« 2007年4月 | トップページ | 2007年6月 »

2007年5月

2007.05.01

四国、よいとこ 2165 高知市 五百円で香り米(まえ)の日替わりランチ。

 二〇〇七年五月一日。

 昼食は高知市上町の喫茶店で。
 日替わりランチを頼むと、出てきたご飯がとてもいい香りを放っています。
 最高!
 炊き上がりもパサパサ系で僕の好みです。
 帰りに、お代五百円なりを払いながらレジの女性に「ご飯がおいしかった。どんな工夫を?」と聞くと「香り米(まえ)を少し入れているからでしょうか」。
 そうか、香り米というのがあるのか。
 六十歳にして初めて知りました。
 「ばーか」といわれそうですが…。

 
 香り米

 ジャコウ米などともよばれます。
 ご飯の炊き方は、好みにより普通の米に「3~5%」一升あたり三勺~五勺の割合で香り米を混入して炊きます。
 炊き上がったご飯は「照り」「粘り」「香り」の三拍子そろった新米のような香りが冷やご飯になっても楽しめるそうです。
 古くから高貴米として仏事や接客に使われていました。
 古代インドの富裕階級、中国清朝王室、朝鮮李朝宮廷のために、日本では藩主などのために特別栽培していたといいます。


 ところで、この日午前、僕にとっては大事件が発生したのですが、いまだに原因が不明。解明されてから、ご報告します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2166 高知市 「うわーっ、細かい活字がよく読めない」。困った果てに…。

 二〇〇七年五月一日。

 細かい活字が、よく読めない。
 一か月くらい前から困惑していました。
 本日夕、ついに高知市内の眼鏡店にいき「読書用の眼鏡をつくってください」。
 半時間くらいでできました。
 何か世の中が変わったようによく見えます。
 うれしい。

 ところで、この原稿、高知市大津の自宅の二階で、窓を開け放って書いています。
 部屋がゲコ、ゲコというカエルの声の真ん中にある感じです。
 こんな田園地帯に住んだことがありません。
 つくづく、いい所に越してきたなぁと感嘆しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2167 高知市 「おーい、お元気ですかー!」。青空を見上げて呼びかけたくなったこと。

 二〇〇七年五月一日。

 感性が似ている人っているんですね。
 「『もけっと』ポケット」さんのブログを読んでいて、よく、そう感じます。
 二十歳ほど僕より下ですが、彼女の感性に僕と共通のものを感じることがあって、すっごくうれしい。

 
 彼女、四月二十七日 (金曜日)には、こう書いていました。


 午後からは三ヶ月の娘とお散歩にでかけました。 
 あぁ、今日の青空。
 空の青がやさしく身体に染み込んでいきます。
 あたたかな風は緑。胸いっぱいに吸い込みます。
 すっかり風も初夏の香りです。
 時間のゆるやかな流れを感じるのはほんとうに久しぶりです。
 こんなときはなぜか忙しかった日々を懐かしんでしまいます。 
 「大変なりに」楽しく満ち足りた日々があってそんな時間を分かち合った仲間がいて、今のわたしがいる・・。
 「今ごろ、どうしてるかなぁ・・?」
 などと大切な方の顔をひとつひとつ思い浮かべていました。
 それぞれが同じ空の下で、同じ時を懸命に生きている。
 そう思ったらなんだかうれしくて青空を見上げて呼びかけたくなりました。
 「おーい、お元気ですかー!」
 なぜか不思議な今日の青空でした。


 僕にはうまく表現できなかったけど、これって僕が書きたかった気持ちと同じ。
 こうした人たちと同じ時代に、同じ地球で生きているって、なんだかすごくうれしいことだと思いませんか。


 岩国市の人、広島市の人、東京都の人、カナダの人、アメリカの人、韓国の人……「おーい、お元気ですかー!」。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2168 高知市 「驫」という漢字の読みと意味は…。

 二〇〇七年五月一日。

 午後十時過ぎ、東京都の妻と電話で会話(妻は「こんな夜中に電話してくるなんて 」と迷惑げ。彼女、こんな時間にしか家にいないのにね)。

 市立中学校国語教師の妻のもとに生徒たちが、いろいろと「漢字テスト」をしかけてくるとのことです。
 その問題の一つに「驫」があったとか。


 音は、ヒュウ、シュウ、キュウ、ヒュ、ヒュウ、ジュウ、ク。
 訓は、とどろき。
 意味は、「たくさんの馬」、「たくさんの馬の走るようす」だといいます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.05.04

四国、よいとこ 2169 高知市 僕の引越し人生。

 二〇〇七年五月三日。

 夜、東京都の妻が高知市にやってきました。五日までいます。
 市内の九反田から大津への引越しを二人でやりあげる計画です。

 今回で荷物はぜんぶ移動できる予定です。
 それから何日もかけて大津での整理が続きそうですが…。
 引越しって大変な作業ですね。
 
 大阪市から高知県伊野町天神町の借家へ。
 同町内野の借家へ。
 高知市朝倉のアパートへ。
 伊野町内野の元の所へ。
 高知市の二畳一間のアパートへ。家賃は二千円。家具は机だけ。机の下に足をつっこんで寝ていました。
 東京都渋谷区の寮へ。
 東京都練馬区のアパートへ。
 同アパートの少し広い部屋へ。結婚して一部屋に二人で住みました。
 東京都文京区の教員住宅へ。二部屋。
 大阪市のアパートへ。
 教員住宅へ。
 大阪市のアパートへ。
 教員住宅へ。
 北海道札幌市のアパートへ。二重窓でストーブがありました。
 教員住宅へ。一時は、妻、娘、息子、母、弟の計六人で住みました。
 東京都府中市の自宅へ。
 広島市の借家へ。
 自宅へ。
 大阪市のアパートへ。
 自宅へ。
 長野市のアパートへ。初めての冷暖房機のある部屋ある部屋でした。
 自宅へ。
 高知市九反田の借家へ。
 同市大津の自宅へ。

 こんなふうに引っ越してきました。
 もう引越しはやめる予定です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2170 高知市 憲法七十歳 日本共産党中央委員会の意見広告。

 二〇〇七年五月三日。

 本日付の朝日新聞十四面に日本共産党中央委員会の意見広告が載っていました。一面全部を使ったものです。
 「私たちは憲法改定に反対です。……」

 憲法七十歳を祝うにふさわしい新鮮でパンチのある内容でした。
 パチパチ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.05.06

四国、よいとこ 2171 高知市 高校時代の同級生の言葉、 「高校時代に、一番きらいだったのは『お前』だった」。

 二〇〇七年五月五日。

 仕事が終わってから高知県で高校時代の同級生二人に会いました。

 Mさんは、高校時代サッカー部でした。
 当時の彼の自宅は県下南国市。
 高校時代は、南国市から高知市中心部の、われらが高校まで自転車で通っていたそうです。
 埼玉県在住。東京の大手の会社に勤めていました。コンピューターのシステムエンジニアでしたが五十二歳で退職。昨年、六十歳になって、やっと年金の支給が始まりました。
 今年になってから「あなたたちがつくった社内のコンピュータシステムの仕組みが会社の誰もがわからなくなっている。教えてほしい」ということで同社にいっているとのことです。
 彼の南国市の実家に招かれ、「ホーホケキョ」の声を楽しみました。

 Mさんと高知市のYさん宅へ。

 Yさんも、高校時代、サッカー部でした。
 県下の公立中学校で体育、英語、職業家庭などを教えました。勤務校などのスポーツクラブの指導でも活躍。今年から年金も支給されるようになりました。
 いまは畑を借りて無農薬で野菜をつくっています。大きな車やボートも持っていて海に出かけては魚をつっています。
 今夜は、農業、つり、地域のことなど、いろんなことを教えてもらいました。
 八百屋、魚屋の息子で小学校のころから「働き手」だったとのこと。今夜、見た魚のさばきかたは見事でした。

 Yさんは、彼が好きだった同学年のKさんと学校のフォークダンスの真ん中で踊った時の感激も語ってくれました。
 高校時代の友人、Mさん、Sさん、僕たちの夢をときどきみるようになったという話が印象的でした。
 「高校時代に、一番きらいだったのは『お前』だった」
 そうだったと思います。
 やせっぽちで、勉強ばかりしているような感じの、自分のことしか考えない、いやなやつでした(一方では、一人の同級生の女の子を三年間、追っかけまわす純な少年でした。家庭教師やコカコーラの配達のアルバイトにも熱心でした)。
 彼が好きだった同学年のKさんと学校のフォークダンスの真ん中で踊った時の感激も語ってくれました。

 三人で話していて同級生のうわさも出ました。
 医師をやっているKさんのこと。
 病気で一年ダブったMOさんのこと。
 などなど。
 
 こんなにも 穏やかだったか この友は
 高校一年
 サッカー少年

 ごんごんと 前に出ていた 少年は
 六十歳でも
 前へ、前へと

 十五歳 僕の弱点 指摘され
 冷や汗かいてる
 六十同士

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2172 高知市  「あなた。いつ仕事をやめてもいいわよ。経済的に困るなら、月十万円仕送りしようか」。東京都の妻の「名言」。

 二〇〇七年五月五日。

 高知市にきていた妻は、夕方、東京都に帰ったようです。

 その妻が、昨日、僕に、こんなことをいいました。
 「あなた。いつ仕事をやめてもいいわよ。経済的に困るなら、月十万円仕送りしようか」
 冗談でも、いやみでもありません。
 妻は、率直に僕をいたわって、そういっているのです。
 何か、ポカーンとしてしまいました。
 「何で僕ごときに、そんなに尽くさなければならないの。あんたとは、あんたが十八の時からの付き合いだけど、ずーーーっと迷惑のかけっぱなしなのに……」
 彼女は、世界遺産的な妻です。

 実は、今回、僕が引っ越してきた高知市大津の家も、妻の才覚で手に入れたものです。
 僕は経済的には……。

 天使のような妻も、来年三月には定年。
 高知市にやってきて、僕と一緒に暮らす予定です。
 また、「いろいろ指図されながらの暮らし」の再開でしようか……。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2173 高知市 韓国映画「ぼくらの落第先生」は見る価値あり。

 二〇〇七年五月六日。

 夜、DVDで韓国映画「ぼくらの落第先生」を見ました。
 子どもたちの演技がすばらしい。
 見る価値あり。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.05.07

四国、よいとこ 2174 高知市 「似非」って何て読むの??

 二〇〇七年五月七日。

 夜、テレビを見ていたら「似非」という漢字がでてきました。
 残念ながら僕は読めませんでした。

 あなたは、いかがですか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2175 高知市 NHK教育テレビの歌劇「シンデレラ」の何か変。

 二〇〇七年五月七日。

 前回の「似非」は「えせ」でした。


 ところで、いまNHK教育テレビの歌劇「シンデレラ」を見ています。
 午後八時から十時四十三分までという長時間のものです。

 いやーっっ、せりふの繰り返しの多いのには閉口しました。
 整理すれば一時間半くらいにおさまる作品ではないでしょうか。
 ロッシーニさんの作曲だといいます。
 作曲ということは、せりふは別の人がつくったのでしょうか。

 もう一つ、今回のはヒロインがあまりにも……。
 劇中のシンデレラは、若くて純真で顔が美しいということが強調されています。
 しかし、ヒロイン役・ルクサンドラ・ドノーセさんは、一部の西洋の白人たちの基準では美しいと評価される人だとは思いますが、かなりのベテランの人ではないでしょうか。画面からは、僕には、そう読み取れます。

 テレビカメラのアップ、ハイビジョンは、ヒロインたちの表情をあますところなく表現し、実年齢より若いヒロイン役をつとめようとするベテランたちを駆逐しつつあるのではないでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.05.09

四国、よいとこ 2176 高知市 空中浮揚ができる六十歳。

 二〇〇七年五月八日。

 今晩も高校の同学年生のMAさん宅にいきました。
 同じく同学年のMOさんも一緒です。

 板の間に座っていたMAさんが、何かの拍子に足をのばして、ぴょんと体を浮かせました。
 へーっと思っているとMAさんもぴょん。

 僕もやってみましたが……。
 同じ六十歳なのに、なぜ……。

 背筋、腹筋、両足の筋肉、そして、こつが必要だということです。
 僕もできるようになりたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2177 高知市大津 朝焼けを見ました。

 二〇〇七年五月九日。

20070509_1_008

 わが家から見た朝焼けです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2178 高知市 『歌集 いま風になって』、更新しました。

 二〇〇七年五月八日。

 『歌集 いま風になって』、更新しました。

 ここです。

  http://fujihara.cocolog-nifty.com/kaze/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.05.11

四国、よいとこ 2179 高知市 韓国映画「オーバー・ザ・レインボー」。

 二〇〇七年五月九日。

 夜、DVDで韓国映画「オーバー・ザ・レインボー」を見ました。
 最後のシーン、涙が出ました。
 おすすめ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2180 高知市 韓国映画「菊花の香り」を見ました。

 二〇〇七年五月十日。

 昼間、DVDで韓国映画「菊花の香り」を見ました。

 前半はひじょうにいいのですが、後半、また、この手の愛情物語の悪い癖が出ました。
 作者は、妻を「殺して」しまうのです。
 ヒーロー、ヒロインが死ぬ韓国映画の多いこと、多いこと。
 殺して感動を与えようなんて。
 この十年余の韓国映画の弱点になっていると思っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2181 高知市大津 実は、いま連休中。引越し作業、続行中です。

200705011_2_008


 二〇〇七年五月十日。

 実は、九日から十二日まで連休です。

 ● 食事の改善をしています。コメ、魚のアラ、ハクサイ、ナス、ダイコンを買い込んできて、きちんとご飯をたき、おかずをつくって食べること。体調を整えるために、とにかく、野菜をおいしく食べることに徹しています。

 ● 家の回りを植物で飾ること。この間、プランターを三つ買ってきて、スイカ、トマトなどを植えました。休みになってからは廃タイヤ二つを重ねて土を入れたプランターをつくり、それに庭にあった木を植えました。この木におとといから紫の花が咲いてきています(写真)。木の名前は不明。十一日にもプランター六つとどく予定です。

 ● 引っ越して持ってきたダンボールの解体、整理。そして、隣の弟の家に運んである本を持ってきて整理すること。本箱が足りなくて、昨日も中古屋にいって一つ、金属製のものを買ってきました。本の整理は、まだ四分の一程度しか終わっていません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2182 高知市大津 わが家の庭の竜巻。

 二〇〇七年五月十一日。

 昨日は、強風が吹きました。
 オートバイに乗っていても吹かれてよろっとなるほどでした。
 
 わが家の東にはかなり広い田んぼが広がっています。
 その東側から、わが家に強風が吹き込み、庭で竜巻が舞っています。
 何か、いまにも家が吹っ飛びそうな勢いです。

 本の整理に疲れて、午後から一眠り。
 作業再開はは夕方からに。
 ということでしたが、起きてみたら翌日の午前五時半前。
 携帯電話を見たら、何件も電話が入っていました。
 ごめんなさい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2183 高知市大津 「二十歳からの詩たち」をアップしました。

 二〇〇七年五月十一日。

 二〇〇七年五月十日。六十歳と二カ月。
 引っ越してきた荷物を整理していたら、二十歳のころからおりおりに書いてきた詩の原稿が出てきました。
 見つけ次第、順次、掲載したいと思っています。
 当面は、次の作品を。
 お読みいただければ幸いです。


   二百三十五万円

 ひょいと、
 電柱をのぞきこんだら、
 薄闇の中のつり看板に、
 そう書いてあった。

 六畳。
 四畳半。
 四畳半。
 三部屋…。
 トイレ。
 風呂。
 それに土地つき。
 しめて二百三十五万円。

 一年半したら…
 結婚。
 しばらくして。
 子どもが…。
 二人くらいはほしい。
 娘と息子。

 六畳には、
 本を壁いっぱいに並べる。
 一部屋は、
 子ども部屋。
 それから……。

 まてまて。
 ちょっとまて。
 月々の賃金と生活費が、
 ぽちぽち。
 もし。
 いまの部屋代五千円をためこむとすると…
 五千円かける十二で、
 一年で六万円。
 五千円かける十二かける十で、
 六十万円。
 二十年で、
 百二十万円。
 四十年で、
 二百四十万円。
 すると、
 二百三十五万円は…。

 いずれにせよ。
 白髪が生えるころ。
 いずれにせよ。
 おれたちには縁のない話。
 いずれにせよ。
 おれたちは、貧困の根を絶つ!
 そのころまでには…。
 (一九六九年一月十五日)

 注・「貧困の根」は、いまだに絶てていませんが……。
 

サイトは、次の所です。
 http://fujihara.cocolog-nifty.com/hatati/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2184 高知市 旧介良村の戦死者、九十七人。

200705011_1_067_4


 二〇〇七年五月十一日。

 休み。

 午前中、高知市介良(けら)で「忠霊塔」を見にいきました。
 旧介良村の戦死者の名簿が刻まれていました。
 日露戦争は八人。
 日中戦争は六人。
 太平洋戦争は八十三人。
 計九十七人です。
 すごい数の人たちが犠牲になっています。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2185 高知市 六十歳の僕へ ハイビジョンビデオカメラのプレゼント。

 二〇〇七年五月十一日。

 休みといっても忙しい。

 ● 仕事。休みだけど……。
 ● 本の整理。
 ● 買い物。
 ● 到着した六つのプランターに植え込み。
 ● 電話の応対。
 ● ハイビジョンビデオカメラの入手。
 ● ビデオカメラの操作の研究。
 ● 馬頭琴コンサートの鑑賞。
 ● 妻への電話。
 ● ブログのアップ。
 など。

 ビデオカメラは、六十歳の僕への、僕からのプレゼントです。
 午後六時に、わが家に高校時代の友人がくることになっていたけれども、キャンセルに……。
 用意していたビールを夜、独りで飲んでいます。
 シクシク…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2186 高知市大津  「『疲れてる。やめとこ、きょうは』と いい聞かせ…」。

 二〇〇七年五月十一日。

 「疲れてる。やめとこ、きょうは」
 いい聞かせ
 「電源を切る」 クリックしてる

 午後十一時半を過ぎました。
 本日は、さようなら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.05.12

四国、よいとこ 2187 高知市 本土決戦準備で一九四五年春から夏の高知県で何がおこっていたか。いま知りたいテーマです。

20070507_2_029


 二〇〇七年五月十二日。
 
 本土決戦準備で一九四五年春から夏の高知県で何がおこっていたか。
 いま知りたいテーマです。

 ● 高知市浦戸の沿岸地帯の海軍の爆弾ボート、人間魚雷、魚雷艇の基地ができていました。みませには、爆弾ボートの壕が残っています。

 ● 高知市仁井田には浦戸海軍航空隊ができていました。
 地域に「浦戸海軍航空隊跡の碑」があります(写真)。
 碑文。
 「当地は旧浦戸海軍航空隊の隊門跡である 予科練とは飛行予科練習生の略称で旧海軍航空機搭乗員である この採用制度は昭和五年に制定され 全国より選ばれた少年達はよく鉄石の訓練に耐え無敵の空威を発揮したが 連合軍沖縄に迫るや全員特別攻撃隊となり 祖国の繁栄と同胞の安泰のにみを願いつつ肉弾となり敵艦に突入し その八割が若桜で散華したのである 浦戸航空隊は昭和十九年十一月一日開隊されたが 昭和二十年五月に入り愈々本土決戦必至の戦況のもと 練習生は敵を水際に撃砕すべく日夜陸戦特攻訓練に終始し 身を以って国難に殉ぜんと決するも予期せぬ終戦となり 当隊司令堀内豊秋大佐指揮のもと整然と復員し 戦後四十年の今日を迎えたのである……」

 ● 高知市介良(けら)、当時は介良村にも鉢伏山にも陸軍部隊が陣取っていたといいます(「しんぶん赤旗」五月十二日付の中国・四国のページに詳報)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.05.14

四国、よいとこ 2188 高知市 「天皇のくびきから解放された朝鮮が、なぜ二つに分断されたのか」など、きちんと勉強したいこと。

 二〇〇七年五月十三日。

 何人かと、ある小説のことを話していて、次のことを正確に知らなくてはいけなと思いました。

 ● 天皇は朝鮮をどう支配し圧迫したか。
 ● 天皇のくびきから解放された朝鮮が、なぜ二つに分断されたのか。
 ● 北の侵攻に始まる朝鮮戦争の経過と結末。
 ● その後の北と南のなりゆき。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2189 高知市 高知市朝倉のアジロ山の北斜面の帝国陸軍の壕(ごう)。

 二〇〇七年五月十四日。

 午後、ある人に案内してもらって高知市朝倉のアジロ山の北斜面の壕(ごう)を見ました。

 登っていくと山側に掘った大きな四角形のスペースがありました。
 天は空いています。
 同じようなものが三つありました。

 一九四五年五月ころから朝倉地域に住む各中学校の一年生、二年生、三年生がつくらされたものだといいます。
 山中に日本帝国陸軍のトラックを隠すためのものだったとのことです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2190 高知市 野球がテーマの韓国映画。天皇の朝鮮支配にたいする朝鮮民族の憤りと抵抗を描いて…。

 二〇〇七年五月十四日。

 夜、家に帰ってからDVDで野球がテーマの韓国映画「爆裂野球団!」(二〇〇二年)を見ました。
 一九〇五年のソウルが舞台です。
 野球がテーマですが、その背景には天皇の朝鮮支配にたいする朝鮮民族の憤りと抵抗が描かれていました。
 うーん、すごい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.05.16

四国、よいとこ 2191 高知市 タクシー運転手の嘆き。

 二〇〇七年五月十五日。

 やっと午前七時発の高知駅発上りに間に合いました。
 広島市出張です。

 視察で山口県にいく知り合いの高知市議四人と同じ車両でした。

 高知駅に帰り着いたのが午後八時半。
 タクシーに乗りました。
 運転手は僕より少し年上の男性。
 「朝八時から乗っているけど、これで八人目」
 伝票のバインダーの伝票を見せながら話し始めます。
 基本給がなくて、ぜんぶ歩合ですから大変です。
 「街に人がいない。これほど冷えてしまっては……。観光客がきても、レンタカーで動くか、マイユーバスで五台山や桂浜にいく。若い人は駅の観光案内所にいって無料の自転車を借りて動く」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2192 高知市 僕たちの「シネマパラダイス」を撮りたい。

 二〇〇七年五月十五日。

 夜、家でDVDで韓国映画「エキストラ」を見ました。
 なんか「シネマパラダイス」のような映画でした。
 映画好きには涙が出そうな作品です。

 実は、十四日、十五日と家でビデオカメラに向かって語りかけています。
 「きのうより、きょう」と、いう感じで「しゃべり」がうまくなっています。

 いつか僕も映画を撮りたいと思ってます。
 やっぱり、やりたいのは監督。
 やっぱ青春映画ですね。

 ● まずは、撮ることができる技術を学びたい。
 ● シナリオを書きたい。募集したっていい。
 ● シナリオができたら献身的な俳優を募集したい。
 ● カメラマン、照明マン、音声マン、編集マンをそろえてたい。
 ● スタッフは、すべて無給。
 みんなの心を奮い立たせるいい映画をつくりたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2193 高知市大津 うちの庭の畑の野菜や果物の花たち。

200705016_1_001


200705016_1_008


200705016_1_009


 二〇〇七年五月十六日。

 隣の棟に住んでいる弟の朝は早い。
 きのうも午前五時半に庭に出てみたら、もう庭の畑で仕事をしていました。
 畑には、いろんな野菜、果物の花が咲いています。

 ● スイカ。黄色。
 ● トマト。黄色。
 ● ナス。紫色。
 ● イチゴ。白色。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2194 二十四歳男性、「ネットカフェ難民」。 

 二〇〇七年五月十六日。

 四国新聞五月十四日付に「ネットカフェ難民」の事例が載っていました。
 東京・蒲田(かまた)の、あるネットカフェの一室に住む二十四歳の男性の例です。
 ここの個室料金は一時間百円。
 一畳たらずの畳敷きの個室。小さなテーブルにパソコンとテレビが並びます。
 夜になると、テーブルの下に足を伸ばし、上着をかけて横になります。
 ……

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2195 高知市大津 おお、恵みの雨です。

 二〇〇七年五月十六日。

 夕方から雨。

 庭から鉢に移したばかりのが三つ。
 それに鉢の中でしおれかけているのが一つ。
 絶好の雨です。

 一階の窓を開けて雨の降るのを見ていると、いい気分に。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2196 「六〇年安保闘争は、結果として民主主義と憲法を守った」。

 二〇〇七年五月十六日。

 愛媛新聞、五月四日付に小熊英二(おぐま・えいじ)さん=慶応大学教授=の論説が載っていました。
 彼は、その中で、こんなことを書いていました。

 「…岸信介首相は、安保条約改定の後に改憲するつもりだった。彼の改悪案は、戦前憲法の復活のようなものだった。だが六〇年安保闘争の結果、岸内閣は退陣し改憲も挫折(ざせつ)した。もしあのとき改憲が実現したら、以前の韓国のような反共独裁政権が生まれていたかもしれない。
 その意味で六〇年安保闘争は、結果として民主主義と憲法を守った。……」

 そうか。あのたたかいは、そうだったのか。

 どんな改憲案だったのでしょうか。
 調べてみたいと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.05.18

四国、よいとこ 2197 高知市 君を正面から撮りたい!!

200705017_1_050


 二〇〇七年五月十七日。

 朝、高知市の城西公園によりました。
 こんな鳥に出合いました。

 「真正面から写真を撮りたい」と、じりじりとまわりこみ、対象に迫りましたが、彼(彼女は)は、じわじわと体勢を変えて正面からは撮らせません。
 なんと用心深い……。
 ついには、「あばよ」とばかりパーッと飛んでいきました。

 真正面から撮ること。
 飛んでいるさまを正面から撮ること。
 これが僕のいまの課題です。

 鳥たちとわかりあえないと難しそうです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2198 高知市 アジサイの鉢にほれこんでしまいました。

200705017_1_075


 二〇〇七年五月十七日。

 仕事の帰りに、やっぱり花屋にいきました。
 花がほしい。
 思いは「わが家の玄関の周辺を花いっぱいで飾りたい。訪れる人たちが、いい気分に浸れるように」。
 イメージは「わんさかのヒマワリの花が迎えてくれる家」です。

 しかし、花屋にあった目の前のアジサイにほれこんでしまいました。
 買い込んで、かっさらうようにオートバイで帰ってきました。
 この花です(写真)。

 この玄関の周辺は、風が吹くと、何もかも吹っ飛んでしまうので、がっちりガードしています、
 写真でも、その様子がわかりますか…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2199 高知市 離れて住んでいても「おに仲がいい夫婦」になりたいものですね。

 二〇〇七年五月十七日。

 東京都の妻から「すてられた」という感じ。
 ちっとも電話もこないので、いつものように、こちらから電話。
 そこで、中学校三年生担任の彼女から、いまどきの言葉を教えてもらいました。

 【にこいち】 二人で一人。親友。
 いやーっ、いい言葉。でも、夫婦がなかなか「にこいち」になれないのは、なぜ。といっても、僕たちの場合だけか……。

 【おに】 「超」の上が「激」、その上が「鬼」。
 これも使える。
 「おに仲がいい夫婦」になりたいものですね。

 あんたも、たまには「短歌の花だより」を見いや。
 実は、彼女は、このブログを見ていないのです。
 何という夫への無関心。
 たぶん、「まあ、彼は私の所有物だから」というウン十年来の過信のなせるわざだと思います。
 もしかして、このままほっとくと、四十数年「つかえてきた」夫も、あんまりやーと「鬼切れる」かも。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2200 高知市 岸恵子さんと横浜空襲、映画「君の名は」。

 二〇〇七年五月十八日。

 休み。
 朝、NHK総合テレビを見ていたら女優の岸恵子さんが出ていました。
 横浜市に住んでいた時、アメリカの空襲で恐ろしい目にあったこと、戦争反対の思いを語っていました。

 四十歳代に見えるのですが戦争の体験があるのですね。
 調べてみたら一九三二年八月十一日生まれでした。

 いろんなところで、横浜空襲のことをかたってきたようです。
 「忘れられない記憶があります。終戦まぎわの五月の横浜。空がB29の銀色で染まりました。
 『きれいだなと思ったのはつかの間。子どもは防空ごうだと言われ、入ったんですが、こんな暗い所で死ぬのはいやだと思いました。母がかぶせてくれたぬれた布団を脱ぎ捨て、松の木に登ったんです。私は生き残り、防空ごうの中の子は死んだ。その時、子どもをやめようと思いました』十二歳の体験でした」(「しんぶん赤旗」、二〇〇一年八月九日付の「休憩室」、板倉三枝記者)。

 僕らが子どものころの映画「君の名は」(一九五三年~五四年。一、二、三部、総集編)のヒロインで氏家真知子役でした。
 こんな物語でした(といっても僕は、おとなになってからビデオで見たのですが)
 太平洋戦争の時のアメリカ軍の東京大空襲の夜。
 アメリカ軍の焼夷弾(しょういだん)が降り注ぐ中、たまたま一緒になった見知らぬ男女、真知子と春樹は助け合って逃げ回るうちに、銀座・数寄屋橋までたどり着きます。
 二人は、ここで、ようやく互いの無事を確認します。 そして、名を名乗らないまま、互いに生きていたら半年後、それがだめならまた半年後にこの橋で会おうと約束し、そのまま別れます。
 やがて、二人は運命の渦に巻き込まれ、互いに数寄屋橋で相手を待つのですが再会がかないません。
 一年後に再開した時は、真知子は勝則との結婚の前夜でした。
 結婚したものの夫との生活に悩む真知子、そんな彼女を気にかける春樹……。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2201 高知市 九反田の借家(二階建て四部屋)の拭き掃除。

 二〇〇七年五月十八日。

 妻は、いやなこと、めんどくさいことは後回しにするタイプです。
 いつの間にか僕にも、それが感染していました。

 で、きょうになって、前に住んでいた高知市九反田の借家(二階建て四部屋)の拭き掃除をしました。
 いやーーっ、歳をとったものです。
 これだけでハーハーいいました。

 この借家、二年近くお世話になりました。
 感謝。
 あとは清算だけです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2202 高知市大津 食材の素材を生かしたシンプルな料理を。

 二〇〇七年五月十八日。

 食材の素材を生かしたシンプルな料理を。
 こう考えて、いろいろやってみています。

 一つ、成功したのはマグロの肉(パック入りの安いもの)を適当に切り、パン粉をつけて、サラダ油であげるというもの。
 これは、いけました。
 ダイコンも同じようにやってみましたが、これはアウト。

 今夜は、ビンにダイコンを入れて塩でつけ込みました。
 ふたはありますが重しはなし。
 さて、うまくいくでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2203 高知市 映画「ガラスのうさぎ 東京大空襲」(一九七九年)、感動。

 二〇〇七年五月十八日。

 DVDで映画「ガラスのうさぎ 東京大空襲」(一九七九年。橘祐典監督)を見ました。
 すごい作品でした。
 感動しました。
 「こんな映画をつくってみたい」と思わせる作品でした。

 ヒロイン・敏子役の蝦名由起子(当時・中学生)、好演。
 主題歌の「肩より低く頭をたれて」もいい。海援隊です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2204 高知市 映画「ガラスのうさぎ 東京大空襲」の歌「兎(うさぎ)のダンス」。

 二〇〇七年五月十八日。

 映画「ガラスのうさぎ 東京大空襲」(一九七九年。橘祐典監督)に女の子たちが「兎(うさぎ)のダンス」を歌っているシーンが出てきました。
 もう、あの当時に、あったんですね。

 調べてみたら野口雨情さんの作詞、中山晋平さんの作曲でした。

 ソソラ ソラ ソラ 兎のダンス
 タラッタ ラッタ ラッタ
 ラッタ ラッタ ラッタ ラ
 脚(あし)で 蹴(け)り蹴り
 ピョッコ ピョッコ 踊(おど)る
 耳に鉢巻(はちまき) ラッタ ラッタ
 ラッタ ラ

 ソソラ ソラ ソラ 可愛(かわい)いダンス
 タラッタ ラッタ ラッタ
 ラッタ ラッタ ラッタ ラ
 とんで 跳(は)ね跳ね
 ピョッコ ピョッコ 踊(おど)る
 脚に赤靴(あかぐつ) ラッタ ラッタ
 ラッタ ラ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.05.21

四国、よいとこ 2205 愛媛県伊方町 佐藤栄作首相書の「大東亜戦争九軍神慰霊碑」。

200705020_1_086


 二〇〇七年五月二十日。

 「愛媛県伊方町に特攻隊の慰霊碑がある」
 その話を聞いて計三人でいきました。
 伊方町の旧・瀬戸町の「須賀の森」にありました。
 あの「九軍神」の碑でした。
 「大東亜戦争九軍神慰霊碑 内閣総理大臣 佐藤栄作書」とあります。
 一九六六年八月建立です。

 碑文(原文のカタカナはひらがなにしました)。
 「噫殉国忠勇平和礎石の九軍神 昭和十六年十二月八日未明 大東亜戦争の先陣としてハワイ真珠湾攻撃に挺身 決死隊第一号面目躍如如輝く戦果を挙げ また能く我が空軍爆的の烽火となり海空呼応 壮絶無比一大緒戦を展開 自らは従容愛艇と運命を与にし壮烈湾深き所浪の華と散り行きし九軍神 三机湾は当時日本の真珠湾として諸勇士の特殊潜航艇が 一心同体生死諦観決死の猛訓練基地となり 海軍を泣かしめる門外不出の秘境であった。十七年三月 九軍神の勲功氏名の発表せらるるや沈黙果敢天晴れの最期に驚嘆し三机の人々は感泣した。当時若桜の九軍神 マダガスカル・シドニー等で散華した諸勇士が三机に遺した逸話美談は一斉に花と咲いた。歌書よりも軍書に悲し三机湾も 今や戦争の真珠湾から平和の真珠湾に衣更え 日米を真珠で結ぶ山紫水明の平和境となり観光客も次第にその数を増しつつある。九軍神は戦争の犠牲となり また平和の礎石ともなる 戦争放棄平和憲法治下国土平安の福祉国家として 新生日本は逞しく前進する。嗚呼芳しきかな護国の英霊 瀬戸町有志は広く 浄財を募って軍神由緒の地に慰霊碑を建立し その功績を敬仰する。九軍神の英霊永久に瞑せられよ。」

 この碑が、戦後、僕らの大学生のころにつくられたことに衝撃を受けました。
 「戦争放棄平和憲法」をうんぬんしていますので、あえてふれますが、この碑文の九人を「殉国忠勇」「軍神」「護国の英霊」とする立場はふさわしくありません。
 あえていうなら九人は大元帥・昭和天皇の侵略政策の犠牲者です。侵略政策への怒りをもって語られるべきことではないでしょうか。

 なお、佐藤栄作さん(一九〇一年三月二十七日~七七年五月十五日)は自民党の人で首相をつとめた岸信介さんの弟。六四年十一月九日から七二年七月七日まで首相でした 首相在任中は、日韓基本条約の批准、「建国記念の日」の制定、日米安全保障条約延長などをおこないました。
 七二年六月の退陣表明記者会見の冒頭の発言が印象に残っています。
 「テレビカメラはどこかね? テレビカメラ。どこにNHKがいるとか、どこに何々いるとか、これをやっぱりいってくれないと。今日はそうゆう話だった。新聞記者の諸君とは話さないことにしてるんだ。僕は国民に直接話したい。新聞になると文字になると(真意が)違うからね。残念ながら、偏向的な新聞は嫌いなんだ。大嫌いだ。直接国民に話したい。やり直そうよ。(記者は)帰ってください」


 以下、参考。

 【日本国憲法前文から】

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

 【日本国憲法第九条】

 第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
 1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2206 愛媛県伊方町 「大東亜戦争九軍神慰霊碑」の「九軍神」とは。

 二〇〇七年五月二十日。

 伊方町の旧・瀬戸町の「須賀の森」の「大東亜九軍神慰霊碑」について。
 「九軍神」のことをメモしておきます。

 ● 一九四一年十二月八日、昭和天皇は太平洋戦争の開戦を布告しました。
 「詔書
 天佑を保有し萬世一系の皇祚を踐たる大日本帝国天皇は昭に忠誠勇武なる汝有衆に示す。
 朕茲に米国及英国に対して戦を宣す。朕が陸海将兵は全力を奮て交戦に従事し、朕が百僚有司は励精職務を奉行し、朕が衆庶は各々其の本分を尽し、億兆一心国家の総力を挙げて征戦の目的を達成するに遺算なからむことを期せよ。
 抑々東亜の安定を確保し、以て世界の平和に寄与するは丕顕なる皇祖考丕承なる皇考の作述せる遠猷にして、朕が挙々措かざる所、而して列国との交誼を篤くし、万邦共栄の楽を偕にするは、之亦帝国が常に国交の要義と為す所なり。今や不幸にして米英両国と釁端を開くに至る、洵に巳むを得ざるものあり。豈朕が志ならむや。
 中華民国政府、曩に帝国の真意を解せず、濫に事を構へて東亜の平和を攪乱し、遂に帝国をして干戈を執るに至らしめ、茲に四年有余を経たり。幸に国民政府更新するあり、帝国は之と善隣の誼を結び相提携するに至れるも、重慶に残存する政権は、米英の庇蔭を恃みて兄弟尚未だ牆に相鬩くを悛めず。米英両国は、残存政権を支援して東亜の禍乱を助長し、平和の美名に匿れて東洋制覇の非望を逞うせむとす。剰へ与国を誘ひ、帝国の周辺に於て武備を増強して我に挑戦し、更に帝国の平和的通商に有らゆる妨害を与へ、遂に経済断交を敢てし、帝国の生存に重大なる脅威を加ふ。朕は政府をして事態を平和の裡に回復せしめんとし、隠忍久しきに彌りたるも、彼は毫も交譲の精神なく、徒に時局の解決を遷延せしめて、此の間却つて益々経済上軍事上の脅威を増大し、以て我を屈従せしめむとす。斯の如くにして推移せむか、東亜安定に関する帝国積年の努力は、悉く水泡に帰し、帝国の存立亦正に危殆に瀕せり。事既に此に至る。帝国は今や自存自衛の為、蹶然起つて一切の障礙を破砕するの外なきなり。
 皇祖皇宗の神霊上に在り。朕は汝有衆の忠誠勇武に信倚し、祖宗の遺業を恢弘し、速に禍根を芟除して東亜永遠の平和を確立し、以て帝国の光栄を保全せむことを期す。
 御 名 御 璽」

 ● すでに昭和天皇の侵略は始まっていました。
 アメリカの真珠湾への攻撃には、海軍の特殊潜航艇もくわわっていました。
 この特殊潜航艇は、甲標的甲型といわれるものです。
 艦首に直径四十五センチの九七式魚雷を二本搭載する乗員二人のものです。全長、二十四メートル。全幅、一・八五メートル。水中航続距離、百四十八キロメートル。航続距離は短く、操縦性も悪く、電池を使い切ってしまえば動けなくなものでした。一度出撃してしまえば帰還することが期待できない兵器でした。
 これを潜水艦から発射し、アメリカ艦隊を攻撃しようというのです。
 乗員は、愛媛県西宇和郡瀬戸町に面した三机湾で訓練にしたといいます。

 ● 真珠湾攻撃に特殊潜航艇五艇で出動した乗員は、士官五人、下士官五人でした。一艇に、士官、下士官が一人ずつ乗り組みました。
 伊号潜水艦から発射された特殊潜航艇は、一艇も攻撃に「成功」しませんでした。
 九人は戦死。一人は、アメリカ軍の捕虜になりました。
 このとき、母艦から発進しようとした酒巻和男少尉(徳島県阿波郡阿波町林の出身)、稲垣清二等兵曹の艇は、ジャイロコンパス(羅針儀)が故障しているのが分かっていました。しかし、酒巻少尉は出撃します。海底で悪戦苦闘し、結局、ベローズ基地の沖合いで艇を捨て海岸まで泳ぎ着こうとしました。稲垣二等兵曹は、このとき水死します。酒巻少尉は浜辺に泳ぎ着き、倒れているところをパトロール中のアメリカ兵に見つかりました。

 ● 翌四二年三月六日、この作戦のことや戦死した九人の氏名などが発表されました。いずれも二階級進級していました。
 岩佐直治中佐(群馬)
 古野繁実少佐(福岡)
 横山正治少佐(鹿児島)
 広尾章大尉(佐賀)
 佐々木直吉少尉(島根)
 横山薫範少尉(鳥取)
 稲垣清兵曹長(三重)
 上田定兵曹長(廣島)
 片山義雄兵曹長(岡山)
 (階級は二階級進級後のものです。佐々木少尉以下は生前は下士官です)
 航空攻撃によってアメリカ軍艦アリゾナが爆沈したのを、この九人の戦果として発表しました。
 アメリカ軍の捕虜になった酒巻和男少尉のことには何も触れられていませんでした。
 ラジオ、新聞、雑誌、映画、小説は九人の戦死者を「いくさがみ」と絶賛しました。
 たとえば、発表の翌日の朝日新聞は「殉忠古今に絶す軍神九柱」「偉勲輝く特別攻撃隊」「九勇士ニ階級を特進」という見出しをかかげました。
 出撃直前に内地で写した十人の集合写真から酒巻少尉を削除されていました。
 新聞に載せられた、この写真は、上段に四人の士官、下段に五人の下士官ということになっています。
 作家・獅子文六さんは、本名の岩田豊雄で横山少佐をモデルにして、朝日新聞に連載小説を書きました(四二年七月~十二月)。
 この年、「九軍神」を讃える軍歌として「特別攻撃隊」(選詩・読売新聞社、作曲・東京音楽学校)、「嗚呼(ああ)特別攻撃隊」(作詞・米山忠雄、作曲・若松 巌)がつくられました。
 「軍神」の生家には「軍神之家」の標札が掲げられ、各地から軍神詣での人々が訪れました。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

四国、よいとこ 2207 愛媛県伊方町 佐多岬の灯台のまわり。あの時までは一般の人が入り込めなかった所だといいます。

200705020_2_081

200705020_2_124


 二〇〇七年五月二十日。

 三人組(六十歳、五十一歳、二十歳の男性)は、さらに愛媛県伊方町の佐多岬の灯台に向かいました。
 灯台周辺では、男性三人組は変な感じでした。
 ここでは、若いカップルたちが散策を楽しんでいました。

 灯台(写真)。いいでしょう。
 海からの風で木が曲がっています(写真)。すごい。

 しかし、ここは、太平洋戦争終戦までは一般の人が入り込める場所ではなかったといいます。
 なぜ。
 どんな所だったのか。

 これは、また紹介します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2208 歌人の与謝野晶子さんの昭和天皇の太平洋戦争開戦に感涙した短歌。

 二〇〇七年五月二十日。

 この間、インターネット世界をさまよっていたら女性の歌人の与謝野晶子さんの、昭和天皇の太平洋戦争開戦にあたっての次の短歌に出合いました。

 み軍の詔書の前に涙落つ代は酷寒に入る師走にて

 昭和天皇の太平洋戦争の開戦の「詔書」に感涙する一軍国主義者の思いの表出です。
 「み軍」という表現が彼女の立場を表現しています。
 この短歌は、さどかし、当時の軍国の民をはげましたことでしよう。
 かつては反戦の詩を書いた女性だけに効果は抜群だったことでしよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.05.22

四国、よいとこ 2209 愛媛県伊方町 佐田岬の灯台周辺が立ち入り禁止だったころ その一 キャンプ場の売店が戦争中は…。

200705020_2_015


 二〇〇七年五月二十一日。

 愛媛県佐田岬には、かつて豊予要塞(ほうよようさい)の佐田岬砲台があったといいます。
 灯台に向かって山道を登っていくとキャンプ場がありました。
 売店がありました(写真)。閉店中です。
 昔の軍隊がつくったようながんじょうそうな建物です。

 土地の人によると、戦争中の陸軍のもので、医療、炊事場に使われていた壕(ごう)だということです。
 豊予要塞の現地司令部だったという説もあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2210 愛媛県伊方町 佐田岬の灯台周辺が立ち入り禁止だったころ その二 灯台下の二つの壕(ごう)には…。

200705020_2_052_6


 二〇〇七年五月二十一日。

 愛媛県佐田岬の灯台に登りました。
 「あそこに壕(ごう)がある」
 友人がいうので、見下ろすと海岸からほど近い山の中に二つ壕(ごう)がありました(写真)。
 友人二人は、灯台からロープをつたってそこにおりていきましたが、僕は高所恐怖症、閉所恐怖症ですので…。

 土地のひとによると、戦争中の陸軍のもので、この中に大砲が備えつけられていたとのことです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2211 愛媛県伊方町 佐田岬の灯台周辺が立ち入り禁止だったころ その三 灯台下の砲台の建設工事中の事故で…。

200705020_2_085


 二〇〇七年五月二十一日。

 愛媛県佐田岬の灯台を降りて左にいくと「忠魂碑」がありました。
 表面、「忠魂碑 大野部隊長」。
 裏面、「昭和二十年六月 事故ニ依(よ)り殉職ス…」「間島文人、魚谷雄二郎、三浦辰夫」。

 一九四五年六月、灯台下の砲台の建設工事中の事故で兵士三人が死亡したといいます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2212 愛媛県伊方町 佐田岬の灯台周辺が立ち入り禁止だったころ その四 陸軍の探照灯施設があった壕(ごう)だといいます。

200705020_2_095


200705020_2_113


 二〇〇七年五月二十一日。

 愛媛県佐田岬の灯台の所から、さらに山を上に上りました。
 そこで出くわしたのが、これ。
 上の写真が向かって左。
 下の写真が向かって右です。 

 上の写真の愛媛県の表示板は、古くなってほとんど読めませんが、こう書いてあったとのことです。
 「ここら一帯は旧陸軍の要塞があった……約三百名ほどの兵隊が常駐し、豊予海峡の見張りをしていた」

 土地の人の話によると、二枚の写真の壕(ごう)は陸軍の探照灯施設だったとのことです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2213 愛媛県伊方町 佐田岬の灯台周辺が立ち入り禁止だったころ その五 鑑札がないと出入りできない所。

 二〇〇七年五月二十一日。

 「南海日日新聞」(愛媛県八幡浜市)が、一九八八年八月九日付から十月二十七日付まで二十七回の連載、「戦争、その日 佐田岬・豊予要塞」をやっていました。
 その中に、愛媛県西宇和郡三崎町正野(いまは伊方町)の菊池重松さん(故人)のことが出てきます。

 菊池重松さんは、豊予要塞工事のころから御用商人として要塞に出入りしていました。
 彼は豊予要塞司令部から鑑札をもらっていました。
 縦七・五センチ、横五・四センチの木製の札です。
 表には「豊予要塞司令部」の焼印と「船舶繋留、漁猟採藻」の許可条件、「昭和十九年三月三十一期限」有効期限の年月日が墨書されています。
 裏には「西宇和郡三崎正野 一三三九-二番地 菊池重松 四十歳」と書かれています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2214 愛媛県伊方町 佐田岬の灯台周辺が立ち入り禁止だったころ その六 佐多岬砲台関連の年表。

 二〇〇七年五月二十一日。

 「南海日日新聞」の連載「戦争、その日 佐田岬・豊予要塞」を参考にして佐多岬砲台関連の年表をつくりました。

 ● 一九一五年、佐多岬灯台の建設の工事が始まりました。
 ● 一九一八年四月一日、佐多岬灯台が発点滅。
 ● 一九一九年、「要塞整備要綱」が決定され、豊予要塞の新設が予定されました。
 ● 一九二四年九月、佐田岬第一砲台(灯台の北東)を起工。
 ● 一九二六年八月、大分県佐賀関町に豊予要塞司令部を設置。
 ● 同年十一月、佐田岬第一砲台が竣工。
 ● 同月、佐田岬第二砲台(さらに北東)が起工。
 ● 一九二七年十月、佐田岬第二砲台が竣工。
 ● 一九三四年二月、佐田岬第二砲台の備砲・七年式三十糎短榴弾砲四門を撤去し、「攻城砲」に転用しました。
 ● 一九四一年、下関要塞から豊予要塞に一個中隊約百二十人の歩兵が派遣され、そのうち一個小隊(数十人)が佐田岬砲台に配置されました。
 ● 一九四一年十二月八日、昭和天皇が太平洋戦争を開始。
 ● 同月二十日、要塞部隊が臨時編成を命じられます。
 ● 同月末、佐田岬砲台に重砲兵第十八連隊の第五中隊約百人が増強配備されました。
 ● 一九四二年一月十三日、要塞部隊が臨時編成を完結。
 要塞部隊は西部軍に属しました。司令部は大分県佐賀関町に設置。司令官は三宮満治陸軍少将。兵員は、重砲兵連隊千百九十三人と馬四十九頭。陸軍病院も建設されていました。装備火砲は、三十加砲二基、十五加砲四基、十二速加砲四基、九速加砲四基、野砲(三八式)十基でした。
 うち佐田岬第一砲台には七年式十五糎加農砲四基が装備されていました(その後、同砲台の火砲は十二榴散弾式四基に変わりました)。
 ● 一九四二年、佐田岬第二砲台が廃止されました。
 ● 一九四二年六月十九日、同要塞守備隊は、第十六方面軍戦闘序列に編入され、熊本師管区司令部の指揮下に入りました。
 ● 一九四四年十月、佐田岬第一砲台の七年式十五糎加農砲四基が撤去され、鹿児島県志布志湾西側入口の高崎砲台に移設されました。
 ● 一九四五年二月、佐田岬の灯台下、御籠島(大島)に砲台が建設されました。
 ● 同年六月、佐田岬の灯台下の砲台の建設中に事故で三人の兵隊が死亡。
 ● 同月、豊予要塞司令部は独立混成百十八旅団に編成され、佐田岬砲台には、独立歩兵第七百十六大隊の役九百人の歩兵が配備展開しました。砲兵、工兵、通信兵をふくめると約千人の兵員が配備されていました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2215 高知市大津 何か家の中が片付きません。

 二〇〇七年五月二十ニ日。

 いやーっ。部屋がかたずかない。
 家の中で移動する時には必ず何かを持っていくことにしています。
 二階の板の間の飲み終わったペットボトルを一階の台所の所にもっていくとか。
 それでも駄目。
 週に一回くらいは整頓日をつくらなければ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2216 高知県 道路の左側の「いきどまりの坂道」。何のためなの…。

200705022_006


 二〇〇七年五月二十ニ日。

 二十日、友人に乗せてもらった乗用車は西から高知市に向かって走っていました。
 この写真のシーンを見ました。

 道路の左側に「いきどまりの坂道」があるのです。
 津野町で計三か所見ました。
 なんか東のほうにいったときも、こんなのがありました。
 決まって下り坂の道の左手にあります。

 なぜ、こんな道路が????
 友人に聞くと「えっ、知らなかったの」という感じ。
 ブレーキがきかなくなったとき、ここに突っ込んでとめるのだといいます。
 すっごーい。
 そうだったのか。
 でも、高知ではよく見るけど、他都道府県では見たことがない気がしますけで、あなたの地域にも、これってありますか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2217 高知市 新しく開通する予定の筆山(ひつざん)トンネルの東方面いきから世の中を見たら…。

200705022_021


200705022_017


 二〇〇七年五月二十ニ日。

 午後。

 上の写真。ここは高知市の新しく開通する予定の筆山(ひつざん)トンネルの東方面いきです。
 左手に前からの西面いきの筆山トンネルがあります。

 下の写真。新しい筆山トンネルの上から撮った高知市です。
 一年もたてば街並みががらっと変わる気がします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2218 高知市 山本モナさんが、朝日放送アナウンサー時代に「団塊の世代」をどう読んだか…。

 二〇〇七年五月二十ニ日。

 今夜のテレビに元朝日放送アナウンサーの山本モナさんが出ていて、アナウンサー時代に「団塊の世代(だんかいのせだい)」を「だん○○のせだい」と読んでしまったと話していました。

 これって、よくありますよね。
 東京に住んでいたとき夜中の電車の中で同世代の友人が「僕たちだん○○のせだいは…」と連発するのであわててしまいました。
 「それは、だんかいの…と読むんだよ」
 そう教えてあげたら「へーっ。そうなんだ」という顔をしていました。
 ずーっと、「だん○○のせだい」と思い込んでいたようです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2219 高知市 介良(けら)の鉢伏山(はちぶせやま)も戦場だったんですね。

 二〇〇七年五月二十ニ日。

 高知市介良(けら)も、あのとき戦争の真っ只中にいたんですね。
 「しんぶん赤旗」十二日付、中国・四国のページに載った高知市の介良在住の竹村昭三さん(78)へのインタビューを読んで、そう思いました。

 こんなことが書いてありました。


 生まれたのも今の介良の家です。
 松山海軍航空隊の飛行練習生でした。復員したのが一九四五年八月三十一日でした。
 家の南の鉢伏山(はちぶせやま。標高二一二・九㍍)にはふもとから頂上近くまで横穴の壕(ごう)が掘られていました。山を切り開き、田んぼをつぶして物資を運ぶ広い道がついていました。
 本土決戦に備えて四五年四月から、高知市から春野町にかけて陸軍の約二万人の兵が展開していました。その錦兵団(第一一師団)の司令部が、この山のふもとにありました。たくさんの農家に兵隊が住んでいたといいます。
 この山の頂上からは南に太平洋を望めます。
 同年八月十五日の終戦がもっと遅れていたら、アメリカ軍が太平洋から上陸し、介良でも陸上戦がおこなわれていたかもしれないのです。
 近くに旧介良村の「忠霊塔」があります。
 ここにまつられている戦死者は日露戦争は八人、日中戦争は六人、太平洋戦争は八十三人です。
 日露戦争の時、二百三高地で戦死した祖父も入っています。私の介良国民学校の同級生も二人戦死しています。私の家の地域・藪多(やぶおおし)には八世帯ありましたが、三世帯から六人が戦死しています。
 地域の、夫が戦死した女性は「こういう私のような人は、私を最後にしてちょうだいね」といいます。本当に、そうだと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.05.23

四国、よいとこ 2220 高知市大津 各田んぼにある、この斜めに突き刺した土管の役割は…。

200705023_005


200705023_002


 二〇〇七年五月二十三日。

 高知市大津の田んぼです。
 緑が奇麗になりました。

 ところで、各田んぼにある、この斜めに突き刺した土管。これって、どんな役割をするのでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2221 香川県 素晴らしい人の話を聞いていると僕の心もピュアーになる感じです。

 二〇〇七年五月二十三日。

 香川県にいきました。

 夕方、ある駅前で人を待っていると、向こうから見慣れた顔の男性がやってきます。
 敬愛するSAさんです。
 四国四県をエリアに走り回っています。
 きょうは、香川県で朝から目いっぱい働いたようです。
 おつかれさまでした!!!

 駅前まで迎えにきてくれた二十歳の人に一時間半、話を聞かせていただきました。
 多くの人が幸せになる世の中にしたいと真っすぐに重い、行動している人でした。

 素晴らしい人の話を聞いていると、少しついてきているかもしれない僕の心の汚れが洗い流されてピュアーになる感じです。

 で、僕は二十歳ころには何を考えていたでしょうか。
 なぜか、いま机の上に積んである原稿を見たら、こんな詩がありました。


   ちっちゃな幸せ

 一足ごとに、鼻っ先で、黄色いチョウが舞う。
 ひらひらひらと、一足ごとに。

 ポリ……何とかいった。
 スミレ科の草花だそうだ。
 右のてのひらの、
 ちっちゃな鉢植え。

 ふと思う。
 「生きたい。精いっぱい、生き抜きたい」
 と。

 あわい香りが、鼻の先をくすぐった。
 二百円の、
 ちっちゃな幸せ。
 (一九六九年一月十日)

 東京都練馬区の美容室の二階の四畳半に住んでいて、高知市の大学三年生だった「彼女」に毎日一通以上の手紙を出し続けていたころの詩です。
 僕って当時は「花とは無縁の青年だった」と思っていましたが、そのころから花を愛でる心はあったんですね。
 何か、自分再発見。
 いまだに何という名の花だったかはわかりませんが…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.05.24

四国、よいとこ 2222 ふたたび小説「夏の葬列」について。漫画にもなってるよ。

 二〇〇七年五月二十三日。

 夜中に東京都の妻と電話で対話したら小説「夏の葬列」のことが話題になりました。
 いま、この小説について勉強しているとのことです。

 この小説については、前に、このブログで書いたことがあります。


 2006.11.28
 四国、よいとこ 1016 十ページの短編小説、山川方夫さんの「夏の葬列」の力。

 二〇〇六年十一月二十七日。

 JR広島駅の構内で文庫本『贈る物語 Wonder(ワンダー)』(瀬名秀明さん編)を買いました。
 短編小説を集めたものです。
 筆頭に載っていた山川方夫さんの「夏の葬列」を読んで、その力の強さにひれ伏しました。
 十ページのものです。
 手塚治虫さんの漫画を読んでいる感じでした。
 活字だけで、これほどの表現ができるとは!!
 内容を説明していないので伝わらないと思いますが、ぜひ、この小説を、お読みください。
 この作品、中学校の教科書にも載ったことがあるそうです。

 ぜひ多くの人に読んでもらいたい名作です。
  この小説、漫画にもなっているんですね。
 
 http://page.freett.com/MOCHIHOUSE2/natusou1.html

 http://page.freett.com/MOCHIHOUSE2/natusou2.html

 http://page.freett.com/MOCHIHOUSE2/natusou3.html

 http://page.freett.com/MOCHIHOUSE2/natusou4.html

 【以下、参考】

 山川方夫

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から。

 山川方夫(やまかわ まさお 1930年2月25日 - 1965年2月20日)は日本の作家。本名、山川嘉巳。

 東京市下谷区上野桜木町(現在の東京都台東区上野桜木町)にて、日本画家山川秀峰の長男として生まれ、品川区下大崎(現在の品川区東五反田)に育つ。

 1936年、慶應義塾幼稚舎に入学。1942年、慶應義塾普通部に進学。1945年、敗戦を疎開先の神奈川県中郡二宮町の父の別荘で迎える。1947年、慶應義塾予科文学部に入学。在学中に学制改革を経て慶應義塾大学文学部仏文科に進む。1952年に卒業。卒論はサルトル。慶應義塾大学大学院文学研究科仏文専攻に入学。『三田文学』に参加。1953年、大学院中退。1954年、田久保英夫、桂芳久と共に第3次『三田文学』を創刊。新人発掘に力を注ぎ曾野綾子、江藤淳、坂上弘などの作品を掲載する。1956年、編集を退く。

 1958年、『演技の果て』で第39回芥川賞候補となる。 1959年、『その一年』『海の告発』で第40回芥川賞候補となる。1960年、中原弓彦編集の『ヒッチコック・マガジン』誌に登場し、ショートショートを執筆。後に日本国外の雑誌に転載される『お守り』を『宝石』に発表する。1961年、『海岸公園』で第45回芥川賞候補となる。

 1962年から1963年にかけて『ヒッチコック・マガジン』誌で、『夏の葬列』などのショートショート『親しい友人たち』を連載。同じ頃、寿屋(現在のサントリー)のPR誌『洋酒天国』の編集に関与。1964年、『クリスマスの贈物』で第50回直木賞候補、『愛のごとく』で第51回芥川賞候補となる。

 1965年2月19日、二宮駅前の国道横断歩道で交通事故に遭い、翌日死去。享年34。

 妻山川みどり(旧姓生田)は『芸術新潮』誌の元編集長。

 ペンネームの「方夫」は、父の師の1人である日本画家鏑木清方の「方」と、親交のあった劇作家梅田晴夫の「夫」を組み合わせたもの。

 山川方夫全集 全7巻 筑摩書房
 1 安南の王子 ISBN 4480704213
 2 日々の死 ISBN 4480704221
 3 海岸公園 ISBN 448070423X
 4 愛のごとく ISBN 4480704248
 5 最初の秋 ISBN 4480704256
 6 トコという男 ISBN 4480704264
 7 朝の真空 ISBN 4480704272
 夏の葬列 集英社 ISBN 4087520145
 安南の王子 集英社 ISBN 4087520439
 愛のごとく 講談社 ISBN 4061976141

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2223 熊井啓監督の長野県を舞台にした映画「朝やけの詩」の鮮烈さ。

 二〇〇七年五月二十四日。

 二十三日、映画監督の熊井啓さんが亡くなりました。
 彼の作品では「朝やけの詩」(一九七三年十月二十七日。製作=俳優座=東宝)が素敵でした。

 仲代達矢(作蔵)
 関根恵子(春子)
 岩崎加根子(八重子)
 川瀬裕之(和夫)
 蛯名由起子(道子)
 北大路欣也(朝夫)
 松本克平(与一)
 牧よし子(すみ)
 佐分利信(稲城慎吾)
 村瀬幸子(綾)
 竹内亨(飯沼)
 信欣三(五味)
 橋本功(田口記者)
 近藤洋介(神山)
 永井智雄(塚越)
 浜田寅彦(清川)
 稲葉義男(虎平太)
 三笑亭笑三(為次)
 野中マリ子(為次の嬶)
 成瀬昌彦(政春)
 小林亘(軍蔵)
 川上夏代(軍蔵の嬶)
 立花一男(音吉)
 山本清 (直二郎)
 松野健一(嘉市)
 桧よしえ(まさ)
 福田豊土(校長先生)
 新田勝江(まき)
 大塚訓代(若い女中)
 佐藤和男(慎吾の秘書)
 秘好照果(老婆)
 中村たつ(中年の女)
 山崎直衛(組木)
 菅井きん(おひで婆さん)


 舞台は、日本アルプスを展望する信濃高原です。

 作蔵は、二十五年間、日本一の大開拓村を建設しようと情熱を注いできました。
 妻・八重子は、貧困に負けたのか逃げ去っていました。
 娘の春子は作蔵を手伝い、弟妹の和夫、道子の面倒をみていました。
 春子には、朝夫という恋人がいました。

 アポロ観光社長・神山は、この高原地帯にレジャーランドを建設しようと地元の有力者・稲城と結託しました。
 稲城から多大な借金を背負っている村人たちは、約五億円の金が村にばらまかれるということで浮き足だちました。
 石工の朝夫は、稲城に反感を抱きましたが、亡くなった父が稲城の兄だったことを知り動揺します。
 そして、稲城が開拓村に手をつけないという条件でアポロ観光の現場主任を引き受けました。
 数日後、朝夫の願いを無視してアポロ観光の測量が開始されました。
 作蔵は測量を妨害し、警察に逮捕されます。

 この事件を契機に村は、開発賛成派と反対派に分断されていきました。
 朝夫は稲城家の血を引く唯一人の男として残る限り、今後の生活を保障するといわれます。
 春子は開発派から逃れきれない朝夫を批難しました。
 稲城から、数百万円の立退き料が村人に渡されました。その金のほとんどが借金の返済として稲城に吸い上げられていました。
 作蔵だけが、かたくなにアポロ側との交渉を拒否していました。
 そんなある日、作蔵の馬や為治の豚が原因不明のまま死んでしまいました。
 村人たちは疑心暗鬼に陥りました。
 そんな時、アポロ観光の現場事務所が何者かに放火され、その嫌疑が作蔵にかかります。
 彼をかばうかのように朝夫が自首しました。
 警察は二人を共犯として逮捕します。
 数日後、二人は証拠不十分で釈放されます。
 事務所に放火したのは、神山たちで、作蔵にとどめ刺そうとの謀略でした。

 作蔵の開拓への夢は完全に打ちのめされていました。作蔵は村を出る決心をしました。
 幼ない弟妹は八重子が引きとることになりました。
 春子と朝夫は、花の咲き乱れる高原で最後の時を過ごしました。
 翌日、作蔵が春子に渡した汽車の切符は、行く先と反対方向でした。
 「朝夫さの所へ行け! おらあ、みとどけるだ。この土地がどうなるか……」
 作蔵は開拓村近くの博物学者・五味のところで働くことを決心していたのでした。
 春子を乗せた汽車は、白煙を上げて次第に去っていきました。無理に笑みを浮かべて手を振る作蔵をホームに残して……。

 映像の長野を見て、「いってみたい」と思いました。
 その後、何回もいき、チャンスがあり一年間暮らしました。

 もう一度見たい作品です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2224 僕、二十六歳。札幌市に住んでいて、詩「『タコ』について」を書いた。

 二〇〇七年五月二十四日。

   「タコ」について

 「しびれるのかい…」
 「………」
 「すし屋も、床屋も…。手の先に力をいれる人は、みんな、そんなんだね」
 札幌駅北口。
 そこから少し歩けば、このあんま屋さんがある。
 その奥さんの話。

 「昭和十七年ころ、樺太(からふと)で清水組の会計をやっていた」
 <ホー。それにしても痛い。こっちは、あんまは初めだ>
 「そこのタコ(労務者)の生活は、ものすごいものだった。
 髪はボウボウ。布切れは一枚。それに裸足」
 <へー。寒かっただろうに>
 「私たち若い娘が近くを通ると『ギャーッ』とサルのような声を出す」
 <この奥さん。娘のころは、どんなだったろう>
 「仕事が終わると、馬小屋のような所へギューギュー押し込まれる。
 逃げたりすると大変だ。
 コメのカマスに入れられて生き埋め」
 <ヒェー>
 「トロッコでドンドン土を運んできて…。
 親には骨にしてからじゃないと渡さない」
 <ひどい仕打ちがばれるからか…>
 「朝鮮語の手紙が落ちてたこともあった。
 組の連中は、いい気なもんで、ボンボン火をたいて、またあぶりなんかしながら見張っている」
 <このヤロー>
 「酒もウイスキーも砂糖もたらふくあった。
 内地から芸者をどんどんあげて、やつらはいい思いをした」
 <ひでーやつらだ>
 「この近くにだまされてタコにされた人もいるよ」
 <僕の生まれたのは昭和二十二年。ほんのちょっと前のことだ>

 こんどは、おやじさんにかわった。
 「だんな。こってるね。……へぇ、二十六。働きすぎだよ。ここにくる人は、みんなそうだ。おれだってそうだけどね」
 (一九七三年四月二十日)
 注・一九七三年一月から北海道札幌市に単身赴任していました。先輩と二人で下宿していました。そこでで知ったタコの話です。労働者を、かなりの期間、身体的に拘束して非人間的環境の下で重い肉体労働をさせることをタコ部屋労働いいます。タコ部屋労働で使役された労働者をタコと呼び、タコを監禁した部屋をタコ部屋(ないしは監獄部屋)と呼びます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2225 高知市 ある「マグロ属」の詩(うた)。

 二〇〇七年五月二十四日。

   僕も泳ぎ続けるマグロ属の一人です

 きょう、ある人が、ある人のことを
 「マグロのような人」 と、評すのを聞いて
 「そうか。そうなんだ」と、思い当たりました。
 陸に上がったドテーッとしたマグロのことではありません。
 海の中の毎時二十~三十キロメートルのスピードで移動するマグロのことです。

 マグロは、一生休むことなく泳ぎ続けるといいます。
 速度を維持するのに、たくさんの酸素が必要です。
 それでマグロは口を開けて海水から酸素を補給しながら泳いでいるのだそうです。
 止まってしまったら溺れてしまうのだそうです。
 マグロは、生きるために泳ぎ続けます。

 あまり知られていないことだけど、僕も実はマグロ属です。
 何か前進していないと、
 日々成長していないと、
 そこで息絶えてしまうのではないかと思ってしまうのです。
 で。あくせくと毎日走っています。

 きょう、ある人が
 「人間は一〇〇%の死亡率だ」と、いっていました。
 ま。永遠の生命を持っている人間はいないでしょう。
 「なのに、何で、そんなに、あくせくするの」
 そういいたかったのでしょう。

 でも。僕はマグロ属。
 やっぱり、走り続けます。
 (二〇〇七年五月二十四日)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.05.25

四国、よいとこ 2226 高知県伊野町 あの時の映画「にあんちゃん」のポスターの構図。

 二〇〇七年五月二十五日。

 きょうは、いっぱい雨が降ってくれました。

 夜、『歴史を知れば もっと面白い 韓国映画』(川西玲子さん)という本を半分まで読みました。
 触発されることがたくさんありました。

 一つは映画「にあんちゃん」(今村昌平監督)のことを思い出したことです。
 初公開は、一九五九年十月二十八日です。
 当時、僕は、高知県伊野町立伊野中学校の一年生です。
 同町の内野(うつの)という所に住んでいました。
 父が勤めていた内野の日本紙業(まるいち)の工場の左の商店の所に、この映画のポスターが張られていたシーンがまぶたに浮かび上がってきます。
 袖なしの下着で、半ズボンの男の子が右手に棒をかざしてとび上がっているという構図ではなかったでしょうか(少し弱気な表現ですが)。
 見にいきました。
 当時、伊野町には伊野シネマ、伊野文化など少なくとも三つの映画館がありました。
 どこの映画館で見たのかは覚えていません。
 貧困の中をたくましく生きる兄弟たちにひかれました。
 僕自身は貧困な中、ひ弱に生きる中学生でした。
 といっても、体操部で一生懸命だったし、朝刊、夕刊を配っていたし、家族の夕飯のおかずもつくっていました。
 今回、この本で読んで、そうだったのと思ったのが、あの映画の中の四兄弟が朝鮮出身だったということです。
 そういう歴史の中で、この映画を見ていなかったということです。
 どこかでDVDを手に入れて、じっくり見てみたいと思っています。

 何となく 子どもの時の 思い出を
 話してみたい
 うーん、零時前

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.05.26

四国、よいとこ 2227 高知市 韓国映画「桑の葉」の「桑の実を摘みにいこう」のメッセージ。

 二〇〇七年五月二十五日。

 『歴史を知れば もっと面白い 韓国映画』(川西玲子さん)で触発されたこと、そのニ。
 一九八五年の韓国映画「桑の葉」のストーリーに戦前の朝鮮の日本にたいする抵抗運動が描きこまれていたという指摘です。
 これはビデオで見ました。
 大阪市に単身赴任していた時です。
 たぶん、韓国映画を見たのは、これが最初だったと思います。
 僕も、へーっ、これは日本にたいする抵抗活動の映画なんだなと気はつきましたが、その考えは明確なものではありませんでした。
 
 あらすじ。

 日本の天皇が朝鮮を植民地にしていた一九二〇年代の朝鮮の農村が舞台です。
 村一番の美人アンヒョプ(イ・ミスク)は、賭博好きで年に数回しか家に帰らない夫サムボ(イ・デグン)に金を渡すために、桑の実の収穫を引き受けますが、村の男たちはそんな彼女に言い寄り、彼女も良心の呵責を感じながらも生活の苦しさから金と引き換えに体を許していきます。
 村の女たちが、そのことを知り、長老が追放を告げにいきます。
 しかし、長老も、彼女の魅力の前に骨抜きにされ、引き下がってしまいます。
 そんな中、アンヒョプにしつこく言い寄りながら相手にされないサムドル(イ・ムジョン)が腹立ちまぎれにすべてをサムボに話してしまいます。
 サムドルを殴り倒したサムボはアンヒョプを問い詰めますが、すべては自分が置いてけぼりを食わせたことが原因だと彼女を許し、また都会へと去っていきます。
 しかし、実は彼は抗日運動の闘士で、彼の後姿を日本軍の若い憲兵が追っていきます。

 同書は「(映画の中の歌にも出てくる)『桑の実を摘みにいこう』といういうのは、日本に対する抵抗運動をする人たちの秘密の言葉だったそうだ。夫サンボには日本人憲兵が張りついていて、抗日活動に携わっていたことがわかる」と指摘しています。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2228 高知市 韓国映画「大統領の理髪師」の「四捨五入」というせりふの意味。

 二〇〇七年五月二十五日。

 『歴史を知れば もっと面白い 韓国映画』(川西玲子さん)で触発されたこと、その三。

 韓国映画「大統領の理髪師」(二〇〇四年)に「四捨五入」というせりふが出てきて、なんのこっちゃと思っていましたが、この本を読んでわかりました。

 イスンマン(李承晩)大統領の二度目の憲法改定の時のことでした。
 憲法改定には国会議員の三分の二以上の賛成が必要でした。
 開票したら賛成したのは在籍国会議員二百三人のうち百三十五人で、必要な百三十六票に一票足りませんでした。
 それを二百三の三分の二は百三十五・三あまりだから四捨五入すれば百三十五でかまわないという論理で押し切ってしまいます。
 「四捨五入改憲」というのだそうです。


 【参考】

 李承晩 이승만

 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から(内容を、かなりカットしています。行替えもしています)。

 李承晩(イ・スンマン、1875年3月26日 - 1965年7月19日)は、朝鮮の独立運動家で、大韓民国の初代大統領(在任1948年 - 1960年)。

 1896年に設立された独立協会にも参加したが、時の親露派政権が高宗皇帝に讒言したため、1898年11月には独立協会の解散、指導者の逮捕が命じられ、独立協会は同年12月、強制的に解散させられた。
 李承晩もこの時、逮捕され、拷問をうけながら、1904年まで獄中にいた。
 その年、日露戦争の勃発後に日本が軍事的・外交的・経済的に大韓帝国に浸透するのに危機感をいだいた高宗などが1882年の朝米修交通商条約の第1条の「周旋条項」に基づいて米国に韓国の独立維持のための援助を求めるため、李承晩を釈放し、米国に派遣した。
 ハワイを経由して、米国に渡った李承晩は1905年8月、時の米国大統領セオドア・ルーズベルトに面会し、米国の援助を求めるルーズベルト宛てのハワイ在住韓国人の請願書を提出したが、ルーズベルトは、請願書を公式のチャネルを通すよう求めた。
 それをうけて、李承晩は駐米韓国公使館に赴いたが、そこはすでに日本が押さえており、請願書のルーズベルトなり国務省なりへの送付を拒否したため、李承晩のルーズベルトへの要請は、失敗に終わった(ルーズベルトは、駐米韓国公使館が日本に押さえられていることをすでに承知しており、またすでに米国のフィリピン支配と日本の韓国での優越を認め合った桂・タフト協定に承認を与えていたため、李承晩との面会時の回答は、自分への要請に対する暗黙の拒否にほかならなかった)。
 その後、李承晩はアメリカに残り、ジョージ・ワシントン大学、ハーバード大学を経て、プリンストン大学で博士号を取得した後、朝鮮の独立運動に携わった。
 上海で結成された大韓民国臨時政府の初代大総理に就任し、その後、臨時政府大統領となった。
 上海臨時政府は、短期的にではあれ、朝鮮独立のための統一戦線として左右両翼を糾合できたという点で独立運動における画期的な存在であった。
 李承晩は臨時政府発足後に左派の李東輝と対立するや早々に上海を去った。
 のちには臨時政府内で弾劾されるにまで至った。
 以降はアメリカでのロビー活動に専念した。

 アジア・太平洋戦争の終結と解放から2ヵ月後、1945年10月に帰国し、独立建国運動の中心人物となった。
 李承晩は当時すでに70歳であり他の運動家に比べて活動歴が長いこと、大韓民国臨時政府(以下「臨政」)の初代大統領であったこと、左派も多く擁していた朝鮮建国準備委員会(以下「建準」)からも一時的に支持されていたこと、アメリカでのロビー活動によってとりわけ有名であったことから、当初から大統領に就任すべき正統性を備えているとみなされていた。
 李承晩は帰国するやアメリカの意を受けて建準とも臨政とも距離をおき、反共統一を掲げた。
 李承晩は名声を享受しつづけていたものの、実際には外国に滞在していた要人に過ぎなかった。そのため地盤も基盤も富ももちあわせていなかった。これを支えたのが全羅道地方の資本家・湖南財閥と、それが中心になって組織された韓国民主党(韓民党)である。韓民党は建準に対抗して臨政を支持していた。一方で、李承晩自身は連合国が決定した朝鮮の信託統治案に反対していた。 アメリカ軍政は李承晩を支持し、彼と韓民党を仲介した。
 臨政と韓国民主党は信託統治反対運動の路線などをめぐって対立しており、臨政と左派との合作が始まると、韓民党は李承晩に接近する。
 両者の連合は独自の勢力作りに動き出し、李承晩の下に政府準備組織「独立促成中央協議会」(独促)を発足させた。
 このことで、アメリカ軍政下には独促・臨政・建準という三つの政府組織(政府準備組織)が存在することになりソウルには大混乱に陥っていた。
 李承晩と韓民党の連合は建準で勢力を誇っていた左派と、その他の臨時政府出身者に対抗し、解放直後のソウル政界で主導権を握った。
アメリカ軍政が最も嫌った左派の排除に成功した李承晩と韓民党は、1948年5月10日に行われた国連監視下での総選挙に臨んだ。この選挙は大反対の中で強行された。
 各地で反対派による武装闘争が展開された。
 選挙に至る過程で起きた最も悲惨な事件が済州島四・三事件である。済州道では選挙を妨害する左派と政府軍との間で衝突がつづき内乱に近い状態に陥った結果、数万人の島民が犠牲になった。
 総選挙によって李承晩と韓民党は制憲議会の多数を制した。そこで制定された第一共和国憲法は議会が大統領を選出すると定めていた。
 1948年 8月13日、アメリカ合衆国の後押しで大韓民国が建国された。李承晩は議会多数の支持を得て初代大統領に就任した。政権は地主・資本家および旧植民地官僚を勢力基盤としていた。
 李承晩は失脚の瞬間まで独裁的に振る舞った。韓国国内は政治的対立で揺れつづけた。対立派は多くの場合、反体制派というよりもむしろ議会政治家たちであった。
 最初の対立は大統領制をとりつづけるか議院内閣制を採用するかを巡っておきた。
 李承晩を支えていた韓民党の多数は議院内閣制の採用を望んでいた。
 両者の対立はほどなくして抜き差しならないものになった。
 日本統治時代に普成専門学校(現在の高麗大学校で湖南財閥の一員)教授をし、ソウル大学校教授を兼務していた愈鎮午・憲法起草委員会議長は韓民党の意向を受け大統領を形式的な元首とする、議院内閣制に近い憲法草案を起草していたが李承晩により覆され、大統領中心制へと転換される。
 初代内閣組閣の時にも韓民党との対立は起こった。韓民党は金性洙を国務総理に推していたにも関わらず李承晩は李允栄を国務総理に任命、27対120の大差で否決される。
 李承晩は続いて李範セキ(李範奭)を国務総理に任命、110対84で可決。
 初代内閣からは韓民党はほぼ排除され、金度演が財務部長官に任ぜられたのみとなった。
 1949年には反李承晩勢力が団結して政界再編が起き、民主国民党が生まれた。
 民主国民党には臨時政府出身者の一部も加わり、申翼煕、趙炳玉らがリーダーとなった。民主国民党は改憲案を上程したが、在席者中3分の2の賛成を得られず、改憲案は否決された。
 李承晩は大統領就任前から「北進統一」を主張していた。
 1950年、朝鮮戦争が勃発し、朝鮮民主主義人民共和国が韓国に圧倒的な戦力で攻め込んでくると、韓国軍は瞬く間に総崩れになり、ソウルは陥落。釜山まで引くことになった。朝鮮戦争はマッカーサーの「仁川上陸作戦」以降、東西冷戦下の代理戦争の様相を呈し始め、朝鮮戦争を望んでいた李承晩の存在感は徐々に薄れていった。
 朝鮮戦争初期に韓国に侵入した北朝鮮兵は、その後、韓国内でパルチザン闘争を繰り返した。同民族によるパルチザン闘争の衝撃は強く尾を引いた。
 李承晩がエキセントリックな再登場を果たすのは、1953年、国連主導による休戦提案が出始めてからである。
 「停戦反対、北進統一」「休戦は国家的死刑」を口に最後まで休戦に反対し、北進統一論に基づいた朝鮮半島の民主主義による統一にこだわった。
 それを尻目に国連は粛々と休戦への道筋をつくり、6月8日に両軍の捕虜送還協定が締結された。
 しかし、李承晩は、6月18日にアメリカに何の予告も無く捕虜収容所の監視員に捕虜の釈放を指令。抑留捕虜2万5000人を釈放するという事件を起こした。正式に決まった協定を反故にする暴挙に、国際世論の非難が高まった。
 李承晩は北朝鮮内の中国人義勇兵が完全に排除されることも望み、早期休戦を望む国連軍/アメリカと激しく対立した。
 7月16日のソ連の新聞『ソヴィエト・ニュース』は「ここ三年というものは李承晩について聞いたことがなかった。三年の間、南朝鮮のすべての問題はアメリカ軍司令官だけによって指令されており、李承晩は、釜山の奥にいるアメリカ軍の裏庭あたりにおあずけになっていた。・・・・・・ところが、いま突如として、李承晩はあまりに強大かつ強力であるため、<国連軍司令官もアメリカ大統領も、またアメリカ議会も彼とは太刀打ちできない>と発表されている。ぶざまな茶番劇が上演されているのだ」と伝えた。
 あまりにも強大で強力な李承晩は件の捕虜釈放事件で孤立することになった。
 李承晩はやむなく休戦に同意。(署名はしていない)
 7月27日に朝鮮戦争は休戦した。
 休戦後も、李承晩はアメリカ議会に出向き「北進統一」を訴えたが、もはや誰も耳を貸すものはいなかった。
 朝鮮戦争のさなか、李承晩は湖南財閥から韓民党への資金供給を断つべく、京城紡績の預金引き出しを停止する。
 このために京城紡績は李承晩派に資金供給先を変更する。
 これによって韓民党は強力な経済的基盤を失うこととなる。
 1952年になると再び議会との対立が激化した。政府は釜山に撤退していた。
 任期切れを控えていた李承晩は、憲法の再選禁止を撤廃するために、三選までを許す改憲案を上程した。
 これに対抗して野党は議院内閣制案を提出した。
 李承晩は戦時下の釜山に戒厳令を布告し、野党議員を大量に検挙した。
 1952年7月4日、国会が警察に包囲されているなか、与党議員がほとんどを占めている国会で改憲案は可決された。
 大統領の選出は直選制となった。
 このころまでに李承晩派は自由党を組織している。
 この時期にアメリカは戦時下において議会との対立を解消できない李承晩の排除を考えてはじめたと言われている。
 1954年当時の憲法では、大統領の任期は二期までで、三選は出来ない事になっていた。
 生涯大統領を望む李承晩及び与党自由党は「初代大統領にかぎって三選禁止規定を撤廃する」という改憲案を提出した。
 11月27日の国会投票では、議員203人中、賛成135票、反対60票、棄権7票、無効票1票という結果になった。
 可決には議会の3分の2に至る135.33票以上、136票が必要だった。
 1票届かず、改憲案は否決されるはずだった。
 李承晩派の国会議長は、135.33票とは社会通念上の通念である四捨五入を用いれば135票であり、改憲に必要な3分の2を超えているとして改憲案の可決を宣言した。(四捨五入改憲)
 1956年、李承晩が三選を狙った大統領選挙に際して、野党勢力は「もう生きられない、(政権を)変えてみよう」をスローガンに統一戦線を組み、民主党を結成した。一方、自由党は「替えたところで、変わらない」というスローガンで対抗した。
 民主党は大統領候補に申翼煕、副大統領候補に張勉、自由党は大統領候補に李承晩、副大統領候補に李起鵬という布陣だった。
 選挙直前の5月5日、民主党の大統領候補・申翼煕が遊説に向う途中の電車の中で脳溢血で倒れ、急死するというトラブルがあり、民主党は副大統領候補だけの選挙を余儀なくされた。
 官憲の介入もあり、選挙の結果、李承晩は大統領三選を果たしたが、副大統領の李起鵬は民主党の張勉に敗北。大統領が与党、副大統領が野党という一種のねじれ現象が起きた。
 高齢の李承晩に万一の事態が起これば、副大統領の民主党の張勉が繰り上げて大統領になるため、自由党は危機感を抱いた。
 同年9月28日には退役軍人による張勉副大統領暗殺未遂事件を起こし、1959年4月には張勉系の野党紙「京郷新聞」を廃刊処分にするなど、李承晩は徹底的な政敵潰しを行った。
 同年7月には長年の政敵であった曹奉岩を処刑している。
 李承晩とフランチェスカ夫人に直接の子供はいなかったが、三期で落選・幻の第四期に副大統領を務めた李起鵬の長男・李康石を養子に迎えていた。
 「独裁者の息子」はたびたび問題を起こしていたが、1957年、ソウル大学に特恵入学をする事が発覚すると、大騒ぎになった。
 「1957年8月、9月は李承晩政権の絶頂期。李康石は街の無法者となり、警察官を殴ったり、派出所の器物を壊して歩いても、誰も告発したり、処罰するものはいなかった。」
 1957年8月末、姜聖柄という22歳の男が李康石になりすまし、「父から密命で公務員の不正を調べている」と地方の知事や警察署長などを騙し、厚い接待を受けたり、金品を要求するという事件を起こした。
 事件発覚後、慶州知事の「貴いお方が一人でいらっしゃったのだから」という発言が取り沙汰され、「貴いお方」という言い回しが全国的に流行した。
 1960年、李承晩が四選を狙った大統領選挙に際して、野党の大統領候補・趙炳玉がアメリカで病気療養が長引いている(同年2月に客死)ことを見計らって李承晩は選挙期間を早めた。
 野党は「悲しみをおさめ、また戦場へ」をスローガンで国民に同情を訴えたが、与党は「ケチつけるな、建設だ」というスローガンで対抗した。
 この選挙では与党の不正工作はより徹底された。副大統領の当選を確実にするために公務員の選挙運動団体を組織し、警察にそれを監視させるなどの不正工作・不正投票などが横行した。
 1960年3月15日、大統領李承晩、副大統領李起鵬の当選が報じられると、特に不正がひどかった慶尚南道馬山では民主党馬山支部が「選挙放棄」を宣言。
 それは即座に不正選挙を糾弾するデモへと発展し、これに市民も参加。
 「デモは共産党主義者の扇動」を主張する当局がデモ隊に発砲し、8人死亡50人以上が怪我という惨事になった。
 4月11日、このデモを見物に行き、そのまま行方不明になっていた高校生・金朱烈が馬山の海岸で頭に催涙弾を打ち込まれた遺体で発見された。
 市民・学生などは、当局に彼の死因を究明する要求を掲げ、再度デモを行ったが、当局は再び「デモは共産党主義者の扇動」とこれを鎮圧し、デモの主導者を逮捕した。(馬山事件)
 馬山事件に抗議するデモは瞬く間に韓国中に飛び火し、4月18日には高麗大学の学生が国会前で座り込み(帰宅途中に暴漢に襲われ、多数の負傷者が出た)、翌4月19日にはソウルで数万人規模のデモが行われた。
 各主要都市でも学生と警察隊が衝突し、186人の死者を出した。(4・19学生革命)
 政府は各主要都市に非常戒厳令を布告した。
 デモは約1週間続き、4月26日午前、李承晩はラジオで「国民が望むなら大統領職を辞任する」と宣言し、下野した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2229 高知市 朝倉のアジロ山(網代山)の北斜面に陸軍のトラックを隠す横穴を掘ったという証言。

 二〇〇七年五月二十五日。

 「一九四五年四月ころからのアメリカ軍の日本上陸作戦に備えた昭和天皇の軍隊の配備の状況」を知りたいと思っています。
 「しんぶん赤旗」の五月十七日付、中国・四国のページの記事にも、その一端が出ていました。
 高知市朝倉の窪田一郎さん(74)の証言です。


 戦争といえば、(高知市)朝倉のいまの高知大学、養護学校、印刷局は陸軍歩兵第四四連隊の兵舎でした。
 私の家は、兵舎のすぐ近くでした。家の前を朝、夕、兵隊が隊歌を歌いながら行進していきました。近辺には、あらゆる戦争訓練をする練兵場、実弾訓練をする射的場、塹壕戦(ざんごうせん)の訓練をする作業地、陸軍病院、陸軍墓地(現存)の陸軍施設がありました。
 一九四五年四月、満州(中国東北部)にいた四四連隊が本土決戦に備えるということで高知に帰ってきました。
 私たち朝倉在住の中学生(一年―三年)は、五月ころから朝倉のアジロ山(網代山)の北斜面に陸軍のトラックを隠す横穴を掘りました(この十四日にいったら、横穴が三つ残っていました)。

 朝倉のことについては、こんな記事もありましたね。
 昨年十一月二十九日付の「中国・四国のページ」の高知市城北町の坂本安(やす)さん(88)へのインタビューです。


 坂本さんは一九三八年四月、高知県土佐郡朝倉村(今は高知市)の朝倉尋常高等小学校の訓導(教師)になりました。
 同校は、四一年四月には国民学校に。「この年十月、朝倉国民学校は近くの歩兵第四四連隊に占拠されました。召集兵が兵舎に入り切れなくなったという理由でした。学校は兵舎になり運動場は練兵場になりました。児童は製紙工場や寺、神社に分散して授業を受けました」
 その二カ月後、十二月八日、天皇はアメリカ、イギリスなどと太平洋戦争を開始しました。
 坂本さんは、産休をとり、四二年一月に学校に復帰。子どもたちは学校に帰っていましたが、学校の雰囲気はガラリと変わり、小型の軍隊のようになっていました。
 子どもたちは毎日のように運動場に出て足を高く上げ兵隊のように行進しました。校長は壇上に立ち、その前を通るものに「校長先生にカシラー、右」をさせます。子どもたちは朝倉神社への戦勝祈願に動員されました。出征する兵士を見送りに朝倉駅へいき、「英霊」を迎えにいきました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.05.27

四国、よいとこ 2230 高知市 三里の浜の松原でのアメリカ軍戦車への特攻訓練。

 二〇〇七年五月二十五日。

 「一九四五年四月ころからのアメリカ軍の日本上陸作戦に備えた昭和天皇の軍隊の配備の状況」。
「しんぶん赤旗」の三つ目の記事です。
 五月十九日付、中国・四国のページです。


 高知市の茂松延章(しげまつ・えんしょう)さん(74)の証言です。

 三里地域は太平洋戦争の時、本土決戦の準備で地域ごと特攻態勢に巻き込まれました。
 海軍が、畑をつぶし松林の墓地を共同墓地に移して浦戸海軍航空隊を開隊しました。一九四四年十一月一日のことです。
 しかし、私が飛行場から飛んだ練習機を見たのは一回だけです。翼を布で張った飛行機でした。
 いまその跡にある碑には、四五年五月に入り、ここの練習生は「敵を水際に撃破すべく日夜陸戦特攻訓練に終始し」たとあります。
 そこの兵隊だったかどうかわかりませんが、三里国民学校に十代らしい海軍兵たちが二十人くらい駐屯していました。
 毎日のように私の家の畑などに国民学校から浜に移動するための散兵壕(さんぺいごう)を掘っていました。
 浜の松林で特攻訓練もしていました。
 四人が木でつくったアメリカの戦車を持ってかけました。松の木の根っこにつくったタコツボに潜んでいた一人が木でつくった爆弾を持って、その戦車に飛び込んでいくのです。
 私は海南中学校の一年生で、三里国民学校のすぐ近くに住んでいました。兵隊たちは、昼すぎには私の家にきて「おばちゃん。何か食べる物ちょうだい」といっていました。
 兵たちの姿を見て私も四年生になったら海軍兵学校に入って後に続こうと思っていました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2231 高知市大津 テッポウユリが咲いたよ。

200705027_001


 二〇〇七年五月二十六日。

 高知県四万十市にいっていて夕方、高知大津の家に帰ると、プランターのテッポウユリが二つ咲いていました。
 なんか、ものすごくうれしかった。

 これは高知市九反田の借家から持ってきたものです。
 昨年も咲いてくれていました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2232 高知市大津 「貫之(つらゆき)は 波打つ田辺島 見ただろか…」。

 二〇〇七年五月二十七日。

 貫之(つらゆき)は 波打つ田辺島
 見ただろか
 いま、この土地に バイクで渡る

 田辺島で 平安の世を
 しのんでる
 波音はなく ゲコゲコの中

 二十六日午後、中村駅から高知駅への列車の中で『土佐日記を歩く 土佐日記地理辨全訳注』(井出幸男、橋本達広。高知新聞社)を読みました。
 わが家のある高知市大津の田辺島は、『土佐日記』の編まれた時代には、浦戸湾の島だったと書いてありました。
 うーん、そうなのか。
 いまは高知市東部の陸続きの場所ですが…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.05.29

四国、よいとこ 2233 高知市 すっごくきれいな青空!!!

 二〇〇七年五月二十八日。

 朝、すっごくきれいな青空!!

 高知市内二箇所で仕事をしてから、今度は県下津野町へ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2234 安倍晋三内閣の支持率は32%。落ち目です。

 二〇〇七年五月二十八日。

 本日の「毎日新聞」。
 二十六日、二十七日の電話による全国世論調査を実施。安倍晋三内閣の支持率は32%。
 4月の前回調査比11ポイント下落。
 昨年9月の政権発足以来最低となりました。
 不支持率は44%で最高となりました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2235 高知県津野町 ガーベラの赤い花。

200705028_029


200705028_028


200705028_044


 二〇〇七年五月二十八日。

 高知県津野町で見たシーン。
 赤い花はガーベラです。
 この花、大好きになりました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2236 高知県津野町 「てんくろう」の東京弁訳は…。

 二〇〇七年五月二十八日。

 高知県津野町で話していて「てんくろう」という言葉を聞きました。
 土佐弁です。
 人を評価する言葉で、あまりいい意味ではありませんが、「東京弁」訳は……。

 難しいですね。土佐弁は。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2237 高知県 真夜中のビニールハウス。

200705028_073


 二〇〇七年五月二十八日。

 高知県津野町からの帰りに須崎市あたりで見たシーンです。
 ビニールハウスです。
 もっとちゃんと撮れるようになりたい。

 高知市の自宅に帰りついたら夜十一時半。

 テレビのニュースは、自民党の汚い金まみれ政治の政治でクローブアップされ、安倍首相がかばっていた松岡農林水産大臣の自殺(?)を繰り返し報じています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四国、よいとこ 2238 高知県 『あたらしい憲法のはなし』を読んでみませんか。

 二〇〇七年五月二十九日。

 昨日、ひょんなことから『あたらしい憲法のはなし』を再読しました。
 日本国憲法が公布されて十カ月後の一九四七年八月、文部省によって発行され、全国の中学生が一年生の教科書として学んだものです。
 じつにわかりやすい読み物です。

 たとえば、戦争放棄の所は、こうなっています。


        六 戰爭の放棄

 みなさんの中には、こんどの戰爭に、おとうさんやにいさんを送りだされた人も多いでしょう。ごぶじにおかえりになったでしょうか。それともとう/\おかえりにならなかったでしょうか。また、くうしゅうで、家やうちの人を、なくされた人も多いでしょう。いまやっと戰爭はおわりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。こんな戰爭をして、日本の國はどんな利益があったでしょうか。何もありません。たゞ、おそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。戰爭は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。だから、こんどの戰爭をしかけた國には、大きな責任があるといわなければなりません。このまえの世界戰爭のあとでも、もう戰爭は二度とやるまいと、多くの國々ではいろ/\考えましたが、またこんな大戰爭をおこしてしまったのは、まことに残念なことではありませんか。
 そこでこんどの憲法では、日本の國が、けっして二度と戰爭をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戰爭をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戰力の放棄といいます。「放棄」とは「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの國よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。
 もう一つは、よその國と爭いごとがおこったとき、けっして戰爭によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの國をほろぼすようなはめになるからです。また、戰爭とまでゆかずとも、國の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戰爭の放棄というのです。そうしてよその國となかよくして、世界中の國が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の國は、さかえてゆけるのです。
 みなさん、あのおそろしい戰爭が、二度とおこらないように、また戰爭を二度とおこさないようにいたしましょう。

 しかし、この教科書はニ、三年使われただけでした。
 で、僕たちの学年は、これで勉強していません。
 僕は、日本平和委員会が出した、この本の復刻版で読みました(二百円です)。

 あなたも、読んでみませんか。

 以下のページにも、全文が載っていますよ。

 http://www.aozora.gr.jp/cards/001128/files/43037_15804.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.05.30

「田辺島発」にも、どうぞ。

 二〇〇七年五月三十日。

 今夜から、わが家の周辺の出来事は、以下の「田辺島発」に書くことにしました。

 ぜひ、おいでください。

 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tabesima/

 ちなみに、このサイトは「短歌専用」にしたいと思っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年4月 | トップページ | 2007年6月 »