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2006年7月

2006.07.01

四国、よいとこ 639 国民学校の音楽の時間 二十七時間目 国民学校のしくみと教科。

 二〇〇六年七月一日。

 ここで、もう一度、国民学校についてまとめてみました。

 国民学校(こくみんがっこう)は、一九四一年の国民学校令(勅令第一四八号)にもとづいてつくられました。
 六年の初等科と二年の高等科がありました。
 初等科は、それまでの尋常小学校などを母体とし、高等科は、それまでの高等小学校などを母体としていました。
 国民学校令の施行とともに、それまでの尋常小学校、高等小学校、尋常高等小学校は、すべて国民学校とされました。
 国民学校は、子どもが鍛錬をする場と位置づけられ、国にたいする奉仕の心を持った「少国民」の育成がめざされていました。
 教科は、初等科および高等科を通じて国民科、理数科、体錬科および芸能科とされ、高等科では、実業科が加えられていました。
 各教科は、次のようにいくつかの科目に分けられていました。

   教科 科目

 初等科 高等科
 共通 国民科 修身、国語、国史および地理の科目
 理数科 算数および理科の科目
 体錬科 体操および武道の科目
 (女児については、武道を欠くことができました)
 芸能科 音楽、習字、図画および工作の科目
 (初等科の女児については、裁縫の科目が、高等科の女児については、家事および裁縫の科目が加えられました)
 高等科のみ 実業科 農業、工業、商業または水産の科目
  外国語その他必要な科目(必要に応じて学校ごとに設けます)

 国民学校令では、それまで六年間だった義務教育を八年間に延長する規定が設けられましたが、施行が延期され、国民学校令による義務教育期間の延長はおこなわれませんでした。
 国民学校は、学校教育法(四八年法律第二六号)にもとづく新制の小学校にとって変わられるまで存在しました。

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四国、よいとこ 640 国民学校の音楽の時間 二十八時間目 「昭憲(せうけん)皇太后御歌」。

 二〇〇六年七月一日。

 さあ、『初等科音楽 三』の教科書にすすみましょう。
 ここでも、まず習うのは、繰り返しの「天皇もの」です。
 「君が代」
 「勅語奉答」
 「天長節」
 「明治節」
 「一月一日」
 「紀元節」

 そして、「昭憲(せうけん)皇太后御歌」が出てきます。
 昭憲(せうけん)皇太后って??
 調べてみたら明治天皇の連れ合いのことでした。
 一八五〇年~一九一四年。

   金剛石(こんがうせき)

 金剛石もみがかずば
 珠(たま)のひかりはそはざらむ
 人もまなびてのちにこそ
 まことの徳はあらはるれ
 時計の針のたえまなく
 めぐるがごとくときのまの
 日かげをしみて励(はげ)みなば
 いかなるわざかならざらむ

   水は器

 水はうつはにしたがひて
 そのさまざまになりぬなり
 人はまじはる友により
 よきにあしきにうつるなり
 おのれにまさるよき友を
 えらびもとめてもろともに
 こころの駒(こま)にむちうちて
 まなびの道にすすめかし

 金剛石というのはダイアモンドのことです。
 「うつわ」論っていうのでしょうか。   
 僕は「上からお説教されている感じ」だと思います。

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四国、よいとこ 641 高知市 会社の壁の憲法守れの大看板。

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 二〇〇六年七月一日。

 高知市大川筋二丁目の会社のビルの壁に、こんな大きた看板がかかっています。
 パチパチ。

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四国、よいとこ 642 高知市 「一つずつ 平和の思い 込められた…」。

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 二〇〇六年七月一日。

 一つずつ 平和の思い 込められた
 折り鶴たちが
 アーケードに舞う

 高知市の繁華街で、今夜、「第二十四回平和七夕まつり」の、つり上げ作業をしていました。
 今年は、六十五連、約七十羽だそうです。

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四国、よいとこ 643 高知市 カツオの刺身。筋肉の煮込み。スイカのシャーベット。

 二〇〇六年七月一日。

 僕がおいしいと思うもの。
 今夜はカツオの刺身と筋肉の煮込みを食べました。
 これらも好物です。
 
 しかし、何ですね。
 これまでの人生で食にこだわってこなかったせいもあり、何か狭いですねー。

 家に帰って、昨夜、冷凍庫に入れてあったスイカの切ったものを取り出して食べています。
 これも、そこそこです。

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四国、よいとこ 644 高知市 「チャングム」って僕には迷惑。

 二〇〇六年七月一日。

 「『チャングム』が 始まったから」と
 電話切る
 いつもいつもの 土曜日の妻

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2006.07.02

四国、よいとこ 645 ラジオドラマ「ふらふら」をインターネットで聞いています。

 二〇〇六年七月二日。

 仕事で、朝から夕方まで自転車で高知市内を走り回りました。
 それで、バタンキュー。

 「大日本除虫菊株式会社」のホームページで、この間から気になっていたラジオドラマ「ふらふら」を聞きました。
 いろんな新聞の同社の広告に連載されているものです。
 ラジオドラマでやったものだそうです。

 一回一回に同社の製品の宣伝が露骨に入っていて興をそがれますが、けっこうゆったりと楽しめます。
 本日まで聞けたのは十話までです。
 もう少し先があるようです。

 でも、この立体的な広告、すごいですね。

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四国、よいとこ 646 国民学校の音楽の時間 二十九時間目 「大いなる日本」。

 二〇〇六年七月二日。

 『初等科音楽 三』です。
  
 「朝礼の歌」です。

 一 朝なり 大気澄みわたり、
   ものみな清くさやかなり。
   新たなる日本 日々に生まる。
   ああ われらはげまん 今ぞ。

 二 朝なり、心さわやかに
   旭日(きょくじつ)天にかがやけり
   大いなる日本 日々にさかゆ。
   ああ われらきたへん 今ぞ。

 ポイントは「大いなる日本」という所でしょう。

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四国、よいとこ 647 国民学校の音楽の時間 三十時間目 「御稜威(みいつ)あまねく、大東亜(だいとうあ)」。

 二〇〇六年七月二日。

 『初等科音楽 三』です。

 次に「大八州(おおやしま)」。

 一 神生みませるこの国は、
   山川きよき大八州。
   海原(うなばら)遠く行くかぎり、
   御稜威(みいつ)あまねく、大東亜(だいとうあ)。

 「大八州」は、日本の古称です。多くの島からなる意です。
 島ができたのは「神生みませる」ではなくて自然現象ですね。   「御稜威」は、天皇、神などの威光です。
 「大東亜」は、東アジア、東南アジアとその周辺地域を指します。
 よく読むと、すごい膨張主義賛美の内容ですね。

 二 神しろしめすこの国は、
   豊葦原(とよあしはら)の中つ国。
   瑞穂(みずほ)のそよぎ、ゆたかなる
   恵み仰がん、大東亜。 
 
 「豊葦原の中つ国」は、日本国の美称です。

 三 神まもりますこの国は、
   きはみもあらず 浦安(うらやす)の
   大船しげきゆきかひも、
   とはに安けき大東亜。

 「浦安国」は、大和国、日本国の美称。

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四国、よいとこ 648 高知市 和三盆を使った「きなこ雪餅」をいただきました。

 二〇〇六年七月二日。

 夜、弟がやってきました。
 キュウリ、ナスを持って。

 しばらくして、福岡県北九州市の息子の連れ合いのお父さんから、新潟県長岡市の「せんべい、おかき」が届きました。

 和三盆を使った「きなこ雪餅」も入っていました。
 弟が、 「和三盆か。すごい。うまい」。


 「和三盆」とは。

  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)から。

 和三盆(わさんぼん)とは、主に香川県や徳島県などの四国東部で伝統的に生産されている砂糖の一種である。
 日本では江戸時代に砂糖の存在が既に知られていたが、サトウキビの栽培地は南西諸島に限られており、作られる砂糖も黒砂糖が一般的であった。
 やがて徳川吉宗が享保の改革において全国にサトウキビの栽培を奨励すると、 高松藩が特産物創生と財源確保を目的としてこれに呼応した。……
 その後徳島藩でもサトウキビが育てられるようになり、 その品種改良に力を注ぎ、領内各地で栽培できるまでなった。 しかし精糖の方法については不明だったため、 他国における秘伝扱いの情報を収集し、 高松藩とほぼ同時期の1800年代前半に精糖方法を確立させた。
 そして和三盆は貴重な特産品として諸国へ売りに出されたが、これは全国の和菓子や郷土菓子の発展に大いなる貢献を果たした。

 製法

 和三盆の原料となるサトウキビは、地元産の「竹糖」という品種が用いられ、絞って汁を出した後、ある程度精製ろ過して結晶化させる。この結晶化させた原料糖は白下糖といい、成分的には黒砂糖とほぼ同じ「含蜜糖」である。
 そして白下糖を盆の上で適量の水を加えて練り上げて、砂糖の粒子を細かくする「研ぎ」という作業を行った後、研いだ砂糖を麻の布に詰め「押し舟」という箱の中に入れて重石をかけ圧搾し、黒い糖蜜を抜いていく。この作業を数度繰り返し、最後に一週間ほどかけて乾燥させ完成となる。
 盆の上で砂糖を三度ほど「研ぐ」ことが「和三盆」の名の由来になっているが、最近では製品の白さを求めて5回以上「研ぎ」と「押し舟」を行うことが多い。
 こうして出来あがった和三盆は、粉砂糖に近いきめ細やかさを持ち、微量の糖蜜が残っていることから色がかかった白さとなる。口に含むと素早く溶け風味のよい甘さが広がるため、和三盆そのものを固めただけの菓子も存在するほどである。代表的なものとしては落雁と似た製法による打ちもの、半球状に押し固めた二つ一組を和紙に包んでひねり羽根つきの羽根に似せたもの、懐紙に包んで懐に入れて持ち歩けるものがある。

 和三盆と加工糖

 和三盆は精糖の作業が複雑な上、寒冷時にしか作ることが出来ず、 白下糖から和三盆を作ると全量の4割程度に目減りし、 途中で原料の追加もできないため、砂糖としては最も高価である。
 このため現在は和三盆の代わりとして、 白下糖に成分の似た粗糖などを使って類似の砂糖を工業的に製造した、 和菓子用の加工糖も販売されている。

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四国、よいとこ 649 高知市 キュウリを丸ごとガシガシ食べています。

 二〇〇六年七月二日。

 弟の持ってきたキュウリを丸ごとガシガシ食べています。
 四十センチくらいのトゲがいっぱいのものです。
 
 調味料は何にもなくても、う・ま・い。

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2006.07.03

四国、よいとこ 650 「思い込み」 「焼売」は「やきうり」??

 二〇〇六年七月三日。

 思い込みということが話題になりました。
 ある人は「焼売」を「やきうり」と読むと長年思い込んでいたといいます。
 本当は「しゅうまい」と読むそうです。

 けっこう、そういうことってありますよね。

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四国、よいとこ 651 高知市 映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の哀しさ。

 二〇〇六年七月三日。

 昨日の晩、きょうの晩と弟とDVDで映画『ALWAYS 三丁目の夕日』を見ています。
 
 「スカ」。
 たばこの「しんせい」。
 「コーラ」。
 白黒テレビがやってきた。
 力道山。空手チョップ。
 テレビ、洗濯機、冷蔵庫。
 フラフープ。

 貧しくても、せいいっぱい生きていく。そんな庶民の生き方に優しい目を向けているね。すごいね。

 吉岡秀隆さん、健闘。
 小雪さん、魅力的です。でも、どこへいっちゃったんですか。

 「夕日町三丁目」。
 僕も、父、母、弟、母の姉、母の姉の義母と、ここに住んでいたような気がします。

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四国、よいとこ 652 国民学校の音楽の時間 三十一時間目 「大東亜(だいとうあ)」は、どう歌われていたでしょうか。

 二〇〇六年七月三日。

 どうも、国民学校の音楽教科書では「大東亜(だいとうあ)」というのがキーワードの一つのようです。
 前回は、この言葉の出てくる「大八州(おおやしま)」の歌を見ましたが、今回から『初等科音楽 三』の教科書で、この言葉の出てくる歌を探してみることにしました。

 まず、「赤道越えて」。

 一 もえる光と青い波、
   波にをどるはふかの群。
   海路はるかに白銀(しろがね)なして。
   雲はむら立つ椰子(やし)の島。

 二 来たぞ、スコール瀧(たき)しぶき。
   あとは葉末●に風鳴って、
   海はびろうど、なぎさはさらさ。
   日ざしまばゆい島の昼●。

 三 いかりおろせば、寄りつどふ。
   笑顔明るい人の群。
   街(まち)にはためく日の丸見れば、
   ここの港も大東亜。

 「赤道越え」た所にも「大東亜」をつくっているのです。

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四国、よいとこ 653 国民学校の音楽の時間 三十二時間目 「大東亜」の歌もありました。「十億」の「盟主」たらんと…。

 二〇〇六年七月三日。

 『初等科音楽 三』には、ズバリ「大東亜」という題の歌もありました。

 一 椰子(やし)の葉に鳴る海の風。
   峯にきらめく山の雪。
   南十字と北斗星、
   連ねて広き大東亜。

 二 ここに生まれし十億(おく)の
   人の心はみな一つ。
   盟主(めいしゅ)日本の旗のもと、
   ちかひて守る鉄の陣。

 三 空は晴れたり あかつきの
   光あふるる四方(よも)の海
   みなはらからとむつみあひ
   こぞりて築け、大東亜。

 昭和天皇は「大東亜」の「十億」の「盟主」たらんとしていたのです。

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四国、よいとこ 654 高知市 槇村浩の示唆 「その結果はどうなるか、興味は尽きない」。

 二〇〇六年七月三日。

 夜、昨日手に入れた『ふるさとの想い出 写真集 明治 大正 昭和 高知』(寺田正編。図書刊行会)をじつくり読みました。
 この本の最後は「槇村浩の墓」でした。

 彼、明治四十五年六月一日、高知市廿代町の生まれなんですね。
 妻の母も、何年かあとに廿代町に生まれています。
 大正八年に高知市第二小学校に入学したんですね。
 何年かあとに、妻の母も、ここに入学しています。
 槇村は、第六小学校に転校したようです。
 のちに詩で侵略戦争反対を訴えました。
 捕われて、虐待されて…。
 昭和十三年、二十六歳で亡くなっています。

 この本は「槇村浩の短い生涯と彼の残した作品は、社会運動に対して、多くの示唆を投げかけている。その結果はどうなるか、興味は尽きない」と結んでいます。

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2006.07.04

四国、よいとこ 655 「短歌(うた)詠めば 新たなる風 わきおこる。…」

 二〇〇六年七月三日。

 言の葉の
 一つひとつを つむぐ日々
 短歌(うた)詠む時に 心は開く

 短歌(うた)詠めば
 新たなる風 わきおこる
 日々の暮らしに 世界の明日に

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四国、よいとこ 656 高知市 「喜びをうたってみたい夜のこと…」

 二〇〇六年七月四日。


 喜びを うたってみたい 夜のこと
 カシャ、カシャ、カシャも
 軽やかである

 パソコンの 画面に刻む 文字群が
 五、七、五…の
 リズム生む時

 離れ住む 妻への不満も 短歌(うた)にして
 一つ、二つと
 たくわえている

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2006.07.05

四国、よいとこ 657 高知市 短歌集『侵略の高知、平和の高知』。

 二〇〇六年七月四日。

 息切らし
 朝倉城址 上りきて
 侵略鼓舞の 石柱に合う

 一豊の 銅像なども 奪い取り
 武器にしたとか
 あの戦争は

 「をじさんが、今日は無言で 帰られた…」
 あのころ歌う
 少年、白髪

 ああ、ここに
 防空壕(ぼうくうごう)が あったんだ
 「すべり山」わき 通る真夏日

 炎から
 「御真影(ごしんえい)」をば 守り抜く
 校長のこと 読んでる夏

 「空襲で 母と妹 失った」
 語る男の
 涙を見たか

 アメリカに 家を焼かれた 十七歳
 そこから始まる
 義母の戦後史

 新しい 花を供えられ 生きている
 槇村浩(まきむら・こう)の
 反戦の遺志

 胴体に
 九条守れを 大書した
 路面電車が ゆきかうこの街

 県知事が
 教育基本法 「異論ない」 答弁してる
 高知っていい

 平和への 思い託した
 折り鶴が 七十万舞う
 アーケードにいる

 「今」と「過去」
 いきつもどりつ 考える
 輝かしくあれ 孫らの未来

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2006.07.07

四国、よいとこ 658 高知市 浦戸湾に展開していた魚雷艇隊の歌。

 二〇〇六年七月六日。

 七月四日夜、高知市で人生の先輩から、高知市の浦戸湾に展開していた魚雷艇隊の歌を教わりました。

 船はちびでも 筋金入りだ
 飛ぶよ 走るよ 波の上
 飛ぼと 走ろうと
 あばりょとままよ
 男みょうがだ この命
 何で惜しかろ 国のため

 海の守りの魚雷艇
 われらの誇りの魚雷艇

 きょうは戦艦 あすまた空母
 見つけしだいに 飛びつくぞ
 敵が自慢の 輪形陣も
 われらの前には 何のその
 破ってみせるぞ 轟沈だ

 海の守りの魚雷艇
 われらの誇りの魚雷艇

 輪形陣というのは、航空母艦が真ん中にいて、戦艦がいて、巡洋艦、駆逐艦と輪になって守っている陣形のことだといいます。
 一字一句、そのままとはいかないでしょうが、その歌の雰囲気は伝えていると思います。
 なんだか、やけくその歌です。
 特別攻撃隊員だったのでしょうか。

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四国、よいとこ 659 高知市 切羽詰った思いを託した千人針の歌。

 二〇〇六年七月六日。

 前号の男性が千人針の歌も教えてくれました。

 千人針は 弾よけよ
 一針ごとの 真心に
 敵の矢玉が雨あられ
 飛んできたとて あたりゃせぬ

 軍国歌作詞者、サトウ・ハチローさん作詞の「千人針」という歌があります。
 一九三八年一月のものです。
 彼のはきれいごとの歌ですが、これはちょくさいに「弾にあたらないように」というちょくさいな思いをこめたものです。
 原典を見てみたいものです。

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四国、よいとこ 660 国民学校の音楽の時間 三十三時間目  国民学校は、皇国民養成のための学校でした。

 二〇〇六年七月七日。

 休み。
 せっかくの休みなのに風邪気味。
 薬を飲んで寝ました。

 すこし元気になったので『日本が「神の国だった時代」 国民学校の教科書をよむ』(入江曜子さん。岩波新書)を読みました。
 国民学校の目的について、こうのべています。
 「…低学年において天皇と天皇制への賛美、忠義、愛国心などを感覚的に、つまり説明なしで刷り込むことであり、高学年においては強力な日本人としての自覚、とくに大東亜共栄圏の盟主日本の国民としての自覚をもつ『皇国民』を養成することにあった。」
 各教科の教科書が同じテーマ、材題をとりあげて、立体的に子どもたちの頭脳に刷り込んでいったということも紹介されています。

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四国、よいとこ 661 国民学校の音楽の時間 三十四時間目 「大君(おおきみ)の しこのみたてと出でたちて…」。

 二〇〇六年七月七日。

 『初等科音楽 三』には「戦友」という歌が載ってます。
 これにも「大東亜」が出てきます。

 一 草むすかばね大君(おおきみ)の
   しこのみたてと出でたちて、
   鉄火のあらし、弾の雨、
   くぐりて進むきみとわれ。

 「しこのみたて」といらは、「醜の御楯」。「天皇の楯となって外敵を防ぐ防人(さきもり)が自分を卑下していう語」(『広辞苑』)。この場合は「外敵を防ぐ」のではなく、昭和天皇の楯になって侵略していっています。

 二 死なば同じ日、同じ時、
   おくれさきだつことあらば、
   骨ひつさげて突撃と、
   ちかひかはししきみとわれ。

 三 御稜威(みいつ)あまねき大東亜、
   朝日の御旗行くところ、
   あたなす敵のあるかぎり、
   撃ちてしやまん、きみとわれ。

 「朝日の御旗」というのは陸軍の連隊の旭日旗のことだと思います。

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四国、よいとこ 662 国民学校の音楽の時間 三十五時間目 「死すべき時は今なるぞ」。

 二〇〇六年七月七日。

 『初等科音楽 三』のつづきです。

 「橘(たちばな)中佐」です。

 橘中佐は、橘周太(一八六五年十一月三日~一九〇四年八月三十一日)。庄屋城代季憐(格橘季憐とも)の二男として長崎に生まれました。勝山小学校、長崎中学舎、二松学舎を経て一八八一年、陸軍士官学校幼年生徒に合格。東宮武官、歩兵第三六連隊中隊長、名古屋陸軍地方幼年学校長を歴任し、一九〇四年の日露戦争開戦にあたっては新設の第二軍管理部長に任命されました。同年八月には歩兵第三四連隊第一大隊長に転出し首山堡の攻撃にあたり、その戦闘で死亡。

 一 かばねは積りて山を築(つ)き、
   血潮は流れて川をなす、
   修羅(しゅら)のちまた(巷)か 向陽寺(しゃおんずい)。
    雲間をもるる月青し。

 二 「みかたは大方うたれたり、
   しばらくここを。」といさむれど、
   「恥を思へや、つはものよ。
    死すべき時は今なるぞ。

 三 御国の為なり 陸軍の
   名誉(めいよ)のためぞ。」とさとしたる
   ことば半(なか)ばに散りはてし
    花橘ぞ、かぐはしき。

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四国、よいとこ 663 国民学校の音楽の時間 三十六時間目 乗組員の生還を考えない特別攻撃。

二〇〇六年七月七日。

 『初等科音楽 三』には「特別攻撃隊」の歌が載っています。

 昭和天皇の海軍は、一九四一年十二月八日、アメリカ合衆国ハワイの真珠湾のアメリカ海軍のアメリカ太平洋艦隊と航空基地に奇襲攻撃をしました。
 この時、特殊潜航艇(甲標的。二人乗り)五隻も参加しました。戦死九人。一人は捕虜になりました。
 この甲標的は、乗組員の生還を考えない特別攻撃の武器でした。

 一 一挙(いっきょ)にくだけ、主戦力。
   待ちしはこの日、この時と、
   怒涛(どとう)の底を矢のごとく、
   死地に乗り入る、艇(てい)五隻。

 二 朝風切りて友軍機。
   おそふと見るや、もろともに
   巨艦(きょかん)の列へ射て放つ
   魚雷高し、波がしら。

 三 爆音天をどよもせば、
   潮も湧(わ)けり、真珠湾(しんじゅわん)。
   火柱あげて、つぎつぎに
   敵の大艦しづみゆく。

 四 昼間はひそみ、月の出に
   ふたたびほふる敵巨艦。
   襲撃まさに成功と、
   心しつかに打つ無電。

 五 ああ、大東亜聖戦に、
   みづくかばねと誓ひつつ、
   ときがけ散りし若桜。
   仰げ、特別攻撃隊。

 いまでいえば小学校五年生の子どもたちに、授業で、この歌をうたわせているのです…。

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2006.07.08

四国、よいとこ 663 国民学校の音楽の時間 三十六時間目 乗組員の生還を考えない特別攻撃。

 二〇〇六年七月七日。

 『初等科音楽 三』には「特別攻撃隊」の歌が載っています。

 昭和天皇の海軍は、一九四一年十二月八日、アメリカ合衆国ハワイの真珠湾のアメリカ海軍のアメリカ太平洋艦隊と航空基地に奇襲攻撃をしました。
 この時、特殊潜航艇(甲標的。二人乗り)五隻も参加しました。戦死九人。一人は捕虜になりました。
 この甲標的は、乗組員の生還を考えない特別攻撃の武器でした。

 一 一挙(いっきょ)にくだけ、主戦力。
   待ちしはこの日、この時と、
   怒涛(どとう)の底を矢のごとく、
   死地に乗り入る、艇(てい)五隻。

 二 朝風切りて友軍機。
   おそふと見るや、もろともに
   巨艦(きょかん)の列へ射て放つ
   魚雷高し、波がしら。

 三 爆音天をどよもせば、
   潮も湧(わ)けり、真珠湾(しんじゅわん)。
   火柱あげて、つぎつぎに
   敵の大艦しづみゆく。

 四 昼間はひそみ、月の出に
   ふたたびほふる敵巨艦。
   襲撃まさに成功と、
   心しつかに打つ無電。

 五 ああ、大東亜聖戦に、
   みづくかばねと誓ひつつ、
   ときがけ散りし若桜。
   仰げ、特別攻撃隊。

 いまでいえば小学校五年生の子どもたちに、授業で、この歌をうたわせているのです…。

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四国、よいとこ 664 国民学校の音楽の時間 三十七時間目 「勇士らのあとをつくわれらなり…」。

 二〇〇六年七月七日。

 ある人が、こう教えてくれました。
 「戦前の教育は、『死ね、死ね』という教育だった」
 国民学校の音楽の教科書を読んでいると、本当にそうだなぁと思います。

 『初等科音楽 三』のつづきです。

 天皇への「忠義」のために命を捨てた者の霊魂をまつる忠霊塔が各地にできていました。
 この教科書にも「忠霊塔(ちゅうれい●●)」の歌が載っています。

 一 勇士らは、生命をささげたり。
   勇士らは、戦にうち勝てり。
   そのみたま、ほほ笑みてここにあり。
   いま仰ぐ忠霊の塔高し。

 二 勇士らのあとをつくわれらなり。
   勇士らのいさをしをしのびつつ、
   ふるひたち、戦ひに戦はん。
   いまちかふ、忠義の塔の前。

 「勇士らのあとをつくわれらなり。」がいいたい所だと思います。

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四国、よいとこ 665 画家・岡本太郎さんの「殺すな」。

 二〇〇六年七月七日。

 夜、テレビを見ていたら画家・岡本太郎さんのことをやっていました。
 彼の書いた「殺すな」の文字がすごい。
 アメリカのベトナム侵略に抗議したものだといいます。

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四国、よいとこ 666 国民学校の音楽の時間 三十八時間目 女子にも戦争にいけと…。

 二〇〇六年七月七日。

 『初等科音楽 三』です。

 女子にも戦争にいけと迫りました。
 従軍看護婦になれというのです。

 一 白衣の勤め、をとめにあれど
   軍(いくさ)の庭にををしく出でて、
   勇士まもらん 御国のために。

 二 御楯(みたて)とたちてたたかふ軍、
   痛まし、君が深手をみとり、
   巻くは白たへ 真心こめて。

 三 敵(かたき)にあれど、重手と見れば、
   いたはる心に二つはあらず
   見よや 日本の十字の赤さ。

 四 病院船は勇士を送り
   故国の山河、近づく日々も、
   みとる誠(まこと)のただ一すぢに。

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四国、よいとこ 667 国民学校の音楽の時間 三十九時間目 「をの子らをいくさの庭に 遠くやり 心勇む」。

 二〇〇六年七月七日。

 『初等科音楽 三』です。
 
 大きくなって母になったら息子を戦場に送りなさい。「母の歌」です。「をの子らをいくさの庭に 遠くやり 心勇む」というのです。

 一 母こそは、命のいつみ(いずみ)。
   いとし子を胸にいだきて
   ほほ笑めり、若やかに。
    うるわしきかな、母の姿。

 二 母こそは み国の力。
   をの子らをいくさの庭に
   遠くやり 心勇む。
    をおしきかな 母の姿。

 三 母こそは 千年(ちとせ)の光。
   人の世のあらんかぎり
   地にはゆる天つ日なり。
    大いなるかな 母の姿。

 作詞・野上弥生子、作曲・下総皖一ということを知りました。
 野上弥生子は、あの野上弥生子でしょうか。

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から。

 野上 弥生子(のがみ やえこ、本名:野上 ヤヱ(のがみ やゑ)、旧姓小手川、1885年5月6日 - 1985年3月30日) は、日本の小説家。大分県臼杵市生まれ。
 14歳の時に上京し、明治女学校に入学。夏目漱石門下の野上豊一郎と結婚。「ホトトギス」に『縁』を掲載してデビュー。以来、99歳で逝去するまで現役の作家として活躍する。法政大学女子高等学校名誉校長も努め、「女性である前にまず人間であれ」の言を残す。
 昭和初年のプロレタリア文学が流行した時代には、社会進歩の活動のなかにあった非人間的な行動を追及した『真知子』を発表する一方で、思想と行動について悩む青年に焦点をあてた「若い息子」「哀しき少年」などを書き、また戦争への傾斜の時期には時流を批判した『黒い行列』(戦後、大幅に加筆して長編『迷路』に発展させる)と、良識ある知識階級の立場からの批判的リアリズムの文学を多く生み出した。中条(宮本)百合子や湯浅芳子とも交友をもち、『真知子』は、百合子の『伸子』を意識して書いた作品であるといわれ、1920年代の女性の生き方を描いた作品として日本文学に大きな位置を占めている。第二次世界大戦勃発の時期にはちょうど夫とともにヨーロッパに滞在しており、その前後の紀行文『欧米の旅』は、この時期の激動の証言として価値が高い。
 ……

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四国、よいとこ 668 国民学校の音楽の時間 四十時間目 「汝(なれ)を股肱(ここう)とのたまひし…」。

 二〇〇六年七月七日。

 『初等科音楽 三』です。

 「小楠公(せうなんこう)」という歌が載っています。
 小楠公というのは、楠木正成の息子・楠木正行のことです。
 大阪の千早赤坂村に生まれ、南北朝時代、父とともに足利勢とたたかい、父は湊川のたたかいで死亡。父は、湊川への出陣の前に死を覚悟し、桜井宿において、十一歳だった正行に「父の教えを守って正統の天皇に仕えるよう」さとしたということになっています。その後、南朝の武将となった正行は、四條畷の決戦に際し、吉野の如意輪堂にいき、一族百四十三人名の名を留め鏃を用いて板壁に辞世の句、「帰らじと かねて思えば梓弓 無き数に入る名をぞ留むる」を記したといいます。正行は、四條畷の決戦で討死しました。

 この歌は、そうした話をなぞっています。

 一 梅雨(つゆ)の晴れ間の桜井に、
   別れし父の面影(おもかげ)を
   しのべば悲し、十一の
   楠(くす)の一本、なお若し。

 二 母のさとしを身にしめて、
   かをりも清き楠木(くすのき)や、
   河内(かわち)の里に十余年、
   今はこずえに風高し。

 三 汝(なれ)を股肱(ここう)とのたまひし、
   玉のみ声の身にしみて、
   覚悟は強気あづさ弓、
   生きて帰らじ、この門出(かどで)。

 「股肱」は、「ももとひじ。転じて、手足となって働く、君主が最もたよりにする家臣」(『広辞苑』)。
 「あづさ弓」は、アズサの木でつくった丸木の弓です。

 四 いくさも利あらず、矢は尽きて
   四条畷(なはて)に、ををしくも
   花とは散れど、永(なが)き世に
   光かがやく、そのいさを。

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四国、よいとこ 669 国民学校の音楽の時間 四十一時間目 「起(た)てば 百万海を越え…」。

 二〇〇六年七月七日。

 『初等科音楽 三』です。

 「桃山」という歌が載っています。

 一 麻(あさ)と乱れし戦国の
   武将をしづめ、したがへて、
   ともにことほぐ御代の春。
   聚楽(じゅらく)の第(てい)の花の宴(えん)。

 二 起(た)てば 百万海を越え、
   帰れば、文化花と咲く。
   ありし昔を今ここに、
   国威はあがる大アジヤ。

 「起(た)てば 百万海を越え」は、豊臣秀吉の朝鮮侵略のことではないでしょうか。


 「KBS WORLD Radio」から、このことを見ておきましょう。

 秀吉の朝鮮侵略, その1

 日本が朝鮮を侵略しました。豊臣秀吉による朝鮮侵略、文禄・慶長の役です。日本は1592年、朝鮮に大々的な攻撃を加えてきました。そしてこの侵略と、それに対する朝鮮と応援の明による反撃は1598年までの7年間、中間の3年間の休戦期間を除くと4年にわたって続いたのでした。この戦争で朝鮮は人口が激減し、国土は焦土と化しました。
 16世紀は世界的に大きな変動期を迎えていました。アジアの貿易権を掌握していたポルトガルの商人たちによって貿易が活発に展開し、中国と朝鮮、日本の間でも貿易が行われました。朝鮮も中国と日本の間の仲介貿易を通じて大きな利益を上げていました。そして日本は戦国時代の真っ盛りでした。当時、日本の有力な大名たちはポルトガル商人、スペイン商人たちと貿易をすることで、経済力を築き、国力も向上していました。そしてこれらの商人を通じて、火縄銃などの火薬や武器を輸入して実際に戦闘で使用していました。
 統一を達成した秀吉は1587年、朝鮮に使臣を送ります。そして朝鮮だけでなくインドやフィリピンにも使臣を送り天下はこの手の中にあるので、降伏しなければ征伐すると通告したのでした。全く日本を注視していなかったため、日本の状況はもちろん、豊臣秀吉がどんな人間かも把握できていなかった朝鮮としては、晴天のへきれきでした。朝鮮はいったん、何の対応もせずに事態の推移を見守っていましたが、秀吉はさらに朝鮮の国王が日本にあいさつに来るようにと求めましたが、これは日本を上の国とする礼をとるようにという意味でした。
 この問題をめぐって朝鮮朝廷は論争を繰り返します。結局、宣祖は日本に通信使を送ることにします。日本の事情を偵察してくる必要性を感じたのです。通信使として日本に送られたのは黄允吉と金誠一らでした。そして黄允吉は東人と西人に分かれていた朝鮮朝廷で東人に属し、金誠一は西人派でした。このような彼等の立場の差は日本に行ってきた後、宣祖にその結果を報告する席でも如実に現れました。一緒に行ってきたにもかかわらず、二人の見解は正反対でした。

 秀吉の朝鮮侵略 その2: 民衆の抵抗

 1592年4月13日、10万人以上の秀吉軍が数千隻の船を率いて韓半島東南部に上陸しました。釜山沖に姿を表した日本軍はあっという間に釜山を陥落させると、破竹の勢いで北上を続け、5月2日には首都漢陽、今のソウルに達します。
 そして戦争開始からわずか20日で、漢陽が陥落し、当時の王、宣祖は首都を捨て避難します。宣祖は光海君を跡継ぎである皇太子に指名して後を任せると、自分は百人あまりの臣下とともにソウルを抜け出し平壤に避難しました。予想よりも日本軍の北上する速度が速く、ソウルに残っていた兵力では日本軍を防ぐことはできず、地方から援軍を呼ぶこともできず避難することにしたのです。
 宣祖が臣下とともにソウルを抜け出した後、王宮は炎に包まれます。取り残された民衆が怒って王宮に火を放ったのです。王は最初は都の四大門を内側から閉めて、民衆が外に逃げないようにして都で敵を迎え撃つと言っていました。それが急に官員たちが避難してしまったのです。
 漢陽を陥落させた日本軍は6月には朝鮮第2の都市、平壤まで占領してしまいます。そのため宣祖の一行はさらに北の国境地帯、義州にまで避難することになります。結局、宣祖は明に援軍を要請することにします。
 明は日本軍が朝鮮の北西部にまで北上していることを知ると、7月末に第1陣として、朝鮮に近い国境地域の守備隊を派遣します。しかし彼らは日本軍との戦闘経験が全くなかったため惨敗してしまいます。続いて、倭軍との戦闘経験のある新しい援軍が年末近くに投入され、翌年の正月に平壤城での戦闘で勝利を得て平壤を奪還し、ようやく情勢を逆転させるのに成功します。
 朝鮮はそれこそ、風前の灯火のように危険な状況でした。そんな国を守るために立ち上がったのは自発的に軍事集団を結成した軍人でない軍人、義兵と言われる集団でした。義兵は両班から賎民に至るまで多様な階層で構成されていましたが、そのリーダーとなる義兵長は両班の学者と官僚出身者らが大部分でした。義兵の総数はおよそ2万3千人程度と推算されますが、この数字は官軍の1/4にあたる数字です。有名な義兵長の郭再祐は赤い外套を羽織って馬に乗り、いくつもの集団が連合した義兵を率いました。彼は地形の利点を生かした遊撃戦術を繰り広げ、数的にはるかに勝る日本軍に勝利しました。
 有名な晋州城の戦いは2回にわたって行われました。1回目の戦闘は壬申倭乱の3大戦闘の1つと言われるものです。1592年10月、3800人の朝鮮軍が2万人の日本軍と6日間にわたる激戦を繰り広げ、見事日本軍を撃退します。1回目の戦闘で負け、威信に傷をつけられた豊臣秀吉は翌年の6月に小西行長に復讐戦を命じます。この2回目の戦いでも朝鮮軍は必死に戦いましたが敵軍に比べてその数が足りず、さらに梅雨のせいで城郭さえも崩壊してしまい、ついに城は陥落してしまいます。
 晋州城を占領した日本軍は祝賀の宴を開きます。その席に多くの朝鮮の女たちが連れて来られますが、その中に論介(ノンゲ)という女性がいました。着飾った論介は酒によった日本軍の武将を誘い出し、岩の上におびき寄せます。そして城の下を流れる川に向かって日本の武将を道連れに飛び降り自殺しました。彼女の勇敢な行為を讃え、今でも晋州では毎年9月9日には論介を記念する論介祭りが開かれています。
 またソウル西方の幸州(ヘンジュ)山城では、城を守っていた義兵たちが矢も銃弾もすべて尽き果ててしまうと、女性たちが城に近寄ろうとする日本軍に灰を投げつけ、その視野をふさぎました。また休みなくヘンジュチマ、前掛けに石を包んで運び、その石を武器として山城の上から投げつけました。 幸州山城の戦いでは三万の秀吉軍に一万で立ち向かい、見事に打ち勝ちました。また僧侶たちで構成された僧兵も、西山大師のような高僧を僧兵長にして活躍しました。

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2006.07.11

四国、よいとこ 670 国民学校の音楽の時間 四十二時間目 『初等科音楽 四』のナンバーのない歌は七曲。

 二〇〇六年七月八日。

 さぁ、『初等科音楽 四』です。
 この教科書には、二十七曲載っています。
 最初のナンバーのない歌は七曲です。
 「君が代」
 「勅語奉答」
 「天長節」
 「明治節」
 「一月一日」
 「紀元節」
 そして、「明治天皇御製」です。
 
 一 さしのぼる朝日のごとく
    さわやかにもたまほしきは
    心なりけり

 二 あさみどり澄みわたりたる
    大空の広きをおのが
    心ともがな

 こうして天皇は素晴らしいということが徹底されていきます。

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四国、よいとこ 671 高知県 勤務評定反対のたたかいにたちあがった高校の女先生。

 二〇〇六年七月十日。

 夜、すっごーくいい話を聞きました。

 僕たちが高知県の小学生、中学生だった時に、勤務評定反対のたたかいにたちあがった高校の女先生の話です。
 聞いていて涙ぐんでしまいました。
 高知は、すごいですね。
 戦後の歴史をつくってきた面々が、しっかりしていて「おんしゃー、なんなら」とにらみをきかせています。
 十代、二十代の感性豊かな男女が、平和のための行動に立ち上がっています。
 フレーっ、フレーっ、高知。フレ、フレ、高知。

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2006.07.13

四国、よいとこ 672 高知市 ほめられるって、あんまり経験がないだけにうれしい。天に昇るほど。

 二〇〇六年七月十二日。

 おひさしぶりです。
 十日、十一日、十二日と僕の娘くらいの年齢の女性に、僕の仕事ぶりについての好意的な意見をいただきました。
 ほめられるって、あんまり経験がないだけにうれしい。天に昇るほど。

 そのことについて、まわりの人に話すと、男女共に「それは、あんたのことをよく知らんからよ。遠くから見ると何でもよく見える」。
 お客さんがきても、無視して自分の世界に入り込んでパソコンに向かっている。
 事務所の机のまわりは文書でいっぱい、きたななしい。
 事務所の掃除に協力しない。
 昼飯もきちんと食べない不摂生なやつ。
 人の心に土足で踏み込むような無礼な質問の数々。
 自説にこだわり貫こうとする。
 先輩を友だちあつかいにして「ため口」でフレンドリーに話す。
 などが、その理由なようです。 

 また、反省の日々を過ごしています。

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四国、よいとこ 673 高知市 夜のムクドリの大群のすさまじさ。

 二〇〇六年七月十二日。

 夕方、先輩の男性、後輩の女性と話していました。
 「高知市の中央公園の木に群れてギャーギャーないているの鳥は何だろう。前に長野市の信州大学工学部の所でも、名古屋駅前でも同じ鳥が群れていたんだけど、だれにきていも名前がわからない」
 「あれはムクドリ」
 二人が声をそろえて答えました。
 そうか、ムクドリか。
 うれしい。やっとわかった。

 ムクドリ
 スズメ目ムクドリ科。
 体長二十四センチほどで、スズメとハトの中間ほど、ヒヨドリより一回り小さい程度の大きさ。翼と胸、首は茶褐色で、首から頭にかけてと腰に白い部分が混じり、足と嘴は黄色い。
 雄は胸や腹などが黒っぽく、雌は褐色に近い。若鳥は雌以上に色が薄い傾向があります。
 繁殖期は巣で寝ますが、ヒナが巣立つと親子ともに集まって群れを形成するようになり、夜は一か所に集まってねぐらを形成します。
 ねぐらには十キロ以上の範囲から集まり、冬は数万羽の大群となることもあります。
 かつては河原の広葉樹や人家の竹やぶに集まっていましたが、近年では都市部の街路樹などにねぐらをとる例も増えています。
 鳴き声は「ギャーギャー」「ギュルギュル」「キュルキュル、リューリュー」など。

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四国、よいとこ 674 高知県伊野町 町立伊野小学校児童の「平和学園」のころ。

 二〇〇六年七月十二日。

 あのころ、高知県伊野町は活気に満ちていました。
 公立の小学校、中学校、高校の教師にたいする勤務評定の導入計画と、それに反対する教師、父母、児童生徒らの動きが活発でした。
 この問題をめぐって導入を推進する伊野町教育委員会と、それに反対する町教員組合は、一九五九年十月三十日、町公民館で交渉に入りました。
 会談は「激化」して撤去命令を出した福島町長は伊野署に出動を要請しました(実際には出動しませんでした)。
 こうして年度末を迎えた県教育委員会は、六〇年四月、勤務評定不提出を理由に町立伊野小学校の岡田巧校長、神谷中学校の近藤利仲校長、出来地小学校の宇津木定校長を分限免職しました。
 この暴挙に、勤務評定反対を支持した伊野地区労働組合連合会は、伊野小学校通学の子弟の登校を拒否しました。
 同盟休校派は、四月十一日から町内の吾川郡教育会館や音竹公民館で「平和学園」と名づけて児童を勉強させます。大学新卒の人たちが教えました。
 この動きは、神谷中学校にも広がりました。
 四月十四日、神谷中学校の同盟休校の生徒たちは、手すき工場跡で始業式をおこなっています。
 当時、僕は町立伊野中学校の二年生になったばかりでした。
 日本紙業に働く父、紙すきの母、僕、伊野小学校の児童だった弟も、みんな勤務評定に反対でした。
 弟は、吾川郡教育会館の「平和学園」に通いました。
 伊野中学校の生徒会長は三宮(さんのみや)さん(男性。体操部部長)。勤務評定反対でした。体操部の副部長は僕。
 同級生の野球部のM君などは、勤務評定賛成派で、グループをつくって三宮さんを追い落とそうとしましたが、果たせませんでした。
 勤務評定賛成の父母たちは、伊野町教育正常会を結成しました。
 こうした中、町議会に設置された教育正常化特別委員会が斡旋に乗り出します。
 四月二十六日に斡旋がなり、十六日ぶりに同盟休校は「解決」し、翌二十七日から伊野小学校での授業が再会されます。

 【参考資料】
 ● 『伊野町史』(伊野町)。
 ● 『この町百年目の深呼吸 そして夢へ』(伊野町)。

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四国、よいとこ 675 高知市朝倉 あの野中婉(のなか・えん)さんの屋敷跡。

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 二〇〇六年七月十三日。

 高知市は晴れました。
 やっほー。
 ということで、早朝からオートバイで仕事にでかけました。
 まずは、市内の朝倉。

 着くのが少し早すぎました。
 で、前から気になっていた 野中婉(のなか・えん)さんの屋敷跡にいきました。
 路面電車の「朝倉神社前」の電停の真正面にあります。

 青年のころ、今井正監督の映画「婉という女」を見ました。
 データを見ると、発表は一九七一年となっています。
 ずーっと六八年ころと思っていましたが……。

 「あらすじ」は、こうでした。

 土佐藩家老・野中兼山が失脚して亡くなると、藩政を握った政敵たちは、四歳だった婉たち兼山の遺族を宿毛へ閉じ込めました。
 外界と完全に接触を断たれた婉は、狭い獄舎を、それほど苦しいとは思いませんでした。
 しかし、娘として成熟するにつれ、獄舎は狭くなり、自由ではなくなってきました。
 「他人に会いたい!」
 くずれるような婉を学問が支えました。
 婉が二十六歳になった時、亡き父・兼山を敬慕する青年学者・谷秦山が幽居を訪ねてきました。
 獄吏にさえぎられて対面はきませんでしたが、許された年に一、二度、それも学問上の質疑に限られた秦山との文通は、婉の中の女の生命の炎を燃やしました。
 そして、四十年ぶりに触れる新しい世界。
 互の存在を知りあって二十年ぶりの婉と秦山との初対面。
 別れしな、婉の手をつつむように握った秦山の手のぬくもりは、いつまでも消えることはありませんでした。
 だが、外界も、婉ののぞんだような自由な世界ではありませんでした。
 世間の好奇な眼があり、妻子ある秦山と会うことは思うにまかせず、いぜんとして文通でしか心は通じあえませんでした。
 世間というとらえがたい障害、しかも、秦山は、その力に抗じがたいものを見、婉から遠ざかろうとしています。
 秦山に想いを寄せる婉の気持とは逆に、秦山は婉に婚姻をすすめました。
 やがて、土佐藩の継続問題がもとで、秦山が幽居を命ぜられました。
 「幽居にはじめて訪れたただ一人の人。こんどは私が会わずば気がすまぬ」
 婉は、駕篭(かご)を駆りました。
 途中、城代、山内主馬の行列とぶつかりました。
 婉は、侍たちをキッと見上げました。
 「元家老、兼山の娘、婉、邪魔だちは許しませぬぞ!」
 婉の体内に、政治へのすさまじい抵抗がみなぎっていました。

 婉さんは、一七ニ五年死去。六十六歳でした。

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四国、よいとこ 676 高知市 仕事と暮らしの短歌二首。

 二〇〇六年七月十三日。

 次々と 数十枚を 削除して
 五枚残った
 デジカメデータ

 夜八時 さあ、これからが 洗濯だ
 乾くだろうか
 予報を見てる

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四国、よいとこ 677 高知市 「オートバイを貸してほしい。これから長崎県佐世保の大学時代の男の友だちに会いにいく」。

 二〇〇六年七月十三日。

 夜八時半、高知県いの町の弟がやってきました。

 「オートバイを貸してほしい。これから長崎県佐世保の大学時代の男の友だちに会いにいく」

 オートバイの調子を試して、「暑い。なぜ、この家ははクーラーを直さないんだ。だらしない。けしからん」と怒りまくり、水風呂に飛び込みました。
 「ほっといてくれ。そんなことまでいわれることはない」という感じです。

 さんざん「お前の生活態度はなっていない」と悪態をついてから、雷の鳴る中、出発していきました。
 
 なんてやつだ。おれは怒ったぞ。

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四国、よいとこ 678 高知市 いつの間にか「夏休みの夫婦旅行」のいき先を変えていた妻。

 二〇〇六年七月十三日。

 夜、東京の妻に電話したら、「夏休みには二人で韓国にいく」約束が、「二人で九州を旅行する」に変わっていました。

 「韓国語は、まだ、できないので」
 「福岡で息子のつれあいの両親に会わなくては」
 「湯布院で温泉に入りたい」
 いろんな理由がついていました。

 どいつも、こいつも勝手なことばかり……。

 どうも、うまくいかないときは、うまくいかない。

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2006.07.14

四国、よいとこ 679 高知市 浦戸や御畳瀬(みませ)の六十一年前の姿。

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 二〇〇六年七月十四日。

 青空です。
 午前八時からオートバイで出発。
 仕事です。
 まずは高知市内の桟橋通へ。

 一つ目の仕事、完了。

 そして、二つ目。
 市内の横浜で待ち合わせ。
 とにかく暑い。
 目の前は海ですが、さっきから気になっているのは水がにごっていること。うーん。
 相手のかたに会えました。
 案内していただいて、浦戸や御畳瀬(みませ)へ。
 ここの六十一年前の姿を知ろうというくわだてです。

 浦戸は平地でしたが、御畳瀬は山中、海岸線、山中。
 相手の男性は登山歴二十年とか。僕は、彼より二十歳ほど年上で登山歴…、ふうふういいながらついていきました。
 案内してくださった男性のおかげで、すごいものを見ることができました。
 これは、いずれ、まとめていろんな形でお知らせしたいと思っています。 

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四国、よいとこ 680 高知市 「浦戸や御畳瀬(みませ)」の続き はりまや橋近く、頭上を走る雷。

 二〇〇六年七月十四日。

 「浦戸や御畳瀬(みませ)」の続きです。

 夕方、オートバイで高知市長浜から市内の中心地へ。

 途中、すごく激しい雨が降ってきました。
 いちおう、リュックにカッパを入れてありました。
 上だけ着て、ズボンはリュックに巻きつけて中の書類などの防護用にしました。
 何箇所かトンネルに入りましたが、これがいけない。
 水蒸気で眼鏡が曇って見えなくなります。
 トンネルの中で、かたわらにとめて、眼鏡をふいて再出発。

 はりまや橋の交差点の近くにやってきました。
 南から北を目指しています。
 そこに雷。
 頭上を、南から北に光が走り、それを追っかけてゴロゴロの音。
 震え上がりました。
 六十一年前のアメリカの高知空襲を想起しました。
 本当に恐ろしかったと思います。
 雷でも、こんなに恐ろしいのですから……。

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四国、よいとこ 681 「戦陣訓の歌」の時代。

 二〇〇六年七月十四日。

 「日本男児と 生まれ来て…」という戦争中の歌を教えてもらいました。
ぞーっとするような内容の歌でした。
 いろいろ資料をあさってみて「戦陣訓の歌」だとわかりました。
 一九四一年四月、ビクター。作詞・梅木三郎、作曲・須磨洋朔。

 一、日本男児と 生まれ来て 
   戦(いくさ)の場(にわ)に 立つからは 
   名をこそ惜しめ 武士(つわもの)よ 
   散るべき時に 清く散り 
   皇国(みくに)に薫(かお)れ 桜花

 二、情けに厚き 丈夫(ますらお)も 
   正しき剣(つるぎ) とる時は 
   千万人も 辞(じ)するなし 
   信ずる者は 常に勝ち 
   皇師(こうし)に向かう 敵あらじ

 三、五条の訓(おしえ) 畏(かしこ)みて
   戦野に屍(しかばね) 曝(さら)すこそ 
   武人(ぶじん)の覚悟 昔より
   一髪(いっぱつ)土に 残さずも 
   誉(ほまれ)に なんの悔(くい)やある

 四、山抜く威武(いぶゐ)も 騎(おご)るなく 
   海をも容るゝ 仁をもち 
   貫く大義 三千年 
   大和心の 一節は 
   これ皇軍の 大精神

 日中戦争の長期化で、軍紀が動揺し始めた同年一月八日、陸軍大臣東条英機(東条内閣)が「戦陣訓」を出されました。
 レコード各社はこれに迎合、競ってレコード化しました。
 これは、その中の一つです。

 【参考・「戦陣訓」】


 序

 夫れ戦陣は、大命に基き、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち、遍く皇道を宣布し、敵をして仰いで御稜威の尊厳を感銘せしむる処なり。されば戦陣に臨む者は、深く皇国の使命を体し、堅く皇軍の道義を持し、皇国の威徳を四海に宣揚せんことを期せざるべからず。
 惟ふに軍人精神の根本義は、畏くも軍人に賜はりたる勅諭に炳乎として明かなり。而して戦闘並に練習等に関し準拠すべき要綱は、又典令の綱領に教示せられたり。然るに戦陣の環境たる、兎もすれば眼前の事象に促はれて大本を逸し、時に其の行動軍人の本分に戻るが如きことなしとせず。深く慎まざるべけんや。乃ち既往の経験に鑑み、常に戦陣に於て勅諭を仰ぎて之が服行の完璧を期せむが為、具体的行動の憑拠を示し、以て皇軍道義の昂揚を図らんとす。是戦陣訓の本旨とする所なり。

 本訓 其の一

 第一 皇国

 大日本は皇国なり。万世一系の天皇上に在しまし、肇国の皇謨を紹継して無窮に君臨し給ふ。皇恩万民に遍く、聖徳八紘に光被す。臣民亦忠孝勇武祖孫相承け、皇国の道義を宣揚して天業を翼賛し奉り、君民一体以て克く国運の隆昌を致せり。
 戦陣の将兵、宜しく我が国体の本義を体得し、牢固不抜の信念を堅持し、誓つて皇国守護の大任を完遂せんことを期すべし。

 第二 皇軍

 軍は天皇統帥の下、神武の精神を体現し、以て皇国の威徳を顕揚し皇運の扶翼に任ず。常に大御心を奉じ、正にして武、武にして仁、克く世界の大和を現ずるもの是神武の精神なり。武は厳なるべし仁は遍きを要す。苟も皇軍に抗する敵あらば、烈々たる武威を振ひ断乎之を撃砕すべし。仮令峻厳の威克く敵を屈服せしむとも、服するは撃たず従ふは慈しむの徳に欠くるあらば、未だ以て全しとは言ひ難し。武は驕らず仁は飾らず、自ら溢るるを以て尊しとなす。皇軍の本領は恩威並び行はれ、遍く御綾威を仰がしむるに在り。

 第三 皇紀

 皇軍軍紀の神髄は、畏くも大元帥陛下に対し奉る絶対随順の崇高なる精神に存す。
 上下斉しく統帥の尊厳なる所以を感銘し、上は大意の承行を謹厳にし、下は謹んで服従の至誠を致すべし。尽忠の赤誠相結び、脈絡一貫、全軍一令の下に寸毫紊るるなきは、是戦捷必須の要件にして、又実に治安確保の要道たり。
 特に戦陣は、服従の精神実践の極致を発揮すべき処とす。死生困苦の間に処し、命令一下欣然として死地に投じ、黙々として献身服行の実を挙ぐるもの、実に我が軍人精神の精華なり。

 第四 団結

 軍は、畏くも大元帥陛下を頭首と仰ぎ奉る。渥き聖慮を体し、忠誠の至情に和し、挙軍一心一体の実を致さざるべからず。 軍隊は統率の本義に則り、隊長を核心とし、鞏固にして而も和気藹々たる団結を固成すべし。上下各々其の分を厳守し、常に隊長の意図に従ひ、誠心を他の腹中に置き、生死利害を超越して、全体の為己を没するの覚悟なかるべからず。

 第五 協同

 諸兵心を一にし、己の任務に邁進すると共に、全軍戦捷の為欣然として没我協力の精神を発揮すべし。
 各隊は互に其の任務を重んじ、名誉を尊び、相信じ相援け、自ら進んで苦難に就き、戮力協心相携へて目的達成の為力闘せざるべからず。

 第六 攻撃精神

 凡そ戦闘は勇猛果敢、常に攻撃精神を以て一貫すべし。
 攻撃に方りては果断積極機先を制し、剛毅不屈、敵を粉砕せずんば已まざるべし。防禦又克く攻勢の鋭気を包蔵し、必ず主動の地位を確保せよ。陣地は死すとも敵に委すること勿れ。追撃は断々乎として飽く迄も徹底的なるべし。
 勇往邁進百事懼れず、沈著大胆難局に処し、堅忍不抜困苦に克ち、有ゆる障碍を突破して一意勝利の獲得に邁進すべし。

 第七 必勝の信念

 信は力なり。自ら信じ毅然として戦ふ者常に克く勝者たり。
 必勝の信念は千磨必死の訓練に生ず。須く寸暇を惜しみ肝胆を砕き、必ず敵に勝つの実力を涵養すべし。
 勝敗は皇国の隆替に関す。光輝ある軍の歴史に鑑み、百戦百勝の伝統に対する己の責務を銘肝し、勝たずば断じて已むべからず。

 本訓 其の二

 第一 敬神

 神霊上に在りて照覧し給ふ。
 心を正し身を修め篤く敬神の誠を捧げ、常に忠孝を心に念じ、仰いで神明の加護に恥ぢざるべし。

 第二 孝道

 忠孝一本は我が国道義の精粋にして、忠誠の士は又必ず純情の孝子なり。
 戦陣深く父母の志を体して、克く尽忠の大義に徹し、以て祖先の遺風を顕彰せんことを期すべし。

 第三 敬礼挙措

 敬礼は至純の服従心の発露にして、又上下一致の表現なり。戦陣の間特に厳正なる敬礼を行はざるべからず。
 礼節の精神内に充溢し、挙措謹厳にして端正なるは強き武人たるの証左なり。

 第四 戦友道

 戦友の道義は、大義の下死生相結び、互に信頼の至情を致し、常に切磋琢磨し、緩急相救ひ、非違相戒めて、倶に軍人の本分を完うするに在り。

 第五 率先躬行

 幹部は熱誠以て百行の範たるべし。上正しからざけば下必ず紊る。
 戦陣は実行を尚ぶ。躬を以て衆に先んじ毅然として行ふべし。

 第六 責任

 任務は神聖なり。責任は極めて重し。一業一務忽せにせず、心魂を傾注して一切の手段を尽くし、之が達成に遺憾なきを期すべし。
 責任を重んずる者、是真に戦場に於ける最大の勇者なり。

 第七 生死観

 死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。
 生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。

 第八 名を惜しむ

 恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。

 第九 質実剛健

 質実以て陣中の起居を律し、剛健なる士風を作興し、旺盛なる士気を振起すべし。
 陣中の生活は簡素ならざるべからず。不自由は常なるを思ひ、毎事節約に努むべし。奢侈は勇猛の精神を蝕むものなり。

 第十 清廉潔白

 清廉潔白は、武人気質の由つて立つ所なり。己に克つこと能はずして物慾に捉はるる者、争でか皇国に身命を捧ぐるを得ん。
 身を持するに冷厳なれ。事に処するに公正なれ。行ひて俯仰天地に愧ぢざるべし。

 本訓 其の三

 第一 戦陣の戒

 一  一瞬の油断、不測の大事を生ず。常に備へ厳に警めざるべからず。
    敵及住民を軽侮するを止めよ。小成に安んじて労を厭ふこと勿れ。不注意も亦災禍の因と知るべし。
 二  軍機を守るに細心なれ。諜者は常に身辺に在り。
三  哨務は重大なり。一軍の安危を担ひ、一隊の軍紀を代表す。宜しく身を以て其の重きに任じ、厳粛に之を服行すべし。哨兵の身分は又深く之を尊重せざるべからず。
四  思想戦は、現代戦の重要なる一面なり。皇国に対する不動の信念を以て、敵の宣伝欺瞞を破摧するのみならず、進んで皇道の宣布に勉むべし。
五  流言蜚語は信念の弱きに生ず。惑ふこと勿れ、動ずること勿れ。皇軍の実力を確信し、篤く上官を信頼すべし。
六  敵産、敵資の保護に留意するを要す。徴発、押収、物資の燼滅等は規定に従ひ、必ず指揮官の命に依るべし。
七  皇軍の本義に鑑み、仁恕の心能く無辜の住民を愛護すべし。
八  戦陣苟も酒色に心奪はれ、又は慾情に駆られて本心を失ひ、皇軍の威信を損じ、奉公の身を過るが如きことあるべからず。深く戒慎し、断じて武人の清節を汚さざらんことを期すべし。
九  怒を抑へ不満を制すべし。「怒は敵と思へ」と古人も教へたり。一瞬の激情悔を後日に残すこと多し。
 軍法の峻厳なるは特に軍人の栄誉を保持し、皇軍の威信を完うせんが為なり。常に出征当時の決意と感激とを想起し、遙かに思を父母妻子の真情に馳せ、仮初にも身を罪科に曝すこと勿れ。

 第二 戦陣の嗜

一  尚武の伝統に培ひ、武徳の涵養、技能の練磨に勉むべし。「毎事退屈する勿れ」とは古き武将の言葉にも見えたり。
二  後顧の憂を絶ちて只管奉公の道に励み、常に身辺を整へて死後を清くするの嗜を肝要とす。
屍を戦野に曝すは固より軍人の覚悟なり。縦ひ遺骨の還らざることあるも、敢て意とせざる様予て家人に含め置くべし。
三 戦陣病魔に斃るるは遺憾の極なり。特に衛生を重んじ、己の不節制に因り奉公に支障を来すが如きことあるべからず。
四 刀を魂とし馬を宝と為せる古武士の嗜を心とし、戦陣の間常に兵器資材を尊重し、馬匹を愛護せよ。
五  陣中の徳義は戦力の因なり。常に他隊の便益を思ひ、宿舎、物資の独占の如きは慎むべし。
「立つ鳥跡を濁さず」と言へり。雄々しく床しき皇軍の名を、異郷辺土にも永く伝へられたきものなり。
六 総じて武勲を誇らず、功を人に譲るは武人の高風とする所なり。
他の栄達を嫉まず己の認められざるを恨まず、省みて我が誠の足らざるを思ふべし。
七 諸事正直を旨とし、誇張虚言を恥とせよ。
八 常に大国民たるの襟度を持し、正を践み義を貫きて皇国の威風を世界に宣揚すべし。
国際の儀礼亦軽んずべからず。
九 万死に一生を得て帰還の大命に浴することあらば、具に思を護国の英霊に致し、言行を慎みて国民の範となり、愈々奉公の覚悟を固くすべし。

 結

 以上述ぶる所は、悉く勅諭に発し、又之に帰するものなり。されば之を戦陣道義の実践に資し、以て聖諭服行の完璧を期せざるべからず。
 戦陣の将兵、須く此趣旨を体し、愈々奉公の至誠を擢んで、克く軍人の本分を完うして、皇恩の渥きに答へ奉るべし。

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四国、よいとこ 682 高知県 「こっとり忘れちょった」。

 二〇〇六年七月十四日。

 この間、「こっとり忘れちょった」という土佐弁を聞きました。
 この場合の「こっとり」は、「全部。根こそぎ残らず。」。
 うーん、いい言葉ですね。
 こういわれれば、
 「そうかよ(そうですか)」
 としかいえません。
 相手に非難する気力をなくさせるのです。

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2006.07.15

四国、よいとこ 683 高知市 「ミンミンの合唱の中、目を覚ます…」。

 二〇〇六年七月十五日。

 ミンミンの 合唱の中 目を覚ます
 しつこい梅雨(つゆ)は
 もう終わったか

 二階の四箇所すべての窓を開け放って寝るので、合唱の中心で寝ている感じです。

 そういえば、昨日は、セミのぬけがらを家の前と、高知市桟橋通の自由民権記念館の所で見ました。

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四国、よいとこ 684 高知市 妻、娘、娘の五歳の娘、二歳の娘が、わが家にやってきました。

 二〇〇六年七月十五日。

 バードさん、ありがとうございました。海の写真、気に入っててもらえて幸いです。

 夜、妻、娘、娘の五歳の娘、二歳の娘が高知市の、わが家にやってきました。
 にぎやかなこと、この上なし。
 四人の「彼女たち」と、お付き合いしたいのですが、あすは午前六時起きで愛媛県にいく予定です。
 ……

 ところで、なぜか、娘が、コントローラーをつついているうちに、わが家のクーラーが復活。
 今夜は、ゆったり寝られそうです。
 おやすみなさい。

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2006.07.17

四国、よいとこ 685 高知市 妻のおかげできれいになった独居の家で落ち着いています。 

 二〇〇六年七月十七日。

 十五日、高知市で仕事。
 十六日、愛媛県へ。
 十七日、広島県へ。
 と、仕事をしているうちに、十五日にやってきた妻は十七日午後、東京へ帰っていきました。

 本日は午後十時半帰宅。
 妻の手できれいになった家でくつろいでいます。
 なぜか、日本酒が置いてあったので、それをいただいております。
 しみじみと考えてみれば、わが妻は、僕への奉仕活動のために結婚しているかのような人生です。
 感謝!!!!!

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四国、よいとこ 686 『青春漫画 僕らの恋愛シナリオ』。

 二〇〇六年七月十七日。

 広島からの帰りの列車で『青春漫画 僕らの恋愛シナリオ』(イ・ハンさん、文春文庫)を読みました。

 韓国の青年、イ・ジファン君とチン・ダルレさんの物語です。
 ゆったりとした気持ちで、どきどきしながら読みました。
 途中、イ・ジファン君が交通事故で…という所で、またか、もーつ、韓国の恋愛ドラマは…と思いましたが、またじわじわといい感じの物語になりました。

 おすすめです。

 僕も一度は恋愛小説を書いてみたいと思います。
 そうだ、いまから書き始めましょう。

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2006.07.18

四国、よいとこ 687 小説『僕が彼女を好きになったわけ』 一 地上に舞い降りた天使。

 ちょっと前の日本の地方都市の国立大学での話です。

 主人公の石川浩は、二年生で文理学部学生自治会の執行委員でした。
 この学生自治会は文理学部の学生、教育学部の一、二年生、農学部の一、二年生が構成メンバーでした。
 四月、新入生歓迎集会が大学の大教室で開かれました。
 実行委員長をつとめていた浩も歓迎の演説をしました。
 「わたしたちデンガクレンは…」
 わーっと笑いが広がりました。
 浩は、「で」と「ぜ」の区別ができません。
 「全学連」、つまり全日本学生自治会総連合といおうとしたのですが…。

 集会が終わって新入生の女性が浩たちの所にやってきました。
 髪の毛が腰の所まである、きゃしゃな感じので美しい人でした。
 県下の県立商業高校を出て入学したこと、教育学部中学校課程であること、高校時代から日本民主青年同盟に入って活動してきたこと、みんなと一緒に活動したいということを話す彼女。
 名前は、野中百合。
 浩と同じ、大学のある市の隣町に住んでいることもわかりました。
 彼女は、僕らの大学にやってきた天使でした。

 浩は、たちまち彼女のとりこになってしまいました。
 「でも、こんな素晴らしい女性、僕では無理だろうな」
 一応、「身のほど」は、知っていました。
 というのは……。

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四国、よいとこ 688 小説『僕が彼女を好きになったわけ』 二 高校以来、浩が一方的に恋をした三人の女の子。

 浩には「暗い過去」がありました。
 何度も一方的に恋をしてはやぶれているのです。

 市内の県立高校に入学してすぐに、同級生の女の子に恋をしました。
 漆黒の髪の人。色が白くて、ぽちゃっとした人でした。
 やわらかい言葉づかいでした。
 ふとしたことから話すようになりました。
 文学の好きな人で、浩に小説や詩の本を次々と貸してくれました。
 浩は、彼女に気にいってもらえるようにと次々読みました。
 一緒のクラブに入り、彼女のいる所にいき、いつも少し遠くから見ていました。
 卒業前に彼女は東京の私立大学に合格しました。
 浩は、東京に追っかけていきたかったのですが、彼の家の経済力は「地元の国立大学でも無理」という状態でした。

 浩が、次に好きになったのは大崎瞳です。
 地元の国立大学の文理学部に入ったころ、浩の町から市内に出る路面電車の中で話しかけられました。
 浩の出た高校の二学年下の女の子でした。
 住んでいるのも同じ町。会ったことはなかったのですが、小学校でも、中学校でも後輩です。
 瞳が生きいきと光る小柄な人でした。
 何度か話しているうちに、非常にしっかりした人だということがわかりました。
 浩を「そういう生き方をしては駄目なんじゃないかしら」とさとしてくれる「お姉さん」でした。
 ずっと憧れの人でした。
 しかし、彼女は、いつの間にか、僕の目の前から消えていました。

 大学でも、忙しくなってきました。
 たとえていえば「勉強するひまもないほどに」。
 みんなで文集をつくったりとクラスでも大忙し。
 音痴のくせに混声合唱団に入って、そっちのほうでも忙しい。
 そのうえ、学生運動に憧れていた浩は、当時、文理学部学生自治会執行委員会の役員だったアナキーな人たちともつきあうようになっていました。
 そんななか、合唱団の教育学部の女子学生に恋をしました。
 野生的な顔の、鍛えられたすらっとした足の持ち主でした。
 知り合ってから二カ月くらいなのに、こう申し込みました。
 「結婚を前提に付き合っていただけないでしょうか」
 すぐに答えが返ってきました。
 「ずっと、友だちでいたいわ」
 何日か立ち上がれませんでした。
 
 ここまでが「天使」に出会うまでの思い込み恋愛、失恋のお話です。
 しかし、誓っていえることがあります。
 プラトニックラブを通したことです。
 ま、相手にされなかったということもあるでしょうが、それには浩なりの事情と思いがありました。

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四国、よいとこ 689 小説『僕が彼女を好きになったわけ』 三 毎夜、毎夜、百合を家に送りました。

 「浩なりの事情と思い」の件は、少し後にします。

 読者も、浩が「天使・野中百合」にふられるシーンを期待していると思いますので、彼女とのことを続けます。

 何回も一方的な恋にやぶれた青年が、「にがい失敗」から学ばないはずありません。
 浩は、百合と同じ町に住む、同じ思想的傾向を持った先輩という立場を貪欲に使用しはじめます。

 ほどなくして、浩と百合は毎夜、大学や大学の近所で待ち合わせるという間柄になりました。
 「夜、遅いと危ないので送っていくよ。心配だから。同じ町だし」
 なんというずるいやつ。

 待ち合わせて、大学前で一緒に路面電車に乗って、終点の町に着き、三十分ほど一緒に歩いて百合の家に送っていって、五十分くらいかけて自分の家に帰ってくる。
 天国に昇るほど楽しくて、かなり肉体的には、きつい毎日でした。

 身長百七十センチメートル、体重五十五キロのやせぎすの、度の強い眼鏡の学生が、後輩の絶世のスリムな絶世の美女をエスコートして夜道を仲のよさそうに語らいながら歩く。
 ちょっと不可解な図だったと思います。

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四国、よいとこ 690 高知市 ミュージカル「夢があるから!」を見たよ。

 二〇〇六年七月十八日。

 夜、高知市の「文化プラザかるぽーと」大ホールで劇団スイセイ・ミュージカルの「夢があるから!」を見ました。
 結論的には、いい。
 泣けました。

 これは高知市民劇場の七月例会でした。
 須崎市で一回、高知市で五回の講演です。
 五月例会のデータを見るとサークル数は八百九十四、会員数四千五百三十八人でした。

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2006.07.19

四国、よいとこ 691 小説『僕が彼女を好きになったわけ』 四 しっかり者の百合、自分を制御できない浩。

 教師を目指す野中百合は、しっかりした人でした。
 授業にきちんと出て、勉強をきちんとする。
 活動も、せいいっぱいする。
 そのうえ、アルバイトもする。

 一方、一年先輩の石川浩は、自分を制御できないタイプです。
 活動は目いっぱい(そのころは、アナキー路線とは決別していました)。
 夜から夜中にかけて学生自治会室にこもってビラをせっせとつくり、門前で登校する学生や教職員に配布します。
 そして、授業の時にはふらふら……。
 貧乏で教科書もろくに買えないくせに、アルバイトのひまもない。
 たまに二人で喫茶店に入っても浩は「きょうは、払っといて。また戻すから……」。

 なんとも情けない関係になっていきました。

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2006.07.20

四国、よいとこ 692 太田光さんが、憲法第九条を世界遺産にと提案。

 二〇〇六年七月二十日。

 太田光さんが、憲法第九条を世界遺産にと提案しています。
 月刊誌『すばる』(集英社)の八月号に載っています。

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2006.07.21

四国、よいとこ 693 高知市 クーラーのリモコン二つで九千円なんて、ひどすぎる。

 二〇〇六年七月二十一日。

 一階と二階のクーラーのリモコンが、ついに駄目になりました。
 で、リモコンを二つ注文しました。
 本日入手。
 ところが、これが高かった。
 二つで九千円。
 なんで、こんなに高いの。

 ま、このクーラーは、前に住んでいた人が置いていったものですが…。

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四国、よいとこ 694 高知市 弟、娘、娘の娘二人が、わが家にやってきて…。

 二〇〇六年七月二十一日。

 夜、弟、娘、娘の娘二人が、わが家にきています。
 娘の娘たちと風呂に入って、弟と娘のつくったカレーライスを食べて…。
 まずますの落ち着いた夜でした。

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2006.07.22

四国、よいとこ 695 高知市 わかっていくということの楽しさ。

 二〇〇六年七月二十二日。

 いま「あること」を知りたくて、毎日、走っています。
 きょうも雨の中を走りました。
 三人から話を聞いて、ほんの少しずつわかってきました。
 楽しいですね。
 わかっていくということは。

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四国、よいとこ 696 高知市 「行動する、現場主義の知的探求者」になってほしい。

 二〇〇六年七月二十二日。

 「現場には 真実がある」
 そう信じ
 歩いてきたよ 靴はヘタヘタ

 前向きに 変わる一瞬
 その「ゆげ」を とらえてみたいな
 なしえてないが

 「生活の 常識がない」 批判あり
 許せ、僕にも
 いいとこはある
 
 あす二十三日は娘の長女の誕生日。
 六歳です。
 ということは来年四月からは小学生なんですね。

 この子が東京都で生まれた時、僕は長野市に単身赴任中でした。
 何日かして病院に会いにいきました。
 彼女の手が小さくて愛らしくて、温かかったことを覚えています。

 いま、彼女は、東京都のキリスト教系の幼稚園に通っています。
 妹もいます。
 けっこうかわいがっいます。
 たまに僕と会うと「あいたかったよー」と飛びついてくる、すごい、いい子です。
 彼女に、将来、どんな人になってほしいか。
 やっぱり、「行動する、現場主義の知的探求者」として育っていってほしいですね。

 あすの夕方、高知市の妻の父母、高知市の僕、高知県いの町の僕の弟、そして娘、娘の二女とが妻の父母の家で彼女の誕生日を祝うことになっています。
 もしかすると、僕は、出れなくなるかもしれませんが…。
 わきいでる知的探究心のために災いされて。

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2006.07.23

四国、よいとこ 697 高知市 えっ、いまごろ庭のヤマブキの花が咲きました。

 二〇〇六年七月二十三日。

 早朝、家を出る時、なにげなく庭を見たらヤマブキの花が咲いていました。
 えっ、いまごろという感じ。
 たしか二カ月ほど前にも咲いていました。
 なぜ??

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四国、よいとこ 698 高知市 またまた、海沿いにやってきました。

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 二〇〇六年七月二十三日。

 朝から雨の中、オートバイで高知市の海沿いにいきました。

 そこで、こんな花を見ました。
 白い線のような物でできています。

 というのは、わきの話。

 午前十時前に、約束していた男性が到着。
 会うなり、僕のほしい資料をごっそり貸してくれました。
 その資料も参考にしながら二人で海沿いや山中をまわり調査活動。

 彼は大学の歴史学の一学年下。社長業をこなしながら研究活動も続けているすごい人です。

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四国、よいとこ 699 高知市 娘の長女の六歳の誕生日の「決意」。

 二〇〇六年七月二十三日。

 高知市の妻の実家で、娘の長女の六歳の誕生日会をやりました。
 妻の父母、僕、弟、娘、娘の長女、娘の二女が集まりました。
 六歳の「決意」に驚きました。

 一、勉強をいっぱいしたい。漢字の勉強とかさー。漢字、もう「山」、「川」、「一」、「二」、「三」、「四」とか書けるよ。

 二、ぐっすり寝ること。いまよりちょっと早く寝て、ぐっすり寝て、早く起きたい。そうすれば楽しくなるでしょう。

 三、妹と仲良くなりたい。いまも仲良し。でも、もっと、もっと仲良しになりたいの。妹に「一緒に遊ぼう」といっても妹は、ちょっとしか遊ばないから。もっと長く遊びたい。妹のこと、たたいたり、ちょっとするけど、もう、それは、しないと思うよ。ずーっと、ずーっと、おとなになったって、ずーっと仲良し。

 四、ママのお手伝いするの。ママが、「これ、パパにもっていって」というと、もっていく。そういうこと。ママが「洋服たたんで」っていったら、たたむの。パパのお手伝いはね、夜に、「お酒とか、何かちょうだい」っていうから、もっていってあげる。

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2006.07.24

四国、よいとこ 670 小説『僕が彼女を好きになったわけ』 五 交際を申し込まれたけどどうしょうか…。

 そのうち、石川浩と野中百合は、何でも相談し合う仲になりました。
 でも雰囲気は「兄と妹」。
 百合からは、浩に、浩と同学年の男性に交際を申し込まれたけどどうしょうかという相談もありました。
 学内でも、とびっきり目立つ存在なので、それもしかたがありません。
 浩は何だかんだと理由をつけ「あいつと付き合うのはやめたほうがいい」。
 百合も、それに従いました。
 実は、「あいつ」は、浩もよく知っている「いいやつ」でした。
 「あいつには悪いことをした。でも、…」
 浩の心は揺らぎました。
 (つづく)

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四国、よいとこ 671 小説『僕が彼女を好きになったわけ』 六 「学生自治会は、みんなのもの。みんなの利益を守るもの」。

 石川浩は、野中百合の「送り」をしていただけではありません。
 六月の文理学部自治会正副委員長選挙のために走り回っていました。

 浩は、委員長候補。同学年の川崎義男が副委員長候補。
 浩は、演説は下手ですが、ビラの原稿書き、版下づくり、印刷は、そこそこです。実務家です。
 義男は、市内の私立高校の出身。真面目を絵にかいたような人間です。とつとつと語る演説には魅力があります。
 対立候補はありませんでした。
 でも、浩たちは、授業前の各教室での訴え、ビラでの訴え、下宿まわりと懸命です。
 彼らが一年生の時の六月まで文理学部自治会執行部のメンバーを占めていた「過激な面々」の悪印象が、まだ学生の中に残っていました。
 彼らの性的放縦も、多くの学生の反発を受けていました。

 昨年六月から自治会執行部を担った浩たちのスローガンは「学生自治会は、みんなのもの。みんなの利益を守るもの」でした。
 悪印象を払拭し、本来の学生自治会像を定着させる。それが浩や義男の「任務」でした。
 (つづく)

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四国、よいとこ 672 高知市 ブログの「休刊日によせて」の記事に寄せて。

 二〇〇六年七月二十四日。

 わが仕事
 「いいね。すごいよ」 声あれば
 天まで昇って あすも疾走
 
 夜、東京の妻が、高知市の実家にいた娘、娘の二人の娘を連れて、わが家にやってきました。
 「素晴らしいブログがあるよ」と、ある若い女性のブログの記事を紹介しました。
 こんな記事です。

 2006年7月10日 (月)
 休刊日によせて。
 ……
 ご縁があって、ある新聞記者さんと知り合いになる機会をいただきました。
 この方が書く記事は不思議なのです。
 たちまち活字に命が吹き込まれ、読んだひとの心の中に静かに問いかけ、語りかけ、そしてやさしく豊かに根を下ろしていくのです。
 そしていつも、ひとの幸いを願うこころ、人間への愛情がいつも行間からそこはかとなくあふれ出しています。
 そんな不思議なパワーを持ったこの方とたびたび交流させていただく中で、新聞の記事というものが魂を削って生まれてくるものだと言う事も学びました。
 それ以来、わたしにとって新聞は「メディアのひとつ」から、記者さんたちからの「命のお手紙」となりました。
 思えばネットを含めて情報を発信することがとても簡単になった今の情報社会。何が本当なのか嘘なのか。膨大な情報の渦の中でふと立ちすくんでしまいそうになることもしばしばです。
 そんな中で命と魂を削りながら「真実」を伝えようとしている情報の送り手が存在する、という事実が、荒んでいくメディアの中で見つけたひと筋の希望の光だといっても過言ではないような気がしています。
 ポストに毎朝入っているのが当たり前だと思っていた新聞。
 あらためて手元に届くまでのドラマに思いを馳せると、胸が熱くなった休刊日の朝でした。

 娘は「すごいね。新聞の記事を見て、そういうふうに思えるなんて。もし、そんな記事を書いている人がいるなら、すごいね」。
 妻は「そんなふうに思われたら記者みょうりにつきるね。その記者に一度会ってみたいわね」。

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2006.07.26

四国、よいとこ 673 高知市 妻が最近見た映画のこと。

 二〇〇六年七月二十六日。

 ひさしぶりに妻と二人の夜。
 最近見た映画の話を聞きました。

 六月 「トリック劇場版2」。
 数日前 「日本沈没」。日本からさっさと逃げる政府高官。日本を見捨てるアメリカ。そういう点ではリアルだったそうです。
 本日 「それゆけ! アンパンマン」。他人のために働くアンパンマンがすてき。

 そういえば何カ月も劇場で映画を見ていません。

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2006.07.27

四国、よいとこ 674 高知市 坂本龍馬さんと会いました。

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 二〇〇六年七月二十七日。

 夕方まで休みにしました。

 朝から妻、娘、娘の長女、二女と高知市内の桂浜へ。
 まず、桂浜の高知県立坂本龍馬記念館へ。

 ここで、実に「リアル」な龍馬像と出会って感激。
 娘も感激したらしく「彼」とツーショットの写真を撮りました。

 館内でアニメ「おーい 龍馬」をやっていて、みんなで見ました。
 小山ゆうさんの漫画ですが、すごくいい。
 娘も息子の、子どものころに、この漫画『おーい 龍馬』は見ていると思います。
 僕が買い込んで、それとなく家においてあったからです。

 僕は、ここで、前からほしかった龍馬さんの手紙の口語訳を手に入れました。

 実は、僕は、まだ龍馬さんの「偉さ」を理解していません。
 それは、明治維新をどう評価するにもかかわる問題なのですが…。

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四国、よいとこ 675 高知市 わが娘を見て「奥さんですか」…。

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 二〇〇六年七月二十七日。

 さて、桂浜にやってきました。
 ひさしぶりに晴れた空のもとの海を見て満足。

 途中で知り合いのM県議に声をかけられました。
 彼も娘さんたちときているようでした。

 一緒にいた、わが娘を見て「奥さんですか」。
 娘はがっくり。
 「失礼なー。もう、お父さんと一緒に歩かない!」

 実は、彼女が結婚前に二人でいった長野県の宿でも同じことをいわれ、彼女の長女と一緒にいった公園でも同じことをいわれ…何回も同じ目にあっているのです。
 身長は僕より一センチ高い百七十一センチ、スリムまではいいのですが、化粧せず、髪もぼさぼさの「生活で疲れた感じ」が、僕の奥さん的な印象につながるのだと思います。

 ま、彼女は彼女なりの生き方があるのですから……。

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四国、よいとこ 676 高知市 美しい白百合。

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 二〇〇六年七月二十七日。

 桂浜から高知市五台山の高知県立牧野植物園へやってきました。

 一番気に入ったのは、この花。
 タキユリというようですが、本当のところは、まだ、わかりません。

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2006.07.30

四国、よいとこ 677 愛媛県今治市 いろんな人との出会い。

 二〇〇六年七月二十九日。

 二十八日夕から愛媛県今治市にいます。
 亡くなった大学の後輩が住んでいた町です。
 この市のホテルに泊まりこんで仕事をしています。

 この日、東京で仕事をしていたときに会いたかったSさんという男性の研究者と巡り会いました。
 ホームページ上で知っていただけのKさんという研究者の顔も見ることができました。

 二十九日昼、僕の知りたかった分野を研究している男性と出会いました。
 七十代かなと思っていたら二十代なのでびっくりしました。

 夜、ホテルの部屋で広島からきた二人の男性と話しました。
 共通の知人たちの話もたくさん出ました。
 一人は、福山の人。紳士です。
 もう一人は、呉の人で僕の同僚を高校で教えた人です。

 いろんな素晴らしい人と出会えて、うれしい。

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四国、よいとこ 678 高知市 ファミリーの会食。

 二〇〇六年七月三十日。

 列車で愛媛県今治市から高知市へ帰っていたら妻から電話がありました。
 「夕方、高知市の○○でファミリーが会食するわよ」
 いってみると、妻の父、妻の母、妻、娘、娘の長女、娘の二女、僕の弟がいました。
 たっぷりおいしいものを食べました。
 二人の孫は、ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんが大好き。
 二人に、もちゃもちゃしていてました。
 いいシーンを見ました。

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2006.07.31

四国、よいとこ 679 高知市 六歳の孫娘、エミの熱いキッス。うるうる……。

 二〇〇六年七月三十一日。

 きのうは妻、弟、娘の長女のエミ(六歳)が高知市の、わが家に泊まりました。

 朝起きると、弟は、自分がつくったトウモロコシをゆでたのを山盛りにして待ってくれていました。
 妻は、僕の「衣装」を用意していてくれました。
 しかし、僕は、その日の高知新聞を見て、「あれをやらなくては」とあわて始めました。
 急いで「出撃」の用意。

 このあと、妻や娘、娘の娘たちは、結集し、鉄道で東京に帰るとのことです。

 家を出がけにエミが、僕に飛びついてきて、ほほに熱いキッス。
 「会いたくなったら電話してね。いってらっしゃい」
 涙が出そうになりました。
 が、午前八時過ぎ、「いざ、さらば」。
 がむしゃらに自転車をこぎました。

 僕もエミが大好き。
 「お父さんや、お母さんが、『エミはよくない』といっても、僕は絶対にエミの味方だからね。エミは、いい子だよ」
 いつも、彼女に、こういっています。

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四国、よいとこ 680 高知市 「締め切り」のある暮らし、三十九年。なかなか、いいもんですよ。

 二〇〇六年七月三十一日。

 締め切りに 助けてもらい 仕事する
 ゴールに向かって
 きょうも スタート

 「締め切り」のある暮らしを二十歳からやってきました。
 いま、五十九歳です。

 本日も、朝から「自主目標午後二時」の仕事をめざして走りました。
 たぶん「血相を変えて」という感じで、何人かの人に「この人って、余裕ないわね」という印象を与えたと思います。
 はっきりいって余裕はありませんでした。

 しかし、自分の都合で世の中は動きません。
 これは真理です。

 途中で、別件で、「あれは、正午が締め切りだよ」というケータイがきました。
 「うわーっ、そうだったのか、でも…、ごめんなさい。率直にいって無理です」

 「午後二時」の件で、ある人と約束していましたが、二時間遅れでやってきました。
 短時間、お話を聞かせてもらいました。

 それが終わって、一度、事務所に帰りました。
 松山市の知り合いの青年が「表敬訪問」にきていましたが、ほとんど対話もしないで、わっせ、わっせと「追い込み」。
 そのうち、これまでの件とは違う話で電話、「あれのメールを送ってほしい」。
 「すみません。いまは無理です。夜になります」

 そして、「午後二時」の件の追加で、また現場へ。
 かなりひんしゅくを買うような荒っぽい仕事をして、また、事務所へ。
 結局、「午後二時」目標が、「午後三時前」になってしまいました。

 それが終わると、「正午まで」の件に向かって一心不乱。
 やっと終わりました。

 虚脱状態です。
 事務所の人が炊いていてくれていた、ご飯を使って即席ラーメンとのごった煮をつくりました。
 水を入れて、ご飯と即席ラーメンを入れて点火。
 事務所の人たちの「男の料理といえども、あまりにも非常識。即席ラーメンは、わいてから入れるものだ」という声に耳を貸さず、断行。
 できあがった「料理」と魚の缶詰で遅い昼食。
 「う、うまいいいい。幸せーー」

 その後、「メール」の件をすませました。

 そして、次なる「締め切り」。
 事務所の人に協力をいただき、わーっと格闘し、午後八時過ぎに終了。
 やったぜ!!!

 ま、僕のような、ひまさえあれば、オートバイでツーリングしたい、花園に寝転んで夢をみたい、何本も映画を見たい、枕元にうず高く積んである本をじっくり読みたいという人間には「締め切り」が必要です。

 「締め切り」があればこそ、突進できます。

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