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2006.07.08

四国、よいとこ 669 国民学校の音楽の時間 四十一時間目 「起(た)てば 百万海を越え…」。

 二〇〇六年七月七日。

 『初等科音楽 三』です。

 「桃山」という歌が載っています。

 一 麻(あさ)と乱れし戦国の
   武将をしづめ、したがへて、
   ともにことほぐ御代の春。
   聚楽(じゅらく)の第(てい)の花の宴(えん)。

 二 起(た)てば 百万海を越え、
   帰れば、文化花と咲く。
   ありし昔を今ここに、
   国威はあがる大アジヤ。

 「起(た)てば 百万海を越え」は、豊臣秀吉の朝鮮侵略のことではないでしょうか。


 「KBS WORLD Radio」から、このことを見ておきましょう。

 秀吉の朝鮮侵略, その1

 日本が朝鮮を侵略しました。豊臣秀吉による朝鮮侵略、文禄・慶長の役です。日本は1592年、朝鮮に大々的な攻撃を加えてきました。そしてこの侵略と、それに対する朝鮮と応援の明による反撃は1598年までの7年間、中間の3年間の休戦期間を除くと4年にわたって続いたのでした。この戦争で朝鮮は人口が激減し、国土は焦土と化しました。
 16世紀は世界的に大きな変動期を迎えていました。アジアの貿易権を掌握していたポルトガルの商人たちによって貿易が活発に展開し、中国と朝鮮、日本の間でも貿易が行われました。朝鮮も中国と日本の間の仲介貿易を通じて大きな利益を上げていました。そして日本は戦国時代の真っ盛りでした。当時、日本の有力な大名たちはポルトガル商人、スペイン商人たちと貿易をすることで、経済力を築き、国力も向上していました。そしてこれらの商人を通じて、火縄銃などの火薬や武器を輸入して実際に戦闘で使用していました。
 統一を達成した秀吉は1587年、朝鮮に使臣を送ります。そして朝鮮だけでなくインドやフィリピンにも使臣を送り天下はこの手の中にあるので、降伏しなければ征伐すると通告したのでした。全く日本を注視していなかったため、日本の状況はもちろん、豊臣秀吉がどんな人間かも把握できていなかった朝鮮としては、晴天のへきれきでした。朝鮮はいったん、何の対応もせずに事態の推移を見守っていましたが、秀吉はさらに朝鮮の国王が日本にあいさつに来るようにと求めましたが、これは日本を上の国とする礼をとるようにという意味でした。
 この問題をめぐって朝鮮朝廷は論争を繰り返します。結局、宣祖は日本に通信使を送ることにします。日本の事情を偵察してくる必要性を感じたのです。通信使として日本に送られたのは黄允吉と金誠一らでした。そして黄允吉は東人と西人に分かれていた朝鮮朝廷で東人に属し、金誠一は西人派でした。このような彼等の立場の差は日本に行ってきた後、宣祖にその結果を報告する席でも如実に現れました。一緒に行ってきたにもかかわらず、二人の見解は正反対でした。

 秀吉の朝鮮侵略 その2: 民衆の抵抗

 1592年4月13日、10万人以上の秀吉軍が数千隻の船を率いて韓半島東南部に上陸しました。釜山沖に姿を表した日本軍はあっという間に釜山を陥落させると、破竹の勢いで北上を続け、5月2日には首都漢陽、今のソウルに達します。
 そして戦争開始からわずか20日で、漢陽が陥落し、当時の王、宣祖は首都を捨て避難します。宣祖は光海君を跡継ぎである皇太子に指名して後を任せると、自分は百人あまりの臣下とともにソウルを抜け出し平壤に避難しました。予想よりも日本軍の北上する速度が速く、ソウルに残っていた兵力では日本軍を防ぐことはできず、地方から援軍を呼ぶこともできず避難することにしたのです。
 宣祖が臣下とともにソウルを抜け出した後、王宮は炎に包まれます。取り残された民衆が怒って王宮に火を放ったのです。王は最初は都の四大門を内側から閉めて、民衆が外に逃げないようにして都で敵を迎え撃つと言っていました。それが急に官員たちが避難してしまったのです。
 漢陽を陥落させた日本軍は6月には朝鮮第2の都市、平壤まで占領してしまいます。そのため宣祖の一行はさらに北の国境地帯、義州にまで避難することになります。結局、宣祖は明に援軍を要請することにします。
 明は日本軍が朝鮮の北西部にまで北上していることを知ると、7月末に第1陣として、朝鮮に近い国境地域の守備隊を派遣します。しかし彼らは日本軍との戦闘経験が全くなかったため惨敗してしまいます。続いて、倭軍との戦闘経験のある新しい援軍が年末近くに投入され、翌年の正月に平壤城での戦闘で勝利を得て平壤を奪還し、ようやく情勢を逆転させるのに成功します。
 朝鮮はそれこそ、風前の灯火のように危険な状況でした。そんな国を守るために立ち上がったのは自発的に軍事集団を結成した軍人でない軍人、義兵と言われる集団でした。義兵は両班から賎民に至るまで多様な階層で構成されていましたが、そのリーダーとなる義兵長は両班の学者と官僚出身者らが大部分でした。義兵の総数はおよそ2万3千人程度と推算されますが、この数字は官軍の1/4にあたる数字です。有名な義兵長の郭再祐は赤い外套を羽織って馬に乗り、いくつもの集団が連合した義兵を率いました。彼は地形の利点を生かした遊撃戦術を繰り広げ、数的にはるかに勝る日本軍に勝利しました。
 有名な晋州城の戦いは2回にわたって行われました。1回目の戦闘は壬申倭乱の3大戦闘の1つと言われるものです。1592年10月、3800人の朝鮮軍が2万人の日本軍と6日間にわたる激戦を繰り広げ、見事日本軍を撃退します。1回目の戦闘で負け、威信に傷をつけられた豊臣秀吉は翌年の6月に小西行長に復讐戦を命じます。この2回目の戦いでも朝鮮軍は必死に戦いましたが敵軍に比べてその数が足りず、さらに梅雨のせいで城郭さえも崩壊してしまい、ついに城は陥落してしまいます。
 晋州城を占領した日本軍は祝賀の宴を開きます。その席に多くの朝鮮の女たちが連れて来られますが、その中に論介(ノンゲ)という女性がいました。着飾った論介は酒によった日本軍の武将を誘い出し、岩の上におびき寄せます。そして城の下を流れる川に向かって日本の武将を道連れに飛び降り自殺しました。彼女の勇敢な行為を讃え、今でも晋州では毎年9月9日には論介を記念する論介祭りが開かれています。
 またソウル西方の幸州(ヘンジュ)山城では、城を守っていた義兵たちが矢も銃弾もすべて尽き果ててしまうと、女性たちが城に近寄ろうとする日本軍に灰を投げつけ、その視野をふさぎました。また休みなくヘンジュチマ、前掛けに石を包んで運び、その石を武器として山城の上から投げつけました。 幸州山城の戦いでは三万の秀吉軍に一万で立ち向かい、見事に打ち勝ちました。また僧侶たちで構成された僧兵も、西山大師のような高僧を僧兵長にして活躍しました。

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