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2006.06.15

四国、よいとこ 580 高知市 雑喉場橋(ざこばはし)の「雑喉場」つて??

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 二〇〇六年六月十五日。

 高知市内の僕の家の近所の鏡川に雑喉場橋(ざこばはし)がかかっています。
 この橋は一九八一年三月、竣工です。

 ここいらに魚問屋の会所があったのでしょうか。


 【「雑喉場」について 参照】


   高知がえり  寺田寅彦

   (読みにくいので僕が勝手に行がえしました)

 明後日は自分の誕生日。久々で国にいるから祝の御萩(おはぎ)を食いに帰れとの事であった。
 今日は天気もよし、二、三日前のようにいやな風もない。船も丁度あると来たので帰る事と定める。
 朝飯の時勘定をこしらえるようにと竹さんに云い付ける。こんどはいつ御出(おい)でかと例の幡多訛(はたなま)りで問う。おれの事だからいつだかわからんと云ったような事を云うてザブ/\とすまし、机の上をザット片付けて革鞄(かばん)へ入れるものは入れ、これでよしとヴァイオリンを出して second position の処(ところ)を開けてヘ調の「アンダンテ」をやる。1st とちがって何処(どこ)かに艶があってよい。
 袷(あわせ)を綿入に着かえて重くるしいのに裾(すそ)が開きたがって仕方がない。
 縁側へ日が強くさして何だか逆上する。鼻の工合が変だが、昨日の写生で風でも引きやしなかったかしらん。
 東の間では御ばあさんの声で菊尾さんを呼んでいる。定勝を尋ねて来いといいつけている。着物の寸法も取らねばならんのに朝から何処へいったのかとブツブツ。
 間もなく菊尾は帰ったが、安田にも学校にも居ませんと云うので、御ばあさんまたブツブツ。
 そのうち定勝さんが帰った。着物の寸法を取らねばならぬに何処へ行っていたか。この忙しいのにどんなに世話を焼かすか知れぬと頭ごなし。帰って来たとて宅(うち)に片時居るでもなし。おまけに世話ばかり焼かして……。もうそう時々帰って来るには及ばぬ……とカンカン。誰れか余所(よそ)の伯母さんが来て寸を取っているらしい。 勘定を持って来た。十五円で御釣りが三円なにがし。その中の銀一枚はこれで蕎麦(そば)をおごろうと御竹さんの帯の間へ。
 残りは巾着(きんちゃく)へ、チャラ/\と云うも冬の音なり。
 今日は少し御早くと昼飯が来て、これでまたしばらくと云うような事を云い合うて手早くすます。
 しばらくすると二階で「汽船が見えました」と御竹の声。
 奥からは「汽船が見えました。今日御帰りで御ざいますそうな」と御八重(おやえ)が来る。
 これはちと話の順序がちがっているようだ。
 料理人篠村宇三郎、かご入りの青海苔(あおのり)を持って来て、「これは今年始めて取れましたので差上げます。御尊父様へよろしく」と改まったる御挨拶で。
 そのうち汽船の碇(いかり)を下ろす音が聞えて汽笛一声。
 「サアそろそろ出掛けようか。」「御荷物はこれだけで。」「イヤコレハ私が持って行こう。サヨーナラ。」「また御早うに……。」
 定勝さんも今日の船で帰校するとて、背嚢(はいのう)へ毛布を付けている。
 今日は船がよほどいつもよりは西へついている。
 何処の学校だか行軍に来たらしい。生徒が浜辺に大勢居る。
 女生の海老茶袴(えびちゃばかま)が目立って見える。
 船にのるのだか見送りだか二十前後の蝶々髷(ちょうちょうまげ)が大勢居る。
 端艇へ飛びのってしゃがんで唾(つば)をすると波の上で開く。浜を見るとまぶしい。
 甲板へ上がってボーイに上等はあいているかと問うとあいているとの事、荷物と帽を投げ込んで浜を見ると、今端艇にのり移ったマントの一行五、六人、さきの蝶々髷の連中とサヨーナラといっているのが聞える。蚕種(さんしゅ)検査の御役人が帰るのだなと合点がいった。
 宿の定さんも、二階で泊った女づれのハイカラも来る。
 頬の恐ろしく膨(ふく)れた、大きなどてらを着た人相のよくない男が艫(とも)の甲板の蓆(むしろ)へ座をしめてボーイの売りに来た菓子を食っている。
 その向いに坐った目の赤いじいさんと相撲(すもう)の話をしている。あるいは相撲取かも知れぬが髪は二月前に刈ったと云う風である。
 その隣には五、六人、若い娘も二人ほど交じっている。
 機関長室には顔の赤い人の好さそうなのが航海日誌と云いそうなものへ何か書いている。
 ここへ色の青い恐ろしく痩せた束髪の三十くらいの女をつれた例の生白いハイカラが来て機関長と挨拶をしていたが、女はとうとうこの室の寝台を占領した。何者だろう。黒紋付をちらと見たら蔦(つた)の紋であった。
 宿の二階から毎日見下ろして御なじみの蚕種検査の先生達は舳(へさき)の方の炊事場の横へ陣どって大将らしき鬚(ひげ)の白いのが法帖様(ほうじょうよう)のものを広げて一行と話している。
 やっと出帆したのが十二時半頃。
 甲板はどうも風が寒い。
 艫の処を見ると定さんが旗竿へもたれて浜の方を見ながら口笛を吹いているからそこへいって話しかける。第二中学の模様など聞いているうち船員が出帆旗を下ろしに来た。杣(そま)らしき男が艫へ大きな鋸(のこぎり)や何かを置いたので窮屈だ。
 山々の草枯れの色は実に美しいと東の山ばかり見ているうちはや神島(こうじま)まで来て、久礼(くれ)はと見たけれども何処とも見当がつかぬ。
 釣船が追々に沖から帆を上げて帰って来る。
 甲板を下駄で蹴りながら、昨日稽古した「エコー」と云うのを歌う。
 室へ入ろうとするといつの間にか商人体(てい)の男二人その連れらしき娘一人室へいっぱいになって『風俗画報』か何か見ているので、また甲板をあちこち。
 機関長室からハイカラ先生の鼠色のズボンが片足出て、鏡に女の顔が映って見える。
 煙突の脇へ子供を負った婆さんとおばさんとが欄干にもたれて立って、伝馬(てんま)の船底から山を見ている顔が淋しそうな。
 右舷(うげん)へ出ると西日が照りつけて、蝶々に結(ゆ)った料理屋者らしいのが一人欄へもたれて沖をぼんやり見ている。
 会食室の戸が開いているからちらと見たら、三十くらいの意気な女と酒をのんでいる男があったが、顔はよく見えなかった。
 また左舷へ帰って室へはいって革鞄から『桂花集』を引っぱり出して欄へもたれて高く音読すると、艫で誰れか浮かれ節をやり出したので皆が其方を見る。
 ボーイにマッチを貰って煙草を吸う。吸殻を落すと船腹に引付(ひっつ)いて落ちてすぐ見えなくなる。
 浦戸(うらど)の燈台が小さく見える。
 西を見ると神島が夕日を背にして真黒に浮上がって見える。
 横波の入日をこして北を見ると遠い山の頂に白いものが見える。
 ボーイが御茶を上げましょと云うて来たから室へはいると、前の商人はあわてて席を譲って「ドーゾコチラヘ」と言う。
 茶をのんで粗末なビスケットを二つ三つかじる。
 娘は毛布をかけてねたまま手を出してビスケットを取って食っている。
 スグまた室を出る。
 鴨(かも)が沢山ついていて、釣船もボツボツ見える。
 だいぶ浦戸に近よった。
 煙突の下で立ちながらめしを食っている男がある。
 例のボーイが cabin からいかがわしい写真を出して来て見せびらかしながら会食室へはいったと思うと、盛んに笑う声が洩れて来た。 浪がないから竜王の下の岩に躍(おど)る白浪の壮観も見えぬ。
 釣船はそろそろ帆を張って帰り支度をしている。
 沖の礁を廻る時から右舷へ出て種崎(たねざき)の浜を見る。夏とはちがって人影も見えぬ和楽園(わらくえん)の前に釣を垂れている中折帽の男がある。
 雑喉場(ざこば)の前に日本式の小さい帆前が一艘ついて、汀(みぎわ)には四、五人ほど貝でも拾っている様子。伝馬に乗って櫂(かい)を動かしている女の腕に西日がさして白く見える。どうやら夏のようにも思われる。
 貴船社(きぶねしゃ)の前を通った時は胸が痛かった。
 玉島のあたりははらかた釣りが夥(おびただ)しいが、女子供が大半を占めている。
 種崎の渡しの方には、茶船の旗が二つ見えて、池川の雨戸は空しく締められてこれも悲しい。
 孕(はらみ)の山には紅葉が見えて美しい。
 碇を下ろして皆端艇へ移る。
 例のハイカラは浜行の茶船へのる。
 自分は蚕種検査の先生方の借り切り船へ御厄介になった。
 須崎のある人から稲荷新地(いなりしんち)の醜業婦へ手紙を託されたとか云って、それを出して見せびらかしている。
 得月楼(とくげつろう)の前へ船をつけ自転車を引上げる若者がある。楼上と門前とに女が立ってうなずいている。犬引も通る。これらが煩悩の犬だろう。
 松(まつ)が端(はな)から車を雇う。下町(しもまち)は昨日の祭礼の名残で賑やかな追手筋(おうてすじ)を小さい花台をかいた子供連がねって行く。
 西洋の婦人が向うから来てこれとすれちがった。
 牧牛会社の前までくると日が入りかかって、川端の榎(えのき)の霜枯れの色が実に美しい。
 高阪橋(たかさかばし)を越す時東を見ると、女学生が大勢立っていると思ったが、それは海老茶色の葦を干してあるのであった。
(明治三十四年十一月)


 以下、高知市役所のホームページより。


 市場の起こり  

 高知市における食品市場の起源は、古く慶長年間 (西暦1596~1614年) の江戸藩政時代に遡る。当時土佐藩は城下に入る食料品、その他すべての売買取引を納屋堀 (現在の南はりまや町辺り)で許可し、問屋営業が行われていた。
 明治維新後、廃藩置県で雑喉場役場が廃止され、魚類市場は自由市場となり、各地に新たな市場が相次いで新設されたが、市場の乱立により、荷の争奪、市場職人の買収、不払いの不履行などの問題が発生した。
 このため、高知県は明治41(西暦1908)年に食品市場取締規制を改正して市場の統一に乗り出し、翌42年に (九反田地区に) 魚市場、大正4年に青果市場をそれぞれ統一した。
 大正12年中央卸売市場法が公布され、高知市も昭和4年12月に高知市中央卸売場の開設が認可された。
 翌昭和5年1月九反田市場の敷地に、京都市 (昭和2年開設) に次いで全国で2番目の中央卸売市場を開場した。開場当時は鮮魚部のみをもって発足したが、翌年の昭和6年に青果部、8年には塩干部が新設された。
 高知市は無論、高知県における食品流通の中核基地として、その機能を果たしてきたが、その後の急激な経
済の発展により、市場が手狭になったため、昭和42年に現在の弘化台地区に新市場を設置し全面移転した。
 移転後も市場の取扱量の伸びや輸送の大型化による市場の狭隘化および施設の老朽化が問題となったためこれらの対策として昭和54年に立体駐車場、昭和60年に固定桟橋駐車場、平成元年には関連店舗及び屋上駐車場の建設等の施設整備を実施してきたが、さらに市場機能の拡充や市場内業者の強化育成を図るため、平成8年に第6次整備計画を策定し、平成9年より増改築を含めた新たな施設整備を進めている。


  土佐史研究家 広谷喜十郎

 243 北村 久寿雄 高知市広報「あかるいまち」2004年7月号より

 ……オリンピックと言えば、昭和七年、アメリカ・ロサンゼルスでの第十回大会で、十五歳の北村久寿雄が世界の強豪を抑え、千五百メートルの水泳競技で優勝したことが語り継がれている。……
                                ●市営体育館入り口に陳列された故北村久寿雄氏の記録と足跡

 ……世界中の新聞が大々的にその活躍ぶりを報道し、日本国内では号外が出された。県内でももちろん大騒ぎとなり、数多くの高知市民が菜園場にあった北村家までちょうちん行列をして祝賀ムードが盛り上がった。
 北村少年が帰高したときには、高知港の桟橋から市街地までパレードがあり、沿道は大勢の人で埋まったという。この優勝を記念して、昭和十一年には高知県で初めての五十メートルの公認プールが建設された。
 北村久寿雄が、『高知商業高校八十周年記念誌』に寄せた文に「戦前の高知市で少年時代を過ごした人ならだれでも経験したことです。夏は一日中、鏡川で水遊びをしているうちに、小学校に上がるころには、もう一人前の河童に仕上がっているのです(略)当時ザコ場附近には各学校水泳部が集まって練習していました」とある。
 昭和六年の全国大会に出場し、「既に世界的選手だった見付中学の牧野正蔵さんと競い、散々の敗けを喫した」ので、帰高した翌日から特訓が始まる。鏡川の潮江橋と雑喉場橋間の約五百メートルを何回泳げるかという「橋々何回」という泳ぎを行った。
 この川の、増水した急流に逆らって泳ぐ訓練が実り、オリンピック候補選手となる。それから「冬から春にかけての練習が大変(略)桂浜へ泳ぎに行ったり、鏡川でシビれる寒さを我慢しての練習です」と回顧している。
 水泳部監督の溝渕治助氏は、魚市場の職員で、毎日の練習時間に決して遅れなかったし、練習に厳しい人であった。彼は大正末年から、松山市での水泳大会に数回出場している。バスのない時代で、自転車で夜を徹して会場に行き、片隅で仮眠を取り、競技に参加したというエピソードを持つ人物である。

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