四国、よいとこ 562 高知県 竹本源治さんの「戦死せる教え児よ」の詩碑が訴えていること。
二〇〇六年五月三十日。
東京新聞の五月二十三日付朝刊の「発言」欄に、東京都北区の男性の会社員(32)の「『歴史』に学び、過ち繰り返すな」という投書が載りました。
高知県の公立中学校教師だった竹本源治さんの詩「戦死せる教え児よ」を紹介し、「教育基本法改正案が出ている今こそ『歴史』に学び、過ちを繰り返さないことが大切ではないでしょうか」と結んでいました。
僕は、この詩が大好きです。
ときどき高知市の城西公園の西側の「戦死せる教え児よ」の詩碑(自然石。高さ約二メートル、幅約一・八メートル)の前にたたずみ、気持ちを新たにしています。
竹本さんは公立の小学校、中学校の教師で、高知県教員組合(一九四七年九月二十一日結成)の組合員でした。
同組合の雑誌『るねさんす』四十二号(五一年十一月発行)に「送らじなこの身裂くとも教へ児を/理(ことわり)もなき戦(いくさ)のにはに」という短歌を発表しています。
そして、引き続き、同誌四十四号(五二年一月発行)に、この詩「戦死せる教え児よ」を発表しています。
逝いて還らぬ教え児よ
私の手は血まみれだ!
君を縊(くび)つたその綱の
端(はし)を私も持つていた
しかも人の子の師の名において
嗚呼!
「お互いにだまされていた」の言訳が
なんでできよう
慚愧(ざんき) 悔恨 懺悔(ざんげ)を重ねても
それがなんの償いになろう
逝つた君はもう還らない
今ぞ私は汚濁の手をすすぎ
涙をはらつて君の墓標に誓う
「繰り返さぬぞ絶対に!」
当時は、高知県池川町(現・仁淀川町)の池川中学校の教諭でした。
竹本さんは、一九年一月二十八日、池川町生まれ。山林地主の三男でした。
池川青年学校を出て、四四年、地元の瓜生野(うりうの)国民学校で教壇に立ちます。
四五年六月、応召し陸軍歩兵二等兵に。
幼いときから頭に入った皇国史観のまま「神州不滅」と日本の勝利を信じていました。戦友が「戦艦陸奥が海に爆沈した。この目で見た」といっても「陸奥は、どこかに温存されている」と思っていました。
そうした太平洋戦争中のみずからへの反省が、この詩、短歌を生みました。
竹本さんは、戦後の四七年、教師に復職し、池川中学校、弘岡中学校(いまは春野町立春野中学校)などで社会科と国語を教えました。
戦後民主教育の反動的再編の政策がおし進められる状況になり、日本教職員組合は、五一年一月の中央委員会で「教え児を再び戦場に送るな」のスローガンを掲げ、全面講和、中立維持、軍事基地反対、再軍備反対の「講和に関する決議」を可決しました。
竹本さんの短歌、詩は、こうした中で生まれたものです。
五三年七月二十八日、ウィーンで開かれた第一回世界教員会議で、日本代表団がこの詩が紹介したとき会場には拍手がまき起こりました。ウィーン放送局が、ドイツ語訳で、この詩をラジオ放送したとき、「ウィーン放送局員をしてハンケチで顔をおさえさせた」(『日教組十年史』、日本教職員組合)といいます。
竹本さんは、越知町の片岡小学校校長を最後に七八年三月、退職。二年後の八〇年五月二十四日、六十一歳で死去しました。
その十年後の九〇年六月、高知県管理職教員組合結成二十五周年を記念して、この詩碑が建立されました。
全日本教職員組合高知県教職員組合のホームページのトップページに、この詩の全文が掲げられていますhttp://hb2.seikyou.ne.jp/home/kochikenkyouso/index.htm
二〇〇五年十一月三日、仁淀川町用居(もちい)の竹本さんの生家の庭に義弟の竹本嗣夫(たけもと・つぎお)さんが「送らじな‥‥」の石の歌碑(縦八十センチメートル、横一メートル)を建立しました。
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