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2006年6月

2006.06.01

四国、よいとこ 571 高知県四万十市 「道をたずねたら‥‥」 超親切な男性。ありがとうございました。

 二〇〇六年六月一日。

 きょうは仕事で午前中から高知県四万十市にきています。
 訪問先の家がわからずに、うろうろ。
 通りがかりの男性(僕より少し年上)に聞きました。
 「うん、その人じゃったら、あそこじゃ」
 とてもていねいにいきかたを教えてくれました。
 そのとおりにいくと、ありました。
 家を確認して、約束の時間より少し早いので散歩していました。
 そしたら、先ほどの男性が自家用車でやってきました。
 「わかったかよ。心配やったから、きてみた」
 本当にありがとうございました。

 しばらく後川(うしろがわ)の土手で思索しました。

 座り込み
 ホーホケキョやら ゲコゲコの 合唱聞いてる
 後川(うしろがわ)、夏

 夜、高知市に帰ってから事務所へ。
 もう夜の十時半です。
 しかし、仕事が片付きません‥‥。どうも手順が悪かった‥‥。

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2006.06.02

四国、よいとこ 572 宮崎出身、エビちゃんの努力。

 二〇〇六年六月二日。

 テレビにモデルのエビちゃんが出ていました。
 彼女、宮崎出身なんですね。

 彼女によると、彼女は、O脚だそうです。
 それを、そうと見せないための努力と工夫とをしているそうです。

 見ていて、「この娘(こ)の努力すごいなぁ」と、思いました。

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四国、よいとこ 573 高知市 JR旭駅前のタチアオイ。

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 二〇〇六年六月二日。

 きょうも、四万十市へ。

 高知市に帰って、夕方、JR旭駅前に寄ったら、駅の花壇にピンクや赤のタチアオイがいっぱい咲いていました。 この花壇は、地域の人がつくって世話をしているもののようです。

 この地域にくると亡き母のことを思い出します。
 小学校を卒業して、この地域の片倉製糸工場に勤めるようになりました。
 のちに、このときの工場の作業のことなどを詳細に語ってくれたことがあります。

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2006.06.03

四国、よいとこ 574 高知市 何か、うまくいかない一生……。

 二〇〇六年六月三日。

 二日午後から東京の妻が高知市やってきました。
 三日は休みにして、二人で、昼食、買い物…。
 いま、彼女は、高知市の実家に遊びにいっています。

 彼女との結婚は、確か一九七〇年十月でした。
 かなりの時間、一緒に暮らしてきました。
 しかし……。

 「結婚し よかったかしら」
 改めて 考えてると
 妻の舌ぽう

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2006.06.04

四国、よいとこ 575 高知市 「ビシ、パシの 妻が帰って…」。

 二〇〇六年六月四日。

 ビシ、パシの 妻が帰って
 独り居の 宿の静けさ
 沈んでる夜(よる)

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2006.06.05

四国、よいとこ 576 高知市 「『南の熱き炎』を次の世代に」。山原健二郎資料室オープン。

 二〇〇六年六月五日。

 「山原元代議士の資料館オープン。反戦の政治活動と文人の足跡。『南の熱き炎』を次の世代に」
 高知新聞六月五日付夕刊一面の「短波」の一部です。

 四日、高知市上町(かみまち)二丁目四の一九に山原健二郎資料室・日本共産党国会事務所(三階建て)がオープンしました。
 この資料室は、十期三十年六カ月、日本共産党の衆院議員をつとめた山原健二郎さん(二〇〇四年三月八日死去)の志を伝えるためのもので数千点の資料を収蔵しています。
 山原さんは、素晴らしい短歌をたくさん詠んだ人でもありました。
 短歌は、また紹介したいと思っています。
 同資料室を運営するのはボランティアの「山原健二郎資料室友の会」(岡崎清恵会長)です。
 同資料館は、路面電車の通りに面した所で、JR高知駅方面からくると「上町二丁目」電停の南正面です。
 午前十時から午後四時まで開館します(月曜日休館)。

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四国、よいとこ 577 高知市 自由民権家・坂崎紫瀾(さかざき・しらん)さんの意気込み。

 二〇〇六年六月五日。

 ひょんなことで、坂崎紫瀾(さかざき・しらん)さんのことに興味がわきました。
 今夜、調べてみました。
 以下、そのメモです。

 一八五三年、江戸鍛冶橋の土佐藩邸で、土佐藩の藩医・坂崎耕芸(さかざき・こううん)さんの二男として誕生。本名・斌(さかん)。
 五五年二月、一家は大地震に遭遇。その翌年、一家をあげて、江戸の巣鴨村を避け、高知城下の廿代町に帰ってきました。
 七二年ころは、土佐郡江ノ口村大川淵二十一番屋敷に移りました。
 八〇年七月、「高知新聞」が発刊されると、同紙の記者になり、自由民権運動の宣伝普及をしました。
 八一年十二月十五日、紫瀾さんは、高知県長岡郡中島村での演説をとがめられ高知県内での一年間の演説禁止の命令を受けます。
 すると、翌年一月には、遊芸稼人(ゆうげいかじん)の監察を受けます。
 芸名を馬鹿林鈍翁(ばかばやしどんおう)と名乗り、東洋一派民権講釈師馬鹿林鈍翁一座(六人)をつくります。
 そして、同月二十一日夜、上の新地、広栄座で東洋一派民権講釈の初興行を打ちました。
 二日目には、官憲により一座は講釈を中止させられ、解散させられました。紫瀾さんらは警官に拘引されます。
 二月七日、高知裁判所は、紫瀾さんに不敬罪(!!!)で、重禁固三ケ月、罰金二十円、監視六カ月の判決を下します。
 すると、紫瀾さんは、今度は『冷血千里の駒』という坂本龍馬を主人公にした小説を書き始めました(「土曜新聞」八三年一月二十四日付から九月二十七日付まで連載)。
 九三年一月、「土曜新聞」に招かれ、四年間、高知にいました。
 その間、九四年、九五年の日清戦争に記者として従軍しています。
 九九年、東京にいき、『維新土佐勤皇史』の執筆にあたります。か
 一九一三年、東京で亡くなりました。

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四国、よいとこ 578 「アジサイはハングルではスグク、水菊」。

 二〇〇六年六月五日。

 夜、高知県いの町の弟から電話。
 「アジサイはハングルではスグク、水菊というんだよ」
 とのことでした。
 「近々、オートバイでツーリーグしよう」
 との誘いもありました。

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四国、よいとこ 579 「ブルーハーツより愛をこめて」は「イマジン」。

 二〇〇六年六月五日。

 夜、またザ・ブルーハーツを聞きました。
 「ブルーハーツより愛をこめて」。
 いいですねー。
 彼らの「イマジン」ですね。

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2006.06.06

四国、よいとこ 580 高知市 「戦死せる教え児よ」の詩 僕の思い。

 二〇〇六年六月六日。

   「戦死せる教え児よ」の詩

 公園に 戦争するなの 碑が並ぶ
 高知の街の
 民衆の意気

 僕たちを 育ててくれた 教師らの
 「繰り返さぬぞ‥」の
 詩碑読みふける

 詩の作者 どんな人かと 尋ねてる
 父の世代の
 反戦の意志 

 志位(しい)さんも
 「逝(ゆ)いて還らぬ教え児よ」
 詩を読み上げて 教育守れ!

 教育の 憲法守れの その声の
 津々浦々(つつうらうらに)に
 起こる日を乞う

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四国、よいとこ 581 高知市、東京都 「辞書引かず すぐに電話で 『教えてよ』‥」。

 二〇〇六年六月六日。

 辞書引かず すぐに電話で
 「教えてよ」
 妻、らつ腕の 国語の教師

 妻の返歌

 わがことを 辞書と見まがう
 わが夫
 そこまで私に おぶさらないで

 (彼女の発言の趣旨を僕が短歌にしました)

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四国、よいとこ 582 高知市、東京都 「寄り付かぬ 息子と数秒 交信し‥」。

 二〇〇六年六月六日。

 寄り付かぬ 息子と数秒 交信し
 陽気になってる
 僕も親ゆえ

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2006.06.07

四国、よいとこ 583 高知市 うわーっ、天から炎が吹きつけてくるという感じです。

 うわーっ、高知市は、もう夏です。
 天から炎が吹きつけてくるという感じです。
 その中を、仕事。
 朝から自転車で桟橋方面、上町、丸ノ内、廿代町と走りました。
 で、家に帰り着いて、水ふろに飛び込んだら「じゅー!」という音がする感じでした。
 何冊か読みたい本があったのですが、とにかく、即睡眠。
 そして、夜十時に起き上がり活動を再開しています。

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2006.06.08

四国、よいとこ 584 高知市 自由民権家・坂崎紫瀾(さかざき・しらん)さんの略伝。

 二〇〇六年六月八日。

 自由民権家・坂崎紫瀾(さかざき・しらん)のことを少し調べました。
 この間の記事を補足して「略伝」を書いておきます。

 【土佐藩の藩医の二男として生まれて…】

 一八五三年十一月七日、江戸鍛冶橋の土佐藩邸で、土佐藩の藩医・坂崎耕芸(さかざき・こううん)の二男として誕生。幼名・健次。名・斌(さかん)。三人兄弟。
 五五年十一月十一日の安政大地震で藩邸の長屋がつぶれます。
 江戸の巣鴨村に引っ越します。
 その翌五六年、一家をあげて、高知城下の廿代町に帰ってきました。
 紫瀾は、六五年、得業生として藩校・致道館に入りました。
 翌六八年(明治一年)には、素読席句読補助、六九年には句読師に進み、五人扶持を給せられました。
 この間、函館の戦争に参加しました。
 七〇年、藩費を給せられて広島に遊学しました(三月末日、高知を出発)。
 七一年、迎えられて彦根藩の藩校の教授になり彦根に赴任しました。
 一家は、七二年ころ、土佐郡江ノ口村大川淵二十一番屋敷に移りました。
 七三年、紫瀾は、上京し、ニコライ塾に学びました。

 【愛国公党に加わって】

 七四年には高知に帰ってきました。
 七四年一月十二日、板垣退助さんらの愛国公党が組織成された時、紫瀾は、これに加わりました。
 七五年、司法省に就職。十五等出仕に任ぜられます。

 【長野県松本での政談演説会】

 七六年、十四等出仕に進み、同年十月、二十五歳で、長野県松本の松本裁判所の判事になりました。
 七六年冬、高知で永島某の娘と結婚し、松本につれていきました。
 翌七七年九月、紫瀾たちは松本で政談演説会を開始します。
 同年十月、判事をやめて「松本新聞」の編集長になり、「普通選挙は行うべし」と、制限選挙を批判した論説などを書きました。
 一方で、「猶興義塾(ゆうこうぎじゅく)」を開きました。
 各地でおこなわれた政談演説会では、同士の中でも最高の二十七回の演説をしました。 
 木下尚江(なおえ)が、この演説を自宅近くの松本の宝栄寺で聞いていました。
 尚江は、自伝的小説『懺悔(ざんげ)』で、つぎのように書いています。
 「予は或時(あるとき)一個の非常なる雄弁家を見た。趣旨は『今日の圧制政治を覆へして自由の世界に出づるためには、我々は皆な一身を棄てなければならぬ』と云(い)ふのであった。‥‥余は実に『死んでも可(よ)い』と思った」
 七七年十二月、妻と離婚しています(結婚期間は一年。のちに、板垣退助の媒酌で、越前藩士・中村敬蔵の娘・徳子と結婚。一女三男を得ています)。

 【高知での自由民権の活動】

 紫瀾は、七七年(?)、高知に帰り、佐々木高行や谷千城を背景とする中立社設立に参加しました。
 八〇年七月五日、紫瀾は高知県の「高知新聞」の編集長になり、自由民権運動の宣伝普及をしました(紫瀾は、のちに主幹に)。
 紫瀾は、「女権家」をにんじ、八〇年九月十九日付では、当人同士の意向を無視した結婚を「福引婚礼」とし、それは「父母圧制といはさるを得ざる」とのべました。
 八一年五月八日、高知北奉公人町の末広亭での演説でも「自由婚姻論」と題する演説をしています(「高知新聞」八一年五月七日付)。
  『佐々木高行日記』に、同年八月九日の佐々之治の書簡が載っています。
 高知の自由民権運動についての情報です。
 「民権踊り第二の曲、今回左記の通りを持って、是又(これまた)南川原納涼場に於(おい)て、彼(か)の輩(やから)の壮年及(およ)び浦戸、種崎などの漁夫等(ら)が毎夜踊舞致(いた)し候(そうろう)」
 「南川原」というのは高知市を流れる鏡川の南河原のことです。

 そして、「民権踊り第二の曲」の歌詞を書いています。

 ジヤッパンニース是(これ)なぜ泣く●與欠●(か)。親も無いか子も無いか。親も子もごんす。たった一つの我(わが)自由。鷹(たか)めに取られてきのうけふ(きょう)。きのふと(きのうと)思えど二千年。三千余万の兄弟と。共に取りたい我が自由。「ウラル」の山に腰掛けて。東を遥(はる)かに。ながむれば。卑屈世界の亜細亜洲

 この歌の作詞者について家永三郎さんは『植木枝盛研究』(第一版。岩波書店)で「…あるいは…坂崎であったと思われるが…」と、しています。
 紫瀾は、同年八月二十六日には、板垣にしだがって陸路高知を発し、東北地方を遊説しました。
 同年十月二十九日、板垣を総理とする自由党が結成されました。
 高知に帰ったあと、政談演説では、フランス革命などをとりいれ政府を攻撃しました。
 同年十二月十日夜、紫瀾は、高知県長岡郡中島村でも演説します。
 翌十一日、中島村での演説をとがめられ高知警察本署に召喚になり、県庁から何分の達があるまで演説禁止を申しつけられます。
 同月十五日、高知県令から一年間の演説禁止の命令を受けます。
 すると、紫瀾は、翌八二年一月には、遊芸稼人(ゆうげいかじん)の監察を受けます。
 芸名を馬鹿林鈍翁(ばかばやしどんおう)と名乗り、東洋一派民権講釈師馬鹿林鈍翁一座(六人)をつくります。
 そして、同月二十一日夜、高知上の新地の広栄座で東洋一派民権講釈の初興行を打ちました(当初は二十三日まで三日間の予定)。
 二日目の二十二日夜には、官憲により一座は講釈を中止させられ、解散させられました。紫瀾らは、現場で警官に逮捕されます。
 紫瀾さんはの演じた講談「羅馬英雄ブラタス小伝」の中の「天子(てんし。天皇)は人民より税を絞りて独り安坐す。税を取りて上坐に位するは天子と私しの二人なり」が不敬罪(天皇にたいして「不敬」な行為があったとして罰せられました)に問われ、講談にたくして政談をおこなったことは集会条例に違反するとされたのです。
 二月七日、高知軽罪裁判所は、紫瀾に不敬罪で、重禁固三カ月、罰金二十円、監視六カ月の判決を下します。
 この間、政府を批判した「高知新聞」は、八二年七月十四日、発行禁止の処分を受けます。
 七月十六日、約五千人の参加で「高知新聞」の「葬式」がおこなわれました。
 「火葬」地の上り口に「ひつぎ」を安置し、紫瀾が「祭辞」をのべました。
 保釈中の八三年一月、紫瀾は、『冷血千里の駒』という坂本龍馬を主人公にした小説を書き始めました(「土曜新聞」同年一月二十四日付から九月二十七日付まで連載)。
 同年六月に高知監獄から出獄します。

 【東京を追われ仙台…】

 その後、紫瀾は、「土曜新聞」にいましたが、翌八四年四月、退社。上京して「自由新聞」に入りました。ここでは主筆をつとめました。
 その後、「浪華新聞」、「今日新聞」などの主筆を歴任します。
 八七年十二月二十五日、保安条例が公布されます。
 反政府派とされた紫瀾は、この条例で、皇居三里以外に追放されます。
 彼は、家族とともに仙台に移住しました。
 その後、山形の「山形新聞」に招かれ、のちに「大同新聞」、「国民新聞」など各社を転々とします。
 八〇年、高知に帰り、大川淵(大川筋)に新居を定め、県庁の学務課に出仕しました。
 妻・徳子は、夫とともに女権拡張運動に参加。
 八三年の京都四条北劇場の女子大演説会にも出演しています。
 八四年五月十一日、自由党幹部の星亨さんが新聞『自由燈(じゆうのともしび)』創刊しました。
 紫瀾も、創刊とともに上京し、主筆(記者、画師)として、この新聞に参加します(八五年十二月に退社)。
 彼は、ここで八四年九月から退社までに男女同権、一夫一妻制を主張する女権論の論説を二十六本書きました。
 九三年一月、「土曜新聞」に招かれ、四年間、高知にいました。
 その間、九四年、九五年の日清戦争に記者として従軍しています。
 九九年、東京にいき、『維新土佐勤皇史』の執筆にあたります。か
 一九一三年二月十七日、東京で亡くなりました。五十九歳。

 【参考にさせていただいた文献】

 ● 『松本地方における自由民権運動の一源流 松本時代の坂崎紫瀾の言論活動』(山田貞光、『信濃』第十八巻第十一号)。
 ● 『自由民権裁判の研究 下』(手塚豊。慶応通信)。
 ● 『土佐自由民権運動史』(外崎光広、高知文化振興事業団)。
 ● 『植木枝盛研究』(第一版。家永三郎、岩波書店)。
 ● 『自由燈の研究』(松尾章一。日本経済評論社)。
 ● 『自由民権運動と女性』(大木基子、ドメス出版)。
 ● 「紫瀾雑録」(滝石登鯉、『土佐史談』第百十五号)。
 ● 『続郷土史夜話』(平尾道雄、高知新聞社)。
 ● 『夢・人・自由 土佐の自由民権マップ』(監修・山本大、高知新聞社)。
 ● 『伝えたい 土佐の百人 その言葉』(高知新聞社)。
 ● 『高知の近代文学素描 悲痛と反骨の系譜』(高橋正。土佐文化資料調査研究会)。
 ● 『土佐の百人』(高知新聞社)。
 ● 『日本共産党の七十年 党史年表』(日本共産党中央委員会)。

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2006.06.09

四国、よいとこ 585 高知市 城西公園のスイレンの花が綺麗です。

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 二〇〇六年六月九日。

 朝、高知市の城西公園を通りかかったら池のスイレンの花が綺麗にさいていました。

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四国、よいとこ 586 高知市 県庁のカルガモたちの散歩。

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 二〇〇六年六月九日。

 午後、高知市の県庁から帰ろうとしたら堀の所(県庁の敷地です)でカルガモが三羽散歩していました。

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四国、よいとこ 587 高知市 明治政府の密偵が高知でやったこと。

 二〇〇六年六月九日。

 この何日か読んだ本の数々によると、明治政府は密偵を駆使していたようです。
 「密偵」。『広辞苑』によると「ひそかに内情を探り調べること。また、その人。スパイ。」。
 自由民権運動の時期の、高知を舞台に、自由民権運動をスパイした密偵たちの姿を追ってみたいと思っています。
 けっこう、明治政府の本質に迫る記録になるかもしれません。

 ● 密偵たちのリスト。
 ● 密偵たちを直接使っていたのは、どんな機関か。誰が、どのように指示を出していたのか。
 ● 密偵たちは、どんな機関に属していたのか。身分は、どうだったのか。
 ● 密偵たちは、どんなふうにして情報を得たのか。
 ● 密偵たちは、どのようにして運動の破壊をしようとしたのか。
 ● どのような手段で、誰に情報を伝えていたのか。

 明治政府の高官・佐佐木高行は密偵からの情報を知りえる立場にあったようです。
 その情報が『保古飛呂比 佐佐木高行日記 一~十二』(東京大学出版会)に載っているようです。
 まずは、この本を借りてきて目を通してみることにしたいと思っています。

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2006.06.10

四国、よいとこ 588 石井百代(ももよ)さん、静岡県相良町(さがらちょう。現・牧之原市)在住のころの短歌。

 二〇〇六年六月十日。

 徴兵は命かけても阻むべし母・祖母・おみな牢(ろう)に満つるとも

 この短歌と作者の石井百代(ももよ)さん(一九〇三年一月三日生まれ)のことが本日の「しんぶん赤旗」日刊紙に載っていました。
 静岡県相良町(さがらちょう。現・牧之原市)に住んでいたころのことも書かれていました。
 彼女は、このころ 「しんぶん赤旗」日曜版の「読者文芸 にちよう短歌」にしばしば投稿しています。
 その作品のうち、いくつかを抜き書きします。

 「孫たちが夏休みに来る順番の日程表を書き寄こしけり」(六四年八月二日号)

 「かきむしる怒りは消えじジェット機の姿見るたび音する限り(厚木事件)」(六四年十一月一日号)

 「引き揚げに背負い来し子の成人式胸張りて母の由紀さんおめでとう」(六五年二月七日号)

 「枝かざしアンポハンタイと遊びし児が日韓会談の阻止を訴う(孫)」(六五年八月八日号)

 「マルクスの読書会終えわが夫と帰るこの夜の月澄みまさる」(六五年十二月五日号)

 「ベトナムを理解する眼は日を追うて世界に満つべしアメリカにても」(六六年一月十五日号)

 「言うことと行うことが結びつき君の言葉に重み覚ゆる」(六六年三月六日号)

 「レーニンの『貧農に訴える』の広告を喜び見たり娘の夫訳す」(六六年七月三日号)

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四国、よいとこ 589 高知市 十八歳のころ、朝倉の友のアパートでごちそうになったマヨネーズご飯。

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 二〇〇六年六月十日。

 仕事で朝からオートバイを駆って高知市朝倉へ。
 待ち合わせ三十分前に到着。
 しかし、定時になっても、三十分過ぎても相手の人たちがやってきません。
 問い合わせると「中止」になっていました。
 でも、ここまできて何にもしないのは悲しすぎます。

 ということで、通りに面した山にオートバイを乗り入れました。
 走ってみてびっくりしました。
 街から一分で、一気に、かなりきびしい里山に入ったからです。
 急坂の曲がりくねった道。段々の畑や田んぼ。地蔵。……
 山の中腹にさしかかると白いユリの花が群れ咲いていました。

 急に十八歳のころを思い出しました。
 この近くの大学の一年生の時のことです。
 この山のふもとのアパートに同じ学年の農学部の男子学生が住んでいました。僕と同じくグリークラブの部員でした。
 昼休みになると、しょっちゅう、彼の部屋にいって昼飯をごちそうになりました。
 温かいご飯にマヨネーズとしょう油をかけて……という昼飯でした。
 おいしかった。
 彼は、もうこの世にはいません。

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2006.06.11

四国、よいとこ 590 高知市 ジャガイモとトマトは親せき!?

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 二〇〇六年六月十日。

 高知市朝倉の山の続きです。
 オートバイを降り、中世の城跡、朝倉城跡への道を登りました。
 段々畑にジャガイモの白い花が綺麗に咲いています。
 耕作しているおじさんに話しかけました。
 「朝倉城跡かい。五分歩けばいけるよ」

 「ジャガイモはトマトと親せきなので、ジャガイモにトマトを接ぎ木するとトマトの実がなる」
 ということを教えてくれました(?)。
 一年前に定年になり、その後、ずーっと病気の日にも畑にきているそうです。
 「この段々畑はヤブになっていたのを畑にしたんだよ」
 「無農薬でやっている」
 「この畑のミミズ゜、すごい大きなミミズだろう」
 「この上の水槽でメダカを飼っている。もう二回孵化(ふか)した」

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四国、よいとこ 591 高知市 朝倉城跡の「奉 紀元二千六百年記念」の石柱。

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 二〇〇六年六月十日。

 高知市朝倉の山の続きです。

 てっぺんが朝倉城跡でした。
 神社が建っていました。
 その手前に「奉 紀元二千六百年記念」の石柱がありました。
 あの戦前に侵略戦争鼓舞のキャンペーン、「紀元二千六百年」の残がい。
 それが、目の前にあるのです。

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四国、よいとこ 592 高知市 「女子解放は男子解放也」の石碑。

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 二〇〇六年六月十日。

 高知市は碑の多い所ですね。
 旭の高知市木村会館にも、こんな石碑がありました。

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四国、よいとこ 593 高知市 「自由民権家 坂崎紫瀾(さかざき・しらん)邸跡」の石碑。

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 二〇〇六年六月十一日。

 高知市廿代町九の一六の道沿いに「自由民権家 坂崎紫瀾(さかざき・しらん)邸跡」の石碑ができ、十一日午後、除幕式がおこなわれました。
 「邸跡」碑のわきには「…三千万の兄弟と 共に取りたいわが自由…」という当時流行った「民権踊り」の歌の歌詞も刻まれています。
 坂崎紫瀾は、長野県、高知県などを舞台に、演説、執筆、講談などで自由民権、男女同権の思想を啓蒙した人です。
 帯屋町のグリンロードの近くです。

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四国、よいとこ 594 高知市 高校一年生の時に出合った「初恋」の詩 その一。

 二〇〇六年六月十一日。
 
   初恋
 
 まだあげ初めし前髪の
 林檎(りんご)のもとに見えしとき
 前にさしたる花櫛(はなぐし)の
 花ある君と思ひけり
 
 やさしく白き手をのべて
 林檎をわれにあたへしは
 薄紅(うすくれない)の秋の実に
 人こひ初(そ)めしはじめなり
 
 わがこゝろなきためいきの
 その髪の毛にかゝるとき
 たのしき恋の盃を
 君が情に酌みしかな
 
 林檎畠の樹の下に
 おのづからなる細道は
 誰が踏みそめしかたみぞと
 問ひたまうこそこひしけれ

 高校一年生の時に出合って衝撃を受けた詩です。

 高知市の中心地にある県立高校に入学してから一方的な初恋をしました。
 同級生の、黒い髪が美しい色白の女性でした。
 黒い髪に刺した赤い櫛の似合う女性でした。
 言葉が美しい女性でした(いまにして思えば、高知の西の人で幡多弁のアクセントだったんですね)。

 彼女は、読書家で、文学作品を読む習慣のなかった僕に、たくさんの本を貸してくれました。
 一度、バスに乗って高知市内の彼女の下宿に遊びにいきました。
 バスに乗るとき、先に乗った僕の手を握って彼女が乗ってきました。
 その手の柔らかくて温かかったこと!!!
 彼女の下宿の部屋のベッドに腰をかけて宗教論を語り合ったことだけを覚えています。
 その下宿には、同級の別の女性も住んでいました。
 高校に化学部をつくり、白衣を着て一緒に実験をしました。
 彼女が受験のための課外授業に出ると知ると一緒に出ました。
 修学旅行は東京コースと九州コースにわかれましたが、彼女が九州にすると知ると僕も九州にしました。

 卒業すると彼女は東京の大学に。
 僕は高知市の大学に。
 意外にあっけない、別れのシーンもない「別れ」でした。
 なんか追っかけてばかりの一方的な初恋でした。

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四国、よいとこ 595 高知市 高校一年生の時に出合った「初恋」の詩 その二。

 二〇〇六年六月十一日。

 詩「初恋」は、島崎藤村さん(一八七二年―一九四三年)の作品です。

 きょう、高知市の鏡川ぞいの唐人町一丁目に「胡蝶藤村交歓の地」の石碑があることを「発見」しました。

 東京の明治女学校の英語教師だった藤村は、教え子の佐藤輔子さんに恋しました。
 しかし、……。
 彼は、同校を辞職して、関西に放浪の旅に出ました。

 そして、東京の明治学院の同級生の馬場胡蝶を尋ねて高知市にやってきました。
 明治二十六(一八九三年)年二月二十三日のことでした。
 藤村さんは、胡蝶の家で、失恋の痛手を胡蝶に語ったようです。
 しかし、胡蝶は、その思いを理解しなかったようです。

 そして、四年後の明治三十年(一八九七年)、藤村さんは、詩集『若菜集』を出しました。
 その中に、「初恋」も入っていました。

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四国、よいとこ 596 高知市 うわーっ、しまった「冷凍ビール」。

 二〇〇六年六月十一日。

 夜、さて、ビールを飲もうか。
 あっ、しまった昨夜、ビールを冷凍庫に入れて、そのままになっていた。

 冷凍庫を開けてみたら、ビールはすっかり氷ついていました。
 うーーーっ。
 どうしよう。
 もったいなさすぎます。

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2006.06.12

四国、よいとこ 597 高知市 午前五時過ぎの地震。

 二〇〇六年六月十二日。

 夜中に目が覚めました。
 家がゆっくりと揺れています。
 仰向けに寝たまま、揺れを体感しました。
 震度3ぐらいでしょうか。
 まだ、揺れます。
 携帯電話を見たら午前五時過ぎでした。
 止まった。

 昨年七月に高知市にやってきてから初めて経験した地震です。

 一九四六年十二月二十一日の南海地震(マグニチュード8・1)を大阪市で体験した母の話を思い出しました。
 どうせ死ぬときは死ぬと、夫と布団の中で抱き合っていたそうです。
 僕は、母のお腹の中にいました。

 それはそうと、大きいのがきて、津波がくると、ここいらは大変な地域です。
 何か新しい展開があるのでしょうか。

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四国、よいとこ 598 高知市 「まんが甲子園通り」を歩いたら…。

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 二〇〇六年六月十二日。

 高知市の高知県立高知追手前高校に向かって右の通りが「まんが甲子園通り」になっています。
 高知市で、高校漫画サークル日本一をあらそう「まんが甲子園」が毎年夏にやられています。その歴代の優勝作品が通りに展示されているのです。
 本日、仕事にいく途中に見てまわりました。
 僕が一番気に入った作品は、これです。

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四国、よいとこ 599 高知市 「わーっ、ノウゼンカズラ」。

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 二〇〇六年六月十二日。

 高知市愛宕町あたりにノウゼンカズラが咲いていました。
 「うわーっ。夏だ」

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四国、よいとこ 570 高知市 「ヤマモモの 実る公園…」。

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 二〇〇六年六月十二日。

 ヤマモモの 実る公園 独りいて
 土佐を味わう
 午後のひととき

 この公園は高知市中久万の「中久万石橋公園」です。
 誰も、このヤマモモの実に見向きもしないようで、実が木の周辺にたくさん落ちていました。
 東京の土佐料理屋なんかでは高価な食べ物として出されていますが……。

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四国、よいとこ 571 高知市 「愛のある 暮らしのブログ 読んでいて…」。

 二〇〇六年六月十二日。

 愛のある 暮らしのブログ 読んでいて
 微笑んでいる
 独りの部屋で

 このブログ楽しみにしています。
 「これが本当の暮らしというものだなぁ」なんて感激しながら。

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四国、よいとこ 572 高知市  「地震、どう。ね、大丈夫なの」。

 二〇〇六年六月十二日。

 「地震、どう。ね、大丈夫なの」
 そんな電話が
 ほしかった日よ

 そんな電話がこないので、夜、東京の妻に電話しました。
 「たいしたことなかったらしいじゃないの。へーっ、そんなに揺れたの」
 一応、ニュースはカバーしていたようです。

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2006.06.13

四国、よいとこ 573 植木枝盛の場合 讒謗律(ざんぼうりつ)、新聞紙条例を批判したら監獄に…。

 二〇〇六年六月十三日。

 午前四時半に起きてしまい、眠られぬままに読書しました。
 その読書で知ったことです。

 明治政府の言論弾圧のすさまじさです。

 自由民権運動の台頭に直面した明治政府は、一八七五年(明治八年)六月二十八日、自由民権派の反政府運動と言論を弾圧するため讒謗律(ざんぼうりつ)、新聞紙条例をつくります。
 讒謗律は、出版物などを通じて人を讒毀もしくは誹謗(ひぼう)した場合、その対象となった人の身分に応じて軽量をつけ処罰しました。たとえば天皇にたいする讒毀誹謗は三月以上三年以下の禁獄です。
 新聞紙条例は、新聞・雑誌の発行を内務省の許可制とし、そのうえで「政府を変壊し国家を転覆するの説」を掲載すること、官庁の許可なく「上書建白」を掲載することなどの禁止事項を設け、その違反に厳罰を付しました。

 この二つの法律を批判した植木枝盛(一八五七年二月十四日-九二年一月二十三日)は、それゆえに投獄されています。
 枝盛は、七六年(明治九年)二月十二日、「郵便報知新聞」に、「猿人政府」と題する投書を送りました。
 内容は、人間と猿との相違は「思像」(思想)の有無にあるのだが、政府が反政府運動取締りのため前年六つき二十八日に布告した「讒謗律」と「新聞紙条例」は「発論」(言論)の自由を制限し思想の自由を制限することになる、したがって言論の自由を制限する法律は人を猿にするものだというものです。
 「郵便報知新聞」の編輯人(へんしゅうにん)・岡敬孝が、この投書を「猿人君主」と改題し、同紙二月十五日号に載せました。
 枝盛は、東京裁判所に呼び出され、検事の取り調べを受け、「町用預」「拘留」になり、三月十五日、新聞紙条例違反を理由に禁獄二カ月の申し渡しを受け、ただちに鍛冶橋監獄に投獄されました。
 同時に、岡は、讒謗律違反を理由に禁獄一年半、罰金三百円の申し渡しを受け、ただちに下獄しました。

 枝盛は、五月十三日、満期出獄しました。
 そして、翌月十二日に「自由は鮮血を以(も)って買はさる可からさる論」を書きました。
 これは、「湖海新報」第十一号に掲載されました。

 ● 参考文献 『植木枝盛の生涯』(外崎光広、高知市文化振興事業団)。

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四国、よいとこ 574 高知市 上町(かみまち)二丁目の「婦人参政権発祥之地」の石碑。

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 二〇〇六年六月十三日。

 事務所が高知市上町(かみまち)に越してきてから、この街を歩いてみると、幕末の志士や明治の自由民権運動の碑がたくさんある所だと気がつきました。
 その一つが上町二丁目の高知市立第四小学校の正門から左にいった所にある「婦人参政権発祥之地」の石碑です。

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四国、よいとこ 575 高知市 わが街、九反田(くたんだ)の戦争。

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 二〇〇六年六月十三日。

 高知市九反田(くたんだ)に住んでいます。
 
 昨日、たまたま、アメリカ軍機の高知市空襲の体験を聞くことができました。
 九反田も焼かれたといいます。
 その人の親せきの一家三人が、九反田で黒焦げに焼かれて亡くなったといいます。
 
 それから、この九反田を見る目が変わりました。
 高層の立派なホテルが建つ、ここ九反田。ここも戦場だったんだ。
 ここに住んでいた人々が、アメリカ軍に虐殺されたんだ…。

 写真は、近くの橋の名前です。
 「おがやはし」と読みます。

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四国、よいとこ 576 「輝かしくあれ」 日本よ。世界よ。

 二〇〇六年六月十三日。

 「今」と「過去」 いきつもどりつ 考える
 輝かしくあれ
 孫らの未来

 エミちゃん。
 ユリちゃん。
 「やな世の中」にしないために、僕もがんばるよ。
 少しばてているけど…。

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2006.06.15

四国、よいとこ 577 高知市 アメリカ軍の高知空襲の犠牲者、四百十三人。

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 二〇〇六年六月十三日。

 空襲で 母と妹 失った
 語る男の
 涙を見たか

 アメリカ軍のボーイングB29爆撃機百二十機は、一九四五年七月四日午前一時五十二分から約一時間、高知市に、じゅうたんをしきつめるように焼夷弾(しょういだん)を落としました。

 昨年、高知城跡の試掘(高知市教育委員会)で高知空襲で被熱した瓦が出てきましたが、それはだいだい色に変色していたということです。

 犠牲者たちの遺体が仮埋葬されていた高知市の鏡川南のグラウンドの近くには一昨年、「高知市平和祈念の碑」(高知市大原町「りょうまスタジオ」入口)ができました。
 現在、その中に四五年一月十九日から七月二十四日までの八回の高知市空襲の四百十三人の犠牲者の名簿が納められています。

 今年の七月四日の午前十時から、ここで第二回高知市平和祈念式がおこなわれます。主催は高知市。
 民主団体も、当日、午後三時、高知市の筆山駐車場集合で高知空襲犠牲者追悼会をおこないます。

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四国、よいとこ 578 高知市 朝倉の「ゴミの山」。

 二〇〇六年六月十五日。

 午前七時、自転車で高知市朝倉方面へ。
 すごい雨です。
 雨着のフードが風にあおられて役にたちません。

 びしょぬれ状態で午前九時前、目的地に到着。
 話を聞かせていただき、彼の車で近くの山に上がりました。

 山の中はゴミ捨て場と化しています。
 谷にゴミが捨てられ谷が埋めつくされようとしています。
 頂上あたりにゴミの処理場がありました。
 崩れた山肌から水が滝のように落ちてきます。
 砂防ダムを見ました。
 土砂でいっぱいです。
 いくつかある水路の内、一番上の向かって右の水路から水が吹き出ていました。
 他の水路からはちょろちょろしか水が出ていません。

 この砂防ダムのすぐ近くに住宅団地が広がっています。

 ゴミ捨て場と化したこの山が変調をきたし、暮らしに襲いかかろうとしているのではないでしょうか。

 帰りも雨の中。
 正午過ぎにやっと事務所に帰り着きました。

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四国、よいとこ 579 高知市 一九四五年七月四日の高知空襲で、高知市立第一国民学校、高知市立第二国民学校も焼失。

 二〇〇六年六月十五日。

 「アメリカ軍のボーイングB29爆撃機百二十機は、一九四五年七月四日午前一時五十二分から約一時間、高知市に、じゅうたんをしきつめるように焼夷弾(しょういだん)を落としました」と、書きました。
 僕が今住んでいる地域でも、高知市立第一国民学校、高知市立第二国民学校が焼失しました。
 児童たちは、昭和国民学校、田淵保育園に分散し授業を受けました。
 両校は統合され、一九四七年四月、高知市立新堀小学校になりました。

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四国、よいとこ 580 高知市 雑喉場橋(ざこばはし)の「雑喉場」つて??

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 二〇〇六年六月十五日。

 高知市内の僕の家の近所の鏡川に雑喉場橋(ざこばはし)がかかっています。
 この橋は一九八一年三月、竣工です。

 ここいらに魚問屋の会所があったのでしょうか。


 【「雑喉場」について 参照】


   高知がえり  寺田寅彦

   (読みにくいので僕が勝手に行がえしました)

 明後日は自分の誕生日。久々で国にいるから祝の御萩(おはぎ)を食いに帰れとの事であった。
 今日は天気もよし、二、三日前のようにいやな風もない。船も丁度あると来たので帰る事と定める。
 朝飯の時勘定をこしらえるようにと竹さんに云い付ける。こんどはいつ御出(おい)でかと例の幡多訛(はたなま)りで問う。おれの事だからいつだかわからんと云ったような事を云うてザブ/\とすまし、机の上をザット片付けて革鞄(かばん)へ入れるものは入れ、これでよしとヴァイオリンを出して second position の処(ところ)を開けてヘ調の「アンダンテ」をやる。1st とちがって何処(どこ)かに艶があってよい。
 袷(あわせ)を綿入に着かえて重くるしいのに裾(すそ)が開きたがって仕方がない。
 縁側へ日が強くさして何だか逆上する。鼻の工合が変だが、昨日の写生で風でも引きやしなかったかしらん。
 東の間では御ばあさんの声で菊尾さんを呼んでいる。定勝を尋ねて来いといいつけている。着物の寸法も取らねばならんのに朝から何処へいったのかとブツブツ。
 間もなく菊尾は帰ったが、安田にも学校にも居ませんと云うので、御ばあさんまたブツブツ。
 そのうち定勝さんが帰った。着物の寸法を取らねばならぬに何処へ行っていたか。この忙しいのにどんなに世話を焼かすか知れぬと頭ごなし。帰って来たとて宅(うち)に片時居るでもなし。おまけに世話ばかり焼かして……。もうそう時々帰って来るには及ばぬ……とカンカン。誰れか余所(よそ)の伯母さんが来て寸を取っているらしい。 勘定を持って来た。十五円で御釣りが三円なにがし。その中の銀一枚はこれで蕎麦(そば)をおごろうと御竹さんの帯の間へ。
 残りは巾着(きんちゃく)へ、チャラ/\と云うも冬の音なり。
 今日は少し御早くと昼飯が来て、これでまたしばらくと云うような事を云い合うて手早くすます。
 しばらくすると二階で「汽船が見えました」と御竹の声。
 奥からは「汽船が見えました。今日御帰りで御ざいますそうな」と御八重(おやえ)が来る。
 これはちと話の順序がちがっているようだ。
 料理人篠村宇三郎、かご入りの青海苔(あおのり)を持って来て、「これは今年始めて取れましたので差上げます。御尊父様へよろしく」と改まったる御挨拶で。
 そのうち汽船の碇(いかり)を下ろす音が聞えて汽笛一声。
 「サアそろそろ出掛けようか。」「御荷物はこれだけで。」「イヤコレハ私が持って行こう。サヨーナラ。」「また御早うに……。」
 定勝さんも今日の船で帰校するとて、背嚢(はいのう)へ毛布を付けている。
 今日は船がよほどいつもよりは西へついている。
 何処の学校だか行軍に来たらしい。生徒が浜辺に大勢居る。
 女生の海老茶袴(えびちゃばかま)が目立って見える。
 船にのるのだか見送りだか二十前後の蝶々髷(ちょうちょうまげ)が大勢居る。
 端艇へ飛びのってしゃがんで唾(つば)をすると波の上で開く。浜を見るとまぶしい。
 甲板へ上がってボーイに上等はあいているかと問うとあいているとの事、荷物と帽を投げ込んで浜を見ると、今端艇にのり移ったマントの一行五、六人、さきの蝶々髷の連中とサヨーナラといっているのが聞える。蚕種(さんしゅ)検査の御役人が帰るのだなと合点がいった。
 宿の定さんも、二階で泊った女づれのハイカラも来る。
 頬の恐ろしく膨(ふく)れた、大きなどてらを着た人相のよくない男が艫(とも)の甲板の蓆(むしろ)へ座をしめてボーイの売りに来た菓子を食っている。
 その向いに坐った目の赤いじいさんと相撲(すもう)の話をしている。あるいは相撲取かも知れぬが髪は二月前に刈ったと云う風である。
 その隣には五、六人、若い娘も二人ほど交じっている。
 機関長室には顔の赤い人の好さそうなのが航海日誌と云いそうなものへ何か書いている。
 ここへ色の青い恐ろしく痩せた束髪の三十くらいの女をつれた例の生白いハイカラが来て機関長と挨拶をしていたが、女はとうとうこの室の寝台を占領した。何者だろう。黒紋付をちらと見たら蔦(つた)の紋であった。
 宿の二階から毎日見下ろして御なじみの蚕種検査の先生達は舳(へさき)の方の炊事場の横へ陣どって大将らしき鬚(ひげ)の白いのが法帖様(ほうじょうよう)のものを広げて一行と話している。
 やっと出帆したのが十二時半頃。
 甲板はどうも風が寒い。
 艫の処を見ると定さんが旗竿へもたれて浜の方を見ながら口笛を吹いているからそこへいって話しかける。第二中学の模様など聞いているうち船員が出帆旗を下ろしに来た。杣(そま)らしき男が艫へ大きな鋸(のこぎり)や何かを置いたので窮屈だ。
 山々の草枯れの色は実に美しいと東の山ばかり見ているうちはや神島(こうじま)まで来て、久礼(くれ)はと見たけれども何処とも見当がつかぬ。
 釣船が追々に沖から帆を上げて帰って来る。
 甲板を下駄で蹴りながら、昨日稽古した「エコー」と云うのを歌う。
 室へ入ろうとするといつの間にか商人体(てい)の男二人その連れらしき娘一人室へいっぱいになって『風俗画報』か何か見ているので、また甲板をあちこち。
 機関長室からハイカラ先生の鼠色のズボンが片足出て、鏡に女の顔が映って見える。
 煙突の脇へ子供を負った婆さんとおばさんとが欄干にもたれて立って、伝馬(てんま)の船底から山を見ている顔が淋しそうな。
 右舷(うげん)へ出ると西日が照りつけて、蝶々に結(ゆ)った料理屋者らしいのが一人欄へもたれて沖をぼんやり見ている。
 会食室の戸が開いているからちらと見たら、三十くらいの意気な女と酒をのんでいる男があったが、顔はよく見えなかった。
 また左舷へ帰って室へはいって革鞄から『桂花集』を引っぱり出して欄へもたれて高く音読すると、艫で誰れか浮かれ節をやり出したので皆が其方を見る。
 ボーイにマッチを貰って煙草を吸う。吸殻を落すと船腹に引付(ひっつ)いて落ちてすぐ見えなくなる。
 浦戸(うらど)の燈台が小さく見える。
 西を見ると神島が夕日を背にして真黒に浮上がって見える。
 横波の入日をこして北を見ると遠い山の頂に白いものが見える。
 ボーイが御茶を上げましょと云うて来たから室へはいると、前の商人はあわてて席を譲って「ドーゾコチラヘ」と言う。
 茶をのんで粗末なビスケットを二つ三つかじる。
 娘は毛布をかけてねたまま手を出してビスケットを取って食っている。
 スグまた室を出る。
 鴨(かも)が沢山ついていて、釣船もボツボツ見える。
 だいぶ浦戸に近よった。
 煙突の下で立ちながらめしを食っている男がある。
 例のボーイが cabin からいかがわしい写真を出して来て見せびらかしながら会食室へはいったと思うと、盛んに笑う声が洩れて来た。 浪がないから竜王の下の岩に躍(おど)る白浪の壮観も見えぬ。
 釣船はそろそろ帆を張って帰り支度をしている。
 沖の礁を廻る時から右舷へ出て種崎(たねざき)の浜を見る。夏とはちがって人影も見えぬ和楽園(わらくえん)の前に釣を垂れている中折帽の男がある。
 雑喉場(ざこば)の前に日本式の小さい帆前が一艘ついて、汀(みぎわ)には四、五人ほど貝でも拾っている様子。伝馬に乗って櫂(かい)を動かしている女の腕に西日がさして白く見える。どうやら夏のようにも思われる。
 貴船社(きぶねしゃ)の前を通った時は胸が痛かった。
 玉島のあたりははらかた釣りが夥(おびただ)しいが、女子供が大半を占めている。
 種崎の渡しの方には、茶船の旗が二つ見えて、池川の雨戸は空しく締められてこれも悲しい。
 孕(はらみ)の山には紅葉が見えて美しい。
 碇を下ろして皆端艇へ移る。
 例のハイカラは浜行の茶船へのる。
 自分は蚕種検査の先生方の借り切り船へ御厄介になった。
 須崎のある人から稲荷新地(いなりしんち)の醜業婦へ手紙を託されたとか云って、それを出して見せびらかしている。
 得月楼(とくげつろう)の前へ船をつけ自転車を引上げる若者がある。楼上と門前とに女が立ってうなずいている。犬引も通る。これらが煩悩の犬だろう。
 松(まつ)が端(はな)から車を雇う。下町(しもまち)は昨日の祭礼の名残で賑やかな追手筋(おうてすじ)を小さい花台をかいた子供連がねって行く。
 西洋の婦人が向うから来てこれとすれちがった。
 牧牛会社の前までくると日が入りかかって、川端の榎(えのき)の霜枯れの色が実に美しい。
 高阪橋(たかさかばし)を越す時東を見ると、女学生が大勢立っていると思ったが、それは海老茶色の葦を干してあるのであった。
(明治三十四年十一月)


 以下、高知市役所のホームページより。


 市場の起こり  

 高知市における食品市場の起源は、古く慶長年間 (西暦1596~1614年) の江戸藩政時代に遡る。当時土佐藩は城下に入る食料品、その他すべての売買取引を納屋堀 (現在の南はりまや町辺り)で許可し、問屋営業が行われていた。
 明治維新後、廃藩置県で雑喉場役場が廃止され、魚類市場は自由市場となり、各地に新たな市場が相次いで新設されたが、市場の乱立により、荷の争奪、市場職人の買収、不払いの不履行などの問題が発生した。
 このため、高知県は明治41(西暦1908)年に食品市場取締規制を改正して市場の統一に乗り出し、翌42年に (九反田地区に) 魚市場、大正4年に青果市場をそれぞれ統一した。
 大正12年中央卸売市場法が公布され、高知市も昭和4年12月に高知市中央卸売場の開設が認可された。
 翌昭和5年1月九反田市場の敷地に、京都市 (昭和2年開設) に次いで全国で2番目の中央卸売市場を開場した。開場当時は鮮魚部のみをもって発足したが、翌年の昭和6年に青果部、8年には塩干部が新設された。
 高知市は無論、高知県における食品流通の中核基地として、その機能を果たしてきたが、その後の急激な経
済の発展により、市場が手狭になったため、昭和42年に現在の弘化台地区に新市場を設置し全面移転した。
 移転後も市場の取扱量の伸びや輸送の大型化による市場の狭隘化および施設の老朽化が問題となったためこれらの対策として昭和54年に立体駐車場、昭和60年に固定桟橋駐車場、平成元年には関連店舗及び屋上駐車場の建設等の施設整備を実施してきたが、さらに市場機能の拡充や市場内業者の強化育成を図るため、平成8年に第6次整備計画を策定し、平成9年より増改築を含めた新たな施設整備を進めている。


  土佐史研究家 広谷喜十郎

 243 北村 久寿雄 高知市広報「あかるいまち」2004年7月号より

 ……オリンピックと言えば、昭和七年、アメリカ・ロサンゼルスでの第十回大会で、十五歳の北村久寿雄が世界の強豪を抑え、千五百メートルの水泳競技で優勝したことが語り継がれている。……
                                ●市営体育館入り口に陳列された故北村久寿雄氏の記録と足跡

 ……世界中の新聞が大々的にその活躍ぶりを報道し、日本国内では号外が出された。県内でももちろん大騒ぎとなり、数多くの高知市民が菜園場にあった北村家までちょうちん行列をして祝賀ムードが盛り上がった。
 北村少年が帰高したときには、高知港の桟橋から市街地までパレードがあり、沿道は大勢の人で埋まったという。この優勝を記念して、昭和十一年には高知県で初めての五十メートルの公認プールが建設された。
 北村久寿雄が、『高知商業高校八十周年記念誌』に寄せた文に「戦前の高知市で少年時代を過ごした人ならだれでも経験したことです。夏は一日中、鏡川で水遊びをしているうちに、小学校に上がるころには、もう一人前の河童に仕上がっているのです(略)当時ザコ場附近には各学校水泳部が集まって練習していました」とある。
 昭和六年の全国大会に出場し、「既に世界的選手だった見付中学の牧野正蔵さんと競い、散々の敗けを喫した」ので、帰高した翌日から特訓が始まる。鏡川の潮江橋と雑喉場橋間の約五百メートルを何回泳げるかという「橋々何回」という泳ぎを行った。
 この川の、増水した急流に逆らって泳ぐ訓練が実り、オリンピック候補選手となる。それから「冬から春にかけての練習が大変(略)桂浜へ泳ぎに行ったり、鏡川でシビれる寒さを我慢しての練習です」と回顧している。
 水泳部監督の溝渕治助氏は、魚市場の職員で、毎日の練習時間に決して遅れなかったし、練習に厳しい人であった。彼は大正末年から、松山市での水泳大会に数回出場している。バスのない時代で、自転車で夜を徹して会場に行き、片隅で仮眠を取り、競技に参加したというエピソードを持つ人物である。

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四国、よいとこ 581 高知市 九反田、筆山、上町 自由民権運動。

 二〇〇六年六月十五日。

 高知市の自由民権運動の歴史をたどってみると、僕の今暮らしている位置は、すごく、これを研究するのに有利な場所だと痛感しました。

 まず、住家の九反田(くたんだ)。自由民権運動の発祥の地といってよいでしょうか。
 妻の実家がある筆山町(ひつざんちょう)。ここの要法寺で南海自由党が発足しました。
 そして、つとめている上町(かみまち)。すごく、この運動が盛んな所でした。

 十四日夜の妻によると、かつて住んでいたのは高知市の要法寺町だったそうです。
 筆山町に越してきたら近くに要法寺があったとのことです。……。

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四国、よいとこ 582 高知市 「快活な 妻のおしゃべり 聞いている…」。

 二〇〇六年六月十五日。

 快活な 妻のおしゃべり 聞いている
 電話の向こうも
 独り身なのに

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2006.06.16

四国、よいとこ 583 徳島県阿南市 高知駅前から三時間半。

 二〇〇六年六月十六日。

 夜、いま徳島県阿南市にきています。
 阿南駅近くの安いビジネスホテルに入って、クーラーの操作に苦労しています。ただいま汗だく。

 午後四時、高知駅前を高速バスで出発して、阿南駅に着いたのは午後七時半過ぎ。三時間半か。

 明日は朝から仕事。
 楽しい仕事にしたいものです。

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四国、よいとこ 584 高知県伊野町 全国一斉学力テスト実施の時。

 二〇〇六年六月十六日。

 歴史の一瞬一瞬に自分が、それにどう向き合ったかを検証する必要がある。
 最近、そう思っています。

 政府が全国一斉学力テストを計画しています。
 全国一斉学力テスト。僕も受けたことがあります。

 1961.10.26 文部省,中学2・3年生対象の全国一斉学力テスト実施.

 年表を引いたら、こうありました。
 僕が高知県伊野町立伊野中学校の三年生の時です。

 教師への勤務評定導入に続いて、全国の学校を格差づけして、教師や生徒を締め付けるものだと思いました。

 しかし、拒否するにはいたりませんでした。
 受けました。
 しかし、白紙で出しました。
 僕の抵抗でした。

 できなかったんだろう?
 いいえ、中学三年の三学期は「オール五」でした。

 大学に入ったときからは成績はめろめろでしたが……。

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2006.06.17

四国、よいとこ 585 高知市 「たれもつうーて、だれまろーだ」。

 二〇〇六年六月十七日。

 徳島県のJR阿南駅から列車で高知駅へ。
 二回乗り換え。遠い。
 ぐったりきました。

 事務所にいって仕事の続き。

 「もう、いや」
 という感じで午後七時前に家に帰ってきました。
 「仕事が、たれもつうーて、だれまろーだ」
 という感じです。

 家で洗濯をしながらテレビを見ています。
 シジミの番組をやっています。
 僕の好物です。
 近々、シジミを買ってきて、たっぷり食べたいと思いました。

 明日は休み。
 何をしようか。
 思いついて高知市内の妻の母に電話。
 あしたの午後は、じっくり「戦争中の高知」について話をきかせてもらうことにしました。
 何か仕事がらみになっていますが……。
 これも性分です。 

 おっと、「たれもつうーて、だれまろーだ」の解説をどうぞ。
 土佐弁です。
 「たれもつー」は、「仕事がたくさんたまって、手がつけられず困惑する」。
 「だけまろぶ」は、「疲れきる」。

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四国、よいとこ 586 徳島県阿南市 憲法九条を守ろうというステッカーをはった乗用車。

 二〇〇六年六月十七日。

 ところで、この日午前中、徳島県阿南市で憲法九条を守ろうというステッカーをはった乗用車を二台見ました。
 感激しました。
 やっぱり、「思い」だけでなく行動しなくては。

 すごいね。阿南市の人たち。

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四国、よいとこ 587 高知市 「ザック ザック ザック ザック ザック ザック ザック つよい日本の あしおとだ」。

 二〇〇六年六月十七日。

 ところで六月十六日午後、高知市で終戦のとき国民学校五年生だった男性の話を聞きました。
 あの「ザック ザック」という歌を覚えていてうたってくれました。
 昨年、軍歌、軍国歌謡のことを勉強していて知った歌です。

 一九四一年十二月二十三日、情報局の主導で社団法人日本少国民文化協会が創立されました。
 小野俊一理事長の下に舞踊、遊具、紙芝居、童話、演劇、音楽、文学、絵画、映画、ラジオ、出版の十一部会がありました。
 同協会は機関誌『少國民文化』を毎月発行しました(四二年六月~四四年十二月)。
 同協会が制定した歌がいくつかありますが、その中に「日本のあしおと」があります。
 楽譜には「文部省検定・情報局推薦 社団法人日本少国民文化協会作詞作曲」とあります。

 日本のあしおと ザック ザック ザック ザック ザック ザック ザック
 へいたいさんの あしおとだ
 ザック ザック ザック ザック ザック ザック ザック
 つよい日本の あしおとだ

 聞いていて、なんかぞーっとしました。

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四国、よいとこ 588 高知市 「二人して けんかしている 定年後…」。

 二〇〇六年六月十七日。

 二人して けんかしている 定年後
 楽しみだよな
 離れ住む日々

 本日、東京の妻は休みのはずですが、自宅の電話でも携帯電話でも出ません。
 いつも、おいそがしの人です。

 一九七〇年十月に結婚して以来、あまり一緒にいる機会はありませんでした。
 二人が定年になったあと、夫婦としての本当の「勝負」が始まりそうです。
 「これまでは単身赴任が多くてよかったけど、一緒に暮らすと、ああ、うっとうしい」
 こう、いわれそうですが……。

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2006.06.18

四国、よいとこ 589 高知市 東京都の娘からの「父の日電話」。

 二〇〇六年六月十八日。

 午前、東京の娘から電話。
 「父の日だから」
 と、いうのです。
 娘の娘二人も電話に出てきました。
 感謝。

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四国、よいとこ 590 妻の母の高知市空襲体験 その一 職場から若い男性がいなくなって……。

 二〇〇六年六月十八日。

 高知市に住む妻の母に、一九四五年七月四日午前一時五十二分から約一時間のアメリカ軍機の高知市空襲の体験を聞きました。
  
 彼女は、一九二七年(昭和二年)一月二十四日生まれです。

 家は、高知市廿代町(にじゅうだいまち)の木造の平屋でした。
 入交(いりまじり)さん宅の前で、西隣は大家(たいけ)さんという瓦の商売をしている人の宅でした(いまでも、電車どおりの角にガソリンスタンドがあります)。
 蓮池町の荒物雑貨、竹崎商店の番頭をつとめる父と住んでいました(母は、すでに亡くなっていました)。

 高知市立第二小学校、高知市立実科女学校を出ました。
 (第二小学校は、今の高知病院の所です。オリンピックに出た水泳の北川選手の出身校です。縦二十五メートル、横五メートルのプールがありました。ナンバースクールは第六までありました。第三が追手前でした。実科女学校は、錦川町にありました。いまの高知女子大のある所です)。

 市内の四国営林局の前の高知県地方木材株式会社につとめていました(今の高知県庁西庁舎の所。四階建ての鉄筋コンクリートのビルでエレベーターがありました)。
 職員は百人くらいいましたが、男性は課長級から上と小遣いさん(坊や)だけでした。
 若い男性がどんどん戦争にとられていたからです。
 木材が統制になっていて、この会社の仕事は、指令に従って木材を供給する仕事でした。

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四国、よいとこ 591 高知市 妻の母の高知市空襲体験 その二 防空壕(ぼうくうごう)に入らず逃げなさいの忠告。

 二〇〇六年六月十八日。

 すでに東京などが空襲されていました。
 彼女が勤めていた高知市の高知県地方木材株式会社の職員には東京で空襲を受け、高知に帰ってきていた人もいました。
 机を並べて働いていたその人たちがいっていたことは
 「大きな空襲の時は、防空壕(ぼうくうごう)にはいらんずつ、逃げたほうがまし。ちょっとでへ中心部から逃げていかないかん」
 と、いうことでした。
 バケツリレーとか、縄を先につけたもの消火するとかいう訓練をしていましたが、その人は「そんな馬鹿なことをしよったら大変よー」と、いっていました。

 高知にもアメリカ軍機の空襲が始まっていました。
 時には米軍機が一機だけきて、ビラを落としていきました。
 「花の都(京都のこと)は、後回し。……舞妓は……」
 と、いった内容のビラもありました。

 「つぎ高知。つぎ高知」と、みんながいっていました。

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四国、よいとこ 592 高知市 妻の母の空襲体験 その三 ブーッというB29爆撃機の音がし始めていました。

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 二〇〇六年六月十八日。

 一九四五年七月四日未明のアメリカ軍機の高知市空襲は、彼女が十七歳の時のことです。

 その夜は、父、桂浜の姉とその息子(赤ちゃん)が一緒にいました。
 枕元に防空ずきん、着替え、荷物を置いて寝ていました。

 つけっぱなしだったラジオが「空襲警報発令。空襲警報発令」と放送しました。
 隣の家も、ばたばたしだしました。
 ブーッというB29爆撃機の音がし始めていました。
 「重厚な怖いような音」でした。

 父が「おきないかんぞ。逃げないかん」と、いいました。
 父は姉に「赤ちゃんをつれちゅうき、なんちゃぁもたんとはよう、どんどん逃げて」と、いいました。
 姉は息子を抱いて、北へ逃げました。
 彼女も救護袋を肩にかけて、父と走って逃げました。
 焼夷弾(しょういだんが)パア、パアと火花を散らして落ちてきていました。
 暗くありません。

 所々で、「キャーッ」といって、みんなが防空壕に入り込んでいました。
 「入りよったらいかん。入りよったらいかん。時間をとられるから」と、父。
 防空壕に入っていたら時間を取られ逃げられなくなるということです。

 市内薊野(あぞの)に知った人がいるので、そこにいくということでした。
 そこに荷物も疎開していました。
 高知橋を通り、そこまでいきました。
 田んぼばかりの所でした。
 そこの奥さんが、おにぎりなどをつくってくれました。
 そうするうちに、父は、浦戸の母の親類宅へいこうといいだしました。

 浦戸にいく途中で市内山田町の県社八幡宮(山田町八幡さま)所で救護の炊き出しをしていました。
 にぎりめしを渡していました。
 そこで姉たちと会いました。
 「ああ、よかったねー」と、いいあいました。

 朝、逃げる時、朝倉町(あさくらまち)で、防空壕(ぼうくうごう)の入口の所で亡くなっていた母と赤ちゃんの黒く焼けただれた遺体に出会いました。
 「もう、みんとろう。みんとろう(見ないでいこう。見ないでいこう)」
 と、目を覆って逃げました。
 (朝倉町は、いまの南はりまや町です)。
 遺体は軍隊がトラックに乗せて、どんどん運んでいきました。

 そして、四人で浦戸にいきました。

 
 【注】

 県社八幡宮(山田町八幡さま)は、一九六七年、高知八幡宮と改称。現在の地名は、高知市はりまや町三丁目八の一一です。同宮のリーフレット「高知八幡宮略記」によると、「昭和二十年七月の戦災に炎上、戦前の建物で現存するのは境内神社の本殿と手水舎で他は戦後の建物であります」地図は、同リーフレットから。写真は、二〇〇六年六月二十一日撮影。

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四国、よいとこ 593 高知市 妻の母の高知市空襲体験 その四 「川の水がぬくうなった(温かくなった)」。

 二〇〇六年六月十八日。

 妻の父によると、当時、高知市帯屋町に住んでいた彼の母と従業員たちは、この高知市空襲の日、鏡川まで走り、川の水に飛び込んで浸かって難をさけたとのことです。

 そのうち「川の水がぬくうなった(温かくなった)」と、いっていたそうです。

 (父の母が住んでいたのは、帯屋町のアーケードから二軒目。いまの「帯屋町書店」の向かって左です。当時、帯屋町の子どもたちは、ここから水着のまま鏡川に泳ぎにいっていたとのことです)。

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四国、よいとこ 594 高知市 妻の母の高知市空襲体験 その五 家は丸焼けになっていました。

 二〇〇六年六月十八日。

 彼女たちが高知市内廿代町の帰ってみると、家は丸焼けになっていました。
 裏に井戸があって、庭に散水するように水道がありました。
 防火のために、その下に洗濯用より大きなたらいをおいて水をいっぱい入れてありました。
 逃げていく時、「水、出しちょこう」と、いって水を出しておきました。
 そのたらいはふちが少し焦げていましたが、水が満タンになったまま残っていました。
 「一巻の終わりで写真もなにもなくなってしまいました」

 高知市立第二小学校も丸焼けになりました。
 奉安殿だけが残りました。

 近くに醤油の醸造元がありました。そこには醤油の入った大きな醸造樽がありました。
 私と同年輩の女性は炎の中、その樽に浸かって一夜を明かしたといいます。

 同僚の女性が会社にやってきましたが、顔の片方べったりやけどになっていました。
 はりまや橋の四差路の真ん中で油脂焼夷弾(ゆししょういだん)の油で滑って転んだということでした。

 鏡川の南の市営グラウンドの所から遺体を焼く臭い煙があがっていました。

 妻の父は、アメリカ軍機に撃たれ広島県呉の海軍病院に入院していました。
 八月六日のアメリカ軍機の広島市への原爆投下。
 傷ついた人たちが呉海軍病院に押し寄せ、押し出された格好で父たちは別の病院に移動します。
 列車に乗って福山に通りかかった時、福山はアメリカ軍機の空襲を受けました。列車の両側は、ぼんぼん燃えていました。
 岡山で乗り換え、鳥取の海軍病院に落ち着きました。
 八月十五日に敗戦。
 八月二十日に高知に復員した妻の父は、「高知駅に着くと、高知の街は丸焼けで、すぐ前に筆山(ひつざん)が見えた。高知は、こんなに狭い所だったろうかと思った」と、いいます。
 上は上町五丁目まで丸焼け。しもじ、旭、中須賀、菜園場(さえんば)の一部、知寄町の一部を残して、市内大半は焼かれたということです。

 彼女と父は、その後、市内旭の赤石町(あかいしちょう)のおばの家に疎開したといいます。
 会社は場所が「はねばし」・鉄砲町(てっぽうちょう)に変わりましたが、終戦までいきました。
              ◇
 終戦になり、空襲の時つとめていた高知県地方木材株式会社の社屋は占領軍が接収しました。
 アメリカ国旗がたなびいていました。

 妻の母と父は、戦後の結婚です。
 戦争の中で、からくも生き残って、結婚し、初めての子ども、つまり、いまの、わが妻が生まれました。

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2006.06.19

四国、よいとこ 595 高知市 「庶民見下げて うれしいのかよー」。

 二〇〇六年六月十八日。

 ふろに入り
 高層ホテル 見上げてる
 「庶民見下げて うれしいのかよー」

 後十年 住む家のこと
 らちあかず
 さりとて金を 貯めるでもなし

 六十に 後八カ月
 しわしわの 手の甲を見て
 思いふける夜(よ)

 少し暗くなっています。要注意。 

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四国、よいとこ 596 高知市空襲下、「御真影(ごしんえい)」、「教育勅語(きょういくちょくご)」を守れと必死になった国民学校校長たちのこと…。

 二〇〇六年六月十八日。

 あまりにも暑くて午後三時ころダウン。
 昼寝して、夜になってから勉強しました。

 『高校生が聞いた 高知市空襲の記録』(編集・発行・尾崎之治さん、田所金久さん、安並和雄さん)を読みました。

 高知空襲の一九四五年七月四日当時、高知市立第二小学校の校長だった男性の体験話が紹介されています(筆者は、松岡淳子さん。祖父の話の聞き書きです)。
 以下、大要です。
 
 山田町の八幡神社、岡林宅、第二国民学校の順に焼かれました。
 焼夷弾(しょういだん)が盛んに落とされました。
 第二国民学校の校舎が焼け出したので、校長と、同校に最初に駆けつけた「杉村先生」が「御真影」(ごしんえい。昭和天皇と皇后の写真)と「教育勅語」(きょういくちょくご)を持って、一宮(いっく)国民学校に向かって出発しました。
 その時、市中一面が火事で相生橋付近が通れず、山田橋から一文橋を通って、一宮に向かう途中、広い田んぼの中に何百本もの焼夷弾が燃えていました。
 午後四時ごろ、一宮国民学校に「御真影」、「教育勅語」を安置して、第二国民学校に帰りました。
 高知市は一面火事になり、黒煙が空をみたし、第二国民学校は全焼。校庭には焼夷弾が九十本以上突き刺さっていました。
 高知駅の西方の防空壕(ぼうくうごう)で老夫婦が黒焦げになっていました。
 はりまや橋交差点と潮江橋との中間路上で十五、十六歳くらいの青年が両手をつき方足を高くあげて黒こげになって死んでいました。
 潮江橋と山内神社までの鏡川には、焼死者が多数ありました。
 第一国民学校、第二国民学校は焼失したので、焼け残った昭和国民学校に全生徒を合併して授業をしました。

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四国、よいとこ 597 徳島市 なぜ、「府中」を「こう」と読むの!?

 二〇〇六年六月十九日。

 本日は高知駅から列車で徳島駅へ。
 途中、「こう」駅の手前で目覚めました。
 徳島市です。
 「こう」と読んで「府中」と書きます。
 なんで「府中」が「こう」なのでしょうか。

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四国、よいとこ 598 高知市 山男、小池倍夫(こいけ・ますお)君のこと。

 二〇〇六年六月十九日。

 徳島市から高知市への帰りのバスで読んだ『ビッグコミックオリジナル』七月五日号に漫画「岳 みんなの山」(石塚真一さん)が載っていました。

 読んでいて、山男、小池倍夫(こいけ・ますお)君を思い出しました。
 高知県立高知追手前高校で二年生、三年生の時、同級生でした。
 にこっと笑った顔が素敵でした。

 長身のひげの濃いスマートな男でした。
 山岳部でした。
 彼の指揮で、クラスで山に登ったことがあります。
 山ってすばらしい。その時、そう思いました。
 受験勉強も一緒にしました。

 一緒に高知大学文理学部文学科に入学しました。
 クラスで文集をつくりましたね。

 僕は一年生の時、文理学部学生自治会執行委員になりました。
 自治会室は兵舎跡の二階の一部屋でした。
 その向かいの左側が山岳部。
 小池君は、いつも、そこにいました。

 一緒に史学を専攻しました。
 四年生になる時、一緒に中退しました。

 その年の秋には、東京都練馬区の僕の下宿などで会いました。
 高校の時の仲間で同人誌を出そうなどと話し合いましたね。
 残念ながら、いまだに実現していません。

 そのうち小池君は、京都市にいきました。
 いい人と結婚し、子どもを得て…。

 高知県安芸市で喫茶店をやることになったといいます。
 そのために京都市から高知県に帰る旅の過程で、急病で亡くなりました。

 バスの中 山好きの友 しのんでる
 「岳」という名の
 漫画を読んで

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2006.06.20

四国、よいとこ 599 高知市 堀川沿いの道路わきに「兆民通り」の碑があるそうです。

 二〇〇六年六月二十日。

 朝、高知新聞を見たら、「声」の欄に南国市の窪田充治さんの投書が載っていました。
 これによると、僕の家から歩いて十分くらいの新堀川沿いの道路わきに「兆民通り」の碑があるとのことです。
 碑の矢印に従って西に少し歩くと、自由民権論者・中江兆民の誕生地の碑がたっているとのことです。

 近々、探して見ることにしましょう。
 はりまや橋近く。
 高知病院の近くのようです。

 二十一日朝、出勤前にいってきました。

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四国、よいとこ 600 高知県南国市 「ブランカ」という名の喫茶店。

 二〇〇六年六月二十日。

 仕事で朝から高知県南国市へ。
 路面電車でゆったりと…。

 南国市役所の近くに「ブランカ」という喫茶店がありました。
 店の男性は「ブランカ」の意味は「白いという意味」といいますが、手持ちの辞書には「ブランカ」がありません。

 そういえば宮本百合子さんと獄中の宮本顕治さんとの往復書簡に同じ「ブランカ」という言葉が出ていましたね。
 彼女のニックネームだったようです。

 この手紙にも載っています。
 アメリカ軍機の東京への空襲のさまを報告した部分を引用します。

 一九四五年一月三十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 一月二十九日
 きょうは、大御無沙汰のあとで久々にゆっくり書きはじめました。しかもきょうの手紙はね、百合子というだけのさし出し書きではすこし不足で、危くふっとぶことを免れたブランカより、という風な書きかたが入用です、昨夜九時すぎに来た一機が照空燈(サーチライトをこういうのよこの頃は。)に捕えられて上空に来かかり、きっと割合腰抜けだったと見えて周章していきなり、ポタンコ ポタンコとやりました。京浜地区警戒を要すというラジオでいつも壕へ入る仕度いたします。菅谷夫妻は、いつも泰然ですが、昨夜はいち早く来て主人公外へ出て、壕のふちに立っていたら、来ましたよ、来ましたよ、ホラそこ、真上でいやがる、というの、わたしには全然見えません。入りましょうよ、と細君と壕に入ったらとたんに何と云ったらあの音響と地響が表現出来るでしょう。つまり夢中になってしまうような音がして叫ぶようにキューンという鋭い音がいたしました。思わずかたまってちぢみこみました。又、キューンというの。焼夷弾よ、見なくちゃ、さア、ととび出して見ても分らない、うちに、パン、パーンとごく近くで落ちたのが爆発する音がいたします。近いわ、そのつもりで。とわたしは二階へかけ上り、あっちこっちあけて様子を見たら南の高村さんの屋根の裏がもう火の手です。やっぱり電話局よ、白いからね、と見ているうちに火はひろがり外へ様子見に行った菅谷君の話では電話局の前の通りで林さんというお医者もやけてしまったらしいとのこと。細君は、肴町の通りの春木屋という鳥やね、あすこが生家ですから、そっちを心配し御亭主はかけて見にゆきそこらの状況が分りました。細君も実家を見にゆきたいというのよ。風が北だからこっちは安心だから行くといいわと云ったら息せき切って戻って来て、奥さんそれどころじゃありません、団子坂の角がやけていて門の前から非常線で通れません、というの。じゃ一寸見て来るから、と門へ出たら門から非常線で団子坂の角の米やがあったの御承知でしょうか、あすこから鴎外の家のあったところ、そのずーっと先まで火の由。いろいろの情報を綜合してこちらは丁度巨人の歩幅の間に入った小人のような位置だったと分りました。うしろと斜前、横、爆弾でした。それぞれ小一丁もはなれて居りましょうか。
 第二次、第三次と来たときまだ火が見えて心配し、電燈もとまり警報もきこえず月明りをたよりに土足で家じゅう歩きました。日大病院もやけました。相当の範囲ね。こちらの側は、団子坂の角あたりと、その線をのばしてすこし上へ上ったところで星野という家につき当る角がありました、あの一寸入ったところ位で止りました。
 けさは疲れて八時前御見舞に来てくれた国男の友人に会ってから又、湯タンプをあつくして眠り十一時までぐっすり眠りました。千駄木小学校・駒中・郁文へ避難した人々が一時集っていて、こちらの前の通りの人通りは遑しゅうございます。
 水が不足ね、何しろ乾いて居りますし。凍って居りますし。大体どういう風と分ったのはいいが、あんまり瞬間の判断も出来ない程の突嗟のことで、其には閉口ね。本当の塹壕生活ならいいが、こうして日常性とそういう異常性とが交錯した生活はこれから益大変でしょう。こちらの組の米、味噌、マッチ類の配給所もやけてしまいました。今度の月番は大変でしょう、こちらは丁度昨日で終りました。マアこんな風で、ブランカも恙(つつが)(妙ねすこし)なかったことをおよろこび下さい。机の上に、内科読本など揃えてそのままとんでは哀れを止めてしまいます。
 ……

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四国、よいとこ 601 高知市 「日本では、平和憲法に守られて…」 高知市教育委員会のビデオ「伝えたい 高知空襲の記録」。

 二〇〇六年六月二十日。

 高知市教育委員会が昨年度に制作したビデオ「伝えたい 高知空襲の記録」(三十六分)を見ました。「人権教育映像資料(人権・平和)」と書かれています。

 「日本では、平和憲法に守られて、現在まで、およそ六十年間、戦争によって尊い命が奪われることはありませんでした。
 しかし、かつて太平洋戦争で、私たちのまち、高知市でも戦争、そして、空襲があったのです。……」

 バランスのいい、よくわかるビデオです。

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2006.06.21

四国、よいとこ 602 高知市 「とげ」つきのキュウリを丸ごと食べました。

 二〇〇六年六月二十一日。

 夜、弟が自分がつくった野菜などをもってきてくれました。
 キュウリ、ニンニク、ジャガイモ、ビワ。
 キュウリは、きょう初めてとれたばかりの「とげ」つき。
 洗って丸ごとを塩をつけてガリガリ。
 お・い・し・い。

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四国、よいとこ 603 高知市 牛肉の水炊きのニンニク醤油づけ。

 二〇〇六年六月二十一日。

 つぎなる料理。

 生のニンニクを小さく刻んで皿に入れ、それに醤油を入れます。
 一方、牛肉を水炊きします。
 その牛肉をニンニク醤油につけて食べます。
 これがうまい。

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2006.06.22

四国、よいとこ 604 愛媛県松山市 「…日本の平和を破る一筋の影」。

 二〇〇六年六月二十二日。

 改憲の裏にうごめく日本の平和を破る一筋の影

 「愛媛新聞」六月十三日付の「文芸」欄に、こんな短歌が載っていました。
 松山・森貞和雄さんの作品です

 同じかたの短歌が同紙十九日付の「愛媛歌壇」にも載っていました。

 かがやきて今日一日を生きるぞと鏡に向かひよしと声出す

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四国、よいとこ 605 高知市 「♪壊れかけのRadio」のはなうた。

 二〇〇六年六月二十二日。

 なにげなく「♪壊れかけのRadio」と歌っていたら、
 「そんな歌をしっちゅうがー」
 の声。
 考えてみると、このフレーズしか知りません。
 しかし、どこで覚えたのでしょうか。
 徳永英明(とくなが ひであき)さんは、一九六一年ニ月二十七日生まれ。福岡県柳川市出身のシンガーソングライターです。
 この「壊れかけのRadio」は、九〇年の作品だということですが…。
 歌詞を読んでみました。
 「♪道を探していた 汚れもないままに/飾られた行きばのない 押し寄せる人波に/本当の幸せ教えてよ 壊れかけのRadio」
 うーん、いい詩です。

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四国、よいとこ 606 国民学校の音楽の時間 一時間目 「僕らは 強い」。

 二〇〇六年六月二十二日。

 前から読みたいと思っていた国民学校(一九四二年四月から)の音楽の教科書を読むことができました(複製ですが)。
 まずは『ウタノホン 上』から。

 最初に天皇の歌があります。

 「キミガヨ」

 キミガヨハ、
 チヨニ ヤチヨニ、
 サザレイシノ
 イハホト ナノテ、
 コレノ ムスマデ。

 天皇の支配する世が永遠に続いてほしいということでしょうか。

 天皇と「日の丸」は、一体でした。

 「ヒノマル」

 一 アヲゾラ タカク
   ヒノマル アゲテ、
   アア、ウツクシイ、
   ニホンノ ハタハ。

 二 アサヒノ ノボル
   イキホヒ ミセテ、
   アア、 イサマシイ、
   ニホンノ ハタハ。

 天皇の戦争の最中でした。
 この旗がアジア各地で猛威をふるっていました。

 そして、子どもたちにも兵隊としてたたかうことを教えました。

 「兵タイゴッコ」

 一 カタカタ カタカタ、
   バンボン バンボン。
   兵タイゴッコ。
   カタカタ カタカタ、
   バンボン バンボン。
   ボクラハ ツヨイ。

 二 カタカタ カタカタ、
   バンボン バンボン。
   ススメヨ、 ススメ。
   カタカタ カタカタ、
   バンボン バンボン。
   テキ兵ハ ニゲル。

 「強い」子どもたちは、どんな「敵兵」とたたかっていたのでしょうか。

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四国、よいとこ 607 国民学校の音楽の時間 二時間目 国民学校って…。

 二〇〇六年六月二十二日。

 ここで、国民学校とは…をみておきましょう。
 「皇国ノ道ニ則(そく)リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為(な)スヲ以(もっ)テ日的トス」る学校だったのです。
 「皇国ノ道」というは「天皇万歳の道」ということでしょうか。


 以下、参考。

 小学校令改正(一九四二年三月一日勅令第百四十号)

 国民学校令

 第一章 目的

 第一条 国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ日的トス
 第二章 課程及編制
 第二条 国民学校ニ初等科及高等科ヲ置ク但シ土地ノ情況ニ依リ初等科又ハ高等科ノミヲ置クコトヲ得
 第三条 初等科ノ修業年限ハ六年トシ高等科ノ修業年限ハ二年トス
 第四条 国民学校ノ教科ハ初等科及高等科ヲ通ジ国民科、理数科、体錬科及芸能科トシ高等科ニ在リテハ実業科ヲ加フ
 国民科ハ之ヲ分チテ修身、国語、国史及地理ノ科目トス
 理数科ハ之ヲ分チテ算数及理科ノ科目トス体錬科ハ之ヲ分チテ体操及武道ノ科目トス但シ女児ニ付テハ武道ヲ欠クコトヲ得
 芸能科ハ之ヲ分チテ音楽、習字、図画及工作ノ科目トシ初等科ノ女児ニ付テハ裁縫ノ科目ヲ、高等科ノ女児ニ付テハ家事及裁縫ノ科目ヲ加フ
 実業科ハ之ヲ分チテ農業、工業、商業又ハ水産ノ科目トス
 前五項ニ掲グル科目ノ外高等科ニ於テハ外国語其ノ他必要ナル科目ヲ設クルコトヲ得
 第五条 国民学校ニハ高等科ヲ修了シタル者ノ為ニ特修科ヲ置クコトヲ得其ノ修業年限ハ一年トス
 特修科ヲ設置シ又ハ廃止セソトスルトキハ市町村、市町村学校組合又ハ町村学校組合ニ於テ地方長官ノ認可ヲ受クベシ
 特修科ニ関スル規程ハ文部大臣之ヲ定ム
 第六条 国民学校ノ教科用図書ハ文部省ニ於テ著作権ヲ有スルモノタルベシ但シ郷士ニ関スル図書、歌詞、楽譜等ニ関シ文部大臣ニ於テ別段ノ規定ヲ設ケタル場合ハ此ノ限ニ在ラス
 第七条 国民学校ノ教則及編制ニ関スル規程ハ文部大臣之ヲ定ム
 第三章 就学
 第八条 保護者(児童ニ対シ親権ヲ行フ者、親権ヲ行フ者ナキトキハ後見人又ハ後見人ノ職務ヲ行フ者ヲ謂フ以下同ジ)ハ児童ノ満六歳ニ達シタル日ノ翌日以後ニ於ケル最初ノ学年ノ始ヨリ満十四歳ニ達シタル日ノ属スル学年ノ終迄之ヲ国民学校ニ就学セシムルノ義務ヲ負フ
 第九条 前条ノ規定ニ依リ就学セシメラルベキ児童(学齢児童ト称ス以下同ジ)ノ瘋癲白痴又ハ不具廃疾ノ為之ヲ就学セシムルコト能ハズト認ムルトキハ市町村長ハ地方長官ノ認可ヲ受ケ前条ニ規定スル保護者ノ義務ヲ免除スルコトヲ得
 学齢児童ノ病弱又ハ発育不完全其ノ地已ムヲ得ザル事由ニ依リ就学時期ニ於テ之ヲ就学セシムルコト能ハズト認ムルトキハ市町村長ハ其ノ就学ヲ猶予スルコトヲ得此ノ場合ニ於テハ直ニ其ノ旨地方長官ニ報告スベシ
 第十条 第二十八条ノ規定ニ依リ国民学校設置ノ義務ヲ免ゼラレタル区域内ノ学齢児童ノ保護者ハ第八条ニ規定スル保護者ノ義務ヲ免除セラレタルモノトス
 第十一条 学齢児童国民学校以外ノ学校ニ於テ国民学校ノ課程ト同等以上ト認ムル課程ヲ修ムルトキハ第八条ニ規定スル保護者ノ義務ノ履行ニ関シテハ其ノ期間国民学校ニ就学スルモノト看做ス
 前項ノ課程ノ認定ニ関スル規程ハ文部大臣之ヲ定ム
 第十二条 学齢児童ヲ使用スル者ハ其ノ使用ニ依リテ児童ノ就学ヲ妨グルコトヲ得ズ
 第十三条-第十四条 略
 第四章 職員
 第十五条 国民学校ニハ学校長及訓導ヲ置クベシ
 国民学校ニハ教員、養護訓導及准訓導ヲ置クコトヲ得
 第十六条 学校長及教頭ハ其ノ学校ノ訓導ノ中ヨリ之ヲ補ス
 学校長ハ地方長官ノ命ヲ承ケ校務ヲ掌理シ所属職員ヲ監督ス
 教頭ハ学校長ヲ補佐シ校務ヲ掌ル
 第十七条 訓導及養護訓導ハ判任官ノ待遇トス
 但シ学校長又ハ教頭タル訓導ハ奏任官ノ待遇ト為スコトヲ得
 訓導ハ学校長ノ命ヲ承ケ児童ノ教育ヲ掌ル養護訓導ハ学校長ノ命ヲ承ケ児童ノ養護ヲ掌ル
 准訓導ハ学校長ノ命ヲ承ケ訓導ノ職務ヲ助ク
 第十八条 訓導及准訓導ハ国民学校教員免許状ヲ有スル者タルベシ
 養護訓導ハ女子ニシテ国民学校養護訓導免許状ヲ有スルモノタルベシ
 教員免許状ハ師範学校ヲ卒業シ又ハ訓導若ハ准訓導ノ検定ニ合格シタル者ニ地方長官之ヲ授与ス
 養護訓導免許状ハ養護訓導ノ検定ニ合格シタル者ニ地方長官之ヲ授与ス
 前二項ノ検定ヲ施行スル為道府県ニ国民学校教員検定委員会ヲ置ク国民学校教員検定委員会ニ関スル規程ハ別ニ之ヲ定ム
 教員免許状及養護訓導免許状其ノ他検定ニ関スル規程ハ文部大臣之ヲ定ム
 第十九条 特別ノ事情アルトキハ地方長官ハ国民学校教員免許状ヲ有セザル者ヲシテ准訓導ノ職務ヲ行ハシムルコトヲ得
 第二十条 国民学校職員ハ教育上必要アリト認ムルトキハ児童ニ懲戒ヲ加フルコトヲ得但シ体罰ヲ加フルコトヲ得ズ
 第二十一条 国民学校教員免許状ヲ有スル者左ノ各号ノ一ニ該当スルトキハ教員免許状ハ其ノ効力ヲ失フ
 一 禁錮以上ノ刑ニ処セラレタルトキ
 二 破産ノ宣告ヲ受ケタルトキ
 教員免許状ヲ有スル者不正ノ行為其ノ他教員タルベキ体面ヲ汚辱スルノ行為アリテ其ノ情状重シト認ムルトキハ文部大臣又ハ地方長官ニ於テ其ノ教員免許状ヲ褫奪ス
 前二項ノ規定ハ国民学校養護訓導免許状ヲ有スル者ニ之ヲ準用ス
 第二十二条-第二十三条 略
 第五章 設置
 第二十四条 市町村ハ其ノ区域内ノ学齢児童ヲ就学セシムルニ必要ナル国民学校ヲ設置スベシ
 第二十五条 地方長官ハ町村ガ左ノ各号ノ一ニ該当スト認ムルトキハ国民学校設置ノ為其ノ町村ト他ノ市町村トノ学校組合ヲ設クベシ
 一 町村ノ資力ガ国民学校ノ経費ノ負担ニ堪ヘザルトキ
 二 町村ニ於テ学齢児童ノ数一国民学校ヲ構成スルニ足ラズ又ハ適度ノ通学路程内ニ於テ一国民学校ヲ構成スルニ足ルベキ数ヲ得ルコト能ハザルトキ
 地方長官ハ市町村ノ一部ニシテ前項第二号ノ事情アルモノガ其ノ市町村ノ国民学校ニ対シ適度ノ通学路程内ニ在ラズト認ムルトキ亦前項ノ例ニ依ルベシ
 前二項ノ規定ニ依リ地方長官ニ於テ市町村学校組合又ハ町村学校組合ヲ設ケントスルトキハ組合規約ヲ定メ関係市町村ノ意見ヲ聞クベシ組合規約ヲ変更シ組合市町村ノ数ヲ増減シ又ハ組合ヲ解カントスルトキ亦同ジ
 第二十六条 地方長官ハ一市町村ガ国民学校ヲ設置スルニ比シ著シク優等ナル国民学校ヲ設置シ得ベシト認ムルトキハ国民学校設置ノ為市町村学校組合又ハ町村学校組合ヲ設クルコトヲ得
 前条第三項ノ規定ハ前項ノ場合ニ之ヲ準用ス
 第二十七条-第二十九条 略
 第六章 設備
 第三十条-第三十二条 略
 第七章 経費負担及授業料
 第三十三条 国民学校ノ経費ハ特別ノ規定アル場合ヲ除クノ外市町村、市町村学校組合又ハ町村学校組合ノ負担トス児童教育事務委託ニ関スル経費ニ付亦同ジ
 第三十四条 地方長官ニ於テ左ノ各号ノ一ニ該当スト認ムルトキハ北海道地方費又ハ府県ハ町村又ハ町村学校組合ニ相当ノ補助ヲ与フベシ
 一 町村ニ付第二十五条第一項第一号ノ事情アルモ同項ノ規定ニ依ルコトヲ得ザルトキ
 二 町村学校組合ノ資力ガ国民学校ノ経費ノ負担ニ堪ヘザルトキ又ハ市町村学校組合若ハ町村学校組合ノ一部タル町村ノ資力ガ其ノ学校組合費ノ分担ニ堪ヘザルトキ
 三 町村又ハ町村学校組合ノ資力ガ児童教育事務委託ニ関スル経費ノ負担ニ堪ヘザルトキ
 地方長官前項ノ規定ニ依ル認定ヲ為サントスルトキハ北海道参事会又ハ府県参事会ノ意見ヲ聞クベシ
 第三十五条 訓導、養護訓導及准訓導ノ検定並ニ国民学校教員免許状及国民学校養護訓導免許状ニ関スル経費ハ北海道地方費又ハ府県ノ負担トス
 第三十六条 国民学校ニ於テハ授業料ヲ徴収スルコトヲ得ズ但シ特修科ニ付テハ此ノ限ニ在ラズ
 特別ノ事情アルトキハ地方長官ノ認可ヲ受ケ国民学校ニ於テ授業料ヲ徴収スルコトヲ得授業料ハ市町村、市町村学校組合又ハ町村学校組合ノ収入トス
 授業料ニ関スル規程ハ文部大臣之ヲ定ム
 第八章 管理及監督
 第三十七条 市町村長、市町村学校組合管理者又ハ町村学校組合管理者ハ市町村、市町村学校組合又ハ町村学校組合ニ属スル国ノ国民学校ニ関スル教育事務ヲ管掌シ国民学校ヲ管理ス
 第三十八条 市町村、市町村学校組合及町村学校組合ハ国民学校ニ関スル教育事務ノ為市制第八十三条若ハ町村制第六十九条ノ規定又ハ其ノ準用規定ニ依リ学務委員ヲ置クベシ此ノ場合ニ於テハ市町村会、市町村学校組合会又ハ町村学校組合会ノ議決ニ依ルコトヲ要セズ
 学務委員ニハ国民学校職員ヲ加フベシ
 委員中国民学校職員ヨリ出ヅル者ハ市町村長、市町村学校組合管理者又ハ町村学校組合管理者之ヲ任免ス
 第三十九条 学務委員ノ職務其ノ他ニ関スル規程ハ文部大臣之ヲ定ム
 第四十条 国民学校職員ノ執行スル国ノ国民学校ニ関スル教育事務ハ地方長官之ヲ監督ス
 第九章 雑則
 第四十一条 町村組合ニシテ其ノ町村ノ事務ノ全部又ハ役場事務ヲ共同処理スルモノハ之ヲ一町村、其ノ組合吏員ハ之ヲ町村吏員其ノ組合会ハ之ヲ町村会ト看做ス
 第四十二条 町村制ヲ施行セザル地域ニ於テハ本令中町村、町村組合、町村吏員、町村組合吏員、町村会及町村組合会ニ関スル規定ハ其ノ地域ニ於ケル此等ニ準ズベキモノニ之ヲ適用ス 以下略
 第四十三条 市町村ハ其ノ負担ヲ以テ国民学校ニ類スル各種学校ヲ設置スルコトヲ得
 市町村又ハ町村ハ其ノ協議ニ依リ市町村学校組合又ハ町村学校組合ヲ設ケ国民学校ニ類スル各種学校ヲ設置スルコトヲ得
 第四十四条 略
 第四十五条 国民学校ニ非ザル学校ハ国民学校ト称スルコトヲ得ズ
 但シ官立又ハ道府県立ノ学校ニ於テ国民学校ノ課程ニ相当スル課程ヲ履修セシムル部分ニ関シテハ此ノ限ニ在ラズ
 附則
 第四十六条 本令ハ昭和十六年四月一日ヨリ之ヲ施行ス但シ昭和六年四月一日以前ニ出生シタル児童ヲ就学セシムベキ期間ニ付テハ第八条ノ規定ニ拘ラズ仍従前ノ例ニ依ル
 第四十七条 市町村立小学校長及教員名称及待遇、市制町村制ヲ施行セザル地方ノ小学教育規程及明治二十七年勅令第十一号ハ之ヲ廃止ス
 第四十八条 本令施行ノ際現ニ存スル市町村立ノ尋常小学校、高等小学校及尋常高等小学校ハ夫々本令ニ依ル初等科ノミヲ置ク国民学校、高等科ノミヲ置ク国民学校並ニ初等科及高等科ヲ置ク国民学校トス
 第四十九条 本令施行ノ際現ニ存スル市町村立ノ高等小学校及尋常高等小学校高等科ノ第三学年ハ本令ニ依ル特修科トス
 第五十条 尋常小学校ヲ卒業シタル者、高等小学校第一学年ヲ修了シタル者及修業年限二箇年ノ高等小学校ヲ卒業シ又ハ修業年限三箇年ノ高等小学校第二学年ヲ修了シタル者ハ夫々之ヲ国民学校初等科ヲ修了シタル者、国民学校高等科第一学年ヲ修了シタル者及国民学校高等科ヲ修了シタル者ト看做ス
 第五十一条-第五十三条 略
 第五十四条 本令施行前ニ授与シタル小学校教員免許状ハ之ヲ第十八条第三項ノ規定ニ依リ授与シタル国民学校教員免許状ト看做ス
 第五十五条 本令施行ノ際現ニ奏任官ノ待遇ヲ受クル市町村立小学校長ヲ兼ネシメラレタル市町村立小学校訓導ノ職ニ在ル者別ニ辞令ヲ発セラレザルトキハ国民学校訓導ニ同待遇俸給ヲ以テ任ゼラレタルモノトス
 本令施行ノ際現ニ市町村立小学校訓導ノ職ニ在ル者(前項ノ規定ニ該当スル者ヲ除ク)別ニ辞令ヲ発セラレザルトキハ国民学校訓導ニ同俸給ヲ以テ任ゼラレタルモノトス

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四国、よいとこ 608 国民学校の音楽の時間 三時間目 「空に かがやく 日のもとの」。

 二〇〇六年六月二十二日。

 『うたのほん 下』です。

 まずは「君が代」。

 つぎは「きげん節(せつ)」です。

 一 雲に そびゆる 高ちほの
   高根おろしに、 草も、 木も、
   なびき ふしけん 大みよを
   あふぐ 今日こそ たのしけれ。 
 二 うな原 なせる はにやすの
   池の おもより なほ 広き
   めぐみの 波に あみし よを
   めふぐ 今日こそ たのしけれ。
 三 あまつひつぎの 高くらみ
   ちよ ちよろずに 動きなき
   もとゐ 定めし その かみを
   あふぐ 今日こそ たのしけれ。 
 四 空に かがやく 日のもとの
   よろずの 国に たぐひなき、
   国の みはじら たてし よを
   あふぐ 今日こそ たのしいけれ。

 「この国をつくった」天皇の祖先(朝鮮半島からきた人たちのようですが)を賛美しているようです。

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四国、よいとこ 609 国民学校の音楽の時間 四時間目 「行け 行け、 軍かん、…」。

 二〇〇六年六月二十二日。

 『うたのほん 下』の続きです。

 「軍かん」

 一 行け 行け、 軍かん、
    日本の
   国の まはりは、
    みんな 海。
   海の 大なみ
    こえて 行け。
 二 行け 行け、 軍かん、
    日本の
   国の 光を
    何千り、
   海の はてまで
    かがやかせ。

 小学校が国民学校になった年の十二月、昭和天皇は太平洋戦争を始めました。

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四国、よいとこ 610 国民学校の音楽の時間 五時間目 「おもちゃの 戦車、すすめよ、 すすめ。」。

 二〇〇六年六月二十二日。

 『うたのほん 下』の続きの続きです。

 「おもちゃの 戦車」

 一 おもちゃの 戦車、
   すすめよ、 すすめ。
   つみ木の ざんがう(塹壕)、
   ずんずん こえて、
   ごうごう がらがら、
   すすめよ、 すすめ。
 二 おもちゃの 戦車、
   走れよ、 走れ。、
   しきゐの クリーク、
   へいきで こえて、
   ごうごう がらがら
   走れよ、 走れ。

 かなりリアルな「おもちゃの 戦車」ですね。

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四国、よいとこ 611 高知市 食事を「豊かなものにしたいね」。

 二〇〇六年六月二十二日。

 いやーっ、人生も残り少なくなって、「あと何回、食事を楽しめるか。一回、一回を大事にしなくては」などと考えもしますが、実際はおざなりになっています。

 たとえば本日。

 朝  牛すじ、ニラを炊いたものに、ご飯を入れた雑炊。
 昼  日替わりの弁当。
 夜  牛肉とニラを炒めたものにトウモロコシをゆでた物二つ。

 明日は、何か「豊かなもの」にしたいですね。

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2006.06.23

四国、よいとこ 612 国民学校の音楽の時間 六時間目 「兵たいさんは 勇ましい」。

 二〇〇六年六月二十三日。

 『うたのほん 下』の続きの続きの続きです。

 「兵たいさん」

 一 てっぽう かついだ
   兵たいさん、
   足並 そろへて
   あるいてる。
   とっとこ とっとこ
   あるいてる。
   兵たいさんは
   勇ましい。
 二 お馬に 乗った
   兵たいさん、
   砂を けたてて
   かけて 来る。
   ぱっぱか ぱっぱか
   かけて 来る。
   兵たいさんは
   勇ましい。

 この「兵たい」さんの「正義」をいつのるのが、つぎの歌です。

 「日本」

 一 日本 よい 国、
     きよい 国、
   世界に 一つの
      神の 国、
 二 日本 よい 国、
      強い 国、
   世界に かがやく
     えらい 国、

 軍隊をたばねる大元帥である天皇が支配する国が「神(=天皇)の国」になっています。

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四国、よいとこ 613 国民学校の音楽の時間 七時間目 「その大御心に 答へまつらん」。

 二〇〇六年六月二十三日。

 三冊目、『初等科音楽 一』です。
 最初の六曲が「天皇万歳」の歌です。
 まず、「君が代」。
 次は、これです。

 「天長節」

 今日のよき日は、大君の
 うまれたまひし よき日なり、
 さし出たまひし よき日なり。
 ひかりあまねき 君が世を
 いはへ、もろ人 もろともに。
 めぐみあまねき 君が代を
 いはへ、もろ人 もろともに

 昭和天皇は、一九〇一年四月二十九日に誕生。
 このころは四月二十九日が「天長節」だったようです。
 学校で、特定個人の誕生日を祝う歌を教えるということは、どういうことでしょうか。
 しかも、「みひかりの さし出たまひし」とか最大級に賛美して……。

 そして、三つ目が、これ。

 「勅語奉答(ちょくごほうとう)」

 あやにかしこき すめらぎの、
 あやにたふとき すめらぎの、
 あやにたふとく、かしこくも、
 下(くだ)したまへり、大みこと、
 これぞめでたき 日の本の
 国の教の もとゐなる、
 これぞめでたき 日の本の
 人の教の かがみなる。
 あやにかしこき すめらぎの
 みことのままに いそしみて、
 あやにたふとき すらぎの
 大御心に 答へまつらん。

 天皇を最大限に持ち上げ、「その大御心に 答へまつらん」という内容です。

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2006.06.24

四国、よいとこ 614 「へらこい」という痛烈な言葉。

 二〇〇六年六月二十四日。

 愛媛新聞の五月二十四日付の「愛媛詩壇」の詩に「へらこい」という言葉がありました。

 この言葉について「こずるい あいまいな口調 讃岐(さぬき)でよく使われる」と書かれています。

 高知でもよく使う言葉です。
 『高知県方言辞典』によると「ずるい。狡猾(こうかつ)だ」。

 こうは、いわれたくないですね。

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四国、よいとこ 615 高知市 晴れたぞ。さぁ、洗濯に帰ろう。

 二〇〇六年六月二十四日。

 仕事が終わると一目散に家に帰ってきました。
 午後から晴れました。
 少しは陽があるうちに洗濯物を干したいと思ったからです。

 このところ雨がひどくて家の中で干してもあまり乾かないのです。
 毎日洗濯する僕としては、少ししめっぽいままのを着ていくというのは気持ちの悪いものです。

 さぁ、干し終わり。
 明日は気持ちよく出勤できます。

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四国、よいとこ 616 国民学校の音楽の時間 八時間目 「明治節(めいじせつ)」 「神のよさせるみわざをひろめ、…」。

 二〇〇六年六月二十四日。

 『初等科音楽 一』の続きです。

 「明治節(めいじせつ)」

 明治節は、明治天皇の誕生日で十一月三日でした。一九二七年に制定されたものです。

 一 アジヤの東日出つるところ、
   ひじりの君のあらはれまして、
   古きあめつちとざせるきりを、
   大御光にくまなくはらひ、
   教(おしえ)あまねく、道明らけく、
   治めたまえる御代たふと。
 二 めぐみの波はやしま(八州)にあまり、
   みいつ(御陵威)の風はうな原こえて、
   神のよさせるみわざをひろめ、
   民のさかゆく力をのばし、
   とつ国国のふみにも、しるく
   とどめたまえる御名かしこ。
 三 秋の空すみ、菊の香高き、
   今日のよき日を皆ことほぎて、
   定めましけるみのりをあがめ、
   さとしましけるみのり(詔勅)を守り、
   代代木の森の代代とこしえに
   仰ぎまつらん、大(おお)みかど。

 まさに、音楽教科書の世界では、明治天皇は万能の神様ですね。

 この曲は、つぎのサイトで演奏を聞くことができます。
 http://www.biwa.ne.jp/~kebuta/MIDI/MIDI-htm/MeijiSetsu.htm

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四国、よいとこ 617 国民学校の音楽の時間 九時間目 元日にも… 「君がみかげに たぐ(比)えつつ 仰(あお)ぎ見るこそ たふ(尊)とけれ…」。

 二〇〇六年六月二十四日。

 『初等科音楽 一』の続きです。

 元日にも子どもたちは天皇万歳と歌わされます。

 「一月一日(いちがついちじつ)」

    第一章

 年のはじめの
    ためしとて、
 終(おわり)なき世の
    めでたさを、
 松竹(まつたけ)たてて、
    かど(門)ごとに
 いはふ(祝う)今日(きょう)こそ
    たのしけれ。

    第二章

 初日のひかり
    さしいでて、
 よも(四方)にかがやく
    今朝(けさ)のそら、
 君がみかげに
    たぐ(比)えつつ
 仰(あお)ぎ見るこそ
    たふ(尊)とけれ。

 つぎのサイトで演奏を聞くことができます。
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/ichigatsu.html

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四国、よいとこ 618 国民学校の音楽の時間 十時間目 「紀元節(きげんせつ)」  「草も、木も なびきふしけん大御代を…」。

二〇〇六年六月二十四日。

 『初等科音楽 一』の続きです。

 「紀元節(きげんせつ)」

    第一章
 雲にそびゆる高千穂の
 高根おろしに、草も、木も、
 なびきふしけん大御代を
 仰ぐ今日こそ楽しけれ。
   第二章
 うな原(海原)なせるはにやす(埴安)の
 池のおも(面)よりなほひろき
 めぐみの波にあ(浴)みし世を
 仰ぐ今日こそ楽しけれ。
   第三章
 あまつひつぎ(天津日嗣)の高みくら、
 千代よろづよ(万代)に動きなき
 もとゐ定めしそのかみを
 仰ぐ今日こそ楽しけれ。
   第四章
 空にかがやく日のもとの、
 よろづ(万)の国にたぐひなき
 国のみはしらたてし世を
 仰ぐ今日こそ楽しけれ。

 「草も、木も なびきふしけん大御代を…」。すごいですねえ。

 一八七二年(明治五年)十一月十五日、明治政府は「神武天皇の即位」をもって「日本紀元元年」に定めました(太政官布告第三百四十二号)。
 『日本書紀』によれば、「神武天皇」の即位の日付は「辛酉年春正月庚辰朔」で、その記念日は正月朔日(一月一日)となります。
 ところが、明治政府は翌年から新暦(太陽暦)への改暦を予定していたため、その年の旧暦一月一日に当たる新暦一月二十九日を「神武天皇の即位」の祝日に定め、例年祭典をすることとしました(太政官布告第三百四十四号)。
 翌年、この日に祭典をした後、これを「紀元節(きげんせつ)」と名付けました(一八七三年三月七日の太政官達第九十一号)。
 旧正月を「紀元節」としたため、旧正月こそが正しい正月だという解釈が広くおこなわれるようになりました。この国民の反応を見て、これでは国民が新暦を使わなくなると思った政府は「神武天皇の即位の日」を新暦に換算して、「紀元節」を新暦の特定の日付に固定しようと考えました。二月十一日という日付を文部省天文局が算出。それを受けて二月十一日に決定しました。
 一八九一年(明治二十四年)六月十七日には、小学校祝日大祭儀式規程(文部省令第四号)が定められ、天皇、皇后の写真、「御真影」にたいする最敬礼と万歳奉祝、校長による「教育勅語」の奉読などの儀式を小学校でやらせることになりました。

 演奏を聞くことができるサイト。
http://www.biwa.ne.jp/~kebuta/MIDI/MIDI-htm/Kigensetsu.htm

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2006.06.25

四国、よいとこ 619 国民学校の音楽の時間 十一時間目 「ああ、天照大神(あまてらすおおみかみ)」。

二〇〇六年六月二十五日。

 『初等科音楽 一』の続きです。

 天皇がらみの「神話」物の歌もあります。

 「天(あま)の岩屋」

 一 さか木の枝にかけませう。
   鏡と玉をかけませう。
    ああ、神の代の岩戸前。
 二 長鳴きどりを鳴かせませう。
   かぐらのまひをまいませう。
    ああ、おもしろい、おもしろい。
 三 岩戸がさっとあきました。
   かがやきわたるおすがたは、
    ああ、天照大神(あまてらすおおみかみ)

 『古事記』に載っていた話ですね。

 「田道間守(たぢまもり)」も神話世界の歌でしょうか。

 一 かをりも高いたちばなを、
   積んだお船がいま帰る。
   君の仰せをかしこみて、
   万里の海をまっしぐら、
   いま帰る、田道間守、田道間守。
 二 おはさぬ君のみささぎに、
   泣いて帰らぬまごころよ。
   遠い国から積んで来た
   花たちばなの香とともに、
   名はかをる、田道間守、田道間守。

 この物語は、以下のことのようです(もう少し調べてみる必要がありますが…)。
 田道間守は、垂仁天皇の命で海外に、それを食べると不老不死になるという果物「たちばな」を入手しにいきます。
 しかし、それを入手して帰ってみたら命令した垂仁天皇は亡くなっていた。
 田道間守は、「陛下の生前に持ち帰ることができず、私の罪は正に死にあたいする。先帝のあとをしたってお供しましょう」といい、陵の前に穴を掘って入り、天を仰いで忠誠を誓いみずから殉じてしまいました。
 天皇にたいする忠誠の形を説いたものでした。

 『初等科音楽 一』の柱の一つは天皇、神話。
 もう一つの柱は、天皇が統帥する軍隊、そして戦争でした。

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四国、よいとこ 620 国民学校の音楽の時間 十二時間目 「その身は玉と くだけても ほまれは残る」。

 二〇〇六年六月二十五日。

 前回、『初等科音楽 一』の柱の一つは「天皇が統帥する軍隊、そして戦争でした」と書きました。

 まずは「軍旗」。

 一 軍旗、軍旗、
   天皇陛下の
   おてづから、
    お授けくださる尊い軍旗、
    わが陸軍のしるしの軍旗。
 二 軍旗、軍旗、
   天皇陛下の
   おことばを、
    心にきざんでみ国を守る、
    わが陸軍のいのちの軍旗。

 その天皇にもらった軍旗をかかげてた兵士たちが戦場でのぞまれたことは…。
 たとえば、「三勇士」のようにせよということでしょうか。

 一 大君(天皇のことです)のため、
   国(天皇の国のことです)のため、
   わらってたった
   三勇士、
 二 鉄条網も、
   トーチカも、
   なんのものかは
   破壊筒(はくわいとう●)
 三 その身は玉と
   くだけても、
   ほまれは残る。
   廟巷鎮(べうかうちん)

 廟巷鎮は、中国の上海付近です。
 人様の国を侵略し、「敵陣」を突破するために自爆する……。「その身は玉と くだけても ほまれは残る」というのです。

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四国、よいとこ 621 国民学校の音楽の時間 十三時間目 「波の底からねらひうち」。

 二〇〇六年六月二十五日。

 『初等科音楽 一』は、続きます。

 こんどは海軍の歌です。

 「潜水(せんすゐ)艦」

 一 魚雷かかへて、
   しぶきをあげて、
   もぐる海底(かいてい)わが天下。
 二 立てて見はった
   潜望鏡(せんぼうきやう)に、
   光る黒しほ、敵のふね。
 三 海の城だと
   いばってゐても、
   波の底からねらひうち。

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四国、よいとこ 622 国民学校の音楽の時間 十四時間目 軍犬の歌も登場して…。

 二〇〇六年六月二十五日。

 『初等科音楽 一』は、続きます。

 この教科書には軍犬の歌も登場しています。

 「軍犬利根(とね)」

 一 行けとの命令、まっしぐら、
   かはいい軍犬、まっしぐら。
    タカタカ タカタカ タカタカ、
    ダン ダン ダン、弾の中。
 二 あの犬、うてうて、うちまくれ。
   のがすな、のがすな、うちまくれ。
    タカタカ タカタカ タカタカ、
    ダン ダン ダン、敵の弾。
 三 よし来い、よし来い、利根来い来い。
   わたしだ、わたしだ、利根来い来い。
    タカタカ タカタカ タカタカ、
    ダン ダン ダン、弾の中。

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四国、よいとこ 623 国民学校の音楽の時間 十五時間目 父が出征した家の子は、働いて家をささえなさい。

 二〇〇六年六月二十五日。

 『初等科音楽 一』は、父が出征した家の子は、働いて家をささえなさいとも説きました。

 「子ども八百屋(やほや)」

 一 子どもの車だ、
   八百屋の車だ、
   子どもの買出し。
    押せ、押せ、車を。
    よいしょ、よいしょ。
 二 おとうさんは出征、
   おかあさんと四人で、
   八百屋だ、毎日。
    押せ、押せ、車を。
    よいしょ、よいしょ。
 三 くに子も、ひさ子も、
   あと押し頼むぞ、
   にいさん、しっかり。
    押せ、押せ、車を。
    よいしょ、よいしょ。

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四国、よいとこ 624 国民学校の音楽の時間 十六時間目 天皇への「忠義のこころは 鉄より堅」い楠木正成の登場。

 二〇〇六年六月二十五日。

 『初等科音楽 一』までに、ずいぶんと特定の方向の歌をうたわされましたね。
 なんかこわいみたいです。
 それでは、『初等科音楽 二』に入ります。

 例によって最初の六曲は、別格です。
 「君が代」
 「天長節」
 「勅語奉答」
 「明治節」
 「一月一日」
 「紀元節」

 『初等科音楽 一』でも習ったのに、また載っています。

 少し進むと「千早城」という歌が載っています。

 あの楠木正成(くすのき・まさしげ。一二九四年~一三三六年七月四日)のことを歌っているようです。
 楠木正成は、河内国石川郡赤坂村(現・大阪府南河内郡千早赤阪村)に生まれます。
 河内を中心に付近一帯の流通ルートを支配する「悪党」とよばれる在地の豪族だったようです。
 一三三一年、後醍醐天皇の挙兵を聞くと傘下に入り、下赤坂城で挙兵し、湯浅定仏とたたかいます。
 後醍醐が隠岐島に流罪となっている間にも、大和国(奈良県)の吉野などでたたかった護良親王とともに、河内国の赤坂城や金剛山中腹に築いた山城、千早城に篭城してゲリラ戦法を駆使して鎌倉幕府の大軍を相手に奮戦したといいます。
 一三三三年、正成らの活躍に触発されて各地に倒幕の機運が広がり、足利尊氏や新田義貞、赤松円心らが挙兵して鎌倉幕府は滅びました(元弘の乱)。
 後醍醐天皇の建武の新政が始まると、正成は記録所寄人、雑訴決断所奉行人、河内・和泉の守護となります。

 と、いうことで天皇に味方した人としての音楽教科書への登場のようです。

 一 そびえる金剛(こんがう)、
   とりでは千早、
   寄せ来る賊軍、
     一百よ万。

 二 忠義のこころは
   鉄より堅く、
   まもるは楠木
     一千よ人。
 三 戦ふたびごと
   賊軍やぶれ、
   みついにかがやく
     菊水の旗。

 時の天皇の敵は「賊軍」とされ、時の天皇に見方した楠木の「忠義」の心が持ち上げられています。

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四国、よいとこ 625 国民学校の音楽の時間 十七時間目 「南へ、南へ、国威はのび行く 山田長政 日本男子」なんて。

 二〇〇六年六月二十五日。

 『初等科音楽 一』の楠木正成の次は山田長政です。

 山田長政(やまだ・ながまさ。一五九〇年~一六三〇年)は、駿河国沼津出身。通称は、仁左衛門(にざえもん)。江戸時代にシャム(現在のタイ)の日本人町を中心に東南アジアで活動しました。
 一六一二年に朱印船でシャムに渡りました。
 後に、津田又左右衛門筆頭の日本人傭兵隊に加わり、アユタヤー郊外の日本人町の頭領になりました。
 アユタヤー王朝の国王・ソンタムの信任を得、チャオプラヤー川に入る船から税を取る権利を与えられました。
 ソンタム王の死後、長政は、シーウォーラウォン(後のプラーサートトーン)と共同でチェーターティラートを王にたてました。
 しかし、チェーターティラートは、シーウォーラウォンを排除しようとして失敗し、シーウォーラウォンに処刑されました。
 その後、チェーターティラートの弟のアーティッタヤウォンが王としてたてられましたが、幼すぎるので、官吏らはそのころチャオプラヤー・カラーホームスリヤウォンに昇進していたシーウォーラウォンに王位に付くように願いました。
 長政はこれに反対したために、宮廷内で反感を買いました。
 この時、当時、長政は六昆(ナコーンシータマラート)の防衛を理由にシーウォーラウォンによって左遷されました。
 長政は、一六三〇年、パタニ軍との戦闘中に脚を負傷し、傷口に毒入りの膏薬を塗られて死亡しました。

 彼は、当時の、天皇の海外侵略戦争とイメージをダブらせた形で音楽教科書に起用されたようです。

 一 黒潮寄せ来る大うな原も、
   わたれば近し、シャムの国、
   南へ、南へ、船行く、船行く。
    山田長政 日本男子。
 二 正義のいくさに力をそへて、
   いさをは高し、ナコン王、
   南へ、南へ、国威はのび行く
    山田長政 日本男子。

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四国、よいとこ 626 「生まれきて やるべきことは これだけか…」。

 二〇〇六年六月二十五日。

 生まれきて
 やるべきことは これだけか
 五十九歳は 迷いの最中

 いつまでも世話のやける人です。
 僕って人は

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2006.06.27

四国、よいとこ 627 歌集『いま風になって』 

 一〇〇六年六月二十七日。

 休みです。
 一生懸命に作業して、歌集『いま風になって』を以下の所にアップしました。
 
 http://fujihara.cocolog-nifty.com/kaze/

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四国、よいとこ 628 国民学校の音楽の時間 十八時間目 「なほも南へ 気がはやる」。

 二〇〇六年六月二十七日。

 『初等科音楽 一』です。

 前回の歌のタイトルは「山田長政」でした。

 それとセットのような歌が載っています。
 「船は帆船よ」です。

 一 船は帆船よ、
   三本マスト。
   千里の海も なんのその。
 二 万里の波に
   夕日が落ちて、
   なほも南へ 気がはやる。
 三 とまり重ねて、
   心にかかる
   安南シャムは まだはるか。
 四 椰子(やし)の林に
   照る月影を、
   昔の人は どう見たか。
 五 日本町に
   ふけ行く夜の
   ゆめは故郷を かけまはる。

 天皇が、南に南に侵略しているときでした。

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四国、よいとこ 629 国民学校の音楽の時間 十九時間目 「靖国(やすくに)神社」 「大君に 命ささげて…」。

 二〇〇六年六月二十七日。

 『初等科音楽 一』です。

 「靖国(やすくに)神社」という歌が出てきます。

 ところで、「高知新聞」六月二十六日付朝刊の「まことの憲法講座 6」(伊藤塾塾長、伊藤真さん)に、戦前の支配の仕組みがコンパクトに書かれてありました。
 「過去の日本では軍国主義教育が行われ、国民に対して洗脳が行われた。国の言いなりになる、喜んで死んでいく国民をつくりあげることに大成功した。…」
 「戦争は必ず戦死を伴う。戦死は嫌な、悲しい出来事。その悲しい出来事を、いや、悲しくないんだ、幸せなんだ、光栄なんだ、名誉なんだ、栄誉あることなんだと百八十度意味を変えてしまう仕組みが、戦争にはどうしても必要だった。
 仕組みの一つが教育。教育で洗脳していく。もう一つは宗教だ。靖国へいける、名誉あることだ、英雄になれるんだと教え込まれた。軍隊と教育が合体して戦争に突っ込んだ。」
 この文章を読んでから、「靖国神社」の歌詞を読むと、ゾーッとします。

 一 ああ、たふとしや、大君(注・天皇のこと)に
   命ささげて、国のため
   たてしいさをは、とこしへに
   光かがやく 靖国の神。
 二 ああ、かしこしや、桜木の
   花と散りても、忠と義の
   たけきみたまは、とこしへに
   国をまもりの 靖国の神。

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四国、よいとこ 630 国民学校の音楽の時間 二十時間目 「大君います 国なれば…」。

 二〇〇六年六月二十七日。

 『初等科音楽 一』です。
 こんどは「入営」の歌を教わることになります。

   大君(注・天皇のことです)います
   国なれば、
   ますらをわれは
   いでたちて、
   今日よりはかん、
   剣たち、
   ちかひもかたし、
   神のには。
 二 ますらをならば、
   勇ましく
   いでたつ君を
   送りつつ、
   門出をいはふ
   旗の波、
   万歳たかく
   どよめきて。
(なぜか、「一」の文字がありません)

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2006.06.28

四国、よいとこ 631 国民学校の音楽の時間 二十一時間目 二〇〇六年六月二十八日、高知県議会の知事、教育長答弁。

 二〇〇六年六月二十八日。

 本日午後の高知県議会本会議では、知事、教育長が現行の教育基本法を擁護する答弁をしました。

 すごいですね。
 いま僕が書いている国民学校の教育を否定して生まれた教育基本法。
 それを、いま、それを否定しようとしている勢力がありますが、それには組しないよということです。

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2006.06.29

四国、よいとこ 632 国民学校の音楽の時間 二十二時間目 俳優の宮崎あおいさんの言葉。

 二〇〇六年六月二十九日。

 「二十時間目」で「入営」の歌を紹介しました。
 「入営」というのは「兵役義務者、志願による兵籍編入者が、軍務に服するために兵営に入ること」です(『広辞苑』)。

 このころは男性は一定の年齢になると兵隊にならざるを得ないという制度がありました。徴兵制です。国家が男性の国民に兵役義務を課し、強制的に徴収して兵役に服させる強制兵役です。
 在郷軍人を召集する命令書が、召集令状です。

 ところで、高知新聞、二十九日付朝刊にNHK総合テレビの朝の連続ドラマ「純情きらり」(月~土曜日、午前八時十五分~)のヒロイン・桜子役の宮崎あおいさんへのインタビュー記事が載っていました。

 … 愛する人に召集令状が届くと想像するだけで恐ろしくなるという。「好きな人に召集令状が届いたら、本当は一緒にどこかに逃げたい。でも、残された家族のことを考えるとできない。笑顔を作って〝行ってらっしゃい〟なんてことも言えない。私の子供が戦地に行くことになったら、どんなことをしててでも行かせたくない。…」

 いい言葉ですね。
 国民学校時代は、そんなことを人前では非常にいいにくい時代でした。

 【参考】

 日本では、一八九〇年に施行された明治憲法でも兵役が「臣民の義務」とされ(二〇条)、国民は常備軍に強制的に編入されました。
 満二十歳以上の男性全員を対象に徴兵検査(兵役のための身体検査)を受けさせ、選抜して通常二~三年現役兵として服役させ、除隊後もしばらくは予備役などに編入し、戦時には召集令状で戦争に動員するしくみでした。
 徴兵検査を受けずに逃亡したりすれば、懲役刑に加え、優先的に徴兵されるという二重の制裁を受けました。
 このような日本でも、学生などは卒業まで兵役の徴集を延期されました。
 しかし、中国への侵略が太平洋戦争に拡大する一九四一年には、大学学部・予科、高等学校高等科、専門学校、実業専門学校などの修業年限を短縮し、卒業を繰り上げました。
 太平洋戦争の敗色が深まる四三年九月、天皇制政府は、これまで兵役を延期してきた在学中の学生も、徴兵すると決定しました。
 これは、徴集延期そのものを廃止し、在学中でも兵役年齢に達すれば徴兵できるようにしたのです。
 同年十月に東京の明治神宮外苑で東京近郊の出陣学徒の壮行会が開催され、十二月に第一回学徒兵が入営しました。
 同年十二月には、徴兵年齢を十九歳に引き下げる勅令も出されました。
 日本が植民地にしていた朝鮮や台湾でも四三年から徴兵制が適用され、四四年一月には、強制的に「志願」させられた四千人余の朝鮮学徒兵が入営しました。

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四国、よいとこ 633 国民学校の音楽の時間 二十三時間目 広瀬武夫たちを戦死せ、賛美の歌をつくらせ…。

 二〇〇六年六月二十九日。

 「入営」して外国の戦地にというケースがあります。
 
 『初等科音楽 二』にも戦闘の歌が出てきます。
 「広瀬中佐」です。

 主人公は、広瀬武夫(ひろせ たけお)です。一八六八年七月十九日~一九〇四年三月二十七日。
 明治の大日本帝国海軍軍人である。日露戦争でのエピソードで知られており、「軍神」として神格化されました。
 一八九四年の日清戦争に従軍し、九七年にロシアへ留学してロシア語などを学び、貴族社会と交友。その後、ロシア駐在武官となり、一九〇二年に帰国。〇四年から始まった日露戦争で旅順港閉塞作戦に従事。
 広瀬は、第二回の閉塞作戦においては閉塞船「福井丸」を指揮し、撤退時に行方不明となった部下の杉野孫七上等兵曹を探索して船内を三度探し、退却時にボート上で砲弾の直撃を受け戦死したとされました。

 一 とどろくつつ音、
   飛び来る弾丸(だんがん)。
   荒波洗ふ
   デッキの上に、
    やみ貫ぬく中佐の叫び。
   「杉野はいずこ、杉野はゐずや」
 二 船内くまなく
   たずぬる三たび、
   呼べど答へず、
   さがせど見へず、
    船はしだいに波間に沈み、
    敵弾いよいよあたりにしげし。
 三 今はとボートに
   移れる中佐、
   飛来る弾丸(たま)に
   たちまち失せて、
    旅順港外(りょじゅんこうがい)うらみぞ深き、
    軍神廣瀬とその名残れど。

 「旅順港外(りょじゅんこうがい)うらみぞ深き…」といいますが、侵略しているのは日本の天皇です。
 「敵」が抵抗するのは当然です。
 広瀬や杉野を殺したのは本当は誰なんでしょうか。

 「真犯人」たちは、広瀬を、戦死後、中佐に昇進させ、「軍神」とまつりあげました。
 そして、歌にまでして子どもたちの「教化」に利用しました。
 この歌は、一二年の『尋常小学唱歌 第四学年用』に初出しました。

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四国、よいとこ 634 国民学校の音楽の時間 二十四時間目 「少年戦車隊」の歌と約六百人の戦死者。

 二〇〇六年六月二十九日。

 『初等科音楽 二』です。

 君たち少年にも戦場にいく手立てがあるぞ。
 それを示したのが「少年戦車隊」の歌です。

 一九三九年、千葉にあった「陸軍戦車学校」に「生徒隊」が生まれ、一期生百五十名が入校しました。満十五歳から十八歳未満までの少年たちが訓練を受けました。「赤タン」の襟章を付けた陸軍生徒の身分でしたた。
 四〇年、公主嶺にも戦車学校が出来たので「千葉陸軍戦車学校生徒隊」となりました。
 四一年、「千戦校」内に「陸軍少年戦車兵学校」として独立、四二年にこの地に移転、二、三期生が移ってきました。
 少年戦車兵は、「若獅子」「豆タンク」のいわれました。
 敗戦までの在籍者は、四千四百二十五人。
 約六百人が戦死しました。

 一 来たぞ、少年戦車兵、
   鉄の車に、鉄かぶと。
   ごうごうごうごう、
     ごうごうごう。
 二 来たぞ、少年戦車兵、
   口はきりりりヽ 一文字。
   ごうごうごうごう、
     ごうごうごう。
 三 来たぞ、少年戦車兵、
   なんの敵陣ひとけりと、
   ごうごうごうごう、
     ごうごうごう。

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四国、よいとこ 635 国民学校の音楽の時間 二十五時間目 「東亜(とうあ)のまもりをになふのは、正しい日本の子どもたち」。

 二〇〇六年六月二十九日。

 『初等科音楽 二』です。

 少年たちには、兵隊になるために日常から訓練されました。
 この教科書に載っている「かぞえ歌」の「規範」を見ていましょう。

 一つとや、ひとりで早起き、身を清め、
  日の出を拝んで、庭はいて、水まいて。

 二つとや、ふだんにからだをよくきたへ、
  み国にやくだつ人となれ、民となれ。

 三つとや、身支度きちんと整へて、
  ことばは正しくはきはきと、ていねいに。

 四つとや、よしあしいはずにかんで、
  御飯をたべましよ、こころよく、行儀よく。

 五つとや、急いで行きましよ、左側、
  道草しないで学校に、お使ひに。

 六つとや、虫でも、草でも、気をつけて、
  自然の姿を調べませう、学びませう。

 七つとや、仲よくみんなでお弁当、
  ふく人、はく人、はたく人、みがく人。

 八つとや、休みの時間は、元気よく、
  まり投げ、なは飛び、鬼ごつこ、かくれんぼ。

 九つとや、心は明るく、身は軽く、
  進んで仕事の手伝ひに、朝夕に。

 十とや、東亜(とうあ)のまもりをになふのは、
  正しい日本の子どもたち、わたしたち。
  
 キーワードは、「み国(注・要するに天皇)にやくだつ人となれ」「東亜(とうあ)のまもりをになふのは、正しい日本の子どもたち」です。
 「東亜」というのはアジアの東部、中国、朝鮮、日本などの諸国のことです。
 つまり侵略と支配をになう「正しい」侵略者の子どもたちということです。

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四国、よいとこ 635 国民学校の音楽の時間 二十六時間目 「…をじさんが、今日は無言で帰られた…」。

 二〇〇六年六月二十九日。

 『初等科音楽 二』です。

 侵略戦争に押しやられ亡くなった男性たちを讃える歌も、この教科書に載っています。
 「無言(むごん)のがいせん」です。

 一 雲山(うんざん)萬里をかけめぐり、
   敵を破つたをじさんが、
   今日は無言で帰られた。

 二 無言の勇士のがいせんに、
   梅のかをりが身にしみる。
   みんなは無言でおじぎした。

 三 み国の使命(しめい)にぼくたちも、
   やがて働く日が来たら、
   をぢさんあなたが手本です。

 背筋が、ぞくっとする歌詞です。
 あなたは、どう思われますか。
 この「無言」の男性が、もし、あなたの息子や、兄弟や、父や、恋人だったら……。
 殺したのは、日本の軍隊の統帥権を持っていて、「いけ」と命じた人です。

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2006.06.30

四国、よいとこ 636 高知市 「疲れたー。うまいものが食べたい」。

 二〇〇六年六月三十日。

 月の終わりとなれば、誰しも追い詰められた気分になるものですよね。
 きょうの僕が、そうです。
 夕方、「疲れたー。うまいものが食べたい」。
 
 で、七時過ぎに自転車で高知市上町(かみまち)の事務所を出ました。
 終わりかけのスーパーマーケットで、ホタテ貝、ネギ、コマツナなどを買い込みました。
 家に帰って、ラードでホタテ貝をいため、ネギ、コマツナを入れて一丁あがり。
 食べると少し元気が出ました。

 さぁ、少し勉強しようか。
 今夜は市内の古書店で『高知県警察史 昭和編』を開墾できました。
 妻が値段を知ると「まあーっ」と、あきれがおをするような値段でした。

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四国、よいとこ 637 高知市 太平洋戦争の犠牲になった山内一豊の銅像。

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 二〇〇六年六月三十日。

 『高知県警察史 昭和編』。読んでいます。
 いくつか興味深いことを発見しました。

 その一。

 高知市に山内一豊の銅像が初めて登場したのは一九一三年十一月です。
 しかし、この一豊像は、太平洋戦争で軍に供出されてしまいました。
 「既に中国と四年半の戦争を続け、更に太平洋戦争に突入した我が国は、莫大な消耗戦のため物資の欠乏をきたしていた」
 一九四一年八月、金属回収令が公布。
 四二年、金属供出運動が展開されました。

 「高知市藤並神社境内にあった山内一豊公の銅像も一九年(記者注・一九四四年)一月供出された」

 写真は、いま高知城近くにある山内一豊の銅像。一九九六年九月二十日に再建。

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四国、よいとこ 638 高知市 「すべり山」の長さ二十三メートルの防空壕(ぼうくうごう)。

 二〇〇六年六月三十日。

 『高知県警察史 昭和編』で発見した興味深いこと。

 その二。

 高知市の高知公園の「すべり山」わきを通るたびに「たぶん、ここには防空壕(ぼうくうごう)があっただろうな」と思ってきました。
 なんだか僕にも「防空壕適地」のように見えるからです。

 やっぱり、ここにあったんですね。
 この本に写真も出ていました。
 一九三八年十一月一日竣工。長さ二十三メートルだったとのことです。

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