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2008年3月 2日 (日)

高知県での学徒勤労動員の記録 【高知県立弘岡農業学校 その三】 陣地づくりをしていました。

 一九四五年四月の入学者は百人でした。
 甲、乙の二クラスに分けられました。

 満州(中国東北部)にいっていた陸軍の錦部隊が引き揚げてきて同校が連隊本部になりました。同校は兵隊でいっぱいになりました。
 同校の教師、先輩、上級生に召集令状が来ました。生徒たちは、出征兵士を百笑(どめき)のバス停まで見送りに行きました。 

 入学後のことを近沢敏郎さんが書いています(『高知県立高知園芸高等学校創立七十年記念誌』。高知県立高知園芸高等学校記念誌編集委員会)。
 「六月頃より敵機の来襲も激しくなり、グラマン戦闘機やB29爆撃機による空襲警報も、毎日のようにサイレンがなり、本土決戦にそなえて、朝倉聯隊の本部が森山の山中に陣地を作り、その土木作業に毎日行きました。
 仁淀川河口より、敵の水陸両用戦車が上陸するのを、迎え打つ肉弾戦のやり方や、婦女子の竹槍戦の方法など、それは、真剣に考えたものでした。
 毎日弁当をもって、歩いて登校し、学校農業で作業したり、軍人と一緒に陣地作りを手伝ったり、木銃で教練したりで、殆(ほとん)ど学科の授業らしいものが無い毎日でした。」

 こうもいっています。

 「……仁淀川沿いに水陸両用戦車が上陸して来るのに備えて爆薬をしかける練習をよくやったものです。錦部隊が森山に陣地をつくったので弘農はその食糧調達本部ということで味噌・醤油等をこしらえたりしました。授業はほとんどなく、脚絆を巻いて森山へ駆け足で集合点呼を受けて塹壕(ざんごう)掘りなどをしました。」

 近沢敏郎さんの証言の続きです。

 「八月中も学徒動員で、八月十五日の終戦の日も、私たちは森山村(春野町森山)で、陣地作りをしていました。玉音放送は、ラジオが悪かったのか、あまりはっきり聞こえませんでしたが、戦争が負けたことだった知らされ驚きました。
 戦争に負ける事は、死ぬ事だと教えられていた私達は、変な気持ちで、何が何やら解らず、これから先は、どんなになるだろうか? 心配しながら帰宅しました」

 「八月十五日、十時頃、錦部隊がざわめいている。昼前に『大切な陛下の放送があるから聞け』ということで当時、ラジオもあまりなく、ラジオのある農家を探して聞いたものでした。くわしいことはわからなかったが戦争はもう終わったということでした。」

 【参考文献】

 ○ 『高知県立高知園芸高等学校創立七十年記念誌』。高知県立高知園芸高等学校記念誌編集委員会。

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