斉唱。中尉殿の気に入らぬ時は、もっと気合を入れんか、弛(たる)んどる、と怒鳴られて、寒さに身震いしながら幾度でもやり直しされた。
 運ばれた用紙は、半径が教室の入口より出口までの長さで、一三、四人が横に並んで、延べられた原紙ともう一枚の原紙を貼(は)り合わせるのだが、貼り方が独特で、お互いの糊代(のりしろ)を合わせて貼る時、糊代に糊をたっぷりつけて、貼った部分に糊が残ってはならぬという。両手指に渾身(こんしん)の力をこめて必死に糊を押し出す。派遣女工の気に入るまで、両手で押し広げては突き出す。彼女は自負と責任感から妥協は許さない。しっかり押して押して、真っ赤な指が反り返って元に戻らぬほどに繰り返して糊を出す。責任感で殺気立つほど緊張して、みな戦士の容貌(ようぼう)である。
 やっと半円を貼り終わると、隣の教室の半円とを同じ要領で貼り合わせて球状とする。
 (中略)朝礼で中尉殿が、その成果を兵士達が涙を流して喜んだと話すものだから、国のお役に立っているのかと、また精魂(せいこん)こめて作業に勤しんだ」
 そのうち高坂高等女学校での風船爆弾製造の作業は中止され大谷さんたちは高知県立蚕業試験場に駐屯する陸軍中隊へ壕(ごう)掘り要員として派遣されます。
 県下の県立佐川高等女学校の生徒たちも風船爆弾の製造に動員されました。
 一九四三年四月に同校に入学した井上小萩さんが書いています(『土佐史談 霧生関 第一巻第三号』)。
 「翌十九年だったか(中略)一年上の生徒は伊野の製紙工場へ動員されていった」
 伊野というのは県下の伊野町のことです。 

 【県内の二十三か所で、紙をはり合わせて原紙に】

 すきあがった紙をはり合わせて原紙をつくっていたのは、県内の二十工場、高知市旭三丁目の科学加工紙株式会社、高知市の県立第一高等女学校の講堂、土佐高等女学校の校庭だったといいます。
 高知県紙業試験場に陸軍兵器行政本部高知監督班の事務所が置かれましたが、試験場長だった高知市旭天神町の高橋亨さんが臨時陸軍技官として紙づくりの指導に、軍の監督官補だった土佐市高岡町の製パン会社社長の高石馨さんが紙の検査主任になりました。
 その二人から話を聞いて、まとめた記録に、そのことが書いてありました(『土佐紙物語』。西沢弘順、朝日新聞高知支局)。
 「手すき業者は当時、約八百戸もあったが、十九年九月ごろから、すべてコウゾを原料にした気球用の生紙(きがみ)すきを命ぜられた。高知市など全家庭の主婦が、コウゾの皮へぐり(黒い表皮を取り除く作業)に動員された。すきあがった紙は、県内の主な二十工場、高知市旭町三丁目の国産工場(旧高知パルプ敷地)や第一高等女学校(現丸の内高校)土佐高等女学校(現土佐女子高校)グラウンドなどで張り合わせ原紙をつくった。
 風船の直径は十メートル、重さ七十五-八十キロ。ラッカーで迷彩塗装をし、月に十-十五個ずつ東京へ送られた。……」
 文中の「国産工場」というのは「科学加工紙株式会社」のことのようです。

 【高知市立高知高等女学校の生徒たちが土佐高等女学校にいって楮(こうぞ)の皮へぐり】

 楮(こうぞ)の皮へぐりは女学生たちもやらされていました。
 高知市北門筋の高知市立高知高等女学校(国民学校高等科二年終了者が入学、修業年限・二年、生徒定員四百人)の教師が、日誌風につづっています(『元高知市立高知高等女学校生徒勤労誌 幻の高等女学校』。生永利正=おぶなが・としまさ=)。
 以下、一九四四年のことです。
 「八月二十三日 晴後雨
 (中略)
 大部分の生徒は、『楮草へぐり』に土佐高女へ行く、楮草へぐり用の包丁が無いので、小刀等で垢取(あかと)りをするが、始めての作業であり、道具が有り合わせのもの故(ゆえ)、能率は上がらない。指導者にも経験者が極めて少ないので、十分な指導は出来ない。出来は甚(はなは)だよくない。一人宛二百匁(もんめ)もむつかしい。生徒に労力を提供さすなら、主催者は、もっともっと良く考えねばならんと思う。(この楮草はへぐった後、紙にして軍用に供す)」
 八月二十四日 時々雨
 今日も土佐高女で、楮草へぐり作業、馴れない作業で生徒は苦労する。
 (中略)
 八月二十八日 晴
 土佐高女での楮草へぐりに出勤。付添教員一名、仕事は次第に馴れて来て、苦労も少なくなったようだ。」

 【高知県でつくられた生紙は大阪市にも送られました】

 「余剰分の気球紙は大阪に運ばれた。
 一九四四年の九月ころから、大量の気球生紙が大阪造兵局(砲兵工廠)に運ばれた。大阪城天守閣の北東、片町門の内側に巨大な倉庫群が林立していたが、ここに高知県産の和紙が次々に送り込まれていったのである。やがて、この和紙は大阪や四国から動員された女学生たちの手で気球に成型されていくことになる。」(『風船爆弾 純国産兵器『ふ号』の記録』)。

 【一九四五年三月二十四日に高知の監督班は解散したが…】

 「高知で(風船爆弾製造の)監督班の解散写真を写したのは(一九四五年)三月二十四日である。」(『風船爆弾 純国産兵器『ふ号』の記録』)

 しかし、この後も、製造作業は続いていたようです。
 ここは、もう少し検討する必要がありそうです。

   ● 風船爆弾 占領地などでの製造過程

日本が支配していた満州(中国東北部)新京市でも、風船爆弾をつくっていました。

 高知市在住の崎山ひろみさんが自分の体験をのべています。

 「日本が支配していた満州(中国東北部)新京市の敷島高等女学校に通っていました。
 一九四五年六月、三年生の時、クラスの生徒たちと近くの関東軍の第四連隊に動員され、日本で徴用された女子挺身(ていしん)隊の人の指導で、気球原紙をつくりました。
 電気のコイルで熱せられた四面の鉄板の前での二人一組の立ち作業でした。鉄板にはけでコンニャクのりをぬり、その上に縦九十㌢、横百八十㌢の和紙をはって気泡ができないようにする。五、六枚重ねばりして乾燥させるという作業です。
 一カ月たつと釜場に移りました。直系三㍍ほどの釜の中でグリセリンが煮えたぎっていました。そこに重ねばりした和紙を入れました。七、八人がかいのような物でかき混ぜます。ものすごい湿気の中での作業でした。肋膜炎(ろくまくえん)や脚気(かっけ)になり、病院で背中から肋膜液を抜かれました。
 その後は、検査室の仕事になりました。ここで私たちのつくっている物が風船爆弾の直径五㍍ほどの気球部分だとわかりました。
 『この作業のことは絶対秘密で、親にもしゃべってはいけない』とクギをさされました。帰り道、友人たちとおしゃべりしながら歩いていると後ろから『おい、おまえたち。作業のことをしゃべるなよ』の声。特高警察がつけてきていたのです。
 八月九日早朝からソ連軍が満州に進撃してきました。連隊にいくと兵隊に『作業は終わった』『われわれは移動する』といわれました。この日で私たちの風船爆弾づくりは終わりました。
 戦後になって、日本からアメリカへ飛ばしていた風船爆弾は直径は十㍍ほどのもので、四五年春には放球や製造が中止されていたことを知りました。満州で、私たちが八月九日までつくらされていた風船爆弾は生物兵器をのせてソ連へ飛ばす予定だったことも知りました。
 白菊小学校のときから「お国のために」と教え込まれました。微熱があっても「みんなが、がんばっているから」と風船爆弾づくりにいきました。」(「しんぶん赤旗」中国・四国のページ、二〇〇七年九月五日付)。

   ● 風船爆弾を、どこから発射したのか

 風船爆弾は、当時、日本の研究者に発見されたジェット気流(偏西風の流れ)を利用し、爆弾を気球に乗せ、日本本土から直接、一万キロメートルかなたのアメリカ本土空襲をおこなうもので、千葉県一ノ宮、茨城県大津、福島県勿来の各海岸から大量に飛ばされました。

 【茨城県大津の陸軍気球連隊第一大隊大津基地】

 茨城県大津の陸軍気球連隊第一大隊大津基地からは、一九四四年(昭和十九年)から四五年四月の間、アメリカ本土に向けて風船爆弾を放流させたました。
 いくつもの沢に放球台や兵舎、倉庫、水素タンクなどが設置されていました。
 大本営直属の部隊本部は、この地にあり作戦の中心でした。
 晩秋から冬、太平洋の上空八千メートルから一万二千メートルの亜成層圏に最大秒速七十メートルの偏西風が吹きます、ジェット気流です。風船爆弾は五十時間前後でアメリカに着きます。
 精密な電気装置で爆弾と焼夷弾を投下したのち和紙とコンニャクのりで作った直径十メートルの気球部は自動的に燃焼する仕掛けでした。
 「風船爆弾 東へ 5」(埼玉新聞二〇〇七年八月十四日付)にも、大津基地の様子が書かれています。
 「(前略)気球連隊本部が置かれた風船爆弾の放球基地だった。
 約百三十二万平方メートルの大津基地には、十八基の放球台や水素ガスタンク、水素ガス発生装置などがあり、気象隊が当日の天候を調べ、打ち上げを決定。朝なぎと夕なぎに放球した。風船爆弾は、敗戦が色濃くなった一九四四年十一月から翌四五年四月まで打ち上げられた。(中略)
 女学生らによって作られた風船は、木箱に入れて運ばれ、基地で組み立てられた。(中略)
 (中略)
 【大津基地】1944年9月に完成し、1500人の兵士を動員した最大規模のほうき放球基地。山に囲まれ敵に発見されにくいなど、基地の条件に適していた。常磐線の大津港駅が近くにあり、物資を運ぶのにも好都合だった。」

 気球部隊の概要は以下のとおりです(ホームページ「ぶらり重兵衛の歴史探訪2」から)。

 『ふ』号作戦気球部隊(千葉の気球連隊を改編)
 正式編成:昭和19年9月8日
 編成完結:昭和19年9月26日

 連隊長:井上茂・大佐
 連隊本部:茨城県大津

 編制
 連隊本部=茨城県大津
 通信隊
 気象隊
 連隊材料廠
 第1大隊(3個中隊・1個段列中隊)=茨城県大津
 第2大隊(2個中隊・1個段列中隊)=千葉県一宮
 第3大隊(2個中隊・1個段列中隊)=福島県勿来

 ※1個中隊=2個小隊、1個小隊=3個発射分隊、1個発射分隊=1個発射台
 ※1個中隊=将校12~13名、下士官22~23名、兵約190名
 ※段列中隊=水素ガスの充填、焼夷弾・爆弾等の運搬・装備を担当

 試射隊=千葉県一宮
 ラジオゾンデを装備した観測用気球を放流し、電波を受信標定して気球の経路を追跡する部隊)

 標定隊
 標定本部=宮城県岩沼
 第1標定所=青森県古間木
 第2標定所=宮城県岩沼
 第3標定所=千葉県一宮
 (のちに樺太にも標定所を設けた)

 総員:約2千名
 予算:基地整備・運用費として2億円(兵器資材費・制作費は予算外・別会計)
 気球製造場所:『国際劇場』『日本劇場』『宝塚劇場』『国技館』『有楽座』など
 製造数:1万発(3箇所から9,300発を放流、到達数280発、残存700発は終戦時焼却処分)
 攻撃開始日:昭和19年11月3日未明(3か所から同時放流)

 事故
 第3大隊(福島県勿来)=昭和19年11月1日未明、暴発により死亡3名、負傷3名
 第1大隊(茨城県大津)=昭和19年11月3日未明、暴発により死亡3名、負傷4~5名

 【千葉県一ノ宮】

 一九四四年(昭和十九年)ごろ、千葉県の一宮駅から海岸まで鉄道の 引込み線がひかれていました。
 海岸には兵舎 が建設され、陸軍気球部隊と陸軍兵器廠が設置されていました。
 その目的は風船爆弾の打ち上げでした。
 風船爆弾は軍事上の重大機密。海岸線を走る汽車は、乗客に見られないよう海側の窓の鎧戸(よろいど)が常に降ろされていました。
 千葉県一ノ宮での様子は、郷土史研究会の長谷川英美さんの記録があります(「一宮町役場ホームページ」から)。
 「昭和19年12月某日、午前6時半頃、七島踏切の手前までいくと、ちょうど海岸の松林のすぐ向こうに、気球がふわりと上がった。どんどん上がって天までいった。
 田んぼ道を急いで歩いて駅に着いた。汽車がすぐきた。乗ってみると当然のように海側の窓は、鎧戸が降ろされていた。
 この気球が風船爆弾で、一宮海岸は風船爆弾の基地になっていたのである。
 太平洋戦争の末期、旧陸軍が米国内の攪乱を狙って米本土攻撃をするための秘密兵器だったのである。
 これは直径10メートルの気球に15キロ炸裂爆弾、5キロ焼夷弾(2個)を装着、高度調整装置を取り付け、8千メートルから1万メートルまで上げ,冬の偏西風にのせて米国本土まで飛ばせて落下するように仕掛けてある。
 ○気球は紙風船で中に水素ガスで詰めてある。
 ○回りの紙は、楮(こうぞ)を原料とした和紙で,こんにゃくを原料とした糊で接着してある。大判和紙(66cm×193cm)と小判和紙(67cm×97cm)を組み合わせてこれを五層貼り、丈夫な球皮とした。(小型紙4千枚相当)
 ○気球作りの工場は日劇、宝塚、国際劇場や国技館等で席を外して板張りの床とし作業をし易くした。働き手は女学生や女子挺身隊がそれぞれ200人位配置された。
 ○水素ガスは昭和電工川崎工場、横浜工場等で製造しボンベに詰めてトラックや貨車で基地に運ばれた。
 風船爆弾の放球基地は,茨城県大津(18台)、千葉県一宮(12台)、福島県勿来(なこそ)(12台)である。※()内は放球台数。
 放球台は直径10メートルの円型コンクリート床を作り、周囲に19本の綱をつなぎとめるのに19個の鉄の懸吊環(けんちょかん)を固定させた。
 3基地から米本土に向けて放たれた風船爆弾の概数は、19年11月に700個、12月に1,200個,翌年2月に1,200個だったという。放球台数で割算すると1台で約93個だから一宮基地はその12倍で1,100個位放球されたことになる。
 ○昭和19年2月から3月にかけて,一宮海岸から放球された実験気球は,約200個に達したという。
 ○昭和20年2月艦載機来襲、B29による京浜地区空爆、3月10日の東京大空襲等で工場は被災し、一宮は基地として機能しなくなり、勿来とともに大津に合流して残りの風船爆弾を放球して終わった。(後略)」

 【福島県勿来】

   ● 風船爆弾は、どんな「効果」をあげたのか

 風船爆弾の生産個数は、およそ九千三百個です。
 アメリカ合衆国本土に到達したのは、その一割強の千個、異説では三百個ほどです。

 アメリカ本土に到達した風船爆弾(「愛国顕彰ホームページ」から)。

 地域     数 

 ワシントン    25
 北ダコタ      2
 オレゴン     40
 南ダコタ      8
 カリフォルニア  22
 ネブラスカ     5
 ネバダ       6
 アイオワ      3
 アイダホ      8
 カンザス      1
 モンタナ     32
 テキサス      3
 ワイオミング    8
 ミシガン      2
 ユタ        5
 カナダ      78
 アリゾナ      2
 アラスカ     24
 コロラド      3
        計277
 (メキシコ、ハワイ、その他の地域でも落下が確認されています)

 危険の少ない地域の上空で、飛来する気球がアメリカ軍戦闘機の機銃射撃により爆破処分されているものもあります。
 人的被害についてはオレゴン州での女性一人と子ども五人がピクニック中に木に引っかかっている爆弾部分を触り、爆死した例が一つ確認されています。
 この事件は第二次世界大戦中にアメリカ本土で死者がでた唯一の事例です。
 プルトニウム製造工場(ハンフォード工場、ワシントン州リッチランド)の送電線に引っかかり原爆の完成を遅らせたり、山火事を起こしたりと、人的被害以外では北米各地に「効果」が見られました。
 風船爆弾による攻撃を知ったアメリカ陸軍の一部は、生物兵器を搭載している可能性を考慮し、着地した不発弾を調査するにあたり、担当者は防毒マスク、防護服を着用しています。
 発射地点は割り出せたものの、アメリカは当時ジェット気流の存在を知らなかったため、どうやって気球を日本からアメリカまで到達させたのかはわかりませんでした。
 アメリカ陸軍は情報操作をして風船爆弾による被害を隠蔽していました。
 これはアメリカ側の戦意維持のためと、日本側が戦果を確認できないようにするためであった。
 気球を調査したアメリカ軍は、それが紙製であることはすぐに突きとめたものの、紙を張り合わせている接着剤を特定することはできませんでした。
 風船爆弾を迎撃するアメリカ軍戦闘機のガンカメラ映像があります。
 アメリカ軍はこの風船爆弾に残っていたバラスト砂から製造地及び発射地点を割り出して空襲の目標としました。
 プルトニウム製造工場の運営に影響を与えた件で、原子爆弾投下が急がれました。
 本土の制空権を奪われた大戦末期には、飛ばした直後に上空で敵戦闘機に撃ち落されることが多かった。

   ● なぜ、風船爆弾作戦は中止されたか

第一波によるアメリカ本土爆撃の後、焼夷弾と爆弾を廃し兵士数人を搭乗させた物を混ぜた第二波、第三波が計画されたましたが、効率が悪すぎる事(アメリカが被害を隠蔽していました)と食料などの問題により実行されませんでした。
 一九四五年(昭和二十年)三月十未明、アメリカ軍のB29三百三十機には東京を無差別空襲しました。
 この空襲で、風船爆弾を製造していた東京の浅草国際劇場(風船爆弾の工場)も直撃弾数発を受け、屋根を支えていた鉄骨は曲がり、ちぎれ、天井の大部分が抜け落ち、たくさんの人が焼死しました。

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