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2007.05.26

四国、よいとこ 2228 高知市 韓国映画「大統領の理髪師」の「四捨五入」というせりふの意味。

 二〇〇七年五月二十五日。

 『歴史を知れば もっと面白い 韓国映画』(川西玲子さん)で触発されたこと、その三。

 韓国映画「大統領の理髪師」(二〇〇四年)に「四捨五入」というせりふが出てきて、なんのこっちゃと思っていましたが、この本を読んでわかりました。

 イスンマン(李承晩)大統領の二度目の憲法改定の時のことでした。
 憲法改定には国会議員の三分の二以上の賛成が必要でした。
 開票したら賛成したのは在籍国会議員二百三人のうち百三十五人で、必要な百三十六票に一票足りませんでした。
 それを二百三の三分の二は百三十五・三あまりだから四捨五入すれば百三十五でかまわないという論理で押し切ってしまいます。
 「四捨五入改憲」というのだそうです。


 【参考】

 李承晩 이승만

 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から(内容を、かなりカットしています。行替えもしています)。

 李承晩(イ・スンマン、1875年3月26日 - 1965年7月19日)は、朝鮮の独立運動家で、大韓民国の初代大統領(在任1948年 - 1960年)。

 1896年に設立された独立協会にも参加したが、時の親露派政権が高宗皇帝に讒言したため、1898年11月には独立協会の解散、指導者の逮捕が命じられ、独立協会は同年12月、強制的に解散させられた。
 李承晩もこの時、逮捕され、拷問をうけながら、1904年まで獄中にいた。
 その年、日露戦争の勃発後に日本が軍事的・外交的・経済的に大韓帝国に浸透するのに危機感をいだいた高宗などが1882年の朝米修交通商条約の第1条の「周旋条項」に基づいて米国に韓国の独立維持のための援助を求めるため、李承晩を釈放し、米国に派遣した。
 ハワイを経由して、米国に渡った李承晩は1905年8月、時の米国大統領セオドア・ルーズベルトに面会し、米国の援助を求めるルーズベルト宛てのハワイ在住韓国人の請願書を提出したが、ルーズベルトは、請願書を公式のチャネルを通すよう求めた。
 それをうけて、李承晩は駐米韓国公使館に赴いたが、そこはすでに日本が押さえており、請願書のルーズベルトなり国務省なりへの送付を拒否したため、李承晩のルーズベルトへの要請は、失敗に終わった(ルーズベルトは、駐米韓国公使館が日本に押さえられていることをすでに承知しており、またすでに米国のフィリピン支配と日本の韓国での優越を認め合った桂・タフト協定に承認を与えていたため、李承晩との面会時の回答は、自分への要請に対する暗黙の拒否にほかならなかった)。
 その後、李承晩はアメリカに残り、ジョージ・ワシントン大学、ハーバード大学を経て、プリンストン大学で博士号を取得した後、朝鮮の独立運動に携わった。
 上海で結成された大韓民国臨時政府の初代大総理に就任し、その後、臨時政府大統領となった。
 上海臨時政府は、短期的にではあれ、朝鮮独立のための統一戦線として左右両翼を糾合できたという点で独立運動における画期的な存在であった。
 李承晩は臨時政府発足後に左派の李東輝と対立するや早々に上海を去った。
 のちには臨時政府内で弾劾されるにまで至った。
 以降はアメリカでのロビー活動に専念した。

 アジア・太平洋戦争の終結と解放から2ヵ月後、1945年10月に帰国し、独立建国運動の中心人物となった。
 李承晩は当時すでに70歳であり他の運動家に比べて活動歴が長いこと、大韓民国臨時政府(以下「臨政」)の初代大統領であったこと、左派も多く擁していた朝鮮建国準備委員会(以下「建準」)からも一時的に支持されていたこと、アメリカでのロビー活動によってとりわけ有名であったことから、当初から大統領に就任すべき正統性を備えているとみなされていた。
 李承晩は帰国するやアメリカの意を受けて建準とも臨政とも距離をおき、反共統一を掲げた。
 李承晩は名声を享受しつづけていたものの、実際には外国に滞在していた要人に過ぎなかった。そのため地盤も基盤も富ももちあわせていなかった。これを支えたのが全羅道地方の資本家・湖南財閥と、それが中心になって組織された韓国民主党(韓民党)である。韓民党は建準に対抗して臨政を支持していた。一方で、李承晩自身は連合国が決定した朝鮮の信託統治案に反対していた。 アメリカ軍政は李承晩を支持し、彼と韓民党を仲介した。
 臨政と韓国民主党は信託統治反対運動の路線などをめぐって対立しており、臨政と左派との合作が始まると、韓民党は李承晩に接近する。
 両者の連合は独自の勢力作りに動き出し、李承晩の下に政府準備組織「独立促成中央協議会」(独促)を発足させた。
 このことで、アメリカ軍政下には独促・臨政・建準という三つの政府組織(政府準備組織)が存在することになりソウルには大混乱に陥っていた。
 李承晩と韓民党の連合は建準で勢力を誇っていた左派と、その他の臨時政府出身者に対抗し、解放直後のソウル政界で主導権を握った。
アメリカ軍政が最も嫌った左派の排除に成功した李承晩と韓民党は、1948年5月10日に行われた国連監視下での総選挙に臨んだ。この選挙は大反対の中で強行された。
 各地で反対派による武装闘争が展開された。
 選挙に至る過程で起きた最も悲惨な事件が済州島四・三事件である。済州道では選挙を妨害する左派と政府軍との間で衝突がつづき内乱に近い状態に陥った結果、数万人の島民が犠牲になった。
 総選挙によって李承晩と韓民党は制憲議会の多数を制した。そこで制定された第一共和国憲法は議会が大統領を選出すると定めていた。
 1948年 8月13日、アメリカ合衆国の後押しで大韓民国が建国された。李承晩は議会多数の支持を得て初代大統領に就任した。政権は地主・資本家および旧植民地官僚を勢力基盤としていた。
 李承晩は失脚の瞬間まで独裁的に振る舞った。韓国国内は政治的対立で揺れつづけた。対立派は多くの場合、反体制派というよりもむしろ議会政治家たちであった。
 最初の対立は大統領制をとりつづけるか議院内閣制を採用するかを巡っておきた。
 李承晩を支えていた韓民党の多数は議院内閣制の採用を望んでいた。
 両者の対立はほどなくして抜き差しならないものになった。
 日本統治時代に普成専門学校(現在の高麗大学校で湖南財閥の一員)教授をし、ソウル大学校教授を兼務していた愈鎮午・憲法起草委員会議長は韓民党の意向を受け大統領を形式的な元首とする、議院内閣制に近い憲法草案を起草していたが李承晩により覆され、大統領中心制へと転換される。
 初代内閣組閣の時にも韓民党との対立は起こった。韓民党は金性洙を国務総理に推していたにも関わらず李承晩は李允栄を国務総理に任命、27対120の大差で否決される。
 李承晩は続いて李範セキ(李範奭)を国務総理に任命、110対84で可決。
 初代内閣からは韓民党はほぼ排除され、金度演が財務部長官に任ぜられたのみとなった。
 1949年には反李承晩勢力が団結して政界再編が起き、民主国民党が生まれた。
 民主国民党には臨時政府出身者の一部も加わり、申翼煕、趙炳玉らがリーダーとなった。民主国民党は改憲案を上程したが、在席者中3分の2の賛成を得られず、改憲案は否決された。
 李承晩は大統領就任前から「北進統一」を主張していた。
 1950年、朝鮮戦争が勃発し、朝鮮民主主義人民共和国が韓国に圧倒的な戦力で攻め込んでくると、韓国軍は瞬く間に総崩れになり、ソウルは陥落。釜山まで引くことになった。朝鮮戦争はマッカーサーの「仁川上陸作戦」以降、東西冷戦下の代理戦争の様相を呈し始め、朝鮮戦争を望んでいた李承晩の存在感は徐々に薄れていった。
 朝鮮戦争初期に韓国に侵入した北朝鮮兵は、その後、韓国内でパルチザン闘争を繰り返した。同民族によるパルチザン闘争の衝撃は強く尾を引いた。
 李承晩がエキセントリックな再登場を果たすのは、1953年、国連主導による休戦提案が出始めてからである。
 「停戦反対、北進統一」「休戦は国家的死刑」を口に最後まで休戦に反対し、北進統一論に基づいた朝鮮半島の民主主義による統一にこだわった。
 それを尻目に国連は粛々と休戦への道筋をつくり、6月8日に両軍の捕虜送還協定が締結された。
 しかし、李承晩は、6月18日にアメリカに何の予告も無く捕虜収容所の監視員に捕虜の釈放を指令。抑留捕虜2万5000人を釈放するという事件を起こした。正式に決まった協定を反故にする暴挙に、国際世論の非難が高まった。
 李承晩は北朝鮮内の中国人義勇兵が完全に排除されることも望み、早期休戦を望む国連軍/アメリカと激しく対立した。
 7月16日のソ連の新聞『ソヴィエト・ニュース』は「ここ三年というものは李承晩について聞いたことがなかった。三年の間、南朝鮮のすべての問題はアメリカ軍司令官だけによって指令されており、李承晩は、釜山の奥にいるアメリカ軍の裏庭あたりにおあずけになっていた。・・・・・・ところが、いま突如として、李承晩はあまりに強大かつ強力であるため、<国連軍司令官もアメリカ大統領も、またアメリカ議会も彼とは太刀打ちできない>と発表されている。ぶざまな茶番劇が上演されているのだ」と伝えた。
 あまりにも強大で強力な李承晩は件の捕虜釈放事件で孤立することになった。
 李承晩はやむなく休戦に同意。(署名はしていない)
 7月27日に朝鮮戦争は休戦した。
 休戦後も、李承晩はアメリカ議会に出向き「北進統一」を訴えたが、もはや誰も耳を貸すものはいなかった。
 朝鮮戦争のさなか、李承晩は湖南財閥から韓民党への資金供給を断つべく、京城紡績の預金引き出しを停止する。
 このために京城紡績は李承晩派に資金供給先を変更する。
 これによって韓民党は強力な経済的基盤を失うこととなる。
 1952年になると再び議会との対立が激化した。政府は釜山に撤退していた。
 任期切れを控えていた李承晩は、憲法の再選禁止を撤廃するために、三選までを許す改憲案を上程した。
 これに対抗して野党は議院内閣制案を提出した。
 李承晩は戦時下の釜山に戒厳令を布告し、野党議員を大量に検挙した。
 1952年7月4日、国会が警察に包囲されているなか、与党議員がほとんどを占めている国会で改憲案は可決された。
 大統領の選出は直選制となった。
 このころまでに李承晩派は自由党を組織している。
 この時期にアメリカは戦時下において議会との対立を解消できない李承晩の排除を考えてはじめたと言われている。
 1954年当時の憲法では、大統領の任期は二期までで、三選は出来ない事になっていた。
 生涯大統領を望む李承晩及び与党自由党は「初代大統領にかぎって三選禁止規定を撤廃する」という改憲案を提出した。
 11月27日の国会投票では、議員203人中、賛成135票、反対60票、棄権7票、無効票1票という結果になった。
 可決には議会の3分の2に至る135.33票以上、136票が必要だった。
 1票届かず、改憲案は否決されるはずだった。
 李承晩派の国会議長は、135.33票とは社会通念上の通念である四捨五入を用いれば135票であり、改憲に必要な3分の2を超えているとして改憲案の可決を宣言した。(四捨五入改憲)
 1956年、李承晩が三選を狙った大統領選挙に際して、野党勢力は「もう生きられない、(政権を)変えてみよう」をスローガンに統一戦線を組み、民主党を結成した。一方、自由党は「替えたところで、変わらない」というスローガンで対抗した。
 民主党は大統領候補に申翼煕、副大統領候補に張勉、自由党は大統領候補に李承晩、副大統領候補に李起鵬という布陣だった。
 選挙直前の5月5日、民主党の大統領候補・申翼煕が遊説に向う途中の電車の中で脳溢血で倒れ、急死するというトラブルがあり、民主党は副大統領候補だけの選挙を余儀なくされた。
 官憲の介入もあり、選挙の結果、李承晩は大統領三選を果たしたが、副大統領の李起鵬は民主党の張勉に敗北。大統領が与党、副大統領が野党という一種のねじれ現象が起きた。
 高齢の李承晩に万一の事態が起これば、副大統領の民主党の張勉が繰り上げて大統領になるため、自由党は危機感を抱いた。
 同年9月28日には退役軍人による張勉副大統領暗殺未遂事件を起こし、1959年4月には張勉系の野党紙「京郷新聞」を廃刊処分にするなど、李承晩は徹底的な政敵潰しを行った。
 同年7月には長年の政敵であった曹奉岩を処刑している。
 李承晩とフランチェスカ夫人に直接の子供はいなかったが、三期で落選・幻の第四期に副大統領を務めた李起鵬の長男・李康石を養子に迎えていた。
 「独裁者の息子」はたびたび問題を起こしていたが、1957年、ソウル大学に特恵入学をする事が発覚すると、大騒ぎになった。
 「1957年8月、9月は李承晩政権の絶頂期。李康石は街の無法者となり、警察官を殴ったり、派出所の器物を壊して歩いても、誰も告発したり、処罰するものはいなかった。」
 1957年8月末、姜聖柄という22歳の男が李康石になりすまし、「父から密命で公務員の不正を調べている」と地方の知事や警察署長などを騙し、厚い接待を受けたり、金品を要求するという事件を起こした。
 事件発覚後、慶州知事の「貴いお方が一人でいらっしゃったのだから」という発言が取り沙汰され、「貴いお方」という言い回しが全国的に流行した。
 1960年、李承晩が四選を狙った大統領選挙に際して、野党の大統領候補・趙炳玉がアメリカで病気療養が長引いている(同年2月に客死)ことを見計らって李承晩は選挙期間を早めた。
 野党は「悲しみをおさめ、また戦場へ」をスローガンで国民に同情を訴えたが、与党は「ケチつけるな、建設だ」というスローガンで対抗した。
 この選挙では与党の不正工作はより徹底された。副大統領の当選を確実にするために公務員の選挙運動団体を組織し、警察にそれを監視させるなどの不正工作・不正投票などが横行した。
 1960年3月15日、大統領李承晩、副大統領李起鵬の当選が報じられると、特に不正がひどかった慶尚南道馬山では民主党馬山支部が「選挙放棄」を宣言。
 それは即座に不正選挙を糾弾するデモへと発展し、これに市民も参加。
 「デモは共産党主義者の扇動」を主張する当局がデモ隊に発砲し、8人死亡50人以上が怪我という惨事になった。
 4月11日、このデモを見物に行き、そのまま行方不明になっていた高校生・金朱烈が馬山の海岸で頭に催涙弾を打ち込まれた遺体で発見された。
 市民・学生などは、当局に彼の死因を究明する要求を掲げ、再度デモを行ったが、当局は再び「デモは共産党主義者の扇動」とこれを鎮圧し、デモの主導者を逮捕した。(馬山事件)
 馬山事件に抗議するデモは瞬く間に韓国中に飛び火し、4月18日には高麗大学の学生が国会前で座り込み(帰宅途中に暴漢に襲われ、多数の負傷者が出た)、翌4月19日にはソウルで数万人規模のデモが行われた。
 各主要都市でも学生と警察隊が衝突し、186人の死者を出した。(4・19学生革命)
 政府は各主要都市に非常戒厳令を布告した。
 デモは約1週間続き、4月26日午前、李承晩はラジオで「国民が望むなら大統領職を辞任する」と宣言し、下野した。

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