« ホウセンカの種をまきました。 | トップページ | ハイビスカスは雨を得て輝く。 »

2005.05.30

太平洋戦争のとき、花作りが禁止されました。

 二〇〇五年五月二十九日夜、『あわ・がいど ① 戦争遺跡 南房総の傷跡をみる。』(NPO法人南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム)を読んでいて、「えーっ!」と思わず声をあげました。
 こんな記述があったからです。
 <花作り禁止令
 花栽培が盛んだった(千葉県の)南房総であるが、戦局(せんきょく)の悪化にともない、食糧物資が乏しくなったことで、食糧生産が一番の目標とされ、農作物の作付(さくつ)け割当(わりあて)が強制された。そのため千葉県と長野県では、花を禁止作物に指定したので、花づくりの農家は壊滅的(かいめつてき)な打撃をうけた。戦争末期、7万人の兵士が配置されていた房総南部では食糧供給優先のため、花作りに対する取り締まりが一層厳しくなっていた。花の苗(なえ)は焼却(しょうきゃく)し、栽培中の花は全部抜き取ることを命じられ、花をつくる農民は「国賊(こくぞく)」といわれたという。青年団などが畑や納屋(なや)を監視(かんし)し、花畑はサツマイモと麦畑に変えられていった。>

 このことについて、少し調べてみました。

 一九九一年八月十一日付、朝日新聞朝刊に「花栽培禁止令(46年目の戦跡 語りかける歴史:8) 千葉」が載りました。
 <花栽培禁止令。
 史実に当たってみようと、千葉市の県庁そばの県文書館を訪ねた。
 書庫に保存してある古い県報の中に、「農地作付統制細則」があった。日付は1941年12月12日。スイカ、落花生などと一緒に、「花卉(かき)」を不要不急の作物に指定した、とある。
 この時から栽培制限が始まり、43年には一層厳しい禁止令が出て、花作りは出来なくなった。国家総動員法に基づく統制の1つだったという。
 戦後、作家田宮虎彦が女性栽培家を主人公に花禁止令のことを小説「花」にかいている。
 「花」の主人公、枝原ハマのモデル、故川名りんさんの里、和田町を訪ねてみた。黒潮洗う温暖な地で、花の路地栽培農家が多い。長男の武さん(63)が花栽培を引き継ぎ、石で築いた段々畑を守っていた。
 武さんによると、禁止令が南房総まで来るのに時間がかかり、徹底したのは終戦の1年前だった。家に残る、すっかり茶色になった「荷出売上簿」の「昭和19年5月12日」のページには、「ナデヒコ250本、デジー300本、セントランス180本、売上7円、東京生花(市場)」と記され、この日で戦争中の記載は終わっている。
 禁止令が出ると農家は苗を抜き取り、浜で焼いたり山奥へ持って行って埋めたりした。ハマさんが、1キロも山奥の杉林に生けた水仙、アイリスなどが戦後25年間も木の間に自生していた。
 川名家の「荷出売上簿」は終戦から1年半近くたった「昭和22年1月25日」の日付でまた始まる。初日は「エーリカ(木花)16束、小菊110本」売れた。手近の木花や、菊の花が、空襲で焼け出され、荒廃した東京の人たちの心を和ませた。
 花栽培農家を長年指導してきた元県園芸課長の石井寛さん(62)は「当時の農業生産統制令などを読むと、国は(直接、手を下さず)計画樹立、統制品目選びなどを地方長官や市町村長に転嫁している。米の生産調整の時の手法と全く同じ」と話す。>

 一九九九年二月八日付の「読売新聞」に「咲き誇る春は平和の花(和田=千葉)」という千葉県房州の花作り発祥の地、和田町を紹介する記事(浅見恭弘記者)が載っていました。
 <「花はね、自分が死ぬ心配がある時、早く花を咲かすもんです。ここは傾斜地で雨が降ってもじき土が乾燥するでしょう。南向きで日当たりもよく、冬、花を咲かすのにちょうどいいんですよ」
 切り花栽培業の川名武さん(70)は母、りんさん(故人)とともに、かつて作家・田宮虎彦から房州の花作りについて、何度も何度も詳細な取材を受けた。りんさんは、房州で花作りを始めた先駆者、間宮七郎平に直接薫陶を受け、戦前から栽培に取り組んだ女性。
 大戦末期、食料にならない花の栽培が禁止されたころの苦労話などを材料に創作したのが田宮の小説「花」。この作品のラスト近くでヒロインは、終戦の詔勅を聞いて間もなく、「おれはすぐ花をつくるだ」と叫ぶ。
 きれいな花だな、と当たり前のように喜べるのも、平和があってこそなのだ。>
 和田町までは、東京からJR内房線特急で千倉、または外房線特急で安房鴨川までともに約二時間、両駅から各駅停車で和田浦まで十数分とのことです。
 二〇〇二年六月二十六日付の新聞「農民」(発行・農民運動全国連合会)には、「“有事立法農業版”農水省が具体化 戦時中、禁じられた花作り」という記事が載りました。
 <太平洋に面した段丘に畑が広がる、ここ千葉県安房郡和田町は、「日本の花の露地栽培発祥の地」(産業課)です。戦争になると、この花の産地が一変します。『和田町史』はこう記しています。「昭和16年12月、太平洋戦争に入ると同時に、全国各府県で花きは制限作物として、食糧に切換えとなりました。千葉、長野の二県は花きを禁止作物として制定したため、これを作る者は非国民といわれ、ほとんど終息しました。このような状況下、種を保存しようとした一農婦がいました……」
 この一農婦は、和田町真浦の川名武さん(73)の母親、りんさんです。田宮虎彦の小説『花』の主人公のモデルにもなりました。
 「母は、スイセンの球根を掘り出し、わざわざ一キロほど離れた杉山に持っていって捨てていました。焼いてしまうには忍びなかったのでしょう」
 終戦後、スイセンは杉山の日陰の中で咲いていました。それを目にした母が「ここへ捨てておいたからなあ」と、うれしそうにつぶやくのを川名さんは耳にします。
 「そこなら人目につかない。それに、球根も生きているにちがいない。また花を作れるようになる。そう信じていたようです」
 川名さんの家は当時、農業のかたわら父親は漁師を、母は冬になると魚の加工場で働いていました。寒い吹きっさらしのところで魚を開く作業で、腰から下は冷え切り、手もかじかんで包丁さえ握れません。
 「ほかに何か仕事はないか」。そう考えて訪ねたのが、花作りの先駆者、間宮七郎平さんでした。
 しかし、りんさんの実の母でさえ「食われもしないものを植えて、何するんだ」と、畑を貸そうとしません。近所の人も「あんなものを畑に植えて」と、笑いものにしたそうです。
 ところが、畑の隅に植えたキンセンカが、売れました。「魚の開き」作業より、収入はよかった、といいます。
 花作りはたちまち広がり、新しい駅も開業して、大正十二年には三十一人で和田浦生花組合を結成するまでになります。出荷最盛期には臨時貨物列車も走り、通常でも普通列車に花き専用貨車が連結されるほどでした。
 和田町の畑という畑は、花で埋められました。校長の月給が百円という時代で、年間の売り上げは一軒当たり四千円くらいになっていました。それが、「食用でない」からと、普通作畑に転換させられたのです。花作り農民は、一瞬にして現金収入の道を断たれました。
 「私は子どものころから花の中で育ってきました。いまでいう小学校を卒業してからは、畑を手伝いながら農学校に通っていました。花き栽培の教科書も買ったのに、食糧増産の役に立たないからと、その授業は一日もありませんでした」と、川名さん。
 ………>

 いろんなホームページを見ていると、どうも、これは千葉県、長野県だけのことではないように思えてきました。

 東京都中央卸売市場のホームページに、こんなことが書かれてありました。
 <昭和6年から昭和20年までは、満州事変(昭和6年9月)、日中戦争(昭和12年7月)、太平洋戦争(昭和16年12月)が起こり、日本は戦争に突入した暗い時代で、食糧増産の要請が強まり、それとともに花きの生産資材の入手が困難となり、花きの生産が減少した。特に、昭和16年9月不要不急作物付制限規則が施行されてから花きも統制を受けたので、花き卸売市場は休業状態に追いこまれたものと思われる。
 昭和25年になると、戦争中の経済統制規則が全面的に解除され、花きの生産は平和産業の一つとしてさかんになり、花き卸売市場に活気がみなぎるようになった。>

 株式会社フラワーオークションジャパンのホームページの花の文化史の年表の一九四一年の項に、こんな記述がありました。
 <花き生産は非国民とされ、温室は光るため取り壊される。>

 財団法人地域活性化センターの「伝えたいふるさとの100話」というサイトに「富山県(砺波市(となみし)) 戦時中も密(ひそ)かに守り育てたチューリップの原種で夢を咲かせる 水野豊造(みずのぶんぞう)」という話が載っていました。
 <村の若者の多くが農閑期(のうかんき)(農作業のひまなとき)になると、土木工事などの出稼ぎで現金収入を得ているなか、家計も苦しく、生まれつき体が弱かった水野豊造(みずのぶんぞう)は、家で小菊や牡丹(ぼたん)の栽培、養鶏(ようけい)、畳(たたみ)替えなどをして収入を得ていました。
 「出稼ぎだけに頼っていては、いつまでたっても農家の暮らしはよくならん。農民は農業でもうけてこそ本物だ。農業をすることで、きっと出稼ぎ以上の働きをしてみせるぞ」
 豊造の農業に生きるという決意は固く、小学校六年を卒業してから夜学の農業補習学校へ通い、農事講習会には必ず出かけていました。豊造は周りの悪口など一向に気にもとめず、相変わらず好きな花を植え、野菜や苺(いちご)を育てていました。
 大正七年(一九一八年)夏。豊造は、種や苗を専門につくっているところから送られたカタログを見て、チューリップという花を初めて知りました。
 「値段は高いがきれいな花のようだ。ひとつ試しにつくってみるか」
 翌年四月、山にはまだ残雪が見られるころ、畑のすみに植えられたチューリップが、真っ赤なかわいらしい花を付けました。さっそく豊造が切り花を朝市へ持っていくと、大変めずらしがられ一本五銭(せん)というびっくりするほどの高い値段で売れました。
 喜んだ豊造は、毎年のように球根を買い入れ、チューリップの花を咲かせ、チューリップ栽培への思いをますます強くしました。
 そんなある年の六月、豊造は、花の咲かなかった株や花の傷んだ株を掘り起こしてみてびっくりしました。見事な球根ができていたのです。
 「これは不思議だ。東京から買ったものより立派な球根もあるぞ。これなら、球根を増やして球根を売ったほうがよいかもしれん」
 豊造は、チューリップの球根づくりについていろいろ調べて、水田の裏作(うらさく)でも球根栽培ができることを発見しました。砺波地方(となみちほう)の冬の厳しい寒さと雪が球根を一定の状態に保ち、比較的晴天の続く春がチューリップの花をいっせいに開かせる大切な条件になっていたことが分かったのです。農家に願ってもない仕事が見つかりました。
 花よりも球根を売ってもうけ始めた豊造に、村人たちも次第にまじめな目を向け始めました。そして、本格的なチューリップの球根生産に取りかかった豊造は、大正十三年(一九二四年)に仲間たち一三人とともに球根栽培の組合をつくり、生産の拡大に努めました。
 昭和二年(一九二七年)、新潟県ではチューリップ球根のアメリカに向けた輸出を始めます。それを知った豊造は富山でも何とか輸出したいと考えるようになりました。「富山の球根を世界へ」との豊造の夢はふくらみます。
 昭和十三年(一九三八年)、豊造は初めてアメリカへ球根三万球を輸出することができました。しかし、評価は厳しいものでした。
 豊造はチューリップの本場オランダから、五四品種一万球の種球を輸入して栽培し、昭和十五年(一九四〇年)夏、再びアメリカ向けに四○万球を輸出して待望の夢を果たします。
 こうしてようやく順調になった栽培でしたが、昭和十六年(一九四一年)太平洋戦争が起こり、球根の輸出が突然できなくなってしまいました。さらに、日本では主食以外の作物の栽培が禁止されました。花の栽培は非国民のやることだと非難されたのです。
 「一人一品種でもいい。畑の片すみに原種を育て守ろうではないか。またつくれる日がきっと来るはずだ」
 豊造たちは毎年畑のすみにこっそり球根を植え、花の栽培を続けました。目立たないようにつぼみのうちに花をつむなどの苦労をしながら、一五〇の品種を守り続けたのです。
 長い戦争が終わり、豊造はさっそく球根生産の立て直しにかかりました。チューリップのこととなると、自分の家のことを忘れて駆け回り、栽培農家を引っ張っていく豊造を「人間機関車」と呼ぶ人もいました。その後も品種の改良に熱心に取り組み、昭和二十五年(一九五〇年)に栽培法について書いた「チューリップ栽培法」という本を発刊し、組合活動とともにチューリップの栽培普及に努めたのです。
 「どんな花が咲くか来春でなければ分からない球根を売っているということは、信用を売っていることになる。だから誰々の畑のチューリップではなく、富山のチューリップをすべてよくしなくては」
 生涯をチューリップ栽培に注いだ豊造の言葉は、今も富山県砺波地方で栽培を続ける人たちの心のなかに生きています。>

|

« ホウセンカの種をまきました。 | トップページ | ハイビスカスは雨を得て輝く。 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/30274/4340362

この記事へのトラックバック一覧です: 太平洋戦争のとき、花作りが禁止されました。:

» 間宮 七郎平の最新記事! [情報の最前線]
情報の最前線より気になる情報をご紹介します!抱湖園(ほうこえん)(南房総市)ここは 花の先駆者 間宮七郎平が 山を切り開き 花木を植えて作ったものとのこと。 丁度 桜まつりの最中で 元朝桜と名づけられた桜が 満開だっ... [続きを読む]

受信: 2007.10.06 04:47

« ホウセンカの種をまきました。 | トップページ | ハイビスカスは雨を得て輝く。 »