« 2008年5月 | トップページ | 2008年7月 »

2008年6月

2008.06.01

高知市 高知大学の先生だった、あの山崎重明先生のお屋敷。 

 二〇〇八年五月三十一日。

 午後、高知市上町の、あつまりの会場に向かいました。
 地図で見たら「山崎重明」とありました。
 もしかして、あの高知大学の先生だった……。
 着きました。
 しっとりした屋敷でした。
 やはり、あの山崎先生のお家でした。
 お亡くなりになったそうです。
 息子さんから、先生の著作をいただきました。
 庭が素敵でした。
 山崎先生は、ここで暮らしていたんですねー。
 学生時代は親しくお話しすることもありませんでしたが、心に残る先生でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

高知市 「『面白い』をやってみませんか。たとえばブログ。超簡単です」という講演の内容。

 二〇〇八年五月三十一日。

 午後、高知市で開かれた「看護を良くする会総会」で講演させていただきました。
 話のタイトルは、「『面白い』をやってみませんか。たとえばブログ。超簡単です」です。
 僕がブログをやっている気持ちは平安時代後期の歴史物語『大鏡(おおかがみ)』に出てくる、こんな言葉です。
 「おぼしきこと言はぬは、げにぞ腹ふくるる心地しける」
 思っていることを口に出していわないとお腹がふくれて苦しくなっちゃいますよ。
 こんなお話をしました。

 ● ブログというのは、インターネットの日記型のホームページ・ブログでの発信です。
 私は、これに「日々の思い」「自分なりの発見」「聞いてほしいこと」などを記事や写真で発信しています。
 これがなかなか面白いんですよ。
 ● ブログをつくるのは簡単で三十分ほどで完成しました。
 毎晩のように寝る前に書いています。
 一日の生活の中で生まれた短歌、発見などを書いています。
 これまでに何本記事を書いたろうと思って調べてみましたら、二千八百十四本書いていました。
 最近は、毎日百二十人が、私のブログを見てくれています。
 三十日に載せた「後期高齢者医療制度の廃止を、なぜ求めるのか 導入後二カ月に当たって」という論文みたいな記事は、三十一人が読んでくれていました。
 ● ブログに載せた短歌を、みんながどういうふうに迎えてくれたのかが本当は知りたいのですが、その反響は、あまりありません。
 ←少ないながらも反響のメールの内容を紹介。
 ● うれしいのは、いろんな知り合いが読んでくれていて、「読んでますよ」というメールをくれることです。
 二月に六十一歳になりました。
 妻も娘も息子も「おめでとう」の一言もなくってかなしいよーと書いたら、ある女性が「おめでとうございます」と、メールをくれました。ほんとにうれしかった。
 ● 知らない人からもきますね。
 私のブログが高知を強調していますので、やっぱり「高知つながり」が多いですねー。
 ←日本共産党の衆議院議員だった山原健二郎さんのことを書いたらページを見てメールをくれた人のこと、伊野町の勤評闘争の歴史についての記事を読んでメールをくれた伊野町出身の人のことを紹介。
 ● 最近、目立つのが、「あなたのブログの写真をつかわせていただけませんか」と、こうものです。
 以前には、「坂本龍馬関係の本の編集をしているんですが、表紙に、あなたのブログに載っている浦戸の海の写真を使わせていただけませんか」というメールがきました。
 「どうぞ」といったら、のちほど、その写真を使った本が届きました。
 ←城西公園の竹本源治さんの詩碑の写真を使わせてというメール、東京のテレビの制作会社の人からの花の写真を使わせてというメールのことを紹介。
 ● 太平洋戦争中の日本、高知の実際を知りたいと、いろいろ調べてブログに載せています。
 それを読んだ人からもメールがきます。
 ←「記録 国民学校音楽の時間」という連載、「高知県の学徒勤労動員の記録」、義父の特攻隊での体験の記事を読んでメールをくれたかたなどのことを紹介。
 ● 与謝野晶子さんについての記事にはヨーロッパの研究者からもメールがきました。
 外国といえば、韓国について書いた記事にもいくつかメールがきました。
 ←映画「ありらん」、韓国のある詩人について書いた記事のついての事例を紹介。
 ● 五月には、つれあいのブログもできました。
 「はちきんホエールズ」というやつです。
 とっても、いい題名だと思いますが、いかがでしょうか。
 高知市に住む二十二歳の男性の大学生、イッシーさんのサーバーでつくってもらいました。
 彼は昨年、サーバー管理者になりブログづくりのサービスをしています。
 もし有料で良ければ、イッシーさんのブログづくりのサービスをしています。
 ちなみに、設置料無料、年間の使用料が七千二百円。月々にすれば六百円です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

高知市 五月三十一日に見た花たち。

004
015 025

| | コメント (0) | トラックバック (0)

高知市 今夕、手に入れた缶バッジです。

036  二〇〇八年五月三十一日。

 今夕、手に入れた缶バッジです。

 なんか、すごくいい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

高知市 六月一日の、わが庭の花たち。

015_2 134 112

| | コメント (0) | トラックバック (0)

男子バレーボール、対イランの試合をテレビで見る。

 二〇〇八年五月三十一日。

     男子バレーボール、対イランの試合をテレビで見る。

腰川の スパイク、スパイク 心地よく
男子バレーの
熱戦続く

本番で
細かく指示する 監督さん
任せておきなよ 矢は放たれてる

「ミキプルーン」 胸につけてる 選手らが
告発してる
「日本のスポーツ」

腕組んで 見ている女性と 同化する
うーん、やっぱり
三セット目はーー。

押し切って 勝ち抜くことの 快感を
教えてくれた
選手に拍手

| | コメント (0) | トラックバック (0)

高知市 「父、息子 ビール飲んでる CMに……」。

 二〇〇八年五月三十一日。
 
父、息子 ビール飲んでる CMに
涙ぐんでる
うらやましくってさー

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.06.02

高知市大津 ご飯炊きにも文句をつけられる日々。「いかん。あんたが炊いたら、へたで、まずい。きょうのも、べとついていた」。

 二〇〇八年六月二日。

 朝、妻が東京から高知市に帰宅。
 僕は午前の授業へ。
 家へ帰ってきたら、妻は、「これからホテルの温泉にいく。夜は会議」。

 夜の授業を終えて午後十時ころ家に帰り着いたら妻も帰り着いたところでした。
 僕は、早速、ご飯を炊こうとして米を洗い始めました。
 すると、妻は、
 「いかん。あんたが炊いたら、へたで、まずい。きょうのもべとついていた」
 と、実力で、それを阻止。
 な、なんてやつ。
 僕は、一方的にけんかを売られています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

高知市 不遜で、横着で、強引な、お願いに、すぐさま応じてくださった県議さんのこと。

 二〇〇八年六月二日。

 五月三十一日夕、出先で県議のYOさんに会いました。
 「県政の問題で、こういうことを教えてほしい。できれば、そのことの根拠になる文書もほしい。三日中までに」
 不遜で、横着で、強引な、お願いをしました。

 六月二日午後十時ころ、家に帰り着きました。
 郵便ポストに大きな封筒が入っていました。
 その県議さんの、お願いした件の、手書きのメモ、資料が入っていました。
 けっこう遠いんですよ。その県議さんの家。
 「わーっ、すみません」
 と、いう感じでした。

 頭が、ぐぐっと下がりました。
 YO県議さん。誠実で、素敵な人です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.06.03

「だんだん」は「ありがとう」。愛媛と島根と。

 二〇〇八年六月三日。

 本日の「しんぶん赤旗」にNHK総合テレビの九月二十九日からの朝のドラマ「だんだん」のことが載っていました。
 「へえーっ、だんだんか。愛媛の話かな」
 違っていました「だんだん」は、島根の言葉で「ありがとう」の意味だといいます。
 愛媛でも「だんだん」は「ありがとう」でしたよねー。
 島根と愛媛で同じ言葉、おもしろいですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

高知市 「はちきん」と暮らすのは結構しんどい。「テレビを空気に見せなや」の「口撃」。

 二〇〇八年六月三日。

 夫婦だけが住む、高知市の、わが家での、ある日のできごと。

 僕が一階のテレビをつけたまま、いろいろやっていると、妻いわく。
 「テレビを空気に見せなや」
 うーん。

 妻が、トイレの電灯がつけたままなのを見とがめた僕、いわく。
 「トイレの電気は、すんだら消しや」

 妻、いわく。
 「また、(トイレに、いつかは)いくろう(行くでしょう)」

 反撃すれば、こうしたやりとりが、ずーっと続くので、夫は、引き下がっている、きょうこのごろです。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008.06.04

高知県 日本帝国海軍が、高知県窪川町宮内の山あいの水田、麦畑につくった飛行場(一九四五年七月)について調べています。 

 二〇〇八年六月四日。

 日本帝国海軍が、高知県窪川町宮内の山あいの水田、麦畑につくった飛行場(一九四五年七月)について調べています。

 平和資料館・草の家(高知市)に、この飛行場に配備されていた練習機「白菊」の車輪二つとエンジンカバーがあることが確認されています。

 当時の様子がわかる「もの」や「証言」を探しています。
 こころあたりのかた、教えていただけませんでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

今年の高知大学人文学部人間文化学科の第三年次編入試験の問題をやってみました。が、……。

 二〇〇八年六月四日。

 家で、今年の高知大学人文学部人間文化学科の第三年次編入試験の問題をやってみました。

 四問中、一問目、二問目の英文の日本語訳の問題は手も足もでません。
 「だるま」状態です。
 語彙(ごい)不足が決定的です。

 いまさら……ですが、英単語帳をつくることにしました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.06.05

「死ぬ日まで天を仰ぎ 一点の恥辱(はじ)なきことを……」のユン・ドンジュさんのことが演劇になります。

 二〇〇八年六月五日。

 このブログを見ていただいたかたからお知らせのメールをいただきました。

 あのユン・ドンジュさんのことが演劇になります。
 「一点の(はじ)なきことを」(作・演出 森井睦さん)です。
 ピープルシアターの公演です。

 七月十六日(水曜日)~二十一日(月曜日)。
 シアターX(カイ回)=東京都のJR両国駅西口下車、左へ三分。
 前売り三千八百円。
 問い合わせ・042(371)4992。

 「死ぬ日まで天を仰ぎ 一点の恥辱(はじ)なきことを……」
 ユン・ドンジュの詩、「序詩」の書き出しです。
 治安維持法違反で逮捕され、一九四五年二月十六日、福岡刑務所で獄死しました。

 【参考】

 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2005/02/post_65.html

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%B9%E6%9D%B1%E6%9F%B1

 http://www005.upp.so-net.ne.jp/Kyoto-BF/yunndonnju.htm

 http://www.koreanculture.jp/mame_view.html?page=1&number=105&keyfield=&key=

 http://www.hm.h555.net/~hajinoue/jinbutu/yugansun.htm

 http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/42491978.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.06.06

高知市 二〇〇八年六月五日の短歌。

   二〇〇八年六月五日の短歌

すっぽかし 二また約束 相次いで
六十一歳
ギア落としてる

キキキキキ バイクのブレーキ 大悲鳴
油を差しても
音は消えない

強い雨 大渋滞の 朝のこと
一分前に
「やった。到着」

皿一つ 土で生み出し 帰りくる
わが五つ目の
陶芸の作

三つ増え 一つカットし 整える
日程表では
かなりの「売れっ子」
 
「あの、私 眠れないのよ」「そうだろね」
僕と同じで
走りすぎの娘(こ)
 
授業と 仕事、演奏 パニくった
友に優しい
「リラーックス」の声

経済の 公開講座に 詰めかけた
県民、学生
「知りたい」の顔

「いうからにゃ、あんたもやってね」
つめてくる
この若きにも 「はちきん」の血が

世のゆくえ 校舎のわきで 語り合う
六十代の
学生二人

 オートバイで一時間ほど走った所の陶芸教室に、週一回、通っています。

 先生とのマンツーマンです。

 いろんな手法を丁寧に教えていただいて感激しています。

 ここでの作品は二つ目です。

 まだ、一つも完成にはいたっていません。

 「リラーックス」の声の主は、若いカナダの女子学生です。

 すっごく、いい人だなぁと感激しました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

今後千寿子さんの小説「長い一日」(『民主文学』二〇〇八年六月号)を読んで。

 二〇〇八年六月六日(八日に改善)。

   今後千寿子さんの小説「長い一日」(『民主文学』二〇〇八年六月号)を読んで

    【登場人物】

 ● 史朗 IT関連企業のプログラマー。就職して、もうすぐ一年。仕事で遅くなり、終バスにも間に合いません。夜中に帰宅すると食事も入浴もしないで、すぐ寝てしまいます。睡眠時間は五時間ほど。でも、寝過ごしたことがありません。朝、起床してからシャワーを浴びます。朝、食欲がなくてコーヒーのみ。

 ● 孝介 史朗の父。「出勤」する仕事をしています。

 ● 清子 史朗の母。カマボコの原料を売っている小さな会社に勤務。毎晩、車で駅に息子を迎えに行っています。

 ● 由紀 史朗の姉。看護婦。看護婦として働いていた病院を一年で辞めました。その後、家を出て二年近く派遣社員として職場を転々として、また病院に勤めだしました。母の弟への態度を「お母さんも優しいだけではあかんのよ。可哀相、可哀相で毎晩迎えに行くだけでは、史朗の何の足しにもなってへんよ」と批判します。

    【宮本阿伎さんの批評】

 宮本阿伎(みやもと・あき)さんが「しんぶん赤旗」五月二十八日付の「文芸時評」で、この作品を取り上げて、つぎのように書いています。
 
  『民主文学』の今後千寿子「長い一日」は、就職してもうすぐ一年になる息子に五時間しか睡眠時間がないことが不安でならない母親の一日を追う。看護師の娘が夕食時に「鬱の前兆が見える」という。その夜、十一時三十分に「これから電車に乗る」という意味の電話のコールが鳴り、車を駅に向かわせたが、その電車に乗っていなかった。不安が妄想をつのらせ、深夜の駅の構内を動き回る母親の取り乱す姿が身につまされた。現代の過酷さを鋭く切り取っている。

     【私の感想】

 ● 「現代の過酷さを鋭く切り取っている」と、いわれれば、そうかもしれません。このIT職場の長時間労働は、一九六〇年代から問題が続いている問題ですね。それを是としているわけではありませんが、こうした「実情」を、「息子の家庭での姿」からえがくことで読者は満足するでしょうか。

 ● 史朗は、会社でのうっぷんを家族に向けます。会社には何もものをいっていない様子です。会社にとって何と使いやすい、何という気弱な青年であることか。清子は、毎晩、息子を車で駅に迎えに行きますが。息子に必要な援助は、彼の「仕事に向き合う考え方」を変えさせることではないのでしょうか。

 ● 清子の職場でのあれこれも出てきます。小さな所も大変よといいたかったのでしょうが、もっとコンパクトでいいのではないでしょうか。そのぶんで、「史朗の職場での労働とかっとうの実際」もえがいてほしかったですね。これは取材しないと書けないと思いますが……。

 ● なぜ息子が駅にきていないのか、わざと書いていないのだと思いますが、やはり「結果」を書いてほしい。何だかフラストレーションがつのります。

 ● 全体として、「史朗が、なぜ、長時間労働にまきこまれたままで、それを突破しようとしないのか」、「なぜ清子が、『可哀相、可哀相で毎晩迎えに行くだけ』で終わっているのか。それでいいのか」という突っ込みが必要だと思いました。

 ● また、最後の「もう一人の史朗を迎えにきたのだと思った。」は、思いこみ。なぜ、推測を結論にするのか。作者は全能で事実を知っているのに。

 ● たとえば、この小説が映画になって上映されたと思ってください。私だったら「あーあ。なんとまぁ」と、暗然として帰途につくのではないでしょうか。

(以上)

 追伸

 八日午後、高知市で開かれた『民主文学』の読書会には九人が参加。この作品についても話し合いました。

 この作品については、「身につまされた」など非常に好評でした。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008.06.07

急告 八日の日本テレビ「エコ特番」で僕の撮ったコブシの花の写真が映る予定です。

 二〇〇八年六月七日。

 八日、次の番組が放送されます。

 日本テレビ「エコ特番」
 6月8日(日)8:00~21:00生放送

 そのなかの「藤崎マーケットのエコサバラライ生活」(予想放送時間帯12:30~13:30)で私の撮ったコブシの花の写真が映る予定です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

後期高齢者医療廃止法案が参議院本会議で可決。日本の戦後政治史に残る瞬間。

 二〇〇八年六月七日。

 日本共産党など野党四党が共同で提出した後期高齢者医療制度廃止法案が六月六日、参議院本会議で採決され、共産党、民主党、社民党、国民新党などの賛成多数で可決されました。自民党、公明党は反対しました。
 日本の戦後政治史に残る瞬間でした。
 この法案は、今年四月一日に実施された後期高齢者医療制度を、来年四月一日に廃止するものです。緊急措置として、保険料の軽減や、年金からの保険料の天引き中止を遅くとも十月一日までに実行することなどを盛り込んでいます。
 同法案は直ちに衆院に送付されます(十五日が会期末)。

 老いじめ やめろの法案 可決受け
 妻らも走る
 次は衆院

 【参考】

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-06-07/2008060701_01_0.html

 http://www.nhk.or.jp/news/k10015087211000.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「高知人書店」という古書のネット販売の店が開店しています。

 二〇〇八年六月七日。

 ご存じですか。「高知人書店」という古書のネット販売の店が開店しています。
 僕は、すでに三冊、購入しました。
 一度、のぞいてみてください。
 いい本がありますよ。

 以下の所にあります。

http://www.kochijin.com/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.06.09

高知市 「七十代でも元気、元気の秘密」の話など飲み会でのいろんな収穫。

 二〇〇八日六月七日。

 午後、高知県立高知短期大学学友会の総会に出席。

 その後、ビールを飲んでしまいました。
 いろんな人と愉快に話し合いました。

 ● ある青年が義父と同じ名字で、義父と同じ地域の出身だということがわかりました。

 ● ある女性が僕の高校の後輩だということがわかりました。

 ● ある先輩男性から「七十代でも元気、元気の秘密」を聞きました。

 ● 東京都の、ある音楽プロダクションの代表(男性)話していて、「曲を作詞してCDをつくる」という夢をふくらませました。

 ● 東京都の、ある出版社の社長(男性)が「山原健二郎さんの伝記を出したい」というので、その際は、協力することを約束しました。

 ● ある男性の市議と「夏にオートバイで九州にいこう」と、約束しました(実現させたいですね)。

 ● いま住んでいる地域について詳しい男性二人と、「わが地域の息吹」について語り合いました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

高知市 僕の、ある日曜日の「長い一日」。

 二〇〇八日六月八日。

 ● 遅い起床。まずは風呂。

 ● 妻につくってもらった朝食を食べます。

 ● オートバイで高知市廿代町のMOさん宅へ。
 この家で採れたビワを食べる会(宴会)があるのです。
 あいさつだけして次へ。

 ● 高知県南国市の山中の太平洋中の戦争遺跡を見にいきました。四回目です。発掘中で、すごい施設が現れてきています。

 ● 高知市六泉寺の『民主文学』の読書会に。一作品のリポートをしました。反論が相次ぎました。

 ● 高知市の「かるぽーと」へ。高知市展に出していた彫刻「慈悲」、写真「街角のテナーサックス奏者 ①」と「街角のテナーサックス奏者 ②」、陶芸の自作の短歌を彫り込んだ皿、そして、事務局に預けてあった陶芸のビールジョッキー(右手の形を彫り込んだもの)と鉛筆たてを回収。妻も付き合ってくれました。
 会場で会った陶芸の先生(女性)から「彫刻展を見にきて」のお誘いを受けました。
 出品していた彫刻を回収にきていたKOさん(女性)が、家まで乗用車で乗せてくれることになり妻が同乗。僕はオートバイで家へ。

 ● 家で陶芸のビールジョッキーでビールを飲んでいます。
 山口百恵さんのCDを流しています。

 ゴボゴボと わが陶芸に ビール入れ

 グイとやってる

 「やっぱり、うまい」

 ● さぁ、僕の花の写真が一、二秒出たというテレビ番組のビデオを見ることにしましょうか。妻のつくってくれたカレーライスを食べながら見ました。

 ● 午後八時。眠たい。「一時間ほど寝るよ」と、ベットへ。起きたら午前四時でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

高知市 やっとまとまった「今月の短歌」。

 二〇〇八年六月九日。

 午前六時、やっと「今月の短歌」をまとめることができました。

  「リラーックス」の声

「イライラは 手を出しすぎが 原因さ」
わかっているが
土曜も走る

すっぽかし 二また約束 相次いで
六十一歳
ギア落としてる

三つ増え 一つカットし 整える
日程表では
かなりの「売れっ子」
 
「あの、私 眠れないのよ」「そうだろね」
僕と同じで
走りすぎの娘(こ)
 
授業と 仕事、演奏 パニくった
友に優しい
「リラーックス」の声

| | コメント (0) | トラックバック (0)

高知市 「折り込みは 四枚だけで……」。

 二〇〇八日六月九日。

折り込みは 四枚だけで
三枚は パチンコ屋です
やっぱり不況

 妻の発見です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

六月八日の沖縄県議選挙の結果。政局をうらなう前向きな動きです。

 二〇〇八年六月九日。

 六月八日の沖縄県議選挙の結果。政局をうらなう前向きな動きです。

 ここに、日本共産党の見解がでていました。

http://www.jcp.or.jp/movie/news_mov/20080609/index2.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.06.10

高知市大津 鉢に植えてあるスイカに一つ、小さな実がついていました。

 二〇〇八日六月九日。

 やっほー。
 鉢に植えてあるスイカに一つ、小さな実がついていました。

 このぶんでは、夏休みにやってくる娘と娘の二人の娘に真っ赤なスイカを食べてもらえそうです。
 楽しみです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

高知市 「短時間に的確に事実と、それにまつわる問題点を示し、解決する方向を適切に示す」。僕に必要な能力。

 二〇〇八日六月九日。

 「短時間に的確に事実と、それにまつわる問題点を示し、解決する方向を適切に示す」
 このことにたける必要があると痛切する、きょうこのごろです。
 何のことか。
 落ち着いたら書くことにします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

高知市 やっぱり僕は妻の半分の「馬力」しかありません。トホホ……。

 二〇〇八日六月十日。

 実は昨日午後、ゾーッとしたことがありました。
 オートバイで短大にいこうとしていました。
 途中でブレーキがおかしい。
 両方を使っても、さっと止まらないのです。
 幸いに近くにバイク屋さんが。
 「緊急入院」しました。
 で、本日は妻の自転車を借りての通学。
 「あそこまでなら三十分でいっているわよ」
 で、たぶん僕なら六十分だなと思って出発しました。
 着いたとき、時間を見たらたら、きっちり六十分。
 妻の半分しか馬力がありません。
 トホホ……。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

高知市大津 妻の最近の変化。これって、何だ。

 二〇〇八年六月十日。

 最近の妻の変化。

 近所の「新日本婦人の会」の料理教室に参加したり、テレビの料理番組を一生懸命見たり……。

 おかげで毎回、食卓には何種類ものおかずが並びます。
 僕としては、「ちょっとしたもの」と漬け物でオーケーなのですが……。

 何か、このごろ、お世話になっています。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008.06.11

ホゲーッ。地方税、夫婦で九十四万六千六百円。 

 二〇〇八年六月十一日。

 午後十時過ぎに家に帰り着いたら、妻が「きているわよ」。
 高知市民税・県民税納税通知書です。
 げっ、すごい額です。
 三十八万五千百円。

 少し前に妻にも市民税・都民税の納税通知書がきていました。
 五十六万千五百円です。

 合わせて九十四万六千六百円。
 僕は失業保険、妻は年金(今月から入る予定)しか収入源がないのに……。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.06.13

高知市大津 妻が、僕の「彼女」の頭にオートバイのヘルメットをかぶせている件について。

 二〇〇八年六月十三日。

 コメントを寄せていただいているみなさん、茨城から、愛知から、大阪から、○○から、ありがとうございます。
 「つながっている」こと、本当にうれしい。

 ところで、ついに、たまりかねて今夜、午前零時近くに、妻に話をしました。妻が、僕がつくった彫塑(若い女性の頭像)を、玄関にどんとおいて、「彼女」の頭にオートバイのヘルメットをかぶせている件についてです。

 「あれは、できはどうかは知らないけれど僕が一生懸命つくった芸術作品なんだ。あれにヘルメットをかぶせるのはやめてほしい」
 「だって、あれは、ヘルメットをかぶせるに、ちょうどいいじゃない」
 妻は、相手にしません。

 「世界観」が、かなり違うようです。いわゆる「性格の不一致」です。

 昔の僕だったら「てゃんでー」と、一喝して、自分でヘルメットをとった上で、妻と「大立ち回り」をやったと思いますが、このごろは、かなり気が長くなっています。
 彼女が、いつ、僕の作品にたいするぶじょくを止めるか、静かに(内心、怒りに震えながら)待つことにしましょう。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

高知市大津 悲しませてしまった数多くの人たちへ。

 二〇〇八年六月十三日。

 悲しませてしまった数多くの人たちへ。

 自分も楽しく、愉快に生きたい。
 できれば、毎日が「成長」である人生を。
 だれもが、楽しく、愉快な人生を送ってほしい。
 彼や、彼女の人生に手を貸せるものなら手を貸したい。

 十八歳から、そう思って生きてきました。

 でも、何度も、「自分にとっていいことが、ほかの人にとって苦痛である」と、いう場面も体験しました。
 そんなときは、相手の「被害」を最小限にとどめるように努力してきたつもりでした。
 しかし、大きな心の傷を与えてしまったこともありました。
 まわりの人たちを、悲しませてしまったことが、たびたびありました。

 そして、いま、六十一歳。
 ある青年の大きな過ちと、そのことによる苦悩に直面しています。
 その過ちと、彼の苦悩を知った僕が、彼に、どう対応すべきか。
 動きながら、いろいろと悩んでいます。

 何をすることが、彼のためになるのか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

フランス革命が提起した「飢えない権利」の、いま。【第二稿】

 二〇〇八年六月十三日。

 以下、午前中の授業と夜の授業の間の走り書きです。

 (六月二十四日に加筆しました)

 

   フランス革命が提起した

   「飢えない権利」の、いま
       
 

 フランス革命(一七八九年七月十四日~九四年七月二十七日)は、国王ルイ16世の絶対王政にたいして国民が起こした革命でした。その革命の中で「飢えない権利」(生存権)が提起され、一時は憲法にも規定されました。その精神は、現在、世界の各国の憲法にも規定されています。この権利が、どのようにして提起され、いま、世界で、どんな形で影響力を発揮しているかを見ます。

 一、「飢えない権利」は、フランス革命で、どう提起されたか

   【「赤い司教」ドリヴィエの提起】

 フランス革命の中で、この権利を最初に提起したのは、ピエール・ドリヴィエです。
 彼は、パリ南方の農村・モーシャン村(戸数四十戸余り)の司教でした。「赤い司教」の一人で農民運動の代弁者でした。
 一七九二年五月一日、ドリヴィエが起草しエタムプ周辺六か村の住民四十人の名が入った請願が、立法議会に提出されました。
 「食糧の価格が騰貴(とうき)して貧しい労働者や日雇い農民の手の届かないほどになるのを放置しておくことは、とりもなおさず、彼らから食糧を奪うことであり、換言すれば、飢えない権利というものを、富裕な人間だけにしか認めないことである。」(『フランス革命 歴史における劇薬』。遅塚忠躬。岩波ジュニア新書)。
 この革命の中で、所有権の神聖不可侵という原則が確立されました。所有権が神聖不可侵であるかぎり、穀物の所有者が、それをどんな値段で売ろうと不平はいえませんし、地主がどんなに広い土地を所有しようと文句がいえません。
 一方、弱肉強食の自由経済のもとでは、貧富の差は、いよいよ開き、働きたくても、耕す土地も勤める職場も見つからないという貧困者が、ますます増えていました。
 そんな中で、ドリヴィエは、どんな貧しい人にも最低限度の生活をいとなむ権利があることを主張し、その生存権によって所有権に歯止めをかけようとしたのです。

   【ロベスピエールの国民公会での発言】

 ドリヴィエの、この請願を読んだジャコバン派のリーダー、マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール(弁護士。一七五八年五月六日~九四年七月二十八日)は、一七九二年十二月二日の国民公会で、つぎのようにのべます。
 「社会の第一の目的は何か。それは、人間の不滅の諸権利を維持することである。その諸権利のうちで第一位にあるものは何か。生存する権利である。それゆえ、社会の第一の法は、社会のすべてのメンバーに生存の手段を保障する法であり、その他のすべての法は、これに従属する。……人間に必要な食料品は、生命それ自身と同様に神聖である。およそ生命の保全にとって不可欠なものは、社会全体の共同の所有であり、それ以上の超過部分だけが、個人的所有である。」(『フランス革命 歴史における劇薬』)。
 このロベスピエールの主張は、ブルジョワを代表する国民公会の賛同を得るにはいたりませんでした。

  【九四年の憲法で生存権がうたわれました】

 この精神は、のちに憲法に位置づけられました。
 一七九四年五月三十一日から六月二日まで、民衆が国民公会を包囲し、ジロンド派の主要議員を追放しました(ジャコバン派の支配の開始)。
 その後の六月二十四日、新憲法(「一七九三年六月二十四日憲法律ならびに人および市民の権利の宣言」)が可決されました(九四年憲法)。
 この憲法は、ロベスピエールの主張の一部を採用して、「社会の目的は、共同の幸福である。--政府は、人にその自然で消滅することのない自然権を保障するために設けられる。」(第一条)、「公の救済は、一の神聖な負債である。社会は、不幸な市民に労働を与え、または労働することができない人々の生存の手段を確保することにより、これらの人々の生計を引きうけなければならない」(第二一条)と定めました(『人権宣言集』。高木八尺・末延三次・宮沢俊義編。岩波文庫)。
 しかし、革命の進展の中で、権力を持つ者が変わり、翌月、七月二十八日、ロベスピエールらは処刑されました。ロベスピエールは当時、三十六歳でした。
 一七九四年末、生活必需品の「最高価格法」のような経済統制は廃止され、物価騰貴が進行します。
 パリの民衆は、一七九五年四月と五月に、「パンと九三年の憲法を」というスローガンをかかげて蜂起しますが、鎮圧され、多くのジャコバン派の議員がこれに連座して死刑や流刑になります。
 そして、一七九五年八月に新しい憲法が制定され、財産を持つ人々の支配が復活しました。
 ドリヴィエは、一八三〇年、ブルターニュの小さな町で世を去りました。

 二、フランス革命で提起された「飢えない権利」が世界に与えている影響

 フランス革命で提起された「飢えない権利」(生存権)が効力を発揮しだしたのは、第二次世界大戦の後です。
 一九四六年十一月三日に公布された日本国憲法(一九四七年五月三日施行)は、第二十五条【生存権、国の生存権保障義務】で、つぎのようにうたいました。
 「1 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
 2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」
 また、一九四八年十二月十日に国際連合(国連)の第三回総会が満場一致で採択した「世界人権宣言」は、「何人も、生存、自由、および身体の安全を享有する権利を有する。(第三条)と定めました(『人権宣言集』)。
 日本では、高齢者差別医療制度、後期高齢者医療制度が実施されるなど生存権の根幹を揺るがす事態が生まれています。
 こうした時代のなかで、生存権のよってきたるところを思い返すことは意義あることだと思います。
 最後に、一七九二年五月一日の請願の全文が載った本から「飢えない権利」の部分を、より詳しく引用しておきたいと思います(『ロベスピエールとドリヴィエ フランス革命の世界史的位置』。遅塚忠躬。東京大学出版会。百三十七ページ、百三十八ページ。行換えをしました)。
 「……第一の必需品たる食糧の価格が騰貴(とうき)して貧しい労働者や日雇農民の手の届かないほどになるのを放置しておくことは、とりもなおさず、彼らから食糧を奪うことであり、換言すれば、飢えない権利というものを、富裕な人間---それが世に有用な人間であろうとなかろうと---だけにしか認めないことである。
 かくも貴重な特権を持って生まれた人々は幸なるかな!
 だが、自然法の教えるところだけに耳を傾けるならば、次のように考えられる。
 すなわち、確かに社会で最も重要なのは、叡智(えいち)を以(もっ)て宇宙を統(す)べ給う神にも似て、理性の光を以て社会秩序を整え、その法律を正しい基礎の上に樹立しようと務めている人々であり、また、その法律を正しく守らせるという重要な職務を遂行している人々であるが、敢(あ)て言うならば、そういう人々に次いで、社会の福祉がもっぱら注がれるべきなのは、社会のために最も苦しい労働に孜々(しし)として励んでいる人の上にこそなのであり、自然の恵みの最良の部分を受取るべき手は、自然を耕して稔(みの)りあらしめるのに最も貢献している手である、と思われる。
 ところが、実際にはこれと逆のことが生じており、何の財産も持たずに生まれた大衆は、暑熱の苦労に耐えて働きながら、絶えず、自分の労働の成果に他ならないパンにもこと欠く危険に身をさらすべく運命づけられている。
 かかる不正は、明らかに、自然の不正ではなく、政治の不正である。
 政治が巨大な誤謬(ごびゅう)を神聖化し、その誤謬の上にわれわれのすべての社会的諸法が築かれており、そこから、必然的に、それら諸法の錯雑紛糾(さくざつふんきゅう)と絶えざる矛盾とが生じている。
 人はなかなかその誤謬に気付かず、その誤謬についてはっきりと意見を述べることさえまだ憚(はばか)られるほどである。
 それほどまでに、その誤謬は、本源的正義についてのわれわれの観念のすべてを混濁(こんだく)させてしまったのである。
 だが、誤謬に基(もと)づく議論が横行していても、われわれには、なお常につぎのような胸奥の感情が残っている。
 すなわち、われわれ苦しい労働にいそしんでいる者たちは、少なくともパンを食べることができるべきである、と。……」

(以上)

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.06.14

高知県 高知海軍航空隊窪川飛行場の図

 二〇〇八年六月十四日。

 以下の図は、高知県四万十町宮内にあった高知海軍航空隊窪川飛行場の図です。

 高知海軍航空隊がアメリカ軍に提出した「引継簿」のものをトレースしてもらったものです。

Img004

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.06.16

高知市大津 「みどり田と サギの白さが 調和する」、わが大津の里。

 二〇〇八年六月十五日。

 みどり田と サギの白さが 調和する

 雨の大津を

 電停にいく

| | コメント (0) | トラックバック (0)

高知市  「わたくしも 百歳を生き 短歌(うた)詠みたい」

 二〇〇八年六月十五日。

 「わたくしも 百歳を生き 短歌(うた)詠みたい」

 そうなりそうな

 たおやか笑顔

 本日の歌会に参加して、できた短歌です。

 ほかに

 十七と 四人のバランス

 なにゆえか

 きょうの歌会も 女性がしのぐ

 二十五の 短歌(うた)並びいる

 その中に

 わが一作も 静かに座る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

高知市大津 「眼鏡……」と発すると……

 二〇〇八年六月十六日。

 「眼鏡……」

 と発すると

 妻は、

 「枕元にあったわよ」

 「いや、眼鏡を直す小さなドライバーはなかったかなぁ」

 とにかく妻はマシンガン。

 すべてをいわせることは少ない。

 ところで、いやーっ、寝ました。

 昨夜八時前から朝の八時まで。

 すっきりしました。

 あと六分で出発です。

 午前十時二十分から「日本語論」です。

 これが難しくてついていけていませんが……。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

高知市 「時間内に四つのテーマでリポートを書きなさい」。

 二〇〇八年六月十六日。

 いやーっ、午前中は、時間内に四つのテーマでリポートを書きなさいという授業でした。

 うーん。難しい。

 やっと全問書くことができました。

 しかし、書いたことが適切だったかどうかは……。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

高知市大津 大津の里のサギ 六月十五日。

Photo

 二〇〇八年六月十六日。

 ご近所のサギを撮りたい。
 それも三百ミリのレンズで。
 とにかく作品を積み重ねていきたいと思っています。

 その第一号。十五日の写真です。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008.06.17

高知市大津 大津の里のサギ 六月十六日。

Photo

 二〇〇八年六月十六日。

 夕方五時前、サギを撮影しようと思って外に出たらバリババリという音。
 ヘリコプターが田んぼに白い農薬をまいていました。
 数人の男性が無線で操縦しています。
 高知市東部をエリアにヘリコプターが三つある会社の人だといいます。

 さすがにサギは消えてしまっていました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

高知市大津 「父の日の 翌日届いた 酒二本……」。

Photo_2

 二〇〇八年六月十六日。

 父の日の 翌日届いた
 酒二本
 もったいなくて 飾ってあるよ

 東京の息子と、その「つれあい」がおくってくれました。

 追伸

 翌日、東京の娘から寝間着が届きました。

 これは八月に韓国にいくとき使わせてもらおうと思っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

高知市大津 僕たちは「筆記用具収集家」でしょうか。

Photo_3

 二〇〇八年六月十六日。
 
 夫婦で、一階の部屋を掃除して、鉛筆、サインペン、ボールペンを集めました。
 そしたら、こんなにありました。
 四十年の「成果」です。
 僕たちは「筆記用具収集家」でしょうか。
 ちなみに、二階には、まだあるはずです。

 「これがなくなるまで、何年かは筆記用具は買わないようにしよう」。妻と誓い合ったことです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

高知市大津 「ウエストミンスター」のチャイム。

 二〇〇八年六月十六日。

 妻が定年の記念に、掛時計をもらいました。
 いやぁーっ、チャイムが素敵です。
 「ウエストミンスター」だということです。
 「豪華な音」です。
 聞きながら、時間が過ぎ去ることの貴重さといったものを考える、きょうこのごろです。

 ウェストミンスター寺院

 フリー百科事典『ウィキペディア』から。

 ウェストミンスター寺院ウェストミンスター寺院 (Westminster Abbey) は、イギリスのロンドンウエストミンスターにあるイギリス国教会の教会。聖ペテロ修道教会。戴冠式などの王室行事が執り行われ、内部の壁と床には歴代の王や女王、政治家などが多数埋葬されている。墓地としては既に満杯状態で、新たに埋葬するスペースはもはやなくなっている。国会議事堂(ウェストミンスター宮殿)が隣接している。
 イギリス中世の大規模なゴシック建築である。11世紀にエドワード懺悔王が建設し、1066年以降、英国国王の戴冠式が行われている。1245年、ヘンリー3世が再建を決め、フランスの建築家を招き、フランスのゴシック建築にならって現在の寺院を建て始めた。14世紀末までにおおよそ完成するが、正面部分は16世紀初め、塔は17世紀、と長期間にわたって建設されている。
 多くの学校や職場で使用されている始業、終業のチャイムの音階は、同寺院のために1927年に作曲された「ウェストミンスターの鐘」が元となっている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

高知市大津 風にそよぐ田んぼの緑。

106_2

 二〇〇八年六月十六日。

 家の前の田んぼの緑が風にそよいで、さまざまな模様をつくるのを、じっと見ています。

 小さいころから田んぼは見ていたはずです。

 でも、この光景が見えていませんでした。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

高知県 自由民権の思想を歌った「よしや武士」。「ヨシヤブシならざるはなし」。

 二〇〇八年六月十七日。

 きょう、あらためて「よしや武士」のことを学びました。

 自由民権の思想を歌ったものです。
 作者は、安岡道太郎さんです。

 一八七七年(明治十年)末に彼が編集した『よしや武士』が、高知で刊行されました。
 全六十八句です。
 冒頭はつぎのような句でした。
 「よしやなんかい苦熱の地でも 粋な自由の風がふく」

 一か月後、七八年一月二十五日付の「大阪日報」の「高知県近況」は、この「よしや武士」について、つぎのようにのべています。
 「此節(このせつ)高知で流行する俚謡(りよう)は高陽社にて先つころ出版になりたるヨシヤブシ最も盛んにして花街柳巷往(い)く所としてヨシヤブシならざるはなし併(しか)し官ちゃん〔役人〕杯は余りお謳(うた)いなさらぬよし」
 「人気も自然と地味に由(よ)る者なるか高知にては三尺の童子も民権とか自由とか集りさいすれば議論めかしたことを云(い)ひ争ふを常とす」

 「よしや武士」が、どんな歌だったのか。
 高知市立自由民権記念館の資料に、つぎの歌も載っています。

 よしや 田植のわたしが身でも 後にさがるは好きでない
 よしや この身はどうなり果ちよが 国に自由がのこるなら
 よしや お前が過さぬ気でも 開けゆく世に闇はない
 よしや 糸目が切れよとままよ わたしゃ自由の奴凧(やっこだこ)
 よしや お前にふられたとても 天地いれない身ではない
 よしや 憂目にアラビア海も わたしゃ自由を喜望峰
 よしや シビルはまだ不自由でも ポリチカルさへ自由なら
 よしや お前がフランス気でも 私やアジアのガンヘッタ

 こんな歌もあるといいます。

 よしや圧政するならさんせ ルイ十六世の末をみよ

   ◇

 全文は『続随筆明治文学』(柳田泉。春秋社)に収録されているとのことです。
 この本を探すつもりです。

 【参考文献】

 ○ 『土佐自由民権運動史』。外崎光広。高知市文化振興事業団。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.06.18

高知市 妻は「漢字ナンクロ」とラブラブ。

 二〇〇八年六月十七日。

 零時前 漢字ナンクロ やっている
 妻と別れて
 パソコンの前

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「高知県立高知短期大学存続問題 いま、どういう局面か」。話し合いの資料として。

 高知県立高知短期大学存続問題 いま、どういう局面か

      2008年6月9日 

 ○ 高知県立大学の現状

いま県立大学としては一学年二百十人定員の高知女子大学と百二十人定員の高知短大があります。

高知女子大の生活科学部、文化学部は永国寺に、看護学部、社会福祉学部は池にあります。

高知短期大学は社会科学科で、法律、経済、歴史などの社会科学を学んでいます。これは永国寺にあります。

○ 2006年9月の「高知県立大学改革基本計画」の内容

 高知女子大は、男女共学の四年生の県立大学にします。

 まず二〇〇九年度に学部は、看護学部、社会福祉部、健康栄養学部、文化学部を設置します。一学年の定数は二百七十人程度です。永国寺を引き払い池に集中します。

 法務総合学部も、設置するつもりです。法専門、法経営、法情報のコースがあります。一学年の定数が、昼間は百六十人程度で、夜間は四十人程度です。

 しかし、この学部については設置時期、キャンパスは、まだ決まっていません。高知駅前の複合施設への設置も検討しています。

 高知短大は、廃止します。

「志願者は年々減少して、平成8年度以降はほぼ全入の状況にあります。また、学生のうち仕事を持っている人は50%を切っていますので、地域の産業、経済や行政を支える社会人への高等教育という役割は弱くなっています。

一方、科目履修生は年々増加の傾向で、生涯学習の場としての役割が大きくなっています。」

と、いうのが、その理由です。

科目履修生については新しい四年生の男女共学の大学で、履修制度を導入します。

【私のコメント】

・ 夜間の二年制は、どこにもなくなります。

・ 夜間四年制の場合も学生数は、いまの高知短期大学の三分の一です。経済学、歴史学を学ぶ場はありません。

 ・ 永国寺から大学をなくする方針のようです。

 ○ 尾崎正直さんの高知県知事当選

 尾崎正直さんの高知県知事当選 2007年11月25日

 ○ その直前の県議会での答弁

 【2007年9月高知県議会定例会 9月月28日】

 ◆37番(米田稔君) 私は、日本共産党と緑心会の立場から以下質問を行います。

 まず、県立大学改革問題について政策企画部長にお伺いをいたします。県立大学改革がこのような混乱を招いた原因は、本来大学を主体として行うべき改革を県行政が県外の専門家を中心にした検討委員会にゆだね、それを押しつけようとしてきたことにあると言っても過言ではないと思います。そのことを反省し、大学自身の主体性による大学改革という原点に立ち返らなくてはなりません。そもそも、生い立ちも、歴史も、果たしてきた役割も全く違う高知女子大学、高知短期大学という2つの大学を一つにまとめ上げようとしたところに大きな障害が生まれています。しかも、県内の高等教育のあり方全体を見通し、県民に求められているものは何か、東西に広がっている県土で教育の過疎とも言える状況をどう解決するのかといった点などの議論は置き去りにされたまま、検討委員会の結論を押しつけようとしてきたことには、大いなる反省を求めるものであります。

 今後の大学改革に当たり、その反省点をどのように生かしていかれるおつもりか、政策企画部長にお伺いします。

 私どもは、さきの6月議会において、財政的見通しにおいても、社会科学系学部のあり方、高知短大に学んでいる200名を超える学生の学習権の保障も、永国寺キャンパスの活用の方向も、その議論の保障もない中、なし崩し的な高知女子大学の池キャンパスへの移転統合には賛同できないとの立場で予算に反対をいたしました。今議会に当たって執行部は、減額を検討した予算措置の具体的説明、財源の考え方を示した上で、高知女子大学がみずから示してきた改革案をスタートさせるためのキャンパス建設予算だとして提案をし、さらに社会科学系学部のあり方、永国寺キャンパスの活用については、県内高等教育のあり方全体を展望して、今回の予算とは切り離し、今後議論をしていくとしています。

 しかし、その高知女子大学みずから示している大学改革案に対して、大学内部から異議ありの態度表明がされましたが、こうした事態に至った経過と内容をどのように承知しているのか、お聞きいたします。

 改めて、文化学部の池キャンパスへの移転の必要性、整合性についてどう考えているのか。また、まちづくりの観点とともに、何よりも当学部学生の学びと生活環境のよりよい保障という点からも、永国寺キャンパスに残すことは重要な選択肢ですが、これまでどういう検討をしてきたのか、お伺いします。

 一たん合意していたということですが、これらの大学内部の動きを無視して移転統合を進めるべきではないと思うが、どう考えるのか、伺います。

 さて、本予算を提案するに当たり、県は社会科学系学部のあり方は切り離して議論をと言っていますが、それはこれまで提起していた法務総合学部案については白紙に戻した議論と考えていいのか、設置場所も再検討するのか、あわせてお聞きします。

 また、社会科学系学部の新設が行われない状況のもとでは、高知短期大学は廃止しないとの考え方は変わっていないのか、政策企画部長の明確な答弁を求めます。

 当然、高知短大の担ってきた社会人教育や地域政策、地域づくりに貢献できる学びの場をどうしていくのかは重要な議論の柱です。同時に、高知工科大学への社会科学系学部の新設、幡多地域への大学づくりの機運の高まりといった、県内高等教育をめぐる情勢の変化をしっかり見据えた上での議論を進めなければなりません。私学・大学支援課の事務分掌には、県内の大学及び高等専門学校との連携及び調整に関することが含まれています。

 社会科学系学部のカリキュラムといった狭い範疇の議論ではなく、今後、大学関係者、県民の意見を広く聞き県都高知市のまちづくりの観点も踏まえ、永国寺キャンパスを活用した知の拠点づくりとの位置づけで再検討していくつもりはないか、お伺いします。

 (後略)

 ◎政策企画部長(十河清君) 米田議員の県立大学改革に関する御質問にお答えをいたします。

 まず、これまでの大学改革の進め方に対する反省をどう生かしていくのかとのお尋ねがありました。大学改革につきましては、大学みずからが行うのが本来の姿だと思います。しかし、みずからの改革にはおのずと限界があります。このため、設置者として県立大学改革検討委員会を立ち上げ、外部の有識者に参加していただき本県の実情を踏まえながら、県民の負託を受けた県立大学のあり方について御検討をいただきました。検討の過程では、県民の皆様や関係者との間で意見交換なども行ってきました。この検討委員会の提言をもとに、県と大学との間で改革の方向性について検討を進めてきましたが、このことが結果として改革する側、される側という思いを大学側にもたらし、なかなか一致した方向になれませんでした。

 しかし、この4月に山根新学長が就任して以降、これまで協議を進めてきました改革の基本方針とそれに基づく具体的な教育内容や施設整備計画について、学内的な取りまとめをしていただいた結果、保健・医療・福祉を支える人材を育成するため、既存学部を池キャンパスに再編統合することについて最終的な合意がなされました。現在では、県と大学が一致した考えのもとに大学改革に取り組んでいます。また、今月20日には、大学として県民の皆様への説明責任を果たすべきだとの思いから学長が記者会見を開かれ、地域に根差し地域とともに発展する大学を目指すことを表明され、この大学改革により、県民の皆様の安全と安心を守るために必要な健康、看護、福祉の高度専門職者を養成すると述べられています。

 次に、大学内部から異議ありとの表明がなされたことに対するその経過と内容についてお尋ねがありました。池キャンパスへの移転につきましては、大学としては、ことし5月31日の新棟整備の全体会議において設計の内容について合意をしました。この設計合意を受けて、文化学部は6月11日に教授会を開催し、移転に同意するとの回答をしています。このことにより、全学部から今回の移転に対する確認がとれましたので、6月14日の評議会で大学として池キャンパスへの移転を決定しました。そうした意思決定がされて、県と大学が一致した考えのもとに取り組んできましたさなかに、一昨日、文化学部の教授会において、同意の前提である、将来、県が永国寺キャンパスを売却するのではないかという疑念が晴れないことや、大学から県に示した8項目の要望に対して回答がないことなどを理由として、池キャンパスへの移転を白紙撤回する決議がされたと承知しています。

 次に、文化学部の池キャンパスへの移転の必要性、整合性について、また文化学部を永国寺キャンパスに残すことは重要な選択肢だが、どういう検討をしてきたのかとのお尋ねがありました。池キャンパスへの統合は、保健・医療・福祉を支える人材の育成のため、高知医療センターとの連携が強化されること。看護、社会福祉、健康栄養の3学部の連携のみならず、文化学部の学生にとっても、学部や専門の領域を超えた幅広い教育が受けられることや学生の交流も図られること。永国寺キャンパスは、施設の老朽化や狭隘化が課題となっており教育環境の改善が必要なこと。永国寺と池にキャンパスが分離していることによって生じる、学生が授業を受ける上での非効率性を改善し、あわせて管理運営面での効率化が図られること。大学が平成18年度に作成した中長期計画の中でも、小規模な大学である本学が2つの分離キャンパスに分かれていることは学生にとっては極めて不便であるとして、キャンパス統合を大学の基本指針としていることなどから、県と大学が一致した考えのもとに決定をしたものです。

 キャンパス移転に対して、これまで文化学部を中心とする学生からは、通学に不便、下宿を変わらなければならなくなる、アルバイトに支障が出るなどの不満の声も聞いていますし、その一方で、同じ授業料を払っていながら池キャンパスに比べて永国寺の施設は劣悪だ、統合すれば2つのキャンパスを行き来しなくてもよくなる、学園祭やサークル活動なども一緒にできるし他学部の学生から刺激を受けられるといった賛同する声も聞いていますので、今後、そうした声も聞きながら、できる対応はしていかなくてはならないと考えています。移転後の永国寺キャンパスの活用策につきましては、お話にもありましたように、まちづくりの観点から、また社会人教育や生涯教育の観点から十分な検討を行っていきたいと考えています。

 次に、大学内部の動きを無視して移転統合を進めるべきではないと思うがどうかとのお尋ねがありました。これまで、大学とは池キャンパスへの再編統合に向けて、目指すべき教育のあり方や施設の設計協議など詰めの協議を行い、一致した考えのもとに取り組んでまいりました。そうしたさなかに、文化学部の突然の表明があり、なぜ今の時点で、寝耳に水と言うほかないという学長のお気持ちは当然だと思います。そうした思いは、他の学部長方も同じ思いであったと思います。この文化学部教授会の決議に対しまして、昨日大学は運営会議を開き、その場で学長みずから、文化学部教授会の決議の理由となった、永国寺キャンパスを売却するという疑念が晴れないことについては、副知事との協議の場でも切り売りをしない等の説明があったことなどから間違っていること、また大学から県に示した8項目の要望に対して県から回答がないということについては、県と大学で協議をしていこうということで進めており、回答がないというのは誤りであることを指摘して、改めて大学として池キャンパスへの移転を確認しました。

 学長からは、既存学部の移転統合は大学の最高の意思決定機関である評議会で決定されたものであり、このたびの文化学部教授会の決議はこの大学の意思決定に何ら影響を与えるものではなく、これまでどおり移転統合に取り組んでいくとお聞きしていますので、今後も県と大学が同じ考えのもとにこの取り組みを進めてまいります。

 次に、社会科学系学部に関しまして、法務総合学部案を白紙に戻したと考えていいのか、また設置場所も再検討すると考えていいのかとのお尋ねがありました。新たな社会科学系学部に関しましては、法務総合学部にとらわれることなく、その教育内容について幅広い議論を行っています。これまでも、その教育内容や設置場所、さらには県内の高等教育機関の将来にわたるあり方などにつきまして、多くの御議論をいただきました。今後は、それに加えて社会人教育や地域貢献、まちづくりの視点などさまざまな角度から協議をしていくことが必要だと考えています。このため、県と大学との協議には一定の時間が必要と考えていますが、構想案がまとまりましたら、改めて議会にお示しをしました上でその設置の是非や設置の場所を含めて御議論をお願いしたいと考えています。

 次に、社会科学系学部の新設が行われない状況のもとでは、高知短期大学は廃止しないとの考え方は変わっていないのかとのお尋ねがありました。新たな社会科学系学部は、社会人教育や生涯学習機能など高知短期大学の果たしてきた役割を引き継ぐことも含めて、そのあり方を検討していくことにしていますので、新学部が設置されるまでは高知短期大学は現状のまま存続することになります。

 最後に、永国寺キャンパスの活用に関しまして、知の拠点づくりとしての位置づけで再検討していくつもりはないのかとのお尋ねがありました。少子化がますます進んでいく中で、本県の高等教育機関の将来のあり方を考えますとき、県内の大学が今のままの姿でいいとは考えられません。このことは、県内の3大学の学長と高知工業高等専門学校の校長で組織する学長会議でも議論がされているとお聞きしています。県内の大学が、連携して地域に貢献する知の拠点や社会人教育、生涯教育の拠点を、永国寺キャンパスの活用も含め、市の中心部に持つことは望ましいと考えています。

 今後、学長会議などでもそうした議論も深めていただきたいと思いますし、社会人教育や地域貢献、まちづくりの視点などさまざまな角度から県民の皆様の御意見をお聞きするなど、関係者の方々と時間をかけて協議していくことが必要だと考えています。

 以上でございます。

 ◆37番(米田稔君) それぞれ御答弁ありがとうございました。第2問を行います。

 政策企画部長に県立大学改革に関してお伺いいたします。今、最後の質問で言いました知の拠点づくりについては、さまざまな角度から一定、時間もかけて検討していきたいというように、一定の方向が打ち出されたというように思うんですが、やはり社会人教育や地域貢献、まちづくりの観点など本当に総合的な観点から協議をする必要が、私もあると思うんです。それに当たって、そういう協議ができる協議機関なるものを設定して、きちんと公開で協議していったらどうかというふうに思うんですが、その点について、協議機関を設置することについてどうか、お聞きしたいと思います。

 そして2つ目に、新しい社会科学系学部も含めて、また知の拠点も含めて、いずれにしても一定の規模を持った現在の永国寺キャンパスが非常に大きな役割を果たすと思います。そして今、部長からもお話があったように、切り売りはしないというふうに副知事が表明されました。非常に大事な点だというふうに思うんですが、それを大前提にして、永国寺のキャンパスを存続して、どう利活用していくかということが今、改めて問われると思うんです。この点について、再度、永国寺キャンパスを軸にした利活用について政策企画部長の御認識を伺いたいと思います。

 (後略)

 ◎政策企画部長(十河清君) 再質問にお答えをいたします。

 まず、第1点目の知の拠点づくりといった面で、協議機関を新たに設置してやる考えはないかとのお尋ねでございます。知の拠点という場合に、県立大学の知の拠点という場合には県立大学だけで考えればいいんですけれども、将来の高等教育機関のあり方という面を考えれば、県内の3大学あるいは高知高専も含めた主体者である学長会議で、まずどんなふうにしてそれぞれの大学が連携して地域貢献をしていくか、あるいは知の拠点として県民にバックしていくかといったようなことを主体者として協議していただくことも必要だと思うんです。そういった取り組みと同時に、県民的ないろんな要望を踏まえるような議論の仕方ということもあろうかと思いますので、今後、知の拠点についてどんなふうにして協議・検討していけばいいのかという、進め方についても検討させていただきたいというふうに思います。

 それから、永国寺キャンパスの利活用につきましては、永国寺キャンパスは市の中心街にありますし、社会人教育や生涯教育という観点からすれば、本当に学生にとって学びやすい場所にあるということから、従来から社会人教育だとか生涯教育の拠点としては、永国寺キャンパスの活用ということを考えてまいりました。それに加えて、知の拠点としての活用だとか、いろんな永国寺キャンパスの活用というものは考えられますし、それだけでなくて、文教だとかいったものだけでなくても、まだ高知市の活性化という面でもいろんな考え方があろうかと思います。そういったことについて、県民的な議論あるいは高知市も含めての議論、関係者との議論、そういうものを深めていきたいというふうに思っています。

 以上でございます。

 ◆37番(米田稔君)

 (前略)

 最後、県立大学については、県民のための県立大学改革という原点に絶えず立ち戻って、県民の知恵、総意をぜひ結集する努力を強めていただきたいということを要望して、私のすべての質問を終わります。ありがとうございました。(拍手

 ○ 県立大学再編の担当者が副知事に

 高知県広報紙 さんSUN高知 平成20年(20082月号 No.156

 

 11日付けで十河(とおごう)清前政策企画部長が、副知事に就任しました。

 就任にあたり十河副知事は、「副知事に選任してくださった知事の思いを心に刻み、知事の補佐役として、知事の目指す『対話と実行』の県政の実現に向けて、誠心誠意、努めていきたい。」と抱負を述べました。

 十河副知事のプロフィール

 昭和2323日生、高知市出身

 ・中央大学法学部卒

 ・昭和46年高知県庁に入庁

 ・中内力元知事の秘書、県教育委員会で教育次長などを歴任

 ・平成1418年度 企画振興部長

 ・平成194月~12月 政策企画部長

  

 十河副知事のEメール

 kiyoshi_tougou@ken2.pref.kochi.jp

 ●お問い合わせ

 県庁秘書課 TEL 0888239151 Eメール 110101@ken.pref.kochi.lg.jp

 

 編集・発行/県政情報課 〒780-8570 高知市丸ノ内1丁目220

 TEL0888239046 URLhttp://www.pref.kochi.jp/ 

 高知学芸高校出身

 ○ 尾崎正直知事の一月の記者会見

  尾崎正直知事の記者会見

 (県政記者との懇談会)

 2008年1月25日() 13:00~ 第二応接室 

 以下、高知女子大の件についてのみ抜き書きしました。

 

(畑本:読売新聞記者)

 2月議会に向けて、女子大の移転問題。2月議会で出るか、出ないかが、1つのポイントになってくるかもしれないんですが。今、議案として出す方向で考えているのか、あるいは、まだ考えが決まっていない。あるいは、もうちょっと時間をかけたほうがいいんじゃないかとか、そのあたりは。

(知事)

 女子大の問題は、いたずらに解決を遅らせるべきではないと思っていますけれども、現状から申し上げますと、2月の段階で議案を提出することは、まず少し困難ではないかなと思っています。

(畑本:読売新聞記者)

 それは、意見をもっと聞きたいということですか。

(知事)

 そうですね。

(服部:毎日新聞記者)

 それは、当初予算は見送るということでいいんですか。

(知事)

 当初予算に関連予算を計上するというのは、ちょっと今の状況からすれば困難ではないかと思います。

 他方、いたずらに解決を遅らせてもいけないと思っています。

(畑本:読売新聞記者)

 今のところ、関係の人たち、大学の中でも二つに分かれたり、あるいは学生さんもいらっしゃるんですが、話をお聞きになるような機会というのは、設けていらっしゃるんでしょうか。

(知事)

 今の段階ではまだ持っていません。ただ、いろんな検討、勉強を日々重ねております。

(畑本:読売新聞記者)

 その勉強っていうのは、担当課からの説明とか?

(知事)

 本当に論点が多岐にわたって、それから論点ごとに関係者の方々のご意見に違いがある場合もありますので。

 ○ 高知女子大法人化への動き

【2007年12月 高知県議会定例会 12月18日】

 ◆12番(西森潮三君)

 (前略)

 次に、大学の改革についてお伺いをいたします。まず、県立大学改革についてお尋ねをするわけですが、私はこれまでも県立大学に関しては県議会の場でたびたび質問をさせていただきました。それは、平成1410月3日の予算委員会において、私が県立高知女子大学の管理栄養士の養成問題を取り上げたことが契機となりまして、今回の県立大学改革が始まっているとの自負と責任を自覚いたしておるところであります。事実、県は平成15年1月に県立大学改革検討委員会を設置して、県民の子弟の県内大学への進学機会をできるだけ拡充する、特に男子生徒の進学機会の拡大を図るという大学改革の目的を持って改革の議論をスタートさせ、翌平成1610月にこの検討委員会から提言を得ておるのであります。この提言では、県立大学としては規模が小さ過ぎる、学部・学科が細分化して県民ニーズにこたえられていない、永国寺キャンパスの施設が老朽化、狭隘化している、男女共同参画社会が進展する中で男女共学が適当であるなどの、女子大学が抱える課題がずばりと指摘をされておるのであります。

 この提言を受けて、設置者として県は、大学の課題を克服して、医療の高度化や保健・福祉・医療制度の改革が進む中で、全国に先んじて少子高齢化を迎えている本県の県民の健康や医療などをどう支えていくのか、その人材をどう育てていくのかという観点から、既存学部の再編統合の計画を策定して、あわせて県内に受け皿が少ない社会科学系の学部を充実させるため法務総合学部を設置する構想を取りまとめたのであります。この大学改革は、大学側との摩擦を生みながらも、昨年9月議会において県と大学の間で意思統一を図るべき課題として新学部の内容や大学の名称などが残ったものの、既存学部を池キャンパスに再編統合するための設計予算が議決をされ、一定の前進を見る中で本年度を迎えました。

 この4月から、新学長として山根学長が就任をされ、すべての高知県民が日常生活を送る上でなくてはならない大学を目指し、既存学部の移転統合のための設計の取りまとめや県と大学との間で意思統一が必要な新学部のあり方など諸課題の検討を、リーダーシップを発揮しながら精力的に進めてこられたのであります。そして、さきの9月議会では、6月議会で課題となった財源確保の見通しも得、既存学部の移転拡充の予算が議決をされるよう大学と県が一致協力した取り組みを進めてきました。執行部同様、学長が議事堂に議員を訪問して説明する姿を見まして、私はこれまでの改革する側、される側という県と大学との対立関係は克服されたと感じていたのであります。

 ところが、こうした折、文化学部教授会が身勝手な理由を振りかざして学部の池キャンパス移転を白紙撤回し、県民の期待の大きい大学改革、つまり平成21年4月の看護学部と社会福祉学部の定員拡大や、健康栄養学科の学部昇格と定員の拡充を結果としてぶち壊したのであります。そもそも、文化学部を含む既存学部の池キャンパスへの再編統合は、学内民主主義の手続を経て大学の最高意思決定機関である評議会で決定をし、大学の方針として取り組んできたものであります。そうした、手続を無視した文化学部の行為は、決して私は許すことはできない。一歩譲って、この大学の最高決議を見直す理由があるならば、所定の手続を経て見直すべきであります。そうした手続もせずに、県が永国寺キャンパスを売るだの、無謀な要望に文書回答がないだの根拠のない、理由にならない理由を並べ立て、学部自治の名のもとに大学の方針に反対するばかりでなく独断で主張を公にして混乱を招くに至っては言語道断、彼らの言う大学自治の否定にもなると私は思うのであります。

 私は、こうした暴挙を大学としても決して許してはならないと考えますし、こうした学部を抱えた大学を県民の大学として再生していくためには、議会としても、昨年の9月議会に設計予算を議決し改革の方向を認めた既存学部の再編統合についてまずはその関係予算を認め、大学改革を早く軌道に乗せるべきだと今でも思っております。しかしながら、今回の文化学部のいわばクーデターとも言える行動を見るとき、県立大学を再生していくためには根本的に大学の運営体制を改革することこそ必要と、強く今感じております。現在の県立大学では、学部自治の名のもとに学長の権限は弱く教員の人事権も制約されておりますし、学長がリーダーシップを発揮しようとすれば強権的だとか専制的だとか反論をされて、学長の思いが実現しづらい状況だとお聞きをするのであります。これでは、学長が県民のための大学づくりに幾ら努力しても改革が進まないのは当然であります。

 今、公立大学の半数近くが法人化されております。公立大学法人では、法的には原則的として理事長が学長を兼ね、法人を代表して業務を総理するとされておりますし、学部長や教員の任命も理事長が行うことになっているなど重い権限を持っております。また、審議機関は、理事長、副理事長等から成る経営と、学長、学部長等から成る教育研究の2つというシンプルなものでありますし、役員会は任意に置くことができるとなっております。私は、今の女子大学を見たとき、このように大学の教育研究と経営に責任を負う学長に一定権限を集中し、責任の所在を明確にすることが必要であると考えております。また、運営組織もシンプルにすることで、戦略的で機動的な大学運営ができ、大学の自主性や自律性も高まっていくと思っておるのであります。こうしたことから、女子大学は法人化を急ぐ必要があり、法人化は改革を進める有力な手段になると考えるのでありますが、このことはひいては大学を地域に貢献する本当の県民の大学に変えていくことになると信ずるからであります。

 続いて、高知工科大学についてでありますが、高知工科大学は平成9年に公設民営の大学として開設をし、県内高校生の進学率や県内残留率を高めてきました。卒業後の就職率の高さも、高く評価され続けております。また、教育研究は、文部科学省から21世紀COEプログラムや特色ある大学教育支援プログラムに採択をされるなど、実績を一つ一つ上げてきておることも事実であります。

 さらに、2,000人余りの学生を集めて、地元香美市を中心に大きな経済効果をもたらしておりますし、隣接する高知テクノパークにも大学関連の企業が進出をしております。

 このように、県勢の浮揚に成果を残してきている高知工科大学ですが、少子化や高校生の理科離れの中で、本年度の入学生は定員を大きく割り込むことになっておるのであります。こうした事態への対策として工科大学では、来年4月から、これまでの起業家コースの実績や21世紀COEプログラムで取り組んできた社会マネジメントシステム学の実績を生かしてマネジメント学部を設置し、あわせて学生の進路選択の拡大につながる教職課程を設けることにしています。また、学生募集においても、いわゆる指定校制度の導入やオープンキャンパスの充実などによって積極的な取り組みを行っております。

 しかしながら、今後とも少子化が予想され、受験生の志向が国公立大学や有名私立大学に向く中で、このままでは大学経営が難しくなるのではないかと心配をいたしておるのであります。全国的に、学生確保に苦戦をしている大学は私立の地方の大学であります。その中でも、理科離れから工科系大学が最も厳しい状況に今置かれておるのであります。高知工科大学は、このすべてに当てはまる中で頑張っています。公設の大学であり、これまでの実績から見ても、また県の高等教育を充実させるためにも、今後とも必要な大学であろうと思います。そこで私は、高知工科大学を私立大学から公立大学法人に変更して大学の信頼度や知名度を上げ、学生確保に取り組んでいくべきだと考えておるのであります。

 そもそも、工科大学は県がつくった大学であります。その設立の趣旨からも、公立大学法人化することが適当だと考えておるのであります。また、公立大学法人は平成16年度から設立できるようになったもので、私も当時の県議会唯一の検討委員会委員でありますが、工科大学設立どきにこの制度があれば公立学校法人としたものと考えるのであります。この工科大学の公立大学法人化について前知事からは、本年2月議会の私の質問に対して、私立大学を公立大学法人化した事例はなく、さまざまな課題をまず整理したい、そして県立大学とともに1法人2大学として運営することも一つの選択肢であるとの前向きな答弁をいただいておるのであります。さらに、全国の大学では、少子化が進展する中で厳しい競争を繰り広げておりますが、国立、公立、私立の垣根を越えて生き残りの方策を検討しております。本県においては、国立大学法人の高知大学がありますので、県立大学、高知工科大学の将来にわたるあり方を考える場合には、この高知大学との連携も視野に入れた対応が求められると思うのであります。

 そこで、きょうの新聞を見ますと、工科大学は橋本氏の理事長継続を容認したという記事があります。もともと現職知事で理事長に就任したというのは、本来は学校法人で物事は理事会で決めるわけですが、できたてのしかも地方にあります大学ですから、県知事が理事長に就任することにより信頼度を高めるということで、現職知事が理事長に就任をしたことを認めておるわけであります。私は、そのことを考えると、今知事職も退いて、しかも衆議院選挙へ出馬を意向表明されて……。本来、大学というのは政治的に平等でなければならない、そういう大学で、選挙に出るという意思表示をされておる人が継続をするということは適当ではない、私物化につながると私は思うんです。

 この選任に当たって県に相談があったのかどうか、お聞きをしておきたいと思います。

 また、知事にお尋ねをいたしますが、新知事として県立大学、高知工科大学の法人化についてどのように考えておるのか、また法人化の際には1法人2大学化もあり得るのではと考えますが、どうお考えになっておるのか、お聞きします。

 なお、この理事長継続の問題は政策企画部長でも結構ですから、相談があったのかどうかについてお答えをいただきたいと思います。

 次に、助産師の確保についてお伺いをいたします。県民が安心して生活をしていく上で医療の確保は不可欠であり、知事が最初の所信表明において医師の確保、看護職の確保を県として取り組むべき課題として述べられておるのは、非常に心強い限りであります。ただ、大きな意味で看護職と申しましても、国家資格としては看護師、助産師、保健師とに分かれておりまして、そのおのおのについて高知県の状況は異なっております。人口10万人当たりの就業者の割合で見ますと、看護師、保健師は全国平均を上回っておりますが、助産師は全国平均を下回っており、助産師の確保が重要となっておるのであります。

 助産師の多くが勤務されている、高知県内で出産できる病院と診療所の状況を見ますと、その多くが高知市周辺に集中をしております。それ以外の地域では、安芸保健医療圏に県立安芸病院、高幡保健医療圏にくぼかわ病院、幡多保健医療圏には県立幡多けんみん病院と菊池産婦人科と、数えられる程度で極めて厳しい状況にあります。また、産婦人科医師と助産師とのチーム医療によって安心・安全な出産が保障されますが、一方の担い手である産婦人科医の状況を見ますと、平成16年末で産婦人科または産科を主に診療科としている医師は県下で54名、人口10万人当たり6.7人で全国第41位と非常に厳しい状況にあります。

 これで、少子化だから子供をたくさん産んでというのは、なかなか私は難しいのではないかというふうに思いますが、このような産婦人科医師が限られた状況においては、正常分娩を取り扱うことのできる助産師との役割分担が重要になってまいります。県外の医療機関では、病院内に助産師によって正常分娩のみを扱う院内助産所を開設するところもあり、助産師への期待は大きなものがあります。

 そこで、担い手である助産師の状況について健康福祉部長にお尋ねをいたします。

 さて、その助産師の確保に関連して、今議会に、同僚議員より総合看護専門学校の助産学科の廃止を延期しようとする条例議案が提出をされております。この条例議案が対象としている総合看護専門学校は、高知女子大学看護学部と並んで県中央部における高知県の看護師養成の拠点であり、数多くの優秀な看護職員を輩出してまいりました。最盛期には、看護師養成の2学科、保健学科、助産学科の4つの学科から成っておりましたが、現在では看護学科と助産学科の2学科となっておるのであります。既に、平成1712月県議会で21年3月に閉校する条例改正がなされ、現在、看護学科は学生募集を停止しており、助産学科も来年4月に最後の入学生を受け入れるのみとなっておるのであります。

 この見直しは、高知女子大学の改革にあわせて、県中央部における高知県としての看護師養成の拠点を高知女子大学看護学部に統合するために行われてきたと考えるのであります。具体的には、総合看護専門学校の看護学科の定員40名を廃止して、高知女子大学看護学部の定員を40名から80名に増員すること。あわせて、高知女子大学看護学部において19年度から4名の助産師養成に着手をしておりますが、その後看護学部の定員増にあわせて養成する助産師を8名に増員し、総合看護専門学校助産学科を廃止する考えでありました。

 この考え方は、医療や看護の高度化や専門化に対応するための看護師養成を、専門学校による3年間の養成から大学での4年間の養成に延長しようという看護分野での基本的な考え方に一致するものであります。平成元年度に4年制大学で看護師を養成していたのは11校でした、全国で。これらの学校では助産師養成はされていませんでしたが、平成19年度からは159校と10倍以上に、大学でその養成をするという方向に増加をし、助産師養成を行う大学は103校になっておりまして、四国では既に香川県や愛媛県で県立の専門学校が大学に移行をいたしております。しかも、その中で助産師養成を行っております。そうした他県の状況を見ますと、本県においても一日でも早く高知女子大学での助産師養成を充実して、質の高い助産師養成を行っていくことが必要と考えるのであります。

 ただ、高知女子大学においては、19年6月議会と9月議会で関連する条例議案が認められずに、4名の助産師養成には着手されておりますが、学部定員の増加を踏まえた助産師養成の8名の増加については宙に浮いたままとなっておるのであります。一方、高知大学で予定をされておりました6名の養成も、昨日からの話でもありますように、おくれているようであります。このような状況においては、特に不足が指摘をされている助産師について早急に確保の方策を検討することが必要と考えるのであります。

 その一つの方法として今回の条例議案が提出をされたのでしょうが、課題もあると思うのであります。例えば、全国的に助産師養成は専門学校から、大学でなされるということが主流になって専門学校での助産師養成が減少した結果、数少ない存続している県立の助産師専門学校である総合看護専門学校助産学科に数多くの、県外からの学生が受験するようになったと。大学はハードルが高いから、県の専門学校助産学科に県外から多くの……。せっかくそうして残しても、定員をふやしてもそういう流れになるのではないかという状況になっております。受験生のうち、県外出身者が占める割合が80%を今超えておるのでありまして、それに伴い入学生も県外出身者が3分の2近くで、高知県出身者は推薦入試によって30%を辛うじて確保している状況であります。卒業後も、県内の医療機関に就職するのはほぼ県内出身者に限られておるという状況にあります。ですから、現在の状況のまま助産学科を存続させても、助産師確保が大きく改善するということにはつながらないというおそれがあります。

 また、既に高知女子大学では4名の助産師養成に着手をしておりますが、高知女子大学の実習施設はこれまでの助産学科の実習施設と重複をするところがありますので、助産学科をそのまま存続させますと、実習施設での分娩介助実習が円滑に行えるのか疑問になってくるということであります。助産師というのは、病院でそれぞれ実習研修というのがなければ助産師として資格を取ることも技術を上げることもできないという問題があります。聞くところによりますと、数年前には10例の実習数に足らずに、卒業式前やあるいは卒業後も実習を行わないといけないという学生もいたということを承るのであります。看護教育は現場教育であります。実習の実施には、妊婦さんを初め病院関係者の協力があって可能となってまいります。そこで、影響が出ないのか心配しますが、加えて既に総合看護専門学校看護学科の廃止が行われており、助産学科だけの運営は財政的にも非常に効率が悪くなってくるという問題があります。

 そのほかいろいろの課題がありますが、県内で必要とする助産師の養成と確保を図る観点から、知事としてこの条例議案をどのように考えておるのか、お伺いをいたします。

 (後略)

 ◎知事(尾崎正直君)

 (前略)

 県立大学と高知工科大学の公立大学法人化と、2大学を1法人で運営することについてお尋ねがございました。あわせてお答えをさせていただきます。県立大学の法人化は、議員御指摘のとおり大学の自主性と自律性の向上、県民の皆様への説明責任の重視、さらには戦略的で機動的な大学運営の実現など、大学改革を進めるための有力な方策と考えております。全国の公立大学は、平成21年度当初にはその約6割が法人化される見込みであり、女子大学の学長も、法人化は避けて通れず早急に対応が必要との認識を持ってその課題の整理や検討を行っております。

 一方、高知工科大学は、県内の男子学生を初め、次の世代を担う人材の育成や進学機会の拡大、若者の定着、県内産業の振興など県勢の浮揚に貢献をしており、公設民営の趣旨に沿ってその社会的役割を果たしてきております。こうした役割は本県にとりまして引き続き必要ですし、少子化の中でも安定した経営を続け、その機能、役割を維持していくためには公立大学法人化は有効と考えられます。高知工科大学では、学長を筆頭に精力的に法人化の検討を進めており、先般学長が文部科学省の担当部局を訪問し法人化に向けた思いを伝えましたところ、これまでハードルが高いと考えられていた学校法人から公立大学法人への移行は可能との判断をいただいたと承知しております。

 将来における本県の高等教育のあり方からしますと、高知大学との関係を抜きに考えられませんけれども、まず県の関与の深い両大学の法人化は望ましいと考えておりまして、今後両大学とともに検討を進めたいと考えております。また、両大学を法人化した場合には、経営面からも教育研究の相乗効果を発揮するためにも、2大学を1法人のもとで運営していくことは一つの選択肢と考えております。

 さらに、総合看護専門学校存続の条例改正案をどのように考えるかとのお尋ねがございました。助産師の養成につきましては、お話にありましたように看護教育の高度化や専門化を進める観点から、全国的に専門学校から大学での養成へとの流れとなっております。平成元年には4年制大学で看護師の養成を行っておりましたのは11校で、助産師の養成は皆無でございましたけれども、平成19年度には看護師の養成が159校と10倍以上になり、助産師の養成は103校となっております。こうした看護教育の高度化、専門化の要請に対応するため、本県でも助産師の養成は総合看護専門学校と高知女子大学を再編統合する方向で検討を行い、平成20年度末に総合看護専門学校助産学科を廃止することにしたところでございます。

 その後、御指摘のとおり総合看護専門学校の廃止を決定したときに見込んでおりました、高知女子大学看護学部の拡充や高知大学による助産師養成がおくれておりますけれども、看護の高度化への対応という全国的な流れを踏まえますと、やはり今後の県内での助産師の養成は、少しおくれても両大学で実現するよう取り組みたいと考えております。いずれにしましても、私は、安心して産み育てる環境を守っていくため助産師の確保は大変重要な課題だと認識しております。

 両大学での養成がおくれている間の対策はとらなければならないと考えておるところでございますが、ただしその対策として総合看護専門学校を存続することにしますと、助産師養成に必要な実習先の確保の観点から、両大学で助産師養成が始まったときに総合看護専門学校で養成する助産師の数をそのたびに調整することが必要になり、学校が実際に運営上対応することができるのかという課題もございますし、また助産学科を運営するに当たっての運営費用の問題もございます。こうした課題を考えますと、県としては両大学での養成がおくれる間の緊急の対策としては、助産師養成奨学金の拡充や、現在助産資格を持って看護業務についている人を助産現場につなぐ取り組みなどの対策を講じることで、県内での助産師の確保を進めていくほうが望ましいのではないかと考えておるところでございます。

 (後略)

 ◎政策企画部長(十河清君) 高知工科大学の理事長問題で県に相談があったのかとのお尋ねがございました。

 高知工科大学は、平成9年4月に学校法人、いわゆる私学として開学をいたしました。橋本前知事は開学以来、公設民営方式でつくった大学の最大の功労者であるというような意味から理事長職を務めてまいりました。前知事の退任に当たりまして、理事会でもこの理事長問題についての非公式な協議がなされておりますが、その中で協議のあった内容は、1つには理事長は理事会の議決により選任するという大学の寄附行為上の規定があること、もう一つには任期が平成21年の3月までと任期途中であること、こういったことから現段階ではすぐに理事長を交代するという理由はないのではないかなどの協議がなされたというふうにお聞きをしています。

 そうした過程で、私にも大学から意見を求められました。私からは、工科大学は公設民営方式で設立された大学ではありますが法的には学校法人として独立した組織であること、そうしたことから大学の寄附行為にのっとった理事会での判断で決定されるべき事柄であるということをお伝えいたしました。また、あわせて橋本前知事が退任後は新たに県から理事を派遣し、県として今後とも大学運営にかかわっていく必要があるということをお伝えしたという経緯でございます。

 そうした経緯を経て、昨日工科大学で理事会が開催をされまして、その中で岡村学長が退任をされるということになりました。この時期に理事長が交代するということは大学運営上非常に問題があるといったようなことから、橋本前知事が引き続き理事長職を務めるということになりました。それとあわせて、県からも理事を1名迎え入れることにしたというふうにお聞きをしてございます。

 以上でございます。

 ○ 高知女子大学の法人化に反対する論陣

【2008年3月 高知県議会定例会 3月3日】

  

 中根さち議員の代表質問

 日本共産党と緑心会を代表して質問をいたします。

 (中略)

 次に、県立大学の独立行政法人問題について伺います。

 知事は、12月議会で、県立大学の改革について、独立行政法人化、つまり公立大学法人化に前向きな答弁をしましたが、独立行政法人化は、「官から民」という「規制緩和」のツールの1つであり、多くの問題点があります。

 公立大学法人の教職員は、地方公務員から「一般地方独立行政法人」の職員となり、教育公務員特例法の規定が適用されなくなります。教育公務員特例法は、「教員の採用及び昇任のための選考は、(中略で)教授会の議に基づき学長が行う」とし、教授会の教員人事に関する権限を定めていますが、これが適用されなくなります。

 首都大学東京では、教授会の教員人事にかんする条項が学則から削除されています。地方独立行政法人法は「職員は、理事長が任命する」と定めているだけです。その理事長は、知事が選定します。学長は理事会で選ぶため、滋賀医科大学では、教員による選挙で大敗した候補者が学長として選出されていますし、高知大学での混乱も記憶に新しいところです。大学自治の中核である教職員の人事権の民主性、自主性、雇用の安定を破壊し、官僚統制を強めるものです。

 職員給与については、地方公務員法の「生計費」や「職務に必要とされる技能、職務遂行の困難度」という文言が削除され、「業務の実績を考慮して定める」ことに変わります。大学の役割は、本来効率や収益だけでははかれないわけで、収益のあがらない研究に携わっている教職員の人件費は下げられる、こんな仕組みです。教員が安心して研究・教育に専念することはむずかしくなるでしょう。

 運営については、大学自身ではなく、県が決めた6年ごとの中期目標が中心となります。中期目標は、効率化、成果というものが設定されるため、住民力を育てる、歴史・文化の研究、基本的な研究など県民、県政にとっては大事であっても、すぐに効果がでないものは切り捨てられる危険があります。教職員の削減も押しつける構造になっています。この目標の達成度について評価する委員も知事が任命をします。理事長の選任とあわせ、時の行政の意向に、大学の研究・教育がひきずられる構造をもっています。

 さらに中期目標期間の終了時には、「業務を継続させる必要性」等を検討することが法で定められています。中期計画が終了するたびに廃止を含めて検討するというものです。まるごとその部門をリストラできるツールとなっています。2002年8月の総務省研究会報告書は「事務事業の垂直的減量化を行うために必要だ」とはっきりその目的を述べています。

 こうした問題点について、知事はお認めになりますか。お聞きいたします。

 先行して独立行政法人化した大阪府立大学では、人件費、管理経費などは7%の削減。10年間で教員を25%削減することを目標としました。横浜市立大学や首都大学東京では、勤務成績による年俸制や任期制が導入をされ、その結果、3割近い教員が流出をし、大学の研究・教育の水準を低下させています。独立行政法人化している国立大学でも、短期的に成果のあがらない研究、論文になりにくい研究はさけられてきているという弊害が指摘をされています。

 知事は、大学の研究を、短期的な成果や収益と関係させることの弊害をどう認識されていますか、県立大の独立行政法人化は進めるべきではないと考えますが、ご所見を伺います。

 また、高知工科大学の独立行政法人化の問題が浮上していますが、いま申し上げたような問題のほか、将来的に交付税が減少すれば、県が財政負担をしなくてはならない危険性も指摘されています。県議会にもまだ検討する詳しい材料も提供されていません。

 平成21年4月実施を目標とせず、慎重に議論すべきと思いますが、知事に伺います。

 (後略)

 尾﨑知事の答弁

 (前略)

 次に、県立大学の法人化に関しまして、独立行政法人化には様々な問題点が見受けられるが、こうした問題点を認識しているのか、大学の研究を収益などと関係させることなどの弊害をどのように認識しているのか、また、県立大学の法人化は進めるべきではないと考えるがどうか、とのお尋ねがありました。関連しますので併せてお答えをいたします。

 公立大学法人は、公立大学に法人格を与え、公立としての位置付けを維持したまま、大学の予算や人事などの自由度の拡大や説明責任を強化することなどを目的とした制度であります。

 行政組織の一部である県立大学が法人になることで、予算面や人事面の自由度が拡大し、迅速な意思決定もできる体制となります。それによって自主性を拡大し長期的な視野に立って運営ができ、社会の変化などに柔軟に対応できるようになります。

 併せて、県立大学の公的な性格を維持するため、議会の議決を必要とする中期目標やそれに基づく業績評価、さらに詳細な財務公開などによる説明責任の強化などが制度化されているところであります。

 国公立大学の法人化は、全国的な潮流ともなっており、国立大学は既に100%、公立大学でも平成21年4月には、全国でおよそ6割が法人化される見込みであります。

 県立大学の法人化に関しては、大学を良いものとし得る、この制度の良さを充分に活かすよう、ご懸念の点にも意をもちいながら良く検討を行っていきたいと思います。また、その際には、本県の高等教育の将来を考えますと、高知工科大学の法人化と併せて検討してまいりたいと考えております。

 次に、高知工科大学の公立大学法人化は、慎重に議論すべきと考えるがどうか、とのお尋ねがございました。

 これまでにもお答えしてきましたように、高知工科大学の公立大学法人化は、県内産業の振興や人材育成など、これまで高知工科大学が果たしてきた役割を引き続き担ってもらうために必要だと考えています。

 公立大学法人化に向けた具体的な検討はこれからですし、これまでも、学校法人を公立大学法人化した事例はありませんので、まずは、手続き上の課題や作業スケジュールなどを、国や大学と事務的に詰めていかなければならないと考えております。

 この公立大学法人化に向けては、法人設立の根拠となる定款や財政的基礎となる出資などについて、県議会の議決をいただかなければなりません。また、授業料や入学金などの上限、大学に交付します運営交付金の予算化などについても議決が必要となります。

 このように、高知工科大学の公立大学法人化に当たりましては、それぞれの取り組みの各段階において、県議会で、ご議論、ご審議していただかなければならないと考えているところであります。

 こうしたことも含めまして、今後とも県議会や県民の皆様のご意見をいただきながら、検討を進めてまいりたいと考えております。

 私からは以上であります。

 ○ 尾崎正直知事の五月の記者会見

  尾崎正直知事の記者会見

 (県政記者との懇談会)

 2008年5月2日() 14:00~ 第二応接室

 以下、高知女子大の件についてのみ抜き書きしました。

 (半田:高知新聞記者)

 2点目なんですけれども、高知女子大と県立芸陽病院ですけれども、移転構想について、いずれも6月から7月に方向性を示す、そういう方針を県議会でも執行部の方が示しております。関係者から話を聞いて、いろいろ整理されていると思うんですけども、現在までに何か具体化してきている案はありますでしょうか。

(知事)

 恐縮ですけど、ちょっと今の段階で具体的な案というのは申し上げることはできませんが、いずれにしてもまず県立大学改革についてですけれども、これまでに関係者の方々からいろいろとご意見をお伺いしてきています。そういうことで、その中では保健、医療、福祉、この人材養成というのを充実していく。これが非常に急がれることだというご意見もいただきましたし、また併せて、そうするにあたっては、高知医療センターとの連携というのが必要だというご意見も伺ったところであります。

  他方で、この問題、従来から申し上げておりますように、まちづくり、中心市街地の活性化という観点も同時に考慮しなければならない問題だと思います。併せてもう一つですが、本県の高等教育のあり方をどうするのかということについても考えなければならない。そういう中で、例えば永国寺(地区)はどうするのか。そして池(地区)はどうするのかということを考えていかなければならないだろうと、私は思っています。

  現在、具体的な検討を内部的には行っているところでございますけれども、まだその改革案を申し上げる段階、そこまで煮詰まった段階にはなっておりません。また今後、早急に検討を深めて、7月の議会にはお示しをしたいと、そのように県立大学については思っております。

 芸陽病院についてでございますけれども、これは現在公営企業局におきまして、芸陽病院のあり方検討委員会の委員の先生方や医療関係者、地元の方々などの関係者にお会いさせていただいて、課題となっている点を整理させていただいているところでありまして、この点についても恐縮ですが、今の段階で具体的にお示しする案は、現在まだできてはおりません。

  今後、関係者からいただいたご意見などを整理して、県としての考え方を取りまとめていきたいと考えております。その上で、地元や医療関係者などの皆さま方へのご説明を重ねていくと、また県議会へも説明をさせていただくということだと思います。

 非常に高次の医療の問題、これを解決していくという、どのようにしていくのが本県のあり方としていいのかという問題、また長年に渡ってこの芸陽病院を支えてくださっている地元の皆さま方のお気持ち、こういうものを共に大切にしていかなければならないと考えていますので、いずれにしても合意のプロセスというのを重視してこの取り組みは進めていきたいと、そのように考えています。

 (畑本:読売新聞記者)

 さっきのご回答の確認なんですが、女子大と芸陽病院の関係で、女子大について、今まだ具体的なことは言える段階ではないけれども、9月の議会ではそれを言いたいと?

(知事)

 7月です。

 ○ 次の県議会の日程

 七月七日(月曜日)~二十二日(火曜日) 七日午前十時から 知事の提案説明 一般質問は十日(木曜日)、十一日(金曜日)、十四日(月曜日)

 【参考】

 ○ 尾崎正直高知県知事の2008年度高知短期大学入学式での「告辞」

 ・ 高知短期大学は、昭和二十八年に県内唯一の夜間の短期大学として開学して以来、「働きながら学べる大学」、「地域に根ざした大学」として、高知県の高等教育の一翼を担ってまいりました。

 この間、四千九百人余りの卒業生を送り出してまいりましたが、その多くの方々が、県内の様々な分野で活躍されておられます。

 このような本学に皆様方をお迎えすることができましたことを、本学の設置者として大変うれしく思っております。

 ・ 少子高齢化の進展、日進月歩の科学技術の進化に思いをはせる時、学ぶことの前に、年齢や日々の生活の壁が高くそびえ立つようであってはなりません。

 本学はこの点に鑑みた時、「学びたい気持ち」を一番大切に、時代の要請に応じた教育プログラムを、多様な方々に提供しうる優れた教育環境を有する学びやであると考えております。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

高知市 「アチミスル」を歌いたい。

 二〇〇八年六月十七日。

 この曲、「アチミスル」を歌えるようになりたいと思っています。

 ここで歌を聴くことができます。

 http://www2.pullbbang.com/video.pull?vcode=l1179608


     A-chim-i-seul  アチミスル 朝露

Kin bam ji-sae-u-go, Phul-iph-ma-da-maej-hin
キン・バム・チセウゴ、プリ・マダ・メチン

Jin-ju-po-da teo go-un a-chim-i-seul cheo-reom
チンジュポダ・ト・ゴウン、アチミスル・チョロム

Nae mam-eui seol-um-i, al-al-i maej-hil ttae
ネ・マメ・ソルミ、アラリ・メチル・テ

A-chim dong-san-e ol-la, jag-eun mi-so-reul pae-un-da.
アチム・ドンサネ・オルラ、チャグン・ミソルル・ペウンダ。

Thae-yang-eun myo-ji wi-e, pulk-ke tteo-o-reu-go
テヤグン・ミョジ・ウィエ、プルケッ・トオルゴ

Han-naj-eui jji-neun teo-wi-neun, na-eui si-ryeon-il-ji-ra.
ハンナジェ・チヌン・トウィヌン、ナエ・シリョニルジラ。

Na i-je ka-no-ra, jeo geo-chin kwang-ya-e.
ナ・イジェ・カノラ、チョ・ゴチン・クァンヤエ。

Seo-reo-um mo-du peo-ri-go, na i-je ka-no-ra.
ソロウム・モドゥ・ポリゴ、ナ・イジェ・カノラ。

長い夜を明かし、草葉に実る
真珠より美しい、朝露のように
心に悲しみが、実る時
朝の丘に登り、ほほえみを学ぶ。
太陽は墓地の上に、赤く昇り
真昼の暑さは、私の試練か。
私は行く、荒れ果てた荒野へ。
悲しみふり捨て、私は行く。

                 (訳:李政美)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.06.19

高知市 僕たちの近況を、お知らせします。「僕はサギ師になる」など、いろんなこと。

 二〇〇八年六月十九日。

 あるかたから「近況知らせて。」のメールをいただきました。

 近況を、お知らせします。

 ● 三月末に退職した東京都の妻が、五月になって百数十の段ボールとともに高知市の、わが家に到着しました。

 ● 妻は、高知で女性運動などの分野で走り回り始めています。
 「高知市の田舎」から自転車で出発して「高知市の中心地」などを走り回る妻の「馬力」は、すさまじいものです。

 ● 妻は、高知市にきてから料理に興味を持ちだしたようです。新日本婦人の会の料理教室にいったり、NHKテレビの料理番組に見入ったら……。この「変化」は、すごいです。おかげで、おいしい食事をいただいています。

 ● 僕の、睡眠時無呼吸症のほうは、あいかわらずです。昼間の眠気と必死でたたかっている、きょうこのごろです。

 ● いまは、やっと出始めた失業保険で生計を立てています。

 ● 地域での活動も、できるだけやっています。ハンドマイクでの、つじ演説も「さま」になってきました。来週は、地域の老人クラブの総会にも出席する予定です。

 ● 高知県立高知短期大学や高知県立高知女子大学での授業(短大生として何科目か女子大の授業がとれるのです。前期は三科目とっています)、掛軸づくりの教室、陶芸の教室と、かなりハードです。短大では、小テスト、リポートの提出、迫りくるテストの季節と、緊張した日々を送っています。

 ● 平和資料館・草の家(高知市)の研究員(理事)をやらせていただいています。六月末からの空襲展にむけて、展示の一コーナーをやらせていただくことになりました。いま、どう成功させるか、あせっているところです。

 ● 月刊『高知歌人』の編集委員もさせていただいています。歌会にもでかけるようになりました。

 ● 最近、決意したのは、ご近所の田んぼにやってくるサギたちを写真に撮って、どこかに展示したいということです。うまくいっていませんが、妻には「僕はサギ師」と呼ばれるような人間になると宣言しています。

 ● 七月、八月には、娘と娘の娘たちや息子夫妻の高知への迎え入れがあります。

 ● それに、七月、八月には、愛媛県での『民主文学』の集会、短大の韓国ツアーにも参加するつもりでいます。

 ● めいっぱいで自爆寸前ですので、後期は、少し授業のほうを減らし、じっくり研究をしていきたいと思っています。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008.06.20

高知市大津 庭に珍しいチョウチョがいました。

125

 二〇〇八年六月二十日。

 午前中の授業が終わって午後零時半ころ家に帰ったら、庭に珍しいチョウチョがいました(珍しいというのは僕にとって)。
 激写しました。

  チョウチョのことは未学。これが何という名なのかもわかりません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.06.23

高知県 凶悪な「最後の帝国」がほろびる日。

 二〇〇八年六月二十三日。

 凶悪な 「最後の帝国」 ほろびる日
 この目で見たい
 テレビに向かう

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.06.25

高知県 自由民権思想の宣伝歌、 「よしや武士」の全体像がわかりました。

 二〇〇八年六月二十四日。

 「自由民権期」の「よしや武士」の全体像がわかりました。
 『随筆 明治文学1 政治編・文学編』(校訂者・谷川恵一他。平凡社)に載っていました。
 以下、〔〕に注をつけながら紹介します。

 よしやなんかい苦熱の地でも 粋な自由のかぜがふく
 〔「なんかい」は「南海」〕

 よしや田植のわたしが身でも 跡にさがるは好(すき)でなひ(い)
 〔後ろずさりしながする田植えにひっかけています〕

 よしやどほ(お)でも櫛歯にかけて 結はざなるまひ(い)乱れ髪

 よしや此身(このみ)はどほ(お)なり果(はて)よが 国に自由がのこるなら

 よしやあじや(アジア)の癖じや(ゃ)と云(いえ)ど 卑屈さんすなこちの人

 よしや若菜と摘(つみ)すてらりよ(ょ)が くにに心をつくづくし

 よしややま吹(ぶき)いろよくさけど 末は実のなひ(い)こと斗(ばか)り 

 よしやほころび縫(ぬわ)んすとても 縫ふ(う)にぬは(わ)れぬ人の口

 よしやおまへ(え)が花さくとても 水にうき草たよりなや

 よしや極(きま)りもわるくはあろが よしておくれな痩我慢(やせがまん)

 よしやいやでも言(いい)だすからは 掟さだめてそひ(い)とげる

 よしやおまへ(え)が恥(はず)かしくとも どふ(う)でいちどははつ枕

 よしやねむくも門の戸あけて 叩く水鶏(くいな)を聞(きか)しや(ゃ)んせ 

 よしやお前が通ふさぬ(とおさぬ)気でも 開(ひら)けゆく世に関はなひ(い)

 よしや憂き目に近江路(おうみじ)なれど きよき心は比羅(ひら)のゆき

 よしやつらくも少しはおきゝ 思過(おもいすご)した愚痴じや(ゃ)もの

 よしや浮気をするならさんせ わたしや(ゃ)独(ひとり)で立(たつ)気ぞへ(え)

 よしやどほ(お)でも何いとやせぬ 辛(から)きうしほ(お)に魚もすむ

 よしや真葛(まくず)はからんで居(い)よが うらみうらみの秋の風

 よしや隅田にうかれて居(い)よが もとはかもめの都(みやこ)どり

 よしや待乳(まつち)といほざきとても こゝろ関屋の我(われ)をもひ(おもい)
 
 よしや糸目が切れよとまゝよ わたしや(ゃ)じゆふ(じゆう)の奴凧(やっこだこ)

 よしやしうと(しゅうと)が鬼でも蛇でも 惚(ほれ)た権理ですは(わ)りこむ

 よしや私がぼんくらじや(ゃ)とて 主(ぬし)のおせじにや(ゃ)嘔(へど)を突(つく)

 よしや憂きこと富士程(ほど)つもが 辛抱駿河(するが)の甲斐(かい)はある

 よしやおまへ(え)が程(ほど)うるとても 作り笑顔に惚れはせぬ

 よしやお前がよしよしなりと 司馬徽さんでは被居舞

 よしやよく目かわしや白菊の 花もじゆうにさく山家(やまが)

 よしや朝寝が好(すき)じや(ゃ)といへ(え)ど 殺し尽せぬあけがらす

 よしやみやまの片ほとりでも 卯月(うづき)はわすれぬ不如帰(ほととぎす)

 よしや釈迦(しゃか)でも四月のあま茶 水になろとは思やせぬ

 よしや早くはそへ(え)なひ(い)とても いふ(う)た言葉を忘れねば

 よしや邪見(じゃけん)なあなたじや(ゃ)迚(とて)も 実と偽とがかわらねば

 よしやおまへ(え)にふられた迚(とて)も 天地容(いれ)なひ(い)身ではなひ(い)

 よしや憂目(うきめ)にアラビヤ海も わたしや(ゃ)自由を喜望峰

 よしやいなかのかた言葉でも うそを信(まこと)といひ(い)はせぬ

 よしや深山(みやま)の埋れ木じや(ゃ)とて いろは都にまさるはな

 よしや嵐にもまりよ(ょ)がまゝよ 咲(さい)たいろかは変や(かわりゃ)せぬ

 よしやお前が気づよひ(い)とても 覚悟きわめた恋の意地

 よしやどんなに水さすとても わしの熱心さめはせぬ

 よしやシビルはまだ不自由でも ポリチカルさへ(え)自由なら
 〔シビルは市民、ポリチカルは制度のことです〕

 よしやお前が居(い)すは(わ)る気でも たてゝ居るそへ(ぞえ)この箒(ほうき) 
 
 よしやねた振(ふり)さしや(ゃ)んす迚(とて)も 醒(さめ)にや(ゃ)なるまひ( い)村時雨(むらしぐれ)

 よしやカードは禁ぜられよが マグナカルタで遊たひ(い)
 〔マグナカルタは、一二一五年六月十五日に制定されたイングランドの憲章で、ジョン王の権限を限定する法です〕

 よしやしばしはうき雲たとが 晴(はれ)りや(ゃ)その儘(まま)さへ(え)た月

 よしや鴛鴦や(おしどりゃ)はなれるとても はなれまひ(い)のは我権理

 よしやとふ(う)座の花とはいへ(え)ど 迷わせさんすも程(ほど)が有(ある)

 よしや深山(みやま)の伏屋(ふせや)じや(ゃ)とても わたしや(ゃ)自由がたつ煙

 よしやあへ(え)ない中とはいへ(え)ど 筆にいは(わ)せる自由丈(た)け

 よしやわたしは罪つくるとも 惚(ほれ)た因果じや(ゃ)是非が無(ない)

 よしやまことを明石(あかし)たとても 主は須磨してうわの空

 よしや可愛ひ(い)お前じや(ゃ)とても 愛(いとし)がらせにや(ゃ)是非が無(ない)

 よしや私しが間抜(まぬけ)じや(ゃ)とても 焦(こが)れ仕舞じや(ゃ)置(おき)はせぬ

 よしや田にしと踏付らりよが(ふみつけらりょ)が 主の馬鹿貝螺(ほら)にや(ゃ)まし

 よしやあらしが立田のやまも わたしやよし野の花盛(さかり)

 よしやあま酒のませる気でも 私や禁酒でアルコール

 よしやとんびが攫(さら)える気でも はなしやせぬぞへ(え)油揚

 よしやいのちに限りはあれど 限りないのが国のため

 よしやどほ(お)でもまことを写す かがみ川かよ筆のやま

 よしやおまへ(え)の仰(おおせ)じや(ゃ)とても 権利ない身に義務は無(ない)

 よしや気障(きざ)でもじゆうの空気 弘ひ(ひろい)世界もいつしかに

 よしやどんなに縛らんしても 解(とか)ざなるまい繻子(しゅす)の帯

 よしやせいけひ(い)六度の地でも こゝはあじやの日耳曼(ぜるまにい)

 よしや幕がへ(え)した気で居(い)よが 仕組や(しくみゃ)変らぬ時代もの

 よしや彼地(かのち)のはらいせじや(ゃ)迚(とて) ほんに難面(つれない)やつあたり

 よしやおまへ(え)がフランス気でも 私や亜細亜(アジア)のガンベッタ
 〔ガンベッタは、フランスの政治家(一八三八年から八二年)。一八七〇年~七一年の普仏戦争(独仏戦争、プロイセン・フランス戦争)でナポレオン3世がセダンで捕虜となった後、パリで国防政府の内相となりました。パリがプロイセン軍に包囲された時、気球に乗ってパリを脱出しました〕

 よしや疼(うず)くもはらねばならぬ よこねつぶしの権利膏(けんりこう)

 よしや野暮(やぼ)でもヨシヨシ節は なまけ野郎の夢ざまし

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.06.27

高知県四万十町宮内にあった高知海軍航空隊の成り立ちや役割などのパネル。ついに完成しました。

Img014

 二〇〇八年六月二十七日。

 夜中までかかって、ついに完成。

 高知県四万十町宮内にあった高知海軍航空隊の成り立ちや役割などのパネルです。四枚です(いずれもA2)。

 ● 資料収集に苦労しました。当事者、七人。研究者のIさん、Dさん、Nさん、Kさん、若い友人のIさんんにお世話になりました。本も何冊か読みました。パネルのはりこみなどで妻にも手を貸してもらいました。

 ● A2の発泡スチロールのパネル、両面テープをそろえました。

 ● パソコンではりつけるシートや写真を印刷しました。

 ● そして、はりこみ。

 ● はりこんでから誤植を発見し、はがして、再度印刷して……。

 とにかく六月二十九日、このパネルがデビューします。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

高知県の窪川の山あいの海軍の飛行場についての僕の調査のまとめ。第二稿。

 二〇〇八年六月二十七日。

 (三十日の第二稿です)

 本土決戦のためでした

 窪川の山あいの

 海軍の飛行場

 【平和資料館・草の家にある飛行機の車輪】 

 平和資料館・草の家(高知市升形九の一一)に日本帝国海軍の機上作業練習機・白菊の車輪二つとエンジンカバーが寄贈されています。
 白菊は、翼幅一四・九八メートル、全長一〇・二四メートル、全高三・九三メートルの五人乗りのプロペラ機。機関銃一丁と六十キロの爆弾で武装していました。
 タイヤは、二つとも直径七十四センチメートルほどの物です。
 一つのタイヤには、つぎの文字が浮き彫りになっています。
 「藤倉工業株式会社 昭和17年12月製 800×275 半高圧制動車輪 常用内圧2・5~3㎏/cm2」
 もう一つには、つぎの文字が浮き彫りになっています。
 「藤倉工業株式会社 昭和 年 月製 800×275 半高圧制動車輪 常用気圧2・5~3㎏/cm2」
 これは高知県四万十町宮内の武市典雄さんが、終戦直後に、窪川町役場の横にあった引揚事務所からもらい受けたものです。
 もとは窪川町宮内の高知海軍航空隊窪川飛行場(高知第三飛行場)にあったといいます。

 【何のための飛行場だったのでしょうか】

 これは何のための飛行場だったのでしょうか。
 それを説明するために、まず高知海軍航空隊(日章村・現南国市)の白菊の特別攻撃のことを書きます。
 「……日章の高知海軍飛行隊は実戦部隊でなく練習部隊であったので、零戦はもとより戦えるような機はなかった。あったのは練習機『白菊』で、これは時速百四十キロぐらいの鈍速。しかも機銃も搭載しておらず、空中戦は挑めない。(中略)
 一方で、『白菊』は特攻機に使われていた。『菊水・白菊特攻隊』として編成、日章から鹿児島の鹿屋(かのや)の基地まで飛び、翼下に爆弾をくくりつける。ベニヤ張りの増槽タンクも積み、戦闘能力はないので敵機に見つかりにくい夜間に出撃、海上スレスレに飛び敵艦に体当たりするのだ。」 (『一発勝負 報道カメラ五十年』。浜田豊繁さん。高知新聞社)。
 高知新聞のカメラマンだった浜田豊繁さんは、その「菊水部隊白菊隊」が一九四五年(昭和二十年)六月二十日、日章村の高知海軍航空隊から飛び立つのを、同航空隊の近くの物部川の堤防から目撃しています。
 「地元農家の人たち三、四十人が見送りにきていた。いずれも航空兵を下宿させている家の方々で、今生の別れである。『まっことむごい』とご婦人が身をもむ。(中略)
 一九〇〇、特攻隊出発。航空隊の手のすいた者全員が見送りの位置につく。総員〝帽振れ〟のなか、堤防の人々にも見送られて一機ずつ、これも機上から手を振りつつ五機が飛び去った。機が夕暮れの空に消えても、しばらくはだれも動かない。
 やがて、 海ゆかば水漬(みづ)く屍(かばね) 山ゆかば草むす屍…の歌が皆の口をついて出て、女性は抱き合って泣き、男たちはこぶしで目頭をぬぐう。
 一九三〇、続いて三機が出発した。」(前出)
 「菊水部隊白菊隊」は、一九四五年五月二十四日から六月二十五日までに計二十六機が沖縄に向け出撃。計五十二人が戦死しています。
 操縦の佐藤新四郎一飛曹(二十三歳)=宮城県出身=は、六月二十七日夜に出撃し、翌二十八日、「沖縄周辺」で戦死しました。
 佐藤一飛曹は、出撃の一週間ほど前に、高知市の池内照さん(二十六歳)=当時、一九九三年一月死去=と結婚していました。
 「一九四五年(昭和二十)六月二十五日沖縄失陥(しっかん)により菊水作戦[記者注・沖に侵攻したアメリカ軍艦船への飛行機による特別攻撃作戦]が打ち切られると、残存の白菊は鹿屋から高知へ引き揚げた。
 沖縄戦が始まったころ、次には米軍の日本本土侵攻が必至とみられた。陸海軍は沖縄に総力を結集する一方、本土決戦に備えなければならない。その一つに、特攻機を隠蔽(いんぺい)待機させておく飛行場の建設があった。高岡郡窪川町宮内の高知第三飛行場もそれである。」(『高知空港史』。高知県)。
 「高知基地残留の練習機白菊を最後の特攻機として使うため窪川基地に移動 隠蔽(いんぺい)保存した」(『高知海軍航空隊史』。中山三国王さん)。
 「……『海軍宮内飛行場』とは要するに『特攻機を隠蔽待機させておく   飛行場』だった……」(『平和への祈り 戦中・戦後の記録』の「四万十川
蜃気楼 海軍宮内飛行場」。高知県老人クラブ連合会。県老連戦中・戦後の記録編集委員会)。

 【高知海軍航空隊がつくった「引渡目録」では】

 高知県には、それまでに三つの海軍航空隊の飛行場ができていました。
 ○ 宿毛海軍航空隊。一九四三年(昭和十八年)四月一日、幡多郡宿毛町。水上偵察乗員錬成。一九四四年四月一日閉隊。
 ○ 高知海軍航空隊。一九四四年(昭和十九年)三月十五日開隊。香美郡日章村。飛行予科練習生(予科練)卒業生のうち、偵察搭乗員となる者、飛行術偵察専修練習生(飛練)を入隊させ実技教育をしました。機上作業練習機・白菊が配置されました。一九四五年(昭和二十年)三月一日、同航空隊の教育は停止されます。同月十九日、同航空隊は、アメリカ軍の機動部隊から発進したグラマン艦載機の攻撃を三波にわたって受けます。その間、三月、四月と第一次有資格隊員と予備隊員の訓練を実施。四月にアメリカ軍との沖縄戦が始まると、五月から白菊が特別攻撃機となって沖縄に出撃しました。同月から多くの隊員が、高知海軍航空隊の周辺の山などで陣地構築、壕(ごう)づくりに従事しています。
 ○ 浦戸海軍航空隊。一九四四年十一月一日開隊。高知市池、飛行予科練習生教育。四五年三月二十五日、同隊のそばの高知市仁井田に高知第二飛行場が開設されました。高知海軍航空隊の緊急避難用だったといわれます。
 高知海軍航空隊窪川飛行場は高知海軍航空隊の高知第三飛行場としてつくられました。
 終戦後に高知海軍航空隊がつくったアメリカ軍への「引渡目録」に、その飛行場の地図などが載っています(最終ページに、「引渡目録」をもとにつくった同飛行場の配置図を掲載しています)。
 南北に延びた滑走路は、「砂利敷(じゃりじき)」で、延長千百八十メートルです。
 誘導路が北西、西、南西の谷に延び、それぞれの谷に機上作業練習機・白菊二十五機、九三式中間練習機一機、二式陸上中間練習機一機が配備されています(計二十七機中二十三機が使用可能)。そして、発動機が八基、三基と計十一配置されています。
 九三式中間練習機は日本海軍の練習機です。
 川西航空機が開発しました。機体構造は鋼管または木製骨組に羽布張りで後退角のついた上翼を持ちます。一九三四年(昭和九年)一月末に制式採用されました。全長八・〇五メートル。全高三・二〇メートル。乗員二人。武装は七・七ミリ機銃二つ、三十キログラム爆弾二つ。
 二式陸上中間練習機は、九三式中間練習機にかわる新型の中間練習機です。
 渡辺鉄工所は、海軍が研究用として戦前にアメリカから輸入していた ノースアメリカンAT―6練習機を参考にして設計をし、一九四三年(昭和十八年)に制式採用されました。
 全長八・六〇メートル。全高四・一〇メートル。乗員数二人。武装は、七・七ミリ機銃一台。
 高知海軍航空隊の「引渡目録」の窪川飛行場分の「兵器目録」には、つぎの兵器が記されています。

   品   名    数  量   記 事

 二十粍(ミリ)機銃     五   使用可能 
 七粍七機銃       二十六   使用可能
 小銃            百   使用可能
 二十粍機銃弾薬包   五千二百   使用可能
 七、七粍機銃弾薬包  十万五千   使用可能
 小銃弾薬包      七百八十   使用可能
 二十五番爆弾        百   使用可能
 二十粍機銃弾倉       七   使用可能
 七粍七機銃弾倉     五十三   使用可能
 燃料車           三   使用可能一台
                   使用不可能二台
 小型貨物自動車       一   使用不可能

 【こうして基地がつくられました】

 四万十町宮内は、現・JR窪川駅北西二キロメートルの四万十川のほとりにある山あいの農村です。
 この飛行場建設にあたった海軍呉鎮守府第五一一三設営隊(編成・一九四五年六月十五日。隊長・島本茂技術大尉)の分遣隊長だった西内弘さんが、建設にあたった事情を書いています(「関西RPの会」のホームページの「終戦小秘話」)。
 「高知県西南部に窪川町といって、四方を山々に囲まれた閑静な町があり、町外れに影野、仁井田という農林業で生計を営んでいる小部落がある(現・土讃線影野、仁井田駅)。ここでの物語である。
 昭和20年当時、私は若い海軍軍人であった。呉鎮守府(海軍施設部)より極秘命令を受けこの辺境地に、海軍航空隊特攻基地を緊急設営するため、分遣隊長として同期生2名で、部下兵120名と共にこの地に派遣された。
 昭和20年当初、高知海軍航空隊基地(現・高知空港)は、B29・双胴ロッキード・グラマン機の総攻撃を受け壊滅状態であった。海軍は新基地建設のため、高知市郊外の浦戸地区に『浦戸海軍航空隊基地』と窪川地区に『特攻機基地』を極秘に、しかも緊急に設営して本土決戦に備える計画を立案した。
 我々120名の派遣隊員は秘密裡に本体を出発、『影野』『「仁井田』の二つの小学校に合宿することになり、当分隊60名は影野小学校の一隅を拝借して、建設に着手した。」
 この滑走路の予定地は二十万平方メートルの田んぼでした。
 滑走路は、一九四五年(昭和二十年)春から突貫工事で急造されました。
 周辺の窪川村、松葉川村、仁井田村などの人たちや高知県窪川農業学校(現・高知県立窪川高等学校)、国民学校高等科の児童生徒が飛行場の整地、地固めのコンクリートローラー(直径一メートル、長さ二メートル)引きなどに駆り出されました。窪川農業学校の生徒だった武市典雄さんも動員された一人です。
 砂利を敷き、その上に小丸太棒(直径五センチ、長さ二メートルくらい)をシュロ縄で編んでスダレのように敷いて滑走路をつくりました。長さ千百八十メートル、幅百五十メートルの滑走路でした。
 「朴の木谷」、「三島様横の谷」、「柳の川谷」の山肌に横穴を掘り込んで、飛行機の掩体壕(えんたいごう)がつくられました。
 滑走路から各格納庫までの誘導路をつくりました。
 山中の掩体壕までの通路もつくりました。
 宮内に住む市川和男さんが、当時の様子を書いています(「四万十川蜃気楼 海軍宮内飛行場」)。
 「……私の家の前の田圃(たんぼ)に、五、六名の見慣れない人達がきて、何やら立ち話をしていたのが、当時、十二歳の少年の私には何やら不安げに映ったことを覚えている。そのうち測量の偵察機が飛んだとも聞いたものである。
 やがて飛行場は近郷近在の人々を強制動員してつくられた。狩りだされた人々は毎日自分の仕事を休み、いも飯弁当持参で朝から晩まで汗水たらしての作業。鍬(くわ)をふるいモッコを担いで土地ならし、砂利を撒きそれをみんなでローラーを引いて固める重労働の繰り返し。使う土地は、先祖から受け継いだ大切な田もあったものではない。」

 【海軍兵が宮内にやってきて……】

 高知海軍航空隊(本部・高知県日章村=現・南国市)の第一飛行隊が、将校送迎用木炭バスで窪川町へ移動し、第二飛行隊は機上作業練習機・白菊を窪川町に空輸しました。そして、七月十日、高知航空隊窪川飛行場が開隊しました(『高知海軍航空隊史』)。
 将兵は、特別攻撃隊員と整備兵ほか約百五十人でした。
 高知海軍航空隊からの三回目の特別攻撃の要員たちでした。
 飛行場の西の四軒の民家が接収され、飛行隊の本部、隊員の分宿する兵舎になりました。
 地元の丸山国民学校も七教室中二教室が海軍兵の宿舎にされました。
 市川和男さんの家が、本部にされました。
 当時、市川さんは高知市の中学校の一年生で、高知市に下宿していました。
 「……下宿して間もない土日の帰郷だったと思うが、帰ってみて驚いた。
 わが家の前の水田は、帯状に『木走路』といって小さな丸太木をシュロ縄で編んで簾(すだれ)のように敷いた即席の滑走路にすっかり姿を変えていたのである。加えて私の家も飛行場の本部になった。母一人子一人であった私たち親子は家を追われ、仕方なく隣部落の親戚に身を寄せた。
 それからというもの、わが家に帰るにも、そこに駐屯している番兵に軍隊式の敬礼をして『入ってよろしいですか』と聞けという。私の母は『家の監督に来た。自分の家に入るのに、そんなことは必要はない』と言い切った。」(「四万十川蜃気楼 海軍宮内飛行場」)。
 宮内の五社様の境内にはガソリンを入れたドラム缶が積まれ、銃を持った海軍兵が二十四時間見張りをしました。
 宮内は四万十川沿いに北南に広がる地域ですが、地域の両方の入口には海軍の検問所が設けられました。
 そこには衛兵がいて、宮内の住民も通関札を見せないと通行できなくなりました。
 「五社様の払川橋百米上手の道路に門が作られ、衛兵が立ち、部落民は、通関札を見せて通る仕末……」でした(『わが母校 丸山小学校百年記念誌』。丸山小学校百年誌編集委員会。丸山小学校百年記念行事実行委員会)。
 五社様あたりは飛行場の南端です。北端に近い丸山国民学校の前あたりの道路に歩哨(ほしょう)小屋がつくられ、衛兵が立ちました。
 隣村の東又村の東又国民学校の訓導(教師)をしていた武市昌子さんが、当時の様子を教えてくれました。
 「宮内の住人は、軍隊から宮内の住民であることを証明する通行許可証をもらいました。
 歩哨小屋に拳銃と銃剣を持った海軍兵がいました。
 私は、通勤の行き帰りは、通行許可証を首にかけました。
 朝五時半ころ家を出ました。
 丸山国民学校の所にいくと、海軍兵がピカピカ光る銃剣を突き出して『誰か!』と叫びます。
 首にかけた通行許可証を出して見せると『通れ!』といって通してくれました。逃げるように走って通りました。
 ここを通るのが怖くて、一度は、飛行場を横切って四万十川の浅瀬を渡って宮内を出ようとしました。そしたら、川岸で海軍兵に捕まって、連れ戻されました」
 勤務先の東又国民学校も戦場になっていました。
 「アメリカ軍が、東又国民学校の周辺の山に何回も焼夷弾(しょういだん)を落としました。
 子どもたちと奉安殿(ほうあんでん)の近くの防空壕(ぼうくうごう)に入りました。
 アメリカ軍が興津(おきつ。四万十町)の浜から上陸してくるかもしれないといわれていました。
 東俣国民学校でも、子どもたちに竹やりの訓練をさせました
 『興津の坂からアメリカが上がってきたら、興津峠で待っていて、この竹やりで突く』ということでした」

 【飛行場はカムフラージュされていました】

 高知海軍航空隊の操縦搭乗員滝沢哲雄飛行中尉(予備学生十三期)も、この飛行場に配備されました。
 五月二十四日、第一次白菊隊で出撃する予定で鹿児島県の鹿屋(かのや)基地にいきましたが、アメリカの空襲、天候不良などで出撃の順番が狂い、出撃の機会を失ったまま沖縄特別攻撃が中止になり、窪川飛行場にまわされたのです。
 アメリカ軍機来襲の情報のないときは、特別攻撃の訓練飛行がおこなわれました。
 滝沢さんが当時の窪川飛行場のことを語っています。
 「残存の白菊は、窪川の第三飛行場の横穴へ隠しました。兵員は付近の農家への分宿です。牧場に小丸太を並べ、それが滑走路という格好の飛行場でした。空襲のありそうな時は、滑走路の上に草付きの土をばらまいたり、鶏を飼っている農場に見せかけるため唐丸カゴをあちこちに伏せてカムフラージュしたり、米軍機に発見されないよう苦労した」(『高知空港史』。高知県)。
 練習機は、四万十川上流沿い森林軌道、建設中の影野―窪川線のトンネル内にも隠蔽していました(『高知海軍航空隊史』)。
 飛行場では、連日、特別攻撃訓練がおこなわれました。
 飛行機が、カラコロカラコロという音をたてながら滑走路を走り、離陸していきました。
 窪川飛行場は、平地にありますが、四方を山に囲まれて飛行機の訓練にとっては、いい場所ではありませんでした。
 操縦は困難をきわめました。
 武市昌子さんは「『きょうは出る日だから見送ってください』といわれて、出撃する飛行機の見送りをしました。海軍兵は白いマフラーをしていました。私たちは『無事に帰って』といって見送りました。私が休みの日のことで、二、三度、見送りにいったと思います。
 どこかで乗り換えて行くということでしたが、飛ぶことは飛んだが向こうまで行き着かずに帰ってきた人もいますし、行き着いたけど突撃する飛行機がなくて帰ってきたという人もいました」と、語ります。
 本部にされた市川和男さんの家の庭には、大きな塹壕(ざんごう)がつくられました。
 庭の石垣には二つの四角い穴があけられ、そこから上陸したアメリカ兵を機関銃で撃つ備えがしてありました。
 そして、裏山には、手榴弾(しゅりゅうだん)を投げつけるための小さな広場がつくられました。
 兵隊の食糧は十分でない様子で、近くの民家のイモやカボチャが消えました。
 市川和男さんが、この飛行場の兵隊たちの様子を観察していました。
 「兵隊さんはよく青竹のバッターで腰をしたたか打たれていたのも印象的である。『かまえ!』の命令で、殴られる型は『く』の字に腰を曲げ、上官がそれをめがけて青竹も割れんばかりに叩く。兵隊さんは前につんのめっていた。
 こんなこともあった。ある将校の兵隊いじめに腹を据(す)えかねた江戸っ子の下士官だったと思うが、やにわに日本刀の鞘(さや)を払って『おれが、ぶったぎってやる!』と立ち上がり、ようやく仲間が取り押さえ、なだめていたのが今も目のそこに焼き付いている。
 思えば駐屯していた兵隊さんは皆若い人達だった。青春をこの草深い檻(おり)なき檻の土地で持て余してもいたようだった。」(「四万十川蜃気楼 海軍宮内飛行場」)。

 【八月四日の機上作業練習機・白菊の墜落事故】

 七月二十五日、ここでの練習は危険だということで、第一飛行隊は日章の高知海軍航空隊に帰還しました。
 窪川飛行場で二件の事故が起きたのは、その数日後の八月四日の午後でした。
 機上作業練習機・白菊一機が五百キロの模擬爆弾をつけて特別攻撃訓練をしていました。搭乗員は予備学生十三期の滝沢哲雄飛行中尉、和田実二等飛行兵曹でした。
 旋回飛行中に、エンジンの調子が悪かったのと渓谷の下降気圧に押し下げられて山腹に墜落しました。
 落ちたのは農家の牛小屋の上でした。
 留守番をしていた盲目のおばあさんが、はい出しました。けがはありませんでした。
 床下に模擬爆弾が転がっていました。
 つぎつぎと町民が現場にやってきて搭乗員の二人を何とか外に出し、木陰に寝かせて応急措置をしました。
 滝沢飛行中尉は、目、歯、顔面に負傷、和田二等飛行兵曹は足を骨折しました。
 同日、窪川飛行場を離陸しようとした練習機は、車輪を破損しました。この練習機は、日章の高知海軍航空隊に胴体着陸しました。

 【占領軍に焼かれた窪川飛行場の練習機】

 終戦の翌日、八月十六日、窪川飛行場では、機上作業練習機・白菊を再度組み立てて、日章の高知海軍航空隊に帰還しました。一般隊員は現地解散でした(『高知海軍航空隊史』)。
 市川和男さんの母が、手記を残しています。
 「……この軍隊の置き土産は、四戸の家にはものすごい蚤(のみ)と、天井もまっ黒になるほどの蝿(はえ)の巣だった……」
 高知海軍航空隊分隊長・大尉だった伊藤平次さんが、その年の冬、兵器引き渡しのため高知海軍航空隊兵舎(日章)にやってきたアメリカ兵とのやりとりを、つぎのように語っています。「窪川の飛行場の写真も見せてくれましたよ。窪川を爆撃しなかったのは、必要がなかったというだけです。」(『高知空港史』)。
 窪川にやってきた占領軍は、窪川飛行場に残っていた練習機を集めて、油をかけて燃やしてしまいました。
 平和資料館・草の家の車輪とエンジンカバーは、そうした中でも残っていた機上作業練習機・白菊の残骸です。
 飛行場に荒らされた宮内の田んぼは、戦後処理のなかで「開放地」として元の地主に払い下げられました。
 一九四八年(昭和二十三年)から四九年の二年ほどをかけ、復元しました。

 【参考文献で、文中で紹介しなかったもの】
 ○ 『窪川子ども風土記』。窪川子ども風土記編集委員会。
 ○ 『窪川町史』。窪川町史編集委員会。窪川町。
 ○ 『写真集 くぼかわ今昔』。写真集「くぼかわ今昔」編集委員会。窪川町企画課。表紙の写真。
                (二〇〇八年六月二十九日・初版)

 この原稿は、引き続き充実させていくことにしています。
 ご意見や情報をおよせいただければ幸いです。
 
       メール bqv01222@nifty.com

| | コメント (0) | トラックバック (0)

高知県  「よみがえり あれば、いいわね」。

 二〇〇八年六月二十七日。

 「よみがえり あれば、いいわね」

 亡き夫 思う人あり

 鼻、ツンとなる

 

 何日か前のシーンですが、何だか詠わずにはいられませんでした。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.06.28

高知市大津 雨の朝、庭に赤いグラリオサの花が二つ咲きました。

046

 二〇〇八年六月二十九日。

 わが胸に 秘めた思いを 写し取り
 雨の朝咲く
 グラリオサ、赤

 きょう、雨の朝に庭のグラリオサが赤い花が二つけました。
 鉢のスイカは六つ玉をつけています。
 トマトも青い実をつけ始めています。
 わが庭は「おいしい季節」を迎えています。

 グラリオサの和名は、ユリグルマ。アフリカ、熱帯アジア原産。花弁が反り返って下向きに鮮やか花を咲かせます。花色は赤、オレンジ、黄色、大きさは十五~二十センチ。
 根茎は、コルヒチンという毒をふくみます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

高知市 追加のパネルを二枚製作中です。

 二〇〇八年六月二十九日。

 二十九日から高知市内で開かれる戦争展の一コーナー、「窪川の山あいの海軍の飛行場」を担当させていただいています(主催者に懇願して……)。
 朝九時から会場で展示の準備です。
 しかし、僕は別件があります。
 妻に、展示用のパネル四枚を会場に運び込んでもらいました。
 いやーーっ、妻には、お世話になりっぱなしです。
 別件が終わってから会場に駆け込み、準備に参加。
 パネルを長いピンで壁に設置していきます。
 「はーん、こんなふうに設置するのか」
 とにかく、こんなことは初めてなもので……。

 やっているうちに「高知海軍航空隊の特攻のことも少し書き入れておいたほうがいいい」ということになりました。
 で、家に帰ってから作業。ついでに二枚のパネルにすることにしました。
 原稿を打ち上げ、印刷もできました。

 コンビニにいって、一枚だけ拡大コピーしてきました。

 後は校正して、発泡スチロールのパネルに張り込んで……。
 あす九時までに会場に持ち込まなくては。

 もう夜六時過ぎ、そろそろ妻も帰ってくるはずです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

高知県 「老人は卑屈にならず、胸を張って行こう」。作家・瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)さんのエール。

 二〇〇八年六月二十九日。

 高知新聞の本日の夕刊の「灯点(ひともし)」で作家・瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)さんが後期高齢者医療制度への批判を書いています。

 「命ある限り、私は仕事をしたいし、生きる情熱は失いたくない。
 (中略)
 老人は卑屈にならず、胸を張って行こう。そして理不尽な制度に泣き寝入りしないで、スクラムを組んで闘おう。
 世界の歴史を眺めても、老人を大切にしない国はことごとく亡んでいる。」

 年寄りを 前期、後期と 振り分けて

 やしべるつもりか

 怒る一票

 「やしべる」は、いやしめるです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.06.29

高知市 「地域史」のリポート書いてる夢を見ました。

 二〇〇八年六月三十日。

 「地域史」の リポート書いてる 夢を見る
 現実世界は
 構想だけだが

| | コメント (0) | トラックバック (0)

高知市 「執ようで、しつこい」僕の日曜日。

 二〇〇八年六月三十日。

 午前七時、約束をしていた人に電話。
 その結果を受けて資料をつくり、数十枚も印刷。

 庭のジャガイモの花を撮影。

 とにかく午前九時までに。ということで、弟に乗用車で送ってもらって高知市内の自由民権記念館に。
 九時半から始まる「戦争と平和を考える資料展」(主催・ピースウェイブ2008inこうち。六日まで)にパネルの追加を二つ持って行きました。
 セーフ。

 午後は、もう一人の人と一緒に、その受付に。

 夕方は、高知市の繁華街でやる平和七夕の飾りつけに立ち会いました(ビデオでの撮影)。

 一方、夕方、思い立って、あるテーマで「あす、記者会見をしませんか」と某氏に持ちかけたら「よーっし、やろう」。 
 早速、計五人で、「お知らせ」やら、「会見資料づくり」やらの準備に。
 準備が完了したのは、とほほ、もう午後十一時です。

 昨日、妻から「あなたの性格は執ようで、しつこい」という指摘を受けました。
 なるほど、自分でも驚くほど、「執ようで、しつこい」やり方で、ものをなしとげようとします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.06.30

高知市 帯屋町の商店街で伊吹唯さんの歌を聴きました。

078

 二〇〇八年六月二十九日。

 夕方、高知市帯屋町の商店街を通ったら道ばたで若い女性がキーボードを弾きながら歌っていました。
 甘い、のびやかな声です。
 いっぺんで気に入りました。
 伊吹唯さんでした。
 全国の街頭で歌ってキャンペーンをしているということです。
 CDを買いました。「だからここで歌っている 言えなかった気持ち」(千円)です。
 彼女がCDにサインしてくれました。売れた六百八十一枚目のCDだということです。
 握手をしてくれて、「一緒に写真を撮りましょうか」。
 さすがに恥ずかしくて写真はお断りしました。
 でも、すごいサービス精神です。
 感心しました。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

« 2008年5月 | トップページ | 2008年7月 »