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2005年2月

2005.02.01

土佐弁しかできない兄弟のフィリピン旅行 (再掲載)

 やっと、やっと二〇〇五年一月五日から正月休みです。
 この休み中の一月六日から十日まで高知県の「借地農民」の弟と二人でフィリピンにいく予定です。

 ●わおーっ。フィリピンにいくぞ●

 六日午後零時。
 ではフィリピンにいってまいります。
 できる言語は土佐弁のみという二人の海外旅行です。
 航空券とホテルだけは取っていますがガイドもなし。
 どうなることやら……。
 これはアドベンチャーです。
 まず最初の難関が入国ですが……。
 でも、思ったよりすんなりとマニラの空港から入国。
 まず、両替をしました。
 ホテルまでのタクシーを物色していたら、泊まることになっていたホテルのボーイと称する男性が出現。
 その男性の用意した「白タク」のようなのに乗ってのホテル入りしました。
 
 ●出合った花たちのこと●

 青空を 背景にして 咲き誇る
 ブーゲンビリアの
 透けるよな赤

 まずは、出合った花たちを紹介します。
 ☆ マニラのラサール公園、マラテ地区、コレヒドールなどで、いつも温室で見ている白い花が咲いていました。
 プリメリアです。
 キョウトウチク科プルメリア属。和名は、インドソケイです。
 この写真はマニラで。
 ☆ マニラ、コレヒドールなどでハイビスカスを見ました。
 アオイ科フヨウ属です。
 写真は、マニラで。
 ☆ ブーゲンビリアを、コレヒドールで撮りました。これも、いつも温室で見ている花ですが、青空の似合う花です。
 オシロイバナ科イカダカズラ属です。
 ☆ コレヒドールでパパイヤの花に出合いました。これは初めてです。
 パパイヤ科パパイヤ属です。

 ●セブンイレブンに銃を持った警備員●

 マニラでびっくりしたのは銃を持った警備員が、いろんな所にいたことです。
 七日午後、マラテ地区のコンビニエンスストア・ミニストップにいったら腰に銃を下げた男性の警備員がいて、ギョッ。なぜ、コンビニに……。
 八日早朝、高架鉄道のペドロヒル駅前のマクドナルドの店に入ったら、ここにも腰に銃を下げた男性の警備員がいました。
 近くのセブンイレブンに入ったら、ここも同様でした。
 さて、高架鉄道に乗ろうとしてペドロヒル駅に入ろうとしたら、入口で警備員が「待った」。
 「そこの机の上にバックを置いて、開けなさい」
 棒で中に入っているものを調べます。
 「これは? カメラ?」
 「そうです。カメラです」
 OKになって、やっと駅の中に入れました。
 この入口での検査は、首都圏鉄道でも同じでした。
 この遠出の帰りに、また、ペドロヒル駅前の中華の店「チョウキング」に入ったら、ここにも拳銃所持の警備員がいました。
 いやーっ、すごい街だなぁと思いました。
 泊まっているPホテルに向かっている途中にロビンソンデパートがあります。
 その前で車の整理をしている警備員は筒の長い銃を持っていました。同デパートに入ろうとすると、ここでも入口でバッグの中身を調べられました。
 すぐ近くのフィリピン総合病院の入口にも銃を持った警備員が…。
 うんざりもいいところです。
 極めつけは九日にアリストクラットという大衆レストランに入ろうとしたときのことです。
 ここはまわりに複数の筒の長い銃を持った警備員がいました。
 そして、入口にも銃を持った警備員がいて、バッグの検査をされました。
 どうなってるんだ!!

 ●日本の侵略の傷跡を見ておきたい●

 実は、このフィリピン旅行は、日本の侵略の傷跡を見ておきたいという意図でした。
 一九四一年十二月八日、日本軍によるマレー半島への上陸とハワイの真珠湾への攻撃で太平洋戦争が始まりました。
 真珠湾攻撃の十時間後、日本軍の編隊がフィリピンのルソン島中部のクラーク、イバのアメリカ軍基地の上空に達し、アメリカ軍戦闘機などを爆撃しました(当時は、アメリカがフィリピンを植民地支配していました)。日本軍は、同月二十二日にルソン島北西部のリンガエン湾から上陸。翌年一月二日、首都マニラに入城し、翌日、日本軍政を宣布しました。
 そして、四三年十月十四日、かいらい政権(「フィリピン共和国」)をつくりました。
 この間、フィリピン人抗日ゲリラが抵抗運動を続けます。
 四五年二月三日、アメリカ軍は、レイテ島から再上陸してマニラを奪回します。
 太平洋戦争中、戦争で亡くなったフィリッピン人は一説に百万人ともいわれます。
 戦争中、フィリピンで亡くなった日本人は軍民合わせて約五十一万八千人といわれます。「母の姉の夫の弟」も、その一人です。

 ●日本軍の憲兵隊本部や牢獄の跡●

 七日午前、マニラのサンチャゴ要塞にいきました。
 スペイン人が建てたものです。
 スペインが植民地支配した時代には牢獄、アメリカが植民地支配した時代にはアメリカ陸軍本部、日本の占領の時代には憲兵隊本部や牢獄として使われました。
 憲兵隊というのは陸軍の「警察」ですが、植民地では圧制の先頭に立ちました。
 フィリピン人の警備員が、僕たちを日本人と見て、地下牢の鍵を開けて内部を見せてくれました。
 当時の様子が人形や資料写真でわかるようになっていました。
 とにかく閉所恐怖症気味の僕には辛い見学でした。
 一九四五年二月、日本軍の残虐行為によって牢獄内で約六百人のフィリピン人とアメリカ人が死亡したといわれます。

 ●バスに乗ってカバナツアンへ●

 八日朝、マニラのエドウサ駅近くのバスターミナルからカバナツアンいきのバスに乗りました。
 「母の姉の夫の弟」が陸軍に召集され、この町で戦病死しているのです。
 くわしいことはわからないだろうが、どんな町だったのかだけでも見ておきたいという思いです。
 三時間以上かかりました。
 農業地帯の中のけっこうにぎやかな町でした。
 とにかく町を散歩。
 弟と二人で田植え風景を見ていると小学生くらいの女の子二人、男の子三人が「何してるの」「どこからきたの」と話しかけてきました。
 「日本から」というと「ジャパニーズ。ジャパニーズ」といって、いろいろ質問してきました。
 好奇心いっぱいのかわいい目をした子どもたちでした。
 まあ、ここは、いってきたというだけでしたが、ここにも日本の軍隊がきていたのかと複雑な気持ちでした。

 ●コレヒドールの元日本軍属のガイド●

 九日、コレヒドール島にいきました。
 多国籍の人々のツアーに参加しました。
 マニラからクルーズに乗り、島ではバスに分乗して移動しました。
 海が澄み切った美しい島でした。
 日本軍がフィリピンに侵攻する中、アメリカ極東軍最高司令官
ダグラス・マッカーサーやフィリピン独立準備政府大統領のマヌエル・ケソンが、この島に逃れ、指揮をとりました。
 一九四一年十二月に十九日から、この島の空襲を開始。この島の北西にあるバターン半島を攻略し、翌四二年五月、この島に激しい攻撃を加えて上陸。一万三千人余りいたアメリカ、フィリピンの軍人と民間人を捕虜にしました。
 マッカーサーやケソンは、その前に魚雷艇や潜水艦で別々にこの島を脱出しています。
 四五年二月、連合軍は、空と海からの攻撃で、この島に再上陸を果たしました。
 この時の戦闘で、この島を防衛中の日本軍約六千人の大半が戦死。連合軍も二百二十五人の死者、行方不明者を出しました。
 十数人の日本人のバスのガイドはフィリピン人男性・ウイリーさん(七十七歳)。
 「大和魂(やまとだましい)」
 「天皇陛下の軍人」
 「君が代の軍人」
 といった言葉が口をついて出ます。
 「君が代」、「海ゆかば」、「愛国行進曲」などを歌い、「軍人勅諭」を暗唱します。
 日本軍占領期に日本の軍属をしていたといいます。
 「英語を使うとビンタが飛んできた。すべて日本語だった」
 「日本軍の軍票を使わされたドルやゲリラの札を使うと死刑になった」
 この島で「日本帝国政府」が、当時、発行した軍票を十枚入手しました。

 もっと書きたいことがあったはずです。いつか「つづき」を書きたいと思っています。

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2005.02.02

東京都三宅島の避難指示解除

 ガスマスク 身近においての 生活か
 三宅の暮らし
 応援してるよ

 二〇〇五年二月一日夜、東京都三宅島(みやけしま)の避難指示解除。
 四年半ぶりに住民が島に帰ることができるようになりました。
 この日午後十時半過ぎ、東京の竹島桟橋から三宅島の人たちの第一陣が、船で三宅島に向かいました。
 明け方には島に着く予定です。

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酒屋の店先で父がのんでいたコップ酒。 The glass of sake which the father was drinking at the storefront of the liquor store

 2005年2月2日夜。

 風邪をひいて、いつもより早めに帰宅しました。
 家の近くまで帰りつきました。
 近所の焼き鳥さんに、まだ灯りがついています。
 中で愉快そうに酒をのんでいる男性の姿が見えました。
 おいしそうです。

 ふと、五十年も前のシーンを思い出しました。
 場所は、高知県伊野町(いまは、いの町)。酒屋です。
 もう夕方です。
 酒屋の中には、仕事着のままの父がいます。
 カウンターのようなものがあります。
 その上におかれた皿のようなものの上にガラスのコップ。
 酒屋の主人が、一升瓶を持ち上げて、そのコップにとくとくと酒を注ぎます。
 酒は、コップからあふれて、皿のようなものに流れ落ちます。
 それを、おいしそうにのむ父。

 僕は、小学校の低学年だったでしょうか。
 僕が、なぜ、そこにいたのかわかりません。
 しかし、父がコップから酒をのむゴクゴクという音を聞いていたような気がします。
 思い出すと、なんだか涙が出るほど懐かしいシーンです。


 February 2nd night in 2005

 It caught a cold and it went home, being always earlier.
 It was returned near the house.
 The light is still under the grilled chicken in the neighborhood.
 The appearance of the man who is drinking alcohol, that it seems that it is pleasant in could have been seen.
 It seems that it is delicious.
 Short, it remembered a scene in front in 50.
 The place is Kochi Prefecture Ino-cho.
 It is a liquor store.
 It is the evening already.
 There is a father as the overall in the liquor store.
 There is one like the counter.
 It is a glass glass on the one like the plate which was put on it.
 The master of the liquor store lifts a sho bottle and pours liquor into the glass proudly.
 Liquor overflows a glass and is dropped in the thing boiling like the plate.
 The father who drinks it, that it seems that it is delicious
 Will I have been the lower grades of the elementary school?
 It doesn't find why I was there.
 However, there is a feeling as the father heard the sound to say gulpingly which drinks alcohol from the glass.
 When remembering, tears flow more somehow, it is the dearer scene.

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2005.02.03

目標は毎日一万歩以上

 2005年2月2日夜。

 あと五分
 足踏みなどして つぎ足して
 一万歩にして ベッドに向かう

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2005.02.08

妻の寝顔は健康そのもの

 口開けて 天向いて寝る 妻の顔
 こやつ、必ず
 百歳越える

 二〇〇五年二月八日午前二時。
 風邪でせき込んで寝られません。
 かたわらの妻は、健康、健康。
 うらやましいかぎりです。

 Opening a mouth It turns in the heaven and it goes to bed.The face of the wife
 Of this person always
 It crosses by 100 years old.

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2005.02.09

テレビ映像の危うさ 国立競技場で感じたこと

200502_067

 二〇〇五年二月九日夜、なぜか国立競技場にきています。
 大型ビジョンでサッカー、日本対北朝鮮の中継をするというのです。
 客席は、もともと半分以下しか使っていません。
 客は、その三分の二も入っていません。
 ところが、先ほど、午後六時半ころでしたでしょうか、テレビ朝日で放映された、この会場の映像は、いっぱいの熱気。
 アナウンサーの指揮のもと何回も応援の予行練習をしたうえでのことなんですが……。
 見た人の多くは、いっぱいつめかけていて、盛り上がっていると思ったことでしょう。
 危ういね。テレビの映像。
 この写真は午後7時過ぎのものです。

 それはそうと、もう試合が始まります。
 楽しみです。わくわくしています。

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すごかったですね、サッカー。

 すごかったですね。サッカー。わおーーーっ。

 サッカーの2006年ドイツワールドカップアジア最終予選B組の第1戦、日本―北朝鮮が、9日、さいたま市の埼玉スタジアムでありました。

 4分、日本のMFの笠原満男選手がFKを直接決めて先制しました。
 あっという間のことでした。
 61分に北朝鮮のDFのナム・ソンチョル選手が同点に。
 わおーっ。北朝鮮も、すごい。
 後半ロスタイム。
 日本のFWの大黒将志選手が決勝点を決めました。
 一瞬のことでした。
 サッカーにはクールなほうの僕も、石黒選手の決勝点に、思わず「わおおーっ」と声をあげてしまいました。

 最後まで執念を持って攻め抜いた日本に拍手。

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2005.02.12

高知のブンタンをいただきました。

 土佐からの でかいブンタン 一つ切り
 甘い香りを
 さくさく食べる

 二〇〇五年二月十二日午前。
 高知市のOさんからブンタンをいただきました。
 早速、妻と二人で「わーっ、おいしい」。
 ありがとうございます。
 土佐市の西森貞男さんの農園でできたものでした。

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2005.02.14

ポンポンと荒い言葉を投げつけて

 ポンポンと 荒い言葉を 投げつけて
 僕の世話する
 妻のありよう

 二〇〇〇年二月十三日夜中のこと。
 これは永遠の謎ですね。
 腹が立つ存在ならばほっとけばいいのに……。

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二〇〇五年二月十ニ日夜、西武池袋駅。

 二〇〇五年二月十ニ日夜。

 妻、息子の三人で西武池袋線の池袋駅で待ち合わせました。
 何か不思議な気持です。

 一九六八年十月に高知市から上京し、しばらくしてから、この線の江古田駅の近くのアパートに住み始めました。
 池袋駅がデパートに直結していることに驚いて、そのことを詩にしたこともあります。

 七〇年三月、高知市から「彼女」が上京しました。
 江古田駅の近くのアパートに住みました。
 そして、その年の十月に「彼女」と結婚しました。

 僕たち夫婦と息子が降り立ったのは、この線の清瀬駅。
 息子の「彼女」の家にいき、「彼女」と、「彼女」の父母と、食べ、飲み、語りました。
 二人は結婚するといいます。
 息子が、「言葉だけでない真の民主主義者」として、彼女と真の民主主義者にふさわしい関係を築いていくのを楽しみにしています。
 フレー、フレー。
 二人の人生に幸あれ。

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梅の花、一束どれも三百円

 梅の花 一束どれも 三百円
 園芸農家に
 春くるを知る

 二〇〇五年二月十四日のことです。

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2005.02.16

東京都国分寺市のエックス山にいってきたよ。

20050215_025

 二〇〇五年二月十五日午後。
 出勤前に近くのお気に入りの食堂で昼食。そこで、ふと見た雑誌に東京都国分寺市の「エックス山」のことが出ていました。
 西恋ヶ窪三丁目だといいます。
 「エックス山」とは何? 国分寺に山はあったの?
 さっそくいってみました。
 スーパー・いなげ屋の裏の雑木林のことでした。(写真)
 そこに立っていた西恋ヶ窪緑地市民協議会、国分寺市環境部自然環境課の看板によると、正式には「西恋ヶ窪緑地」というそうです。
 「市内で最大の緑地」といいます。
 いいところです。
 でも、なぜ、「エックス山」というのでしょうか?

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2005.02.18

チューリップの花の美しさを発見。

20050218_032

 二〇〇五年二月十八日午後、東京都小金井市で出合ったチューリップです。
 チューリップって、これまで魅力を感じなかったんだけど、この花、よく見ると奇麗です。
 チューリップは、ユリ科の多年草です。

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独りで「わっくら」してきました。

 この間は(えーっと、二〇〇五年二月十四日でした)、東京でただ一つというモンゴル料理の店(文京区)にいってきましたが、こんどはベトナム料理の店の話です。

 わーい。JR中央線の武蔵小金井駅南口近くにベトナム料理の店がありました。
 二〇〇五年二月十八日昼、友人に教えてもらいました。
 さっそく夜、独りでいきました。
 「わっこら」という不思議な名前の店です。
 二〇〇四年三月開店。奇麗な店です。若い女性二人が働いています。
 音楽はビギン。味は上々でした。
 今度は、複数でいきたいと思っています。

 住所は、小金井市本町一の一九の四。
 昼は、十一時半から三時まで(金曜日は休み)。
 夜は、六時から十一時半。金曜日、土曜日は六時から零時まで。
 木曜日は定休日です。
 埼玉県秩父地方で「わをつくる」ことを、「わっくら」というそうです。

 ここで、この店を紹介しています。
 http://www.prs-net.com/tomodachi/watarappan/wakkura/

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2005.02.20

梅咲けば「桜まだかな」、気もそぞろ…

 梅咲けば 桜まだかな 気もそぞろ
 花詠み人(びと)の
 欲深いさま

 二〇〇五年二月二十日。
 午後二時ころまでは小金井市で。
 そして、泊まり勤務に出勤。
 息子は、この日、新しい暮らしのスタートを切りました。

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2005.02.21

およよ。二十三日には僕は五十八歳です。

 二〇〇五年二月二十一日夜。

 妻が、本日朝の僕の「作品」について、
 「あなただったら、もっと書けるはずです」
 と、不満たらたらです。
 ちくしょうめーっ!

 ところで、
 「きょうは何日?」
 と、妻に問うと、
 「二十一日」
 「じゃあ、二日後は?」
 妻は、なかなか気づいてくれません。

 僕は、二月二十三日には五十八歳を迎えます。

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2005.02.22

ヒヤシンスが咲いたよ。

20050222_024

 二〇〇五年二月二十二日午前。
 出勤前にベランダを見たら鉢のヒヤシンスが咲いていました。
 いい色です。
 わが家でヒヤシンスが咲いたのは初めてです。

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太陽色のブンタンが着きました。

 ふるさとの 光いっぱい たくわえた
 太陽色の
 ブンタンが着く

 二〇〇五年二月二十一日夜のことです。
 送ってくれたのは、高知市の高校一年生のときからの友人です。

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2005.02.23

カサブランカの絵の入ったマグカップ

 二〇〇五年二月二十三日。
 夜中に家に帰り着いたら、妻が誕生日のお祝いを構えて待っていてくれました。
 ユリの、カサブランカの絵の入った有田焼のマグカップでした。
 感謝。

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2005.02.26

デンドロビウム一鉢が一万円だって。

 一鉢の デンドロビウム
 一万円
 デパート花屋で 尻尾巻いてる

 二〇〇五年二月二十六日夜、東京都国分寺市で。

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禁止されたハングルで詩を書いたユン・ドンジュの「死ぬ日まで空を仰いで」の志(こころざし)。

 ユン・ドンジュのことを知ったのは、二〇〇五年二月二十一日のことでした。
 五十七年以上も生きてきたのに、この人のことをこれっぽっちも知らなかったことを恥じました。
 ○彼は、朝鮮人です。
 ○一九一七年十月三十日、日本の植民地下、朝鮮独立運動の拠点・中国東北部の間島で生まれ育ちました。まもなく幼児洗礼を受けました。
 ○平壌(ピョンヤン)の崇実(スンシル)中学に学びました。同校が日本による神社参拝強制に抵抗したため廃校の危機に陥りました。そこで彼はソウルの延禧(ヨンヒ)専門学校分科に移りました。その時代に彼は朝鮮語のハングルで「序詩」と呼ばれる詩をつくりました。そして、ソウルの延世大学文科を卒業しました。
 ○一九四一年十一月二十日の「序詞」は、こんな詩です。
 インターネットで見つけた、いくつかの訳を掲げます。

 死ぬ日まで空を仰ぎ
 一点の恥辱なきことを、
 葉あいにそよぐ風にも
 わたしは心痛んだ。
 星をうたう心で
 生きとし生けるものをいとおしまねば
 そしてわたしに与えられた道を
 歩みゆかねば。
 今宵も星が風にふきさらされる。

 死ぬ日まで空を仰ぎ
 一点の恥辱(はじ)なきことを
 葉あいにそよぐ風にも
 わたしは心痛んだ
 星をうたう心で
 生きとし生けるものをいとおしまねば
 そしてわたしに与えられた道を
 歩みゆかねば
 今宵も星が風に吹き晒される

 死ぬ日まで天を仰ぎ
 一点の恥辱(はじ)なきことを
 葉あいにそよぐ風にも
 わたしは苦しんだ。
 星をうたう心で
 すべての死んでいくものを愛さなければ
 そしてわたしに与えられた道を
 歩みゆかねば。
 今宵も星が風に吹き晒される。

 ○その後、一九四二年に東京の立教大学英文科選科に学びます。日本留学中、ハングルで詩を発表しました。ハングルの詩集を発行しようとして果たさず(当時はこれだけで反逆行為とされました)、書かれた詩はソウルの友人宛に手紙に隠して送られました。官憲の目を避けるために手紙は焼き捨てられ、詩篇だけ甕(かめ)に入れて地中に埋め保存されました。この時期に書かれた詩で残っているのは五編です。
 ○同年十月に京都の同志社大学英文科選科に留学しました。
 ○一九四三年、京都で、ハングル研究・普及を目的とした学術団体・朝鮮語学会が「独立運動」をしたとして弾圧された事件(朝鮮語学会事件)に連座し、京都下鴨署に検挙されました。逮捕時に日記や原稿を没収され、いまもって行方不明です。そして、治安維持法違反で追訴され、懲役二年の刑を宣告されます。福岡刑務所の獄中で正体不明の注射を繰り返しうたれ、一九四五年二月十六日、で亡くなりました。二十八歳でした。
 ○死後、ソウルで遺稿集が発行され、いまも読みつがれています。
 ○同志社大学にはユン・ドンジュの歌碑があります。
 ○日本では、彼の『空と風と星と詩』という本が発行されています。
 ○日本映画「さようならクロ」のなかで、クロの学校葬の場面で渡辺美佐子さんが、彼の詩「序詞」を朗々と読み上げています。

 彼のこと、もっと詳しく知りたいと思っています。
 ご存知のかた、教えていただければ幸いです。

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2005.02.27

東京都小金井市貫井南町、二万二千歩の旅。

 二〇〇五年二月二十七日。
 休み。
 午前十時半から午後三時まで東京都小金井市貫井南町を歩き回りました。
 おかげで万歩計は二万二千を突破しました。

 暮らしの中を野川が流れています。
 澄んだ水です。

20050227_006

 川の中にシラサギが一羽いました。
 パーッと飛び立った時の美しい姿…。これを正面から撮ってみたいのですがうまくいきません。
 カルガモが二羽、水中から飛び立って、橋を超えて向こう側の水中に着地しました。
 これもカメラが間に合いませんでした。

 庚申塔(こうしんとう)とか、江戸時代のものが残っているまちでした。
 写真の石像には「正徳」と彫ってあります。

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 つぎの写真が庚申塔です。

20050227_048

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 「くらぼね坂」を上り下りしました。
 急な坂で、寒い日だというのに汗が出ました。

 「歩き回ってご苦労さん」と自分にごほうび。
 わが家の近くの花屋でサイネリアの鉢を買いました。六百円也。

20050227_059

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