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2005年5月

2005.05.02

シランは飛行中。

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 飛んでいる シランのさまを 撮り終えて
 「よくやったぞ」と
 自分をほめてる

 二〇〇五年五月一日午前、東京都国分寺市の殿ヶ谷戸庭園でシランを撮りました。

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2005.05.03

美しさを、どう文字で表現すればいいか。

 「美しさを、どう文字で表現すればいいか」。
 最近、ずーっと、このことを考えています。
 たとえば、タイサンボク(泰山木)の花の美しさです。
 モクレン科 モクレン属の常緑高木。
 原産地は、北アメリカ。
 五月から六月にかけて、次々と大輪の花を咲かせます。
 花は高い木の梢(こずえ)に上向きに咲きます。
 などと、データを並べてみても、「伝わらない」。
 そんなとき、加賀乙彦さんの小説『永遠の都 5 迷宮』に、こんな表現をみつけました。
 「泰山木を見上げる。真白に形よく出来上がった花弁には黄の模様がつき、さかんに芳香を発していた」
 う-ん、いいですねー。
 少し、いろんな本を読みあさって「賛美の表現」を研究してみようと思っています。
 美しいもの、美しい心には、美しい文字の表現をもってむくいてあげたいから…。

 二〇〇五年五月三日夜、憲法記念日の夜に。

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2005.05.04

ムサシノキスゲの盛りの一花

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 昨日の 輝きしかと たたみこみ
 盛りの一花(ひとはな)
 ムサシノキスゲ

 二〇〇五年五月四日。休み。午後三時までは「自分の時間」です。
 午前中から例によって東京都府中市の浅間山(せんげんやま)へ。
 ムサシノキスゲが、あちこちに咲いていました。

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キンランが満開になっています。

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 「この花は つぼみのほうが 綺麗よね」
 満開キンラン
 つむじ曲げてる

 二〇〇五年五月四日。東京都府中市の浅間山(せんげんやま)。
 もう一つのお目当てはキンラン。
 あちこちに咲いていました。
 ことしは例年より多いかもしれません。

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ニセアカシアは、いま風の中。

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 「やすやすと 撮らせてなんか あげないわ」
 ニセアカシアは
 いま風の中

 二〇〇五年五月四日。東京都府中市の浅間山(せんげんやま)。
 多磨霊園へのつり橋の所にニセアカシアが咲いていました。
 アップで撮ろうしました。しかし、強い風にザワワと揺れて、なかなか撮れませんでした。

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2005.05.05

ボタンの花は胸張って咲く。

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 「私ほど 美女はいないわ」
 それぞれに
 ボタンの花は 胸張って咲く

 二〇〇五年五月五日。
 仕事が午前中にかたづいたので、午後からは休み。妻に電話して「遊ぼ!」。
 結局、東京都小平市中島町二一の一、東京都薬用植物園にいくことになりました。
 満開のボタンが迎えてくれました。

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ヒトツバタゴの枝の薄雪。

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 高木に 「薄雪」いただき
 薫風に 揺れに揺れてる
 ヒトツバタゴは

 二〇〇五年五月五日。
 東京都小平市中島町二一の一、東京都薬用植物園。
 うれしかったのはヒトツバタゴの花に出合えたことです。
 ヒトツバタゴは、モクセイ科ヒトツバタゴ属の落葉高木です。
 別名、ナンジャモンジャ。

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クロユリといえば「黒百合の歌」。

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 クロユリを
 見ればたちまち 口をつく
 小学時代の 熱愛の歌

 二〇〇五年五月五日。
 東京都小平市中島町二一の一、東京都東京都薬用植物園。
 クロユリが咲いていました。
 クロユリといえば、瞬時に「♪黒百合は 恋の花…」ときます。
 「黒百合の歌」(作詞・菊田一夫、作曲・古関裕而)が頭に浮かびます。

 一、黒百合は 恋の花
   愛する人に 捧げれば
   二人はいつかは 結びつく
   ああ あああああ あああああああ
   この花ニシパに あげようか
   あたしはニシパが 大好きさ

 二、黒百合は 魔物だよ
   花の香りが 沁み付いて
   結んだ二人は 離れない
   ああ あああああ あああああああ
   あたしが死んだら ニシパもね
   あたしはニシパが 大好きさ

 三、黒百合は 毒の花
   アイヌの神の タブーだよ
   やがてはあたしも 死ぬんだよ
   ああ あああああ あああああああ
   ああああ ああああ あああああ
   ああああ ああああ  あああ あああ

 一九五四年、僕が小学校の低学年だったころ、織井茂子さんが歌いました。ラジオで、よく聞きました。
 NHKラジオのドラマ「君の名は」の主題歌の一つです。
 クロユリ、本州中北部の高山帯や亜高山帯の草地に見られます。
 北海道では平地の林内や平地に自生しているといいます。

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「母の日」プレゼントは、ブーゲンビリア。

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 二〇〇五年五月五日。
 東京都小平市中島町二一の一、東京都薬用植物園の近くの花屋で、妻と二人で、妻の母への「母の日」プレゼントを選びました。
 ブーゲンビリアの鉢にしました。

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屋根にレンゲ畑のあるライブハウス。

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 二〇〇五年五月五日。
 東京都小平市中島町二一の一、東京都東京都薬用植物園の近くの花屋で妻と別れて、僕は玉川上水沿いに玉川上水駅方面に散歩。
 途中、屋根にレンゲ畑のあるライブハウスがありました。
 ロバハウス(立川市幸町六の二二の三二)です。
 この日は、「谷川俊太郎+谷川賢作+ロバの音楽座」でした。
 三十分過ぎていましたが、入りました。
 最後に、「いつでも何度でも」の木村弓(きむら・ゆみ)さんが歌いました。
 うーん、うっとり。

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2005.05.09

アマリリスを見たよ。

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 二〇〇五年五月七日午後二時。泊まり明けの仕事を終えて、休み中の妻に電話。「出てこんかえ」。
 結局、東京都の新宿御苑で待ちあわせて、午後四時半にここがしまったら、新宿で映画をみようということになりました。
 妻のくるまでに新宿御苑の温室にいきました。
 アマリリスがきれいに咲いていました。(写真)
 周りの光を吸収し、その光を周りに放つような花ですね。

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オオモミジのプロペラ。

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二〇〇五年五月七日午後。東京都の新宿御苑で妻と会いました。
 二人で不思議なものに出合いました。オオモミジの木の桃色のプロペラのようなものです。(写真)
 どうも、この中に実が入っていて、プロペラのように回って、遠くへ飛んでいくようです。

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「うめぼしのうた」???

  「うめぼしのうた」というのが、あるそうです。

 で、ネットをさまよってみましたが、しかとは、その実体がわかりません。
 「梅干しの歌」
 「梅干しの詩」
 など、表記もさまざまです。
 どうも、こんな歌のようです。

 二月・三月花ざかり
 ウグイス鳴いた春の日の
 楽しい時も夢のうち

 五月・六月実が成れば
 枝からふるい落とされ
 近所の町へ持ち出され
 何弁何合量り売り
 もとよりすっぱいこの私
 塩に漬かってからくなり
 シソに染まって赤くなり

 七月・八月暑いころ
 三日三晩の土用干し
 思えば辛いことばかり
 それでも世のため人のため
 しわは寄っても若い気で
 小さい君等の仲間入り
 運動会にもついてゆく
 ましていくさのその時に
 なくてはならない
 このわたし

 九月・十月秋の日々
 山はもみじやかえでが色づいて
 里の庭々秋の声
 ふたたび仲間は
 おにぎりやシソに
 巻かれて旅に出る
 わたしはさびしく樽の中

 十一月・十二この月に
 山には雪がちらちらと
 里には木枯らし吹き荒れて
 庭ではペッタンペッタン餅をつき
 樽の中ではブルブルと
 私はふるえて年を越し

 正月元旦年明けて
 書き初め 羽根つき
 コマまわし
 家で家族が笑顔で雑煮たべ
 梅のがふくらんで
 花の香りを待ちながら
 私は樽の中より
 おめでとう

 どうも「ましていくさのその時に/なくてはならない/このわたし」がいいたいようです。

 ネットでは、こんな記事もありました。

 1873年【明治6年】
 徴兵令が発布。施行とともに軍需用に梅干の需要が伸びる。
 1904年【明治37年】
 二月に日露戦争が始まり、軍需品として梅干の需要が伸びる。
「日の丸弁当」はこの頃生まれた言葉。
 1910年【明治43年】
 尋常小学校の国語教科書に「梅干の歌」が記載。
 1937年【昭和12年】
 七月に盧溝橋事件が勃発し、日中戦争が始まる。軍需用梅干の需要拡大。

 「尋常小学校の国語教科書」を探し出して、正確な詩の内容、作者、背景などを書き込みたいと思っています。

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2005.05.10

シロツメグサいっぱいの野原

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 二〇〇五年五月十日。休み。
 朝から娘、その四歳の娘・エミ、一歳の娘・ユリと東京都三多摩の神代植物公園隣の自由広場へ。エミの幼稚園の遠足です。僕は、写真係、ユリ係。
 花の収穫は、そこいらじゅうに咲いていたシロツメグサ(白詰草)です。(写真)
 マメ科シャジクソウ属。別名は、ワイトクローバー、オランダゲンゲ。

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キリの花が落ちる音。

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 「ポットン」と 
 キリの一花 落ちる音
 聞いてしまった 大木の下
 
 二〇〇五年五月十日、
東京都三多摩の神代植物公園隣の自由広場から帰って国分寺市東元町二の六の生産緑地のキリの花を撮りました。
 ことしは、いい時期に出合えました。

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2005.05.17

マンジュシャゲの球根のまんじゅう

 二〇〇五年五月十三日、十四日が休みになり、ぽんと高知県にいきました。
 僕の高校一年生のときの数学の先生の妹さんに会うためです。
 十三日午後から夕方にかけて、じっくりと戦中、戦後の体験を聞かせていただきました。
 そのなかにマンジュシャゲの球根を食べた話がありました。
 その前に、少し前置きをします。
 彼女は、一九四五年八月の終戦後、高知県中村の高知県立中村高等女学校に入りました。
 四六年十二月二十一日の南海大地震(マグニチュード八・一)で中村高等女学校の校舎、白藤寮、コンクリート塀が大破しました。
 四七年、六・三制実施で高知県立中村高等女学校が、高知県立中村女子高等学校となりました。併設中学校設置しました。
 四八年、新学制実施により高知県立中村女子高等学校として発足しました。
 彼女のマンジュシャゲの話は、併設中学校のあったころだったといいます。
 とにかく食糧難の時代でした。
 教師に「マンジュシャゲの球根を集めてきなさい」といわれ、生徒たちでマンジュシャゲの球根を採りにいきました。
 球根は、粉にして、まんじゅうのように握ってふかしました。
 「これがマンジュシャゲの球根のおなんじゅうよ」と、いわれました。
 陶器のようにつるつるした感じのまんじゅうでした。
 食べました。
 しかし、そのまずいこと、まずいこと。「これだけは、なんともいただけなかった」と、彼女は述懐していました。
 マンジュシャゲには、リコリンという毒があります。特に球根の部分は毒性が強く、口にすると吐き気や、下痢、中枢神経の麻痺を起こし、死に至ることもあります。
 しかし、リコリンは水によく溶けるので、
球根をすりつぶし、よく水にさらして毒抜きすることで良質のデンプンを得ることができます。
 彼女たちが、マンジュシャゲの球根で、おまんじゅうをつくるときにも、きっと、球根をすりつぶし、よく水にさらして毒抜きするという工程があったことでしょう。
 僕の生まれたのは一九四七年二月二十三日。マンジュシャゲの球根のおまんじゅうのころでした。

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2005.05.21

柿の花、初めて気がつきました。

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 二〇〇五年五月二十日。
 いい月が出ていました。夜中に帰ったら高知県いの町の弟が着いていました。
 「庭の柿に花が咲いている」
 翌朝見たら、「なるほど」。
 緑っぽい花です。(写真)
 初めて見ました。

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キンケイギクたちが、そよいでいました。

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 二〇〇五年五月二十一日。休み。
 弟に手伝ってもらって、故障中の古いオートバイをバイク店に持っていきました。
 そして、東京農工大学構内を散歩。
 キンケイギクが奇麗でした。
 家に帰って玄関の前の一畳くらいのスペースに花壇をつくりました。
 新しくハイビスカス三本とキイチゴを三本植えました。

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息子の描いた「反戦」ポスター。

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 二〇〇五年五月二十一日。
 あすは三十歳の息子の結婚パーティー。
 掃除をしていたら彼の中学二年生のときの絵がでてきました。
 「反戦」のポスターです。
 当時の彼のお得意の主人公が、軍艦、戦車、ミサイルなどを封じ込めています。(写真)
 うーん、すごい。傑作です。

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2005.05.22

わが家の花壇のハイビスカスの花。

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 二〇〇五年五月二十二日朝。
 昨日つくった、わが家の花壇にハイビスカスの花が咲きました。

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2005.05.23

ダイズとペリー提督との関係。

 二〇〇五年五月二十四日、上京していた弟が高知に帰りました。

 上京中、彼とトウフの話をしていてダイズの話になりました。
 そのとき、彼から「ダイズは日本固有のもの、ペリーの……」という話を聞いて、「へーっ。ダイズは日本の……」。

 インターネットで調べてみました。

 中央農業総合研究センターのホームページ。
 <ダイズ 大豆
 [ 花 ]
 英名: soybean
 科名: マメ科
 学名: glycin max Merrill
 種類: 豆類食用、飼料、油料
 起源
 原産地は中国東北部と考えられ,約5千年前には存在していた.わが国へは約2千年前に渡来したと推定されている.
 作物的特徴
 1年生の種子繁殖作物で,短日性でその程度により生態型が区分される.約40%の蛋白質と約20%の脂肪を含み世界的に重要な油料及び蛋白資源である.
 用 途
 国産大豆は主に豆腐,納豆,味噌,煮豆などの食品に用いられている.このほか枝豆として利用される.わが国の大豆の消費量の約82%は油であるが,これは目下のところ輸入品で賄われている.
 生産地
 世界の総生産量約9千万トンのうち6割以上をアメリカで生産し,次いでブラジル,中国の生産が多い.わが国では水田転換畑における基幹的な作物になっているが,自給率は5%に過ぎない.>

 キッコーマンの一九九三年元日の新聞広告から。
 <……いま、全世界の大豆の約1/2は米国産ですが、その先祖は日本から行った品種です。でもそれは、いつ、どうやって、渡っていったのでしょうか。もっとも、有力視されている説はこうです。
 ペリー提督が蒸気船で江戸にやってきたとき、その掃りに大豆を積んでいっ帰った、というもの。一八五四年、……ペリー提督は日本の大豆二品種をサンプルとして船に積み、アメリカヘ帰国します。そして、これを「ソヤ・ビーン」として(ソヤ、またはソイ、とは英語でしょうゆのこと)つまり、しょうゆ豆という名で役所に提出。これが各地に配られて、本格的な栽培がばじまった、というのです。(大豆供給安定協会の資科による)アメリカ中西部で、大豆が飛躍的な増産に入るのは一九二〇年以降ですが、いまでは世界最大の大豆王国アメリカに成長しました。……>

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2005.05.27

朝風呂に入って「新品」になる。

 二〇〇五年五月二十七日。

 二十五日は朝八時から千葉県までいき、職場にいってから泊まり勤務。家に帰ったのは二十六日午後四時。
 ベッドに寝転んでDVDで韓国の映画を見始めましたが途中でダウン。
 朝起きたら、だるい、腰が痛い。妻に腰をもんでもらい少し楽になりました。
 さーて、風呂。そして、髪を洗って、シャワー。
 やっと生き返りました。風呂に入って、シャワーをして…で、やっと新品になった感じになります。
 本日は休日。たまたま妻も休みです。思いっきり遊ばなくては……。

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2005.05.28

ヤマホウシが奇麗です。

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 二〇〇五年五月二十七日、夫婦して休み。
 二人で「お出かけ」のときに、東京都国分寺市の都営東元町一丁目アパートで見たヤマホウシです。

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ホウセンカの種をまきました。

 二〇〇五年五月二十八日朝。
 前日に買ってきたホウセンカの種を「小さな花壇」にまきました。
 さて、咲いてくれるでしょうか。

 さて、出発。本日は仕事で神奈川県にでかけます。

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2005.05.30

太平洋戦争のとき、花作りが禁止されました。

 二〇〇五年五月二十九日夜、『あわ・がいど ① 戦争遺跡 南房総の傷跡をみる。』(NPO法人南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム)を読んでいて、「えーっ!」と思わず声をあげました。
 こんな記述があったからです。
 <花作り禁止令
 花栽培が盛んだった(千葉県の)南房総であるが、戦局(せんきょく)の悪化にともない、食糧物資が乏しくなったことで、食糧生産が一番の目標とされ、農作物の作付(さくつ)け割当(わりあて)が強制された。そのため千葉県と長野県では、花を禁止作物に指定したので、花づくりの農家は壊滅的(かいめつてき)な打撃をうけた。戦争末期、7万人の兵士が配置されていた房総南部では食糧供給優先のため、花作りに対する取り締まりが一層厳しくなっていた。花の苗(なえ)は焼却(しょうきゃく)し、栽培中の花は全部抜き取ることを命じられ、花をつくる農民は「国賊(こくぞく)」といわれたという。青年団などが畑や納屋(なや)を監視(かんし)し、花畑はサツマイモと麦畑に変えられていった。>

 このことについて、少し調べてみました。

 一九九一年八月十一日付、朝日新聞朝刊に「花栽培禁止令(46年目の戦跡 語りかける歴史:8) 千葉」が載りました。
 <花栽培禁止令。
 史実に当たってみようと、千葉市の県庁そばの県文書館を訪ねた。
 書庫に保存してある古い県報の中に、「農地作付統制細則」があった。日付は1941年12月12日。スイカ、落花生などと一緒に、「花卉(かき)」を不要不急の作物に指定した、とある。
 この時から栽培制限が始まり、43年には一層厳しい禁止令が出て、花作りは出来なくなった。国家総動員法に基づく統制の1つだったという。
 戦後、作家田宮虎彦が女性栽培家を主人公に花禁止令のことを小説「花」にかいている。
 「花」の主人公、枝原ハマのモデル、故川名りんさんの里、和田町を訪ねてみた。黒潮洗う温暖な地で、花の路地栽培農家が多い。長男の武さん(63)が花栽培を引き継ぎ、石で築いた段々畑を守っていた。
 武さんによると、禁止令が南房総まで来るのに時間がかかり、徹底したのは終戦の1年前だった。家に残る、すっかり茶色になった「荷出売上簿」の「昭和19年5月12日」のページには、「ナデヒコ250本、デジー300本、セントランス180本、売上7円、東京生花(市場)」と記され、この日で戦争中の記載は終わっている。
 禁止令が出ると農家は苗を抜き取り、浜で焼いたり山奥へ持って行って埋めたりした。ハマさんが、1キロも山奥の杉林に生けた水仙、アイリスなどが戦後25年間も木の間に自生していた。
 川名家の「荷出売上簿」は終戦から1年半近くたった「昭和22年1月25日」の日付でまた始まる。初日は「エーリカ(木花)16束、小菊110本」売れた。手近の木花や、菊の花が、空襲で焼け出され、荒廃した東京の人たちの心を和ませた。
 花栽培農家を長年指導してきた元県園芸課長の石井寛さん(62)は「当時の農業生産統制令などを読むと、国は(直接、手を下さず)計画樹立、統制品目選びなどを地方長官や市町村長に転嫁している。米の生産調整の時の手法と全く同じ」と話す。>

 一九九九年二月八日付の「読売新聞」に「咲き誇る春は平和の花(和田=千葉)」という千葉県房州の花作り発祥の地、和田町を紹介する記事(浅見恭弘記者)が載っていました。
 <「花はね、自分が死ぬ心配がある時、早く花を咲かすもんです。ここは傾斜地で雨が降ってもじき土が乾燥するでしょう。南向きで日当たりもよく、冬、花を咲かすのにちょうどいいんですよ」
 切り花栽培業の川名武さん(70)は母、りんさん(故人)とともに、かつて作家・田宮虎彦から房州の花作りについて、何度も何度も詳細な取材を受けた。りんさんは、房州で花作りを始めた先駆者、間宮七郎平に直接薫陶を受け、戦前から栽培に取り組んだ女性。
 大戦末期、食料にならない花の栽培が禁止されたころの苦労話などを材料に創作したのが田宮の小説「花」。この作品のラスト近くでヒロインは、終戦の詔勅を聞いて間もなく、「おれはすぐ花をつくるだ」と叫ぶ。
 きれいな花だな、と当たり前のように喜べるのも、平和があってこそなのだ。>
 和田町までは、東京からJR内房線特急で千倉、または外房線特急で安房鴨川までともに約二時間、両駅から各駅停車で和田浦まで十数分とのことです。
 二〇〇二年六月二十六日付の新聞「農民」(発行・農民運動全国連合会)には、「“有事立法農業版”農水省が具体化 戦時中、禁じられた花作り」という記事が載りました。
 <太平洋に面した段丘に畑が広がる、ここ千葉県安房郡和田町は、「日本の花の露地栽培発祥の地」(産業課)です。戦争になると、この花の産地が一変します。『和田町史』はこう記しています。「昭和16年12月、太平洋戦争に入ると同時に、全国各府県で花きは制限作物として、食糧に切換えとなりました。千葉、長野の二県は花きを禁止作物として制定したため、これを作る者は非国民といわれ、ほとんど終息しました。このような状況下、種を保存しようとした一農婦がいました……」
 この一農婦は、和田町真浦の川名武さん(73)の母親、りんさんです。田宮虎彦の小説『花』の主人公のモデルにもなりました。
 「母は、スイセンの球根を掘り出し、わざわざ一キロほど離れた杉山に持っていって捨てていました。焼いてしまうには忍びなかったのでしょう」
 終戦後、スイセンは杉山の日陰の中で咲いていました。それを目にした母が「ここへ捨てておいたからなあ」と、うれしそうにつぶやくのを川名さんは耳にします。
 「そこなら人目につかない。それに、球根も生きているにちがいない。また花を作れるようになる。そう信じていたようです」
 川名さんの家は当時、農業のかたわら父親は漁師を、母は冬になると魚の加工場で働いていました。寒い吹きっさらしのところで魚を開く作業で、腰から下は冷え切り、手もかじかんで包丁さえ握れません。
 「ほかに何か仕事はないか」。そう考えて訪ねたのが、花作りの先駆者、間宮七郎平さんでした。
 しかし、りんさんの実の母でさえ「食われもしないものを植えて、何するんだ」と、畑を貸そうとしません。近所の人も「あんなものを畑に植えて」と、笑いものにしたそうです。
 ところが、畑の隅に植えたキンセンカが、売れました。「魚の開き」作業より、収入はよかった、といいます。
 花作りはたちまち広がり、新しい駅も開業して、大正十二年には三十一人で和田浦生花組合を結成するまでになります。出荷最盛期には臨時貨物列車も走り、通常でも普通列車に花き専用貨車が連結されるほどでした。
 和田町の畑という畑は、花で埋められました。校長の月給が百円という時代で、年間の売り上げは一軒当たり四千円くらいになっていました。それが、「食用でない」からと、普通作畑に転換させられたのです。花作り農民は、一瞬にして現金収入の道を断たれました。
 「私は子どものころから花の中で育ってきました。いまでいう小学校を卒業してからは、畑を手伝いながら農学校に通っていました。花き栽培の教科書も買ったのに、食糧増産の役に立たないからと、その授業は一日もありませんでした」と、川名さん。
 ………>

 いろんなホームページを見ていると、どうも、これは千葉県、長野県だけのことではないように思えてきました。

 東京都中央卸売市場のホームページに、こんなことが書かれてありました。
 <昭和6年から昭和20年までは、満州事変(昭和6年9月)、日中戦争(昭和12年7月)、太平洋戦争(昭和16年12月)が起こり、日本は戦争に突入した暗い時代で、食糧増産の要請が強まり、それとともに花きの生産資材の入手が困難となり、花きの生産が減少した。特に、昭和16年9月不要不急作物付制限規則が施行されてから花きも統制を受けたので、花き卸売市場は休業状態に追いこまれたものと思われる。
 昭和25年になると、戦争中の経済統制規則が全面的に解除され、花きの生産は平和産業の一つとしてさかんになり、花き卸売市場に活気がみなぎるようになった。>

 株式会社フラワーオークションジャパンのホームページの花の文化史の年表の一九四一年の項に、こんな記述がありました。
 <花き生産は非国民とされ、温室は光るため取り壊される。>

 財団法人地域活性化センターの「伝えたいふるさとの100話」というサイトに「富山県(砺波市(となみし)) 戦時中も密(ひそ)かに守り育てたチューリップの原種で夢を咲かせる 水野豊造(みずのぶんぞう)」という話が載っていました。
 <村の若者の多くが農閑期(のうかんき)(農作業のひまなとき)になると、土木工事などの出稼ぎで現金収入を得ているなか、家計も苦しく、生まれつき体が弱かった水野豊造(みずのぶんぞう)は、家で小菊や牡丹(ぼたん)の栽培、養鶏(ようけい)、畳(たたみ)替えなどをして収入を得ていました。
 「出稼ぎだけに頼っていては、いつまでたっても農家の暮らしはよくならん。農民は農業でもうけてこそ本物だ。農業をすることで、きっと出稼ぎ以上の働きをしてみせるぞ」
 豊造の農業に生きるという決意は固く、小学校六年を卒業してから夜学の農業補習学校へ通い、農事講習会には必ず出かけていました。豊造は周りの悪口など一向に気にもとめず、相変わらず好きな花を植え、野菜や苺(いちご)を育てていました。
 大正七年(一九一八年)夏。豊造は、種や苗を専門につくっているところから送られたカタログを見て、チューリップという花を初めて知りました。
 「値段は高いがきれいな花のようだ。ひとつ試しにつくってみるか」
 翌年四月、山にはまだ残雪が見られるころ、畑のすみに植えられたチューリップが、真っ赤なかわいらしい花を付けました。さっそく豊造が切り花を朝市へ持っていくと、大変めずらしがられ一本五銭(せん)というびっくりするほどの高い値段で売れました。
 喜んだ豊造は、毎年のように球根を買い入れ、チューリップの花を咲かせ、チューリップ栽培への思いをますます強くしました。
 そんなある年の六月、豊造は、花の咲かなかった株や花の傷んだ株を掘り起こしてみてびっくりしました。見事な球根ができていたのです。
 「これは不思議だ。東京から買ったものより立派な球根もあるぞ。これなら、球根を増やして球根を売ったほうがよいかもしれん」
 豊造は、チューリップの球根づくりについていろいろ調べて、水田の裏作(うらさく)でも球根栽培ができることを発見しました。砺波地方(となみちほう)の冬の厳しい寒さと雪が球根を一定の状態に保ち、比較的晴天の続く春がチューリップの花をいっせいに開かせる大切な条件になっていたことが分かったのです。農家に願ってもない仕事が見つかりました。
 花よりも球根を売ってもうけ始めた豊造に、村人たちも次第にまじめな目を向け始めました。そして、本格的なチューリップの球根生産に取りかかった豊造は、大正十三年(一九二四年)に仲間たち一三人とともに球根栽培の組合をつくり、生産の拡大に努めました。
 昭和二年(一九二七年)、新潟県ではチューリップ球根のアメリカに向けた輸出を始めます。それを知った豊造は富山でも何とか輸出したいと考えるようになりました。「富山の球根を世界へ」との豊造の夢はふくらみます。
 昭和十三年(一九三八年)、豊造は初めてアメリカへ球根三万球を輸出することができました。しかし、評価は厳しいものでした。
 豊造はチューリップの本場オランダから、五四品種一万球の種球を輸入して栽培し、昭和十五年(一九四〇年)夏、再びアメリカ向けに四○万球を輸出して待望の夢を果たします。
 こうしてようやく順調になった栽培でしたが、昭和十六年(一九四一年)太平洋戦争が起こり、球根の輸出が突然できなくなってしまいました。さらに、日本では主食以外の作物の栽培が禁止されました。花の栽培は非国民のやることだと非難されたのです。
 「一人一品種でもいい。畑の片すみに原種を育て守ろうではないか。またつくれる日がきっと来るはずだ」
 豊造たちは毎年畑のすみにこっそり球根を植え、花の栽培を続けました。目立たないようにつぼみのうちに花をつむなどの苦労をしながら、一五〇の品種を守り続けたのです。
 長い戦争が終わり、豊造はさっそく球根生産の立て直しにかかりました。チューリップのこととなると、自分の家のことを忘れて駆け回り、栽培農家を引っ張っていく豊造を「人間機関車」と呼ぶ人もいました。その後も品種の改良に熱心に取り組み、昭和二十五年(一九五〇年)に栽培法について書いた「チューリップ栽培法」という本を発刊し、組合活動とともにチューリップの栽培普及に努めたのです。
 「どんな花が咲くか来春でなければ分からない球根を売っているということは、信用を売っていることになる。だから誰々の畑のチューリップではなく、富山のチューリップをすべてよくしなくては」
 生涯をチューリップ栽培に注いだ豊造の言葉は、今も富山県砺波地方で栽培を続ける人たちの心のなかに生きています。>

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2005.05.31

ハイビスカスは雨を得て輝く。

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 雨を得て ハイビスカスが 輝いて
 「元気になって」と
 歌っているよ

 二〇〇五年五月三十日。
 風邪をひいてダウン。
 寝巻きのまま庭にでると、黄色のハイビスカスが奇麗でした。
 種をまいたばかりのホウセンカの芽がいくつも出ていました。

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