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2008年2月28日 (木)

男性と女性が抱きあっている道ばたの石像の「なぜ」。

 二〇〇八年二月二十八日。

 この記事は、ほかのブログから移転してきました。

 男性と女性が抱きあっている道ばたの石像の「なぜ」。

 江戸時代を歩く 男女双対道祖神の研究  三稿目

 長野県を歩いていて、「男性と女性が抱きあって道ばたにずーっ。とたたずんでいる」、そんな石像に出合いました。
 以下、これを男女双対道祖神(どうそじん)と呼びます。
 「…道祖神として最もポピュラーなものは男女の像がひとつの石にあらわされている、いわゆる男女双対像であろう。この男女双対像としてあらわされた道祖神は、関東では神奈川・静岡・山梨・長野・群馬に特に多く、その数は数千にものぼるといわれている。形像もいろいろあり、男女がおとなしく並んで立っているものもあれば、合掌しているもの、また手をとり合い、抱擁接吻し、男根、女陰を明らさまにし、果ては性交しているものまである。……」(『カラー石仏』)
 こういうことをおおらかに表現しうる時代、地域でこそ成り立った物だと思います。
 これが、
 ○いつごろから、どこに、こんな石像がおかれていたのでしょうか。
 ○誰が作って置いたのでしょうか。
 ○どんな思いを込めて置いているのでしょうか。
 ○この思いは、人々に、どのように引き継がれているでしょうか。
 以上のような問題意識です。
 たぶん江戸時代の農民たちの精神生活のいったんに触れる文章になると思います。
 少しきわどい表現も出てくるかもしれませんが、ことの性格上お許しください。しっかり、真面目な問題意識ですので…。

 ☆疑問についての答え

 私のいくつかの疑問に、日本石仏協会会員の遠藤和男さん(一九二九年生まれ)がメールで答えてくれました。以下、大要です。
 「”いつ、どういう人たちによって作られ、たてられたのか”
 道祖神信仰は大変古く、今でも所によっては行われている”どんど焼き”は遠く平安時代に宮中で正月の飾りものを焼いた左義長の儀式が道祖神信仰と結びついたものとも言われています。
 双体道祖神に限って言えば、寛文年代(一六六〇年頃)から造られ、最初は僧形の並立像が多かったが、次第に夫婦の愛情を表したり、祝言の様子を表したりするものに変わっていったようです。
 作り主はおもに農民で何々村中など講中の名が刻まれているものが多いので、村単位、部落単位で造られていることが分かります。作り手は石仏も手がけている石工と言われる職人で、こういう人たちが村の希望を聞いて造ったものと思われます。
 ”どういう思いが込められているのか”
 やはり縁結び、家内繁盛、それに五穀豊穣などが主題で、病気を治すなども付随したようです。農村が発展するには家族が増えることが必要で、このような祈りが夫婦円満の姿を現すようになったのでしょう。
 ”分布はどうなっているのか”
 長野県、群馬県の他神奈川県、山梨、静岡などが多く、その他新潟、埼玉、栃木、千葉、愛知、岐阜、鳥取、岡山などの各県にもあるようです」

 ☆長野県辰野町の古い双対道祖神

 長野県辰野村沢底に永正二年(一五〇五年)の銘の双対道祖神があります。いままで見たうちで最も古い銘が入った物です。
 中型の像です。高さ七十五センチメートル、幅三十センチメートルです。二人とも平安時代の支配層のような服装です。男性(左)は、烏帽子(えぼし)を着ています。女性は、長い髪です。
二人は肩を抱き合いっています。女性が右手で握りしめた羽織のような物の下のほうを男性が左手で握りしめています。「入澤底中」とう文字が彫り込まれていますが、これは、当時の、この地域の村名のようです。
 村の人たちが金や労力を出し合って作ったのでしょう。
 それにしても、デザインも風化し具合も、この時代のものにしては不自然です。後の世に作って年代だけ永正二年としたのではないでしょうか。
 同じ地区に同じような構図の小型の像があります。
 「天明三年二月吉日」の銘があります。一七八三年です。こちらのほうは、上記のものと比べてずいぶん風化しています。
 群馬県倉淵村熊久保に寛政二年(一五二五年)の銘のあるものがありますが、これは僧の格好をした二人が合掌しているデザインです。
 ほかの所の物でも、古い時代の物は僧形が目立ちます。

 ☆なぜ、平安時代の支配層の服装をしているのか

 長野県穂高町の双対道祖神をはじめ、作られたのは江戸時代なのに、そこに描かれている男女が平安時代の支配層、皇室風の服装をしているものが目立ちます。あとで紹介しますが、天皇家の紋である菊の花を彫り込んだ物もあります。なぜでしょう。
 前出の遠藤和男さんは、いいます。
 「平安貴族の服装というか神官姿は安曇野に多いのですが、時代的には内裏雛が出てきた頃で、夫婦の理想をこれに重ねたのかも知れませんね。菊の花の紋章は当時の農民にとっては天皇家とは関係のないおめでたい印に過ぎなかったようです。戦時中これはけしからんから取り壊せと言った軍人がいたそうですが、はるか昔のものだからと取り合わなかったようです」
 次のような指摘もあります。
 「穂高の道祖神は王朝貴族風の衣裳の像が多い。ほとんどそればかりといっていいくらいだ。男神は衣冠束帯姿、女神は束髪ながら女房装束・十二単(ひとえ)の姿に見える。江戸時代に松本で作られていたという押絵雛(ひな)も平安貴族の衣裳だが、道祖神像はその影響によるものだろうか。……押絵雛に見られる豪華な平安貴族の姿を男女の理想の形とみて、種々の願いを具現化した道祖神にその形を取り入れたのかもしれない」(『道祖神散歩』)。
 「皇室・公家の世界は、雅な性的魅力を放つと同時に武士の論理と相容れない、ややもすれば武家支配の秩序を破壊しかねない、異質な世界とイメージされていたようです」「一方で、当時の人々は皇族や公家に対して病気治癒や厄除けの神秘的呪術を期待していました」(『江戸の性風俗』)。
 貧しい質素な自分たちの暮らしと対照的な平安時代の支配層の姿。それに自分たちの願いを託したのでしょうか。

☆双対道祖神たちの愛情表現は大らかです

 双対道祖神たちの愛情表現は大らかです。
 群馬県岩淵村細谷(ほそがいと)の宝暦四年(一七五四年)の銘のあるものは、女性(右)が男性を抱きしめています。
 群馬県榛名町の宝暦七年(一七五七年)の双対像は、抱き合って口づけをしています。横顔の男性(左)は肉薄に、横顔の女性は肉厚にし二人の口元を入念に彫り上げています。
 性交する場面を描いた双対像もあります。
 群馬県倉淵村落合の「宝暦十(一七六〇年) 辰天極月 中原村中」の銘のある像です。多孔質の安山岩に刻まれています。男性(右)が上になり、下になった女性が男性に抱きつき着物のすそを大きく開いています。大らかな性の表現です。
 元は中原部落の路傍にあったといいます。ここは草津街道の旧道で榛名(はるな)神社の参道道でした。この道祖神を建てた中原村の人たちは道いく人々が「おっ!」と目をむき道祖神に見入る姿を楽しんだのでしょうか。
 長野県の入山辺各戸(いりやまべ)の天明六年(一七八六年)の銘のある作品もそうです。
 平安貴族の服装をした男性(左)と女性が手を取り合って抱き合っています。屋根には菊の花の紋が入っています。この像には、さらに、その下に裸で性交する姿が彫刻されています。
 長野県茅野市北大塩の江戸時代後期の物は、男性(左)と女性がお互いに向き合い、力を込めて肩を抱き合って接吻しています。男性は裸足の左足を踏み出し、裸足の女性の足を踏んでいます。二人は性急に求め合ったらしく、男性は着物のすそを跳ね上げてすねをあらわにしているし、女性はすでに肩肌脱いでいるのか、腕をむき出しにして男性の肩をかき抱いています。
 これらの道祖神に、当時の人々の性交へのあからさまな切望を感じるのは私だけでしょうか。
 遠藤和男さんの話を紹介しておきましょう。
 「私の考えでは武士階級は別として民衆のレベルでははるかにおおらかであったようです。今でこそ隠されていますが、双体道祖神の他に陰部を象徴するようなものがごろごろあったのです。窮屈になったのは明治以降ではないでしょうか」

 ☆江戸期の時代風俗を取り入れた作品

 江戸期の時代風俗を取り入れた作品もあります。
 長野県倉淵村の天明八年(一七八八年)の立像は、女性(右)が御高祖頭巾をしています。
 同じ村の寛政二年(一七九〇年)の立像は、女性(左)は日本髪に振り袖姿、男性は山岡頭巾の姿です。

 ☆江戸時代の石工・喜三次さんの作品

 長野県の入山辺(いりやまべ)に江戸時代の石工(いしく)・藤森吉次さんの名前が彫り込まれた双対の立像があります。寛政七年(一七九五年)の建立です。
 平安貴族の服装をした男性(左)が、胸元で両手を合わせています。平安貴族の服装をした女性が寄り添うようにしています。屋根に菊の花の紋が彫り込まれています。

☆一つの体の男性と女性、究極の愛か

 美濃路の中山道から苗木道(飛騨道)への分岐点に文化十三年(一八一六年)三月の銘のある物があります。藤四郎ほかの建立です。一つのはかまに一組の男女の体が出ています。そして二人は握手しています。
 二人は一体になって手をつなぎ合う。まさに究極の愛です。

 ☆二人の幸せは雲に乗って

 長野県松川町北海渡の天保十一年(一八四〇年)の銘のある物は、二人とも平安時代の支配層の服装をしています。ひょうたんを持った女性(左)が男性に酒をつごうとしています。ところで、二人の足下を見ると雲があります。雲に乗っているのです。
 天にも昇る気持ちというのは、このことでしょうか。

☆幕末の石工・藤森吉弥さんの作品

 幕末の石工・藤森吉弥さんの作品があります。
 文化九年(一八一二年)、信州木下村、いまの長野県上伊那郡箕輪町木下の生まれです。父・藤森吉之丞(?)、母・ゆうの長男です。高遠(たかとう)石工の技を受け継いで、関東一円に作品を残している石工です。
 長野県松本市島立(しまだち)の天保十三年(一八四二年)の銘のある男女双対道祖神は、彼の作品です。宮村の石工・重森文四郎さんとの共作です。「重森文四郎工之 藤森吉弥一寿作之」と彫り込まれています。宮村は、いまの松本市中央二丁目あたりです。「一寿」は藤森吉弥さんの「名乗り」です。
 長野県の入山辺(いりやまべ)中村の天保十五年(一八四四年)の銘のある大型の双対の立像に彼の名前が刻まれています。これも重森文四郎さんとの共作です。「石工藤森吉弥一寿工之」「宮村石工文四郎作之」と彫り込まれています。
 平安貴族の服装をした男性(左)が盃を持ち、平安貴族の服装をした女性がひさげを持っています。二人は、斜めに顔を傾けながら見つめ合っています。彫りは精密で、女性の髪の毛筋まで彫り込まれています。石の裏面には道祖神盗みを警告する文字が彫り込まれています。
 藤森吉弥さんは、この後、弘化二年(一八四五年)から故郷・木下村に戻りませんでした。

 ☆高遠の石工・四良右門兼さんの作品

 長野県山形村に、ぽっかり浮かぶ雲のような形の巨岩に大きな円窓の双対道祖神があります。
 嘉永三年(一八五〇年)、高遠の石工・四良右門兼さんの銘があります。平安時代の支配層の衣裳の男女が手を握り合っている構図です。

 ☆二人の幸せと長生きを願って

 長野県辰野町万五郎(まぐろ)に「萬延元…」という文字を彫り込んだ物があります。一八六〇年です。
 男性(左)は盃を持っています。女性はひょうたんを捧げ持って盃にそそごうとしています。
二人の頭上ではツルが羽ばたいています。足下にはカメがいます。
 一緒にお酒を飲んで、のんきに長生きしたいという思いでしょうか。

 ☆この村に、疫病神はいりません

 長野県辰野町下田に巻物を広げた構図の双対道祖神が二つあります。
 一つは中型の物です。平安時代の支配層のような服装をした男女が並び、前に巻物を広げています。
巻物には「天与是」とあります。「西樋口上手村中」、「帯代二十両」と彫り込まれています。
 建てた村人たちは「盗むな。盗んでいくなら、その代わりに二十両おいていけ」といっているのです。
 この構図には伝承があります。
 「疫病神は村人たちの一年の行いを天帝に報告するために、諸々の悪行を巻物に認(したた)める。ところが、十一月の神々の集まりに出掛けるため、この巻物を道祖神に預けて出雲へ出掛けてしまう。村へ戻った疫病神は、この巻物を返せと迫るが、道祖神は小正月のドンドで焼かれてしまいもう無いと話す。こうして村人は、疫病神の災難から逃れた…」(『道祖神散歩』)。
 道祖神は、村人の味方なのですね。
 もう一つは小型の物です。構図は同じ。「帯代三十両」と彫り込まれています。

 <参考にさせていただいた文献>

 ○『カラー石仏』(写真・里見文明。文・佐藤宗太郎。山と渓谷社。一九七二年十二月二十五日)
 ○『道祖神散歩』(道祖神を歩く会、野中昭夫。新潮社。一九九六年五月二十五日)。
 ○『道辺の男女神 道祖神』(森田捨史郎、金森敦子。京都書院。一九九八年九月一日)。
 ○『石の旅 野石・石仏・石工たち』(金森敦子。クロスワード。一九八八年三月一日)。
 ○『江戸の性風俗』(氏家幹人。講談社。一九九八年十二月二十日)
 ○『新版 民俗調査ハンドブック』(上野和男・高桑守史・福田アジオ・宮田登編。
吉川弘文館。一九九九年四月一日)。
 ○無数のインターネットのホームページを利用させていただきました。

 (一九九九年六月二十六日)

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