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2007.06.26

高知市 「おーい、君も B29を見たのかい」。

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 二〇〇七年六月二十六日。

 「おーい、君も B29を見たのかい」
 公園の木を
 仰ぎ見る、初夏。

 なぜか、こう 平和の思い わき上がる
 終戦の夏
 出発の夏

 昨夜から東京の妻が高知市大津のわが家にやってきています。
 で、きょうは休み。
 しかし、午前中は昨日の仕事の続き。
 正午から午後三時半までビラ配布。
 午後五時から仕事。
 というわけで、休みやら仕事やら…。
 夕方、二十分くらい時間が空いて、高知市の中島町公園でゆったりした時間を過ごしました。
 大きな木が五本。
 たぶん、七十年以上は生きているのではないでしょうか。

 【参考】

 B-29 (爆撃機)

 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から。

 B-29は、第二次世界大戦末期から朝鮮戦争期のアメリカの主力戦略爆撃機。
 中型爆撃機構想から発展したB-17と異なり、最初から長距離戦略爆撃を想定して設計された。
 当初は陸軍戦略航空軍所属であったが、1947年に空軍の独立と共に空軍に移管。
 設計・製造はボーイング社、中翼単葉プロペラ4発の大型爆撃機である。
 爆弾の搭載量は最大9トン。航続距離は4,585km。ニックネームは「超空の要塞(スーパーフォートレス /Superfortress)」 。
 アメリカ陸軍の航空部門は、第二次世界大戦が始まる5年前の1934年5月に超長距離大型爆撃機開発計画「プロジェクトA」を発足させた。
 これは1トンの爆弾を積んで8,000km以上を飛ぶことができる爆撃機を作る計画で、長距離渡洋爆撃を想定していた。
 B-29はこの構想の中から生まれた機体で、1938年に完成した試作機(ボーイングXB-15)から得られた種々のデータや、新しい航空力学のデータをもとに設計製作された。
 1940年6月27日(ヨーロッパでの戦争は始まっていたが、真珠湾前なのでアメリカは参戦していなかった)XB-29が発注され、1942年9月21日に初飛行した。
 当初は中南米が主なターゲットとされていたとされる。中南米にナチスドイツの同盟国が出現したりナチスドイツの占領下におかれた場合への、アメリカ本土の防衛策として開発された。その航続距離は、ベネズエラ・赤道ギアナ付近を想定したものであった。
 従来の飛行機は高空を飛ぶ場合、空気が薄くなる対策として乗員・乗客に酸素マスクの装備が必要であった。 B-29は、室内を海面に近い空気圧に保ち快適に飛行できる与圧室を装備しており、乗員は通常酸素マスク無しで搭乗していた。
 遠隔操作により、機銃操作員が銃塔内から窓越しに見える敵迎撃機に向かって機銃を操作する事はなくなった。
 その結果機銃砲塔が非常にコンパクトになっている。 火器管制装置の搭載により非常に高い練度を必要とする見越し射撃を誰でも行えるようになった。
 敵迎撃機を照準機のレティクルの中に捉えるだけで、火器管制装置が自動的に弾道計算して発砲するという優れたシステムであった。
 この結果、従来の爆撃機に搭載された防御砲火と比較して命中率が驚異的に向上し、敵迎撃機はうかつに接近する事もできなかった(後にB-29の強敵となるMig-15戦闘機ですら、この強力な防御砲火は極めて脅威であった)。
 1944年4月にヨーロッパ経由でインドに集結、1944年6月から中国内陸部の成都基地より九州・満州・東南アジア方面に爆撃を行った。
 1944年11月以降は、マリアナ諸島のサイパン島およびグアム島から日本本土のほぼ全域に対する戦略爆撃を行った。
 最初は爆撃対象を軍施設や軍需工場に限定して高高度からの精密レーダー照準爆撃であったがジェット気流の影響により目標からはずれることも多かった。
 1945年に入りアメリカ空軍のカーチス・ルメイが、前任アーノルドが消極的と判断されて指揮官となると、「日本の継戦能力を根本から絶つ」として、爆撃対象は軍・民間を問わなくなり、低高度からの夜間無差別絨毯爆撃を開始した。総計14万から17万トン(諸説あり)の爆弾を東京・大阪をはじめ、日本各地の都市に対して絨毯的に投下し、主要都市を焦土化した。
 原爆投下後のエノラ・ゲイ都市の住民8万人近くが焼死あるいは重傷・罹災等になった東京大空襲や、大阪大空襲は、B-29の重要な戦果とされる。
 さらに日本各地の港湾・航路に空中投下機雷を散布し、国内航路に大打撃を与えた。特に関門海峡には多くの機雷が投下された。
 当初は数十機編隊で、1機あたり爆弾の搭載量も2~3トンであったが、1945年になると5~6トンを搭載するようになり、終戦近い頃にはB-29とそれを護衛する戦闘機の集団約500機(戦爆連合とも)で来襲するようになった。
 広島市・長崎市に、原子爆弾(新型爆弾)を投下し、数十万人の市民が被災した。
 広島市に原子爆弾を投下したB-29はエノラ・ゲイ、長崎市に原子爆弾を投下した機はボックスカーと呼ばれる。広島にはウラン型の「リトルボーイ」が、長崎にはプルトニウム型の「ファットマン」が投下された(詳細は広島市への原子爆弾投下、長崎市への原子爆弾投下参照)。
 初期以来の精密爆撃や末期の原子爆弾投下および偵察飛行において、B-29は本来の性能を発揮できる高高度(9000~10000m)で行われた。
 日本を空襲するB-29飛行機の品質が低下し純度の高い燃料の入手が無理な日本の戦力では、高空を飛行するB-29を迎撃する事は至難であった。
 迎撃には単座戦闘機鍾馗・飛燕・雷電・紫電改などが使用されたが、1万m以上の高空では排気タービンをつけたB29の方が高速であり、追いつくのも困難であった。
 このため待ち伏せの体当たりが主流となってゆく。
 夜間爆撃は低空侵入だったので斜め20mm砲を装備した双発の月光、屠龍等が撃墜の成果を挙げた。
 1945年3月に硫黄島がアメリカ軍に占領され、護衛戦闘機P-51が随伴するようになると、双発機は使用できず日本軍迎撃機によるB-29の撃墜は一段と困難になった。
 カーチス・E・ルメイが戦術変更して以来、B-29の空襲は主に夜間に行われるようになり、夜間は日本側の単座戦闘機が飛べないので2~3千メートルまで降下して絨毯爆撃を加えるようになった。
 センチメートル波の小型機上レーダーはおろか、各機を管制する防空システムがない日本側では効果的な迎撃を行うことができず、パイロットは寒さの中で、夜間戦闘機が爆撃の火災に照らし出されるB-29を発見・攻撃する状態であり、灯火管制の中止を要求する飛行隊もあった。
 日本側の戦闘機による迎撃能力が問題にならないことに気づいたアメリカ側は、東京大空襲の際には、低高度での有効な対空兵器のない日本の首都にたいして、高度300Mで進入爆撃した。
 B-29の後部銃座以外の防御火器を撤去し、砲塔の跡はジュラルミンで塞ぎ通常より多い6トンの高性能焼夷弾を搭載し攻撃した。

 
  【お誘い】

  日常のドキュメント・「田辺島発」にも、どうぞ。
  http://fujihara.cocolog-nifty.com/tabesima/

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