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2008年3月

2008年3月 1日 (土)

高知県での学徒動員の記録 【高知市の高知師範学校 その一】 高知海軍航空隊の飛行場の拡張工事に駆り出されます。

 高知海軍航空隊の飛行場の拡張工事に駆り出され、あるいは近辺の農家で稲刈り作業をおこない、交代で円行寺に出向き薪炭増産運動に挺身しました。

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高知県での学徒動員の記録 【高知市の高知師範学校 その二】 兵庫県高砂町(荒井村か)の田熊汽罐(きかん)播磨工場に動員されました。

 一九四四年(昭和二十年)八月から高知師範学校学生の県外工場動員が始まります。
 まず男子部本科二年が兵庫県高砂町(荒井村か)の田熊汽罐(きかん)播磨工場に勤労動員されます。汽罐は、ボイラーのことです。
 出発は、八月二十日でした。
 楠瀬先生、浜田先生が付き添いました。
 午前十時、在留の教師たち、校友、近所の家族の「万歳」の声に送られて高知発。姫路で山陽電鉄に乗り換え、九時、尾上着。
 寮では一室に二人ずつ配置されました。
 工場では、輸送船用のボイラーをつくりました。
 十月十九日、高砂国民学校の児童も同工場に動員され、高知師範学校の学生班に配属されました。
 動員されていた竹内喜秋さんがメモを取っていました(『高知師範学校略史』。高知師範学校略史編集委員会)。
 十一月一日(水曜日) 「製造課長より十九号罐の完成は十八日と指示される。通常より五日間の短縮、無理と思えど誰も反論せず。旧友直ちに作業計画を話し合う。」
 十一月五日(日曜日) 「更けゆく幡陽組立工場に灯のともるは、徹夜作業に取り組む高知師範学徒のみ。冷たい浜風は囲いなき工場内に吹き荒れる。交代でする予定の仮眠もできない。みんな緊張と疲労をまぎらせていた西込・尾野君の愉快な会話も途切れるころ、東の空はしせじらとしてきた。」
 十一月十八日(土曜日)午前八時、十九号罐が予定どおり完成。発煙検査に合格しました。
 十二月二日(土曜日) 「一昨日五号室にてシラミ発見、B29と呼ぶ。」
 十二月三十日(土曜日) 「組立部品不足して作業進まず、手待ち時間多し。正午にて業中止。食堂にて学徒のみで終業式を行う。」
 動員されていた山崎哲男さん(一九四五年卒業)が、のちに、当時の様子を書いています(『高知師範学校略史』。高知師範学校略史編集委員会)。
 「……できあがった製品は殆(ほと)んど出荷されることがなく、海に面した浜工場に野積みされ、雨ざらしになっていた。そのうち、鉄板等の材料が不足し始め、工場に通ってもやる仕事がなく、ボイラーの中にはいって一日中ごろ寝するようなことが多くなった。戦争に負けるということは意地でも考えたくはなかったが、このようすでは勝てる見込みはないと思うようになった。
 二十年四月になって、同級生に次々と召集令状が舞い込むようになった。四月から五月にかけて、田熊汽罐で働いていた同学年の大部分の人たちが、入隊して行った。六月になって、残り少なくなった高知師範生徒に対して学徒動員令が解除され、私たちは高知に帰った。しばらくの骨休めのため、六月二十三日まで休暇ということで、みんな自宅に帰った。」

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高知県での学徒動員の記録 【高知市の高知師範学校 その三】 愛媛県の住友金属四坂島精錬所へ動員されました。

 予科三年が、愛媛県の住友金属四坂島精錬所へ勤労動員されました。 
 ここに動員された堀見矩浩さんは「初めての工場労働だけに辛いことも多かったが、特に三交替制の深夜作業とまずい食事は骨身にこたえた。ただ休みの日に今治へ出向き、自由な時間を過ごすことが只(ただ)一つの楽しみだった」といっています(『高知師範学校略史』。高知師範学校略史編集委員会)。

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高知県での学徒動員の記録 【高知市の高知師範学校 その四】 四日市海軍工廠へ勤労動員されました。

 予科二年が、四日市海軍工廠へ勤労動員されました。

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高知県での学徒動員の記録 【高知市の高知師範学校 その五】 名古屋の大同製鋼へ動員されました。

 一九四五年(昭和二十年)一月、本科一年、予科一年が名古屋の大同製鋼へ勤労動員されました。
 本科一年だった上村大士さん(一九四七年卒)が、その様子を書いています(『高知師範学校略史』。高知師範学校略史編集委員会)。
 「運輸課配属になり、電気機関車の運転やら、グライダーを使ってバッテリーの充電をしたり、工員とも親しくなり、大いにハッスルしたものであった。ここで夜間空襲の洗礼を受けたわけであるが、八高や明大の連中と交歓会を開いたり、戦時中とはいえ、結構青春を謳歌した。宿舎に割り当てられた白水小学校〔国民学校〕で宿直の先生からラジオの修理を頼まれて、友人と出掛け、どうやら直して、美人の女の先生(日本人形に似た顔立ちでイチマさんと愛称を奉っていた)から、汁粉をおごってもらって他の連中を羨ましがらせたり、チョッピリ淡い恋心を抱いたものであった」
 四月、高知師範学校には男子部八十人、女子部四十人の新入生が入学します。
 七月四日、アメリカが高知市を空襲。同師範学校は校舎の大半を消失しました。校舎、第一寮、体育館、付属国民学校もがれきの山に変わっていました。講堂と第二寮は残りました。
 この空襲で同師範学校の学生二人が死亡しました。

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高知県での学徒動員の記録 【高知市の高知師範学校 その六】 女子部は愛知県半田市中午町の中島飛行機半田製作所に動員されました。

 一九四五年(昭和二十年)一月十五日、学徒動員令を受けた高知師範学校女子部生徒百三十二人は、留守部隊を後に高知を出発し、愛知県半田市中午町の中島飛行機半田製作所に向かいました。
 到着した軍需都市・半田は、東南海地震で大被害を受け一面がれきの街と化していました。
 中島飛行機半田製作所に着いた彼女たちは、平地第二寮に入りました。
 この寮から同製作所までは三キロありました。
 仕事は、偵察機・彩雲、攻撃機・天山を生み出すための骨格組み立てや胴体の外板張りでした。
 先輩や徴用工が指導しました。
 余震と空襲に脅かされながらの作業でした。
 その間、教官たちの指揮で食料自給のためにイモを植え、安全確保のために防空壕(ぼうくうごう)も掘りました。
 六月に入ると空襲警報がひんぱんとなり、作業どころではなくなりました。
 食糧事情も緊迫し、家畜飼料の大豆かすが主食になりました。
 そのため多くの学徒は下痢便に悩まされていました。
 家族からの小包便だけが頼りでした。
 七月二十四日、半田は大空襲を受けました。
 同製作所も寮も爆撃されて多くの死者がでました。
 高知師範学校女子部生徒は、全員無事でした。
 新池寮に移りました。
 ここでは、ノミやシラミの責め苦にあいました。
 製作所では、できあがった飛行機も無惨な姿をさらけ出していました。
 生産不能となった工場は、長野県に移転していきました。
 八月十五日、終戦。
 動員解除になり、彼女たちは復員列車にもまれながら帰郷しました。
 なつかしい街も学校も戦火の中に消えていました。

 【高知師範学校女子部】

 一九四三年四月一日、高知県師範学校・高知県女子師範学校を統合・官立移管し、高知師範学校設置。旧高知県師範学校校舎に男子部、旧高知県女子師範学校校舎に女子部を設置。本科 (三年制。中等学校卒対象)・予科 (二年制。高等小学校卒対象) を設置。女子部は、前身の高知県女子師範学校(一八七八年三月創設)から引き継いだ高知市潮江(いまは塩屋崎町)の校地を使用しましたが、一九四五年七月の空襲で校舎の大半を焼失しました。戦後の授業再開時は、旧天満紡績工場や女子商業学校校舎を借用したが、一九四七年十一月、朝倉兵舎跡に移転し、男子部と統合されました。旧潮江校舎の跡地は、高知市立潮江中学校となっています。

 【中島飛行機半田製作所】

 小泉製作所の第二製作部として天山、彩雲の生産がおこなわれました。
 一九四四年四月から生産機数増加のため学徒動員の生徒を大量に入れるようになりました。しかし、技能が未熟なため不良機の比率が増え事故が多発するようになりました。それでも終戦までに天山九百七十七機、彩雲四百二十七機が生産されました。
終戦になると工場に残っていた航空機は円形のエプロンに集められ焼却処分された。
 戦後、中島飛行機は富士産業となりました。半田工場は一九五〇年に独立して愛知富士産業となり、一九五三年に輸送機工業と社名を変えました。

 【参考資料】

 ○ 『高知師範学校略史』。高知師範学校略史編集委員会。 
 ○ 『少女たちの勤労動員の記録 女子学徒・挺身隊勤労動員の実態』。戦時下勤労動員少女の会。

 【探している資料】

 ○ 『夏雲の彼方に 学徒動員の記』。森沢百世。昭和二十年度高知師範学校女子部卒業生同窓会編集部二一会。
 ○ 『高知大学三十年史』。高知大学三十年史刊行委員会。

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高知県での学徒動員の記録 【高知市の私立土佐高等女学校 その一】 夏の休暇を短縮して草刈り作業。

 一九九四三年(昭和十八年)の夏は休暇を短縮し、七月三十一日に終業式、八月二十六日に始業式をおこないました。
 始業式の翌日から九月四日まで毎日、各学年交代で初月(みかづき)方面の草刈り、朝倉植林の下刈りにいきました。朝倉植林というのは朝倉村字鳥屋奥の五町六反五畝の学校林で赤松を植え付けていました。
 二十七日に四、五年生五百三十人が久万川の堤で刈った草は七千五百貫におよびました。これは肥料にするものでした。

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高知県での学徒動員の記録 【高知市の私立土佐高等女学校 その二】 卒業すると挺身隊で広島県の三カ所に……。

 一九九四四年(昭和十九年)三月に卒業した生徒は、挺身隊として広島県の広島海軍工廠、広島県の第十一海軍航空所、広島県の呉海軍工廠に出動しました。それそれ、十五人、十五人、十人。
 二十三日に同校に集合の上、他校の人とともに出発しました。

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高知県での学徒動員の記録 【高知市の私立土佐高等女学校 その三】 夏休みなしで稲刈り作業をしました。

 一九九四四年(昭和十九年)の夏は休暇がありませんでした。
 毎日授業があり、各種の勤労作業がおこなわれました。
 高須、五台山の稲刈り作業にもいきました。
 五台山下田川の南方の湿田では、泥が深くすね●を没する中で、浸水後の稲を引き起こしながら刈りました。

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高知県での学徒動員の記録 【高知市の私立土佐高等女学校 その四】 学校工場風船爆弾をつくりました。

 私立土佐高等女学校では風船爆弾の製造もやられました。
 その作業は、原料のコウゾの表皮を除く「くさへぐり」、工場ですいた原料紙の検査、さらに、コンニャクのりをつかって原料紙を直径十メートルの風船にはりあわせる作業です。
 講堂を工場に代用し、校庭でこれに高圧の空気をみたして強度を実験しました。
 後に四年生、五年生が他県の工場に動員されてからは三年生以下でこれをおこないました。
 後には、市内旭町に風船爆弾製造の工場ができて、そこに通勤しました。

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高知県での学徒動員の記録 【高知市の私立土佐高等女学校 その五】 兵庫県の二つの工場に動員されました。

 一九九四四年(昭和十九年)十月の学徒動員令によって五年生が兵庫県伊丹の大阪機工猪名川工場に、四年生が兵庫県加古川の日本毛織加印工場に出動しました。
 五年生は、十一月九日夜八時、高知駅を出発し、翌日、猪名川工場に着きました。引率者は、岡、小笠原、平賀、沢村の四教諭で滝石登鯉(のぼり)校長も同行しました。
 四年生は、翌十日午後八時、出発し、翌日、加古川着。引率者は、横田、長尾、中村、土屋の四教諭でした。
 教官は、一か月交代で監督にあたりました。
 猪名川工場では、兵器をつくっていました。
 高知県からは高知高等学校、安芸中学校、中村中学校も動員されていました。
 私立土佐高等女学校の生徒たちは、旋盤、ボール盤の操作から仕上工の作業までやらされました。
 始めは二交替の昼間作業でしたが、やがて三交替で深夜作業までやらされました。
 冬季の保温設備がなく、寒いときには工員が石油缶に骸灰などをたくので、夜などは黒煙もうもうと場内に満ち、むせかえるけむたさでした。
 夏季には、宿舎のノミやシラミにさいなまれて安眠できない状態でしたが、ノミとり粉は手に入りませんでした。
 この工場には医療設備がなく、病気になれば市内の開業医に行かなければなりませんでした。
 加印工場は、毛織物の紡織工場で製品は陸軍、海軍の軍服になっていました。
 地元の加古川高等女学校の生徒も動員されていました。
 工場は、加古川を隔てて二つに分かれ、その両方に配属されました。
 作業は同じようなもので、紡績機につく者と織機につく者がありました。
 冬季の保温設備は、作業の必要上、一定温度は保たれるようになっていました。
 この工場には工場医がいて、設備もだいたいそろっていました。
 卒業が迫ってきました。一九四四年度に学制が変更されて中等学校は四年で卒業することになり、一九九四五年(昭和二十年)三月には五年と四年とは同時に卒業することになりました。
 しかし、卒業後も、上級進学者、外地就職者、結婚者を除いて引き続き動員先で働かなくてはなりません。
 三月十八日に加印工場の四年生、二十日に猪名川工場の五年生の卒業式をおこないました。学校側は校長と付添教官で、来賓は、その工場の当局者、勤労動員署長くらいでした。加印工場には、近衛師団長に内定して赴任途上の森中将が父として参列しました。
 一九九四五年(昭和二十年)三月、加古川で卒業証書授与式をおこないました。
 七月四日、アメリカ軍機が高知市を空襲しました。同校には焼夷弾二個、その付属物五個が落とされました。このうち生物学教室、講堂に落ちた者は屋根をうちぬき床を貫いて地下までめりこみました。焼夷弾は不発でした。
 こうした中で、猪名川工場の卒業生は浅津教諭などと七月十三日に帰校、加印工場の卒業生は石川教諭らと七月十六日に帰校しました。

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2008年3月 2日 (日)

高知県での学徒勤労動員の記録 【高知県立弘岡農業学校 その一】 ペンやノートを、くわや鎌にかえて……。

 【沿革】

 一九四一年(昭和十六年)四月一日 高知県立弘岡農業学校開校(甲種農業学校)。
 一九四二年(昭和十七年)四月九日 新校舎移転(現在地)。
 一九四三年(昭和十八年)四月一日 弘岡実科高等女学校を弘岡高等女学校と改称。
 一九四五年(昭和二十年)三月三十一日 弘岡高等女学校廃止。
 一九四五年(昭和二十年)四月一日 高知県立弘岡農業学校に女子部を併設(元弘岡高等女学校二年修了者)。
 いまは、高知県立春野高等学校。高知市春野町弘岡下三八六〇番地。

 同校は、一九四一年(昭和十六年)四月一日に開校しています。
 弘岡高等国民学校、弘岡実科高等女学校が同居していました。
 十二月八日、アメリカ、イギリスとの戦争が開戦になりました。
 当時の教諭・西本貞さんは、開戦のときの思いをこうのべています(『高知県立高知園芸高等学校創立七十年記念誌』。高知県立高知園芸高等学校記念誌編集委員会)。
 「出勤して対米英開戦を知ったとき、突然からだがぶるぶると震えはじめた。日本は果たして勝てるだろうか、何となく心が落ち着かないうちに、続々と報が伝わって来たが、私の震えはどうしてもとまらない。それは三時間程続いた」
 一九四二年ころから草刈り競争が全校でおこなわれました。
 森山の堤防で全生徒がいっせいに草を刈りをします。日がだんだん西に傾くころ、作業が終わるとはかりの係の所へ続々と草の束が集まってきます。その束をはかりではかります。
 この年は、夏休みがありました。
 一九四三年には夏休みはなくなり、ついに日曜日もなくなりました。
 学徒勤労動員令が出て、男子生徒たちは、ペンやノートを、くわや鎌にかえて稲刈り、麦刈り、土地改良事業にいそしみました。日章の高知海軍航空隊の飛行場づくりもしました。

  第三回生の岡本幸雄さんによると、この学年は、北海道、満州(中国東北部)まで勤労奉仕に行きました(『高知県立高知園芸高等学校創立七十年記念誌』。高知県立高知園芸高等学校記念誌編集委員会)。

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高知県での学徒勤労動員の記録 【高知県立弘岡農業学校 その二】 仁淀川上流の上八川ダムの建設の勤労奉仕に駆り出されました。

 生徒たちは、仁淀川上流の上八川ダムの建設の勤労奉仕に駆り出されました。期間は二週間でした。
 西本さんが、このときのことを書いています(『高知県立高知園芸高等学校創立七十年記念誌』。高知県立高知園芸高等学校記念誌編集委員会)。
 「(土方の親方が)生徒を人夫なみに考えているのにも困ったが、宿舎の元旅館の蚤
(のみ)の多いのには閉口した。はじめ三晩位は全然睡れなかった。最初生徒の部屋で寝ているとさかんに食いつく。生徒の某君が『先生、はじめちょっとじっとして食わせておいたらくわなくなる』と言ったが、一向くいやめそうにない。遂に自室へ逃げかえったがここも同じことだ。大大的に大掃除をし蚤取り粉を鼻も痛む位ふりまいてやっと蚤の難からのがれた」
 女子部は、軍需生産に出て行きました。
 西本さんは、こんな目撃談も書いています(『高知県立高知園芸高等学校創立七十年記念誌』。高知県立高知園芸高等学校記念誌編集委員会)。
 「……東の空を南方に向けて飛んでいたB29が、弘農の東方の空で急に機首をガクンと落としたかと思うと、まっさか様に墜落していった。同時にフラリフラリとパラシュートが一人の人間をつるしながら降下していくのがみえた。『ワァー』と生徒と一緒に歓声をあげたが、どこに落ちたかわからない。これは神田(こうだ)に墜落したのであとで機体がバラバラになっているのをみた」

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高知県での学徒勤労動員の記録 【高知県立弘岡農業学校 その三】 陣地づくりをしていました。

 一九四五年四月の入学者は百人でした。
 甲、乙の二クラスに分けられました。

 満州(中国東北部)にいっていた陸軍の錦部隊が引き揚げてきて同校が連隊本部になりました。同校は兵隊でいっぱいになりました。
 同校の教師、先輩、上級生に召集令状が来ました。生徒たちは、出征兵士を百笑(どめき)のバス停まで見送りに行きました。 

 入学後のことを近沢敏郎さんが書いています(『高知県立高知園芸高等学校創立七十年記念誌』。高知県立高知園芸高等学校記念誌編集委員会)。
 「六月頃より敵機の来襲も激しくなり、グラマン戦闘機やB29爆撃機による空襲警報も、毎日のようにサイレンがなり、本土決戦にそなえて、朝倉聯隊の本部が森山の山中に陣地を作り、その土木作業に毎日行きました。
 仁淀川河口より、敵の水陸両用戦車が上陸するのを、迎え打つ肉弾戦のやり方や、婦女子の竹槍戦の方法など、それは、真剣に考えたものでした。
 毎日弁当をもって、歩いて登校し、学校農業で作業したり、軍人と一緒に陣地作りを手伝ったり、木銃で教練したりで、殆(ほとん)ど学科の授業らしいものが無い毎日でした。」

 こうもいっています。

 「……仁淀川沿いに水陸両用戦車が上陸して来るのに備えて爆薬をしかける練習をよくやったものです。錦部隊が森山に陣地をつくったので弘農はその食糧調達本部ということで味噌・醤油等をこしらえたりしました。授業はほとんどなく、脚絆を巻いて森山へ駆け足で集合点呼を受けて塹壕(ざんごう)掘りなどをしました。」

 近沢敏郎さんの証言の続きです。

 「八月中も学徒動員で、八月十五日の終戦の日も、私たちは森山村(春野町森山)で、陣地作りをしていました。玉音放送は、ラジオが悪かったのか、あまりはっきり聞こえませんでしたが、戦争が負けたことだった知らされ驚きました。
 戦争に負ける事は、死ぬ事だと教えられていた私達は、変な気持ちで、何が何やら解らず、これから先は、どんなになるだろうか? 心配しながら帰宅しました」

 「八月十五日、十時頃、錦部隊がざわめいている。昼前に『大切な陛下の放送があるから聞け』ということで当時、ラジオもあまりなく、ラジオのある農家を探して聞いたものでした。くわしいことはわからなかったが戦争はもう終わったということでした。」

 【参考文献】

 ○ 『高知県立高知園芸高等学校創立七十年記念誌』。高知県立高知園芸高等学校記念誌編集委員会。

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2008年3月 3日 (月)

高知県での学徒勤労動員の記録 【高知農業学校】

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高知県での学徒勤労動員の記録 【山田高等女学校】

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