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2005.04.14

人間爆弾「桜花(おうか)」」について 続き

 人間爆弾「桜花(おうか)」のことを、この間、少し書きました。
 もう少しくわしく調べてみました。

 ●特別攻撃の訓練をしていました●

 「しんぶん赤旗」日刊紙、二〇〇二年八月四日付に「俳優の江見俊太郎さん 特攻体験をトーク 『人間爆弾でした』 軍事で平和はつくれない」という記事が載っていました。
 <俳優の江見俊太郎さん(78)が、太平洋戦争中のみずからの特別攻撃(特攻)隊員としての体験と平和への思いをこの夏、語っています。
 これまでも、ことあるごとに平和の問題で発言してきた江見さん。二日には東京都府中市の「一九四五―二〇〇二 夏ふたり」の集いでサクソホン演奏の中川美保さんと共演し、二人の「トーク」で特攻隊員としての体験を語りました。
 江見さんは早稲田大学二年生のときの一九四三年十二月に学徒出陣。四五年二月からは福岡県の築城(ついき)海軍航空隊で特攻隊員としての訓練をしました。
 初めはロケット・桜花(おうか)に乗り組むことになっていました。桜花は、一式陸上攻撃機などの下部につるされて運ばれます。そして、アメリカ軍の艦艇に接近した所で空中発進され、体当たり攻撃するというものです。
 「人間爆弾でした」という言葉に、会場から「わーっ」という驚きの声が。
 一式陸上攻撃機が次々と撃墜されると、こんどは複葉(ふくよう)の屋根のない、赤トンボといわれる練習機に二百五十キログラムの爆弾を積んで特攻の訓練をしました。
 「私の日誌によると終戦の前日、八月十四日まで夜間の編隊訓練をしていました」
 江見さんは、この体験にもとづいた手記「消えない星」も朗読しました。戦争が引き裂いたむくな恋の物語です。会場の人々の目には涙が…。
 ……
 江見さんは「小泉首相は『備えあれば憂いなし』といって危ない有事法制三法案を通そうとしていますが、この『備え』というのは軍事力のことです。これは平和にはつながらない。本当の『備え』というのは戦争が起きないようにすることです。これからも聖戦といわれて侵略戦争に駆り出された体験を語っていきます」と抱負をのべています。>

 ●「桜花」がつくられるまで●

 「桜花」は、一九四四年五月一日、1081航空隊分隊長の大田正一少尉が、隊司令の菅原英雄中佐に構想を明かした人間爆弾です。
 同年五月か六月、大田少尉、菅原中佐の推薦により、構想を航空技術廠長の和田操中将に提案。中将は航空本部に進達。航空本部の伊東裕満中佐と軍令部の源田実中佐が協議して研究を進めることになりました。
 同年八月初旬、大田少尉が、あらためて民間技術者(東京大学航空研究所、三菱名古屋発動機製作所)の協力を得て作製した「人間爆弾の私案」を航空本部に提出しました。
 同月十六日、航空本部が、大田私案に「○大部品」の秘匿名称をつけ、航空技術廠に改正試作を下令しました。試作番号「MXY7」。
 同月中旬、第一線部隊を除く全国航空隊で、秘密裡に「生還不可能の新兵器」の搭乗員希望者を募集。航空技術廠、「MXY7」の単座練習機「K1」の試作を開始しました。
 同月十八日、軍令部第2部長黒島少将、軍令部会議で火薬ロケット推進の「○大兵器」を発表しました(「部品」が「兵器に変わりました)。
 同月下旬、航空本部、○大を「桜花」と命名。
 同年九月十五日、「桜花」を基幹とする特殊専門部隊の編成準備のため、準備委員長岡村基春大佐(341航空部隊司令)などを横浜航空隊付に発令しました。
 同年十一月十九日、及川軍令部総長が「桜花」計画について昭和天皇に上奏しました。

 ●開発の一端を担った人の証言●

 神奈川県相模原市の鈴木元夫さん(七十八歳)は、「桜花」の開発の一端をになったといいます(「しんぶん赤旗」、二〇〇五年四月十三日付)。
  <(一九)四四年一月から横浜市の海軍航空技術支廠(しょう)の爆撃部設計係になり、同年夏から「桜花(おうか)」の開発の一端をになっていました。
 「桜花」(全長六・〇六六メートル、翼幅五メートル)は、頭部に千二百キロの爆弾を装てんし、二つの翼と一人ぶんの操縦席をつけた、火薬ロケット推進方式の飛行機でした。離着陸のための車輪はありません。一式(いちしき)陸上攻撃機などの腹につるされ、放たれて「敵」にぶつかっていく人間爆弾でした。
 私は、「桜花」がどんな角度で「敵」に当たっても爆弾が爆発するような発火装置の設計を担当していました。>

 ●一式陸上攻撃機も改造されました●

 山本正夫さんが『岡山の記憶』第五号(二〇〇三年)に「回想記 無残な“死出の穴”づくり―海軍機一式陸攻の人間爆弾「桜花」―」を書いています。
 <……19年(記者注・一九四四年)2月に私は現倉敷市水島にあった3菱重工業水島航空機製作所に入所して海軍機の1式陸攻(G4M1~3)を作っていました。私は第2組立に属して胴体組立のうち爆弾倉を作り、いわゆる鋲打ち作業をやっていました。
 戦争は次第に熾烈となり、学徒動員の生徒や女子挺身隊を相棒に懸命に鋲打ち1筋に励み、毎日が残業々々の連続で、定時の5時から3時間半の残業を強いられていました。
 いつからだったか爆弾倉に設計の変更があり、機内の床より直接爆弾倉内に降りる穴を作ることになりました(注:爆弾倉内の爆弾を吊るす天井の上は機内の床になっています)。後にいわれた〝桜花装備〟(会社ではマルダイ装備)というもので、爆弾倉の中に特攻兵器の爆弾「桜花」を積み、この中に人が乗り込んで操縦し体当りをする人間爆弾に乗り込む穴です。この桜花は大きく、1式陸攻に取り付けると弾扉(だんぴ)を締めることができないので初めから取り付けられず、下から見ると弾倉は丸見えの状態でした。
 この桜花に乗り込むための死出の花道は、1辺500ミリの正方形、厚さ12、3ミリぐらいの穴でした。この500ミリの穴を作るために、誠に手数がかかりました。でも作りながら、この穴の中をいつかは若者が降りて、ふたたび帰って来ない旅に出るのだと思いながら胸をしめつけられるような気持で作っておりました。
 ……
 その後工場もB29の爆撃によって大半が被害を受け、やがて終戦となり1式陸攻の製作も終わりました。思えば「増産!増産!」と尻をひっぱたかれながら、何号機まで作ったであろうか。最初のG4M1の1号機から数えて、私の作った爆弾倉の号数は6百あるいは7百何十機分であったと思う。完成機は、とてもそれまでは出来てはいない。1機分の爆弾倉が出来れば、それに白墨で番号を書き込んでいたのでそのように思われる。
 マル大装備も中途からなので何機分を作ったか記憶はないが、完成されたものは何十機と言うくらいではなかったかと思われます。
 ……
 当時、従業員は男性が兵役で少なかったのか、女子挺身隊や学徒動員の女の子がたくさん入っていた。私のところにも岡山女子師範の生徒さんで津山出身の人が入ってきて1緒に鋲打ちをやった。……
 20年6月22日、水島の工場はアメリカ軍の爆撃を受けた。当日は工場が休みだったので出勤していなかったが、岡山の家でも「ドロドロ」という爆発の音が聞こえてきた。翌日出勤してみると、私が仕事をしていた爆弾倉の治具のあたりに大型爆弾が落ちたのか、直径十数メートルくらいの大穴があき、深さ5メートルくらいの底には水がたまっていた。
 ……
 以後は、工場の片づけばかりだった。1週間後の29日未明、今度は岡山市が大空襲をうけ、私は身重の妻と2人で逃げた。
 水島の工場の被弾でその前に置いてあった1機も爆風をうけて、リブ(骨組み)の間は全部内側にへこんでしまっていた。これでは使い物にならないが、この機がどうなったのか知らない。
 工場の片づけの最中の8月2日、第2回目の召集がきて、会社を辞め、入営した。今度は広島の工兵隊だった。8月6日の原子爆弾で、私は被爆した。>

 一式陸上攻撃機は、一九三七年に開発され、一九四一年四月に海軍に正式採用された双発の攻撃機です。搭乗員は七人です。
 燃料タンクにインテグラル式タンクを採用したことから、航空燃料を四千七百八十リットル搭載できました。インテグラル式タンクというのは、主翼内が燃料タンクになっているものです。その一方、燃料タンクには防弾設備が一切なく、敵戦闘機の機銃弾が一発命中しただけでも火を噴き、墜落していくという飛行機でした。
 「桜花」は、終戦時までに七百五十機が製造されたといいます。

 ●「桜花」の特別攻撃の実際●

 一九四四年十月一日、百里ヶ原基地(茨城県小川町)に、第721海軍航空部隊(神雷部隊)が新たに編成され、横須賀鎮守府に編入されました。「桜花」を主戦兵器とした最初の航空特攻専門部隊でした。
 同年十一月一日、茨城県鹿嶋市(現在の地名)の神之池基地に移転、「海軍神雷部隊」の門札が掲げられました。
 神雷部隊は、「桜花」パイロットの桜花隊、「桜花」を運ぶ陸攻隊、これらを援護する戦闘機隊の三つが基本的な要素。桜花隊員の募集は最初、一九四四年八月中旬、全国航空隊からその目的と生還不可能の条件を明示して隠密裏におこなわれれ、応募者の中から約二百人が十月から十一月にかけて721航空隊に着任し、十一月末には四個分隊編成となりました。
 母機の陸上攻撃機には精鋭の飛行隊をあて、援護戦闘機として二個飛行隊が配置されました。
 同年十一月二十九日、「桜花」五十機を搭載した空母「信濃」が米潜の雷撃で沈没(横須賀→呉)。
 同年十二月一日、連合艦隊司令長官が神雷部隊にレイテ攻撃を内示しました。
 同年十二月十九日、「桜花」五十機を搭載した空母「雲龍」が米潜の雷撃で沈没(佐世保→比島)。
 一九四五年一月八日、「桜花」五十八機を搭載した空母「龍鳳」が目的地をフィリピンから台湾に変更。
 同月二十日日、「桜花」隊第一陣が南九州(鹿屋、出水、宮崎、都城)に進出を開始しました。
 同年三月二十一日、第一回神雷「桜花」特別攻撃隊(「桜花」十五機、陸上攻撃機十八機、戦闘機三十機)は、鹿児島県の鹿屋基地を出撃し、九州沖に向かいました。しかし、米機動部隊約五十機の待ち伏せにあいました。戦死百六十人(「桜花」十五人、陸上攻撃機百三十五人、戦闘機十人)。
 同年四月一日、第ニ回神雷「桜花」特別攻撃隊出撃(「桜花」三機、陸上攻撃機三機)。
 同十二日、第三回神雷「桜花」特別攻撃隊出撃(「桜花」八機、陸上攻撃機八機)。
 同月十四日、第四回神雷「桜花」特別攻撃隊出撃(「桜花」七機、陸上攻撃機七機)。
 同月十六日、第五回神雷「桜花」特別攻撃隊出撃(「桜花」五機、陸上攻撃機五機)。
 同二十八日、第六回神雷「桜花」特別攻撃隊出撃(「桜花」一機、陸上攻撃機一機)。
 同年五月四日、第七回神雷「桜花」特別攻撃隊出撃(「桜花」六機、陸上攻撃機六機)。
 同月十一日、第八回神雷「桜花」特別攻撃隊出撃(「桜花」三機、陸上攻撃機三機)。
 同月二十五日、第九回神雷「桜花」特別攻撃隊出撃(「桜花」三機、陸上攻撃機三)。
 同月二十五日、第一回神雷「桜花」特別攻撃隊出撃に対する連合艦隊告示。「第一神風特別攻撃隊神雷部隊桜花隊」の名称で発表。
 同年六月二十二日、第十回神雷「桜花」特別攻撃隊出撃(「桜花」四機、陸上攻撃機四機)。

 「桜花」関係の戦死者は三百人を超えました。
 「桜花」特別攻撃の「戦果」は、駆逐艦「マンナート・L・エーブル」(「桜花」に突撃された時すでに航空特別攻撃により損傷していました)を一隻撃沈し、数隻に損害を及ぼしたに過ぎませんでした。

 ●千葉県にも「桜花」の遺跡が…●

 「しんぶん赤旗」日刊紙、二〇〇四年八月二十一日付、南関東のページには「千葉・館山/戦跡保存で全国シンポ/房総の特攻基地跡など見学 」が載りました。
 <第八回戦争遺跡保存全国シンポジウム館山大会が二十日、千葉県で始まりました。初日は戦争遺跡を見学するフィールドワークが行われ、関東や沖縄、韓国などから百人以上が参加。茂原市の掩体壕(えんたいごう)群や、夷隅町、大原町に残る特攻基地跡などを見学しました。
 ……
 夷隅町に残る特攻機「桜花」基地跡は、草深い山奥に暗い口を開けていました。「桜花」は敵艦隊に体当たりするグライダー型「人間爆弾」で、本土決戦を想定していました。同基地跡は勤労奉仕でかりだされた住民が掘ったという証言もあります。
 参加者はツルハシの跡が残る壁面を触れ、「大本営は逃げる場所、特攻基地は死ぬ場所だ」と話していました。>

 次のような記事もありました。
 <(千葉県)内陸部の安房郡三芳村には特攻兵器「桜花」の基地があった。「桜花」といえば、大型攻撃機の腹に抱きかかえられ、目標近くで切り放される人間爆弾である。大戦末期には南房総の山中からカタパルト(射出機)で射ち出して、ロケット噴射で山を越え沖合の艦船に人間もろとも突入させようとしたのである。>(「しんぶん赤旗」日刊紙、一九九五年一月二十七日付、「朝の風 五十年後のフィールドワーク」、筆者「春」)。

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