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2008年7月

2008.07.01

「南国市の山中で戦争遺跡 『旧日本軍の施設跡』発見」。サンサンテレビで夕方、放送されました。

 二〇〇八年六月三十日。

 午前中の平和資料館・草の家の「現地記者会見」の模様がサンサンテレビの「SUNSUN(サンサン)スーパーニュース」で、午後六時十七分から二分ほど放送されました。

 字幕は「南国市の山中で戦争遺跡 『旧日本軍の施設跡』発見」。施設の全体像を映像で紹介しました。

 同館の岡村正弘館長のコメントもありました。
 「高知も戦争があったと実感できる教材が発見された 身近に感じてもらう教材ということで大変重要だと思う」

 追伸

 高知新聞の七月一日付朝刊は二十面トップで「南国市片山 山腹に地下壕二カ所 大戦末期の見張り施設か 草の家発表 山全体 要塞の可能性も」と報じました。

 朝日新聞、毎日新聞にも載りました。

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2008.07.02

高知市 戦争展の新しい展示ができあがり。

 二〇〇八年七月一日。

 午前九時前に高知市の自由民権記念館に、戦争展の新しい展示を八人がかりでつくりました。
 一人が撮影していた写真六枚を知り合いにA2のパネルにしてもらいました。そして、二人の協力を得ながら説明のシートをつくって。 
 一人が当日の新聞の切り抜き三枚を拡大コピーし。
 四人で展示のしつらえをして。
 写真の迫力で、いい展示ができあがりました。
 パチパチ。
 夕方まで会議や戦争展関係の作業。気がついたら「わおおおーっ、授業に遅れそう」。本日は、ハングルと「地域史」(自由民権運動)の授業です。

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高知市 昼のNHK総合テレビのニュース、トケイソウの花(写真つき)。

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 二〇〇八年七月二日。

 本日は、英語の予習をやって、ビラまきの作業をやって、午後三時から授業へという日程です。
 しかし、起きても眠い。
 正午過ぎまで二度寝、三度寝するはめに。
 起きて風呂に入っていたら妻のけたたましい声。
 「あなた、やっているわよ」
 戦争展の様子をNHK総合テレビでやっていました。
 集束焼夷弾の原寸模型のシーン、南国市片山の太平洋戦争中の軍事施設の展示のシーンを見ました。
 そのあと雨の中、夫婦で外回り。
 帰ったら庭にトケイソウが咲いていました。
 やったーーーっ。
 今年二回目です。

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高知市 個人新聞を出すことにしました。第一号です。出会った人に渡す。マイ・オピニョンです。

ブログ高知 新聞版

 第一号 二〇〇八年七月三日 藤原 義一

 戦争展に、どうぞ。

六日までです。

 今年も高知市の自由民権会館で「戦争と平和を考える資料展」が開かれています(主催、「ピースウェイブ2008inこうち実行委員会」)。

午前九時半から午後五時までです(最終日の六日は午後四時まで)。入場は、なんと無料。

 私も企画の一部に参加させていただいています。「桟橋通四丁目」電停近くです。ぜひ、足を、おはこびください。

 以下、小学生向けの説明文です。

 ● おじいさんやおばあさんが子どもだったとき、日本は、お隣の朝鮮(いまは北朝鮮と韓国)を自分のものにし、中国やアメリカ、イギリスと戦争をしていました。

 ● この写真は、南国市片山の山の中に、いまも残っている、当時の日本の軍隊の基地です。

 アメリカの軍隊が海から上陸してきたときに、ここに立てこもってたたかおうとしていたんですね。

 ● これは高知県の四万十町の農村、宮内という所にあった日本の軍隊の飛行場に残っていた飛行機の車輪です。

 軍隊は、この田んぼを飛行場にして、まわりの民家を宿舎にしました。

 その飛行場で、爆弾をつけた飛行機でアメリカの軍艦にぶつかる訓練をしていました。ぶつかると、飛行機を操縦している人も死んでしまいます。

 ● このビデオを見てください。アメリカ軍の爆撃機が日本を攻撃している様子です。

 高知市にもアメリカの爆撃機が、たくさんやってきて爆弾や焼夷弾(しょういだん)という家や人を焼いてしまう爆弾をたくさん落としました。

 これが焼夷弾の実物の大きさの模型です。

 このなかに、小さな焼夷弾が三十九個入っていて空から落ちている途中で、ぱーっと散らかって地上に落ちて、まわり全体を火の海にしました。

 ● これは当時の高知市掛川町の地図です。

 みなさんは、おいくつですか。この地図を書いたのは当時八歳の酒屋さんの息子です。

 焼夷弾がどんどん落ちてきて、たくさんの人が、この防空壕という逃げる所にいったそうです。

 この男の子は、近くの鏡川に逃げました。

 この防空壕に入っていた人たちは熱で蒸し焼きになったような感じで亡くなりました。

 この八歳の男の子のお母さんも、妹も、ここで亡くなっています。

 ● ここにあるのが、そのアメリカの攻撃のあとの高知市の街です。

 ほとんどの建物が壊れていますね。

 ● もちろん、アメリカの爆撃機が爆弾を落とそうとしたとき、どうするか、みんないろいろ考えていました。

 爆撃機に見つからないように、家の電灯の光が、そとにもれないようにしました。こんな傘を電灯につけていました。

 逃げるとき、頭にかぶる、こんな防空頭巾(ぼうくうずきん)も持っていました。

 ここにあるのは火を消すための消火弾です。

 でも、実際には役に立ちませんでした。

 一時間のアメリカの爆撃機の攻撃で何百人もの人が亡くなりました。

 ● 戦争が終わって日本人は、戦争をしかけて他の国の人々に迷惑をかけたことを反省して、もう日本は決して戦争をしませんと約束しました。

 みなさんも学校で習うと思いますが、それが日本国憲法第九条です。

 ● ここには、ほかにもたくさん展示があります。

 できるだけたくさん見て帰ってください。

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2008.07.03

高知市 「プリンター ピーヒャラ、ピーヒャラ 音立てて……」。

 二〇〇八年七月三日。

 プリンター
 ピーヒャラ、ピーヒャラ 音立てて
 個人新聞 刷り上げていく

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2008.07.04

石川啄木の短歌の表現形式での試み。第二稿。

 二〇〇八年七月四日(八日に改善)。

 石川啄木の短歌の表現形式での試み

 石川啄木(一八八六年二月二十日ー一九一二年四月十三日)の短歌の表現形式を再評価していいのではないでしょうか。この原稿では、啄木の短歌の表現形式での試みについてのべます。

 【短歌のリズムを目で見せる】

 石川啄木の第一歌集は『一握の砂』(発行日・一九一〇年十二月一日)です。
 作品は、すべて三行分かち書きです。
 いくつか例をあげ、それが、どういうリズムになっているかを示します。

 東海(とうかい)の小島(こじま)の磯(いそ)の白砂(しらすな)に
 われ泣きぬれて
 蟹(かに)とたはむる

 五、七、五/七/七

 頬(ほ)につたふ
 なみだのごはず
 一握(いちあく)の砂(すな)を示しし人を忘れず

 五/七/五、七、七

 大海(だいかい)にむかひて一人(ひとり)
 七八日(ななやうか)
 泣きなむとすと家(いえ)を出(い)でにき

 五、七/五/七、七

 いたく錆(さ)びしピストル出(い)でぬ
 砂山(すなやま)の
 砂を指もて掘りてありしに

 五、七/五/七、七

 ひと夜(よ)さに嵐来(あらしきた)りて築(きづ)きたる
 この砂山は
 何(なに)の墓(はか)ぞも

 五、七、五/七/七

 しつとりと
 なみだを吸へる砂の玉
 なみだは重きものにしあるかな

 五/七、五/七、七

 ひと塊(くれ)の土に涎(よだれ)し
 泣く母の肖顔(にがほ)つくりぬ
 かなしくもあるか

 五、七/五、七/七

 いと暗き
 穴(あな)に心を吸はれゆくごとく思ひて
 つかれて眠る

 五/七、五、七/七

 【書き出しを一字分空白にする表現】

 啄木は、一九一二年四月十三日、二十七歳で亡くなります。
 その死から間もない六月二十日発行された第二歌集『悲しき玩具』の作品の表現は、第一歌集より多様になっています。
 作品は、前作と同じくすべて三行分かち書きです。
 この歌集では、何行目かの書き出しを一字分空白にするという作品も登場しています。
 以下、三行目の書き出しを一字分空白にした作品の例。

 呼吸(いき)すれば、
 胸の中(うち)にて鳴る音(おと)あり。
  凩(こがらし)よりもさびしきその音!

 以下、二行目、三行目の書き出しを一字分空白にした作品の例。

 ぢつとして寝ていらつしやいと
  子供にでもいふがごとくに
  医者のいふ日かな。

 以下、二行目の書き出しを一字分空白にした作品の例。

 人間のその最大のかなしみが
  これかと
 ふつと目をばつぶれる。

 以下、一行目の書き出しを一字分空白にした作品の例。

  廻診(くわいしん)の医者の遅さよ!
 痛みある胸に手をおきて
 かたく眼(め)をとづ。

 【カギカッコや句読点なども自由に……】

 また、石川啄木は、カギカッコや句読点などを短歌にとりこんでいます。
 『一握の砂』には、せりふにカギカッコを使った作品があります。

 「さばかりの事に死ぬるや」
 「さばかりの事に生くるや」
 止(よ)せ止(よ)せ問答(もんだふ)

 これまでに引用してきた作品でも一部わかりますが、『悲しき玩具』には、「、」「。」「!」「ーー」「()」「「」」が使われています。
 いくつか例をあげます。

 家(いえ)を出て五町ばかりは
 用のある人のごとくに
 歩いてみたれどーー

 かなしきは、
 (われもしかりき)
 叱(しか)れども、打てども泣かぬ児(こ)の心なる。

 「労働者」「革命」などといふ言葉を
  聞きおぼえたる
  五歳の子かな。

 【啄木が切り開いたものを発展させていきたい】

 短歌の魅力の一つは、音読したときのリズム性にありますが、啄木の試みは、短歌を活字で読む際、目でもリズムを感じてもらえるようにしようということではなかったでしょうか。
 いま、一部の短歌雑誌には自由律ということで、啄木のような表現形式の作品の欄があります。
 しかし、全体としては、「一行書き、できるだけ一字空けはしない、カギカッコ、句読点などは使わない」という表現が主流になっています。
 私は、啄木が切り開いた短歌の表現形式を発展させていきたいと思っています。

 注・啄木の作品は『啄木歌集全歌評釈』(岩城之徳。筑摩書房。一九八五年三月二十五日発行)によりました。

 (以上)

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高知市展のこと。春名なおあきさんがアップしてくれていました。

http://www.haruna-naoaki.jp/index.php?ID=439

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2008.07.05

高知市 妻が、高知市の戦争展で、小学生向けの解説者に。

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 二〇〇八年七月三日。

 妻が、高知市の戦争展で、小学生向けの解説者に。

 この間まで中学校の教師をやっていただけあって上手ですね。

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ギャル曽根さんって、いいなぁ。

 二〇〇八年七月四日。

 うまいもの ただでパクパク ギャラもらう
 ギャル曽根さんが
 選んだ仕事

 彼女は彼女なりに「つらいストーリー」もあるとは思いますが……。

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高知市 「安い値のガソリン探し遠出する」の短冊。パチパチ。

 二〇〇八年七月五日。

 午後一時から高知医療生協の社保学校に。
 ばっちり勉強しました。

 帰りに回転ずしの店によったら、店の前に七夕がかざってありました。
 おもしろい短冊がありました。

 安い値のガソリン探し遠出する

 いつ買った? 返事はいつも〝安かった〟

 ゴミ出し日 すてにいかねば すてられる

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僕が、四日夕の高知放送テレビ「こうちeye」に出ていたようです。

 二〇〇八年七月五日。

 友人二人から電話で、メールで「テレビに出ちょったねー」のお知らせ。
 しかし、本人は見ていません。

 四日午後六時十六分から五十六分までの高知放送テレビ「こうちeye」のようです。

 南国市片山の山中の陸軍陣地跡について、現地での取材と高知市で開かれている戦争展での、この陣地跡についての展示を組み合わせて番組をつくったようです。

 僕が、この遺跡の「発見者」としてインタビューにこたえたシーンも放映されたようです。

 と、「ようです」ばかりですが……。

 どなたかビデオを撮っていたら見せていただけませんでしょうか。

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2008.07.06

高知市 亡き友人の娘さんからのメールが……。

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 二〇〇八年七月六日

 朝、メールをあけたら亡き友人の娘さんからのメールが着いていました。

 うわーーーっ。

 一度、一九八四年十一月二十三日に会ったときは、彼女は、二歳か三歳でした。
 元気に暮らしているようです。
 うれしい、うれしいメールでした。

 メールの最後に、こんな言葉がありました。

 「これから高知は益々暑い季節に入りますね。

 温度差等で体調の方壊されたりしないようどうぞご自愛くださいませ。」

 もし、友人が元気で、娘から、こんなメールをもらったらウルルンと泣くだろうと思いました。

 夜中、彼女からのメールを何度も読み直して、うれしくて、うれしくて、涙をぽぽろ流しながら、いま泣いています。

 妻は、二階に上がりましたので、たったひとりですので……。

 妻も、僕の、こんなところは知りません。

 亡き友の 娘のメール

 読んでいる

 「君の幸せ、願っているよ」

 (写真は、本日午前、高知市内で)

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高知市 戦跡を調査している青年に出会いました。

 二〇〇八年七月六日

 高知市で開かれている戦争展に。本日が最終日です。
 入口の手前のテーブルの所でゆっくりしたり、ビデオ撮影をしたり……。
 南国市の大先輩KUさんが戦跡を調査している青年を紹介してくれました。幼い娘二人を連れて戦争展を見ていた人です。
 「あなたが藤原さんですか。お会いしたかった」
 話がはずみ、今度、南国市の戦跡を案内してくれることになりました。
 やっほー。

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高知県母親大会、お疲れさまでした。

 二〇〇八年七月六日

 高知市で開かれていた戦争展が午後四時に終了。後かたづけをして家に帰ったら、妻は、まだです。
 しばらくしてから帰ってきました。
 この日の高知県母親大会の運営が終わってのご帰還です。
 「篤姫(あつひめ。NHK)まで寝る」
 さっさとベッドの人になりました。
 よっぽど疲れたのでしょう。
 お疲れさまでした。
 僕は、いま、「日本文学入門」の二本目のリポートを執筆中です。

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小説『浮雲』(二葉亭四迷)に刻まれた新しい日本語表現創造の過程

 二〇〇八年七月六日

 小説『浮雲』(二葉亭四迷)に刻まれた新しい日本語表現創造の過程

 日本語に句読点が現在のように使われだしたのはいつのころでしょうか。あるかたが、二葉亭四迷(一八六四年四月四日~一九〇九年五月十日)小説『浮雲』に、その過程が刻み込まれていると教えてくださいました。『浮雲』を読み直し、その過程をたどってみました。

 『浮雲』第一編は、一八八七年六月に発表されています。
 そして、第二編は一八八八二月、第三編は一八八九年七~八月に発表されています。
 この作品の読点(、)、句点(。)、せりふ部分のカギカッコ(「」)の使い方を見ていきます(テキストは岩波文庫の『浮雲』です)。

 第一編では、読点がときどき使われています。
 しかし、本文の最初の十四行の間には九カ所、次の十四行には四カ所とあまり多くはありません。

 せりふは書き出しにカギカッコがあるだけで受けのカギカッコはありません。
 たとえば、つぎのような使い方です。

  「叔母(おば)さんは
  「先程(さつき)お嬢さまと何処(どち)らへか
  「そう

 句点は使っていないようだなと思いつつ読んでいると第一編第三回の途中からときどき句点が出てきます(最初は四十一ページ)。
 それは、気が向いた所に試しに読点をいれてみるといった使い方です。
 ほーほーと読み進んでいくと、この第三回の途中からせりふのカギカッコ
の受けも登場し、いまのような「○○」の形になります(最初は四十三ページ)。
 と、思っていると、またカギカッコの受けがなくなったり、受けがないもの、あるものと混在しながら物語が進行していきます。
 彼の日本語表現が確定するのは、第三編からです。
 第三編の書き出しを抜き書きしておきます。

 心理の上から観れば、智恵の別なく咸(ことごとく)面白味はある。内海文三(うつみぶんぞう)の心状を見れば、それは解(わか)ろう。

 読点の代わりに読点の文字の読点の中がくり抜かれて白くなっている白ゴマ点も使われています。これは、読点と句点の中間的な意図に使うとされています。
 せりふのカギカッコ、カギカッコの受けの中身の最後には「、」や「。」
「……」や「!」と多様です。

 もう一つのリポートで、一九一二年六月二十日発行された石川啄木の第二歌集『悲しき玩具』の短歌には、「、」「。」「!」「ーー」「()」「「」」が使われていることをあげました。
 これは、啄木が二葉亭四迷の全集(一九一〇年。朝日新聞社)の校閲をしたことと無縁ではないのではないでしょうか。

 こうして確立された日本語表現を現代人は使っています。
 私も、その一人として二葉亭四迷の創造力に敬意を表明します。

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高知市 「寡黙(かもく)な男」。その実態は……。 

 二〇〇八年七月六日。

 世間では 「寡黙(かもく)な男」で 知られてる
 「よう、しゃべくるねぇ」
 妻の「うんざり」

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2008.07.08

高知市大津 「虹を生み出して 水をやる……」。

 二〇〇八年七月八日。

 梅雨(つゆ)あけて

 虹を生み出して 水をやる

 トマトが二つ 色づいている

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高知市大津 一時間半後にいきますのメール。

 二〇〇八年七月八日。

 待ち人の

 「もうすぐいきます」 メールくる

 ユリの鉢たち 玄関におく

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明治維新が生み出した政治権力がやったこと。改善版。

 二〇〇八年七月八日(七月二十六日に加筆)。

 明治維新が生み出した政治権力がやったこと

 政治は国民の幸せをささえるためにあるものではないでしょうか。
 その意味で明治維新が生み出した政治権力は、国民の幸せにとって、どんな役割を果たしたのでしょうか。
 明治天皇は、一八八九年(明治二十二年)二月二十一日、「大日本帝国憲法」を発布しました(一八九〇年十一月二十九日施行)。
 国のおきてを天皇が勝手につくり、国民に押しつけるという形でした。

 ● そこでは天皇の大権があらゆる分野で認められ、半面、国民は臣民(天皇のけらい)とされ、その権利は「法律の範囲内」に限られていました。
 第一条は「大日本帝国ハ万世一系(ばんせいいっけい)ノ天皇之(これ)ヲ統治(とうち)ス」。
 第三条は「天皇ハ神聖(しんせい)ニシテ侵(おか)スヘカラス」。
 第四条は「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権(とうちけん)ヲ総攬(そうらん)シ此(この)ノ憲法ノ条規(じょうき)ニ依(よ)リ之(これ)ヲ行フ」。
 元首である天皇は、統治権を総攬(一手に握って手の中におさめること)になっていました。

 ● 統治機構が、いくつかもうけられました。

 【帝国議会】

 皇族(こうぞく)華族(かぞく)、および勅任(ちょくにん)の議員からなる貴族院、公選の衆議院からなる帝国議会については「天皇ハ帝国議会ノ協賛(きょうさん)ヲ以(もって)テ立法権ヲ行フ」(第五条)とされました。
 協賛は、趣旨に賛成し、その実行を助けることです。
 「天皇ハ法律ヲ裁可(さいか)シ其(その)ノ公布及(および)執行ヲ命ス」(第六条)ことになっていました。
 裁可というのは、君主が臣下の奏上(そうじょう=天皇に申し上げること)する案をみずから裁決し許可することです。
 「天皇ハ帝国議会ヲ召集シ其(その)ノ開会閉会停会(ていかい)及衆議院ノ解散ヲ命ス」(第七条)
 「① 天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又(また)ハ其ノ災厄(さいやく)ヲ避クル為(ため)緊急ノ必要ニ由(よ)リ帝国議会閉会ノ場合ニ於(おい)テ法律ニ代ルヘキ勅令(ちょくれい)ヲ発ス
 ② 此(こ)ノ勅令ハ次ノ会期ニ於テ帝国議会ニ提出スヘシ若(もし)議会ニ於テ承諾セサルトキハ政府ハ将来ニ向(むかっ)テ其ノ効力ヲ失フコトヲ公布スヘシ」(第八条)
 「天皇ハ法律ヲ執行(しっこう)スル為ニ又ハ公共ノ安寧(あんねい)秩序ヲ保持シ及臣民(しんみん)ノ幸福ヲ増進スル為ニ必要ナル命令ヲ発シ又ハ発セシム 但(ただ)シ命令ヲ以(も)テ法律ヲ変更スルコトヲ得(え)ス」(第九条)

 【陸海軍】

 統治機構の一つに陸海軍がありました。
 「天皇ハ陸海軍ヲ統帥(とうすい)ス」(第一一条)
 統帥は、軍隊を支配下におき率いることです。
 「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額(へいがく)ヲ定ム」(第一二条)
 兵額は、兵士の人数です。
 「天皇ハ戦(たたかい)ヲ宣(せん)シ和ヲ講(こう)シ及諸般ノ条約ヲ締結(ていけつ)ス」(第一三条)
 「① 天皇ハ戒厳(かいげん)ヲ宣告ス
 ② 戒厳(かいげん)ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム」(第一四条)
 戒厳は、戦時またはそれに準ずる非常の場合に、軍隊が行政権や司法権を軍隊が把握し、全国または一地域を管理し警戒することです。

 【国務大臣】

 国務大臣も天皇を輔弼(ほひつ)するためのものでした。
 「① 国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼(ほひつ)シ其ノ責(せめ)ニ任ス
 ② 凡(すべ)テ法律勅令(ちょくれい)其(そ)ノ他国務ニ関(かかわ)ル詔勅(しょうちょく)ハ国務大臣ノ副署(ふくしょ)ヲ要(よう)ス」(第五五条)
 輔弼は、天子の政治をたすけることです。

 【枢密(すうみつ)顧問】

 天皇の諮問機関、枢密(すうみつ)顧問は「枢密院官制ノ定ムル所ニ依(よ)リ天皇ノ諮詢(しじゅん)ニ応(こた)ヘ重要ノ国務(こくむ)ヲ審議ス」(第五六条)でした。
 諮詢は、参考として問い尋ねることです。

 ● こうした統治機構がもうけられましたが、すべて天皇コントロール下におかれ、天皇を助けるものでしかありませんでした。
 国家は臣民のためにではなく、天皇のためにありました。
 天皇は意のままに臣民を使役しみずからの野望を遂げようとしました。
 明治天皇は、「大日本帝国憲法」を発布以前から侵略戦争を開始し、昭和天皇も、それを引き続きおこないました。
 最初は、一八七四年(明治七年)の台湾出兵です。
 台湾の植民地化、朝鮮の植民地化、中国東北部へのかいらい政権の樹立、中国への侵略、アメリカ・イギリスへの宣戦布告と侵略戦争を拡大させました。
 兵士として二十歳以上の男性(のちには少年をふくめて。徴兵検査も十九歳に)が動員されました。
 侵略戦争に代表される天皇本位の政治は、国民の幸福と大きく矛盾しました。
 当然、異を唱える人々もあらわれました。
 それらの人々に天皇は天皇のためにつくすのが美徳だという洗脳と強圧をもって応じました。
 明治天皇は、一八九〇年十月三十日、「教育ニ関スル勅語」を発布しました。歴代天皇が国家と道徳を確立したと語り起こし、臣民の忠孝心が「国体の精華」であり「教育の淵源」であると規定する。続いて「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉ジ」など十二の徳目(道徳)を並べ、これを守るのが臣民の伝統であるとしました。これを子どもの教育の場で押しつけ、洗脳していきました。
 大正天皇は、一九二五年四月二十二日に治安維持法を公布しました (同年五月十二日に施行。天皇の勅令により日本の植民地であった朝鮮、台湾、樺太にも施行されまました)。
 これは、国体(天皇制)や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定されたものでした。
 多くの人々が、この法律で逮捕、投獄されました。小林多喜二のように拷問を受け殺された者もいます。
 日中戦争の最中、昭和天皇は通常の手段では戦争を遂行することができなくなり、一九三八年(昭和十三年)四月一日、国家総動員法を公布しました(同年五月五日施行)。戦時において、労働力ならびに軍需物資をはじめとするすべての資源、工場、資本から貿易・運輸・通信にいたるまで、経済部門を国家統制下に置くだけでなく、徴用・言論の統制など国民生活全般を著しく制限するとともに、平時におけるさまざまの干渉権限を政府に与えたものです。
 戦争の拡大について「軍部の独走」などに責任をかぶせる議論もありますが、明治天皇のつくった「大日本帝国憲法」の精神によれば、その軍部を統帥するのは天皇であり、統帥のミスもふくめて天皇の責任に属することです。
 この点で昭和の戦争について見ておきます。
 一九三一年九月の中国東北部への侵略は、出先の関東軍が引き起こし、その支援のために朝鮮軍が越境出動しました。
 これは天皇の事前の許可なしにおこなわれたものでしたが、その天皇が事後に「此度(このたび)は致方(いたしかた)なき」と追認しました。
 翌一九三一年一月、天皇は関東軍に特別の勅語を発し、戦争を「自衛」の行動として正当化したうえで、関東軍の奮闘をほめたたえました(「満州事変に際し関東軍に賜りたる勅語」)。
 一九三七年七月、日本は中国への全面侵略を開始します。
 七月七日、中国の北京近く盧溝橋(ろこうきょう)周辺で演習をしていた中国軍とトラブルを起こします。このトラブルは現地では話し合い解決にら向い、七月十一日、現地軍のあいだでは停戦協定が結ばれました。
 ところが、日本政府のほうが、このトラブルを全面侵略へのチャンスととらえ、停戦協定が結ばれたその日に近衛文麿政府は閣議を開いて大軍を派遣することを決め、軍隊をただちに送り込みました。
 戦争が始まると、すべて天皇と軍部がことを進め、その閣僚たちは、そのなりゆきにいっさいタッチできませんでした。
 一九四一年十二月八日、日本の連合艦隊がアメリカの真珠湾を攻撃し、アメリカ、イギリスとの戦争が始まりました。
 この作戦計画は、十一月八日、軍部が天皇に報告して承認を受けていました。
 しかし、東条英機首相・陸軍大臣は、このことを知らされていませんでした。東条は、十二月一日か二日ごろ、参謀総長から「実は、こうなっているんだよ」と、知らされたとのことです。
 一九四五年八月十五日、内外に膨大な犠牲を押しつけた天皇の侵略戦争は終わりました。
 それは、明治維新が生み出した天皇絶対の侵略主義、洗脳、強圧政権の政治的帰結でもありました。
 世襲の特定個人に一国の政治の権力を集中し、国民を、その家来として支配するという政治制度の破たんでもありました。

(以上)

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高知市 「黒板の 端から端へ すべるよに 動きまわって 熱く説く人」。

 二〇〇八年七月八日。

 黒板の 端から端へ

 すべるよに 動きまわって

 熱く説く人

 高知短期大学の二時間目の授業を終わってからのこと、別の同じ授業を取っている女性二人と、その「別の授業」のことを話し合いました。

 その中の一人が、こういいました。

 「あの先生、女子大でも授業をやってないかしら。やってたら取りたいわ」

 僕も同じ気持ちでしたので、何だか感動しました。

 それほどに、この先生の授業は素晴らしいのです。

 【解説】 高知短期大学の学生は高知女子大の単位も八単位とれるのです。

 

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2008.07.09

高知市 「学期末 リポート、試験 押し寄せて……」。

 二〇〇八年七月八日。

 学期末 リポート、試験 押し寄せて
 老学生ら
 励まし合う夜

 高知短期大学の授業が終わってオートバイの所に向かっていると六十歳代、七十歳代の女子学生が立ち話をしていました。
 何だか深刻な話のようなので、首を突っ込みました。
 学期末で単位認定のためのリポート執筆が山積み、それを、どう乗り切ろうかという相談でした。
 「実は、僕もね」
 六十一歳の男子学生が入り込み長話に。
 最後は「おたがいに最善をつくしましょう」で別れました。

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高知市大津 「何でも、おおらかに受け入れてくれる人」。

 二〇〇八年七月八日。
  
 午後、二十代前半の女性のが道路に座り込んでの作業をしているそばに座り込んで、人生のあれこれを、クドクド、ブツブツと語りかけました。

 別れ際に彼女が、こういいました。
 「藤原さんが、何でも、おおらかに受け入れてくれる人でよかった」
 耳を疑いました。
 こんなことをいってもらったのは初めてです。
 わがままで、自分の思いを他人にぶっつけて、女性にはもたれかかっていくタイプの僕も、六十一歳になって、少しは人として成長しているのかもしれません。

 「なにいってるのよ。あほ。あんたなんか。ちっとも成長してないわよ。もっと、しっかりしなさい」

 ナンクロとの闘争を終えて、さっきベッドに向かっていった妻が、僕が、こんなことを書いたことを知ったら、きっと、こういうでしょうね。

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高知市 七月の短歌。夜の二年制のまなびや。

 夜の二年制のまなびや

 

黒板の端から端へすべるよに動きまわって熱く説く人

「地域史」のリポート書いてる夢を見る 現実世界は構想だけだが

学期末 リポート、試験押し寄せて老学生ら励まし合う夜

「五年後に短大学生ゼロにする」この県政も学びに冷たい
 
プリンター ピーヒャラ、ピーヒャラ音立てて短大守れの個人紙を刷る

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2008.07.10

高知市 「苦手だと 泣き言いうより 学びなさい」。

 二〇〇八年七月十日。

 「苦手だと 泣き言いうより 学びなさい」

 四十下に

 説教されてる

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2008.07.11

高知市 陶芸教室。作品が二つ、焼きあがっていました。

 二〇〇八年七月十日。

 朝、生徒一人の陶芸教室へ。

 ほかの時間の生徒たちのもふくめて作品が焼きあがっていました。

 みんな、すごい。

 僕のは、ビールジョッキーと大き目の変形の皿。

 皿が、いいできでした。色がいい。失敗したせいですが、曲線が、ものすごくいい。

 本日は「お茶の席用」の茶碗をこねてきました。

 すごく満足するできばえでした。

 「僕的」には。

 先生の奥さんと話していたら、共通の知り合いがいました。

 その奥さんに手作りの味噌をいただいて「次」へ。

 追伸

 「変形の皿」。夜中に、僕より遅く、わが家にたどり着いた妻が、これはいいとほめてくれました。

 妻にほめられた記憶はあまりありません。

 これは、すごいことですよ。みなさん。

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2008.07.12

高知県立高知短期大学を存続させようの思いを込めた記事をいくつかアップしています。ぜひ、ぜひ。

 二〇〇八年七月十二日。

 高知県立高知短期大学を存続させようの思いを込めた記事をいくつかアップしています。ぜひ、おいでください。

 六十一の「おんちゃん短大生」が、試験前だというのに、このために汗を流しています。

 二回の県議会の取材は妻がしてくれました。感謝。

 ここです。

http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanoshi/2008/07/post_e103.html

http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanoshi/2008/07/post_93ec.html

http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanoshi/2008/07/post_10ec.html

http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanoshi/2008/07/post_15bc.html

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短歌十首 「高知市田辺島、二人暮らし」。

    高知市田辺島、二人暮らし

サギたちの写真撮り終え「また、あした」 バイクを駆って夜学に向かう

定年で料理始めた妻がいて 夜食も数品、テーブル占める

零時前 漢字ナンクロやっている妻と別れてパソコンの前

父の日に 東京発のパジャマ、酒届く幸せかみしめている

わが胸に秘めた思いを写し取り雨の朝咲く グラリオサ、赤

梅雨(つゆ)あけて虹生み出して水をやる トマトが二つ色づいている

待ち人の「もうすぐいきます」メールくる ユリの鉢たち玄関におく

トケイソウ七つ静かに咲いていて わが夏の庭、華やいでいる

あと十日 ちっちゃな恋人くるころは鉢のスイカも食べごろになる

「ふみの日」に八歳迎える女の子 祝いにしおりを買い求めくる

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2008.07.13

高知市大津 妻は早朝から国分川の掃除に。美しい国分川の写真つき。

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 二〇〇八年五月十三日。

 わが家では「力仕事」は妻の役目。
 本日、妻は早朝から国分川の掃除に。
 そして、外回り。
 さすがに疲れたようです。
 で、昼飯は僕の「手料理」。

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菜園から「ことし最初のスイカ」を収穫。

 二〇〇八年五月十三日。

 トケイソウの花が十二も咲きました。
 菜園から「ことし最初のスイカ」を収穫。妻、弟で食べました。
 皮は細かく切って塩をつけて冷蔵庫に入れてあります。
 さて、うまくいくか。

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2008.07.14

高知県 笹岡優さん、ありがとうございました。

 少し古い話になりましたが、笹岡優さんが、こんなことを書いてくれていました。四月二十五日付の「しんぶん赤旗」中国・四国版です。すごく感謝しています。

 ◎ こんにちは笹岡優です/この星に同じ時代に

 昨年末まで、「しんぶん赤旗」の四国支局長をされていた藤原義一さんからメールとはがきをいただきました。
 藤原さん宅の塀をキャンバスにしたすばらしい塀画が完成し、その写真を表紙にした短歌集ができたとの便りです。ピアノの鍵盤が階段のように宇宙に果てしなく伸びてつながっていくロマンに満ちた力強い塀画です。作者は、高知県旧西土佐村(現四万十市)出身の同級生三人で構成する女性ロックバンド「Theヌーディーズ」(ありのままの自分をさらけだすの意)のメンバーの一人で、ギターパートの森平紗代さん(21)です。

   歌集は壁画をバックに
 
 この星に同じ時代にやってきておもしろかったね「さぁ、これからも」
 
 と短歌を題名にした表紙で藤原さんの思いがぎっしり詰まった短歌集。この表紙の短歌が高知ペンクラブ副会長賞に選ばれ大好評。若い息吹と平和への思いが伝わってくる塀画と短歌集です。
 さわやかな話題に浸っているとき突然、不快な言葉が私の耳に突き刺さってきました。田母神俊雄防衛省航空幕僚長の発言です。
 ――航空自衛隊のイラク空輸活動を違憲とした名古屋高裁判決に対して隊員への影響を問われ「私が心境を代弁すれば大多数は『そんなの関係ねえ』という状況だ」とお笑いタレントのギャグを持ち出して司法判決をやゆしました。
 石破茂防衛相は「部下を思い国を思う気持ちだ」とかばい、高村正彦外相は判決をめぐり、「暇でもできたら読む」と発言。不見識、法治国家であってはならない暴言です。憲法違反のアメリカ言いなりの戦争行為はただちにやめるべきです。
 平和を願うロックの響きで不快な雑音を吹き飛ばし、政治変革のうねりを。
 (衆院比例四国ブロック候補)

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高知県 僕が愛している「しんぶん赤旗」に、僕のコメントが登場しました。生まれて初めての快挙です。

 この七月、僕が愛している「しんぶん赤旗」に、僕のコメントが登場しました。生まれて初めての快挙です。

 七月三日付、中国・四国のページの、この記事です。

  ◎ 中四国リポート/高知・四万十町海軍窪川飛行場跡/「本土決戦」備え山あいに急造/平和資料展で紹介

 高知市で開催中の第30回戦争と平和を考える資料展の中に「本土決戦のためでした 窪川の山あいの海軍の飛行場」があります。県西部の標高200㍍の町の戦争を見ました。(高知県・窪田和教)

 「高知海軍航空隊窪川飛行場」は窪川町(現四万十町)宮内にありました。今は田んぼが広がり、五十㌢に伸びた苗が梅雨の細かな雨にぬれています。

   特攻基地として

 一九四五年(昭和二十年)、戦局が絶望的な状況を迎えていたとき、海軍呉鎮守府第五一一三設営隊が「本土決戦に備えて極秘に緊急に」造った特攻隊基地。国民学校高等科の児童や近くの人を強制動員して作業がおこなわれ、長さ千八百㍍、幅百五十㍍の滑走路ができました。丸太棒をシュロ縄で編んで敷き詰めた急ごしらえの「飛行場」でした。
 土地は農家から取り上げ、約百五十人の隊員の宿舎に民家や学校が接収されました。市川和男さん(75)の家は本部にされました。「高知市に下宿して中学に通っていましたが、帰省すると田んぼが滑走路に変わり、家は取り上げられていました。仕方なく親せきの家に行きました」と市川さんは話します。
 ここには五つの神社からなる「五社様」(高岡神社)があります。宮内、という地名も鳥居の内というところからきたものです。地域の人の精神的支柱の「五社様」の境内に燃料用ドラム缶が積まれました。

   集落の入り口に

 小学校教諭だった武市昌子さん(84)は「集落の入り口で銃剣をもった警備兵に通行証を見せて通りました」といいます。
 配備されたのは「白菊」。五人乗り練習機で、特攻機として使用されていました。四五年六月に沖縄がアメリカに占領されたことで、「特攻作戦」(菊水作戦)は打ち切られ、鹿児島にあった「白菊」を窪川飛行場にもってきて「本土決戦」に備えたのです。
 ここから特攻作戦に出て戦死した、という記録はありません。
 このコーナーを担当した平和資料館・草の家研究員の藤原義一さん(61)は「恐ろしい時代の高知のことを、リアルにつかまえる仕事を今後もしていきたいですね。戦争を繰り返さないために」と話しています。

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高知市 田舎の日本共産党支部も、けっこう、がんばっているよ。大津・高須支部の場合は……。 

 田舎の日本共産党支部も、けっこう、がんばっているますよ。高知市の大津・高須支部の場合は……。 

 ◎ 「演説会参加を」食品団地で宣伝/高知市大津・高須支部

 高知市の大津・高須支部の藤原義一さんは1月25日、2月24日に開かれる市田忠義書記局長、笹岡優(まさる)衆院比例四国ブロック、春名なおあき衆院高知1区両候補による日本共産党演説会の参加を呼びかけるハンドマイク宣伝をしました。
 午前中は食品団地など4カ所、自転車にハンドマイクを載せ、100㍍置きに止まって宣伝しました。
 「いまの政治はこれでいいのか。良くなければ、どうすれば良くなるのか。そのことをお話しする演説会に、ぜひおいでください」。お年寄りが家から出て聞いてくれました。
 午後は13カ所で宣伝。このときもお年寄りが家から出てきて聞いてくれ、別れ際に「ありがとう」というと、手を振ってあいさつしてくれました。

( 2月05日  別刷2面)

 ◎ 草の根パワー/全戸訪ねて声聞く/工場の騒音や悪臭が/作業所の利用料高い/高知市大津・高須支部

 「支持拡大目標は前回総選挙の四倍です」。党支部長の小松孝明さん(58)は気負うことなく話します。二年前までは、支部の受け持ち地域のビラ配布も部分的にしかできませんでした。支部の活動を変えたのは、「全戸を訪問して対話し、要求を取り上げる」活動です。
 大津・高須支部の活動地域は、高知市東部で、住宅・商業地と農村が混在する有権者一万八千人です。
 三月二十九日午前。「こんにちは、日本共産党です。政策のお訴えにきました」、ハンドマイクで、谷崎治之高知地区常任委員と支部の藤原義一さん(61)が呼びかけます。小松支部長と春名なおあき衆院高知1区候補が、各戸を訪ねます。「しんぶん赤旗」日曜版の見本紙を渡し、「後期高齢者医療制度中止」の署名を訴えます。この日の行動で、二人に日曜版を読んでもらうことになりました。
 支部の人たちは、春名候補や米田稔県議、細木良高知市議が行動できる日に、ハンドマイク宣伝と全戸を訪問する活動をしています。
 全戸訪問を始めるきっかけは、支部会議で、「四国ブロックで勝利するには、『赤旗』の見本紙をもって全戸を訪問しよう」との意見が出されたことでした。
 「息子が作業所に通っているが、利用料が高くなった」と涙ながらに話す女性がいました。
 「共産党は影が薄い」という婦人に、「後援会に入って応援してください」と勧め、後援会員になってもらいました。
 地域を回ると「路面電車の軌道が低く、車のタイヤが取られ危険」「近くの工場の騒音や悪臭で困っている」などの要求が寄せられます。
 電車の軌道に夜間に光るびょうが設置されました。支部の人たちと米田県議、細木市議らの、解決への努力が実ったものです。
 支部は、前回の総選挙の支持拡大数が五百、昨年のいっせい選挙が千三百で、今回二千の得票を目指しています。いっせい選挙後に日曜版読者を六十五人増やしています。
 新しく後援会に加入した人たちとの親睦(しんぼく)を深める、花見の会を五日に開きます。

(04月05日 中四国版)

 ◎ 老人に〝思いやり予算を〟/後期高齢者医療制度でつどい/高知市大津・高須支部

 「老人にたいしても〝思いやり予算を〟」(女性)。高知市の大津・高須支部が5日夜開いた「後期高齢者医療制度から暮らしと政治を考えるつどい」での参加者の発言です。
 話し手は春名なおあき衆院高知1区候補、米田稔県議、細木良市議。10人が参加しました。
 春名候補が「(国民の)将来の見通しを明るくするのが政治の役割でしょう」と問いかけると、参加者の女性は「そうそう」。春名候補は手作りのパネルを示しながら、お年寄りを差別する後期高齢者医療制度の内容と悪政をただす方向を語りました。
 参加者からは生きのいい発言が続々。
 「私は年金がないし、子がおらん。ひとりぼっちで不安です。頼りにしているのは共産党と、店に来てくれるお客さん」(女性)。「テレビの政党討論会を毎回見ているが、自民党のやり方はまったくひどい。いまの政治をひっくりかえしましょう」(男性)。「この話、みんなに聞かせてあげたい。こんな機会をもっと増やしたらいいのに」(女性)
 この「つどい」成功のために同支部は春名候補、米田県議、細木市議と行動。ハンドマイク宣伝、各戸での対話、案内ビラの配布をする中で92人と対話。うち28人が党後援会に入り、6人が「しんぶん赤旗」日曜版を購読しました。
 同支部は1月以来、同様の小集会を4回開いています。
 (藤原義一通信員)

(07月08日  別刷1面)

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2008.07.15

高知県 「日本で最初の女性参政権の実現と楠瀬喜多の役割」。第二稿。

 日本で最初の
  女性参政権の実現と
  楠瀬喜多の役割

 一八八〇年(明治十三年)、日本で最初の婦人参政権が、現在の高知市の上町(かみまち)町会、ついで小坂村村会で実現しました。この女性参政権実現の上で、高知市の楠瀬喜多の行動が大きな役割を果たしたといいます。自分としても正確に、楠瀬さんの役割をつかんでおきたいと思い、何冊かの本を読みました。その結果を、「日本で最初の女性参政権の実現と楠瀬喜多の役割」というタイトルでまとめました。

 【楠瀬喜多さんは、こんな人】

 楠瀬喜多は、一八三六年(天保七年)九月九日、土佐郡弘岡町(高知市弘岡町)で生まれました。父は、高知城下の米穀商でした。
 土佐藩士・楠瀬実と結婚しました。
 一八七四年(明治七年)、夫が病没しました。
 当時、喜多は、三十八歳でした。
 二人に子どもがいなかったため、喜多が相続し戸主になりました。
 喜多が、四十二歳のときの、一八七八年(明治十一年)、高知県下で区会議員選挙が実施されました。
 この選挙は、喜多が、日本女性として初めて女性参政権を要求するきっかけになりました。

 【「高知県民会議事章程」では……】

 話を進める上で、当時の地方自治制度と選挙制度についてのべます。
 明治政府は、一八七二年(明治五年)四月九日、太政官布告一一七号、同年十月十日、大蔵省布達一四六号で、全国で大区小区制を施行すべきことを達しました。
 これにもとづき高知県は、同年、小区制度を、一八七五年(明治八年)に大区小区制を実施しました。
 同年五月、高知県は、大区小区制を実施と同時に「高知県民会議事章程」を作成し、民会開設を奨励しました。
 民会とは、現在の地方議会の前身です。
 つぎの十項目を議すべき対象としていました。
 ① 民事の事
 ② 公有財産の事
 ③ 災害備慮の事
 ④ 取締安寧風俗に関する事
 ⑤ 公立の学校病院及び貧民救済方法等の事
 ⑥ 諸会社及び市場の事
 ⑦ 狩猟持場等の事
 ⑧ 道路堤防橋梁用悪水等の事
 ⑨ 水路の便を開く事
 ⑩ 土地を拓き物産を興す事
 一八七六年(明治九年)八月二十一日、政府は右大臣・岩倉具視の名で十三項目にわたる地方諸県の統合を告示しました。この中に、阿波国を高知県へ合併するとの一項がありました。これで高知県は土佐、阿波の一県二国になりました(後、一八八〇年三月、阿波国は高知県から分離して徳島県に)。
 土佐国は、十七大区に分割され、それぞれの大区内にはいくつかの小区が置かれていました。
 喜多の住所は「土佐国第八大区二小区唐人町二番地」でした。
 一八七八年(明治十一年)初夏、喜多が四十二歳のときに区会議員選挙がおこなわれます。
 県庁が定めた「高知県民会議事章程」では、選挙人は戸主です。しかし、戸主であっても二十歳未満の者、破産者、女性は選挙人から排除していました。

 【「税納の儀につき御指令願いの事」の伺書】

 喜多は、これが不満で、地租や地方税を滞納していました。
 区務所が再三督促したため、喜多は、同年九月十六日、「税納の儀につき御指令願いの事」という伺書(うかがいしょ)を高知県庁へ提出します。
 「私は女ながらも戸主として諸般のつとめを果たしているのに、区会議員をえらぶ権利はなく、保証人になることもできない。本来、権利と義務は両立するはずで、議員をえらぶ権利があれば納税の義務があるのは当然である。ところが、私は議員をえらぶ権利がないのに、納税の義務だけを男子の戸主と同様に課せられている。として公平な取り扱いとは思えない。戸主にただしたところ、男子は兵役義務を負うが婦女はその義務を負わないので男女の権利は異なると言った。男子であっても戸主は兵役義務を免除されているから、この説明では納得できない。男女の権利に差異があるのかないのか、よく理解できるように公平な判断をお願いしたい」
 九月二十一日、高知県庁は「朱印指令」で「納税の義務は国法が定めるところで、権利の軽重によって増減する規定はないから、滞納している税金はすみやかに納めよ」と回答しました。
 喜多の、この要求について一八七九年一月二十六日付の大坂日報が報じ、一月三十一日付の東京日日新聞、朝野新聞も、これを転載しました。
 新聞は、県庁の指令に承服しない喜多が、さらに内務省へ再願書を提出しようとしていると伝え、こうした喜多の考え方は一八七七年(明治十年)から自由民権運動をすすめていた立志社の演説会に「寒暑風雨をも厭(いと)はず会毎(かいごと)に出席しければ自ら人間の権利義務など云(い)へることも悟った」のだと報じています。

 【上町、小高坂村での女性参政権の実現】

 喜多の女性参政権要求から二年後の一八八〇年(明治十三年)、同じ高知の、土佐郡上町町会が、女性にも参政権を、の運動を始めました。
 この年四月公布の「区町村会法」は、各町村の規約は自主的に定めて県令の認可を受けるようにと定めました。
 上町町会は、女性戸主の選挙権、女性の被選挙権を認める規約をつくって県の裁定を受けるために六月十六日、県庁に提出しました。
 ところが、北垣国道県令は、女性を選挙権者、被選挙権者から除外するように指示しました。
 それに納得がいかない上町町会は、民権家の坂本南海男、児島稔を先頭に立て「伺書」を再三提出するなど、三カ月におよぶ女性参政権実現の運動を展開しました。
 この結果、九月二十日、北垣県令は、上町町会の規約を認めました。
 すると、隣の小高坂村村会でも、さっそく、同じ内容の規約をつくりました。
 この村会にも、植木枝盛、安芸喜代香、近藤正英(こんどう・まさふさ)などの民権家がいました。
 児島稔は、実際に女性が男性に投票し、男性が女性に投票する選挙がおこなわれたと書き残しています(一八九九年七月十九日付以降、土陽新聞五千号を記念して連載した「土陽新聞小歴史」)。
 この当時、植木枝盛は高知にいませんでしたが、のちに「男女同権は南海の某一隅より始まる」という論文を高知新聞に発表、「女性は町村会で得た権利を国家でも獲得し、男女平等を達成すべきだ」と激励しました(一八八一年八月三十一日付)。
 両町村会の規約は、一八八四年(明治十七年)二月の区町村会法改正で、選挙権が満二十歳以上の男性、被選挙権が満二十五歳以上の男性に限定されるまで存続しました。
 喜多は、一九二〇年(大正九年)十月十八日に亡くなりました。八十七歳でした。
 ここで、自由民権運動の研究家・外崎光広の「なお、喜多の死後に書かれたものによると、彼女は立志社の客員として社中の荒武者ひげ男に加わって、丸まげに小紋の被布姿で演壇に立ったとか、県外にも遊説したとか、そして、その時の武勇伝などが伝えられ、今日研究書にまで紛れ込んでいるが、私の調査によるとこれらの話は浪曲や講談のたぐいの作り話である。」という指摘もふれておきます(『土佐自由民権運動史』。財団法人高知市文化振興事業部。一九九二年十二月十日)。

 【本文で表記した以外の参考文献】

 ○ 『土佐の自由民権運動』。外崎光広。財団法人高知市文化振興事業部。一九八八年十月一日。
 ○ 『土佐の自由民権家列伝』。山本大・編。土佐出版社。一九八七年十一月二十一日。
 ○ 『自由民権運動目録』。土佐自由民権研究会。財団法人高知市文化振興事業部。一九九四十二月二十五日。
 ○ 『高知市立自由民権記念館友の会ブックレット№8 「民権ばあさん」楠瀬喜多小論 公文豪自由民権史論集』。公文豪。高知市立自由民権記念館友の会。二〇〇六年七月一日。
 ○ 『高知新聞ブックレット №1 土佐の自由民権運動入門』。公文豪。高知新聞社。二〇〇七年一月三十日。
(以上)

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高知市 「半年の まとめの授業も 熱血で……」。

 二〇〇八年七月十四日。

 半年の まとめの授業も 熱血で
 拍手がわいたよ
 「ありがと、先生」

 今夜の高知県立高知短期大学の授業です。
 試験はなし。みんなリポートは出し終わっているはずなのに、最後の最後まで出席率は良好でした。

 この半年間、毎回、僕の頭を新しい知識、新しい視点で満たしてくださいました。
 僕が、これまで出会うことができた先生のうちでも最高級の人でした。
 今後、先生の授業の「追っかけ」をしたい気分です。

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2008.07.21

愛媛県松山市の文学を語るつどいに参加してきました。

028

 二〇〇八年七月二十一日

 十九日から二十一日まで愛媛県松山市での文学のつどいにいってきました。
 高知からは六人の参加でした。

 愛媛県松山市で文学を語る

 ゴツゴツと 鉄路そのまま 伝えくる
 「坊ちゃん列車」の
 窓からの風

 今の世を 「閉塞(へいそく)」という 人あって
 わが街々の
 沸き立ち語る

 戦争を どうえがくのか 盛況で
 古き友らも
 熱込め語る

 「青年を どうとらえるか」 論議あり
 学ぶ仲間を
 紹介してる

 セミたちの ぬけがら、いくつも 木にあって
 わが脱皮どき
 思案している

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2008.07.23

高知市大津 やってきた娘七歳、四歳の孫娘。

 二〇〇八年七月二十二日。

 本日午後四時半ころ、高知市に到着したようです。
 娘と、その二人の娘です。
 

   夜の授業が終わってから対面しました。
 七歳の女の子は、「自分」を発散して生きている「活発系」娘です。
 四歳の女の子は、長い髪で、先輩から「大好き。今度、うちに遊びにきてよ」という手紙をもらうほどの「かわいい娘」タイプです。

 わが娘 娘の娘ら やってきて
 超幸(ちょうしあわ)せの
 日々が始まる

 次々に いい友だちが 転校で
 七歳の子は
 友探してる

 四歳の 孫娘さん
 ひらがなを 自由に書いてる
 進化のすごさ 

 父親が ファンだという Perfume(パフューム)を
 歌って、踊る
 七歳、四歳

 「あと一分 私が生まれた 時間だよ」
 みなみな起こす
 七歳の声

 八歳に
 「ぼちぼち、がんばれ」 声かけて
 ベッドに送る
 

 Perfumeは、二十歳代のような女性三人のグループです。

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ある新聞の朝刊に僕の、高知県立高知短期大学を存続させての投書が載りました。

 二〇〇八年七月二十三日。

 きょう、ある新聞の朝刊に僕の、高知県立高知短期大学を存続させての投書が載りました。

 電話で、メールで、出会いがしらに「読んだよ」「読んだよ」。

 ありがたいことです。

 一番クールだったのが妻で、その投書の「歌人・太平洋戦争期の地域史研究者」という肩書きについて「ずうずうしい。無職でよかったんじゃない」。

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高知市 娘の長女の八歳の誕生日。「スイミー」。ハングルのテント。

 二〇〇八年七月二十三日。

 娘の長女は、きょうが誕生日でした。
 わが家で、本日午後、彼女の八歳の誕生会が開かれました。
 母、妹、ばあさん、ひいじいさん、ひいばあさん、ばあさんの弟、「おいちゃん」が集まって八歳の誕生会が開かれました。
 僕は、この時間帯には短歌雑誌の校正作業をしていました。
 企画した「ばあさん」が、僕の都合も聞かないで日程を決めてしまったものだから……。しく、しく。

 この八歳の孫娘ですが、昨夜、「スイミー ちいさなかしこいさかなのはなし」の物語を語ってくれました。
 すごい。暗唱しているのです。
 間のとり方、演技力もたいしたものです。

 ところで、僕のほうは、あすハングルの単語のテストがあります。
 八歳の孫娘のようには覚えがよくありません。
 あす午後一時半から五時半まで、どこかの公園で一生懸命覚えるつもりです。

 ところで「スイミー ちいさなかしこいさかなのはなし」(オランダ出身の絵本作家レオ・レオニ 作。谷川俊太郎訳)は、こんな物語です。

 スイミーは小さな魚。ただ、兄弟がみんな赤い魚だったのに、スイミーだけは真っ黒な小魚だった。 大きな海で暮らしていたスイミーと兄弟たちだったが、大きなマグロに兄弟を食べられてしまい、泳ぎが得意だったスイミーだけがなんとか助かる。
 兄弟を失ったスイミーはさまざまな海の生き物たちに出会いながら放浪するうちに、岩の陰に隠れてマグロに怯えながら暮らす、兄弟そっくりの赤い魚たちをみつける。スイミーは一緒に泳ごうと誘うのだが、マグロが怖いからと小魚たちは出てこない。
 そこでスイミーはマグロに食べられることなく自由に海を泳げるように、みんなで集まって大きな魚のふりをして泳ぐことを提案する。そしてスイミーは自分だけが黒い魚なので、自分が目になることを決意するのだった。
 かくして、小魚たちはマグロを追い払い、岩陰に隠れることなく海をすいすい泳げるようになったのであった。

(フリー百科事典『ウィキペディア』)

 追伸

 この記事は、娘の長女の「きのうのスイミーのことも、書いたらいいじゃん」というリクエストを受けて書きました。

 彼女は、この記事の内容を見届けてベッドに向かいました。

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2008.07.24

高知市 ある語学のテスト。あぜんとしました。全然わからないのです。

 二〇〇八年七月二十四日。

 高知県立高知短期大学では、熱い試験シーズンを迎えています。
 昨夜、ある講義のは、いい評価だとわかり、「にんにん」していました。

 そして、本日。ある語学の試験が午後六時からに控えていました。
 何日も家族が驚くほど勉強しました。
 何とかなるかもしれません。

 しかし、朝の高知市内の陶芸教室が終わるやいなや病院に本日の予約の電話。風邪がひどくなって、くらくらしだしたのです。
 でも、本日は主治医がふさがっているとのことで、あすにしました。
 その後、高知市内の城西公園などをまわりながらテストのための猛勉強しました。

 そして、試験。
 配られた試験問題を見て、あぜんとしました。
 全然わからないのです。
 しかし、じわじわと態勢を立て直し、一つずつ書き込んでいきました。
 でも、百点満点で五点くらいしか正答がないと思います。

 こんなにわかっていなかったとは。
 この科目については夏休みに、じっくり勉強しなくては。

 あすは二科目の試験。

 ううーん、耐えられるか。

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2008.07.25

高知市 やっと「地域史」のリポートを書き終えました。

 二〇〇八年七月二十五日。

 やっと「地域史」のリポートを書き終えました。

 初めに書いたものが長すぎたこともあり何度書き直したことか……。

 夜一時間目の「平和学」の試験も見通しをつけました。

 あと、夜二時間目の「情報処理」の試験の勉強です。

 これは、いまからいく病院の待合室での勉強になりそうです。

 よーーーーーっし、そろそろいくか。

 午後二時には出発しなければ。

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2008.07.26

高知県 「にんにんする」って、こんな意味。

 二〇〇八年七月二十六日。

 以前、このブログで「にんにんする」という言葉を使いました。
 すると、見ていただいた人から、どんな意味ですかというお便りがありました。

 どうも共通語ではないようですね。
 土佐弁でしょうか。
 意味は、うれしくて、うれしくて、顔の表情にまで、その喜びようがでるというようなことでしょうか。

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高知市大津 僕は、ついに風邪でダウン。

 二〇〇八年七月二十六日。

 僕は、ついにダウン。
 娘の長女が持ってきた風邪に感染してしまい、ふらふらです。
 昨日、病院にも行ったのですが、まだ改善の見込みなし。

 本日も乗用車に乗せていただいて高知県安芸市にいくつもりだったのですが、いけませんでした。

 昼間、「夜、こんなあつまりがあるから、こない」という電話もありましたが、ついに出かけることができませんでした。

 夜、「こんな短文を書いて」という電話がありましたが、それにも……。

 一日、寝ころびました。
 目が覚めたら『古事記』関係の本を読み、またダウン。
 ということを繰り返し、午後十時には、やっと懸案だった「古事記購読」のリポートができあがりました。
 とにかく締め切りが迫っているもので……。

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高知市 試験、試験、試験、試験……。

 二〇〇八年七月二十六日。

 昨日の「平和学」の試験は五十分でこなしました。

 休み時間にも問題の「情報処理」の試験の準備。三十歳の女性の学生が情報処理が得意で、聞くと、いろんなことを教えてくれました。かなり勉強をしている人です。

 「情報処理」の試験は、初めはトントンといっていたのですが、途中でつまって、半分ほどやったところでチャイムがなってしましました。ワオオオーッ。これは、よくても可でしょうね。とほほ。

 月曜日からテストがあるのは、「日本語論」、 「政治史」、 「英語初級」、 「外書講読」……。

 見通しのたっているものは一つもありません。
 あす、二十七日に「どれだけ迫れるか」がポイントです。

 風邪さん、飛んでけ。

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2008.07.27

「『古事記』にえがかれている高天原、葦原の中国、黄泉の国の位置関係はどうなっているのか。四カ月考えてきて、いまいえること。

 二〇〇八年七月二十七日。

 『古事記』にえがかれてい高天原、葦原の中国、黄泉の国の位置関係は、どうなっているのか。
 このテーマを、この四カ月、考え続けてきました。
 そして、以下のようにまとめてみました。

 『古事記』は、上つ巻(序、神話)、中つ巻(初代から十五代天皇まで)、下つ巻(第十六代から三十三代天皇まで)の三巻からなっています。
 六七二年の内乱、壬申の乱(じんしんのらん)は、天智天皇の太子・大友皇子(おおとものみこ)に、皇弟・大海人皇子(おおあまのみこ)が地方支配者を味方につけて反旗をひるがえしたもので、大海人皇子が勝利しました。大海人皇子が、翌年、六七三年、天武天皇になります。
 『古事記』の序によれば、この天武天皇が、諸氏所属の家々に持ち伝えられている『帝紀』(天皇の系譜)、『旧辞』(古い伝承)を取捨選択して編集し「真(まこと)を定め」ようといいだし、同天皇の側近に奉仕していた舎人(近習)の稗田阿礼(ひえだのあれ)に『帝紀』、『旧辞』を誦み習わせました。当時、稗田阿礼は二十九歳でした。
 しかし、天武天皇が亡くなり、この作業は未完となりました。
 その後、元明天皇が、七一一年九月十八日、太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ、太安万侶。七二三年没)に、稗田阿礼から『帝紀』、『旧辞』を聞き取り、文書として整理して提出するように命じました。
 稗田阿礼は、すでにかなりの老人でした。太朝臣安萬侶は、稗田阿礼から聞き取り、書物につくり上げる作業をなしとげ、七一二年一月二十八日に献上しました。
 この間、わずか三カ月と十日。ものすごく集中した懸命の作業だったと思われます。
 〈でも、いくらなんでも作業が早すぎます。いまみたいにレコーダーで録音して、パソコンで起こしてということだったら、この期間でも可能でしょうが……。もしかしたら、すでに稗田阿礼の話は、すでに文章になっていて、それをもとに再度、稗田阿礼から聞き取りをしながら訂正、補充をして、再構成していったのではないのでしょうか。ま、これは、根拠のない想像です〉
 内容は、神代における天地(あめつち)の始まりから推古天皇の時代にいたるまでのさまざまな出来事(神話や伝説などを含む)を収録しています。また、数多くの歌謡を含んでいます。
 本文は、変体漢文を主体としつつも、古語や固有名詞のように漢文では代用しづらい微妙な部分は一字一音表記で記すという表記スタイルをとっています。歌謡部分は、すべて一字一音表記で記されています。
 内容を読んでみると、その編集の意図が明確です。
 天界の指示によって天皇族が日本を支配するようになったこと、つぎつぎと、それまでの地方支配者を打倒し支配地域を広げていったことがえがかれています。天皇族の支配の正当化をはかった書物だったのでしょう。
 神野志隆光は、中国の律令制度をもととしてつくられた古代国家の完成段階に『古事記』がつくられたと指摘し、「天皇の世界を根拠づける営みとして『古事記』は成された。」としています(1)。
 天皇族は、私生活においては多数の妻を持ち、ときには父の妻だったものを自分の妻にしたり、近親婚をしたりします。
 支配のために身内をきたないやり方で殺したりもします。
 地方支配者への攻撃も謀略的なきたないやり方です。
 現代から見たら、それは、目をおおいたくなる記述ですが、当時においては、それらの事実こそが正義であったのではないでしょうか。

 『古事記』の世界は、高天原(たかまのはら)、葦原の中国(あしはらのなかつくに)、黄泉国(よもつくに)、根之堅州国(ねのかたすくに)、綿津見神之宮(わたつみかみのみや)などによって構成されています。
 このうち、高天原・葦原の中国・黄泉の国の位置関係についてのべます。
 『古事記』の世界は「あめ」と「くに」の二元からなっています。
 高天原は、この「あめ」です。
 その「あめ」の下に、葦原の中国、黄泉国、根之堅州国、綿津見神之宮などの「くに」があります。

 【高天原】

 高天原は、『古事記』の冒頭に天地のはじめに神々の生まれ出る場所としてその名が登場します。
 イザナキ、イザナミの両神が「天(あめ)の浮橋(うきはし)に立たして」、そこから矛を海に下ろして島をつくるくだりがあります(2)。
 このことを見ても高天原は、天空に浮いているのではないでしょうか。
 ここには、多くの神々(天津神=あまのかみ)が住んでいます。
 機織の場などもありました。
 天の岩戸もあります。
 なんだか、その世界の様子は地上とそっくりです。
 〈後に、天照大神は、イザナキから高天原を治めるよう命じられましたが、その彼女が、弟・スサノオノミコトの所業に怒り天の岩戸に立てこもるシーンがあります。
 高天原、葦原の中国では夜ばかりが続くことになりました。
 そこで、高天原の大勢の神々が真っ暗な中、組織的に行動し、天照大神を天の岩戸から出すための作戦を遂行します。
 どうも、ここの神々は超能力で真っ暗な中でも目が見えるようです。
 天照大神は天皇の祖先だということですが、どうもやることが子どもっぽい。弟への怒りを人々を苦しめることではらすなんぞ、とんでもない人ですね。作者は、天照大神をおちゃらかしているように見えますが、どうでしょうか。「女性は太陽であった」ということですが、こんなのでは困りますね。
 天皇族は、朝鮮からやってきたという説がありますが、もし、そうなら高天原は、朝鮮の母国を想定いしたものだったのではないでしょうか〉

 【葦原の中国】

 葦原の中国は、イザナキ、イザナミがつくった地上世界です。現在の日本の一部を指すようです。
 葦原の中国は、天津神によって平定され、天照大神の孫のニニギが天降りします(天孫降臨)。以降、天孫の子孫である天皇が葦原の中国を治めることになったとしています。
 この葦原の中国という命名について神野志隆光は「……アシは生命力を意味すると見ることができる。(中略)〈クニ〉において、中央なる、生命力に満ちた世界という価値づけが、『中』や『葦原』という命名にはあると認められる……」としています(3)。
 葦原の中国は、地上のやがて天皇族に支配される地域、さらに支配しようとする世界です。
 この葦原の中国は、天皇族の侵攻によって広がっていきます。
 〈それにしても侵攻のやり方はえげつない。謀略につぐ謀略です……。「何の罪もない人たちに、こんなきたねぇことをしやがって」と「平らげられたほう」に同情してしまいます。こんなのを読まされたら、読んだ人は天皇族を嫌悪すると思うのですが、作者は、そこは、どう考えていたのでしょうか。「どんなことをしててでも勝てばいいのさ」が当時の支配者たちの倫理だったのでしょうか〉

 【黄泉の国】

 かつては黄泉の国は地下にあったという考え方が支配的でした。
 それに一石を投じたのが佐藤正英(日本思想史)の一九八三年の論文です。佐藤は、地下にあったという説を批判し、山中他界説を主張、結論部分で「…いまは、黄泉国の在りかが地下ではなく、山中であることを確かめるにとどまる他はない」としています(4)。
 「かれ、その神避りましし伊耶那美の神は、出雲(いずも)の国と伯伎(ははき)の国との堺(さかひ)の比婆(ひば)の山に葬(はぶ)りき」と、あります(5)。
 亡くなったイザナギの妻・イザナミは出雲国と伯伎の国の境にある比婆之山に葬られます。
 イザナキは亡き妻を、この目で見ようと黄泉の国に行き、そこで妻と会います。
 ということは、黄泉の国は、イザナミが葬られた比婆之山の山中を含む地域にあるということです。
 そこにはイザナミの住む殿があります。
 その国のかまどで煮た物を食べると他の国には出られません。
 イザナミの体にはウジムシがたかりイカヅチたちがまつわりついています。
 ヨモツシコメ、ヨモノイクサなどイザナミを守る者たちがいます。
 会いに行ったイザナミのあまりの変わりように驚いたイザナキは、黄泉の国から逃げさりますが、このときに黄泉比良坂の坂本に着いたとあります。坂本は坂の下・坂の上り口を表しています。イザナキは黄泉の国の比良坂を駆け下りてきたということが示唆されています。
 ここが、黄泉の国と葦原の中国の境目の一つでした。
 黄泉の国は、葦原の中国と地続きの所で、イザナミが葬られた比婆之山の山中を含む地域にあって、黄泉比良坂の坂本を上った所にあるのではないでしょうか。
 ここで考えなければならないことは、黄泉の国の表記に「黄泉(よみ)」があてられていることです。
 黄泉は、もともと漢語で「地下の泉」を意味しました。
 作者は、この漢字をあてることで、地下にあるというイメージを与えようとしているともとられることです。
 この点について西條勉は、つぎのようにのべています。
 「ヨモツクニが『黄泉国』と書かれているのを、かるくみることはできないのである。いったい、なぜ、ヨモツクニは『黄泉国』と書かれるのか。また、ヨモツクニは、どのようにして『黄泉国』にされていくのか。このような問いかけを糸口にして、わたしたちは、神代の世界が一義的に固定される以前の、もっと混沌としたテクスト生成の現場に踏み込んでいくべきであろう」(6)。
 〈イザナキといさかったイザナミは、地上の人々を日に千人殺すと宣言します。それにたいして、イザナキは、それなら日に千五百人の産屋を建てようといいます。どうも、『古事記』では女性は悪役ですね。『古事記』については、つぎは、その歌謡をじっくり読み込んでいきたいと思っています。では、では……〉

 【注】
(1) 神野志隆光 『新編 日本古典文学全集1 古事記』(校注・訳/山口佳紀・神野志隆光。小学館)の解説。一九九七年五月二十二日。
(2) 西宮一民校注 『新潮日本古典集成 第二十七回 古事記』。新潮社。一九七九年六月。
(3) 神野志隆光 『古事記の世界観』。吉川弘文堂。一九八六年。
(4) 佐藤正英 「黄泉国の在りか 『古事記』の神話をめぐって」。『現代思想』一九八二年九月臨時増刊号。
(5) 西宮一民校注 『新潮日本古典集成 第二十七回 古事記』。新潮社。一九七九年六月。
(6) 西條勉 「黄泉/ヨモ(ヨミ) 漢語に隠される和語の世界」。『東アジアの古代文化』。一九九七年二月冬号。

 (以上)

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2008.07.28

高知市 裏表、記述式が十一問。歯ごたえありすぎです……。

 二〇〇八年七月二十八日。

 裏表 記述式が 十一問

 二問残して

 チャイムが鳴った

 朝のテストです。

 うーーーん、うまくいっても可ですね。

 今晩の一科目をふくめて、後三科目です。

 

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2008.07.29

高知市 ベルタ・フォン・スットナーさんのこと。

 二〇〇八年七月二十九日。
 
 本日も風邪で寝込んでいます。

 ところで、ベルタ・フォン・スットナーさんのことを知りました。
 すばらしい女性ですね。

 以下の所に彼女についての年表がありました。

 http://www.wirtschaftsmuseum.at/pdf/bsjapan.pdf#search='ベルタ・フォン・スットナー'

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高知市 韓国語のテストの結果。うるるるん。

 二〇〇八年七月二十九日。

 夜、風邪が治らないで、よろよろしながら「韓国語初級」の授業へ。
 前回のテストを返してくれました。
 僕は「はい、ちゃんと勉強します」といって受け取りました。
 結果は、ちゃんと書けなかったのですから……。

 百点の人が何人かいました。
 すごいですね。

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高知市 「テストの苦労 ともにして 同志になってく 夜の学生」。

 二〇〇八年七月二十九日。

 「どうだった?」
 テストの苦労 ともにして
 同志になってく 夜の学生

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