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2008年2月28日 (木)

 「五分一(ごぶいち)」を追え。

 二〇〇八年二月二十八日。

 この記事は、ほかのブログから移転してきました。

    「五分一(ごぶいち)」を追え

   えーっ! 五分一、どんな意味なんだろう

 二〇〇〇年年一月から十二月まで長野市に住んでいて、同市の「五分一(ごぶいち)」という地名が気にかかっていました。
 初めて、その表示を見たときには<えーっ! 五分一。なぜ、こんな地名が…。どんな由来なんだろう>と、驚きました。
 仕事でオートバイを走らせていて、なんども、この表示にでくわせましたが、そのたびに、同じ驚きを感じましたが、「当面のこと」に追われて調べることができませんでした。
 同年十二月に東京に転勤になり、そのまま忘れていましたが、あることで突然、<あの五分一を調べてみたい>と思うようになりました。二〇〇一年五月十三日のことです。
 さて、五分一を追う「旅」してみることにしました。
 あなたも、ご一緒に、どうぞ。

   全国各地に五分一がありました

 長野市の五分一については、いろんな人に聞いても、はっきりしたことはわかりませんでした。
 そこで、少し迂回して、ほかの所に五分一はないだろうかと探してみました。
 ありました。ありました。
 いまある所を○、かつて、そう呼んでいた所を▽で示しました。
 ○岩手県川崎村五分一(ごぶいち)
 ○山形県遊佐町(ゆざまち)五分市(ごぶいち)
 ○福島県喜多方市上三宮三谷字五分一(ごぶいち)
 ○栃木県上三川町(かみかわまち)五分一(ごぶいち)
 ○新潟県柏崎市五分一(ごぶいち)
 ○新潟県寺泊町五分一(ごぶいち) 
 ○新潟県水原町(すいばらまち)五分市(ごぶいち) 
 ○新潟県村松町などの五部一(ごぶいち)川 ▽新潟県上越市幸町(さいわいちょう) 五分一町(ごぶいちまち)
 ○福井県武生市五分市町(ごぶいちまち)
 ○長野県長野市大字高田字五分一(ごぶいち)
 ○群馬県富岡市五分一(ごぶいち) 
 ○東京都江戸川区の五分一橋、五分一通り
 ○神奈川県中井町井ノ口字五分一(ごぶいち)
 ▽大阪市北区中之島四丁目 本五分一町(もとごぶいちちょう)
 ▽大阪市西区 五分一町(ごぶいちちょう)
 ○兵庫県南淡町五分一町(ごぶいちちょう)
 ○香川県の高松市と三木町にまたがる五分一池(五分ケ池) 

   五分一の由来には、こんな説がありました

 各地の五分一には、いろんな由来がありました。
 わかったもの、わかりかけているのから紹介しましょう。

 ①兵庫県南淡町のは五分一所からの地名です

 兵庫県の淡路島の南淡町(なんだんちょう)の五分一町は、江戸時代の阿波藩が漁獲量から五分の一を取る仕組みを作っていたことに由来しているといいます。
 そのことを教えてくれたのは南淡町教育委員会社会教育課の藤平明(ふじひら・とおる)さんです。
 「当町福良地区に『五分一町』というのがあります。
 この名は漁師町によくある名で、五分一所(五分の一)のことで、寛政十一年(一七九九年)の藩命によりこの制度を設け、漁獲高一切を掌握して、その取引高の五分の一、即ち二割を徴収した。その一割は藩へ上納、残り一割が建置銀(●)とした。
 建置銀は井筒屋が保存し、漁具の共同購入、漁港の改修整備、不時(藤原注・思いがけない時)の貸し出し金や時には祭礼の費用にしてたという。
 この魚の競市(せりいち)、取引が行われたのが分一波止(ぶいちはと)で、この町を『五分一町』という。他の地方では分一町という所もあるという。
 当時、井筒屋という漁業の網元があり、五分一所が設けられて以来、明治五年(一八七二年)に廃止されるまで、その職を代々世襲していたので、今に、ブンイチまたはブンニチの名で呼ばれている。
 余談になるが当町は南海道の淡路島から阿波への玄関口であり、地方道として重要な位置にあった。そのため、阿波藩から二百石取りの武士が勤務し、その下役として常時十人の武士が勤務していた。その人達が軒を並べて住んでいたので十軒屋という地名もある。
 淡路島の南方約四キロメートルに浮かぶ沼島も南淡町の一部ですが、中世から海上交通の要所として非常に栄えた島です。
 阿波藩の時代に参勤交代の時の加子(藤原注・水夫のこと)として常時百四十四人の確保が割り当てられていた。いざ戦いという時には水軍を編成する軍役でもあり、加子には十六歳以上の屈強な若者を選りすぐった。加子は阿波藩全体で千九百七十九人、淡路でも六百七十人で沼島の人数が突出している。このため沼島には広い漁区があてがわれ、他国への出漁を禁止した。
 しかし、漁獲に対しては当然課税があり、沖売りは禁止されていた。元和三年(一六一七年)より毎年運上銀は十二貫五百匁(もんめ)を納めている」
 波止は、海中に細長く土石を突き出した構築物で、波を防ぎ、また、荷物卸しにも用いられます。
 運上は、江戸時代の雑税の一で、商・工・漁猟・運送などの営業者に課しました。
 『江戸川ブックレット No.5 地名のはなし』(編集・江戸川区教育委員会社会教育課文化財係。発行・江戸川区教育委員会)に、次のような指摘があります。
 「全国的にも『分一』のつく地名がたくさんあり、その多くが『分一』という税金に由来すると考えられています。たとえば、江戸時代の市売分一金(いちうりぶいちきん)は、市の商品の売高に応じて、その二十分の一、三十分の一を税金として収めるのです」
 分一(ぶいち)について『大辞林』第二版(三省堂)は、次のように説明しています。
 「江戸時代の雑税の一種。商業・運送・狩猟・林産などに従事する者から、その売上高・収穫高の何分の一かを徴収したもの」 

 ②大阪市の北区の本五分一と西区の五分一

 大阪市北区中之島四丁目は、かつては本五分一町といいました。
 このことは大阪市の財団法人関西エネルギー・リサイクル科学研究振興財団のホームページで知りました。
 「ここは本五分一町、安芸広島藩四十二万六千石、松平安芸守斉庸(浅野)の蔵屋敷。大阪冬の陣(一六一四年)に徳川方の石川忠総(ただふさ)が『五分一』に陣したといい、これが町名の由来と考えられている。……この蔵屋敷は、元和六(一六二〇)年に建てられ、一六二五(寛永二)年に敷地を拡大し、四千坪近い蔵屋敷となった。……北側に流れる堂島川から屋敷内に水を引き入れ、船から直接荷揚げできるように『舟入(ふないり)』を設けている」といった内容でした。
 『大阪府の地名 Ⅰ 日本歴史地名大系 28』(平凡社)にも、本五分一のことが書いてありました。
 「宗是(そうぜ)町の西にある。田蓑橋(たみのばし)より西一町分で、堂島(どうじま)川沿いと中筋の二筋。『宝暦町鑑』に『たミのばし南詰西側、広島御蔵屋敷』とある。明暦元年(一六五五)の大坂三郷(さんごう)町絵図に『本五分一 九郎兵へ町』とみえる。なお大坂役石川家中留書(『大阪編年史』所収)に慶長一九年(一六一四)大坂冬の陣に徳川方の石川忠総が『五分一』に陣したとみえ、当町との関係が考えられる。大坂三郷北組に属し、元禄一三年(一七〇〇)三郷水帳寄帳では屋敷数一・役数一五役。年寄はおかれず安芸広島藩蔵屋敷名代住吉屋藤左衛門が代行。前掲絵図によると、同藩屋敷があり幕末まで変化なし。……明治五年(一八七二)常安裏町の一部とともに常安町となった」
 『角川  日本地名大辞典』(角川書店)には、こうあります。
 「江戸期~明治五年(一八七二年)の町名。江戸期は大坂三郷北組のうち、もと武蔵殿屋敷(初発言上=しょはつごんじょう=候帳面写/大阪市史5)、元禄元年(一六八八年)の増補大坂図には町名が見える。中之島のほぼ中央部、田蓑橋南詰西側の町で安芸広島藩蔵屋敷があった(宝暦町鑑)。同藩蔵屋敷は当町東の西信町域にもかかっていた(公私要覧/浪速叢書 3)。元禄十三年(一七〇〇年)の大坂三郷帳水寄せ帳によれば、家数一軒、役数十五、年寄は置かれず広島藩名代として住吉屋藤左衛門が任じられていた。……明治二年(一八六九年)大阪北大組に所属。同五年常安町になる」
 大阪市の西区にも五分一町がありました。
 本五分一町からほど近い所です。 
 この五分一町は、いまの土佐堀一~三丁目・江戸堀一~三丁目の一部です。
 「土佐堀船町 船町と五分一町とを合して船町となり、明治五年(一八七二年)からは土佐堀裏町と称せられていたが、昭和二年(一九二八年)に再び土佐堀船町と改称されるに至った。……此(こ)の町は西大阪では最も古くから発展した地で、昔は過書船(かしょぶね)の船着場七村の一つであった」(『西区史 第三巻』、西区史刊行委員会)
 「土佐堀船町 もとは『土佐堀』の三字を冠せず、単に船町といった。『摂津名所図会大成』に、『住吉明応年中には、当地の辺も船場と号せし船着(ふなつき)にて、船人(ふなびと)の居住せし所なり………浪花繁栄に随ひ、船着の場所も船町と号する市中となり………』とあり、すでに文禄年間(一五九二ー九六)には、川崎・天満三軒屋・過書町・福島・野田・伝法とともに七村上荷船の業を営んでいるから、町名は船着場に由来するものと考えてよい。……明暦三年(一六五七)の『新板大坂之図』には『船丁一丁目・二丁目』と記載され、宝暦六年の『万代大坂町鑑』には五分一町の名はみられず、『船町 西よこぼり船町ばし西詰を西へ』とあるから、かなり古くから船町と呼ばれていたらしい。大坂三郷の北組に属し、明治二年五月四日西大組に属し、同五年三月十七日の町名改称のとき、土佐堀裏町となった……」(『大阪の町名 大坂三郷から東西南北四区へ』、大阪町名研究会編、清文社)
 「船町(ふなまち)の一部。船町は昭和五十二年(一九七七年)土佐堀一~三丁目・江戸堀一~三丁目になる」(『角川  日本地名大辞典』)
 過書船は、幕府から過書という運行許可書(木製五角形。縦約十四センチメートル、横約十センチメートル)を得て運行する川船です。
 五分一を解明するために、中世から大坂の川運について調べていこうと思います。
 中世には大坂の天満橋(てんまばし)から京都に近い伏見までの淀川の航路が、都に物資を運ぶ大動脈になっていました。
 天満川の下流で、淀川は中之島にぶつかり、北の堂島川と南の土佐堀川に分かれます。さらに、そのあと二つの川は低湿地で多くの支流に別れていました。
 大きな船は、この支流を通ることができません。それで、海岸でいったん荷物を陸揚げして、それを天満橋まで運んで川舟に積まなければなりませんでした。
 大坂の市街は元和年間(一六一五年~二四年)に船場(せんば)・下船場(しもせんば)をあわせて南北に区分し、北部を北組、南部を南組と称しました。承応年間(一六五二年~五五年)には大川以北の天満(てんま)の地域に天満組ができ、北組・南組とあわせて大坂三郷と称するようになりました。
 大坂三郷の統治は、大坂城代-大坂町奉行という形でおこなわれました。実際に行政に当たったのは、町人のなかから選ばれた三郷惣年寄(さんごうそうどしより)以下の町役人でした。三郷惣年寄は、多くは大坂の開発町人でした。 
 中之島を開発したのは材木商で淀屋の元祖の淀屋常安であるといわれます。大阪城落城のあとの元和年間(一六一五年~一六二四年)に、アシの茂っていた中之島を切り開きました。
 全国からの物資が集まり、再び各地に流れていく江戸時代の大阪。中之島・堂島と、その周辺には、蔵屋敷が建ち並びました。
 蔵屋敷というのは、大名、旗本などの諸領主が、領内で集めた年貢米や特産物を販売するために、それを保管する倉庫と邸宅を兼ねてつくったものです。
 貞享(じょうきょう)元年(一六八四年)、安治川(あじがわ)が開かれました。
 それによって中之島でいったん分かれた支流がふたたび集まるふたりから、最短距離で海に出ることができるようになりました。これによって、海からくる大型船が淀川に入ってこれるようになりました。海からきた船は、中之島で荷を降ろして、それを大坂の町に運んだり、淀川の船に積みかえました。
 延享年間(一七四四年~一七四八年)に大阪にあった主要蔵屋敷八十九のうち三十六が水運の便に恵まれた中之島にありました。
 安芸広島藩は、いまの広島県の大半を占めていました。
 同藩は、元和元年(一六一九年)に大阪の蔵屋敷の敷地を取得し、翌年に蔵屋敷を完成させています。
 藩内の村ごとに集められた年貢米は、広島城下や周辺の町の蔵に納められ、地元で消費される分を除いて、大阪へ運ばれました。
 大阪へ運ばれた米は、いったん蔵屋敷に納められ、蔵元(一六九二年からは鴻池善右衛門)の手で入札によって米仲買たちに売り渡されました。
 落札した米仲買たちは堂島の米市場でこの米切手を売買して、最終的に米切手を入手した者が、実際に蔵屋敷で米切手と米を交換しました。
 また、鉄や紙といった特産物も蔵屋敷に運ばれ、大阪で売りさばかれました。
 安芸広島藩の蔵屋敷には、蔵への荷揚げのために北を流れる堂島川から屋敷内に船を入れる施設である船入が設けられていました。
 当時の地図を見ると堂島川と土佐堀川が出合う所に「舟番所」が置かれていますが、ここの機能も知りたいところです。
 本五分一という地名は、安芸広島藩の蔵屋敷ができるより前からあったようですので、堂島川の川運にかかわるものだと想像していますが、それ以上のことがわかりません。
 五分一も川運に関係するものではないでしょうか。

 ③東京都江戸川区の五分一橋で考えたこと

 話は急に江戸に飛びます。
 江戸幕府は、水上運輸の総括管理者に勘定奉(かんじょうぶぎょう)、その下に川船(かわふね)奉行を置いて、江戸や関八州(かんはっしゅう)の河川航行の船舶の取り締まりにあたらせました。
 延宝六年(一六七八年)には、三人の川船極印(ごくいん)奉行を任命し、関東諸河川の商船に極印を打って年貢・役銀(船税)を徴収する制度を確立しました。
 船主は、川船役所に運上(うんじょう)を出して焼印を受けました。この焼印が鑑札となりました。これは年貢の高によって極印の文字が違っていました。
 元禄三年(一六九〇年)からは、すべての川船に船税をかけるようになりました。
 東京江戸川区の五分一は、そうしたことと関係しているのではないかという思いを持ちながら、ここの五分一をを歩いてみました。
 中川を背にして右が松島一丁目、左が松島二丁目。その真ん中を北東に五分一通りが通っています。
 しばらくいくと五分一橋の交差点があります。
 かつては、ここに北東に五分一橋がかかっていました。
 いまは川も橋もありませんが、ここを交差する道が、かつては川でした。
 内務省が作った「昭和十二年(一九三七年)側図 一万分の一地形図 東京近傍第五号 小岩」の地図には、この川、舟入橋が描かれています。
 橋は江戸時代からかかっていました。
 「境川が西に分かれて舟入川となり道ケ島の東福院のほうへ川が続いていたが、千葉街道にかかる五分一橋の南に五分一の河岸があった。長谷川定満さん脇の水神碑のあるあたりで、そこで荷が下ろされた」(『江戸川区文化財調査報告書 第三集 江戸川区の民俗 一』、江戸川区教育委員会編)。
 やはり川運の地でした。
 ここの「五分一」の由来には、何説かあります。
 ○このあたりは地味が悪く、下田が多く、収穫も少なく、租税が他の地域より五分の一でしたので、五分一なりました。
 ○五分一に一里塚があり、日本橋と船橋の間の五分の一にあたります。
 ○江戸時代の書物に五郎一組とあります。いつからか五分一になったか不明ですが、土地のひとたちは「ごんぶち」と呼んでいます。
 ○昔、権兵衛が淵といってたのがなまって「ごんぶち」、五分一となりました。
 大阪市の二つの五分一、東京都江戸川区の五分一は、川の運行税を取った役所のあったところではないか。これは私の想像です。
 参考に、兵庫県黒田庄町船町の田高船座(たこうふなざ)跡のことに触れておきます。
 舟座は、慶長十一年(一六〇六年)に設置されたといいます。
 田高船座は、篠山川と本郷川の合流点のすぐ下にある三ケ村井堰(せき)の上流側の船町河岸に置かれ、田高川(滝野以北の加古川)の舟運の基地でした。
 船座は、加古川を上下する高瀬舟を取り締まったもので、高瀬舟を規制し、五分一銀という通行税を徴収するために置かれた役所です。姫路城主に舟座の元締めを許された者が、城主に運上銀を納める代わりに運賃を徴収する権利を与えられました。
 舟座には、見張り番の常駐する御番詰め所や会所、舟座御高札などが設置されました。

 ④明石港の出入港税を五つに分けて

 兵庫県明石市の五分一町は、昭和に入ってからの地名でした。
 『角川日本地名大辞典』には、こうあります。
 「昭和二年(一九二七年)~三十九年(一九六四年)の明石市の町名。もとは明石市当津の一部。江戸期は松屋茂右衛門角より西の通の名で、もとは紺屋町と呼ばれていた。すぐ西側に明石港の出入港税を取り扱った帆別役所の役宅があり、この役人たちが収納した税を役所・明石町・郡代官所・下役人の料として五分割にしていたことから、五分一町と呼ばれたという(明石名勝古事談)。昭和二十年(一九四五年)七月七日空襲で百四十戸が全焼(明石市史)。同三十九年材木町・日富美町となる」
 一九二九年十一月一日発行の『明石市郷土史』(野田猪左雄著、明石市大観尋常高等小学校)には次のようにあります。
 「五分一町 本名は紺屋町。此(こ)の町の西側は明石港、帆別役所を勤む役人の宅ならび立つ。其(そ)の側は商家なり。帆別役所は船の出入りを管し、出入港税……其の収む所の税金を五つに分け、其の一を役所、其の一を下役人の料に、其の又(また)一分を明石町に納め、残る所の二分を郡代役所へ納む。是(こ)れ五分の一宛なり。此の五分の一を割る役人の住居せる町であるから、人呼んで五分一丁と云うなり」
 明石町が明石市になったのは、一九一九年(大正八年)十一月一日ですから、これは、それ以前のことをいっているのだと思います。
 帆別役所は、●●の役目をしていた役所で、●年にできて、●年に廃止されました。

 ⑤「五分一につくり…」というのは……

 山形県遊佐町の五分市は、どうでしょう。
 「江戸期~明治九年(一八七六年)の村名。五分一村とも書いた」(『角川日本地名大辞典』)
 遊佐町の『●●』(●、●)には「五分市 五分一、五歩市とも書く。郡誌に『五歩市明暦二年(●年)検毛帳に五分一に作り高百廿(にじゅう)石七斗六升とあり、後ち百十九石九斗弐升三合五勺(しゃく)たり』とある」と、あります。
 「五分一につくり」とは、何でしょうか。
 収穫高のよくない土地なので年貢を五分の一にまけるということなのでしょうか。
 ここは要調査です。

 ⑥新潟県上越市の五分一町と同県寺泊町五分一寺町の関係

 新潟県上越市の五分一町は、どうでしょうか。
 『高田市史』(●、●、一九五八年)には、こうあります。
 「裏寺町はもと、大貫の耕地であったが松平中将時代●●の市区改正の時寺町を建設するため、大貫耕地の五分ノ一を取上げ、その代りに、この地を与えた。それで五分一の名ができたという。後にこの中心部は五分一村と呼ばれた」
 『角川日本地名大辞典』には、こう説明してあります。
 「明治五年(一八七二年)~昭和五年(一九三〇年)の町名。旧高田城下の武家屋敷地に設けられた町。高田城北方。城下のはずれにあたる。寛永五年(一六二九年)の大地震後、寺町の区画整備に伴い、本誓寺以北の大貫村地内に新たに新寺町が作られた。この時、大貫村耕地の五分の一が召し上げられ、代わりに与えられたのが当地で、のち当地は五分一村とも称した」
 新潟県寺泊町五分一は、こんな所です。
 「島崎川右岸の沖積平野。山上には山城五分一城跡がある。斎藤朝信(●~●)の居城であったが、天正六年(一五七八年)御館の乱に当たり上杉景虎に属して刈羽郡赤田城に移ったという」 (『角川日本地名大辞典』)
 「北東は硲田(はざまだ)村、南は上桐(かみぎり)村(現和島村)。三島(みしま)丘陵の西斜面を後背地として島崎(しまざき)川の沖積平野に面した集落。正保国絵図に高四五八石余で幕府領。慶安二年(一六四九)村上藩領となり以後明治まで続く。貞享元年(一六八四年)の郷村高辻帳では高五三三石六斗余。旧高旧領取調帳では高五八四石余。……五分一城跡・五分一稲場城跡がある」(『新潟県の地名 日本歴史地名大系 15』 平凡社)
 その由来について、『寺泊町史 資料編四 民俗・文化財』(寺泊町役場)には、こうあります。
 「五分一は、上杉家の家臣斎藤平八郎(上野守朝信)が、(●年)この地に城を築いたが、高田の五分一の地が忘れられずに、五分一という地名をつけたという」
 これも、分かりやすい説明です。
 「高田の五分一」は、前出の上越市内の「五分一」のことです。
 しかし、「高田の五分一」の由来が一六二九年の地震以降のことにかかわっているとしたら、この説はなりたちません。
 両者の説を再度、検討してみる必要がありそうです。

 ⑦村を五つに分村して、その元村を五分一といった

 栃木県上三川町の五分一は、江戸時代からの地名です。
 『角川日本地名大辞典』に「江戸期~明治二十二年(一八八九年)の村名。明治二十六年(一八九六年)からは上三川町の大字」とあります。
 同町文化財研究会の一九八七年三月の報告『上三川町の伝承に残る地名調査』には、その由来について、こう書かれています。
 「五分一 ①大字名。②現在、南河内町の谷地賀、三王山、上三川町の三村、坂上、五分一の範囲を、昔は鬼川田の郷と称し、鬼川田の郷を分村するに当たり、五つに分け、その元村として五つに分けた一の村の意味で五分一村とした」

 ⑧荘園制の名残が、この地名にという説について

 荘園制の名残が、この地名にという説明をしている所もありました。
 福井県武生市の五分市町も、そうです。
 「五分一とも書く。地名の由来は、荘園制下の取得分が地名となって残ったのではないかと考えられている。昭和三十一年(一九五六年)~武生市の町名」(『角川日本地名大辞典』)
 「今味真野村の大字とす。中世庄田下司職の二分一三分一など、分割を為せる名目の遺せる也……」(『増補 大日本地名辞典 第五巻 北国・東国』 吉田東伍著、冨山房)
 高松市前田東町東畑、三木町にある、ため池・五分一池も、そうです。
 『讃岐(さぬき)のため池誌』(讃岐のため池誌編さん委員会、発行・香川県農林水産部土地改良課、ぎょうせい)に、こうあります。
 「『新抄格符抄第十巻』によると、この地区(前田地区)が讃岐国宮処郷と号していたころ、天平勝宝二年(七五〇)二月、東大寺の封戸に施入せられている。このころは『三世一身の法』が施行されており、自ら池溝を造り耕作していたものと思われる。……荘園では多くの管理者がいる場合、三分一・四分一・五分一となり、三分一地頭・四分一地頭・五分一地頭となって、こんな地名は今でも他府県には多い。科香川県では丸亀市原田町に三分一の地名が残っている。また当時(奈良時代)讃岐の国では六十郷であり、そのうち十二郷が橘寺・薬師寺・唐招提寺・妙見寺・東大寺の六か寺の荘園だったので、六十郷のうち十二郷は五分の一になり、これが付けられたと考えられるのが筆者の私見である」
 「この池の築造年代は定かでないが、『香川県史10 近代史料Ⅱ』によると、宝暦五年(一七五五)の調査に基づき、寛政九年(一七九七)再調査し、文政元年(一八一八)に高松藩が編集した『池泉合符録』の山田郡東前田村の項に、『一、五分一池……』とある」
 「貞享三年(一六八六)所定の『翁●(おうな。左が女、右が謳の右)夜話』の山田郡の項に、『……五分一……小字名』とあり、小字名に五分一の名が記されている。おな、池の名前はない。このことは貞享三年には池は存在せず、その後、宝暦五年(一七五五年)から文政年間(一八一八年~一八三〇年)に築造されたと推定することができる。そして小字名をとって名付けたとも考えられる」

   これまでに、あまりヒントのない「五分一」について   

 これまでに、あまりヒントのない「五分一」について列挙しておきます。
 〇新潟県水原町の五分市
 「南は越御堂(こしみどう)、西は灰塚(はいづか)。正保国絵図に三六石余とあり、新発田藩領。…寛政元年(一七八九)幕府領となり、…幕末は会津藩領」(『新潟県の地名 日本歴史地名大系 15』 平凡社)
 「五分一とも書いた。阿賀野川と同川支流安野川の間」(『角川日本地名大辞典』)
 〇神奈川県中井町の五分一
 「江戸期~明治初年(一八六八年)の村名。明治初年井ノ口村の一部になる」(『角川日本地名大辞典』)
 「東境を葛(くず)側が流れ、南は淘綾(ゆるぎ)郡一色(いっしき)村(現中郡二宮町)、西は久所(ぐぞ)村、北と西は井口(いのくち)村と接する。大住(おおすみ)郡に属し、足柄上郡・淘綾郡の境に位置する。小田原衆所領役帳(藤原注・おだわらしゅうしょりょうやくちょう。成立は永禄二年、一五五九年)に石巻下野守『五拾貫文 中郡土屋内五分一』とあり、古くは土屋(つちや)村に含まれた。近世は初め幕府直轄、寛永一〇年(一六三三)より旗本田沢領。……正保国絵図に村名が載る。…明治一九年(一八八六)大住郡より当郡(藤原注・足柄上郡)に編入替えとなり、井ノ口村に合併」(『神奈川県の地名 日本歴史地名大系 14』 平凡社)

   これからの模索のためのキーワードたち

   

 多くの謎を残しつつ、この原稿も終わりを迎えつつあります。
 今後の模索のヒントにと、五分一という言葉を含む事実を、列挙しておきます。
 ・仙台藩は、享保十四年(一七二九年)から五年間、全家臣から五分一の役金を徴収して金十万両の基金を作りました。
 ・飫肥藩(おびはん。宮崎県南東部、日南市の中心地区)では、藩の林地に藩民たちが杉その他の樹木を挿植し、藩と一定の割合で分収する部分林の制度が形成されていました。享保年間(一七一六年から三五年)には五公五民でしたが、時をふるにしたがって天明年間(一七八〇年代)には一公二民に。後に二公八民の「五分一山」も出現しました。
 ・熊本県の旧藩主・細川家の文書に、「正保二年(一六四五年)」の「五分一米取立之覚」の文書、「寛文四年(一七九二年)九月二十二日改」の佐敷に被召置浪人松山右兵衛への五分一米支給についての文書があるそうです。

 残念ながら長野市の五分一は未解明のままです。
 かなりの迂回にもかかわらず……。

 <文中で紹介していないもので参考にさせていただいた文献は以下の通りです>
 ○『大阪府の歴史 県史 27』(藤本篤、前田豊邦、馬田綾子、堀田暁生著。山川出版社)。
 ○『江戸川ブックレット No.8 古文書にみる江戸時代の村とくらし ② 街道と水運』(編集・江戸川区教育委員会社会教育課文化財係 発行・江戸川区教育委員会)。
 ○『日本地図から歴史を読む方法』(武光誠著。河出書房新社)。
 ○『加古川舟運の研究』(吉田省三著。発行所・加古川流域滝野歴史民俗資料館)。

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