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2008.07.15

高知県 「日本で最初の女性参政権の実現と楠瀬喜多の役割」。第二稿。

 日本で最初の
  女性参政権の実現と
  楠瀬喜多の役割

 一八八〇年(明治十三年)、日本で最初の婦人参政権が、現在の高知市の上町(かみまち)町会、ついで小坂村村会で実現しました。この女性参政権実現の上で、高知市の楠瀬喜多の行動が大きな役割を果たしたといいます。自分としても正確に、楠瀬さんの役割をつかんでおきたいと思い、何冊かの本を読みました。その結果を、「日本で最初の女性参政権の実現と楠瀬喜多の役割」というタイトルでまとめました。

 【楠瀬喜多さんは、こんな人】

 楠瀬喜多は、一八三六年(天保七年)九月九日、土佐郡弘岡町(高知市弘岡町)で生まれました。父は、高知城下の米穀商でした。
 土佐藩士・楠瀬実と結婚しました。
 一八七四年(明治七年)、夫が病没しました。
 当時、喜多は、三十八歳でした。
 二人に子どもがいなかったため、喜多が相続し戸主になりました。
 喜多が、四十二歳のときの、一八七八年(明治十一年)、高知県下で区会議員選挙が実施されました。
 この選挙は、喜多が、日本女性として初めて女性参政権を要求するきっかけになりました。

 【「高知県民会議事章程」では……】

 話を進める上で、当時の地方自治制度と選挙制度についてのべます。
 明治政府は、一八七二年(明治五年)四月九日、太政官布告一一七号、同年十月十日、大蔵省布達一四六号で、全国で大区小区制を施行すべきことを達しました。
 これにもとづき高知県は、同年、小区制度を、一八七五年(明治八年)に大区小区制を実施しました。
 同年五月、高知県は、大区小区制を実施と同時に「高知県民会議事章程」を作成し、民会開設を奨励しました。
 民会とは、現在の地方議会の前身です。
 つぎの十項目を議すべき対象としていました。
 ① 民事の事
 ② 公有財産の事
 ③ 災害備慮の事
 ④ 取締安寧風俗に関する事
 ⑤ 公立の学校病院及び貧民救済方法等の事
 ⑥ 諸会社及び市場の事
 ⑦ 狩猟持場等の事
 ⑧ 道路堤防橋梁用悪水等の事
 ⑨ 水路の便を開く事
 ⑩ 土地を拓き物産を興す事
 一八七六年(明治九年)八月二十一日、政府は右大臣・岩倉具視の名で十三項目にわたる地方諸県の統合を告示しました。この中に、阿波国を高知県へ合併するとの一項がありました。これで高知県は土佐、阿波の一県二国になりました(後、一八八〇年三月、阿波国は高知県から分離して徳島県に)。
 土佐国は、十七大区に分割され、それぞれの大区内にはいくつかの小区が置かれていました。
 喜多の住所は「土佐国第八大区二小区唐人町二番地」でした。
 一八七八年(明治十一年)初夏、喜多が四十二歳のときに区会議員選挙がおこなわれます。
 県庁が定めた「高知県民会議事章程」では、選挙人は戸主です。しかし、戸主であっても二十歳未満の者、破産者、女性は選挙人から排除していました。

 【「税納の儀につき御指令願いの事」の伺書】

 喜多は、これが不満で、地租や地方税を滞納していました。
 区務所が再三督促したため、喜多は、同年九月十六日、「税納の儀につき御指令願いの事」という伺書(うかがいしょ)を高知県庁へ提出します。
 「私は女ながらも戸主として諸般のつとめを果たしているのに、区会議員をえらぶ権利はなく、保証人になることもできない。本来、権利と義務は両立するはずで、議員をえらぶ権利があれば納税の義務があるのは当然である。ところが、私は議員をえらぶ権利がないのに、納税の義務だけを男子の戸主と同様に課せられている。として公平な取り扱いとは思えない。戸主にただしたところ、男子は兵役義務を負うが婦女はその義務を負わないので男女の権利は異なると言った。男子であっても戸主は兵役義務を免除されているから、この説明では納得できない。男女の権利に差異があるのかないのか、よく理解できるように公平な判断をお願いしたい」
 九月二十一日、高知県庁は「朱印指令」で「納税の義務は国法が定めるところで、権利の軽重によって増減する規定はないから、滞納している税金はすみやかに納めよ」と回答しました。
 喜多の、この要求について一八七九年一月二十六日付の大坂日報が報じ、一月三十一日付の東京日日新聞、朝野新聞も、これを転載しました。
 新聞は、県庁の指令に承服しない喜多が、さらに内務省へ再願書を提出しようとしていると伝え、こうした喜多の考え方は一八七七年(明治十年)から自由民権運動をすすめていた立志社の演説会に「寒暑風雨をも厭(いと)はず会毎(かいごと)に出席しければ自ら人間の権利義務など云(い)へることも悟った」のだと報じています。

 【上町、小高坂村での女性参政権の実現】

 喜多の女性参政権要求から二年後の一八八〇年(明治十三年)、同じ高知の、土佐郡上町町会が、女性にも参政権を、の運動を始めました。
 この年四月公布の「区町村会法」は、各町村の規約は自主的に定めて県令の認可を受けるようにと定めました。
 上町町会は、女性戸主の選挙権、女性の被選挙権を認める規約をつくって県の裁定を受けるために六月十六日、県庁に提出しました。
 ところが、北垣国道県令は、女性を選挙権者、被選挙権者から除外するように指示しました。
 それに納得がいかない上町町会は、民権家の坂本南海男、児島稔を先頭に立て「伺書」を再三提出するなど、三カ月におよぶ女性参政権実現の運動を展開しました。
 この結果、九月二十日、北垣県令は、上町町会の規約を認めました。
 すると、隣の小高坂村村会でも、さっそく、同じ内容の規約をつくりました。
 この村会にも、植木枝盛、安芸喜代香、近藤正英(こんどう・まさふさ)などの民権家がいました。
 児島稔は、実際に女性が男性に投票し、男性が女性に投票する選挙がおこなわれたと書き残しています(一八九九年七月十九日付以降、土陽新聞五千号を記念して連載した「土陽新聞小歴史」)。
 この当時、植木枝盛は高知にいませんでしたが、のちに「男女同権は南海の某一隅より始まる」という論文を高知新聞に発表、「女性は町村会で得た権利を国家でも獲得し、男女平等を達成すべきだ」と激励しました(一八八一年八月三十一日付)。
 両町村会の規約は、一八八四年(明治十七年)二月の区町村会法改正で、選挙権が満二十歳以上の男性、被選挙権が満二十五歳以上の男性に限定されるまで存続しました。
 喜多は、一九二〇年(大正九年)十月十八日に亡くなりました。八十七歳でした。
 ここで、自由民権運動の研究家・外崎光広の「なお、喜多の死後に書かれたものによると、彼女は立志社の客員として社中の荒武者ひげ男に加わって、丸まげに小紋の被布姿で演壇に立ったとか、県外にも遊説したとか、そして、その時の武勇伝などが伝えられ、今日研究書にまで紛れ込んでいるが、私の調査によるとこれらの話は浪曲や講談のたぐいの作り話である。」という指摘もふれておきます(『土佐自由民権運動史』。財団法人高知市文化振興事業部。一九九二年十二月十日)。

 【本文で表記した以外の参考文献】

 ○ 『土佐の自由民権運動』。外崎光広。財団法人高知市文化振興事業部。一九八八年十月一日。
 ○ 『土佐の自由民権家列伝』。山本大・編。土佐出版社。一九八七年十一月二十一日。
 ○ 『自由民権運動目録』。土佐自由民権研究会。財団法人高知市文化振興事業部。一九九四十二月二十五日。
 ○ 『高知市立自由民権記念館友の会ブックレット№8 「民権ばあさん」楠瀬喜多小論 公文豪自由民権史論集』。公文豪。高知市立自由民権記念館友の会。二〇〇六年七月一日。
 ○ 『高知新聞ブックレット №1 土佐の自由民権運動入門』。公文豪。高知新聞社。二〇〇七年一月三十日。
(以上)

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