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2005.11.03

総集編 短歌の花だより 秋

 秋


   ゼフィランサスの白花


 わーっ、咲いた、咲いた。
 二〇〇四年九月七日朝、わが家の門の手前のゼフィランサス(別名・タマスダレ)が、一つだけ白い可憐な花を咲かせていました。
 春に、いくつも球根を植えました。でも、いつになっても咲かないので、あきらめかけていたところでした。
 ゼフィランサスは、ヒガンバナ科ゼフィランサス属です。マンジュシャゲの仲間なんですねー。
 出勤の途中で見ていると東京都国分寺市東元町の、もとまち図書館前のマンションのとこにも、東京都渋谷区千駄ヶ谷の路地にも咲いていました。
 つつましやかに咲いているので、注意深く見ていないと見逃してしまいますね。
 この日は、すごい風の台風18号で九州、中国、四国は大変でした。
 仕事を終えて夜十一時前に渋谷区の街に出たのですが、風がすごくて、近くのビルの縦型の看板が大きく揺れ続けていました。
 のっぽのドコモビルのほうを見たら、雲がすごい勢いで飛んでいました。
 国分寺駅南口前には消防車、パトカーが何台も止まって「何か」に備えていました。


   リンドウの花の絵手紙


 「君の本(歌集) 図書館で借り 読んでいる」
 リンドウ花の
 絵手紙がくる

 リンドウを 前かごに入れ
 帰りくる
 敬老の日は 涼風(すずかぜ)の中

 二〇〇四年九月十一日、東京都大田区の未知の男性からリンドウの花の絵手紙をいただきました。
 僕の『あなたに贈る短歌の花束』を大田区の久が原図書館で借りて読んでいる途中だということです。
 「私も十年前から自己流で絵手紙をしています。歌で行かれた所は絵でも行きたい所です」
 あーっ、ここにも心を通い合わせることのできる人がいたのかという感じで、うれしいお便りでした。
 リンドウは、リンドウ科リンドウ属(ゲンチアナ属)の多年草です。
 神奈川県鎌倉市役所のホームページを見ると、同市の市花はリンドウで、市章はササリンドウです。
 「リンドウは、秋になるとひっそりと紫の花をつけます。やや乾いた山地や草地に生る多年草で、葉はササに似て対生します。リンドウの葉と花を図案化した 『ササリンドウ』が鎌倉市の市章になっています」
 「ささりんどうとは リンドウの葉と花をあしらったりんどう紋の通称。藤原時代に貴族の衣服の文様として用いられ、村上源氏一門の家紋としても知られている。ただし、鎌倉源氏や清和源氏の家紋であるというのは俗説で、学術的根拠は無い」
 市章に制定したのは一九五二年十一月三日です。
 清和源氏の発祥の地といわれる兵庫県川西市の市花も、リンドウです。
 同市の市立清和台中学校の校章は五弁のリンドウの花です。  
 同市の兵庫県立川西緑台高等学校の校章も、円満なふくらみを持つリンドウの花弁五枚と、その副弁を中心に置き、同心円上の三角形の頂点に三枚のリンドウの葉を組み合わせたものです。
 九月二十日。敬老の日。僕も休日。
 自転車で「散歩」していて東京都小金井市の花屋で、リンドウの鉢を見つけました。


   マンジュシャゲは田の脇で…


 真夜中の ご近所歩けば
 あちこちに マンジュシャゲいて
 「秋だな」と知る

 赤絵の具 曲線使い
 究極の 美を創り出す
 マンジュシャゲ花

 田の脇の 赤マンジュシャゲ
 めでながら
 くろしお鉄道 田野(たの)へと向かう

 ヤシ並木 マンジュシャゲ赤
 マッチして
 220号 ゆるやかカーブ

 仕事の関係で夜中の三時に家の近くに帰り着きました。
 二〇〇四年九月十二日のことです。
 ふと見ると、近くの都営団地の庭に、白や赤のマンジュシャゲが咲いていました。
 「あそこ」、「ここ」、そして、「あそこ」に。昨年と同じ場所です。
 「もしや」と思って、近くのアパートの塀の所を見ると、昨年どおりの場所に赤いマンジュシャゲの群れがありました。
 もう、秋になっていたんですねー。
 二首目は、その翌日、九月十三日のものです。
 休日。午後から自転車で、ご近所のマンジュシャゲを見にいきました。
 東京都府中市の都営三丁目アパート、国分寺市の国分寺遺跡の所、国分寺市の武蔵国分寺の前、府中市の新町北公園……。いろんな所に咲いていました。やっぱり愛されている花なんですね。
 二〇〇五年五月十三日、十四日が休みになり、ぽんと高知県にいきました。
 僕の高校一年生のときの数学の先生の妹さんに会うためです。
 十三日午後から夕方にかけて、じっくりと戦中、戦後の体験を聞かせていただきました。
 そのなかにマンジュシャゲの球根を食べた話がありました。
 その前に、少し前置きをします。
 彼女は、一九四五年八月の終戦後、高知県中村の高知県立中村高等女学校に入りました。
 四六年十二月二十一日の南海大地震(マグニチュード八・一)で中村高等女学校の校舎、白藤寮、コンクリート塀が大破しました。
 四七年、六・三制実施で高知県立中村高等女学校が、高知県立中村女子高等学校となりました。併設中学校設置しました。
 四八年、新学制実施により高知県立中村女子高等学校として発足しました。
 彼女のマンジュシャゲの話は、併設中学校のあったころだったといいます。
 とにかく食糧難の時代でした。
 教師に「マンジュシャゲの球根を集めてきなさい」といわれ、生徒たちでマンジュシャゲの球根を採りにいきました。
 球根は、粉にして、まんじゅうのように握ってふかしました。
 「これがマンジュシャゲの球根のおなんじゅうよ」と、いわれました。
 陶器のようにつるつるした感じのまんじゅうでした。
 食べました。
 しかし、そのまずいこと、まずいこと。「これだけは、なんともいただけなかった」と、彼女は述懐していました。
 マンジュシャゲには、リコリンという毒があります。特に球根の部分は毒性が強く、口にすると吐き気や、下痢、中枢神経の麻痺を起こし、死に至ることもあります。
 しかし、リコリンは水によく溶けるので、
球根をすりつぶし、よく水にさらして毒抜きすることで良質のデンプンを得ることができます。
 彼女たちが、マンジュシャゲの球根で、おまんじゅうをつくるときにも、きっと、球根をすりつぶし、よく水にさらして毒抜きするという工程があったことでしょう。
 僕の生まれたのは一九四七年二月二十三日。マンジュシャゲの球根のおまんじゅうのころでした。
 同年九月十五日。勢い込んで午前八時に高知市小津町の事務所に着きました。
 あんまり早すぎるので近くの高知市小津町の寺田寅彦記念館に。
 庭に、赤いマンジュシャゲ、白いマンジュシャゲと何種類もの花が咲いていました。
 ことしマンジュシャゲをじっくり見られたのは初めてです。
 いい庭ですよ。街中にぽっかり存在する静寂の地です。
 同月十六日。午前七時半過ぎの上りで高知駅から田野駅に向かっていたとき、田の脇の赤マンジュシャゲを見ました。
 田の脇の赤いマンジュシャゲは、僕の中の「高知」の原風景の一つです。
 同年秋、「夏休み」で弟と四国、九州をオートバイでツーリングしました。
 その途中の九月二十八日、宮崎市の国道220号に入ってから気がついたのですが、街路樹に背の高いヤシの木を植えています。そして、そこにはマンジュシャゲも咲いていました。
 みごとな風景です。


   シクシンの甘い香り

 
 思い切り 五つの花の 身をそらせ
 甘い香りで
 誘うシクシン

 「そうだ。京都へいこう」というコマーシャルがありましたね。
 ただいま二〇〇〇四年九月二十二日午後八時です。
 泊まり明けで眠い、眠い。
 二十三日、二十四日が休みになりました。
 やっぱり京都へいこう。
 紅葉には早いけど、どこかの寺で庭と花を見よう。
 ということで、夜行寝台の切符を買いました。
 二十三日朝には、京都駅に着く予定です。
 で、どこにいくか。
 それは車中で考えることにして、さぁ、出発。
 気ままな、または、少しわびしい、独り旅です。
 九月二十二日夜十一時、東京駅から寝台特急「銀河」に乗りました。
 寝台は下。向かいのベッドは岩手県一関市の高校の化学のKさん(男性)。
 午前六時四十分、京都駅着。
 地下鉄で北山駅へ。
 まず、深沼池(みどろがいけ)へ。
 面積は約九ヘクタール、周囲約一・五キロメートル。
 氷河時代以来の動植物が生息していて、国指定天然記念物深沼池生物群集とあります。
 タヌキモという黄色い花を見ました。
 そろそろ午前九時、京都府立植物園の開館の時間です。
 北山駅近くの入口にくると何人かでかい望遠レンズを持った中高年の男性がきていました。
 聞けば、園内の池にカワセミがいるとのこと。
 ついていきました。
 数人が「結集」していました。
 あっ、カワセミが水面すれすれに飛んでいきました。
 たくさんの花を見ました。
 ほれ込んだ二つの花について、書きます。
 一つはシクシン。
 温室に咲いていました。
 熱帯アジア、マレーシアに分布し、琉球諸島に野生化しているとのこと。
 花は、はじめは白、すぐにピンクになり、最後に赤になるといいます。
 三つの色の花を見ることができました。


   スイフヨウのピンク


 座り込み 画材を出さず 考慮中
 スイフヨウ前
 すげがさ娘

 白花が 見ているうちに ピンクづく
 スイフヨウ咲く
 京の寺あり

 二〇〇四年九月二十三日。
 京都市の京都府立植物園の続きです。
 スイフヨウがありました。
 一首目は、そこでの情景です。
 よーっし、やっぱりスイフヨウの寺にもいこうか。
 で、ここは京都市山科区北花山大峰町三八の一、大乗寺です。
 三条京阪駅からバス、「日ノ岡」下車、徒歩約十分。
 スイフヨウがいっぱい咲いている寺です。
 今年は八月末に咲き始めたとか。十月はじめまで咲いているそうです。
 一日花で、一つの花が、朝は白、午後はピンク、夕方は赤と色が変化します。
 十月になると「二日花」になって、一度に、白、ピンク、赤の花を見ることができるそうです。


   ショウキランの黄色の花


 二〇〇四年九月になってから東京都国分寺市の国分寺で、いままで見たこともない花を見ました。
 黄色いユリのような花です。
 二十三日に京都市の京都府立植物園にいったら同じ花が咲いていました。
 見ていた人たちは「黄色いマンジュシャゲ」というのですが、違うような気がします。
 で、二十四日夜、花の写真を撮っているSさんにメールで問い合わせました。
 翌日、返事がきました。
 ショウキラン(ショウキズイセン)というのだそうです。
 ヒガンバナ科の球根植物だそうです。
 この名を頼りに僕もネットを探してみました。
 やはり、そうです。
 Sさん、ありがとうございました。


   オジギソウと遊ぶ午後


 座り込み その葉触れれば
 たたみこみ 垂れ下がってく
 オジギソウたち

 二〇〇四年九月三十日午後、例によって泊まり明けで東京の新宿御苑にいきました。
 空は青。トンボが飛びかっています。ギンナンの実を拾っている中年の女性がいました。キャンパスに向かっている若い女性がいました。ざわわと木々を鳴らして、強い、さわやかな風がわたります。ぜいたくな散歩になりました。
 御苑内の温室でオジギソウと遊びました。
 オジギソウ(お辞儀草) は、マメ科オジギソウ属。原産地は、ブラジル、熱帯全域。
 葉に接触したり、熱を加えたり、アンモニアなどのガスで刺激したりすると、葉が閉じて垂れ下がります。夜も葉を閉じます。
 別名は、ミモザ、ネムリグサ(眠り草)。ミモザ( Mimosa)は、ギリシャ語のmimos(人真似)が語源だといいます。


   キンモクセイがやってきました


 わが庭の バイクの上に 降り積もる
 キンモクセイ花
 見つけたこの朝

 台風が 去った夜中の
 わが庭は
 キンモクセイの 金のじゅうたん

 金色の キンモクセイを 敷きつめた
 台風一過の
 ぜいたくな道

 「私、ここ。香りのアピール、読んでみて」
 キンモクセイいる
 夜中のわが庭

 二〇〇〇四年十月一日夜中、近所の東京都国分寺市の園芸農家のチャの垣根に白い花が咲いているのに気付きました。
 翌二日朝、わが家の玄関前に置いてある二五〇ccのオートバイにキンモクセイの花が降り積もっていました。
 やってきたのです。
 うれしい。
 十月三日。せっかくの休みなのに雨。外出の予定をやめ、一日、家で勉強しました。
 夜中に「土佐山田メダカ農園 生命の水を生み出す!土佐山田メダカ農園です。」というサイトを見つけました。
 「土佐山田」というのは、高知県の土佐山田町のことです。
 その九月三十日の文章に、つぎのようなものがありました。
 <台風21号。昨日一日先輩のビニール・ハウスの補強手伝いに行きました。
 今年は、台風が一年間で高知県に上陸した数は、戦後一番ということです。ちなみに4個。
 そして、東から西に行った台風もありました。
 大石の田んぼ。いもち病で大分やられています。
 水の管理だけ頼まれた田んぼ、ひ弱かった苗が、いまでは丈夫に育っています。
 どうなっているのでしょうね。
 台風の後、嶺北路は「金木犀」の香りがどこに行っても香ります。高知は金木犀の香る地。>
 「高知は金木犀の香る地」か。そうなのか。
 二十歳まで高知県に住んでいたけど、そんなことにはちっとも気がつきませんでした。
 雨の日の、いま、二階のベランダに出ると庭のキンモクセイの香りにつつまれて、すごーく、いい気分になります。
 十月七日は午前五時に起床。前日、夜九時台に寝たせいでしょう。
 午前五時に起きるなんて、どうしても仕方ない時以外は初めてです。
 出勤の仕度は午前八時からで間に合いますので、三時間も時間が生まれました。
 一風呂浴びて、庭でキンモクセイの香りを胸いっぱい吸い込みました。
 いい気持ちです。キンモクセイは、いまが盛りです。
 そして、いま、勉強しています。二時間はできそうです。ブラボー。
 十月九日、台風22号が静岡県に上陸。東京もひどい雨でした。
 でも東京は夜中の空には星が輝いていました。
 仕事を終えて、夜中に家に帰り着くと、キンモクセイの金の花が庭に降り積っていました。
 十月十六日になりました。
 
 今日中に 「やりたいこと」が 終わらずに
 パソコン画面の
 日付が変わる

 最近は、こんな感じです。
 自分のなかの「やりたいこと」がいっぱいで、寝るのが惜しい。
 なんていいながら、普通の人より長時間寝ていますが……。
 十月十五日付の「しんぶん赤旗」日刊紙の「読者の広場」に、キンモクセイの絵手紙が載っていました。
 鳥取県浜田市の沖田邦子さんの作品です。
 「あなたは香りでアピールしているのね」
 すごい表現ですね。
 みっちり仕事をして、午前零時前に帰宅。
 わが家のキンモクセイも健在でした。
 十月二十日夜、友人が、メールで、台風22号の後のキンモクセイの花が積もった道の写真を送ってくれました。
 同じころ、ご近所で、同じような光景を見て、感激していました。


   フウチソウと宮本百合子


 フウチソウ 新しい世の 風受けて
 百合子の心
 そよがせたのか

 日本共産党員だった作家の宮本百合子(一八九九年二月十三日-一九五一年一月二十一日)の小説『風知草(ふうちそう)』の、フウチソウというのはどんな植物でしょうか、ぜひ、知りたい。と思いつめはじめたのは二〇〇四年十月二日のことでした。
 早速、調べました。
 フウチソウは、イネ科ウラハグサ属です。日本原産。別名は、ウラハグサ(裏葉草)。植物の葉は、ふつう表に光沢があって裏側より美しいのですが、フウチソウは裏側に光沢があり、その裏面が穂に沿って巻きつくように反転してきて、あたかも表の側のように見えます。そこからウラハグサの名前がついたといわれます。
 明るい黄緑色の葉が少しの風にもそよそよとなびき、「風を知る草」の名前がピッタリです。
 花は、秋に咲きます。
 ところで、宮本百合子です。
 百合子は、一九三〇年十二月、日本プロレタリア作家同盟に加入。三二年二月、宮本顕治と結婚。三三年十二月、天皇の体制に反対した疑いで顕治が検挙されます。翌年、百合子は、中条から宮本へ改姓。敗戦までの厳しい期間のなか百合子も投獄・執筆禁止などをくりかえしながら作家活動に励みました。四五年八月十五日に終戦。同年十月、顕治釈放。百合子は、戦後も社会運動、執筆活動へ精力的に取り組み多くの作品を残しました。
  『風知草』は、無期懲役で網走にやられていて十二年ぶりで、四五年十月十日に解放された「石田重吉」と、その妻「ひろ子」が主人公です。
 今回、読み直してみると、本当に「いとおしい」表現が各所にあって、みんな紹介したい気持になります。
 しかし、それもできませんので、少しだけ引用します。
 まずは、フウチソウの出てくるシーン。
 <腰かける高いテーブルで、重吉が書きものをしていた。その下に低い机をすえて、ひろ子が、その清書をやっていた。
「何だか足のさきがつめたいな」
 重吉が、日ざしは暖かいのに、という風に南の縁側の日向を眺めながら云った。十一月に入ったばかりの穏やかな昼すぎであった。
「ほんとなら今頃菊の花がきれいなのにね」
 毛布を重吉の足にかけながらひろ子が云った。
「この辺は花やもすっかり焼けちまったのよ」
 焼跡にかこまれたその界隈(かいわい)は、初冬のしずけさも明るさも例年とはちがったひろさで感じられた。夜になると、田端の汽車の汽笛が、つい間近にきこえて来た。
「久しぶりで、たっぷり炭をおこしてあげたいけれど、あんまりのぞみがないわ」
「いいさ。寒けりゃいくらでも着られるだけ結構なもんだ」
 ペンをもったなり口を利いていた重吉は、又つづきを書きはじめた。長い年月、ほんとうに温く、人間らしくあついものを食べることもなく暮して来た重吉は、今のところ、何でもあつくして、それからたべるのが気に入った。揚げたての精進あげまで、
「やくと、なおうまいね」
 電熱のコンロに焙(あぶ)ってたべた。
「あつくしようよ」
 おつゆでも、お茶でも、生活の愉しさは湯気とともに、というように、あつくするのであった。ひろ子には、そういう重吉の特別な嗜好が実感された。さっき、コンロに湯わかしをかけたとき、
「たしかに俺はこの頃茶がすきになったね」
 重吉が、自分を珍しがるように云った。
「もとは、ちっとも美味(うま)いなんと思わなかったが……」
「この頃はみんなそうなのよ。ほかに何にもないんですもの。お茶の出しがらの葉っぱ、ね。あれを、はじめの時分は馬の餌に集めていたけれど、あとでは人間もたべろ、と云ったわ」
「僕はなかでくったよ、腹がすいてすいてたまらないんだ」
 暫く仕事をしつづけて、ひろ子によみとれない箇所が出て来た。
「これ、何処へつづくのかしら」
 下から消しの多い草稿をさし上げて見せた。
「ポツダム宣言の趣旨に立脚して……その次」
 行を目で追って、
「ここだ」
 重吉は、もっているペンで大きいバッテンをつけて見せた。
「今後、最も厳重に――」
「そこまでとぶの? 八艘(はっそう)とびね」
 二人は又無言になった。写し役のひろ子の方に段々ゆとりが出来て来た。晩の支度に階下へおりたり、お茶をいれたりしながら、仕事をつづけ、重吉は、わきでひろ子がそういう風に時々立ったりすることがまるで気にならないらしく、ゆったりとかまえ、しかも集注して、消したり書いたり根よく働いている。
 頬杖をついて、ひろ子はその雰囲気にとけこんだ。こんなに楽な、しかもしっとり重く実った穀物の穂をゆするようにたっぷり充実した仕事のこころもちを、経験したことがあったろうか。襖のあいている奥の三畳へ視線をやって、ひろ子は暫く凝(じ)っとそっちを眺めていた。北側の三畳の障子に明るく午後の日ざしがたまっていて、その壁よりに、一台の折りたたみ寝台が片づけてあった。三つに折りたたまれて錯綜して見える寝台の鉄の横金やところどころ錆びたニッケル色のスプリングがひろ子のいるところからよく見える。重吉がいた網走へ行こうとしてこの家を出てゆくとき、ひろ子はその寝台を折りたたんでその隅に片づけた。それなりそこで、きょうまでうっすり埃をかぶっている。重吉がそれを見つけて、
「便利なものがあるじゃないか。一寸休むとき使おうよ」
 そういったときも、ひろ子は、すぐそれをもち出す気になれなかった。
 この一人用の寝台の金具を見るとき、ひろ子がきまって思い出す一つの情景がある。それは東に一間のれんじ窓があって、西へよった南は廊下なしの手摺りつきになった浅い六畳の二階座敷である。れんじ窓よりにこの寝台が置かれて、上に水色格子のタオルのかけものがひろげてあり、薄べったい枕がのせられてある。入ったばかりの右側は大きい書物机で、その机と寝台との間には、僅か二畳ばかりの畳の空きがある。その茶色の古畳の上にも、ベッドの上にも机の上にも、竹すだれで遮(さえぎ)りきれない午後の西日が夕方まで暑気に燃えていた。その座敷は、目には見えないほこりが焦げる匂いがしていた。救いようなく空気は乾燥していた。そして、西日は実に眩(まぶ)しかった。
 それは、ひろ子が四年間暮した目白の家の二階であった。二階はその一室しかなくて、ひろ子は、片手にタオルを握ったなり、乾いた空気に喘ぐような思いで仕事をした。
 その座敷のそとに物干がついていた。物干に、かなり大きい風知草の鉢が置かれてある。それは一九四一年の真夏のことであった。その年の一月から、ひろ子の文筆上の仕事は封鎖されて、生活は苦しかった。巣鴨にいた重吉は、ひろ子が一人で無理な生活の形を保とうと焦慮していることに賛成していなかった。弟の行雄の一家と一緒に暮すがよいという考えであった。けれども、ひろ子は、抵抗する心もちなしにそういう生活に移れなかった。二十年も別に暮して来た旧い家へ、今そこに住んでいる人々の心もちからみれば、必要からよりも我から求めた苦労をしていると思われている条件のひろ子が、収入がなくなって戻ってゆく。それは耐えがたかった。姉さん来ればいいのにと行雄も云っているのに行かないのは、体裁をかまっているひろ子の俗っぽさだ。そう重吉の手紙にかかれていた。
 三年前にも一年と数ヵ月、書くものの発表が禁止された。しかしそのときは、ひろ子一人ではなかった。近い友人たち何人かが同じ事情におかれた。その頃は、まだ文学者一般に、そういう処置に対して憤る感情が生きていて、ひろ子の苦しさも一人ぎりのものではなかった。それについて話す対手があったのであった。
 三年たった四一年には、ぐるりの有様が一変していた。作品の発表を「禁止されるような作家」と、そうでない作家との間には、治安維持法という鉄条網のはられた、うちこえがたい空虚地帯が出来ていた。更に、一方には中国、満州と前線を活躍する作家たちの気分と経済のインフレーション活況があって、ひろ子の立場は、まるで孤独な河岸の石垣が、自分を洗って流れ走ってゆく膨んだ水の圧力に堪えているような状態だった。
 経済上苦しいばかりか、心が息づめられた。その窒息しかかっている思いを、重吉に告げたところで、どうなろう。重吉に面会する数分の間、本当にその間だけひろ子は晴れやかになって笑えた。重吉も晴々して喋るひろ子を見て、愉快になった。だが巣鴨を出ると、よってゆけるような友達の家は遠すぎたりして、行雄のところへ行き、自分の内面とかかわりようもない声と動きにみちた暮しの様を見ると、ひろ子は、せめてまだあの家があるうちに、という風に気をせいて目白へ帰るのであった。
 それにしても、何と二階の座敷は暑くて、乾きあがっていただろう! 仕事の封じられた大きい机は、何と嵩ばって、艶がなくなっていただろう。
 或る晩、ひろ子は、心のもってゆき場がなくなって、駅前の通りへふらりと出て行った。よしず張りの植木屋があって、歩道に風知草の鉢が並んでいた。たっぷり水をうたれ、露のたまった細葉を青々と電燈下にしげらせている風知草の鉢は、異常にひろ子をよろこばせた。どうしてもそれが欲しくなった。ひろ子は、亢奮した気持でその鉢を買い、夜おそく店をしまってから運んで来て貰って、物干においた。
 洗濯物をどっさり干しつらねるというような落付いた日暮しを失っていたひろ子は、がらんとした物干に置かれた、その風知草に、数日の間、熱心に水をやった。けれども、益々苦しさが激しく、しず心が失われてゆくにつれ、哀れな風知草までが苦しい夏の乾きあがった生活にまきこまれて行った。風知草はいつの間にか、枯れ葉を見せはじめた。ひろ子は、けわしい眼づかいでそれを見ていた。が、水はもうやらなかった。
 あの夏、たとえば、どんなに一人暮しの食事をして暮していたのか、今になってひろ子には思い出せもしなかった。思い出すのは、却って、省線の巣鴨駅に咲いていた萩の花枝である。省線の電車が、颯(さ)っと風をきって通過したとき、あおりで堤に咲きつらなっていた萩の花房が瞬間大ゆれに揺れて乱れた。病的になっていたひろ子の神経は、その萩の花の大きいゆれをわが魂の大ゆれのようにはっと感じた。自分の哭(な)こうとする心がそこにあらわされたように感じた。
 そういう夜と昼、ひろ子が臥(ね)て、起き出たのが、あの寝台であった。寝台をみると、乾きあがって、心のやり場もなかった四一年の夏がそこにまざまざと泛(うか)び上るのであった。
 寝台を買ったのは三五年の初夏であった。或る早朝、ひろ子がたった一人そのベッドに寝ていた二階の屏風越しに、ソフト帽の頭がのぞいた。それは、ひろ子をつれてゆくために、風呂場の戸をこじあけて侵入した特高の男であった。
 風知草の鉢は、ひろ子が友人にゆずって出たその家の物干で、すっかり乾からび、やがて棄てられたのだが、ひろ子の記憶に刻みつけられているもう一つの風知草があった。その風知草は、小ぢんまりした鉢植で、巣鴨の拘置所の女区第十房の窓の前におかれていた。出来るかぎりぴったりと窓に近づけて置いてあるのに、風知草の細い葉のさきさえも戦(そよ)がなかった。いつみても、どんなに待っていても、夜中でさえもその風知草の葉が動くということはなかった。夏は、六十八年ぶりという暑熱で、温室のように傾斜したガラス屋根の建物を蒸し、焙りこげつかせていたのに。――
 ひろ子は思い出にせき上げた。総て、すべてのこういうことを、どうして重吉に話しきれるだろう。重吉が帰って、こうして、ひろ子の息づきはゆるやかになり、自分を崩すまいとする緊張から解放されて、はじめて、自分のこれまでの辛さや、それに耐えている女がはために与えるこわらしさを見ることが出来た。ひろ子をよく知っていて、つき合いの間には入りくんだいきさつもあった或る作家が、短篇の中に気質のちがう姉妹を扱っていたことがあった。情感に生きる妹娘が所謂(いわゆる)身もちもいい、しっかりものの姉について「そりゃ姉さんは親類じゅうの褒めものなんだから」という意味を云うくだりがあった。第三者にはまるで、ひろ子にかかわりない一つの物語としてあらわされた会話であったが、ひろ子は、その作者がその作者のもちまえの声で、ひろ子に向って其を云っている響を感じたことがあった。そのとき、ひろ子は、その本を手にもって、永い間、その数行の文字を見つめていた。そのときひろ子の胸に湧いた云いつくせない感情は、口で話せるものだろうか。
 ひろ子は立ちあがって、書いている重吉の肩へ手をやった。
「――どうした」
「小説をかかして」
 ひろ子は重吉のあいている方の手をとった。
「ね、小説がかけるように働かして。――お願いだから……」
 亢奮(こうふん)しているひろ子の顔つきを見て、重吉はおかしみをこめた好意の笑顔になった。
「鎮まれ、しずまれ」
 ペンをもっている指先で、ひろ子のおでこをまじないのようにぐりぐりした。
「それを云っているのは、俺の方だよ。かんちがえをしないでくれ」
 その時分、そろそろ新しい文学の団体も出来かかりはじめていた。十数年前にも一緒に仕事をしていたような評論家、詩人、作家などが、また集って、口かせのはずされた日本の心の声をあげようとしているのであった。>
 もう一つ、おまけ、「ひろ子」が、日本共産党の中央機関紙「しんぶん赤旗」の編集局の看板を見るシーンです。
 <ある朝、出がけに、重吉はひろ子に一枚の紙きれをわたした。
「こんど事務所がそこになるんだよ、きょう、昼ごろ、弁当とどけて貰えるだろうか」
「この新しい方へ?」
「ああ」
「いいわ」
 紙きれには鉛筆であっさり地図がかかれていた。元電気熔接学校というところが赤旗編輯局(へんしゅうきょく)と示されている。
「この地図頂いておいていいの? あなたは大丈夫?」
「大丈夫だ。代々木の駅からすぐだよ、二本目の道を来ると、左側だ」
 時間をはからって、ひろ子は弁当包みをもって代々木駅に降りた。ごくたまに乗換のとき、しかもひろ子の記憶では、のりまちがえて間誤付きながら乗りかえるようなとき、二三度のぼりおりしただけの代々木駅の前に立って、地図のいう二本めの道をさがしたが、はっきり見当がつかなかった。やや暫く立っていて、ひろ子にはそれが二本めと思えたアスファルトのひろい道を左へ歩き出した。じきだというのに、左側にそれらしい建物もなくて、人家らしいものはなくなり、ガードと、神宮外苑の一部が見えはじめた。ひろ子は、心細くなってリアカーを曳いた男と立ち話をしていたエプロン姿のお神さんに、電気熔接学校と云って訊いてみた。そこのガードをくぐって左へ出ると、ロータリーと交番があって、そこを又左へとおそわった。その辺はすっかりやけ原で、左手にいくらか焼けのこった町筋がある。そちらへ辿ってゆくと、右手にコンクリートの小ぶりな二階建が見えはじめた。重吉は左側だと云った。だのに、右側にあるのがそれらしい。半信半疑に近よったら、長方形の紙に、赤旗編輯局とはり出されて、両開きのガラス戸の入口がしまっていた。
 赤旗編輯局。――ひろ子は、その字がよめる距離から入口のドアをあけるまで、くりかえしくりかえし、その五字を心に反覆した。これまで、日本ではただの一遍も通行人に読まれたことのなかった表札であった。赤旗という新聞を知っているものも、その編輯局と印刷局が、どういうところにあるのかは知っていなかった。人々が十数年前、どこか市内の土蔵の地下室にその印刷所があったことを知ったときは、スパイによってその場所があばかれ、当時活動していた重吉たちすべてに、事実とちがう誹謗の告発がされた時であった。ひろ子の文学上の友人で、その頃、印刷所関係の仕事をしていた詩人があった。このひとは、十一年後の十月十日に解放された。重吉たちはもとより、とりわけその友達が、こうして大きく貼り出されている表札をよんだとき、涙は彼のさりげない笑いの裡にきらめいただろうと、思いやった。一枚の赤旗のために、それをもって女がつかまれば、陰毛をやかれるような拷問を受けた。それを知っていて、女は、やはり赤旗をもって歩きもしたのであった。
 ひろ子は、これまで開けたことのなかった大きな箱のふたでもとるように、丁寧にそっと入口のガラス戸を押して入った。入ったばかりの右手に受付のようなところがあって、つき当りは、薄暗いガランとした広土間であった。土間には太い柱がたっている。
 ひろ子は、その辺に誰もいないので、コトリ、コトリ下駄の音をさせながら、左手の階段を二階へのぼって行った。元は活動小屋だったのを、学校に直したというその建物は荒れていた。二階の壁の上塗りははげ落ち、きずだらけで随分きたなかった。妙な建てかたで、数の少い外窓の内側が窮屈な廊下になっていて、その中に広間があった。階段口の右手に、狭い小室が一つある。
 ひろ子は、荒れてきたない廊下のところに立って、重吉はどこにいるかしら、と思った。建物じゅうにまだ人はごく少ししかいないらしかった。永い間人気なく、しめこまれていた埃と湿気のにおう広間の一隅で、その日の午後から開かれる解放運動犠牲者追悼会のために、演壇に下げる下げビラを書いている人たちが四五人働いているかぎりだった。重吉はそこには見当らなかった。すると、階下から二人づれの若い男が、足音を揃えるように登って来て、ひろ子を一寸見て、わきを通りぬけ、右手つき当りのドアの中へ入った。そこには人がいるらしい。しかし、ひろ子は、どうしても、ずけずけ入って行って、内部を知らない室のドアをあける気がしなかった。
 ひろ子が小さかったとき、建築家であった父が、八重洲町の古い煉瓦のビルディングの中に事務所をもっていた。その事務所を、ひろ子はどんなに尊敬し、憧れ、好奇心を動かされたろう。ジリンと入口のベルを手前にひっぱって鳴らすと、爺さんの小使いが出て来た。そして、父のデスクのわきに案内された。事務所は、どこもアラビア糊のような匂いがした。ひろ子は父にことわり、その許しが出ないと、半地下室で青写真が水槽に浮いている素晴らしいみものさえ、勝手に見にはゆかなかった。
 日本ではじめての日の目を見るようになった赤旗編輯局のきたない壁も、古くさくてごたついた間どりも、埃くささも、ひろ子の心にとっては、昔父の事務所で感じたこころもちに似た思いを誘うのであった。ひろ子は、感動のあふれた、子供っぽい顔をして、廊下に立ったままでいた。
 廊下のつき当りが、どこかへ曲っているらしく、そっちから不意に重吉が出て来た。ひろ子は、思わずよって行った。そして、
「きたないけれど――いいわ」
と云った。重吉は笑った。
「こっちへ来るといい」
 つき当りのドアの中は、この建物全体と同じようにまだがらんとしていた。むき出しの床に、粗末な板テーブルと床几とが二列ほどに置かれていた。一方の床几に見知らない人が黒い外套の襟の上から、やせたボンノクボを見せてあちら向きにかけていた。つき当りの板テーブルに、重吉よりはおくれて宮城から出獄した仲間の一人がいた。公判廷でみたときよりももっとやせて、一層角のついた正八角形という顔の感じである。ひろ子は、その手を執って挨拶した。さっきの男二人は、入れちがいに出てゆき、重吉が、
「弁当もって来たかい」
ときいた。
「御一緒にたべたら?」
「僕はあるんです」
 そのひとは、握り飯を出した。重吉とひろ子は弁当箱をあけ、鰯(いわし)のやいたのを三人でわけて板テーブルの上で食事をはじめた。まだ湯をわかす設備もなかった。>


   チャの白花は雨に映えて


 降り続く 雨に洗われ
 光り増す
 金と白との チャの花がいる

 二〇〇四年十月四日午前、東京都国分寺市東元町の園芸農家の垣根のシーンです。
 チャは、ツバキ科ツバキ属です。


   サフランの芽がのびてきました


 庭先の サフランの芽が のびてきた
 数日続く
 雨吸い取って

 豪雨受け 真っ直ぐ伸びた サフランが
 つぼみを持ったよ
 まだ一つだけど 

 次々と 咲いては消える 
 サフランの
 一瞬の美を カメラにおさめる

 玄関先に植えたサフランの芽が出てきています。
 数えてみました。二〇〇四年十月五日午後現在、三十一本です。
 ここ数日来の雨で、土がめくられ球根がむき出しになったのもありますが、全体として元気、元気。
 十月二十二日。
 あれだけ強い雨にたたかれた僕の庭のサフランたちは元気に育っていて一つだけ紫のつぼみをつけました。
 サフランは、アヤメ科サフラン属です。赤くて長い三本のおしべが印象的な花を、もうすぐ咲かせてくれるでしょう。
 十月二十三日。
 庭のサフランが一輪だけ咲いていました。
 午後、職場に向かう途中、東京都国分寺市東元町の路上で、中年の男性が、昆虫網に物干し竿のようなものをつけて庭のザクロを収穫していました。
 「大きな実ですね。それは、食べれる種類ですか」
 「おいしいですよ。一つあげましょう」
 夕方、新潟県中越地震。
 都心のビルでも、相当の揺れでした。
 激闘が始まりました。
 十月二十五日。
 庭のサフランが二つ目の花を咲かせました。
 そして、十月二十八日午前には、七つ咲いていました。


   シュウメイギクの白の群れ


 夕間暮れ シュウメイギクの 白の群れ
 迎えてくれる
 秩父路の宿

 二〇〇四年十月十日、休み。午後から妻と一緒に埼玉県秩父市にいきました。
 同市郊外の高台にある巴川温泉郷の民宿に着いたら、入口に白い花がいっぱい。
 奇麗です。早速、撮影。
 一重のシュウメイギクでした。
 よく見るとピンクの花も咲いていました。
 シュウメイギクは、キンポウゲ科アネモネ属。中国と日本の本州、四国、九州に分布します。日本のものは古い時代に中国から渡来したという説が有力になっています。大型の多年草で高さ五十センチから一メートルになります。


   クラリンドウは舞う


 五つ羽(はね) モンシロチョウが 飛びかうよ
 温室の中
 クラリンドウ撮る
 
 二〇〇四年十月十七日午後、泊まり明けの散歩、東京都の新宿御苑にいって温室に入りました。
 果物の甘い香りに包まれました。この香りが好きです。
 クラリンドウに、出合いました。
 クマツヅラ科クサギ属です。原産、ヒマラヤ。


   サザンカの真芯(ましん)の陽玉(ひだま)


 サザンカの そのもとにいて
 ひとひらを 身に受けている
 出勤の午後

 秋の光(ひ)を 
 真芯(ましん)の陽玉(ひだま)に 集め取り
 輝いている サザンカ花は

 降り積もる 雪ものとせず
 サザンカは
 ピンクの微笑み 絶やさずにいる

 二〇〇四年十一月二日のことです。
 東京都国分寺市東元町で。
 翌三日午後、泊まり明けの帰宅時に東京都の新宿御苑にいき、またサザンカを見ました。
 残念ながら、納得のいく写真は撮れませんでした。
 そうそう、ここで、セロテープの「草笛」を吹く「おじさん」 に出会いました。
 三百メートル四方に聞こえるという大きな音が出ていました。
 同八日午後、いつもの泊まり明けの東京都の新宿御苑の散歩。
 歩いていて気づきました。「僕は、恋に落ちていたんだ」と。
 相手は、サザンカの白にピンクの混じった花。
 また、吸い寄せられるようにその花の前に立っています。
 そこには光があります。
 魅惑の色と形があります。
 「私を見て」の、強烈な自己主張があります。
 同年十二月二十九日午前、東京に初雪が降っています。東京都国分寺市東元町で見たサザンカを詠みました。


   キキョウ咲く京都市の寺で


 キキョウ咲く 太秦(うずまさ)の寺
 また、きたよ
 半跏思惟像(はんかしいぞう)と 話しこんでる

 二〇〇四年十一月六日午前八時五十六分、京都駅前着。新宿発の深夜バスでやってきました。
 バスで高雄、嵐山、太秦(うずまさ)とまわりました。 
 紅葉には早すぎました。
 やはり、また、最後は太秦の広隆寺(こうりゅうじ)になりました。
 僕の大好きな木像、弥勒菩薩半跏思惟(みろくぼさつはんかしい)像がいるからです。
 寺の庭にはキキョウが奇麗に咲いていました。
 つぼみにも、花のと同じ模様があるのを発見しました。
 いつきても、シンプルで美しい、独特の哲学を持った庭づくりに関心します。
 そうそう、この像のことです。
 用材はアカマツ。飛鳥時代の作品だといわれています。細おもて。痩身。上半身は裸身です。男性ですが、女性のようなラインを感じさせます。それは、作者の、意図的なものだと思います。
 韓国にいった時、国立中央博物館で、これとそっくりの仏像を見ました。金銅弥勒菩薩半跏像です。百済(くだら)の時代のものだといいます。
 インターネットで「韓国国立中央博物館」を検索すると、日本語のサイトがあり、この仏像の写真も載っていますよ。
 当時の文化事情からすると、広隆寺の像は、朝鮮半島から持ちこまれたものか、朝鮮の像を模して日本でつくったものだと思います。もちろん、日本でつくったにせよ、つくる主体は朝鮮半島から移住してきた人たちだったことでしょう。
 彫刻としては、広隆寺の像のほうが、はるかに洗練されていると、僕は思います。より柔らかなタッチになっているのです。二つの像は共通性がありますが、広隆寺の像は、それでいながら飛躍しているのです。
 じーっと、この像の前に立って、この像に、生い立ちを聞いてみているのですが、彼は、「私が、いま、ここにいて、あなたがたと会っていることに意味があるんだよ」と、いうばかりで答えてくれません。

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