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2005年11月

2005.11.01

四国、よいとこ 111 高知市 妻が去った後に残したもの…。

 二〇〇五年十月三十日。

 二十八日から高知市にきていた(東京都から)妻が、三十日朝、去っていきました。
 残ったのは彼女が調達してくれた、やぐらごたつと電気ストーブ。
 なんとか冬を迎えられそうです。
 感謝。

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四国、よいとこ 112 「この仕事 一つなしとげ… 」

 二〇〇五年十月三十一日。

 三十日、つぎのような短歌が生まれました。

 この仕事 一つなしとげ 死なんとも
 悔いはないかも
 アクセル吹かす

 三十一日、推敲しました。

 この仕事 なしとげるまで 死ねないな
 夜のバイクの
 スピード落とす

 などなど、いきつもどりつ。
 やっぱり変だけど最初のがいい。僕らしい。

 この日夜九時過ぎ、高知県の十和村(とうわそん)からオートバイで高知市に。
 須崎市の半ばまで信号にひっかからずに走れました。
 すごいことです。
 途中、窪川町で数分の小休止。
 夜空を見上げると「星が大きい!!!」。

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四国、よいとこ 113 高知県十和村 えっ、縄文早期にサヌカイトが、ここに…。

 二〇〇五年十月三十一日。

 話は前後しますが、この日午後、仕事で十和村総合開発センターにいったら、「十川駄馬崎遺跡」の出土物が展示してありました。
 その中の一点に縄文早期の石鏃がありました。
 材料は「香川県産サヌカイト」だそうです。
 香川の物が縄文初期に、どうやって、ここにもたらされたのでしょう。

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2005.11.02

四国、よいとこ 114 「あっ、うーん」と 獣の叫び あげている…

 二〇〇五年十一月一日。

 「あっ、うーん」と 獣の叫び あげている
 パソコン設定
 うまくいかぬ夜

 しくしく。

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四国、よいとこ 115 休日のいらいら…。

 二〇〇五年十一月二日。

 休みでした。
 でも、家で家事をしているといらいら。
 夕方には職場にいって仕事をしてしまいました。

 収穫は帰りに食糧を買い込んできたことです。
 夕食はカツオの刺身をたっぷり食べました。
 そして、キムチも…。
 この二つが最近の僕の好物です。

 夜は、家でDVDでアメリカ映画「きみに読む物語」を見ました。
 三度目でしようか。
 わりとわかりやすい英語なのがいい。

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2005.11.03

総集編 短歌の花だより 早春 

 早春


   フクジュソウの年賀状


 金色が 青空バックに 燃えている
 フクジュソウだよ
 友からメール
   
 このフクジュソウは、高知県大豊町の「福寿草の里」のものだとのことです。
 二〇〇四年一月、愛媛県に住んでいる男性の友人が年賀状代わりにメールで送ってくれました。
 元気な写真です。


   カンギクの輝く黄色の暖かさ


 カンギクの 輝く黄色の 暖かさ
 正月二日の
 庭園初め

 二〇〇五年一月二日午前、東京都国分寺市の殿ヶ谷戸庭園にいきました。
 そこでカンギクと出合いました。


   ロウバイをほめる着ぶくれの妻


 「寒いのに 奇麗に咲いてる」
 ロウバイに 見ほれてほめる
 妻は着ぶくれ

 二〇〇五年一月五日午前から国立大学法人東京大学大学院理学系研究科附属植物園にいきました。
 東京都文京区白山の小石川植物園のことです。
 メンバーは、弟(高知県からやってきていました)、妻、娘、娘の二人の娘の計六人です。
 入口の左手に美しい花が咲いていました。
 シロヤブツバキでした。
そして、カンザクラです。
 メジロが二羽きていました。
 この近くでシーツを敷いて昼食。
 四歳五カ月のエミは、わが弟と走り回り、九カ月のユリは地べたに座り込んでわいわいやっていました。
 下の池のほうにいったら梅園がありました。
 もう咲き始めていました。
 帰ろうとしていたら弟が「あそこに写真を撮っている人がいるから花があるにちがいない」。
 正門の右手です。
 いってみるとソシンロウバイでした。
 短歌は、同月二十三日午後、東京都国分寺市東元町で。


   わらぶきに守られて咲くフユボタン


 わらぶきに 守られて咲く フユボタン
 人全員に
 家が欲しいね

 二〇〇五年一月二十二日午前、東京都国分寺市の殿ケ谷戸庭園で。
 この一月六日から十日までいったフィリピンで朝四時に見た、路上に寝る親子六人の姿を思い起こしました。
 何も敷かず、何もかけていませんでした。


   シナマンサクは寒空の中


 枯れ葉つけ
 黄金の線 開かせて
 シナマンサクは 寒空の中

 二〇〇五年一月二十五日午後、泊まり明け。
 東京都小平市の東京都薬用植物園に。
 黄の枯葉の中に鮮黄色の線状の花が咲いていました。
 シナマンサクでした。
 マンサク科マンサク属です。原産は、中国中部。


   ナノハナの種をまいた日


 ナノハナの 種、ごっそりと 買い込んで
 庭隅にまく
 夏の真夜中

 ご近所の 群れ咲くナノハナ
 目に焼いて
 「よっし、出発」 出勤の道

 青空に ナノハナ入れて 撮っている
 マクロレンズで
 表現できたよ

 二〇〇四年七月二十四日。泊まり明け。帰路に、スーパーマーケットで食料と「寒咲き菜の花」の種を買い込みました。
 種の袋には、こんなコマーシャルが印刷されていました。
 「冬の日ざしの中でまばゆいばかりの黄色い花は 寒さを忘れ、春の訪れをはこんでくれます」
 家に帰り着いてやったことは庭の水まき。そして、庭の隅っこにナノハナの種をまきました。
 いろんな植物を雑然と植え込んだ狭い庭。ここで、いくつかのナノハナが、この冬に花開いてくれることを念じています。
 十月一日は、僕にとって竹久夢二(たけひさ・ゆめじ)との「歴史的な出会い」の日になりました。
 この日、彼が「花の短歌」を「いくつも」詠んでいたことを知ったのです。
 「そんなの常識!!」と陰の声……。
 そのなかで、一番好きになった短歌は

 眼のかぎり 菜の花さいて 蝶(ちょう)まひて 風すこしある 山城の国

 「山城の国」は、今の京都府の南部です。
 この短歌を知って、その美しい風景が目の前に見えるような気がして、背筋がゾクッとするような感動を覚えました。

 夢二の略歴をメモしておきます。
 一八八四年九月十六日、岡山県邑久(おく)郡本庄村に生まれました。本名・茂次郎。
 一八九九年、神戸市の神戸中学校入学。家事都合により八カ月で中退。
 一九〇〇年、一家で福岡県遠賀(おんが)郡八幡村大字枝光に転籍。
 一九〇二年、家出同然に上京。
 同年、早稲田実業学校に入学し、苦学します。
 キリスト教にひかれ、安部磯雄のもとに出入りし、また社会主義に興味を持って平民社(へいみんしゃ)に参加しました。
 一九〇五年、早稲田実業学校本科を卒業し、専攻科へ進みます。
 このころ夢二は、東京・雑司ヶ谷鬼子母神(ぞうしがやきしぼじん)に近い農家に間借りして、平民社の同人で早稲田実業学校の同級生の岡栄二郎と自炊の共同生活をします。
 そこに、赤い箱車を引いての「社会主義東北伝道行商」の旅から帰京した平民社の荒畑寒村(あらはた・かんそん)が寄食しにやってきます。
 「…三人は水とパンだけで過ごす日の多い生活を意に介せず、社会主義実現の空想に耽(ふけ)って奔放な議論をたたかわせてい」ました(『寒村自伝』、荒畑寒村)。
 寒村の紹介で平民社の機関誌『直言』に「コマ絵」をかきます。『寒村自伝』によれば、夢二が、日露戦争の「勝利の悲哀」を「コマ絵」にしたのが、「夢二の作の世に出た最初であろう」ということです。
 同年六月四日付の読売新聞の「日曜文壇」に投書の「可愛いお友達」が初めて活字となります。
 『中学世界』臨時増刊号に投稿したコマ絵「筒井筒」が第一賞入選。初めて夢二の筆名を用います。
 早稲田実業専攻科を中退。投書家時代を終え、画家としてスタートします。
 一九三四年九月一日、信州富士見高原療養所で満五十歳に半月少ない生涯を閉じます。
 二首目は、二〇〇五年四月十九日午前のことです。
 三首目は、同年四月二十五日午後、兵庫県姫路市の新中川橋の近くで。


   セツブンソウの花の小ささ


 本で見て 懸想(けそう)していた 花に会う
 セツブンソウの
 花の小ささ
 
 二〇〇四年二月九日、セツブンソウに出会いました。
 東京都国分寺市のJR国分寺駅南口近くの東京都立殿ヶ谷戸庭園でのことです。
 うわーっ、花は、こんなに小さいのか。直径一センチメートルほどでした。
 図鑑で見て、ぱーっと大きな花だと思っていました。
 実物を見て、ここから僕とセツブンソウの真摯(しんし)なつき合いが始まります。


   コブシは春に先がけて


 寒風に あらがって咲く コブシ花
 さきがけのさま
 りんと示して

 すいーっと ひきよせられて あおぎみる
 コブシの花たち
 青空に舞う

 みずからの 白い花びら 敷き詰めて
 四月のコブシ
 微笑んで咲く

 二〇〇四年四月三十日朝、浅田次郎さんの小説『壬生義人伝(みぶぎじんでん)』を、やっと読み終えました。
 友だちのおすすめの本でした。
 主人公の吉村貫一郎の独白の場面の、こんなせりふが気に入りました。
 「春を先駆けて咲く辛夷(こぶし)の花が、わしは好きでがんす。あの花こは北風に向かって咲ぐ。ほかの花こはみな、陽気が温とうなってからお天道様に向かって咲くのに、真っ白な辛夷の花だけは雪この残る春のかかりに、北さ向いて咲ぐ。……」
 コブシのようにありたいと思います。
 二首目は、二〇〇五年三月三十一日午前に見た東京都国分寺市の東元町三丁目交差点の近くの民家のコブシの花のことです。
 同年四月三日午後。東京都府中市を自転車で走ると、あっちにも、こっちにもコブシの花が咲いていました。


   ボケの花が師走に咲いています


 ボケの花 十二月に 咲いていて
 少しぼけてる
 どうなってるんだ

 二〇〇四年十二月七日午後、出勤途中に<あと一時間余裕がある>ということで、東京都国分寺市の殿ヶ谷戸庭園に寄りました。
 端正な顔立ちをした女性が花をスケッチしていました。
 <あっ、あの花だ。出勤の途中にある理髪店の裏に何日か前から咲いている花だ>
 「なんという花ですか?」
 「ボケじゃぁないんですか」
 ボケは一応知っていました。
 しかし、三月くらいに咲く花なのでボケとは思っていませんでした。
 しかし、そういわれればボケです。
 なぜ、師走に……。


   ミモザは婦人デーの花


 「ミモザはね。婦人デーの 花なのよ」
 写真を示し
 語る女性(ひと)あり

 二〇〇四年五月十八日午後、長く女性の平和運動をやってきたNさん(七十七歳)と喫茶店で話しました。
 週一回、塾で中学生六人に国語を教えているそうです。歌人で女性団体の新聞に短歌エッセイを連載中。写真を撮るのが好きで平和美術展にも出品するといいます。
 花の写真の話になって、彼女は自分の撮ったミモザの写真を見せてくれました。
 ミモザは、小さなポンポンのような黄色の花を房状にたくさんつけます。マメ科です。
 「国際婦人デーの花なのよ」。「へーっ、そうなんですか。知りませんでした」。
 国際婦人デーは、毎年、三月八日です。
 一九〇八年三月八日、アメリカのニューヨークで女性たちがパンと参政権を要求したデモをしました。それに感嘆したドイツの社会主義者クララ・ツェトキンが、一〇年、コペンハーゲンでおこなわれた国際社会主義者会議で、この日を「女性の政治的自由と平等のためにたたかう」記念の日とするよう提唱しました。国際婦人デーの始まりです。
 日本では二三年三月八日、社会主義フェミニスト団体・赤瀾会が初の集会を開催しました。
 インターネットで、ここ数年のニュースを検索してみると、日本では、この国際婦人デーの日、女性たちがミモザの花を胸に飾ってデモをしてるんですね。
 イタリアでは、この日のことをフェスタ・デラ・ドンナ(女性の日)というそうです。この日、男性が女性にミモザの花を贈ります。ですから、この日は「ミモザの日」とも呼ばれています。愛と幸福を呼ぶといわれる、この花を贈られた女性たちは、その一枝を胸や髪に飾り、外食したり、夜遅くまで女友だちとおしゃべりを楽しんだりするそうです。
 二〇〇五年三月十一日、近所の家の庭でミモザが満開になっているのに気づきました。
 一面の黄色。
 一面の黄色。
 サイトを見ていて、三月十一日、フランスのブルターニュのレンヌ在住の市絛三紗(いちじょう・みさ)さんが、プログで、こんなふうに書いているのに出合いました。
 < Feb 16, 2005 もうすぐ春です
 きのうは5ミリくらいの大きさの雹が降りました。真っ白な塊が音をたてながらコロコロところがっていました。でも寒いと思っていても確実に春が近づいています。
 フランスでは春を告げるといわれている花 le mimosa ミモザが満開になりました。1ヶ月ほど前にマルシェで見つけてびっくりしたのですが、それは南仏から運ばれてきたものでした。小ぶりの花束が5ユーロもしていました。それがもう路地でも咲いているのです。黄色の色がなんだかパワーをくれそうです。>
 日本も、もうすぐ桜の花が咲く春です。
 なんだかわくわくしてきますね。
 同年三月二十四日午後、仕事先の東京都練馬区上石神井台二丁目で満開のミモザを見ました。
 青空に映えていい感じでした。


   ヒマラヤユキノシタの紫


 病院の 金網のとこ ひっそりと
 濃い紫の
 花が呼んでた

 しっかりと いくつもの株 根付かせて
 ゆったりと咲く
 ヒマラヤユキノシタ

 蜜たたえ
 師走に咲いてる 春の花
 暖冬告げる ヒマラヤユキノシタ

 二〇〇四年三月十七日、東京都国分寺市東元町の病院の脇に濃い紫色の花が咲いているのに出合いました。「わー、すごい」と、デジタルカメラに撮りました。
 友だちにカメラの映像を見てもらって「この花の名前を知ってるかい」と聞いたら、「私もあまり花の名前を知らないけど、藤原さんって花の名前を知らないんですねー」と、「感心」されてしまいました。
 その花の名前はヒマラヤユキノシタ。ユキノシタ科ベルゲニア属の常緑多年草です。原産地は、アジア東部だそうです。
 同年十二月十九日午前、東元町の民家に、この花が咲いていて写真に撮りました。
 この花は、もう二週間も前から咲いていました。


   アンズの花は雨にうながされて


 催花雨(さいかう)に うながされたか
 わが庭も
 アンズの花が 満開になる

 二〇〇四年三月二十五日のことです。催花雨は「春雨。花の咲き出す頃に降る雨」(『広辞苑』)。
 アンズは、バラ科サクラ属です。原産国は、中国。


   ツバキの花は地にいても…


 赤い色 青空を背に 輝いて
 美形のツバキ
 人を集める

 地にいても 天に向かって 誇らしく
 ツバキの花は
 りんとしている

 なぜかしら ツバキに魅(ひ)かれる
 このごろは
 冬から春への 季節を歩く

 みずからの 花を敷き詰め 咲き誇る
 胸刺すシーン
 ツバキの気迫

 二〇〇四年三月二十八日午後、妻、めいと東京都の新宿御苑を散歩。温室の近くに素晴らしいツバキが咲いていました。その赤の色が輝いているのです。こんなの初めて見ました。
 二〇〇五年一月十九日。出勤の途中、東京都国分寺市東元町でピンクのツバキを見ました。
 同年三月十三日午後から夕方まで東京都小金井市ウオーキング。
 おかげで二万歩を超えました。
 小金井市役所の駐車場のツバキの木の花が奇麗に咲いていました。
 つぼみがたくさんあって、まだしばらく楽しめそうです。
 排気ガスの中、美しく咲き誇るツバキの花たち。
 感激。
 四首目は、二〇〇五年四月十八日、東京都三多摩の東京都立武蔵野公園で。


   ヒヤシンスは「風信子」


 ヒヤシンス 中国語では 風信子
 ギリシャ神話の
 風神知ってか

 二〇〇四年十二月十九日夜中。
 妻が隣りで漢字のパズルにとりつかれています。
 植物の名前の漢字、十八題というのにも挑戦してクリア。
 「風信子」は?
 「ヒヤシンス」だそうです。
 ヒヤシンスは、ユリ科ヒヤシンス属です。
 春先にとても良い香りを漂わせる花です。
 ギリシャ神話では、スパルタの王子ヒアキントスが、風の神ゼフィルスの投げた鉄の輪に当たって死んでしまい、その時流した血から咲いた花として語られています。
 「飛信子」という和名もあります。
 二〇〇五年一月二十五日夕、仕事の帰りに東京都府中市栄町の花屋で、ヒヤシンスの鉢を二つ買ってきました。
 二月になれば花が咲きそうです。
 松浦亜弥さんが「風信子(ヒヤシンス)」という歌をうたっているようですね。


   オオイヌノフグリのライトブルー


 道わきの
 オオイヌノフグリ 見つけたよ
 ライトブルーの 春の訪れ

 地に座り レンズくっつけ 撮っている
 二つ角(つの)持つ
 オオイヌノフグリ花

 オオイヌノフグリは、ゴマノハグサ科クワガタソウ属。
 ヨーロッパ原産の帰化植物です。早春からコバルト色の花を咲かせます。花弁は四枚、雄しべは二本です。
 二〇〇五年三月七日午後、出勤のときの発見です。
 同年年四月八日。休み。午前中からオートバイで東京都三多摩の野川公園へ。
 ずーっとうまくいかないオオイヌノフグリの花の撮影に挑戦しました。


   ジンチョウゲの花、ここにもあった


 街中(じゅう)に ジンチョウゲ花 あったんだ
 わが庭先から
 駅までの道

 二〇〇五年三月七日午後、出勤の道での発見です。
 ジンチョウゲは、ジンチョウゲ科ジンチョウゲ属です。

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総集編 短歌の花だより 春

 春


   オダマキの花に懸想されたよ


 オダマキに 懸想されたか 一日後
 追加の鉢を
 買い込んでいる

 二〇〇五年三月十六日午後、泊まり明け。
 職場の帰りに近所の花屋にいきました。
 「わーっ、すごい」と、いうほど美しい花がありました。
 オダマキでした。
  キンポウゲ科オダマキ属。多年草(耐寒性)。原産地は、日本だそうです(園芸種)。
 翌日夜、また同じ花屋にいってオダマキの鉢を、もう一つ買ってきました。


   アネモネ・シルベストリスの美


 街中(まちなか)の
 喧騒(けんそう)なんぞ ものとせず
 花屋の店先 アネモネ、静か

 二〇〇五年三月二十三日、泊まり明けの午後、職場の近くのスーパーの花屋に、白い美しい花の鉢が置いてあるのを見つけました。
 長い花茎の先端に、一つだけ白い花が咲いています。
 数センチの白色の弁が五つの花です。
 雨に濡れながら、魅入られてたたずみました。
 家に帰って調べました。
 アネモネ・シルベストリスと書いてありました。
 キンポウゲ科、アネモネ属の多年草です。
 花には花弁はなくて、花弁のように見える部分は萼片(がくへん)だそうです。


   ハクモクレンの「私、ここよ!」の声


 突然に 「私、ここよ!」と 声上げて
 ハクモクレンは
 姿現す

 二〇〇五年三月二十五日、東京都小金井市を歩いたら、あちこちにハクモクレンが咲いていました。
 見るものの胸が「きゅん」となるような美しい花ですね。


   ムラサキハナナは風の中で


 乱れ散る 桜のもとで 今、盛り
 ムラサキハナナは
 主役を演じる

 風止まる 一瞬待って
 どアップで
 ムラサキハナナ ばしゃっと取り込み

 二〇〇四年四月一日から店頭表示が消費税額を含めた総額表示に変わりました。この日午後、出勤前に東京都国立市にいって大学通りの桜とムラサキハナナを見ました。
 ムラサキハナナは、アブラナ科ショッカサイ属です。原産地は中国。花は、四弁で紫色です。
 二首目は、府中市栄町でのできごとです。


   桜の花と透けるような青空


 咲き誇る ピンクのバック 真っ青で
 いい絵になってる
 千鳥ケ淵も

 空青く 桜吹雪の 中にいて
 夢見ごこちの
 泊まり明け午後

 去ってゆく 桜を描く キャンバスは
 今、満開の
 微笑みの中

 花の下 寝そべっている 娘さん
 英文法の
 勉強中だよ

 黒い実を 口に入れれば
 「すっぱ、あま」
 オオシマザクラに 「おいしかったよ」

 手を広げ 桜吹雪を 走りぬく
 ピンクの花は
 幸せを呼ぶ

 花吹雪 心につけて
 微笑んで
 泊まり勤務の わが席につく

 降る花を 両手を広げ 受けている
 遅咲き桜は
 ありがたきかな

 また、きっと 来春、会おうね 桜たち
 あいさつしながら
 散る花を見る
 
 二〇〇四年四月三日午後、泊まり明け。東京都千代田区の千鳥ケ淵緑道に桜を見にいきました。一、二首です。
 そして、同年四月九日午後に東京都新宿区、渋谷区の新宿御苑にいきました。三、四首です。
 桜は、バラ科サクラ属の落葉高木群です。
 九月二十九日午後、出勤の途中で、例によって東京都国分寺市の、もとまち図書館の「リサイクル図書」で『さいたさいた百十郎桜(ひゃくじゅうろうさくら)』(作・赤座憲久、絵・田中槇子、新日本出版社)をゲットしました。
 読んで百十郎桜のことを知りました。
 岐阜県各務原市(かがみがはらし)の市内を流れる新境川(しんさかいがわ)の両岸には、川に沿って桜の木が立ち並び、一帯は桜の名所として知られています。
 この桜は、地元出身の歌舞伎役者・市川百十郎が境川放水路の完成を記念して、一九三一年に苗木千本を寄贈したものです。
 「百十郎桜」と呼ばれています。
 三月下旬~四月上旬にかけての「桜まつり」の期間には、市民の花見の場として賑わいを見せます。
 いつか、桜の季節に、この本を持って、ここにいきたいと思っています。
 名鉄各務原線市民公園前駅下車徒歩二分。 JR高山本線那加駅下車徒歩五分。
 十月五日、ネットサーフィンしていて「四高桜」のことを知りました。
 一九四一年四月六日、全国学生漕艇に優勝した第四高等学校(現・金沢大学)漕艇班八人と京大生ら三人は、滋賀県今津町で合宿練習をしていて、琵琶湖を縦断している途中、突風にあおられて遭難。十一人全員が昼前に大溝沖で命を失いました。
 翌年の四二年、妙淋寺で一周忌の追悼法会が営まれ、四高関係者と地元大溝の人たちが協力して、湖岸に千本のソメイヨシノの苗を植え、萩の浜の一角に「四高桜」と銘した石碑を建てました。
 二〇〇一年、「四高桜」を調査した結果、枯死した木も含め、百七十七本あることが判明しました。
 二〇〇二年、「四高桜」が、県道拡幅工事のため姿を消すこととなったので、百十二本を湖岸の別の場所に移植し、その後、樹勢の衰えたものは伐採され、現在残るのは十七本だけになっているということです。
 二〇〇三年二月十八日、身近な自然として「四高桜」を守り育てることを目的に「四高桜を守り育てる会」が設立されました。
 碑は、JR湖西線「近江高島駅」下車、タクシー五分の所にあります。御問い合せ(事務局)は、高島観光協会。電話:0740-36-8135  FAX:0740-36-8159。
 「琵琶湖哀歌」(作詞・奥野椰子夫、作曲・菊池博)は、四一年、この事故を悼んで作られた歌です。

 一、遠くかすむは 彦根城
   波に暮れゆく 竹生島(ちくぶじま)
   三井(みい)の晩鐘(ばんしょう) 音絶えて
   なにすすり泣く 浜千鳥

 二、瀬田の唐橋(からはし) 漕(こ)ぎぬけて
   夕陽の湖(うみ)に 出で行きし
   雄々しき姿よ 今いずこ
   ああ青春の 唄のこえ

 三、比良の白雪 溶けるとも
   風まだ寒き 志賀の浦
   オールそろえて さらばぞと
   しぶきに消えし 若人よ

 四、君は湖の子 かねてより
   覚悟は胸の 波まくら
   小松ケ原の 紅椿(べにつばき)
   御霊(みたま)を守れ 湖の上

 二〇〇四年五月二十二日午後、東京都新宿区の新宿御苑を散歩しているとカラスたちが、盛んにオオシマザクラを「攻撃」しているのに出合いました。
 よく見ると攻撃ではなしに、この木の実を食べているのです。
 サクランボのような赤い実、紫になった実、黒紫の実とありますが、カラスは黒紫のものをついばんでいました。
 僕も黒紫を食べてみましたが、唇が紫になってしまいました。
 オオシマザクラは、バラ科サクラ属。一重の白い花を咲かせます。
 六首目は、二〇〇五年四月八日。東京都三多摩の野川公園で。
 この日、ここで見た桜で一番気に入ったものです。
 翌日午後。ある人に「どこどこの花見をしたの?」と「追及」されましたが、ことしは、まだ、新宿御苑、野川公園、井の頭公園、神代植物公園のみです。
 八首目は、同年四月十八日、東京都三多摩の東京都立武蔵野公園で。
 野川に沿って残る草原や雑木林を配した公園です。
 桜が約千本あります。ヤマザクラ、ソメイヨシノ、サトザクラなど。
 いまが盛りです。
 武蔵野公園は、ここです。
小金井市前原町二丁目、東町五丁目、府中市多磨町二丁目。JR武蔵小金井駅北口から京王バスの多麿霊園・多磨町行き、「多磨町」下車、徒歩三分。京王線調布駅北口から武蔵小金井駅行き、乗車二十五分「武蔵野公園」下車。JR武蔵小金井駅北口から調布駅行き乗車二十、「武蔵野公園」下車。
 七首目は、二〇〇五年四月十四日、神奈川県横須賀市で。


   ヒメリンゴの花が降り積もる


 ヒメリンゴ 白い花びら
 バイクにも 降り積もっていて
 わが庭の春

 二〇〇四年四月のことです。
 玄関の右手にヒメリンゴの木があります。咲いたなと思っていたら、数日たったら散り初めて、玄関の前の庭を真っ白にしました。
 ヒメリンゴは、バラ科リンゴ属の落葉低木です。花は、つぼみのときは紅色で、開花して白色になります。リンゴを小さくしたような実をつけます。


   ハナニラは「春の星花」


 英名は 「春の星花」
 なるほどね
 緑宇宙の ハナニラを見る

 ハナニラが 上水沿いに 群れ咲いて
 迎えてくれる
 夜の散策

 ハナニラの 香りの中に 一人いて
 地上の星々
 写し撮ってる

 二〇〇四年三月から気にかかっている花は、ハナニラです。
 この年になって初めて知った花です。
 わが家の隣の家の塀の所にも咲いています。
 妻、めいと東京都新宿区、渋谷区の新宿御苑にいった時にも群生していました。
 夜中、JR中央線三鷹駅から玉川上水に沿って散歩した時にも土手に群生していました。
 三首目は、二〇〇五年四月十六日午後、東京都国分寺市東元町二丁目で。
 ハナニラは、ユリ科イフェイオン属です。多年草。草丈十-十五センチメートル。花色は、青、白です。春早く星をちりばめたように開花することから、英語ではspring starf-lower(スプリングスターフラワー)というそうです。


   フジの紫の花が咲き誇る家


 バック、青
 ベランダおおい 咲いている
 一本の木の フジの花々

 東京都国分寺市東元町のNさんの家は、がっしりした三階建て。その家の二階のベランダを囲うようにフジの花が咲いていました。よく見ると庭の一本の木が、そういうふうに広がっているのです。青空を背景に、紫の豊かなフジの花がそよぎます。絶景です。Nさんって、いい意味で、ずいぶんぜいたくな人だなあと感心しました。
 二〇〇四年四月二十四日朝に、この絶景を「発見」。次の日の朝も見にいきました。
 フジは、マメ科フジ属です。花の色には、紫 、白、薄紫、桃があります。


   キンランの花の微笑み


 ほの暗い 雑木林(ぞうきばやし)の 中にあり
 微笑んでいる
 キンランの花
 
 二〇〇四年四月二十六日。休日。午後、東京都府中市の浅間山(せんげんやま。標高八〇メートル。浅間町四丁目、若松町五丁目)にいきました。
 ムサシノキスゲが、もうあちこちに咲いていました。
 ムサシノキスゲは、ニッコウキスゲの変種で低所の乾地におりた型。ユリ科ワスレグサ属の多年草です。オレンジ色の花です。  
 シャガ、キンラン、ギンラン、それに「名前を知らない花」が咲いていました。
 キンランを、四カ所で撮影しました。
 キンランは、ラン科キンラン属の多年草です。原産は、中国、朝鮮半島、日本(本州・四国・九州)。
 浅間山までの交通は、JR中央線「武蔵小金井」から京王バス府中行き「浅間町」下車、徒歩三分、または、西武多摩川線「多磨墓地前」下車徒歩十五分。


   エンドウの白いチョウの花


 庭の隅 エンドウたちに 水やれば
 花が咲いてる
 白いチョウチョウ

 二〇〇四年四月二十六日午後、オートバイのミニ旅行からわが家に帰りついて、庭のエンドウ(豌豆)に花が咲いていることに気付きました。
 この年の一月、高知県に住む弟が種をまいていったものです。
 エンドウは、地中海原産のマメ科のつる性越年草です。
 エンドウの花は、白っぽいものとか、赤っぽいものなどいろいろあるようです。
 ところで、この日、庭にヤマユリが二つ芽吹いていることに気付きました。僕の植えたものです。
 この初夏には花が楽しめるでしょうか。


   ツツジは花に雨をたくわえて


 花びらに
 雨つぶいっぱい たくわえて
 小公園の ツツジ輝く

 朝もやを わけて輝く 白ツツジ
 妻と一緒の
 秋の宝登山

 二〇〇四年四月二十七日午後、東京都国分寺市の元町公園で。
 傘がそりかえるほどの強い風雨の中、たくさんのツツジが咲き誇っていました。紫、ピンク、白。
 僕は、この公園を勝手にツツジ公園と呼ぶことにしました。
 ツツジは、ツツジ科です。
 十月十一日。結婚記念日。一九七〇年十月十一日結婚ですから、すごーく長い日々をともに過ごしていることになります。
 この日朝、二人は埼玉県の長瀞(ながとろ)駅前にいました。
 不動寺でナデシコの花を見て、宝登山ロープウェイへ。ここの入口右手に桜が咲いていました。種類は不明ですが、この時期になぜか桜です。
 山頂駅に着いて歩いていると白いツツジの花がいっぱい。
 なぜ、いまの時期に。
 後で地元の人に聞いたら五月にも咲いたそうです。
 宝登山動物園を見ました。
 そして、ロープウェイを下りて旧新井家住宅を見ました(これは「マイフォト」にアップしました)。
 そして、長瀞駅近くのラドン温泉で戸田劇団の時代劇と歌謡ショーを見ました。
 結婚記念日とあって妻に贈り物を「買ってもらって」、この日が過ぎ去りました。


   ニセアカシアの花は白いフジ


 ニセなんて 人間どもは 名づけたが
 私は私
 ニセアカシア、白

 登り坂 たもとの左 「白いフジ」
 見上げて、ゆっくり
 一歩踏み出す
 
 東京都府中市の浅間山に咲いていた「名前を知らない花」は、ニセアカシアでした。
 マメ科の落葉高木。北アメリカ原産。白く垂れ下がって咲く、フジに似た花が特徴的です。
 二〇〇四年四月三十日朝、東京都国分寺市南町の坂のたもとの四本の、この「白いフジ」に気がついたのが最初の出合いでした。
 詩人、童謡作家の北原白秋(きたはら・はくしゅう)さん(一八八五年一月二十五日ー一九四二年十一月二日)の「この道」は、彼が札幌を訪れた際に郷里・福岡県の柳川のニセアカシアを思い出して作ったものだそうです。

 この道はいつか来た道
 ああ そうだよ
 あかしやの花が咲いてる

 あの丘はいつか見た丘
 ああ そうだよ
 ほら 白い時計台だよ

 この道はいつか来た道
 ああ そうだよ
 お母さまと馬車で行ったよ

 あの雲もいつか見た雲
 ああ そうだよ
 山査子(さんざし)の枝も垂(た)れてる

 歌の中のサンザシは、バラ科サンザシ属の落葉低木です。春に白い花を咲かせます。成熟した果実は赤色や黄色で食用にもなります。


   オドリコソウは風に抱かれて


 菅笠(すげがさ)で 顔おおってる
 オドリコソウ
 優しい風に 抱かれ踊る
 
 「花のある風景の中にいない日」が二日も続くとイライラしてきます。
 「まわりの空気が薄くなって息苦しくなるといった感じ」です。
 ということで、二〇〇四年四月二十九日は午前中からオートバイを駆って東京都三多摩の東京都立野川公園へ。
 この公園の売店で軽食を取って、自然観察園へ、というのがいつものコースです。
 ここで地べたに座り込んでオドリコソウ(踊り子草)と約二時間付き合いました。
 オドリコソウは、シソ科オドリコソウ属の多年草です。
 同じシソ科オドリコソウ属の仲間にヒメオドリコソウがありますが、これはヨーロッパ原産の帰化植物です。花の姿はオドリコソウとよく似ていますが、花の色は濃いピンクです。
 写真を撮っていると何人もから「何という花ですか」と聞かれました。あまり知られていないんですね。
 なお、都立野川公園への交通は、西武多摩川線「新小金井」または「多磨」下車徒歩十五分、京王バス(調布-武蔵小金井)「野川公園一之橋」下車、小田急バス(三鷹-武蔵小金井)「野川公園一之橋」下車、小田急バス(三鷹-朝日町・朝日町三丁目・車返団地)です。


   リンゴツバキがひかえめに咲く   


 半開き うつむきかげんの 赤い花
 リンゴツバキが
 ひかえめに咲く 

 二〇〇五年一月十二日午後、フィリピン旅行から帰ってから最初の出勤。また、「ヘビーな日常」が始まりました。
 翌十三日午後、泊まりの仕事が終わり、ひさしぶりに東京都の新宿御苑の温室に。
 温室に入ると甘い果物のにおい。これが好きです。
 初めてリンゴツバキの花に出合いました。
 一重の真っ赤な花弁です。花びらはわずかに開くのみです。円錐形の奥から黄色い雄しべがのびています。
 うつむき加減に咲く清楚な印象の花です。
 日本での平均的開花時期は四月ごろといいます。
 果皮の厚い五~七センチメートルの果実をつけます。
 ツバキ科ツバキ属。別名・ヤクシマツバキ。
 中国地方や四国、九州、沖縄などに自生します。


   アザミの花が群れ咲く田んぼ


 アザミ咲く 田んぼの上を
 こいのぼり
 五十四匹 グングン、泳ぐ

 アザミ咲く 浅間山(せんげんやま)の
 陥没壕(かんぼつごう)
 侵略の傷 いまもうずくか

 二〇〇四年四月二十九日午後、東京都立野川公園から近くの東京都三鷹市・ほたるの里三鷹村(大沢二丁目一七番付近)にまわりました。
 短歌は、そこの風景です。
 アザミは、キク科アザミ属の多年草です。田んぼいっぱいに咲いていました。
 「ほたるの里三鷹村」は、三鷹市内に散在するハケと緑と湧き水を保全し、あわせてサケが遡上(そじょう)できるような清流の回復を図ることを目的に、一九八八年六月に発足しました。村の組織は「村制」をベースとして、村長をはじめ助役、収入役、事務局で構成しています。会員数二百十人、うち子ども会員は八十人です。
 十月十八日、休日。
 午後一時ころから夕方まで、オートバイで府中市、国立市、国分寺市をまわりました。
 まずは府中市の浅間山(せんげんやま)。
 登り口近くに陥没した跡がありました。
 一応補修しているのですが、先端の所から深い穴に続いています。
 太平洋戦争中、ここは陸軍燃料廠(りくぐんねんりょうしょう)で、たくさんの濠を掘ったということですから、たぶん、その時の濠の一つでしょう。
 この山には高射砲陣地跡も二つあります。
 次は、府中市の押立、白糸台へ。
 ここらは住宅街になってきていますが、まだ田んぼがあります。
 いい気分です。
 そして、国立市のママ下湧水(まましたゆうすい)へ。
 しばらくこないうちに大きな道路ができてしまって、都会の中の田舎という感じでなくなっています。
 でも、湧水は、とうとうとという感じ。
 ペットボトルに入れて飲みました。
 甘い。
 そして、国分寺市の国分寺にいって、ご近所ツーリングはお仕舞い。


   ジシバリに託した伊藤千代子の「生」


 ジシバリの 花に託して
 「生」を問う
 伊藤千代子の 手紙読む朝

 二〇〇五年四月七日付の「しんぶん赤旗」日刊紙に、伊藤千代子の手紙が紹介されていました。
 一九二九年五月八日、夫・浅野晃の妹・淑子にあてたものです。
 <朝霧にぬれた麦畑や大根畑のひろびろとつづいた野方町からあの岡から谷の辺りはどんなに気持ちいいだろうと私も時々思い出します。ここではね今地しばりの花ざかりです。高い煉瓦(れんが)の塀に沿ってまるい黄色な頭を春風にユラユラゆすぶっています、淑ちゃんは地しばりをご存知じですか、強情な大変力のある面白い花ですよ。ダリアの畑へでも菊へでもおかまいなしにずんずん押し込んでいって肥料を横取りしてしまいます。
 田舎では野菜や桑を荒らすのでお百姓は眼の仇(かたき)にしていぢめています。命あるものはみんなあらん限りに生きようとしているのですね。生きようとするからこそ、その大切な命をも投げ出すのですね。……> 
 <生きようとするからこそ、その大切な命をも投げ出すのですね。>に、ぐっときました。
 伊藤千代子は、一九〇五年七月二十一日、長野県の諏訪の南真野の農家に生まれました。幼くして母と死別。湖南小学校から中州小学校へと転校し、祖父母の援助で諏訪高等女学校(現・諏訪二葉高校)に学び、高島小学校の代用教員の後、仙台尚絅女学校から東京女子大に進みました。
 伊藤千代子は、生活に苦しむ人々に心をよせ、世の中の矛盾と不公平さを許せず、東京女子大学内でカール・マルクスの『資本論』を学ぶなど、社会諸科学研究会で中心的に活動しました。
 郷里では初の普通選挙をたたかう革新候補の藤森成吉を支援、岡谷の争議、山一林組の製糸工女らを激励しました。
 一九二八年二月末、日本共産党に入党。二十二歳でした。党中央事務局で文書連絡や印刷物の整理などの活動を始めました。
 同年三月十五日、党印刷所に出向いたところを特高警察に襲われて逮捕されました。
 治安維持法による野蛮な弾圧で逮捕、市ヶ谷刑務所に投獄されます。
 千代子は獄中での狂暴な拷問や虐待にも屈せず、同志を励ましたたかい続けました。
 はじめの手紙は、一九二九年五月八日、市ヶ谷刑務所からのものです。
 ジシハリは、キク科ニガナ属の多年草。別名は、イワニガナ、ハイジシバリ。
 細い茎が地面を這い、茎から根を下ろして増えるので地面を縛るように見えます。葉には柄があり、葉身は円形もしくは楕円形で長さ一~三センチメートル。花は黄色の頭花で直径二~二・五センチメートル。四月から六月にかけて花を咲かせます。
 伊藤千代子は、獄中で党員の夫の天皇制政府への屈服を知り、衝撃を受けますが、同調を拒否します。
 一九二九年八月、市ヶ谷刑務所で拘禁精神病を発症し東京の松沢精神病院に移送されます。そして、それから一カ月ちょっとで、肺炎で亡くなりました。
 一九二九年九月二十四日のことです。二十四歳でした。

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総集編 短歌の花だより 初夏

 初夏


   シランは紫のつばさ広げて


 メーデーの 平和、暮らしの どよめきに
 シランの群れも
 奮い立ってる

 紫の つばさを広げ
 いま、まさに 飛び立つところ
 シランの花は

 飛んでいる シランのさまを
 撮り終えて
 「よくやったぞ」と 自分をほめてる

 漢字では、紫蘭と表記するようです。
 二〇〇四年五月一日、中央メーデーは、東京都の代々木公園で開かれました。
 舞台に向かって右手の隅に紫色のシランの花ががたくさん咲いていました。
 五月二日、妻と東京都国分寺市、国分寺駅南口近くの殿ケ谷戸庭園にいったら同じ花が咲いていました。
 二〇〇五年五月一日午前、東京都国分寺市の殿ヶ谷戸庭園でシランを撮りました。


   キショウブの原産は欧州か


 キショウブは 日本の美よと 楽しんで
 調べてみたら
 欧州生まれ 

 二〇〇四年五月三日午後、東京都の日比谷公園の池の所にキショウブが咲いていました。鮮やかな黄色の花です。花の姿が池に映っていい感じです。
 これぞ日本の美。
 と、思っていましたが、家に帰ってインターネットで調べてみるとキショウブは、ヨーロッパ原産だということです。
 アヤメ科アヤメ属の多年草です。


   キリの大きく広げた枝の先


 ご近所を 散歩していて
 キリの木を 七本見つけた
 見えてなかった

 「歓迎」と 大きく広げた 枝の先
 紫ラッパ
 キリの花だよ

 「ポットン」と 
 キリの一花 落ちる音
 聞いてしまった 大木の下
 
 キリは、ゴマノハグサ科キリ属です。
 二〇〇四年五月五日午後、自転車で、ご近所を散歩しました。東京都国分寺市東元町二の六の生産緑地地区にさしかかって、枝の先に薄紫の花を咲かせている大木に出合いました。
 まわりにいっぱい落ちている円錐形の薄紫の花を見て気付きました。
 「キリの花だ」
 計七本ありました。ご近所の名所でした。
 以前、東京都八王子市をオートバイでツーリングしていて出合った花です。こんな身近な所にもあったのです。
 二〇〇五年五月十日、東京都三多摩の神代植物公園隣の自由広場から帰って国分寺市東元町二の六の生産緑地のキリの花を撮りました。そこでキリの花の落ちる音を聞きました。


   ムサシノキスゲの盛りの一花


 昨日の 輝きしかと たたみこみ
 盛りの一花(ひとはな)
 ムサシノキスゲ

 二〇〇五年五月四日。休み。午後三時までは「自分の時間」です。
 午前中から例によって東京都府中市の浅間山(せんげんやま)へ。
 ムサシノキスゲが、あちこちに咲いていました。


   キンランが満開になっています


 「この花は つぼみのほうが 綺麗よね」
 満開キンラン
 つむじ曲げてる

 二〇〇五年五月四日、東京都府中市の浅間山(せんげんやま)で。


   ニセアカシアは、いま風の中


 「やすやすと 撮らせてなんか あげないわ」
 ニセアカシアは
 いま風の中

 二〇〇五年五月四日。東京都府中市の浅間山(せんげんやま)の多磨霊園へのつり橋の所にニセアカシアが咲いていました。
 アップで撮ろうしました。しかし、強い風にザワワと揺れて、なかなか撮れませんでした。


   ボタンの花は胸張って咲く。


 「私ほど 美女はいないわ」
 それぞれに
 ボタンの花は 胸張って咲く

 二〇〇五年五月五日、仕事が午前中にかたづいたので、午後からは休み。妻に電話して「遊ぼ!」。
 結局、東京都小平市中島町二一の一、東京都薬用植物園にいくことになりました。
 満開のボタンが迎えてくれました。


   クロユリといえば「黒百合の歌」


 クロユリを
 見ればたちまち 口をつく
 小学時代の 熱愛の歌

 二〇〇五年五月五日、東京都小平市中島町二一の一、東京都東京都薬用植物園にいったらクロユリが咲いていました。
 クロユリといえば、瞬時に「♪黒百合は 恋の花…」ときます。
 「黒百合の歌」(作詞・菊田一夫、作曲・古関裕而)が頭に浮かびます。

 一、黒百合は 恋の花
   愛する人に 捧げれば
   二人はいつかは 結びつく
   ああ あああああ あああああああ
   この花ニシパに あげようか
   あたしはニシパが 大好きさ

 二、黒百合は 魔物だよ
   花の香りが 沁み付いて
   結んだ二人は 離れない
   ああ あああああ あああああああ
   あたしが死んだら ニシパもね
   あたしはニシパが 大好きさ

 三、黒百合は 毒の花
   アイヌの神の タブーだよ
   やがてはあたしも 死ぬんだよ
   ああ あああああ あああああああ
   ああああ ああああ あああああ
   ああああ ああああ  あああ あああ

 一九五四年、僕が小学校の低学年だったころ、織井茂子さんが歌いました。ラジオで、よく聞きました。
 NHKラジオのドラマ「君の名は」の主題歌の一つです。
 クロユリ、本州中北部の高山帯や亜高山帯の草地に見られます。
 北海道では平地の林内や平地に自生しているといいます。


   ヒトツバタゴの枝の薄雪


 高木に 「薄雪」いただき
 薫風に 揺れに揺れてる
 ヒトツバタゴは

 ヒトツバタゴは、モクセイ科ヒトツバタゴ属の落葉高木です。別名、ナンジャモンジャ。
 二〇〇五年五月五日、東京都小平市中島町二一の一、東京都薬用植物園でヒトツバタゴの花に出合えました。


   アヤメの花のバーコード


 咲くアヤメ ピントを合わせ
 難解な
 バーコードの意味 読み取っている
 
 二〇〇四年五月五日午後、自転車で、ご近所を散歩していて、東京都府中市栄町の都営府中栄町一丁目アパートの庭で、奇麗なアヤメに出合いました。団地のみなさんが丹精をこめた庭です。
 アヤメは、アヤメ科アヤメ属の多年草です。原産地は、日本、東アジア。


   ミヤコワスレの花の完ぺきさ


 花の名を ミヤコワスレと 告げられて
 さもありなんと
 しげじけと見る

 二〇〇四年五月七日午後、東京都調布市の娘の家にいきました。三歳の孫娘が、左手を両手で握って歓迎してくれました。その上、左手にキッス。これだから祖父はやめられません。
 娘、三歳の孫娘、ゼロ歳の孫娘と同市若葉町一の八の三〇の調布市実篤公園にいきました。
 武者小路実篤(むしゃのこうじ さねあつ)さん(一八八五年五月十二日-一九七六年)の家のあった所です。
 そこで出合ったのがミヤコワスレ。
 キク科です。原産地は、日本(関東以西)。
 調布市実篤公園は、京王線つつじケ丘駅南口または仙川駅下車、徒歩十分です。


   ノイチゴの花は黄金に輝いて


 ノイチゴの 花、黄金に 輝いて
 イチゴのありか
 照らし出してる

 二〇〇四年五月七日午後、調布市実篤公園からの帰りに、道端にノイチゴの実がなっているのを見つけました。
 食べてみると少しすっぱいのですが、美味でした。
 市立若葉小学校の通学路ですが、誰も見向いてはいないようでした。


   エゴノキの花の星の降る下


 街頭に 照らし出された エゴノキの
 星降る下に
 遊ぶ楽しさ

 二〇〇四年五月七日夜、東京都府中市栄町の医療少年院寄りの小公園での発見です。今後、「エゴノキ公園」と呼ぶことにしました。
 エゴノキは、エゴノキ科の落葉小高木です。
 星のような形の白い花を咲かせます。


   ハンショウヅルは風に舞って


 登山口 ハンショウヅルが 咲いていて
 カメラマンたち
 集まってくる

 風に舞う
 ハンショウヅルの 打ち鳴らす
 音聞きたくて 耳そばだてる

 二〇〇四年五月八日午後、東京都府中市の浅間山(せんげんやま)へ。
 登山口にハンショウヅル(半鐘蔓)が咲いていました。
 ハンショウヅルは、キンポウゲ科センニンソウ属です。
 この日は、妻、息子、そして、「もう一人」と一緒でした。


   モモイロヒルザキツキミソウ


 まろやかな ピンクの花の 中心に
 十字架見つけ
 イラクを思う

 二〇〇四年五月九日、東京都国分寺市、小平市で、この花に出合いました。
 十日朝現在、名前は、まだわかりません。
 同日夜、この花の名前が判明。モモイロヒルザキツキミソウ(桃色昼咲き月見草)でした。
 アカバナ科。北アメリカ原産の帰化植物です。


   ケシの畑はカギ付きのまま


 この花が 人の心を むしばむか
 ケシの畑は
 カギ付きのまま

 二〇〇四年五月九日午後、東京都小平市中島町二一の一の東京都薬用植物園にいきました。
 囲いの中のケシの花を見ました。ケシの花は、「東京ではここでしかみられない」といいます。
 草丈は一メートルから一メートル半になります。五月ごろ、透明感のある花びらの白、赤、紫色などの大きくて美しい花を咲かせます。花が終わると、長円形または球形のかなり大きなさく果(けし坊主)をつけます。
 ケシは、あへんアルカロイド類を含有していて、多くの医薬品の原料となっている薬用植物です。たとえば、モルヒネは強力な鎮痛剤としてがんの疼痛(とうつう)治療などに使われていますし、コデインは鎮咳(ちんがい)作用が強くぜん息薬やかぜ薬の製造原料となっています。しかし、これらは麻薬に指定されているため、ケシ(ソムニフェルム種)などの栽培は法律で規制されています。
 同園には、西武拝島線東大和市駅下車徒歩二分。


   テッセンの「花」はがくでした


 「テッセンの 花みたいなの あれは、がく」
 「へー、そうなのか」
 本にらんでる
 
 二〇〇四年五月十一日の明け方、泊まりのベッドで花の本を読んでいて気が付きました。
 テッセンは、キンポウゲ科クレマチス属です。


   クワの実のおいしい季節


 今年も 花に気付かず 実の季節
 わが門近く
 二本のクワの木

 二〇〇四年五月十一日午前、わが家の門近くのクワに緑の実がたくさん付いていることに気付きました。
 クワは、クワ科クワ属です。
 花は四月ごろ、穂状に咲きます。
 実には、とげとげがあり、だんだん紫のイチゴみたいになります。
 五月十六日、いくつか熟れているのを食べました。うまい。
 「クワの実の出てくる歌があるよね」と、考えていました。やっとわかりました。
 「赤蜻蛉(とんぼ)」(三木露風作詞・山田耕筰作曲)でした。

 夕焼小焼の、赤とんぼ
 負われて見たのは、いつの日か

 山の畑の、桑(くわ)の実を
 小篭(こかご)に摘んだは、まぼろしか

 十五で姐(ねえ)やは、嫁に行き
 お里のたよりも、絶えはてた

 夕焼小焼の、赤とんぼ
 とまっているよ、竿(さお)の先

 クワの歌といえば、もう一曲、「桑ばたけ」(作詞・門倉訣、作曲・関忠亮)もいい歌です。
 「桑畑の しげる葉は…」
 一九五七年日本のうたごえ祭典記念創作曲の一つです。アメリカ軍基地反対のたたかい、「砂川闘争」の中から生まれた叙情歌です。
 二曲とも、演奏を聞くことのできるインターネットのサイトがありますよ。


   シャガ一輪の色のみごとさ


 娘さん 「めちゃきれい」と 叫んでる
 シャガさん、あなたを
 ほめてくれてる

 「うおおーっ」と 声を出してる
 道端の シャガ一輪の
 色のみごとさ

 シャガは、アヤメ科アヤメ属です。
 一首目は、二〇〇五年四月十七日午後、東京都の新宿御苑での光景です。
 同年五月十四日午後、東京都国分寺市東元町を歩いていたら道脇にシャガが咲いていました。

   カラーの花は水音を聞きいる


 清流の 真ん中にいて
 水音に 聞き耳立ててる
 白カラーたち

 わき水も 少しぬるいか 今年は
 師走(しわす)に咲いてる
 カラー白花

 東京都国分寺市のJR国分寺駅南口から斜めに伸びている道を南西方向に進み徒歩約十分、野川を越えて信号(西元町一)を南に入ると三百メートルぐらいで真姿の池に出ます。 
 真姿の池からの道沿いにいくと、お鷹の道にでます。お鷹の道沿いには武蔵国分寺の裏手から湧(わ)く水が流れています。
 江戸時代、将軍が鷹狩りに出かけるときに、ここを通ったことから名づけられたという、お鷹の道です。
 二〇〇四年五月十四日午後、ここを歩いていたら小川の中に白いカラーの花が咲いていました。小川沿いのエゴノキの花も奇麗でした。
 カラーは、サトイモ科オランダカイウ属です。
 同年十二月四日午後。出勤前に「お鷹の道」を歩きました。
 わき水のつくりだす小川の中のカラーが二つ白い花を咲かせていました。
 「なぜ、いまごろ…」とは思いますが、うれしいですね。


   ホウセンカ種のTシャツ


 広がれと ホウセンカの種 かきつけた
 戦争放棄の
 Tシャツを買う

 その種子を 自力で広げる ホウセンカ
 わが国民の
 未来信じる

 二〇〇四年五月十五日午後、東京都渋谷区の区立宮下公園で開かれた女性たちの集会で、このTシャツを二枚買いました。おまけにホウセンカの種をくれました。
 ホウセンカには、先のとがった、短い毛のはえた実ができます。実が熟すと、パチンとはじけて、種をあたり一面にはねとばします。
 ホウセンカは、ツリフネソウ科ツリフネソウ属の一年草です。
 風呂に入りながら、ゆったりと本を読むのが好きです。
 ということで、同四年十二月二十三日午前も、「風呂読書」状態に。
  『写真で見る植物用語』(岩瀬徹、大野啓一著、全国農村教育協会)を読みました。
 種子の散布の項目も、ふむふむ。
 ●風に乗って散布(テイカカズラ、ケヤキなど)。
 ●水による散布。
 ●動物により散布。
 ●自力で散布。果皮が炸裂し、その弾みで散布(ホウセンカなど)。
 ホウセンカ(鳳仙花)は、六月から九月に白、桃、紅、紫紅、赤色などの花を咲かせます。
 別名、ツマクレナイ、ツマベニ。
 おっと、もう出勤の時間です。
 妻も、きょうは、休日のはずですが、なにやら勉強会に出かけました。


   コクリコが体揺らせて笑ってる


 コクリコは 薫風の中
 「クククククッ」 
 体揺らせて 笑っているよ
 
 二〇〇四年五月十六日、僕の本『あなたに贈る短歌の花束』(さがらブックス)ができ上がってきました。
 この本には、ヒナゲシの項目もあります。
 翌十七日付の「しんぶん赤旗」日刊紙一面の「潮流」に、コクリコのことがでていました。フランス語のヒナゲシのことなんですね。
 「ああ皐月(さつき)仏蘭西(フランス)の野は火の色す君も雛罌粟(コクリコ) われも雛罌粟」
 与謝野晶子さん(一八七八年十二月七日-一九四二年五月二十九日)の、一九一二年五月の短歌です。
 夜、妻に「晶子の短歌のコクリコって何のことか知ってる?」と聞くと「ヒナゲシでしょう」。少なくても一九九〇年には知っていたといいます。でも、僕は……。
 ヒナゲシは、ケシ科ケシ属。ヨーロッパ産です。英名はポピー、スペインではアマポーラです。


   「あじさい」の歌、その後


 雨にぬれ アジサイ花と 対話する
 「元気に咲いたね」
 「今年もよろしく」

 「あじさい」の 作詞、作曲 こんな人
 うれしいメールが
 やってきた夜

 あの時を 三十数年 飛び越えて
 「あじさい」を聞く
 梅雨晴れの午後

 わが町の 一万五千の アジサイを
 見においでよと
 梅雨時だより

 二〇〇四年五月二十日。雨。東京都国分寺市東元町二丁目の民家の生垣のアジサイが咲いていました。ことしはじめて見る咲いているアジサイです。
 アジサイは、ユキノシタ科です。中心部の小さいのが花です。
 アジサイは、なぜ色が変化するのか。「しんぶん赤旗」五月九日付に「アジサイ 花色変化の秘密わかる」に出ていました。
 五月二十一日午後、国分寺市南町で全体が円錐形のアジサイを「発見」。カシワバアジサイという名前だそうです。五月二十三日午後には、東京都府中市栄町一丁目にも、この花が咲いているのを見つけました。
 僕が、五月に出した短歌集『あなたに贈る短歌の花束』(さがらブックス)に、大学生時代に出合った「あじさい」の歌のことを書きました。
 「この歌について、作詞者、作曲者、その人たちが、どういう人たちだったか、いつ、どういう時代状況のもとでつくられたのか、ご存じのかたがいらっしゃれば教えていただけませんでしょうか」
 応答がありました。
 六月九日、花の短歌集に目をとおしていただいた高知県の未知の男性Yさんからメールをいただきました。作詞者、作曲者のことが書かれてありました。作詞者は宮本偉(すぐる)、作曲者は、柳井卓さん。うれしい知らせでした。
 翌十日午前、高知市在住の作曲者に電話しました。
 その後、調べたら高知新聞の二〇〇一年五月二十四日の夕刊にも、この歌の作詞者、作曲者のことが載っていました。高知市文化振興事業団の出している雑誌『文化高知』二〇〇二年七月、百八号にも柳井さんの「あじさいによせて」という文章が載っていました。
 柳井さんは、二〇〇一年五月、自分が作曲した二十曲を入れたCD「柳井卓歌曲集 SONGS COLLECTION」を出されています。その中に「あじさい」も入っています。
 六月十二日午前、柳井さんが送ってくださったCDや資料が到着。早速、CDを聞いています。やっぱり「あじさい」は美しい歌でした。
 六月十七日、宮本さんは、大阪市で活躍中だとわかりました。うれしい。以前、東京のうたごえ喫茶「ともしび」にいたかたでした。オペレッタ「お月さんももいろ」の制作にたずさわった人です。在日アメリカ軍横田基地の記録映画「核戦争三分前」や映画「渡り川」の制作にも参加されました。
 ところで、「あじさい」は、こんな歌です。

 一 雨にぬれてる手の中で
   ひとり泣いてるあじさいの
   うるんだ瞳(ひとみ)のせつなさが
   ここまで二人をつれて来た

 二 風の吹いてる木の下で
   心さびしいあじさいの
   かわいた唇(くちびる)いとしさが
   ここまで二人をつれて来た

 三 雲の浮いてるみずうみで
   胸のふるえるあじさいの
   とぎれることばのかわいさが
   ここまで二人をつれて来た
 
 四 波の寄せてる砂浜に
   打ちよせられたあじさいの
   静かなねがおの安らぎが
   ここまで二人をつれて来た

 宮本さんは、一九四二年八月十二日生まれ。
 五八年四月、高知県の県立宿毛(すくも)高校に入学。十二キロメートルを自転車で通学しました。美術部、文芸部、バレーボール部を掛け持ち。帰宅後は、一晩中、二十キロメートル半径の地域の郵便配達をしました。そんななかで、高知県高等学校生徒会連合の一員として教師への勤務評定導入に反対の運動にも参加しています。「先生を守れ」と、高知市の県立丸の内高校に県下の約五千八百人の高校生が集まりましたが、その集会にも参加しています。
 宮本さんが、この歌の詩「青春」を発表したのは三年生の時、一九六〇年夏に出たの同校文芸部の文集『澪標』です。彼は、「青春」を、高知大学教育学部を卒業して同校の音楽教師をつとめていた柳井さんに見せて、作曲してもらいました。それが、いまの「あじさい」です。
 宮本さんは、六一年三月、同校を卒業して、上京しました。
 その後も、「あじさい」は、高知県で歌い継がれていました。
 僕が、この歌を知ったのは、その四年後、六五年四月に高知市の高知県立高知追手前(おおてまえ)高校から高知大学文理学部に入学してからのことでした。高知市の歌声喫茶「ヴォストーク」でもよく歌いました。
 やっほー。八月二十三日の大発見。僕の大好きな「あじさい」の歌の演奏がホームページで聞けるようになっていました。
 ここです。
 http://utagoekissa.web.infoseek.co.jp/ajisaimiyamoto.html
 以下のような記事も載っています。
 <(「あじさい」は)ともしび大阪の宮本さんが1960年、高知の高校生の時につくったもの。
 曲は、担任の柳井先生。いつの頃からか、高知で歌い広まってゆきました。当時、高知のうたごえ喫茶「ヴォストーク(そう、ソ連の人工衛星ですね)」で毎日のように歌われていたようです。それがいつの間にか忘れ去られていたのですが、最近、藤原義一が「あなたに贈る短歌の花束」という本のなかで、この曲について「どなたか、この曲の背景、作者を知りませんか」って「たずね歌」をやったんです。そしたら、ある読者の方が、宮本さんのことを藤本さん(記者注・ここは「藤原さん」)に連絡して、また、この曲が脚光を浴びてきたようです。
 名前が同じ「すぐる」のため、当初、作詞者は柳井先生のペンネームだと思われていたらしいです。
 事実は、かくのごとし。
 ところで、宮本さんが一番お気に入りの歌詞は2番。ところが、歌集などでは、1・3・4番で紹介されているケースが多いとか。でも、ませてた高校生ですな。
 その宮本青年は、高校を卒業後1961年に東京へ。亀戸の朝日新聞の専売所(今のASA)で働きながら、舞台美術の勉強を。
 新宿コマ裏の「灯」に関わりあってきたのが、1964年2月。当時、灯は第3次閉鎖反対闘争の前夜。お茶大・教育大「あらぐさ」の創設者の一人、アコ奏者の池田健さんと一緒に9月の閉鎖反対闘争に飛び込んでゆきます。
 宮本さんは、現在62歳。大阪で健在です。大阪ともしびの会として、毎月第4土曜に新大阪の近く、カフェ・マルシェでうたごえを響かせてます。>
 <製作日誌:
 平成16年7月10日 宮本さんのご自宅を、かつての部下、森のフクロウさんと訪問。
 取材をさせていただきました。
 平成16年7月11日 歌詞とMIDIデータをアップ
 平成16年7月15日 コメントを完成>
 六月二十五日には、短歌集を読んでいただいた高知県春野町の女性から、私の町は「あじさいの町です」というお便りをいただきました。
 春野町は、土佐湾に面し、江戸時代の土佐藩の家老・野中兼山が仁淀川から引いた灌漑用水が網の目に走り大地を潤しています。
 六月になるとアジサイが用水路沿いに一万五千本も咲き、用水にその姿を映すといいます。
 「あじさいの町」の歌もできています。「水と紫陽花(あじさい)」(作詞・矢野元子、作曲・すがのうただひこ、編曲・向原寛)です。
 一度、梅雨時に訪れたいものだと思っています。


   コヒルガオは顔に雨つぶつけて


 雨つぶを 白いお顔に つけながら
 ほほ笑んでいる
 コヒルガオさん   

 二〇〇四年五月二十日。雨。東京都国分寺市東元町二丁目の民家の生垣に、白いアサガオのような花が咲いていました。
 見ていると通りがかりの女性が「奇麗ですねー」と声をかけてくれます。
 夜、家で調べてみたらコヒルガオでした。
 ヒルガオ科ヒルガオ属です。
 名はヒルガオに比べると葉や花が小型であることからついたといいます。日当たりのよい道端に生え、つるで他のものにからみついて伸びます。


   ドクダミの「わたし、ここよ」


 十字苞(ほう) 精いっぱいに 開きぬき
 ドクダミたちは
 「ここよ」と叫ぶ
 
 ドクダミは、ドクダミ科ドクダミ属。日本全土の陰地、湿地に普通に自生する多年草です。
 二〇〇三年までは、わが家の庭の隅にも、たくさん咲いていました。
 花穂の下に白色で十字形に四枚開いているものが、一般に花びらだと思われていますが、これは葉に近い性質をもった苞と呼ばれるもので、その上の円柱状の黄色部分が花で、多数の小さい花が集まっています。
 生のドクダミ葉には葉のにおいの、デカノイルアセトアルデヒドやラウリールアルデヒドが含まれていて、これは、乾燥すると成分が変化をして無臭になります。このにおいの成分には強い抗菌性や抗かび性があります。
 ドクダミの名前の由来は、ドクダミの生の葉は、全草に特有の臭気があるために、なにかの毒が入っているのではと、ドクダメ(毒溜め)と呼ばれるようになり、これからドクダミになったといわれています。

 ドクダミを抜けば残り香手にありて有事法案通過せし朝

 埼玉県東部・北部地域に配布されている情報紙「東武朝日」の二〇〇四年二月二十六日号に掲載された、東武朝日歌壇年間賞(海野登紀さん選)準賞の吉川市の黒木幸枝さんの作品です。
 選評は「黒木さん作、ドクダミの残り香と、有事法案通過のニュースを巧みに照応させた」。


   ラクウショウの根っこを見たよ


 こりゃ何だ? 根っこのタケノコ 群生し
 アメリカのスギ
 領土広げる

 このタケノコのようなものは、ラクウショウ(落羽松)という木の気根(きこん)です。
 本日、二〇〇四年十二月十七日午後、東京の新宿御苑を歩いていて、これを見てびっくり。
 初めての遭遇です。
 ラクウショウは、スギ科ヌマスギ属の落葉高木。北米原産です。別名は、ヌマスギ。
 葉は、晩秋に褐色になって落ちます。花は五月ごろ咲き、球果は十月ごろ暗褐色に成熟します。


   リラ冷えの地のリラの紫   


 リラ冷えの
 北国(きたぐに)にいき 見たいもの
 リラの紫 リラの白花

 いま二〇〇四年十月二十日夜十一時過ぎです。
 びしょびしょに濡れて帰り着きました。台風23号です。
 ここ東京都三多摩は、これからがひどくなりそうです。緊張しています。
 ところで、ある人が、いま秋田市の南大通りではリラの紫の花が咲いているという記事のことを教えてくれました。この日付の「しんぶん赤旗」日刊紙の東北のページの記事です。
 リラの花は、普通は五月ごろでしょうか。
 リラは、モクセイ科ハシドイ属。別名は、ライラック。
 リラは、フランス語名のLiraから。ライラックは英語名のLilacからです。
 ここのリラは、八月二十日の台風15号による塩害(潮風害)で、葉が枯れました。
 「季節外れの落ち葉が(この開花の)きっかけになっている」と指摘するのは、秋田県森林技術センターの真坂京子専門技術員。「台風通過後も気温が高く、植物が秋・冬を過ぎて春先になったよと勘違いし、季節が早送りされたような反応を示しているため」と、いいます。
 ところで、「リラ冷え」について。
 東京などでいう「花冷え」は、春に気温が上がり桜の花が咲くころになって急に冷え込むことをいいます。
 同じ「寒の戻り」でも、春の訪れが遅い北海道では桜にかわってリラの花咲く五月下旬ごろ思いがけなく寒くなることがあります。
 これを「リラ冷え」といっています。

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総集編 短歌の花だより

 梅雨


   ビヨウヤナギに会いました


 人生で 二(ふた)季節目の 出合いです
 ビヨウヤナギが
 上水(じょうすい)にいた

 雨の中 年金守れの 辻演説
 ビヨウヤナギも
 アンテナ立てる

 二〇〇四年五月十九日は休日。午後、玉川上水を求めて東京都世田谷区、渋谷区を歩きました。
 玉川上水は、多摩川上流の羽村から四谷大木戸まで約四十三キロメートルの水路です。
 京王線の代田橋駅近くから流れに沿って歩きます。
 すぐに流れが地下に入ります。地上は世田谷区立玉川上水緑道になっています。また、流れが出てきました。そして、地下へ。少し歩いていくと、流れがあります。そして、その先は、世田谷区立玉川上水第二緑道。
 ドクダミ、ビヨウヤナギ、タチアオイ…とさまざまな花を楽しんだ散策でした。
 五月三十日、仕事で東京都町田市金森にいきましたが、そこの都営金森第五アパート集会室の所の公園にもビヨウヤナギが咲いていました。
 二首目は、六月六日午後、東京都府中市天神町で。
 この日、東京も梅雨入り。
 ビヨウヤナギは、オトギリソウ科オトギリソウ属です。


   ウノハナのにおう池のほとり


 八方に 白を放射し りんといる
 下(しも)の池ほとり
 ウノハナの群れ

 二〇〇四年五月二十二日午後、東京都新宿区の新宿御苑の下(しも)の池の所にウノハナが咲いていることを知り、見にいきました。
 確かめてみましたが、やはり強いにおいはしませんね。
 というのは、「夏は来ぬ」(佐々木信綱作詞、小山作之助作曲)の一番に歌詞の「卯(う)の花の、匂う垣根に」の解釈の件です。

 卯(う)の花の、匂う垣根に
 時鳥(ほととぎす)、早も来鳴きて
 忍音(しのびね)もらす、夏は来ぬ

 さみだれの、そそぐ山田に
 早乙女(さおとめ)が、裳裾(もすそ)ぬらして
 玉苗(たまなえ)植うる、夏は来ぬ

 橘(たちばな)の、薫るのきばの
 窓近く、蛍飛びかい
 おこたり諌(いさ)むる、夏は来ぬ

 楝(おうち)ちる、川べの宿の
 門(かど)遠く、水鶏(くいな)声して
 夕月すずしき、夏は来ぬ

 五月(さつき)やみ、蛍飛びかい
 水鶏(くいな)鳴き、卯の花咲きて
 早苗(さなえ)植えわたす、夏は来ぬ

 「卯(う)の花の、匂う垣根に」は、やはり、ウノハナが香るのではなく、白い花が美しく映える状態をいっているのでしょう。
 「『にほふ』」は、『美しく色づく、美しく 映える』という意味で、元々、目で見て美しいことを表す言葉でした。平安時代に、においに 関する意味が加わって、現代では、視覚の意味が消えて、嗅覚(きゅうかく)の意味だけが残りました」(インターネットサイト「のぞきみ 日本語・日本文化」)
 佐々木信綱さんは、ここに古語を使ったのだと思います。
 ユキノシタ科ウツギ属の落葉低木です。和名は、ウツギ。


   タチアオイを助けた息子と母


 わが背より 高く伸びいる タチアオイ
 ピンクの花に
 涙たたえて

 群れ咲いて 美をたたえあう タチアオイ
 ほうけて見てる
 梅雨晴れの午後

 下方から 順に咲くらし タチアオイ
 残るつぼみは
 もう数個だけ

 強風で 倒れてしまった タチアオイ
 助けた人いて
 また、立っていた

 二〇〇四年五月二十二日午後、東京都小金井市のJR武蔵小金井駅で下車。南口では祭りの準備をしていました。
 本町にさしかかると駐車場の脇にタチアオイが咲いていてました。
 二首目は、その後、東京都国分寺市で出合ったタチアオイ。
 三首目は、六月十二日午後、東京都府中市栄町で出合ったタチアオイです。
 翌十三日午後、東京都国分寺市東元町四丁目の農家の庭に群れ咲いたタチアオイを見ました。
 七月一日午後、出勤前に「駐車場の脇」を見にいきました。
 六月二十六日、強い風で、ここのタチアオイが倒れたといいます。その夜中、近くに住む大学三年生の男性が、このタチアオイを救いにいくことにしました。同居している母親も、それでは私も一緒に…。
 で、七月一日午後、このタチアオイは立っていました。三メートルほどあります。下のほうに白いテープの補修の跡があります。優しい息子と母に乾杯。
 タチアオイは、アオイ科タチアオイ属です。原産地のギリシャ、クレタ島などからシルクロードを通って中国を経由し日本へ渡ってきたといわれます。
 タチアオイの花は、下段から咲き始めて咲き終るころには梅雨が明けるといわれています(見ていると下段からでないケースもありますが…)。


   コンカドールの鉢を買ったよ


 ゆったりと 泊まり勤務を 楽しんで
 「お疲れさん」と
 ユリの鉢買う

 二〇〇四年五月二十二日午後、東京都小金井市の貫井南町五丁目のバス停の近くの花屋に、すばらしいユリの鉢がありました。コンカドールです。
 「うわーーっ、すっごーい」という感じです。
 「すばらしいですね。高いでしょうね。おいくらですか」
 若い男性の店主は「千円おまけして、千五百円にさせていただきます」。
 コンカドールは、ユリ科ユリ属です。
 二首目は、二〇〇五年三月の作品です。


   「ガザミアという名だったんだ」


 一月(ひとつき)も わからなかった 花の名を
 教わっちゃったよ
 ガザミアだって

 二〇〇四年五月二十三日、日曜日。計四時間ほど東京都府中市を自転車で走りました(後半は雨具を着て、はーはーいいながら…)。
 発見、二つ。
 その一。いろんな所で、庭の手入れをする人たちに出会いました。これは、一種、ムーブメントですね。
 その二。いろんな所で、集団で外遊びする小学生らしい女の子たちに出会いました。なぜか男の子が見当たりません。
 妻に聞くと「男の子たちは、サッカーや野球のチームに入っていて、小学校にいっているのよ」。
 そんな子ばかりはないでしょうね。きっと。
 この日、植物の名前をいつくか知りました。
 カキモドキ。
 アマゾンリリー。
 ガザミア。
 「奇麗ですね。この花は、何という名前ですか」
 花の好きな人は、このひとことで仲良くなれます。


   バラたちは、赤く燃え立って


 君よ、バラ!
 アルティッシモの 名のもとに
 新宿の野に 赤く燃え立つ

 六月に 見たいバラの名
 「ピエール・ド・ロンサールなの」
 彼女の化身か

 とげのある バラに魅かれる
 心根(こころね)が
 わかりはじめて 中年となる

 二〇〇四年五月二十五日午後。泊まり番明けで東京都新宿区の新宿御苑に。ここで、この花と出合いました。
 いい形をしたものに女性カメラマンが、ずーっとカメラを向けています。
 「さすがに、いいのを見つけましたね」
 「向こうのほうにもたくさんバラがありますよ。ひっかかってしまって、半日、バラを撮っています」
 というタイミングで場所をあけてくれました。
 花好きは、いい人ばかりです。
 花の短歌集を読んでくださったかたから、いろいろ花情報が届いています。
 二〇〇四年六月二日。埼玉県の女性からスイフヨウが出てくる小説や歌についての手紙。
 翌三日。大阪府の女性から「私はこの時期、ピエール・ド・ロンサールというバラを求めてウロウロします」とのはがき。
 ピエール・ド・ロンサールは、重ねの厚い、大輪花。白で花芯にほんのりピンクがかかります。
 ピエール・ド・ロンサールは、「バラの詩人」と呼ばれた十六世紀フランス詩人の名前です。
 三首目は、二〇〇五年三月の作品です。


   モナリザを二鉢(ふたはち)買って


 モナリザの 「処分」品です 五百円
 二鉢買って
 庭隅に置く

 二〇〇四年五月二十七日午後、泊まり明けで、あちこちとまわって、ついに最寄のバス停で下車。
 その前のスーパーの花屋にユリのモナリザの「処分」品が二鉢置いてありました。一鉢五百円。
 「これ、今年は、もう咲かないんですか」
 「もう咲きませんねー。球根ですから、来年も大丈夫です」
 二鉢とも買ったら、「おまけ」にユリの球根を三つくれました。
 鉄砲百合(白)、コネチカットキング(黄)、グランドパラディソ(赤)です。
 買ってきたユリたちを庭に植え、水を打って、静かに庭を見ました。
 この庭は、T字型の狭い庭ですが、植物がいっぱい。
 キンモクセイ、クワ、アンズなどの木々を、風が、ざわざわとわたっていきます。
 ユリの花が目当てなのか白いチョウチョウが舞っています。
 すごくいい情景です。


   ササユリのサイトがあったよ


 ササユリの 開花のシーン 見せている
 サイトがあったよ
 繰り返し見る

 二〇〇四年五月二十八日、僕の花の短歌集を読んでいただいた男性から、和歌山県出身でササユリが好きなんだが…というはがきをいただきました。
 ササユリってどんな花なんだろうとインターネットを検索していたら、shopin(ショパン)さんのサイトにササユリがありました。ここにしばらく立ち寄って開花するシーンを見せてもらいました。
 ササユリは、ユリ科ユリ属。紫の少しはいった薄いピンク色の花です。葉がササの葉に似ています。日本固有のユリで、近畿、中部、中国、四国、九州の一部に自生しています。


   キンシバイだったんだ


 買ってきた 『花の名前』の 表紙です  
 「ああ、この花だ」
 名はキンシバイ

 二〇〇四年五月二十二日、僕の最近出した花の短歌集についてのある若い女性の感想を聞きました。
 「いままでは政治や社会の短歌ではスローガン的なものが多く、妻、孫を歌ったものは『好き。好き』というちょくさいなものが多かったけれど、今度の歌集は、花をテーマにしているので、花に託して政治や妻、孫をうたっていてもスローガン的、ちょくさい的でなくなっていて、よい。今度の歌集を読んで、人間は成長するものだと思った。これは、ものになるかもしれないと思った」
 僕の意図するところを深くくみ取ってくれた、うれしい批評でした。
 この日は泊まり明け。午後、散歩をしていたら東京都渋谷区千駄ヶ谷五丁目の千鳩(ちはと)児童遊園地で黄色のビヨウヤナギのような花がたくさん咲いていました。
 しかし、形が少し違います。何という花なんだろう。
 六月一日の泊まり明けの午後、東京都のJR三鷹駅を降りて、北口から玉川上水脇を三鷹市との境まで歩きました。
 その途中に同じ花に出合いました。雨露をたたえて「うつくしかー」って感じでした。
 夕方、府中市に帰り着いて 『花の名前』(浜田豊著、日東書院)を買いました。
 その本の表紙に、この花の写真が載っていました。キンシバイという名前でした。
 キンシバイは、中国中部原産で、オトギリソウ科オトギリソウ属です。


   クチナシの甘い香りにひかれて


 また合えた
 優しい姿の クチナシと
 話し合ってる 六月の午後

 クチナシの 甘い香りに ひかれてか
 アリ、群がって
 生気吸い取る

 夕闇に 八重のクチナシ 映えていて
 香りの中に
 抱かれ、夢見る

 実をつけた クチナシの木を 植え込んで
 門松として
 新年迎える

 二〇〇四年六月六月四日午後、仕事で東京都大田区の池上、東矢口にいったら、今年は初めて見る花にたくさん出合いました。
 アガパンサス。
 クチナシ。
 ヤマユリ。
 白いユリ。
 エンゼルトランペット。
 などです。
 花の季節が急速に変わりつつあるようです。
 クチナシは、アカネ科クチナシ属です。
 真っ白な花で甘い香りをはなちます。花には、一重と八重咲きがあります。
 二首目は、同六月九日午前、東京都国分寺市東元町で。
 一重(ひとえ)の白いクチナシが少し茶色になりかかっていてるものに十数匹のアリが群がっていました。
 「すごい光景を見てしまった」という感じでした。
 同年六月十七日夜、わが家近くにたどり着きました。
 近くのアパートの庭に八重のクチナシが咲いていました。
 鼻を近づけて、すーっと空気を吸い込むと「うーん。いいにおい」。
 同年十月二十六日。休み。しかし、グロッキーで午後三時までグーグーグーグー。自転車で近くの園芸農家へ。実をつけたクチナシの木を買いました。
 クワで深さ五十センチメートルほどの穴を掘って植え込んだのですが、この作業だけでもフーフーいっています。
 鍛えなければ……。


   ヤマボウシが青空に咲いて


 青空を ふと見上げれば ヤマボウシ
 白のほほ笑み
 「たまには見上げて」

 ヤマボウシ 赤い実一つ かんでみる
 口に広がる
 自然な甘さ


 二〇〇四年六月五日午前、東京都国分寺市の都営東元町一丁目アパートにさしかかり、ふと見上げたら「あっ、ヤマボウシが咲いている」。十メートルくらいの木の上のほうでした。
 これに気がつかなかったのは、このところ、うつむきかげんで歩いていたからなのでしょうか。
 実は、JR国分寺駅の丸井デパートの八階の広場にも、ヤマボウシが咲いていて写真にも撮っていました。でも、ここのヤマボウシが咲いていることには気がつきませんでした。
 ヤマボウシは、ミズキ科ヤマボウシ属の落葉高木。
 四枚の先端がとがった花弁のように見えるのは総苞です。中央部にあるつぶのような一つずつが花です。雄しべが四本突き出ていて、黄緑色の四弁の花があります。
 どうも体の調子が「いまいち」です。九月十日は、風邪で職場を休んで、一日、何にも食べずに寝ていました。いえ、夜中に少し元気になって、ナシを二つ食べました……。
 一夜明けた十一日午後、ふらふらと、いつもより二時間も早く家を出ました。出勤です。
 途中、丸井デパートの屋上の庭に寄りました。
 「あっ、ヤマボウシの実が熟れている!」
 直径二センチメートルくらいのゴルフボールのような凸凹のある赤い実です。
 こっちに一群れ、そして、あっちに一群れ。
 赤い実がたくさん下に落ちていました。
 新しそうなのを拾って口に入れると、「甘くておいしい! なんか自然な甘さだなぁ。いいなぁ」。
 元気の出る甘さです。
 さぁ、職場に向かおうか。


   テイカカズラと定家の思い


 真っ白の 五弁のプロペラ 回ってる
 テイカカズラは
 涼風の中 

 そいとげぬ 女性の墓に まつわるか
 テイカカズラは
 げに恐ろしき 

 二〇〇四年五月二十九日午後、東京都世田谷区北沢を歩いていて五弁の白い花と出合いました。花弁がスクリューのようにねじけています。しばらく写真を撮りました。しかし、この花の名前がわかりませんでした。
 六月十日午後、東京都国分寺市の「お鷹の道」を歩いていたら、また、この花に出合いました。
 その後、泊まり勤務。仕事が一段落して花の本を読んでいて、やっと名前がわかりました。テイカカズラでした。
 キョウチクトウ科テイカカズラ属です。付着根を出しながら、他の樹木や岩にはい上がって成長します。
 テイカカズラという名は謡曲(能の台本)の「定家」に出てきます。
 平安時代の終わりごろ、後白河法皇の第三皇女式子内親王は、幼くして賀茂斎院となり、十年にわたって神社に奉仕していましたが、病のために退きました。このころ、歌人の藤原定家(一一六二-一二四一年)が皇女を慕っていましたが、皇女は独身を守って四十九歳で病気のため亡くなりました。それでもなお、皇女を慕った定家は蔦葛(つたかずら)となって、皇女の墓石にまつわりつきました。
 定家、恐るべし。


   ナツツバキは切ない一日花


 ナツツバキ
 一日花か 切ないね
 この日の形 目に焼き付ける

 腐葉土を もらっちゃったよ
 ナツツバキ 咲いてくれよと
 ほどこしてやる

 二〇〇四年六月十二日午後、自転車で東京都小金井市貫井南町五丁目を「散歩」していたら白いツバキのような花に出合いました。
 その家の男性に聞くと「シャラです。ここいらは建売り住宅だから、どこの家にも咲いています」。
 家に帰って調べたらシャラノキ、ナツツバキでした。ツバキ科ナツツバキ属です。
 ナツツバキの花は直径六センチメートルほど、五枚の白い花びらにしわがあり、ふちには細かくギザギザがあります。
 ナツツバキは、一日花で一日を咲いて花の形そのままで木の下に落ちてしまうといいます。
 翌十三日午後、近所の園芸農家にいったら二メートル五十センチメートルほどのナツツバキがありました。えい、と思って買ってきました。
 七月七日午後。泊まり明けで、いつもの新宿御苑通り抜けコースでJR新宿駅へ。
 同園新宿口隣りの「東京みちの情報館」(国土交通省東京国道事務所)に立ち寄ったら、帰りに腐葉土を一袋、お土産にもらいました。
 街路樹からせん定した枝を細かく砕き、米ぬかや植物性発酵促進剤を加えて発酵させたものだといいます。
 午後六時過ぎに帰り着いて、わが家の庭にほどこしました。
 さぁ、どんな効果が出るか……。
 それはそうと眠い。
 昨夜は、夜中の携帯電話のニュースの受信が頻繁で、何回も起きたこともあり、超眠い。少し寝てから活動を再開します。
 このパターンだと、時々、そのまま朝まで寝込んでしまいますが……。


   トケイソウは暮らしの時を刻む


 プー、ピーの とうふ屋さんの くるまちで
 トケイソウ花 
 時、刻んでる

 あなたの地域には、とうふ屋さんはやってきますか。
 一度、京都市で、とうふ屋さんがやってきているまちを歩いたことがあります。
 東京都でも、夕方、JR中野駅のホームから、南口方向にある東京都住宅供給公社中野住宅(中野区中野二丁目、四階建て)を見ていて、とうふ屋さんがやってきている姿に出合ったことがあります。
 「一度、あの団地にいってみたいなぁ。きっと庭にも花がいっぱい咲いているだろうな」
 この一年ほど、そう思いつつ、きっかけがありませんでした。
 二〇〇四年六月十六日。泊まり明け。新宿で六十ミリの接写レンズを買いました。その勢いで(?)、「よーっし」と、いってみました。
 やっぱり、そこの庭には、アガパンサス、白いユリ、アジサイ、トケイソウと花がいっぱい奇麗に咲いていました。
 住んでいる人々の気持ちが伝わってくる庭でした。
 午後五時半ころ、五十ccバイクに乗った男性が団地に到着。彼が、プー、ピーのラッパを吹き鳴らすと、各棟から女性たちがやってきます。
 とうふ屋さんです。
 しっとりとした生活がある空間でした。


   キュウリの花はオレンジの五弁


 農園に オレンジ五弁が 群れ咲くよ
 キュウリ大好き
 ハチもぐりこむ
 
 東京都国分寺市東元町二丁目の市民農園に黄色の五弁花が咲いていました。二〇〇四年六月十八日午前のことです。
 作業している男性に聞くと、キュウリだそうです。
 ハチが飛んできて、花の中心にもぐりこんで見えなくなってしまいました。
 キュウリは、ウリ科キュウリ属の一年生果菜。原産地はインドのヒマラヤ山ろくで、日本には中国を経て渡来したといいます。


   ノウゼンカズラは天をつかもうとして


 天つかむ ノウゼンカズラに 励まされ
 歩く、しゃべるの
 五時間の業(ぎょう)

 よじ登り 空(そら)つかもうと 花咲かす
 ノウゼンカズラか
 友らほがらか

 二〇〇四年六月十九日午後、東京都狛江市(こまえし)にいきました。
 晴天。歩いていると各地でノウゼンカズラの花と出合いました。
 今年は初めての出会いです。
 いろんな木によじ登り、「この先は、もうないのか」とばかり、空に向かっている「すごさ」。
 圧倒されるような感じです。
 二〇〇五年六月三十日。特別の休み。午前九時から夜九時まで、地域を走り回りました。
 世の中を変えようとする群像を、間近に見ました。感激しました。
 同年七月四日、散歩をしていてノウゼンカズラと出会いました。
 よく花を見てみると、雄しべと雌しべらしいものが、上の花びらにぴったりとくっついているんですね。
 こういう仕組みで、花が斜め上に向かうようになっているのではないでしょうか。


   オシロイバナは午後の開花を待っている


 線のよな つぼみそろえて
 午後からの 開花待ってる
 オシロイバナは

 吉報を 両手にかかえ 夜中道
 オシロイバナが
 赤く咲いてた

 夜の道 ひょいと折れたら
 黄の光
 オシロイバナが 「お帰りなさい」

 二〇〇四年六月二十日午前、出勤の道でオシロイバナ(白粉花)に出合いました。まだ花は開いていませんでした。
 夜十時半前、職場で「東京都狛江市」の吉報を聞きました。
 その後、家路をたどり、家の近くまでくると、赤いオシロイバナが咲いていました。
 オシロイバナは、オシロイバナ科オシロイバナ(ミラビリス)属。別名、ユウゲショウ(夕化粧)。
 花は午後四時ころから開くので、英名ではfour-o'clockと呼ばれます。花の色は、赤、白、ピンク、黄色、絞り。
 この花の実は五ミリくらいの黒い実です。皮を取ると白い粉っぽい実が出てきます。


   ノカンゾウが緑のオアシスにいました


 ビル街に 緑のオアシス どんとあり
 ノカンゾウ花
 迎えてくれた

 前夜はほとんど眠れなかったのにかかわらず「泊まり明けの午後の散歩」を敢行しました。二〇〇四年六月二十三日のことです。
 行き先は、JR山手線、東急目黒線目黒駅東口徒歩十分、東京都港区白金台五の二一の五の国立科学博物館付属自然教育園です。
 ビル街の一角の起伏に富んだ池のある六万坪の雑木林です。
 元は四、五百年前の中世豪族の館。当時の名残の土塁も残されています。その後、江戸時代は松平讃岐守頼重(高松藩主)の下屋敷。明治時代は軍の火薬庫。大正時代は宮内庁の白金御料地に。一九四九年に天然記念物・史跡に指定され一般公開されました。
 いろんな植物に出合いました。
 ○ハンゲショウ。ドクダミ科ハンゲショウ属。水辺に咲いていました。最上部の葉の一枚の基部の分以上が白くなっています。白い葉に向かい合って細い穂状の花が咲いています。
 ○ノカンゾウ。ユリ科ワスレグサ属。「わーっ、合えたぞー」という感じ。湿原にやってきたような感じになりました。橙赤色の花を咲かせていました。花は朝咲いて夜にはしぼむ一日花です。
 ○トモエソウ(巴草)。オトギリソウ科オトギリソウ属。花は直径四、六センチメートルと大きく、花弁は五個あり巴型にねじています。多数のおしべがよく目立つところはビヨウヤナギによく似ていますが、ビヨウヤナギは花弁があまりねじれていません。一日花です。
 ○ヌマトラノオ。サクラソウ科 オカトラノオ属。なるほど、この花は尾っぽです。
 ○タカトウダイ。ウダイグサ科トウダイグサ属。
 ○コウゾ。クワ科コウゾ属。赤い実を、たくさんつけていました。食べたら、甘くておいしい! 樹皮の繊維から和紙を作ります。
 一時間半ほど歩いて帰宅の途に。JR武蔵小金井駅南口近くの「本町六丁目子供広場」に寄ったら、ここにもハンゲショウが咲いていました。


   ソケイの純白の花は身をそらして


 身をそらし 捨て身のごとく 向かいくる
 純白の花
 その名はソケイ

 二〇〇四年六月二十五日午後。泊まり勤務が終了。新宿御苑コースで帰ることにしました。「千駄ケ谷門」から入り、「新宿門」にぬけて、JR新宿駅を目指すという帰宅のコースです。
 雨の中、傘もささないで黙々と歩きました。八重のクチナシ、ムクゲ、アガパンサス、インドハマユウ、ハナシノブ、ソケイ……と、いろんな花に出合えました。
 ハナシノブ。ハナシノブ科。日本固有種。長さ十一-十五ミリ。世界中で、九州の阿蘇の草原だけに自生するとのことです。
 インドハマユウ。ヒガンバナ科の多年草。インド原産。すらりとのびた茎先にユリに似た大輪の純白の花が咲き誇ります。
 ソケイ(素馨) 。モクセイ科ソケイ属(ジャスミン)。インド北部・ネパール原産。花は白く、花弁の外側が淡紅色。香りが強く夜は特によく香ります。素馨は、中国の美人の名前に由来するとか。
 新宿御苑内の食堂で遅い昼食をとり、電車で家へ。帰るなり、倒れこむように寝て、夜十時ごろ起きて、明日の仕事の構えをして……というのが僕の日常です。


   ムクゲは身を巻き込んで


 街角の タチアオイ去り ムクゲ咲く
 季節の中を
 人いきかうか

 くるくると 身をしっかりと 巻き込んで
 落花している
 ムクゲの清さ

 ムクゲ白 パッと咲いたよ
 植えてった
 弟、きょうも 農に励むか

 二首目は、二〇〇四年六月二十七日、近所を歩いていての「発見」。
 二カ所で見ましたが、いずれも白花のムクゲでした。
 去っていく時でも「どうでもいいや」ではないところに心を動かされました。
 でも、少しさびしい短歌になってしまいましたね。
 八月九日午後、わが家の庭に白いムクゲの花を三輪咲かせていました。
 このムクゲは、年末から正月にかけて、わが家にやってきていた、高知県の弟が植えていってくれたものです。


   ネムノキは桃色の糸でつくった玉

 桃色の 糸でつくった 玉のよう
 近所の広場に
 ネムノキ咲いてた

 二〇〇四年六月、七月。比較的泊まり勤務が多く体の調整に苦心しています。
 六月二十九日、三十日が泊まりでしたが、三十日は帰ってきたらバタンキュー。よく寝たおかげで七月一日は午前八時に起きて、じっくり新聞を読んから、オートバイで銀行へいったり、自転車で食材を買いにいったり…。
 で、近くの都営団地の集会所の横の広場にネムノキが咲いているのを見つけました。細い糸で作った玉みたいな感じの花です。
 春には桜が奇麗な広場ですが、ネムノキがあったとは知りませんでした。
 ネムノキは、マメ科ネムノキ属の落葉高木です。
 英語では Silk tree です。
 おっと、そろそろ出勤の時間です。
 きょうも泊まり勤務です。よーっし、がんばるぞ。


   エゾイソツツジの絵はがき


 巡演の 友の絵はがき
 着いた朝
 エゾイソツツジが 微笑んでいた

 二〇〇四年十月五日朝、新劇俳優のKさんから私たち夫婦宛に絵はがきが届きました。
 「この花はいかが?」
 エゾイソツツジの花の写真でした。
 白い五弁の花がたくさん集まって球形をつくっています。
 北海道の花です。ツツジ科イソツツジ属。花が咲くのは六月とのことです。
 「札幌中央」の消印です。
 「こちらは、山道走ってる時、紅葉もきれいだけど、この前の台風で、木が根こそぎ倒れたり、折れたりしていました。旅班は順調にいってます」
 九月二日から十二月二十七日まで、関東、東北、北海道、甲信、東海、近畿、九州の一道一都二府十九県を巡演するとのことです。
 大変な仕事ですね。


   レインリリーが咲いた日


 息子(こ)の夢が かなった祝い
 夫婦して
 レインリリーを 鉢に植えてる

 二〇〇四年五月八日夜のことです。
 レインリリーは、 ヒガンバナ科ゼフィランサス属の多年草(耐寒性球根)です。マンジュシャゲの仲間なんですねー。別名は、ゼフィランサス、 タマスダレ。
 五月十五日、もういくつか芽が出ていました。楽しみです。
 わーっ、咲いた、咲いた。
 九月七日朝、わが家の門の手前のレインリリーが、一つだけ白い可憐な花を咲かせていました。
 いつになっても咲かないので、あきらめかけていたところでした。
 出勤の途中で見ていると国分寺市東元町の、もとまち図書館前のマンションのとこにも、渋谷区千駄ヶ谷の路地にも咲いていました。
 つつましやかに咲いているので、注意深く見ていないと見逃してしまいますね。
 この日は、すごい風の台風18号で九州、中国、四国は大変でしたね。そちらは、いかがでしたか。
 仕事を終えて夜十一時前に渋谷区の街に出たのですが、風がすごくて、近くのビルの縦型の看板が大きく揺れ続けていました。
 のっぽのドコモビルのほうを見たら、雲がすごい勢いで飛んでいました。
 国分寺駅南口前には消防車、パトカーが何台も止まって「何か」に備えていました。


   ユリノキが見てきたこと


 生きてきた 百三十年の 世を想い
 ユリノキ、青空(そら)に
 葉ばたいている

 二〇〇四年十月十七日午後、泊まり明けの「三時間の散歩」は、いつものとおり東京都の新宿御苑になりました。
 ジュウガツザクラが咲き始めていました。
 白やピンクのサザンカが咲いていました。
 チャの花が咲いていました。
 例の(百合の樹)に、また、圧倒されました。
 一八七六年ころに、ここに植えられた木です。
 樹高約三十五メートル、幹周約三・九メートルもあります。
 ユリノキは、モクレン科。初夏にチューリップのような白い花をつけます。英名は tulip tree です。
 もう紅葉し始めていました。

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総集編 短歌の花だより 夏


   わが家のヤマユリの旗


 一月に 植えたヤマユリ 二つとも
 梅雨吸い取って
 背丈グイグイ

 ヤマユリが 咲いていたよの メールくる
 見にいきたいね
 夜中の思案

 美しさ 何にたとうか 
 ヤマユリが
 わが庭先に 咲いたこの朝

 「ク、ク、ク、クッ」 男泣きする 夜もあるさ
 家に帰れば
 ヤマユリ盛り

 ヤマユリを わが旗として たたかわん
 ジャンヌのごとく
 平和掲げて

 ジーという セミの合唱 聞きながら
 ヤマユリたちは
 白のほほ笑み

 ヤマユリに
 「北上(きたかみ)夜曲」 思い出す
 「匂い優(やさ)しい…」  歌って下る


 二〇〇四年五月十九日、雨。もう本当は梅雨入りしているのでしょうね。
 庭のヤマユリ二本の丈は五十センチメートルを超えました。
 花の咲くのを楽しみにしています。
 七月三日。名古屋市に出張していて、夜中に家に帰ってきたら、花の写真を撮っている男性Sさんからメールがきていました。
 東京都府中市の浅間山(せんげんやま)で「ヤマユリが咲きました」というお便りと、ヤマユリの写真です。
 さすが、奇麗な写真です。
 まだ、二本くらいしか見つけることができなかったとのこと。「来週ぐらいからなのだろうか」。よーっし。
 しばらく前、わが家の玄関先にヤマユリの球根を二つ植え込みました。せっせと水だけはやっていました。一本は三つの、もう一本は五つのつぼみをつけました。
 そして、七月六日朝。三つのつぼみのほうの一つが開いていました。全開ではありませんが、みごとな気品のある花です。
 カメラを持ってきて記念撮影。
 それにしても二本とも自分の重さで倒れそうです。
 ステッキを支え木にしました。
 三首目は、七月十二日午前一時に、仕事を終えて、わが家に帰り着いた時の思いです。ヤマユリの花が三つ美しく咲いていました。
 メーラーを開くと、Sさんから新しいヤマユリの写真が届いていました。
 ところで、少女・ジャンヌ・ダルクのことです。
 フランスとイギリスとの間の戦争で、彼女が、神のお告げをきいて立ち上がり、イギリス軍に取り囲まれたフランス軍の最後のとりで・オルレアンを解放します。
 その時、彼女が携えていた旗にユリの花が描かれていたといいます。
 浅間山(せんげんやま)の夏は群れ咲くヤマユリです。
 と、いいながら、ことし二〇〇四年は、なかなか足を運べませんでした。
 七月十四日、とにかく明日の朝はいこう、とにかく午前零時になるまでに寝よう。うまくいきました。十五日は午前七時に起床。七時半から自転車でゴー。三十分で到着。
 少し上ると山はセミの合唱でおおわれます。
 ここにも、あそこにも。ヤマユリです。
 ヤマユリを見ていて「北上夜曲」(作詞・菊地規、作曲安藤睦夫)の一番の歌詞を思い出しました。
 「匂い優しい 白百合の 濡れているよな あの瞳 想い出すのは 想い出すのは 北上河原の 月の夜」
 作詞者の菊地規(のりみ)さん(一九二三-八九年)は、岩手県江刺市出身。作曲者の安藤睦夫さんは、その友人で岩手県種市町出身です。
 菊地さんは、水沢農学校の生徒でした。
 同校に、安藤さんという配属将校がいました。
 菊地さんと安藤さんは江刺市愛宕(おだき)の下川原の同じ下宿に住んでいました。
 八戸中学校の生徒だった安藤睦夫さんが、叔父の安藤将校の下宿を訪れて、菊地さんと出会います。
 二人は意気投合し、歌をつくる約束をしました。
 一九四〇年十二月、安藤睦夫さんに曲をつけてもらうために、菊地さんが初めて作詞したのが「北上川のささやき-今はなき可憐な乙女に捧げるうた」。 
 安藤さんが、それを作曲したのは翌四一年二月のことでした。
 それが「北上夜曲」です。
 以下、岩手県の北上観光協会のホームページから。
 〔日華事変の中の昭和16年2月、まさに軍歌行進曲全盛の中で、「北上夜曲」は生まれた。当時、作詞者の菊地規さんは18歳、作曲者の安藤睦夫さんは17歳。歌にもりこまれた青春のロマンチシズムは、軍国の風潮に対する若者の、ささやかな反抗でもあった。
 師範学校の寮で、菊地さんはオルガンを弾きながら、級友と北上夜曲を歌った。この級友たちは、やがて小学校の教師として岩手県内の各地に赴任した。安藤さんは戦時中の勤労動員先で、仲間と北上夜曲を合唱した。
 こうしてこの歌は、暗い時代に咲く日陰の花のように、岩手県の若人の胸にひろがり、やがて敗戦を迎える。
 ……〕
 このページにもヤマユリの写真が載っていました。
 浅間山は、標高八〇メートル。浅間町四丁目、若松町五丁目にあります。JR中央線「武蔵小金井」から京王バス府中行き、「浅間町」下車です。
 おっと、そろそろ出勤です。本日は泊まり勤務です。


   白いキョウチクトウは緑の中で


 白、一重 緑の中に 輝くよ
 キョウチクトウを
 見つめてる朝

 二〇〇四年七月五日午前。千葉県流山市の若い女性の平和のメッセージをのせたはがきを受け取りました。「陽の光の下で、何の恐怖もなく、大の字になって転がれる日が、イラクの人たちの近い未来に訪れるように、今私にできることを考え、声にだそうとする毎日です」
 この日、出勤の道でキョウチクトウに出合いました。白い一重の花です。白いプロペラといった感じの花で、テイカカズラに似ています。
 キョウチクトウは、キョウチクトウ科キョウチクトウ属です。
 キョウチクトウといえば、すぐ「夾竹桃(キョウチクトウ)のうた」(作詞・藤本洋さん、作曲・大西進さん)を口ずさんでしまいます。
 「夏に咲く花 夾竹桃 戦争終えた その日から 母と子供の おもいをこめて 広島の 野にもえている…」
 一九六九年の第十五回原水爆禁止世界大会で発表された曲です。
 妻の父は、水中の特攻隊員でした。片道ガソリンの五人乗りの小型潜水艦でアメリカ軍の艦船に「突撃」する訓練をしていたのです。訓練中にアメリカ軍機の攻撃で重傷をおって広島県呉市の海軍病院に収容されていました。四五年八月六日、アメリカ軍機が広島市に原爆を投下。被害者たちが義父のいた病院にも押し寄せました。押し出されたかっこうで義父たちは列車で鳥取県の病院に移送されました。その途上、広島駅で見た広島市の惨状……。
 広島の、長崎の、沖縄の、日本国中の「キョウチクトウの思い」は「平和」です。


   スイレンの根っこに託す思い


 独立の マレーシアの意気
 スイレンに 託す小説
 胸熱くして読む

 このところ、出勤の道の楽しみは東京都国分寺市の市立もとまち図書館の入口脇にある「リサイクル図書」コーナーに立ち寄ることです。図書館で使っていた本を無料でわけてくれるのです。
 二〇〇四年七月九日。ここで三冊ゲット。
 その一つが 『スロジャの花はまだ池に』(アディバ・フミン著、松田あゆみ訳、段々社)です。
 スロジャの花は、スイレンの花のことです。
 西洋流の教育をうけ、英文学やクラシック音楽を愛する政府高官の一人娘ディアナ(愛称アンナ)。恋人の、現実主義的な若手官吏のルスリとの婚約にためらいを感じています。そんな中、アンナは、大学で民族学を学ぶ従兄リドワンに次第に心ひかれていきます……。一九五七年八月三十一日のイギリスからの独立後のマレーシアに新しく出現した中流知識階級の人々の生活を背景に、二つの恋に迷いながらも、自己の根ざすべき場所を探し求めるていくマレーシアの娘ディアナを描いた青春小説です。
 スロジャの花が、この小説の中で描かれているわけではありませんが、野の池に根を張って花を咲かせる野生のスイレンのように、自分の生まれ、育ったマレーシアの地を踏みしめて生きる決意をする主人公ディアナを象徴しているようです。
 以下、この小説の最後のページのディアナとリドワンの夜中の二時の電話でのやりとりです。
 ディアナ 「わたし、自分の根がどこにあるかが分かったの」
 リドワン 「その場所は、どこだったの、アンナ?」
 ディアナ 「わたしの根が今、掴(つか)んでいる、このマレーの土地よ」


   オニユリの不思議


 完ぺきな おしべ、めしべを そなえてて
 胚(はい)なき種を
 つくるオニユリ

 オニユリの 茶色の花粉 腕につけ
 アップ、アップで
 迫っているよ

 うつむいて咲くオニユリ。
 花は午前二時ころから咲き始め、二、四時間で咲き切ります。
 花びらのような外側の三枚は、がくが変化したもの。その内側が本当の花びらです。六枚とも、オレンジの地に黒っぽいたくさんの斑点がついています。
 めしべが一本。それを囲むように六本のおしべが花の奥からのびています。おしべの先には茶色の花粉がもりあがっています。
 キアゲハが蜜を吸いにやってきて、受粉の手伝いをします。
 めでたく種ができることがありますが、それには胚がありません。したがって、種は芽を生み出すことはありません。
 原産地の中国や対馬のオニユリには、種で育つオニユリもあるというのに、僕らの接するオニユリは、どうして、こんなふうになったのでしょうか。
 僕らのオニユリは、葉のつけねに育つたくさんのムカゴ、根に育ついくつかのキゴ、新しい球根から新しいオニユリを育てていきます。
 以上、ほとんどの知識は、二〇〇四年七月十三日に読んだ『科学のアルバム ユリのふしぎ』(今井國勝著、あかね書房)によるものです。
 「…日本の野にさくオニユリは、突然変異でうまれ、実ができなかったり、できてもたねに胚を育てるしくみのないユリなのです。
 でも、オニユリは、たねにかわるいのちをたやさない方法として、球根をはじめ、たくさんのキゴやムカゴを育てます」
 二首目は、二〇〇四年七月十六日、泊まり明けで最後の気力を振りしぼっての撮影です。


   ヒマワリ一花(ひとはな)の二千の種


 一花に 二千もの花 集め持つ
 ヒマワリ花の
 二千もの種

 ヒマワリの花は、外側のものだけではありません。
 その内側のリング状の所も花。
 中心の円い所も花。
 ヒマワリの花は、外側から一枚一枚めくれるように咲いていきます。咲き始めてから約一日半で、ぜんぶが開き終わります。
 これも二〇〇四年七月十三日に読んだ『科学のアルバム ヒマワリのかんさつ』(写真・叶沢進、文・白子森蔵、あかね書房)による知識です。


   ヤブカンゾウは川音を聞きながら


 街中(まちなか)の
 仙川の音 聞きながら
 ヤブカンゾウが 群れて咲いてる

 二〇〇四年七月十七日。休み。午後からオートバイで東京都三鷹市、調布市内の仙川に沿って走ってみました。気に入ったのは平和の像のある仙川公園、ヤブカンゾウがいっぱい咲いていた仙川遊歩道です。
 平和の像については、以下の三鷹市のホームページに載っていました。
 〔みたか百周年記念事業の一環として、平成元年11月、故北村西望氏の代表作「平和祈念像」を、三鷹の平和のシンボル「平和の像」として、建立したものです。
 この像の原型は、長崎市に建立された像をもとに作成されました。作者の北村西望氏は、三鷹市に隣接する井の頭公園内にあったアトリエで、長年、創作活動を続けられ 、その間、市内の小学校と交流を深めるなど、三鷹市と深く関わりをお持ちでした。
 「平和の像」の建立にあたっては、市民による組織「みたかに平和の像をつくる市民の会」が発足し、募金活動によって、多くの市民からの浄財が寄せられました〕
 ヤブカンゾウは、ユリ科ワスレグサ属です。
 ヤブカンゾウは八重、ノカンゾウは一重です。
 ヤブカンゾウの染色体は三倍体で、生殖細胞が正常に分裂できないため、花は咲いても実を結ぶことはありません。地下茎が分株して繁殖します。


   ハイビスカスは「恋の花」です


 つぼみ持つ ハイビスカスの 鉢買って
 夕焼け空に
 向かって帰る

 玄関の 淡い灯(ひか)りに 照らされて
 ハイビスカスは
 咲いて待ってた

 泊まり明け 夕闇時に 帰り着く
 ハイビスカスは
 「お先に寝るわ」

 熱射日に 枯れかけていた
 ハイビスカス
 四つの花を 咲かせたこの朝

 タヒチでは ハイビスカスは 恋の花
 その花々の
 真中にたたずむ

 雨を得て ハイビスカスが 輝いて
 「元気になって」と
 歌っているよ

 ハイビスカスの別名はブッソウゲ。植物分類 アオイ科ハイビスカス(フヨウ)属の常緑低木です。
 二〇〇四年四月二十九日夕方、泊まり明けのぶらぶら歩きの終点近くの花屋さんで立ち止まりました。ハイビスカスの鉢があったのです。欲しかった花です。鉢を二つ買いました。
 意外に早く咲きました。
 二首目は、四月三十日夜のことです。
 三首目は六月八日のことです。
 梅雨の季節の猛暑に庭のハイビスカスの葉が枯れそうになっていました。
 で、被害にあっていた鉢たちを日陰に移し、何日も、せっせと水をやりました。
 ハイビスカスは生きかえり、つぼみをつけはじめました。
 七日十二日。出勤前に、玄関脇のハイビスカスを見たら、やっほー、オレンジの花が四つ咲いていました。
 「しずおか国際園芸博覧会 第二十一回全国都市緑化フェア 浜名湖花博」が開催中です(二〇〇四年四月八日から十月十一日まで)。
 七月二十日午後、いってみました。
 ここの「花みどり未来館」のハイビスカスのコーナーに、こんな表示がありました。
 〔漂白の画家ゴーギャンが愛した南の島タヒチ。
 この島に生まれた乙女は、人を恋する年齢に達すると、恋を求めるサインとしてその右耳に一輪のハイビスカスを飾るという。そして生涯の伴侶が見つかると花は左の耳へ移り、エンゲージフラワーになります。
 ハイビスカスはいわば「恋の花」。
 この花が恋を象徴するとされるのは、その命がきわめて短く、一日花だからだといいます。
 だから、乙女たちは、毎朝露にぬれて咲くハイビスカスを摘み、右耳にかざります。
 「この花のように常に新鮮な乙女でありたいと……〕
 ハワイ州の州花、グアムの島花やマレーシアの国花でもあります。
 ハワイでも、花を右耳にさす女性は未婚、左は既婚者という習慣があるといいます。
 ポール・ゴーギャン(フランス。一八四八-一九〇三年)は、後期印象派の画家です。
 ゴーギャンが、フランスの芸術特使として南太平洋のタヒチを訪れたのは一八九一年、四十三歳の時です。フランスの港を出てから二カ月の船旅でした。
 当時、タヒチはフランスの植民地でフランスは、ここに総督を送り込んでいました。タヒチの都市・パペーテの人口はおよそ三千人。人口の一割にも満たないフランス人が、タヒチの政治、経済を仕切っていました。
 そこでゴーギャンが見て、描いたものは……。
 ところで、「浜名湖花博」。非常に不快なコーナーもありましたが、全体としては一見の価値がありました。
 二〇〇五年五月三十日、風邪をひいてダウン。寝巻きのまま庭にでると、黄色のハイビスカスが奇麗でした。


   ブーゲンビリアの透けるような赤


 青空を 背景にして 咲き誇る
 ブーゲンビリアの
 透きとおる赤

 高知県で「借地農民」をやっている弟と二人、二〇〇五年一月六日から十日までフィリピンにいってきました。
 日本の夏の暑さでした。
 ここでは、出合った花たちを紹介します。
 ● マニラのラサール公園、マラテ地区、コレヒドールなどで、いつも温室で見ている白い花が咲いていました。
 プルメリアです。
 キョウチクトウ科プルメリア属。和名は、インドソケイです。
 この写真はマニラで。
 ● マニラ、コレヒドールなどでハイビスカスを見ました。
 アオイ科フヨウ属です。
 写真は、マニラで。
 ● ブーゲンビリアを、九日、コレヒドールで撮りました。これも、いつも温室で見ている花ですが、青空の似合う花です。
 オシロイバナ科イカダカズラ属です。
 ● コレヒドールでパパイヤの花に出合いました。これは初めてです。
 パパイヤ科パパイヤ属です。


   赤いアマリリスがぱっと咲いたよ


 「二カ月後 ぱっと咲いてね」
 アマリリス 球根四つ
 植える夕時(ゆうどき)

 球根を 植えて育てた アマリリス
 三九度の日
 赤く咲いたよ

 二〇〇四年六月二十八日。朝からハードに「走りました」。
 夕方、一日の疲れ休めの買い物。やっぱり花に手が出ました。白、赤の花が咲くアマリリスの球根です。「植えてから七十日位で大輪の花が一茎から三~四輪咲き大変見事です」とあります。
 「この花がアマリリスか」と、ちゃんとわかったのは、この日、この店で見てからです。実は、あまり花のことはくわしくないのです。
 以下、にわか知識です。
 アマリリスは、ヒガンバナ科ヒペアストラム属です。
 南アメリカ原産。ヒペアストラム属の植物を原種として生まれた園芸種だといいます。
 そういえば、「アマリリス」(岩佐東一郎作詞、ギース作曲)という歌がありますね。「みんなで聞こう 楽しい オルゴールを ラリラリラリラ しらべは アマリリス…」。よく考えると「しらべは アマリリス」って何だろうとわからなくなりますね。
 「恋のアマリリス」(作詞・西条八十、作曲・服部良一)という歌もあります(実は、この日まで知りませんでしたが。一九四九年発表のものだそうです)。「赤い花びら アマリリス 窓にやさしく 咲いた日に 私の胸にも 春風吹いて…」。アマリリスは、春の花なんでしょうか。
 七月二十日。東京では三九・五度にもなったといいます。
 その日夜、愛知県、静岡県の旅行から帰ったらアマリリスの花が四つ咲いていました。
 球根を植えて咲かせた花。僕の五十七年五カ月の人生では、最近のヤマユリに続いて二度目の体験です。


   エゾスカシユリはオレンジに輝く


 花の基(もと) きゅっとくびらせ 
 オレンジに 輝いている
 エゾスカシユリ

 僕の歌集『あなたに贈る短歌の花束』(さがらブックス)を読んでいただいた北海道日高地方の女性から自筆の花の絵を二枚いただきました。野の花や自然が好きで、よくスケッチをして歩くというかたです。二〇〇四年七月二十八日のことです。
 一枚は、エゾスカシユリ(蝦夷透百合)。ユリ科ユリ属。北海道の海岸草地や山地の岩場などに生える多年草です。茎の先に一-五個ほどの花が上向きにつきます。花弁は六枚で濃い斑点があり、基部付近が細くなって、隙間ができます。花の色は明るいオレンジ色から朱色に近いものまであり、蛍光色のようなあざやかな色合いです。いただいものはオレンジです。
 もう一枚は、エゾハナシノブ。ハナシノブ科です。北海道、本州中部以北に分布する日本固有種です。山地のやや湿った岩地に生える多年草で、シダのような葉をたくさん生やし、株になります。青紫色の美しい花を咲かせます。しかし、「めったに見られなくなりました」とのことです。
 ところで、この日夜中から雨が降りました。
 ひさしぶりの雨で気持ちのいいこと。


   コスモスは風の申し子


 「さぁ、止まれ」
 カメラを構え 念じてる
 コスモスたちは 風の申し子

 コスモスの 畑を過ぎて
 おさなごは
 ブランコ見つけ 青空に舞う

 「…コスモスはとてもねばりづよい植物です。風や雨で地面になぎたおされても、地面についたところからどんどんあたらしい根がはえはじめます。そして、くきは、とちゃうからおきあがって上にのびていき、空にむかってうつくしい花をさかせます」(『科学のアルバム別巻 夏休み植物のかんさつ』、文・石原幸夫、監修・大後美保、あかね書房)。
 短歌は、二〇〇四年七月二十九日、出勤の道で。
 最近、出勤のとき、東京都国分寺市の、市立もとまち図書館が開いていれば、立ち寄っています。
 目当ては「リサイクル図書」です。
 九月十七日も、三冊いただいてきました。
 そのなかの一冊が『一つの花』(今西祐行、ポプラ社)です。
 太平洋戦争のときの話です。
 出征する夫を駅で送る妻と、幼い娘の「ゆみ子」。
 夫は「プラットホームのはしっぽの、ごみすて場(ば)のようなところに、わすれられたようにさいていた、コスモスの花(はな)」を見つけて、一輪のコスモスをとってきて「ゆみ子」に渡します。
 夫は、よろこぶ「ゆみ子」を見て、にっこり笑うと、なにもいわず汽車にのっていってしまいました。「ゆみ子」のにぎっている花をみつめながら。
 ……
 この物語の初出は、一九五六年刊の本です。
 僕が、小学生のときです。
 戦争といえば、母の姉の夫が戦死しています。
 本籍・高知県高岡郡佐川町甲一四〇九番地、坂本秀吉。
 海軍上等主計兵。
 所属部隊・第七五五航空隊。
 一九四四年八月十日、マリアナ諸島グアム島において敵部隊と交戦中に戦死。
 それ以外は、わかりません。
 三十歳を過ぎてから、大元帥・昭和天皇に侵略戦争に動員され、アメリカ軍に殺されました。
 母の姉は、戦後、ずーっと独り身でした。
 さびしい人生だったと思います。
 そして、亡くなりました。
 彼女にかわって、いつか、「どういうふうに亡くなったのか」を、つきとめたいと思っています。
 同年十一月四日、休み。
 午後から、久しぶりに娘・カナの家にいきました。
 娘、娘の長女エミ・四歳、二女ユリ・七カ月と計四人で散歩。
 二女はベビーカー、長女は自転車(補助車つき)。
 目的地は上祖師谷(かみそしがや)三、四丁目の東京都世田谷区の祖師谷公園。
 中に仙川が流れていました。
 エミは、広場で走り回って楽しんでいました。
 ユリは、座れるようになり、表情が豊かになりました。


   キツネノカミソリを撮りたい


 メールあけ キツネノカミソリ 楽しんで
 「どこで見れるか」
 夜中の思案

 泊まり勤務を終えて二〇〇四年八月十一日午前零時過ぎ、やっと帰りついたら兵庫県西宮市の男性がメールをくれていました。大阪府茨木市で撮ったというキツネノカミソリ(狐の剃刀)の花の写真が添付されていました。
 僕の知らない花です。
 調べてみるとありました。ヒガンバナ科ヒガンバナ属です。 葉は夏には枯れ、そのあと花茎を伸ばし、黄赤色の花を数個つけます。
 この日は休み。でも、夕方には職場に顔をださなくては…。
 妻は仕事を休んで早朝から人間ドックに。
 ご飯を炊いておいてくれたので、それで「朝昼食」。
 さぁ、「出勤」です。
 途中で東京都の国分寺駅近くの東京都立殿ケ谷戸庭園をのぞいたらキツネノカミソリが咲いているというのです。
 「激写」しました。
 それにしても写真を撮るというのは、かなり激しい肉体労働なのですね。汗まみれになってしまいました。


   カラスウリ真っ白な糸張る


 真っ白な 糸張るという カラスウリ
 ぜひ見たいよね
 あと二カ月後

 三十歳代までは、花のことは、ほとんど意識しませんでした。
 すこしずつ花に興味を持ち出して、いまは「花と出合いたい」は「欲望」に近い感じです。
 いま見たい、撮影したいのは「夕闇に咲くカラスウリの花」。
 カラスウリは、ウリ科カラスウリ属です。樹木などにからみついて蔓(つた)を伸ばしています。
 夏の夜に、花弁の縁が糸状に長く伸びる花を咲かせるといいます。
この花弁は、つぼみの時には折りたたまれているのですが、時が訪れると十分ほどで開ききります。糸の一本一本がみるみる伸びていくそうです。
 開花時刻は日没前後、翌朝にはしおれてしまう一日花だということです。
 どこか、近くに咲いていないかなぁ。
 少し遠くったって(日本列島だったら)、いくのだがなぁ。
 咲いている場所を、ご存知のかた。お教えいただけませんか。


   ヘビウリの白糸五弁の花


 ヘビに似た 瓜つくりだす 植物の
 花のかわいさ
 白糸五弁

 二〇〇四年八月二十七日午後、高知市の五台山の高知県立牧野植物園にいってきました。
 とにかく暑い日でした。
 最初に温室に入ったものだから、暑いのが倍増。くらくらしながら歩いているとアーチ型の棚に一メートル五十センチくらいの白い緑色のヘビが、いくつもぶらさがっています。
 よく見ると植物の実です。
 ヘビウリだそうです。
 その花を見ると白い糸のかたまりのような五弁の美しいものでした。
 ウリ科カラスウリ属。原産は熱帯アジア。
 植物園の裏口から下山してきましたが、ここから下りれるだろうといった先で「いきどまり」。そのうち脱水状態、熱射病状態になりながら地上にたどり着きました。自動販売機で水を買って、一気に飲み、近くの市立青柳中学校で一休みして、ゆるゆると回復しました。


   ノボタンのくねくね雄しべら


 泊まり明け ご苦労様と
 みずからの ねぎらいのため
 ノボタンを買う

 ノボタンの くねくね雄しべら 誘ってて
 立ちつくしてる
 泊まり明け午後

 二〇〇四年八月三十一日の出来事です。
 ノボタン(野牡丹)は、 ノボタン科属名 チボウキナ属の常緑低木です。
 紫紺色の大輪花を咲かせます。
 おだやかな感じの花です。
 この日、サフランの球根を買い、庭に植えました。
 ところで、優しいものいいの大切さを感じる、きょう、このごろです。
 この日も、歯科医にいきましたが、その男性の歯科医師がおだやかで優しいものいいで感心します。
 来週あたりから入れ歯が入ります。生まれてはじめてです。
 奥歯がなくなっているので、よくかまない、それで太るというのが僕の考えです。
 今年中、徹底的に治療して、スリム化作戦をと思っています。
 ところで、妻の父は、九月十一日、十二日に「最後の戦友会」に参加するそうです。海中の特別攻撃隊員でした。会も、その基地があった香川県小豆島のホテルで開かれます。妻も参加するように手配中です。
 十月七日朝、東京都国分寺市、市立もとまち図書館前。
 ここの前の花の写真を撮っていました。花は、紫の小花が上下にあって、ぱかっと口をあけた形になっています。ずーっと何という花かわからないでいます。
 すると前のマンションのほうから男性の声がかかりました。
 「もしもし、ここにも奇麗な花がありますよ。撮ってください」
 男性は、いつも出勤時に見かけている、このマンションの管理をしている人でした。
 その花は、玄関近くの花壇の、僕が、このところ楽しんでいた大きなノボタンでした。
 「ノボタンですね。ずいぶん長く咲いていますね」
 「もう二カ月咲いています。一日花ですが、次々咲いています」
 このマンションの周りは、いつも奇麗な花がいっぱい。
 この男性が世話をしていたんですね。
 知り合えてよかった。
 十月二十四日夜中、仕事の帰り道の渋谷区千駄ヶ谷の道脇で大きなノボタンを発見。しばらく見入りました。
 ここのノボタンは、二〇〇五年一月にも咲き続けていました。
 ノボタンは、ノボタン科シコンノボタン属。十個ほどの長い雄しべを持っています。


   サギソウの飛んでいる写真


 サギソウを 飛んでるように 撮りたいな
 来夏までの
 僕の目標

 二〇〇〇四年十月二十日の朝日新聞朝刊「多摩」のページに、東京都立川市、昭島市の国営昭和記念公園のサギソウ栽培の記事が載っていました。
 ここには二〇〇三年夏にサギソウを撮りにいきました。しかし、どうも気に入る写真になりませんでした。
 来年はいって、いい写真を撮りましょう。それまでに写真の腕を上げなくては。


   ツタの葉のはし置き


 ツタの葉の はし置きの出る
 レストラン
 なごんで待ってる 和食のランチ

 二〇〇四年十二月十八日午後、妻と自転車で「お出かけ」。
 まずは東京都小金井市貫井南町五丁目の若い夫婦のやっている小さなレストランへ。
 雰囲気が良くて、おいしい。妻のお気に入りの店です。
 ツタは、アイビー(Ivy)ともいいます。
 ブドウ科ツタ属です。
 夏に緑色の花が咲きます。秋には黒っぽいブドウに似た実がなります。


   クワイって食べたことがないけど…


 おせちには クワイがつきもの
 そうなのか
 正月料理と 縁ない暮らし

 二〇〇四年十二月二十日夕、テレビでおせち料理にはつきものというクワイの紹介をしていました。
 残念ながらクワイって食べたことがありません。
 考えてみれば、おせちとはあまり縁のない五十七年間でした。
 正月には仕事というときが多かったしね。
 仕事でなければオートバイのツーリング(最近では海外旅行)をしていたしね。
 家族団らんというのは、あまり僕の人生にはなかったね……。
クワイは、オモダカ科オモダカ属。水生多年草です。原産地は、中国。
 球茎が、正月料理に利用されます。
 夏の終わりごろ、白い三弁の花を輪状に咲かせます。

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総集編 短歌の花だより 秋

 秋


   ゼフィランサスの白花


 わーっ、咲いた、咲いた。
 二〇〇四年九月七日朝、わが家の門の手前のゼフィランサス(別名・タマスダレ)が、一つだけ白い可憐な花を咲かせていました。
 春に、いくつも球根を植えました。でも、いつになっても咲かないので、あきらめかけていたところでした。
 ゼフィランサスは、ヒガンバナ科ゼフィランサス属です。マンジュシャゲの仲間なんですねー。
 出勤の途中で見ていると東京都国分寺市東元町の、もとまち図書館前のマンションのとこにも、東京都渋谷区千駄ヶ谷の路地にも咲いていました。
 つつましやかに咲いているので、注意深く見ていないと見逃してしまいますね。
 この日は、すごい風の台風18号で九州、中国、四国は大変でした。
 仕事を終えて夜十一時前に渋谷区の街に出たのですが、風がすごくて、近くのビルの縦型の看板が大きく揺れ続けていました。
 のっぽのドコモビルのほうを見たら、雲がすごい勢いで飛んでいました。
 国分寺駅南口前には消防車、パトカーが何台も止まって「何か」に備えていました。


   リンドウの花の絵手紙


 「君の本(歌集) 図書館で借り 読んでいる」
 リンドウ花の
 絵手紙がくる

 リンドウを 前かごに入れ
 帰りくる
 敬老の日は 涼風(すずかぜ)の中

 二〇〇四年九月十一日、東京都大田区の未知の男性からリンドウの花の絵手紙をいただきました。
 僕の『あなたに贈る短歌の花束』を大田区の久が原図書館で借りて読んでいる途中だということです。
 「私も十年前から自己流で絵手紙をしています。歌で行かれた所は絵でも行きたい所です」
 あーっ、ここにも心を通い合わせることのできる人がいたのかという感じで、うれしいお便りでした。
 リンドウは、リンドウ科リンドウ属(ゲンチアナ属)の多年草です。
 神奈川県鎌倉市役所のホームページを見ると、同市の市花はリンドウで、市章はササリンドウです。
 「リンドウは、秋になるとひっそりと紫の花をつけます。やや乾いた山地や草地に生る多年草で、葉はササに似て対生します。リンドウの葉と花を図案化した 『ササリンドウ』が鎌倉市の市章になっています」
 「ささりんどうとは リンドウの葉と花をあしらったりんどう紋の通称。藤原時代に貴族の衣服の文様として用いられ、村上源氏一門の家紋としても知られている。ただし、鎌倉源氏や清和源氏の家紋であるというのは俗説で、学術的根拠は無い」
 市章に制定したのは一九五二年十一月三日です。
 清和源氏の発祥の地といわれる兵庫県川西市の市花も、リンドウです。
 同市の市立清和台中学校の校章は五弁のリンドウの花です。  
 同市の兵庫県立川西緑台高等学校の校章も、円満なふくらみを持つリンドウの花弁五枚と、その副弁を中心に置き、同心円上の三角形の頂点に三枚のリンドウの葉を組み合わせたものです。
 九月二十日。敬老の日。僕も休日。
 自転車で「散歩」していて東京都小金井市の花屋で、リンドウの鉢を見つけました。


   マンジュシャゲは田の脇で…


 真夜中の ご近所歩けば
 あちこちに マンジュシャゲいて
 「秋だな」と知る

 赤絵の具 曲線使い
 究極の 美を創り出す
 マンジュシャゲ花

 田の脇の 赤マンジュシャゲ
 めでながら
 くろしお鉄道 田野(たの)へと向かう

 ヤシ並木 マンジュシャゲ赤
 マッチして
 220号 ゆるやかカーブ

 仕事の関係で夜中の三時に家の近くに帰り着きました。
 二〇〇四年九月十二日のことです。
 ふと見ると、近くの都営団地の庭に、白や赤のマンジュシャゲが咲いていました。
 「あそこ」、「ここ」、そして、「あそこ」に。昨年と同じ場所です。
 「もしや」と思って、近くのアパートの塀の所を見ると、昨年どおりの場所に赤いマンジュシャゲの群れがありました。
 もう、秋になっていたんですねー。
 二首目は、その翌日、九月十三日のものです。
 休日。午後から自転車で、ご近所のマンジュシャゲを見にいきました。
 東京都府中市の都営三丁目アパート、国分寺市の国分寺遺跡の所、国分寺市の武蔵国分寺の前、府中市の新町北公園……。いろんな所に咲いていました。やっぱり愛されている花なんですね。
 二〇〇五年五月十三日、十四日が休みになり、ぽんと高知県にいきました。
 僕の高校一年生のときの数学の先生の妹さんに会うためです。
 十三日午後から夕方にかけて、じっくりと戦中、戦後の体験を聞かせていただきました。
 そのなかにマンジュシャゲの球根を食べた話がありました。
 その前に、少し前置きをします。
 彼女は、一九四五年八月の終戦後、高知県中村の高知県立中村高等女学校に入りました。
 四六年十二月二十一日の南海大地震(マグニチュード八・一)で中村高等女学校の校舎、白藤寮、コンクリート塀が大破しました。
 四七年、六・三制実施で高知県立中村高等女学校が、高知県立中村女子高等学校となりました。併設中学校設置しました。
 四八年、新学制実施により高知県立中村女子高等学校として発足しました。
 彼女のマンジュシャゲの話は、併設中学校のあったころだったといいます。
 とにかく食糧難の時代でした。
 教師に「マンジュシャゲの球根を集めてきなさい」といわれ、生徒たちでマンジュシャゲの球根を採りにいきました。
 球根は、粉にして、まんじゅうのように握ってふかしました。
 「これがマンジュシャゲの球根のおなんじゅうよ」と、いわれました。
 陶器のようにつるつるした感じのまんじゅうでした。
 食べました。
 しかし、そのまずいこと、まずいこと。「これだけは、なんともいただけなかった」と、彼女は述懐していました。
 マンジュシャゲには、リコリンという毒があります。特に球根の部分は毒性が強く、口にすると吐き気や、下痢、中枢神経の麻痺を起こし、死に至ることもあります。
 しかし、リコリンは水によく溶けるので、
球根をすりつぶし、よく水にさらして毒抜きすることで良質のデンプンを得ることができます。
 彼女たちが、マンジュシャゲの球根で、おまんじゅうをつくるときにも、きっと、球根をすりつぶし、よく水にさらして毒抜きするという工程があったことでしょう。
 僕の生まれたのは一九四七年二月二十三日。マンジュシャゲの球根のおまんじゅうのころでした。
 同年九月十五日。勢い込んで午前八時に高知市小津町の事務所に着きました。
 あんまり早すぎるので近くの高知市小津町の寺田寅彦記念館に。
 庭に、赤いマンジュシャゲ、白いマンジュシャゲと何種類もの花が咲いていました。
 ことしマンジュシャゲをじっくり見られたのは初めてです。
 いい庭ですよ。街中にぽっかり存在する静寂の地です。
 同月十六日。午前七時半過ぎの上りで高知駅から田野駅に向かっていたとき、田の脇の赤マンジュシャゲを見ました。
 田の脇の赤いマンジュシャゲは、僕の中の「高知」の原風景の一つです。
 同年秋、「夏休み」で弟と四国、九州をオートバイでツーリングしました。
 その途中の九月二十八日、宮崎市の国道220号に入ってから気がついたのですが、街路樹に背の高いヤシの木を植えています。そして、そこにはマンジュシャゲも咲いていました。
 みごとな風景です。


   シクシンの甘い香り

 
 思い切り 五つの花の 身をそらせ
 甘い香りで
 誘うシクシン

 「そうだ。京都へいこう」というコマーシャルがありましたね。
 ただいま二〇〇〇四年九月二十二日午後八時です。
 泊まり明けで眠い、眠い。
 二十三日、二十四日が休みになりました。
 やっぱり京都へいこう。
 紅葉には早いけど、どこかの寺で庭と花を見よう。
 ということで、夜行寝台の切符を買いました。
 二十三日朝には、京都駅に着く予定です。
 で、どこにいくか。
 それは車中で考えることにして、さぁ、出発。
 気ままな、または、少しわびしい、独り旅です。
 九月二十二日夜十一時、東京駅から寝台特急「銀河」に乗りました。
 寝台は下。向かいのベッドは岩手県一関市の高校の化学のKさん(男性)。
 午前六時四十分、京都駅着。
 地下鉄で北山駅へ。
 まず、深沼池(みどろがいけ)へ。
 面積は約九ヘクタール、周囲約一・五キロメートル。
 氷河時代以来の動植物が生息していて、国指定天然記念物深沼池生物群集とあります。
 タヌキモという黄色い花を見ました。
 そろそろ午前九時、京都府立植物園の開館の時間です。
 北山駅近くの入口にくると何人かでかい望遠レンズを持った中高年の男性がきていました。
 聞けば、園内の池にカワセミがいるとのこと。
 ついていきました。
 数人が「結集」していました。
 あっ、カワセミが水面すれすれに飛んでいきました。
 たくさんの花を見ました。
 ほれ込んだ二つの花について、書きます。
 一つはシクシン。
 温室に咲いていました。
 熱帯アジア、マレーシアに分布し、琉球諸島に野生化しているとのこと。
 花は、はじめは白、すぐにピンクになり、最後に赤になるといいます。
 三つの色の花を見ることができました。


   スイフヨウのピンク


 座り込み 画材を出さず 考慮中
 スイフヨウ前
 すげがさ娘

 白花が 見ているうちに ピンクづく
 スイフヨウ咲く
 京の寺あり

 二〇〇四年九月二十三日。
 京都市の京都府立植物園の続きです。
 スイフヨウがありました。
 一首目は、そこでの情景です。
 よーっし、やっぱりスイフヨウの寺にもいこうか。
 で、ここは京都市山科区北花山大峰町三八の一、大乗寺です。
 三条京阪駅からバス、「日ノ岡」下車、徒歩約十分。
 スイフヨウがいっぱい咲いている寺です。
 今年は八月末に咲き始めたとか。十月はじめまで咲いているそうです。
 一日花で、一つの花が、朝は白、午後はピンク、夕方は赤と色が変化します。
 十月になると「二日花」になって、一度に、白、ピンク、赤の花を見ることができるそうです。


   ショウキランの黄色の花


 二〇〇四年九月になってから東京都国分寺市の国分寺で、いままで見たこともない花を見ました。
 黄色いユリのような花です。
 二十三日に京都市の京都府立植物園にいったら同じ花が咲いていました。
 見ていた人たちは「黄色いマンジュシャゲ」というのですが、違うような気がします。
 で、二十四日夜、花の写真を撮っているSさんにメールで問い合わせました。
 翌日、返事がきました。
 ショウキラン(ショウキズイセン)というのだそうです。
 ヒガンバナ科の球根植物だそうです。
 この名を頼りに僕もネットを探してみました。
 やはり、そうです。
 Sさん、ありがとうございました。


   オジギソウと遊ぶ午後


 座り込み その葉触れれば
 たたみこみ 垂れ下がってく
 オジギソウたち

 二〇〇四年九月三十日午後、例によって泊まり明けで東京の新宿御苑にいきました。
 空は青。トンボが飛びかっています。ギンナンの実を拾っている中年の女性がいました。キャンパスに向かっている若い女性がいました。ざわわと木々を鳴らして、強い、さわやかな風がわたります。ぜいたくな散歩になりました。
 御苑内の温室でオジギソウと遊びました。
 オジギソウ(お辞儀草) は、マメ科オジギソウ属。原産地は、ブラジル、熱帯全域。
 葉に接触したり、熱を加えたり、アンモニアなどのガスで刺激したりすると、葉が閉じて垂れ下がります。夜も葉を閉じます。
 別名は、ミモザ、ネムリグサ(眠り草)。ミモザ( Mimosa)は、ギリシャ語のmimos(人真似)が語源だといいます。


   キンモクセイがやってきました


 わが庭の バイクの上に 降り積もる
 キンモクセイ花
 見つけたこの朝

 台風が 去った夜中の
 わが庭は
 キンモクセイの 金のじゅうたん

 金色の キンモクセイを 敷きつめた
 台風一過の
 ぜいたくな道

 「私、ここ。香りのアピール、読んでみて」
 キンモクセイいる
 夜中のわが庭

 二〇〇〇四年十月一日夜中、近所の東京都国分寺市の園芸農家のチャの垣根に白い花が咲いているのに気付きました。
 翌二日朝、わが家の玄関前に置いてある二五〇ccのオートバイにキンモクセイの花が降り積もっていました。
 やってきたのです。
 うれしい。
 十月三日。せっかくの休みなのに雨。外出の予定をやめ、一日、家で勉強しました。
 夜中に「土佐山田メダカ農園 生命の水を生み出す!土佐山田メダカ農園です。」というサイトを見つけました。
 「土佐山田」というのは、高知県の土佐山田町のことです。
 その九月三十日の文章に、つぎのようなものがありました。
 <台風21号。昨日一日先輩のビニール・ハウスの補強手伝いに行きました。
 今年は、台風が一年間で高知県に上陸した数は、戦後一番ということです。ちなみに4個。
 そして、東から西に行った台風もありました。
 大石の田んぼ。いもち病で大分やられています。
 水の管理だけ頼まれた田んぼ、ひ弱かった苗が、いまでは丈夫に育っています。
 どうなっているのでしょうね。
 台風の後、嶺北路は「金木犀」の香りがどこに行っても香ります。高知は金木犀の香る地。>
 「高知は金木犀の香る地」か。そうなのか。
 二十歳まで高知県に住んでいたけど、そんなことにはちっとも気がつきませんでした。
 雨の日の、いま、二階のベランダに出ると庭のキンモクセイの香りにつつまれて、すごーく、いい気分になります。
 十月七日は午前五時に起床。前日、夜九時台に寝たせいでしょう。
 午前五時に起きるなんて、どうしても仕方ない時以外は初めてです。
 出勤の仕度は午前八時からで間に合いますので、三時間も時間が生まれました。
 一風呂浴びて、庭でキンモクセイの香りを胸いっぱい吸い込みました。
 いい気持ちです。キンモクセイは、いまが盛りです。
 そして、いま、勉強しています。二時間はできそうです。ブラボー。
 十月九日、台風22号が静岡県に上陸。東京もひどい雨でした。
 でも東京は夜中の空には星が輝いていました。
 仕事を終えて、夜中に家に帰り着くと、キンモクセイの金の花が庭に降り積っていました。
 十月十六日になりました。
 
 今日中に 「やりたいこと」が 終わらずに
 パソコン画面の
 日付が変わる

 最近は、こんな感じです。
 自分のなかの「やりたいこと」がいっぱいで、寝るのが惜しい。
 なんていいながら、普通の人より長時間寝ていますが……。
 十月十五日付の「しんぶん赤旗」日刊紙の「読者の広場」に、キンモクセイの絵手紙が載っていました。
 鳥取県浜田市の沖田邦子さんの作品です。
 「あなたは香りでアピールしているのね」
 すごい表現ですね。
 みっちり仕事をして、午前零時前に帰宅。
 わが家のキンモクセイも健在でした。
 十月二十日夜、友人が、メールで、台風22号の後のキンモクセイの花が積もった道の写真を送ってくれました。
 同じころ、ご近所で、同じような光景を見て、感激していました。


   フウチソウと宮本百合子


 フウチソウ 新しい世の 風受けて
 百合子の心
 そよがせたのか

 日本共産党員だった作家の宮本百合子(一八九九年二月十三日-一九五一年一月二十一日)の小説『風知草(ふうちそう)』の、フウチソウというのはどんな植物でしょうか、ぜひ、知りたい。と思いつめはじめたのは二〇〇四年十月二日のことでした。
 早速、調べました。
 フウチソウは、イネ科ウラハグサ属です。日本原産。別名は、ウラハグサ(裏葉草)。植物の葉は、ふつう表に光沢があって裏側より美しいのですが、フウチソウは裏側に光沢があり、その裏面が穂に沿って巻きつくように反転してきて、あたかも表の側のように見えます。そこからウラハグサの名前がついたといわれます。
 明るい黄緑色の葉が少しの風にもそよそよとなびき、「風を知る草」の名前がピッタリです。
 花は、秋に咲きます。
 ところで、宮本百合子です。
 百合子は、一九三〇年十二月、日本プロレタリア作家同盟に加入。三二年二月、宮本顕治と結婚。三三年十二月、天皇の体制に反対した疑いで顕治が検挙されます。翌年、百合子は、中条から宮本へ改姓。敗戦までの厳しい期間のなか百合子も投獄・執筆禁止などをくりかえしながら作家活動に励みました。四五年八月十五日に終戦。同年十月、顕治釈放。百合子は、戦後も社会運動、執筆活動へ精力的に取り組み多くの作品を残しました。
  『風知草』は、無期懲役で網走にやられていて十二年ぶりで、四五年十月十日に解放された「石田重吉」と、その妻「ひろ子」が主人公です。
 今回、読み直してみると、本当に「いとおしい」表現が各所にあって、みんな紹介したい気持になります。
 しかし、それもできませんので、少しだけ引用します。
 まずは、フウチソウの出てくるシーン。
 <腰かける高いテーブルで、重吉が書きものをしていた。その下に低い机をすえて、ひろ子が、その清書をやっていた。
「何だか足のさきがつめたいな」
 重吉が、日ざしは暖かいのに、という風に南の縁側の日向を眺めながら云った。十一月に入ったばかりの穏やかな昼すぎであった。
「ほんとなら今頃菊の花がきれいなのにね」
 毛布を重吉の足にかけながらひろ子が云った。
「この辺は花やもすっかり焼けちまったのよ」
 焼跡にかこまれたその界隈(かいわい)は、初冬のしずけさも明るさも例年とはちがったひろさで感じられた。夜になると、田端の汽車の汽笛が、つい間近にきこえて来た。
「久しぶりで、たっぷり炭をおこしてあげたいけれど、あんまりのぞみがないわ」
「いいさ。寒けりゃいくらでも着られるだけ結構なもんだ」
 ペンをもったなり口を利いていた重吉は、又つづきを書きはじめた。長い年月、ほんとうに温く、人間らしくあついものを食べることもなく暮して来た重吉は、今のところ、何でもあつくして、それからたべるのが気に入った。揚げたての精進あげまで、
「やくと、なおうまいね」
 電熱のコンロに焙(あぶ)ってたべた。
「あつくしようよ」
 おつゆでも、お茶でも、生活の愉しさは湯気とともに、というように、あつくするのであった。ひろ子には、そういう重吉の特別な嗜好が実感された。さっき、コンロに湯わかしをかけたとき、
「たしかに俺はこの頃茶がすきになったね」
 重吉が、自分を珍しがるように云った。
「もとは、ちっとも美味(うま)いなんと思わなかったが……」
「この頃はみんなそうなのよ。ほかに何にもないんですもの。お茶の出しがらの葉っぱ、ね。あれを、はじめの時分は馬の餌に集めていたけれど、あとでは人間もたべろ、と云ったわ」
「僕はなかでくったよ、腹がすいてすいてたまらないんだ」
 暫く仕事をしつづけて、ひろ子によみとれない箇所が出て来た。
「これ、何処へつづくのかしら」
 下から消しの多い草稿をさし上げて見せた。
「ポツダム宣言の趣旨に立脚して……その次」
 行を目で追って、
「ここだ」
 重吉は、もっているペンで大きいバッテンをつけて見せた。
「今後、最も厳重に――」
「そこまでとぶの? 八艘(はっそう)とびね」
 二人は又無言になった。写し役のひろ子の方に段々ゆとりが出来て来た。晩の支度に階下へおりたり、お茶をいれたりしながら、仕事をつづけ、重吉は、わきでひろ子がそういう風に時々立ったりすることがまるで気にならないらしく、ゆったりとかまえ、しかも集注して、消したり書いたり根よく働いている。
 頬杖をついて、ひろ子はその雰囲気にとけこんだ。こんなに楽な、しかもしっとり重く実った穀物の穂をゆするようにたっぷり充実した仕事のこころもちを、経験したことがあったろうか。襖のあいている奥の三畳へ視線をやって、ひろ子は暫く凝(じ)っとそっちを眺めていた。北側の三畳の障子に明るく午後の日ざしがたまっていて、その壁よりに、一台の折りたたみ寝台が片づけてあった。三つに折りたたまれて錯綜して見える寝台の鉄の横金やところどころ錆びたニッケル色のスプリングがひろ子のいるところからよく見える。重吉がいた網走へ行こうとしてこの家を出てゆくとき、ひろ子はその寝台を折りたたんでその隅に片づけた。それなりそこで、きょうまでうっすり埃をかぶっている。重吉がそれを見つけて、
「便利なものがあるじゃないか。一寸休むとき使おうよ」
 そういったときも、ひろ子は、すぐそれをもち出す気になれなかった。
 この一人用の寝台の金具を見るとき、ひろ子がきまって思い出す一つの情景がある。それは東に一間のれんじ窓があって、西へよった南は廊下なしの手摺りつきになった浅い六畳の二階座敷である。れんじ窓よりにこの寝台が置かれて、上に水色格子のタオルのかけものがひろげてあり、薄べったい枕がのせられてある。入ったばかりの右側は大きい書物机で、その机と寝台との間には、僅か二畳ばかりの畳の空きがある。その茶色の古畳の上にも、ベッドの上にも机の上にも、竹すだれで遮(さえぎ)りきれない午後の西日が夕方まで暑気に燃えていた。その座敷は、目には見えないほこりが焦げる匂いがしていた。救いようなく空気は乾燥していた。そして、西日は実に眩(まぶ)しかった。
 それは、ひろ子が四年間暮した目白の家の二階であった。二階はその一室しかなくて、ひろ子は、片手にタオルを握ったなり、乾いた空気に喘ぐような思いで仕事をした。
 その座敷のそとに物干がついていた。物干に、かなり大きい風知草の鉢が置かれてある。それは一九四一年の真夏のことであった。その年の一月から、ひろ子の文筆上の仕事は封鎖されて、生活は苦しかった。巣鴨にいた重吉は、ひろ子が一人で無理な生活の形を保とうと焦慮していることに賛成していなかった。弟の行雄の一家と一緒に暮すがよいという考えであった。けれども、ひろ子は、抵抗する心もちなしにそういう生活に移れなかった。二十年も別に暮して来た旧い家へ、今そこに住んでいる人々の心もちからみれば、必要からよりも我から求めた苦労をしていると思われている条件のひろ子が、収入がなくなって戻ってゆく。それは耐えがたかった。姉さん来ればいいのにと行雄も云っているのに行かないのは、体裁をかまっているひろ子の俗っぽさだ。そう重吉の手紙にかかれていた。
 三年前にも一年と数ヵ月、書くものの発表が禁止された。しかしそのときは、ひろ子一人ではなかった。近い友人たち何人かが同じ事情におかれた。その頃は、まだ文学者一般に、そういう処置に対して憤る感情が生きていて、ひろ子の苦しさも一人ぎりのものではなかった。それについて話す対手があったのであった。
 三年たった四一年には、ぐるりの有様が一変していた。作品の発表を「禁止されるような作家」と、そうでない作家との間には、治安維持法という鉄条網のはられた、うちこえがたい空虚地帯が出来ていた。更に、一方には中国、満州と前線を活躍する作家たちの気分と経済のインフレーション活況があって、ひろ子の立場は、まるで孤独な河岸の石垣が、自分を洗って流れ走ってゆく膨んだ水の圧力に堪えているような状態だった。
 経済上苦しいばかりか、心が息づめられた。その窒息しかかっている思いを、重吉に告げたところで、どうなろう。重吉に面会する数分の間、本当にその間だけひろ子は晴れやかになって笑えた。重吉も晴々して喋るひろ子を見て、愉快になった。だが巣鴨を出ると、よってゆけるような友達の家は遠すぎたりして、行雄のところへ行き、自分の内面とかかわりようもない声と動きにみちた暮しの様を見ると、ひろ子は、せめてまだあの家があるうちに、という風に気をせいて目白へ帰るのであった。
 それにしても、何と二階の座敷は暑くて、乾きあがっていただろう! 仕事の封じられた大きい机は、何と嵩ばって、艶がなくなっていただろう。
 或る晩、ひろ子は、心のもってゆき場がなくなって、駅前の通りへふらりと出て行った。よしず張りの植木屋があって、歩道に風知草の鉢が並んでいた。たっぷり水をうたれ、露のたまった細葉を青々と電燈下にしげらせている風知草の鉢は、異常にひろ子をよろこばせた。どうしてもそれが欲しくなった。ひろ子は、亢奮した気持でその鉢を買い、夜おそく店をしまってから運んで来て貰って、物干においた。
 洗濯物をどっさり干しつらねるというような落付いた日暮しを失っていたひろ子は、がらんとした物干に置かれた、その風知草に、数日の間、熱心に水をやった。けれども、益々苦しさが激しく、しず心が失われてゆくにつれ、哀れな風知草までが苦しい夏の乾きあがった生活にまきこまれて行った。風知草はいつの間にか、枯れ葉を見せはじめた。ひろ子は、けわしい眼づかいでそれを見ていた。が、水はもうやらなかった。
 あの夏、たとえば、どんなに一人暮しの食事をして暮していたのか、今になってひろ子には思い出せもしなかった。思い出すのは、却って、省線の巣鴨駅に咲いていた萩の花枝である。省線の電車が、颯(さ)っと風をきって通過したとき、あおりで堤に咲きつらなっていた萩の花房が瞬間大ゆれに揺れて乱れた。病的になっていたひろ子の神経は、その萩の花の大きいゆれをわが魂の大ゆれのようにはっと感じた。自分の哭(な)こうとする心がそこにあらわされたように感じた。
 そういう夜と昼、ひろ子が臥(ね)て、起き出たのが、あの寝台であった。寝台をみると、乾きあがって、心のやり場もなかった四一年の夏がそこにまざまざと泛(うか)び上るのであった。
 寝台を買ったのは三五年の初夏であった。或る早朝、ひろ子がたった一人そのベッドに寝ていた二階の屏風越しに、ソフト帽の頭がのぞいた。それは、ひろ子をつれてゆくために、風呂場の戸をこじあけて侵入した特高の男であった。
 風知草の鉢は、ひろ子が友人にゆずって出たその家の物干で、すっかり乾からび、やがて棄てられたのだが、ひろ子の記憶に刻みつけられているもう一つの風知草があった。その風知草は、小ぢんまりした鉢植で、巣鴨の拘置所の女区第十房の窓の前におかれていた。出来るかぎりぴったりと窓に近づけて置いてあるのに、風知草の細い葉のさきさえも戦(そよ)がなかった。いつみても、どんなに待っていても、夜中でさえもその風知草の葉が動くということはなかった。夏は、六十八年ぶりという暑熱で、温室のように傾斜したガラス屋根の建物を蒸し、焙りこげつかせていたのに。――
 ひろ子は思い出にせき上げた。総て、すべてのこういうことを、どうして重吉に話しきれるだろう。重吉が帰って、こうして、ひろ子の息づきはゆるやかになり、自分を崩すまいとする緊張から解放されて、はじめて、自分のこれまでの辛さや、それに耐えている女がはために与えるこわらしさを見ることが出来た。ひろ子をよく知っていて、つき合いの間には入りくんだいきさつもあった或る作家が、短篇の中に気質のちがう姉妹を扱っていたことがあった。情感に生きる妹娘が所謂(いわゆる)身もちもいい、しっかりものの姉について「そりゃ姉さんは親類じゅうの褒めものなんだから」という意味を云うくだりがあった。第三者にはまるで、ひろ子にかかわりない一つの物語としてあらわされた会話であったが、ひろ子は、その作者がその作者のもちまえの声で、ひろ子に向って其を云っている響を感じたことがあった。そのとき、ひろ子は、その本を手にもって、永い間、その数行の文字を見つめていた。そのときひろ子の胸に湧いた云いつくせない感情は、口で話せるものだろうか。
 ひろ子は立ちあがって、書いている重吉の肩へ手をやった。
「――どうした」
「小説をかかして」
 ひろ子は重吉のあいている方の手をとった。
「ね、小説がかけるように働かして。――お願いだから……」
 亢奮(こうふん)しているひろ子の顔つきを見て、重吉はおかしみをこめた好意の笑顔になった。
「鎮まれ、しずまれ」
 ペンをもっている指先で、ひろ子のおでこをまじないのようにぐりぐりした。
「それを云っているのは、俺の方だよ。かんちがえをしないでくれ」
 その時分、そろそろ新しい文学の団体も出来かかりはじめていた。十数年前にも一緒に仕事をしていたような評論家、詩人、作家などが、また集って、口かせのはずされた日本の心の声をあげようとしているのであった。>
 もう一つ、おまけ、「ひろ子」が、日本共産党の中央機関紙「しんぶん赤旗」の編集局の看板を見るシーンです。
 <ある朝、出がけに、重吉はひろ子に一枚の紙きれをわたした。
「こんど事務所がそこになるんだよ、きょう、昼ごろ、弁当とどけて貰えるだろうか」
「この新しい方へ?」
「ああ」
「いいわ」
 紙きれには鉛筆であっさり地図がかかれていた。元電気熔接学校というところが赤旗編輯局(へんしゅうきょく)と示されている。
「この地図頂いておいていいの? あなたは大丈夫?」
「大丈夫だ。代々木の駅からすぐだよ、二本目の道を来ると、左側だ」
 時間をはからって、ひろ子は弁当包みをもって代々木駅に降りた。ごくたまに乗換のとき、しかもひろ子の記憶では、のりまちがえて間誤付きながら乗りかえるようなとき、二三度のぼりおりしただけの代々木駅の前に立って、地図のいう二本めの道をさがしたが、はっきり見当がつかなかった。やや暫く立っていて、ひろ子にはそれが二本めと思えたアスファルトのひろい道を左へ歩き出した。じきだというのに、左側にそれらしい建物もなくて、人家らしいものはなくなり、ガードと、神宮外苑の一部が見えはじめた。ひろ子は、心細くなってリアカーを曳いた男と立ち話をしていたエプロン姿のお神さんに、電気熔接学校と云って訊いてみた。そこのガードをくぐって左へ出ると、ロータリーと交番があって、そこを又左へとおそわった。その辺はすっかりやけ原で、左手にいくらか焼けのこった町筋がある。そちらへ辿ってゆくと、右手にコンクリートの小ぶりな二階建が見えはじめた。重吉は左側だと云った。だのに、右側にあるのがそれらしい。半信半疑に近よったら、長方形の紙に、赤旗編輯局とはり出されて、両開きのガラス戸の入口がしまっていた。
 赤旗編輯局。――ひろ子は、その字がよめる距離から入口のドアをあけるまで、くりかえしくりかえし、その五字を心に反覆した。これまで、日本ではただの一遍も通行人に読まれたことのなかった表札であった。赤旗という新聞を知っているものも、その編輯局と印刷局が、どういうところにあるのかは知っていなかった。人々が十数年前、どこか市内の土蔵の地下室にその印刷所があったことを知ったときは、スパイによってその場所があばかれ、当時活動していた重吉たちすべてに、事実とちがう誹謗の告発がされた時であった。ひろ子の文学上の友人で、その頃、印刷所関係の仕事をしていた詩人があった。このひとは、十一年後の十月十日に解放された。重吉たちはもとより、とりわけその友達が、こうして大きく貼り出されている表札をよんだとき、涙は彼のさりげない笑いの裡にきらめいただろうと、思いやった。一枚の赤旗のために、それをもって女がつかまれば、陰毛をやかれるような拷問を受けた。それを知っていて、女は、やはり赤旗をもって歩きもしたのであった。
 ひろ子は、これまで開けたことのなかった大きな箱のふたでもとるように、丁寧にそっと入口のガラス戸を押して入った。入ったばかりの右手に受付のようなところがあって、つき当りは、薄暗いガランとした広土間であった。土間には太い柱がたっている。
 ひろ子は、その辺に誰もいないので、コトリ、コトリ下駄の音をさせながら、左手の階段を二階へのぼって行った。元は活動小屋だったのを、学校に直したというその建物は荒れていた。二階の壁の上塗りははげ落ち、きずだらけで随分きたなかった。妙な建てかたで、数の少い外窓の内側が窮屈な廊下になっていて、その中に広間があった。階段口の右手に、狭い小室が一つある。
 ひろ子は、荒れてきたない廊下のところに立って、重吉はどこにいるかしら、と思った。建物じゅうにまだ人はごく少ししかいないらしかった。永い間人気なく、しめこまれていた埃と湿気のにおう広間の一隅で、その日の午後から開かれる解放運動犠牲者追悼会のために、演壇に下げる下げビラを書いている人たちが四五人働いているかぎりだった。重吉はそこには見当らなかった。すると、階下から二人づれの若い男が、足音を揃えるように登って来て、ひろ子を一寸見て、わきを通りぬけ、右手つき当りのドアの中へ入った。そこには人がいるらしい。しかし、ひろ子は、どうしても、ずけずけ入って行って、内部を知らない室のドアをあける気がしなかった。
 ひろ子が小さかったとき、建築家であった父が、八重洲町の古い煉瓦のビルディングの中に事務所をもっていた。その事務所を、ひろ子はどんなに尊敬し、憧れ、好奇心を動かされたろう。ジリンと入口のベルを手前にひっぱって鳴らすと、爺さんの小使いが出て来た。そして、父のデスクのわきに案内された。事務所は、どこもアラビア糊のような匂いがした。ひろ子は父にことわり、その許しが出ないと、半地下室で青写真が水槽に浮いている素晴らしいみものさえ、勝手に見にはゆかなかった。
 日本ではじめての日の目を見るようになった赤旗編輯局のきたない壁も、古くさくてごたついた間どりも、埃くささも、ひろ子の心にとっては、昔父の事務所で感じたこころもちに似た思いを誘うのであった。ひろ子は、感動のあふれた、子供っぽい顔をして、廊下に立ったままでいた。
 廊下のつき当りが、どこかへ曲っているらしく、そっちから不意に重吉が出て来た。ひろ子は、思わずよって行った。そして、
「きたないけれど――いいわ」
と云った。重吉は笑った。
「こっちへ来るといい」
 つき当りのドアの中は、この建物全体と同じようにまだがらんとしていた。むき出しの床に、粗末な板テーブルと床几とが二列ほどに置かれていた。一方の床几に見知らない人が黒い外套の襟の上から、やせたボンノクボを見せてあちら向きにかけていた。つき当りの板テーブルに、重吉よりはおくれて宮城から出獄した仲間の一人がいた。公判廷でみたときよりももっとやせて、一層角のついた正八角形という顔の感じである。ひろ子は、その手を執って挨拶した。さっきの男二人は、入れちがいに出てゆき、重吉が、
「弁当もって来たかい」
ときいた。
「御一緒にたべたら?」
「僕はあるんです」
 そのひとは、握り飯を出した。重吉とひろ子は弁当箱をあけ、鰯(いわし)のやいたのを三人でわけて板テーブルの上で食事をはじめた。まだ湯をわかす設備もなかった。>


   チャの白花は雨に映えて


 降り続く 雨に洗われ
 光り増す
 金と白との チャの花がいる

 二〇〇四年十月四日午前、東京都国分寺市東元町の園芸農家の垣根のシーンです。
 チャは、ツバキ科ツバキ属です。


   サフランの芽がのびてきました


 庭先の サフランの芽が のびてきた
 数日続く
 雨吸い取って

 豪雨受け 真っ直ぐ伸びた サフランが
 つぼみを持ったよ
 まだ一つだけど 

 次々と 咲いては消える 
 サフランの
 一瞬の美を カメラにおさめる

 玄関先に植えたサフランの芽が出てきています。
 数えてみました。二〇〇四年十月五日午後現在、三十一本です。
 ここ数日来の雨で、土がめくられ球根がむき出しになったのもありますが、全体として元気、元気。
 十月二十二日。
 あれだけ強い雨にたたかれた僕の庭のサフランたちは元気に育っていて一つだけ紫のつぼみをつけました。
 サフランは、アヤメ科サフラン属です。赤くて長い三本のおしべが印象的な花を、もうすぐ咲かせてくれるでしょう。
 十月二十三日。
 庭のサフランが一輪だけ咲いていました。
 午後、職場に向かう途中、東京都国分寺市東元町の路上で、中年の男性が、昆虫網に物干し竿のようなものをつけて庭のザクロを収穫していました。
 「大きな実ですね。それは、食べれる種類ですか」
 「おいしいですよ。一つあげましょう」
 夕方、新潟県中越地震。
 都心のビルでも、相当の揺れでした。
 激闘が始まりました。
 十月二十五日。
 庭のサフランが二つ目の花を咲かせました。
 そして、十月二十八日午前には、七つ咲いていました。


   シュウメイギクの白の群れ


 夕間暮れ シュウメイギクの 白の群れ
 迎えてくれる
 秩父路の宿

 二〇〇四年十月十日、休み。午後から妻と一緒に埼玉県秩父市にいきました。
 同市郊外の高台にある巴川温泉郷の民宿に着いたら、入口に白い花がいっぱい。
 奇麗です。早速、撮影。
 一重のシュウメイギクでした。
 よく見るとピンクの花も咲いていました。
 シュウメイギクは、キンポウゲ科アネモネ属。中国と日本の本州、四国、九州に分布します。日本のものは古い時代に中国から渡来したという説が有力になっています。大型の多年草で高さ五十センチから一メートルになります。


   クラリンドウは舞う


 五つ羽(はね) モンシロチョウが 飛びかうよ
 温室の中
 クラリンドウ撮る
 
 二〇〇四年十月十七日午後、泊まり明けの散歩、東京都の新宿御苑にいって温室に入りました。
 果物の甘い香りに包まれました。この香りが好きです。
 クラリンドウに、出合いました。
 クマツヅラ科クサギ属です。原産、ヒマラヤ。


   サザンカの真芯(ましん)の陽玉(ひだま)


 サザンカの そのもとにいて
 ひとひらを 身に受けている
 出勤の午後

 秋の光(ひ)を 
 真芯(ましん)の陽玉(ひだま)に 集め取り
 輝いている サザンカ花は

 降り積もる 雪ものとせず
 サザンカは
 ピンクの微笑み 絶やさずにいる

 二〇〇四年十一月二日のことです。
 東京都国分寺市東元町で。
 翌三日午後、泊まり明けの帰宅時に東京都の新宿御苑にいき、またサザンカを見ました。
 残念ながら、納得のいく写真は撮れませんでした。
 そうそう、ここで、セロテープの「草笛」を吹く「おじさん」 に出会いました。
 三百メートル四方に聞こえるという大きな音が出ていました。
 同八日午後、いつもの泊まり明けの東京都の新宿御苑の散歩。
 歩いていて気づきました。「僕は、恋に落ちていたんだ」と。
 相手は、サザンカの白にピンクの混じった花。
 また、吸い寄せられるようにその花の前に立っています。
 そこには光があります。
 魅惑の色と形があります。
 「私を見て」の、強烈な自己主張があります。
 同年十二月二十九日午前、東京に初雪が降っています。東京都国分寺市東元町で見たサザンカを詠みました。


   キキョウ咲く京都市の寺で


 キキョウ咲く 太秦(うずまさ)の寺
 また、きたよ
 半跏思惟像(はんかしいぞう)と 話しこんでる

 二〇〇四年十一月六日午前八時五十六分、京都駅前着。新宿発の深夜バスでやってきました。
 バスで高雄、嵐山、太秦(うずまさ)とまわりました。 
 紅葉には早すぎました。
 やはり、また、最後は太秦の広隆寺(こうりゅうじ)になりました。
 僕の大好きな木像、弥勒菩薩半跏思惟(みろくぼさつはんかしい)像がいるからです。
 寺の庭にはキキョウが奇麗に咲いていました。
 つぼみにも、花のと同じ模様があるのを発見しました。
 いつきても、シンプルで美しい、独特の哲学を持った庭づくりに関心します。
 そうそう、この像のことです。
 用材はアカマツ。飛鳥時代の作品だといわれています。細おもて。痩身。上半身は裸身です。男性ですが、女性のようなラインを感じさせます。それは、作者の、意図的なものだと思います。
 韓国にいった時、国立中央博物館で、これとそっくりの仏像を見ました。金銅弥勒菩薩半跏像です。百済(くだら)の時代のものだといいます。
 インターネットで「韓国国立中央博物館」を検索すると、日本語のサイトがあり、この仏像の写真も載っていますよ。
 当時の文化事情からすると、広隆寺の像は、朝鮮半島から持ちこまれたものか、朝鮮の像を模して日本でつくったものだと思います。もちろん、日本でつくったにせよ、つくる主体は朝鮮半島から移住してきた人たちだったことでしょう。
 彫刻としては、広隆寺の像のほうが、はるかに洗練されていると、僕は思います。より柔らかなタッチになっているのです。二つの像は共通性がありますが、広隆寺の像は、それでいながら飛躍しているのです。
 じーっと、この像の前に立って、この像に、生い立ちを聞いてみているのですが、彼は、「私が、いま、ここにいて、あなたがたと会っていることに意味があるんだよ」と、いうばかりで答えてくれません。

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総集編 短歌の花だより 冬

 冬


   アブチロンなのか、君の名は


 通るたび 見惚れていたよ
 君の名を 探し当てたよ
 アブチロンさん

 南国の 可憐な花も
 この土地で 冬越す構え
 黄のアブチロン

 二〇〇四年十二月十一日。
 やっほー。午前八時に起きました。きょうは遅い出勤ですが…。
 ということで、家を午前十時に出てやってきたのが東京都の三鷹駅南口。玉川上水沿いに下って散歩し…という計画です。
 上水沿いは、紅葉が奇麗です。
 カンツバキの花、サザンカの花…。
 そして、「わーっ。ここにも咲いていた」と感激したのが、この花。黄色と赤が咲いていました。
 近所の理髪店の裏で、この数カ月、咲きつづけている花ですが、名前を知りません。
 同月二十一日、インターネットを泳いでいて、突然、その花の名前がわかりました。
 アブチロンでした。
 アオイ科アブチロン属の常緑低木(多年草)です。
 原産地は、ブラジル。
 二首目は、この年の年末の作品です。
 二〇〇五年一月十五日午後、東京の新宿御苑の温室にいったら、そこにもアブチロンが咲いていました。
 同年一月二十日午後。泊まり明けの散歩。東京都の新宿御苑の温室に。
 また、アブチロンをゆっくり見ました。
 その後、携帯電話の機種交換。「歩数計」つきの面白いやつです。


   アメージングという名の白百合


 お疲れの 妻迎えんと
 白百合の 鉢、ドアの前
 しつらえている

 二〇〇四年十二月三日夕、近くの花屋をのぞいたら白百合の鉢がありました。
 アメージングという名です。
 見るからにヤマユリ系です。
 七百五十円也。
 なぜか、六百円にしてくれました。


   ヤブツバキと鼻欠け地蔵


 鼻欠けの 地蔵を飾る ヤブツバキ
 滄浪泉園(そうろうせんえん)
 静けさの中

 二〇〇四年十二月十八日午後、妻と東京都小金井市の滄浪泉園(そうろうせんえん)にやってきました。
 土曜日の午後だというのに客は僕らだけでした。


   スイセンは、信如の恋の花


 「スイセンは 信如の恋の 花ですね」
 触発されて
 『たけくらべ』読む

 花の短歌集を出して「よかった」と思うことは、読んでいただいたかたから、いろんな「花情報」をいただけたことです。
 二〇〇四年六月二十九日午前、岡山県津山市の男性からいただいた手紙には、スイセンは樋口一葉(一八七二年五月二日-九六年十一月二十三日)の小説『たけくらべ』(一八九六年四月の『文芸倶楽部』)のはかない恋を思い出させる切ない花だとありました。
 東京の下町の少女・美登利と少年・信如の物語でしたね。
 以前に読んだけど、そんなシーンがあったかなぁ……。
 読み直してみました。
 スイセンは、ラストを飾っています。 
 「龍華寺の信如が我が宗の修業の庭に立出る風説(うはさ)をも美登利は絶えて聞かざりき、有し意地をば其まゝに封じ込めて、此處しばらくの怪しの現象(さま)に我れを我れとも思はれず、唯何事も恥かしうのみ有けるに、或る霜の朝水仙の作り花を格子門の外よりさし入れ置きし者の有けり、誰れの仕業と知るよし無けれど、美登利は何ゆゑとなく懷かしき思ひにて違ひ棚の一輪ざしに入れて淋しく清き姿をめでけるが、聞くともなしに傳へ聞く其明けの日は信如が何がしの學林(がくりん)に袖の色かへぬべき當日なりしとぞ。」
 「水仙の作り花」を「造花の水仙」としている解説がありますが、そうでしょうか。
 『たけくらべ』は、インターネットのサイトの「青空文庫」でも読むことができます。
 二〇〇四年十二月七日午後、東京都国分寺市の殿ヶ谷戸庭園を散歩していたら、スイセンも咲いていました。
 何日か前に東京都東大和市で見ましたが、十二月には二回目の対面です。
 いつ見ても美しい花ですね。
 二〇〇五年三月二十五日、東京都小金井市貫井南四丁目でラッパズイセンを見ました。
 「綺麗でしょ」と、アピールしていました。

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四国、よいとこ 116 徳島市 海軍特別年少兵

 二〇〇五年十一月三日。

 午後、徳島市で「徳島九条の会」が結成されました。
 憲法九条を守る運動をすすめる会です。
 女性が憲法九条全文を徳島弁で読みました。迫力がありました。フォー。
 海軍特別年少兵だった男性があいさつしました。 
 海軍特別年少兵。一九七二年の映画「海軍特別年少兵」で初めて知りました。
 その兵士だった人の「平和を」の話を聞けるなんて幸せな思いでした。
 映画のあらすじは、こうでしたね。
 一九四三年六月、海軍特別年少兵たちは武山海兵団に入団しました。十四歳でした。
 四四年九月三十日、年少兵たちに出動の命が下りました。硫黄島守備隊でした。
 四五年二月、アメリカ軍は硫黄島に押し寄せました。
 日本軍守備隊の二万三千余のほとんどが壊滅しました。
 その中に三千八百人にのぼる海軍特別年少兵たちが含まれていました。

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2005.11.06

四国、よいとこ 117  高知県 「コンクリの老化進みて掩体壕(えんたいごう)崩るる日まで…」

 二〇〇五年十一月五日。

 この日の高知新聞朝刊の「高新文芸」の「短歌」に、こんな作品が載っていました。

 コンクリの老化進みて掩体壕(えんたいごう)崩るる日まで平和はあるか

 安芸市の山中一夫さんの作品です。
 選者の植田馨さんの評も心に残るものでした。
 「戦争のころ、戦闘機を格納するためのドーム型掩体壕が各地に造られた。その跡が今も残っている。戦後六十年、使われたコンクリートの劣化・老朽は進み、やがて壕は崩壊してしまうだろう。しかし、その日まで今のこの平和は保つだろうか。改憲の動き、靖国問題、対米従属の海外派兵その他の問題、日本はますます平和破壊の危険な方向に向かって突き進んでいるように思えるのだがーー」

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四国、よいとこ 118 徳島市 JR徳島駅前の徳島で出版された本のある店。

 二〇〇五年十一月五日。

 仕事で徳島市のR徳島駅前にいきました。
 徳島県の出版物を探して本屋を四軒、古本屋を一軒まわりました。
 本屋では駅の正面の小山助学館。入ってすぐの左手にありました。
 古本屋は駅の左手のソゴウの入っているビルの一階の吉田書店。入って左手の奥にありました。
 計四冊ゲット。

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四国、よいとこ 119  徳島市 阿波の狸まつりで見た平和の洋傘。

 二〇〇五年十一月五日。

 徳島市の新町橋周辺にいくと、阿波の狸まつりをやっていました。
 道端のタヌキ二匹の像に、いろんな供え物が…。
 その中に開いたピンクの洋傘がありました。
 黒で「平和 子どもたちに未来を」などとかかれていました。

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四国、よいとこ 120 アメリカのサターンたち。

 二〇〇五年十一月五日。

 夜、NHK総合テレビの「サイボーグ技術が人類を変える」を見ました。
 サイボーグ技術を大量殺人に使おうとするアメリカ政府。
 それに協力する科学者たち。
 サターンの群れ。

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四国、よいとこ 121 高知市 定期観光バスのすすめ。

 二〇〇五年十一月五日。

 京都駅前にいくと定期観光バスがあって、いろんなコースがあります。
 ところが、高知駅には、そんにシステムがないようです。
 もったいない。
 こんな観光資源いっぱいの所なのに。

 たとえば、こんなコースは、いかがでしょうか。
 ● 坂本龍馬の目指した日本。明治政権が結局、侵略国家になってしまったことも踏まえて。
 ● 自由民権運動の発祥。「先覚者」の一部の裏切りによって、ついえてしまった過程もきちんとさせて。
 ● 侵略戦争に反対した人々の足跡をたどる。軍隊に反戦ビラをまいた人たち。命をかけて詩で反戦を訴えた人たち。
 ● 侵略戦争の軍事施設の跡をめぐる。

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2005.11.09

四国、よいとこ 122 高知市 長野県大桑村の知り合いの息子さんと…。

 二〇〇五年十一月八日。

 夜、高知市できっぷのいい女性と話していたら、その人の娘が、長野県大桑村の僕の知り合いの人の息子と結婚しているということがわかりました。
 娘さん夫婦は、高知市在住だとのこと。
 いやーっ、奇遇でした。
 日本は狭いねー。

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2005.11.10

四国、よいとこ 123 「韓国映画を字幕なしで見たい」

 二〇〇五年十一月八日夜。あることから韓国語の会話を学ぶことにしました。
 「韓国映画を字幕なしで見たい」が動機です。
 翌九日、韓国の映画「大統領の理髪師」を見ました。
 簡単な単語を抜き出して…という勉強です。
 さて、どこまでいけるか…。

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2005.11.11

四国、よいとこ 124 徳島市 国民学校一期生の覚えている軍歌、軍国歌謡

 二〇〇五年十一月八日午後。

 徳島市で七十一歳の女性と話しました。
 一九四一年四月、国民学校ができた年の一年生です。
 この年の十二月八日、昭和天皇は太平洋戦争を始めています。
 そのころ歌った軍歌、軍国歌謡の話になりました。
 彼女は、次々と、それらを歌ってくれました。
 よく覚えています。
 終戦は国民学校五年生の時です。
 そんな子どもが、こんな歌を…。ぞくっとしました。
 その中の一つは、こんな歌でした。

 露営の歌

 東京日日・大阪毎日新聞懸賞入選歌
 一九三七年十月
 コロムビア

 作詞:籔内 喜一郎
 作曲:古関 裕而

 一、勝ってくるぞと勇ましく
   誓って故郷(くに)を出たからは
   手柄立てずに死なりょうか
   進軍ラッパ聞くたびに
   瞼(まぶた)に浮かぶ旗の波

 二、土も草木も火と燃える
   果てなき曠野(こうや)踏み分けて
   進む日の丸鉄兜
   馬のたてがみなでながら
   明日の命を誰か知る

 三、弾丸(たま)もタンクも銃剣も
   しばし露営の草枕
   夢に出てきた父上に
   死んで還れと励まされ
   覚めて睨(にら)むは敵の空

 四、思えば昨日の戦いに
   朱(あけ)に染まってにっこりと
   笑って死んだ戦友が
   天皇陛下万歳と
   残した声が忘らりょか

 五、戦争(いくさ)する身はかねてから
   捨てる覚悟でいるものを
   鳴いてくれるな草の虫
   東洋平和のためならば
   なんの命が惜しかろう

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四国、よいとこ 125 高知市 ヤマイモのムカゴは、しょううまい。

 二〇〇五年十一月十日夜。

 高知市内のとある所でおいしいものを食べました。
 年上の女性に「これなんやろう?」
 と聞くとヤマイモのムカゴだそうです。
 「あんたは、しょう世間のことを知らん人ねえ。日曜市にも売りよらね」

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2005.11.12

四国、よいとこ 126  「死んだ人々は、もはや黙っては居られぬ以上、…」

 二〇〇五年十一月十二日午前。

 仕事で高知市の高知県立図書館にいって、あるフランスの詩人の詩句を探しました。
 何冊も本を出してもらって探しました。
 ありました。『きけわだつみのこえ 日本戦没学生の手記』(一九四九年十月二十日刊行、日本戦没学生手記編集委員会)の前文に載っていました。
 ジャン・タルヂューの詩でした(一九四三年にフランスで発行された「真夜中版」の『詩人の栄光』という詩集に収められているとのことです)。

 死んだ人々は、還ってこない以上、
 生き残った人々は、何が判ればいい?

 死んだ人々には、慨(なげ) く術(すべ)もない以上、
 生き残った人々は、誰のこと、何を、慨いたらいい?

 死んだ人々は、もはや黙っては居られぬ以上、
 生き残った人々は沈黙を守るべきなのか?

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四国、よいとこ 127 高知市 「高知シネプラザ」が閉館しました。

 二〇〇五年十一月十二日。

 高知新聞、朝日新聞の朝刊が、高知市本町一丁目三の二二の映画館「高知シネプラザ」が十一日夜で閉館したことを伝えています。

 ● 一九七七年、同館が入居する高知プラザ館が、「高知松竹」と「高知日活モデル劇場」の複合館としてオープン。
 ● 一九九八年、「高知にっかつ」が閉館してからは「高知松竹ピカデリー」が三スクリーン(約五百席)で営業してきました。
 ● 二〇〇五年六月末、全国でシネマコンプレックス(複合映画館)に力を入れる松竹が撤退しました。
 ● 同年七月、映画館の名称を「高知シネプラザ」と変えて営業してきました。

 この間、二〇〇四年七月、市内のイオン高知でシネマコンプレックスがオープンしています。

 以下、ホームページにあった「高知シネプラザ1・2」のデータから。

 基本料金 一般¥1800 大学¥1500 高校¥1000 中学¥1000 小人¥1000 シニア¥1000 身障者¥1000
 割引情報 金曜女性(同伴者にも適応)¥1000 月曜男性(同伴者にも適応)¥1000 第2・4土曜高中小¥800 いずれかが50歳以上の夫婦ペア¥2000(年齢は要証明) サービスデー(毎月1・10・20日)¥1000 身障者付添者¥1000 周辺駐車場の駐車券提示で¥1000 誕生日(同伴者にも適応)¥1000 カード割引(JCB)一般¥300引・(マイカルポケットカード)一般¥500引 
 電話 088-872-4545
 デジタル音響 スクリーン1・SRD
 座席数 スクリーン1・190 スクリーン2・120
 駐車場 ×
 アルコール販売 ×
 DLP方式のデジタル上映対応 ×
 バリアフリートイレ ○

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四国、よいとこ 128  高知市 高知城のイチョウも色づき始めて…。

200511131_097

 二〇〇五年十一月十二日午後。
 昼休みに高知市内を散歩。
 城西公園、高知城のイチョウが色づき始めています。
 高知市の遅い秋です。
 写真は高知城のものです。

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四国、よいとこ 129 おいしいよ。キムチと野菜の煮物。

 二〇〇五年十一月十二日夜。

 早い目に帰ってきました。
 ゆっくり独り夕食を楽しむ日です。
 といって、家中探しても食材が、ほぼ尽きていました。

 まず、なべに水を入れてコンロに置きます。
 キムチを洗って入れます。
 ナスの漬物の残りも洗って入れます。
 ダイコンを切って入れます。
 トマトも二つに割って入れます。
 それで、ひたすらグツグツ、グツグツ。
 できたものを醤油を少し入れたどんぶりに入れます。
 
 さあ、ご飯もできあがりました。

 う、うまい。
 キムチがいい味を出しています。
 「商品化したい」ほどのうまさです。

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四国、よいとこ 130 韓国語を「まちこ先生」に習い始めました。

 二〇〇五年十一月十二日夜。

 パソコンのソフトで韓国語を学び始めました。
 教師は「まちこ先生」。金髪で民族衣装のかわいい教師です。
 本日は、「こんにちは」、「わたしは です」。

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2005.11.13

四国、よいとこ 131 高知県日高村 錦山(にしきやま)でドウダンツツジの真紅。

 二〇〇五年十一月十三日午前。

 仕事で高知市からオートバイで県下の日高村の錦山(にしきやま)へ。
 ここでドウダンツツジの紅葉を見ました。
 ラッキー。

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四国、よいとこ 132 落花生(ピーナッツ)の秘密。

 二〇〇五年十一月十三日夜。

 高知県いの町の弟が高知市のわが家に野菜を持ってきました。
 落花生もあります。

 「で、落花生は、どうやってできるの?」
 以下、弟の説明。

 落花生はマメ科です。
 五月はじめに種をまきます。
 夏に黄色いチョウチョウのような花が咲きます。
 秋口に花が終わると花の基部から太い針のようなもの(子房柄=しぼうへい)が出てきます、これが十センチメートルくらいになりま。
 それが、地下にもぐります。
 そして、その針のようなもの先でカラにくるまれた実ができます。
 そのカラの中のものが落花生の実、ピーナッツです。
 それで落花生というのでしようか。

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2005.11.15

四国、よいとこ 133 徳島市 「府中」と書いて「こう」と読む…。

 二〇〇五年十一月十四三日。

 夕方、徳島駅から高知駅への列車に乗っていたら「府中」という駅がありました。
 「ここにも府中(ふちゅう)」があるのか」
 と思いつつ、よく見たら読み方が「こう」です。
 なんか不思議な読み方です。
 いちどいわれを調べてみたいと思いました。
 徳島市内でした。

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四国、よいとこ 134 ホウレンソウとダイコンの水炊き

 二〇〇五年十一月十五日朝。

 昨夜、今朝と同じおかずをつくって食べました。

 ホウレンソウとダイコンの水炊きです。
 しょう油のつけて食べます。
 これが「うまいーーっ」。

 以前は、肉類が中心でしたが、野菜だけのおかずでも満足できるようになりました。

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四国、よいとこ 135 高知県物部村 青空に映える紅葉。

200511115_013

 二〇〇五年十一月十五日。

 仕事で高知市から徳島県勝浦町へ。
 午後〇時半に出発して、午後四時四十分に着。
 乗用車に乗せてもらったのですが、運転してくれた人は大変でした。

 途中、高知県物部村で見た紅葉が素敵でした。

 赤紅葉 ミラーにも入れ 急いでる
 仕事で越える
 四ツ足峠

 それと、各地で昨年の集中豪雨の被害地区の改修工事をやっていました。
 えぐられた山、流された家…。すさまじい被害の跡でした。

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2005.11.16

四国、よいとこ 136 高知市 帯屋町の「白菊食堂」の隣の食堂には…。

 二〇〇五年十一月十五日夜。

 この日は、徳島県小松島市泊まり。

 夜中。
 ひさしぶりに東京の妻から電話がかかってきました。
 ある新聞に最近載った高知市帯屋町にあった「白菊食堂」と、その経営者の弟さんのことについて。
 以下のような話でした。 

 この食堂のとなりの「あづま食堂」がわが家でした。
 この食堂に中学校の同学年生の女の子がいました。
 弟さんは新聞社のカメラマンで、少なくても三枚は写真を撮ってもらいました。

 この記事を読み、高知市の父母とも電話で話をして、一気に記憶がよみがえったそうです。

 十六日夜、その弟さんに電話しました。
 えーっという感じでした。
 「ひろこちゃんの…。いろいろモデルになってもらいました」
 うちの妻が「ひろこちゃん」。
 なんだか、感激。

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2005.11.17

四国、よいとこ 137 徳島市 阿波踊りが禁止されたころ

 二〇〇五年十一月十七日。

 『徳島新聞五十年史』(一九九七年三月二十五日発行)を読んでいて、徳島市の阿波踊りが禁止された時代があることを知りました。

 一九三七年七月七日、日中戦争が始まりました。
 この年八月を最後に、阿波踊りは、映画撮影の場合を除き「自粛」させられます。「自粛」という名の禁止です。

 四一年十二月八日、太平洋戦争が始まります。
 その翌年、四二年八月二十六日、二十七日にはやっています。
 内務省が、「英霊へ感謝と冥福を捧げ、銃後の国民のために」と許可したものです。

 阿波踊りが復活したのは戦争が終わった翌年の四六年八月。
 十日、十一日、十三日と開催されました。

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四国、よいとこ 138 四十歳か。悪くないねー。

 二〇〇五年十一月十七日。

 夜、近所の居酒屋に食事にいきました。ごはん、カツオの刺身、モツ、味噌汁というメニューです。
 中年の男性たちが「おまんはいくつぜよ。四十ばあかよ」と話しかけてきました。
 茶髪効果で若く見えるようです。
 「五十八よね」
 聞いてきた二人のうち若いほうが僕より一学年下でした。
 本当に四十歳なら……。

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四国、よいとこ 139 テレビとの付き合いはいつから…。

 二〇〇五年十一月十七日。

 ふとテレビとの付き合いはいつからだったのかなぁと考えました。
 一九五八年十二月一日にNHK高知放送局が開局(僕、十二歳)。翌年四月一日にラジオ高知テレビが開局しました(僕、十三歳)。
 当時は高知伊野町内野(うつの)に住んでいました。
 近所のテレビのある家にいってプロレスを見た記憶があります。
 ということはNHKはプロレスはやらないだろうから五九年四月一日以降のことでしようか(もしかしたらNHKでやったかもしれませんが)。
 ずいぶん後になって、せがんでせがんでテレビを買ってもらいました。
 うれしかったですねー。
 そして、カラーテレビの時代になりました。
 「カラーテレビが家にやってくると、天国みたいになる」くらいに思っていました。
 そのうち、いつしかカラーテレビを見るようになりましたが、それほどの感激はありませんでした。
 そのうち学校のクラブや受験に忙しくなってテレビって、あんまり見なくなりましたね。

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2005.11.18

四国、よいとこ 140 高知市 先輩宅でのイノシシ鍋

 二〇〇五年十一月十八日。

 夜、高知市の前の職場の先輩宅でイノシシの鍋をごちそうになりました。
 先輩が六十四歳。安芸市出身で「天下をとる」事業にまい進している人。
 いの町の人が六十歳。京都市出身で、一生懸命に図書館で本を読んでいる人。
 土佐山田町の人が七十六歳。小説を書く人。
 そして、僕が五十八歳。
 この男性四人で食べるイノシシ鍋は人生の味がしました

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四国、よいとこ 141 スカンポとジャワ更紗(さらさ)との関係?

 二〇〇五年十一月十八日。

 北原白秋さんの「酸模(すかんぽ)の咲く頃」の歌詞は僕には ???? です。
 何をいっているのかわからないのです。
 スカンポ、ジャワ更紗(さらさ)の意味がわからないからです。

 土手のすかんぽ ジャワ更紗(さらさ)
 昼は蛍が ねんねする
 僕ら小学 尋常科
 今朝も通って またもどる
 すかんぽ すかんぽ 川のふち
 麦が来た来た ド レ ミ ファ ソ

 本日、スカンポとイタドリが一緒かどうかということが話題になり、ネットサーフィンしてみました。
 結論的には、同じではないようですね。

 以下のように説明されています。
 スカンポは、タデ科ギシギシ属でスイバのことです。
 春から夏にかけて開けた日当たりのよい場所で多く見られます。葉は長楕円形状披針形、花は総状花序で雌雄異株です。
 雌株の花穂は成熟すると内花被片は翼状に張り出します。
 スイバという名前は、茎葉にシュウ酸を含んでいてすっぱいことからきていて、特に若い芽は甘酸っぱくスカンポとも呼ばれます。
 種子は秋に発芽し、すでにある個体は地下茎から根生葉を出して越冬します。
 根生葉は長楕円形で、基部は矢じり形になっています。
 越冬中の根生葉は真っ赤に染まっていることが多い。

 で、ジャワ更紗とは。
 インドネシアで生産されている手描きのろうけつ染めの布のことのようです。

 スカンポの秋の穂が、ジャワ更紗の色の輝きとそっくりなのだそうです。

 もっとも僕はスカンポもジャワ更紗も見たことがありません。
 きちんとした認識にしたいものです。

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2005.11.19

四国、よいとこ 142 高知市 七百円のコート

 二〇〇五年十一月十九日。

 寒くなりました。
 で、高知市の土佐女子高校前の市で古着の、薄手のコートを買いました。
 七百円なり。

 着てみると結構あたたかい。
 そて、オートバイで次の仕事場へ。

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2005.11.20

四国、よいとこ 143 「青春とはチャレンジです」。六十七歳の女性の言葉。

 二〇〇五年十一月二十日。

 午後、妻が東京都から高知市にやってきました。
 で、夜は、市内二箇所に一緒に出かけました。

 一箇所目。
 六十七歳の岡山県倉敷市の女性と話しました。父は「土居」という高知市の人だったといいます。
 ことし九月からブログのサイトを立ち上げました。
 彼女の名言。「青春とはチャレンジです」

 二箇所目。
 七十七歳の男性と出会いました。
 彼の名言。 「読んだとき、『うん、そうだ』という説得力がないとジャーナリズムはなりたたない」

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2005.11.21

四国、よいとこ 144 高知県いの町 一の谷の紅葉……。

 二〇〇五年十一月二十日。

 僕は朝から仕事で徳島へ。
 妻は、後で聞くと、高知市の父、母、いの町の僕の弟と、いの町一の谷に紅葉を見にいっていたとか。
 深山幽谷で、寒風山の山頂近くは雪があったとのこと。
 高知市内は、なんか紅葉というふうにはならないですねー。

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四国、よいとこ 145 高知市 「よさこいぐるりんバス」

 二〇〇五年十一月二十一日。

 「よさこいぐるりんバス」。
 高知駅前を基点に高知城を一周している小型バスの名前です。
 一周二十五分。運賃百円。
 高知県交通株式会社がやっています。

 これが僕の事務所の近くにもとまります。
 といっても、いつもはオートバイで動いているので乗ったことがありませんでした。

 きょうは乗ってみよう。
 午後、高知駅にいくのに乗ってみましたが、乗客は僕だけ。タクシー並みです。

 せっかくの小型バスですので、もう少し利用しなくてはと思いました。

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四国、よいとこ 146 高知市 「高知市はりまや橋からくり時計」

 二〇〇五年十一月二十一日。

 高知市で住むようになって、いきかえりに、はりまや橋を通るようになりました。
 その近くの、はりまや橋サイドビルの壁面に「高知市はりまや橋からくり時計」というのがあります。
 高さ四百センチメートルです。
 これがすぐれものです。 
 毎正時に、いろんなからくりを演出してくれます。
 僕がきっちり見たのは午後九時(だったと思います)の、よさこい鳴子踊りです。時計から飛び出した男女五人が音楽に合わせて踊るのです。
 オートバイを道端にとめて見入ってしまいました。
 高知城、はりまや橋、桂浜の坂本龍馬像などのからくりも出るそうです。
 作家は(株)乃村工藝社、製作者は株式会社老子(おいご)製作所とか。
 後者は、富山県高岡市の鐘の専門メーカーで鋳物の総合メーカーだそうです。
 人を楽しませるものをつくるというのは貴重な仕事だと思います。

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四国、よいとこ 147  高知市 高知文学学校か。すごそうだ。

 二〇〇五年十一月二十一日。

 高知文学学校(運営委員長・猪野睦さん)が、高知県民の文化向上に顕著な功績を残した個人、団体に贈られる二〇〇五年度県文化賞に決まりました(十月二十八日。他に二個人に同賞が贈られました)。
 同校は、故・土佐文雄さんらの呼びかけで一九五七年十一月十日に誕生して以来、高知県の文学の土壌をたがやし、みずからの手で文学を生みだそうと歩んできました。
 同校は「日々の暮らしのなかで自分をみつめ、社会をみつめ、希望を求め、皆が学び、文学をわがものにしていこうという学校です」。
 今年の学校は三月十七日から七月二十一日までで、週一回二こまの三十三講義がありました。場所は、高知市九反田の高知市文化プラザ(かるぽーと)九階第三学習室。受講料は一万二千円。
 内容は文学史、鑑賞、批評、創作方法と多岐にわたります。「四国防衛軍」、「まんがと土佐」、「エッセイの書き方」、「詩人槇村浩」など多彩。研究者や作家たちが講師をつとめます。
 来年も三月から七月まで文学学校が開催されます。

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四国、よいとこ 148 高知市 「温かい 灯ともる わび住まい…」 

 二〇〇五年十一月二十一日。

 温かい 灯ともる わび住まい
 月一回の
 妻がきてる日

 これは昨夜の短歌です。
 妻は、二十一日午前、東京都へ。
 僕は、本日は高知県の土佐山田町へ。

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2005.11.22

四国、よいとこ 149 高知市 初めて参加した朝の韓国語講座

 二〇〇五年十一月二十二日。

 午前八時前にオートバイで高知市内の中心部に。
 きょうから週一回の韓国語講座に参加させてもらえるのです。
 講師は韓国人の青年。
 受講生は女性二人と僕。
 ぜいたくな授業です。
 受講生の一人がつくってくれた、どんぶり一杯のみそ汁をすすりながらの受講。
 一時間の講義が、あっという間に終わりました。
 まずは、あの文字を書けるようにならなくてはと実感しました。
 五十八歳の最初の一歩です。

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四国、よいとこ 150 高知県の大正町 道端の美しい仏像。

200511122_010

 二〇〇五年十一月二十二日。

 韓国語講座が終わったら仕事、仕事。

 オートバイで高知県の十和村に向かいました。
 途中、大正町をとおりかかったら道の左にすてきな石の仏像が立っていました。
 通り過ぎてから、また戻ってきて、ゆっくり見ました。
 最近、建てたもののようです。
 でも、奈良時代以降の仏像の美しさのを一つに凝縮したような作品でした。
 写真をアップしました。
 
 ところで、風邪気味なのにいきかえり七時間のオートバイ走行はきつかったですね。
 帰りに、「自分にご苦労さん」のプレゼントを買い、風邪薬を仕入れて家路をたどりました。
 よーっし、明日は元気になるぞ!!!!!

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2005.11.23

四国、よいとこ 151 「明日、やらなければならないこと」。

 「やること」を 書き連ねている 前の夜
 三十三ある
 ま。一つからやる。

 二〇〇五年十一月二十二日。

 うーん。仕事が押し寄せてきて追いつめられている気分。

 で、「明日、やらなければならないこと」を書き抜いてみました。

 計三十三件ありました。
 それでも、書き出してすっきりしました。

 そろそろ寝るとしましょうか。
 この間、妻がきたときに布団用のこたつを買っておいてくれました。
 これが具合がいい。
 これがないと震えそうです。

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2005.11.24

四国、よいとこ 152 高知市 追手筋で日曜市をやり始めたのはいつからだろうか?

 二〇〇五年十一月二十三日。

 高知市追手筋で日曜市をやり始めたのはいつからだろうか?

 ある人からいただいた『高知市街路市開設三百周年記念 街路市資料集』(一九九一年三月三十一一日発行、編集・発行・高知市商工労政課)を読んだら、そのことが書いてありました。
 一九四六年からでした。

 日を追うにしたがって観光資源にもなり、六九年六月四日には市観光課が、「土佐の日曜市 高知市」のポスターをつくっています。

 妻が途中までいっていた市立追手前(おおてまえ)小学校、僕がいっていた県立高知追手前高校も、その追手筋にあります。
 けど、なぜか、高校時代には日曜市で買い物をした覚えがないなぁと考えこんでしまいました。、
 ああ、そうか。その日は学校が休みで高校にはいっていなかったんだ……。

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四国、よいとこ 153 高知県  「きょうは、ひやいねー」

 二〇〇五年十一月二十四日。

 「きょうは、ひやいねー」
 午前六時に目覚まし時計はなりました。が、「午前六時半」にかけなおして、もうひと寝入り。
 午前六時半起床、風呂をわかしてざぶん。
 「うーん、ぬくい」
 さてさて、きょうは県外に出張です。

 ところで「ひやい」は寒いの高知弁。
 高知で「寒い」という言葉を聞くと、「この人は県外からきた人だな」とさっしがつきます。

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四国、よいとこ 154 広島市 廣島陸軍階行社(かいこうしゃ)付属済美学校の碑の前の水のコップ

20051124_033

 二〇〇五年十一月二十四日。

 水のコップ
 児童らの 被爆碑の前 置かれている
 「水を!」の叫び

 本日は仕事で朝から広島市へ。
 八丁堀七の一四、広島YMCAにある「済美学校之碑」の前に立ちました。「せいび」と読みます。

 同校の正式名称は「廣島陸軍階行社(かいこうしゃ)付属済美学校」。一八七二年創設の開成社(陸軍の互助団体)を前身とする陸軍偕行社の経営する軍人や高級官僚子女のための学校でした。
 一九四五年八月六日、あのアメリカによる残虐な兵器、原子爆弾が広島に落とされました。
 この学校の校舎は壊滅、職員、生徒多数がアメリカに殺されました。
 ここは、その校舎があった所のようです。

 壁には日本共産党員の詩人・峠三吉さんの作品が刻まれています。

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2005.11.26

四国、よいとこ 155 高知市 「かつおたたき握り寿司」 

 二〇〇五年十一月二十六日。

 本日は、昨日につづいて高知市から高速バスで松山市へいきます。

 この三日間、朝、高知駅にいって「かつおたたき握り寿司」を買い込み、列車やバスの中で食べています。
 六個入っていて六百円。けっこうおいしい。
 「土佐名産」とありますが、それに値します。

 そあ、まずは一眠りしてから食事にしましようか。

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四国、よいとこ 156 愛媛県新居浜市 江戸時代の「渡辺綱鬼女退治図」の絵馬

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 二〇〇五年十一月二十六日。

 仕事で愛媛県新居浜市にやってきました。
 目的地の近くに堀江神社がありました。
 そこに江戸時代の「渡辺綱鬼女退治図」の絵馬があるというので宮司にお願いして見せてもらいました。

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2005.11.28

四国、よいとこ 157 愛媛県 太平洋戦争下の県下のこと三つ

 二〇〇五年十一月二十七日。

 前日から愛媛県新居浜市にいっていて、太平洋戦争下の愛媛県について三つのことを知りました。

 ● 松山空港近くの松山市南吉田町の住宅街の中に三基のコンクリート製の掩体壕が残っているとのことです。
 ここには一九四三年十月一日、松山海軍航空基地と松山海軍航空隊が置かれました。
 当時は、三十八基のコンクリート製掩体壕と、二十五基の土製掩体壕があったといいます。
 四五年五月四日、ここを狙ったアメリカ軍B29十七機の空襲があり六十九人が死亡しています。

 ● 西条市小松町に西条海軍航空隊があったということです。
 ここでも中学生が動員され掩体壕(えんたいごう)をつくらされました。
 ここの飛行場は、逓信省がパイロットを養成する航空機乗員養成所として一九四二年に開設、四五年に海軍の西条航空隊に改められました。五年間の教育を受ける本科生と、十七-十九歳で入学して一年足らずで卒業する操縦生に分かれました。本科生は卒業前に終戦を迎え、戦場に出たのは操縦生だけでした。
 ずいぶんアメリカ軍の戦闘機の機銃掃射を受けたようです。

 ● 愛媛県の三箇所にアメリカ軍の模擬原爆が投下されたということです。
 模擬原爆は、原爆用爆弾に約四・五トンの火薬を充填(じゅうてん)したものです。
 アメリカ軍第509混成群団が、日本に対する高度約九千メートルからの原爆投下を成功させるための投下訓練と、爆発後の放射線から逃げるための急旋回(急転、退避)の訓練を目的として一九四五年七月二十日から八月十四日に日本各地に模擬原爆を投下しました。
 東京、富山、長岡(新潟県)、敦賀(福井県)、福島、島田(静岡県)、焼津(静岡県)、浜松(静岡県)、名古屋、春日井(愛知県)、豊田(愛知県)、大垣(岐阜県)、四日市(三重県)、大阪、和歌山、宇部(山口県)、新居浜(愛媛県)など四十四目標に四十九発を投下しました。
 七月二十四日、三機の爆撃機B29が、新居浜市の住友化学新居浜製造所氷晶石工場と住友化学軽金属製造所第三精錬工場に模擬爆弾を投下、内、二発が工場などに命中し、両工場の四千平方メートルが損壊しました。住友化学新居浜製造所氷晶石工場では死傷者八人。住友化学軽金属製造所第三精錬工場では傷二十八人。
 同日、西条市西条のクラレ西条工場に投下。傷七人。

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2005.11.29

四国、よいとこ 158 木から花びらと花のかおりがふりそそいできます。

 二〇〇五年十一月二十九日。

 ふりそそぐ 花のかおりの 中に寝て
 本読む時を
 夢見ているよ

 いい夢を見ました。

 木から花びらと、花のかおりがふりそそいできます。
 桜かな。
 そうではないようです。
 白い小さな花が無数にふりそそいできます。
 「いい気持ち。こんな所ですごしたかったんだ」

 そう思ったとたん目覚ましが鳴って…。

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四国、よいとこ 159  高知県 高知女子大廃学反対の運動の話

 二〇〇五年十一月二十九日。

 『香美の女たちが語る こんなこともあったぞね』(十一月発行、香美郡女性生活史作成の会)を読ませていただきました。
 高知県香美郡の女性たちの生活史が載っています。
 その中に、高知女子大廃学反対の運動のことが載っていました(夜須町の福留雅子さんの手記)。
 こんな運動だったといいます。

 一九五四年夏、高知女子大廃学の話が持ち上がりました。
 高知県のような貧乏県に女子大はぜいたくすぎるというのが県の言い分でした。
 九月、高知女子大の全学生大会が開かれ、女子大廃学反対闘争会が結成されました。
 学生たちは、県下を七ブロックに分け、出身者を担当に当てて、あらゆる団体をまわり協力をお願いしました。あらゆる層の女性の支持を受け、存続をの署名とカンパが届けられました。
 十月、小雨の中を無言のデモをしました。帯屋町通りを抜け、電車通りから県庁に向かいました。存続の趣意書を総務部長に手渡し、静かに学校に帰ってきました。どの顔も涙にぬれていました。教師たちはかけよって学生たちを迎えました。 

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2005.11.30

四国、よいとこ 160  わがチングのこと

 二〇〇五年十一月二十九日。

 君のこと
 僕はチング(長く親しい友)と 思ってる
 生き抜いてくれ 一杯やろうな

 この日夜、ブルーハーツとプリンセス・プリンセスを歌うチャンスがありました。
 わが青春の歌です。

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四国、よいとこ 161 高知市 牧野富太郎さんのノジギク

20051129_226

 二〇〇五年十一月三十日。

 ひさしぶりの休み。

 前日の約束どおり、午前十時、弟がやってきました。オートバイでツーリングする予定です。
 しかし、僕のほうが風邪気味。
 高知市五台山の県立牧野植物園いくことにしました。
 ノギクがいっぱい咲いていました。
 「ああ、これがノジギクか」
 キク科キク属。
 Chrysanthemum japonense (Makino) Nakai
だそうです。
 属名 Chrysanthemum キク属
 種小名 japonense 日本の
 命名者 Makino 牧野 富太郎(1862-1957)
 Author名:Makino

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四国、よいとこ 162 高知市 県立牧野植物園のオオツワブキ

20051130

 二〇〇五年十一月三十日。

 高知市五台山の県立牧野植物園の続きです。

 オオツワブキがたくさん咲いていました。
 キク科ツワブキ属です。

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四国、よいとこ 163 韓国映画「チング」を見たよ。

 二〇〇五年十一月三十日。

 夜、弟と二人でDVDで韓国映画「友へ チング」を見ています。
 チングは「新旧」、「長く親しい友」という意味だといいます。親友ということでしょうか。
 僕は二回目です。

 舞台はプサン。
 主人公たちは小学校で一緒だった男の子。
 サンテク 研究者に。
 ジュンホ 
 ジュンソク 父はやくざ。やくざに。一時、ヒロポン中毒に。
 ドンス 葬儀屋の息子。やくざに。

 一つ一つのシーンが印象的です。
 韓国のテレビでアニメ「黄金バット」を放映していたんですね。
 教師の体罰がまかり通る高校の教室。教室には「反共」の標語が掲げられています。
 「おい 十分食らった(刺された) もういい」という強烈なせりふ。
 ………

 生きるということの意味を問いかけてくれる作品です。

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四国、よいとこ 164 愛媛県 蜜石誠二さんの本、 『あのころ 時を刻んだ歌』。

 二〇〇五年十一月三十日。

 愛媛県の蜜石誠二さんが十一月、『あのころ 時を刻んだ歌』を出しました。

 読ませていただきました。
 自分の人生の中で出合った歌たち、僕も、こんな本を書いてみたいものだと思いました。

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