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2008.07.08

明治維新が生み出した政治権力がやったこと。改善版。

 二〇〇八年七月八日(七月二十六日に加筆)。

 明治維新が生み出した政治権力がやったこと

 政治は国民の幸せをささえるためにあるものではないでしょうか。
 その意味で明治維新が生み出した政治権力は、国民の幸せにとって、どんな役割を果たしたのでしょうか。
 明治天皇は、一八八九年(明治二十二年)二月二十一日、「大日本帝国憲法」を発布しました(一八九〇年十一月二十九日施行)。
 国のおきてを天皇が勝手につくり、国民に押しつけるという形でした。

 ● そこでは天皇の大権があらゆる分野で認められ、半面、国民は臣民(天皇のけらい)とされ、その権利は「法律の範囲内」に限られていました。
 第一条は「大日本帝国ハ万世一系(ばんせいいっけい)ノ天皇之(これ)ヲ統治(とうち)ス」。
 第三条は「天皇ハ神聖(しんせい)ニシテ侵(おか)スヘカラス」。
 第四条は「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権(とうちけん)ヲ総攬(そうらん)シ此(この)ノ憲法ノ条規(じょうき)ニ依(よ)リ之(これ)ヲ行フ」。
 元首である天皇は、統治権を総攬(一手に握って手の中におさめること)になっていました。

 ● 統治機構が、いくつかもうけられました。

 【帝国議会】

 皇族(こうぞく)華族(かぞく)、および勅任(ちょくにん)の議員からなる貴族院、公選の衆議院からなる帝国議会については「天皇ハ帝国議会ノ協賛(きょうさん)ヲ以(もって)テ立法権ヲ行フ」(第五条)とされました。
 協賛は、趣旨に賛成し、その実行を助けることです。
 「天皇ハ法律ヲ裁可(さいか)シ其(その)ノ公布及(および)執行ヲ命ス」(第六条)ことになっていました。
 裁可というのは、君主が臣下の奏上(そうじょう=天皇に申し上げること)する案をみずから裁決し許可することです。
 「天皇ハ帝国議会ヲ召集シ其(その)ノ開会閉会停会(ていかい)及衆議院ノ解散ヲ命ス」(第七条)
 「① 天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又(また)ハ其ノ災厄(さいやく)ヲ避クル為(ため)緊急ノ必要ニ由(よ)リ帝国議会閉会ノ場合ニ於(おい)テ法律ニ代ルヘキ勅令(ちょくれい)ヲ発ス
 ② 此(こ)ノ勅令ハ次ノ会期ニ於テ帝国議会ニ提出スヘシ若(もし)議会ニ於テ承諾セサルトキハ政府ハ将来ニ向(むかっ)テ其ノ効力ヲ失フコトヲ公布スヘシ」(第八条)
 「天皇ハ法律ヲ執行(しっこう)スル為ニ又ハ公共ノ安寧(あんねい)秩序ヲ保持シ及臣民(しんみん)ノ幸福ヲ増進スル為ニ必要ナル命令ヲ発シ又ハ発セシム 但(ただ)シ命令ヲ以(も)テ法律ヲ変更スルコトヲ得(え)ス」(第九条)

 【陸海軍】

 統治機構の一つに陸海軍がありました。
 「天皇ハ陸海軍ヲ統帥(とうすい)ス」(第一一条)
 統帥は、軍隊を支配下におき率いることです。
 「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額(へいがく)ヲ定ム」(第一二条)
 兵額は、兵士の人数です。
 「天皇ハ戦(たたかい)ヲ宣(せん)シ和ヲ講(こう)シ及諸般ノ条約ヲ締結(ていけつ)ス」(第一三条)
 「① 天皇ハ戒厳(かいげん)ヲ宣告ス
 ② 戒厳(かいげん)ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム」(第一四条)
 戒厳は、戦時またはそれに準ずる非常の場合に、軍隊が行政権や司法権を軍隊が把握し、全国または一地域を管理し警戒することです。

 【国務大臣】

 国務大臣も天皇を輔弼(ほひつ)するためのものでした。
 「① 国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼(ほひつ)シ其ノ責(せめ)ニ任ス
 ② 凡(すべ)テ法律勅令(ちょくれい)其(そ)ノ他国務ニ関(かかわ)ル詔勅(しょうちょく)ハ国務大臣ノ副署(ふくしょ)ヲ要(よう)ス」(第五五条)
 輔弼は、天子の政治をたすけることです。

 【枢密(すうみつ)顧問】

 天皇の諮問機関、枢密(すうみつ)顧問は「枢密院官制ノ定ムル所ニ依(よ)リ天皇ノ諮詢(しじゅん)ニ応(こた)ヘ重要ノ国務(こくむ)ヲ審議ス」(第五六条)でした。
 諮詢は、参考として問い尋ねることです。

 ● こうした統治機構がもうけられましたが、すべて天皇コントロール下におかれ、天皇を助けるものでしかありませんでした。
 国家は臣民のためにではなく、天皇のためにありました。
 天皇は意のままに臣民を使役しみずからの野望を遂げようとしました。
 明治天皇は、「大日本帝国憲法」を発布以前から侵略戦争を開始し、昭和天皇も、それを引き続きおこないました。
 最初は、一八七四年(明治七年)の台湾出兵です。
 台湾の植民地化、朝鮮の植民地化、中国東北部へのかいらい政権の樹立、中国への侵略、アメリカ・イギリスへの宣戦布告と侵略戦争を拡大させました。
 兵士として二十歳以上の男性(のちには少年をふくめて。徴兵検査も十九歳に)が動員されました。
 侵略戦争に代表される天皇本位の政治は、国民の幸福と大きく矛盾しました。
 当然、異を唱える人々もあらわれました。
 それらの人々に天皇は天皇のためにつくすのが美徳だという洗脳と強圧をもって応じました。
 明治天皇は、一八九〇年十月三十日、「教育ニ関スル勅語」を発布しました。歴代天皇が国家と道徳を確立したと語り起こし、臣民の忠孝心が「国体の精華」であり「教育の淵源」であると規定する。続いて「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉ジ」など十二の徳目(道徳)を並べ、これを守るのが臣民の伝統であるとしました。これを子どもの教育の場で押しつけ、洗脳していきました。
 大正天皇は、一九二五年四月二十二日に治安維持法を公布しました (同年五月十二日に施行。天皇の勅令により日本の植民地であった朝鮮、台湾、樺太にも施行されまました)。
 これは、国体(天皇制)や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定されたものでした。
 多くの人々が、この法律で逮捕、投獄されました。小林多喜二のように拷問を受け殺された者もいます。
 日中戦争の最中、昭和天皇は通常の手段では戦争を遂行することができなくなり、一九三八年(昭和十三年)四月一日、国家総動員法を公布しました(同年五月五日施行)。戦時において、労働力ならびに軍需物資をはじめとするすべての資源、工場、資本から貿易・運輸・通信にいたるまで、経済部門を国家統制下に置くだけでなく、徴用・言論の統制など国民生活全般を著しく制限するとともに、平時におけるさまざまの干渉権限を政府に与えたものです。
 戦争の拡大について「軍部の独走」などに責任をかぶせる議論もありますが、明治天皇のつくった「大日本帝国憲法」の精神によれば、その軍部を統帥するのは天皇であり、統帥のミスもふくめて天皇の責任に属することです。
 この点で昭和の戦争について見ておきます。
 一九三一年九月の中国東北部への侵略は、出先の関東軍が引き起こし、その支援のために朝鮮軍が越境出動しました。
 これは天皇の事前の許可なしにおこなわれたものでしたが、その天皇が事後に「此度(このたび)は致方(いたしかた)なき」と追認しました。
 翌一九三一年一月、天皇は関東軍に特別の勅語を発し、戦争を「自衛」の行動として正当化したうえで、関東軍の奮闘をほめたたえました(「満州事変に際し関東軍に賜りたる勅語」)。
 一九三七年七月、日本は中国への全面侵略を開始します。
 七月七日、中国の北京近く盧溝橋(ろこうきょう)周辺で演習をしていた中国軍とトラブルを起こします。このトラブルは現地では話し合い解決にら向い、七月十一日、現地軍のあいだでは停戦協定が結ばれました。
 ところが、日本政府のほうが、このトラブルを全面侵略へのチャンスととらえ、停戦協定が結ばれたその日に近衛文麿政府は閣議を開いて大軍を派遣することを決め、軍隊をただちに送り込みました。
 戦争が始まると、すべて天皇と軍部がことを進め、その閣僚たちは、そのなりゆきにいっさいタッチできませんでした。
 一九四一年十二月八日、日本の連合艦隊がアメリカの真珠湾を攻撃し、アメリカ、イギリスとの戦争が始まりました。
 この作戦計画は、十一月八日、軍部が天皇に報告して承認を受けていました。
 しかし、東条英機首相・陸軍大臣は、このことを知らされていませんでした。東条は、十二月一日か二日ごろ、参謀総長から「実は、こうなっているんだよ」と、知らされたとのことです。
 一九四五年八月十五日、内外に膨大な犠牲を押しつけた天皇の侵略戦争は終わりました。
 それは、明治維新が生み出した天皇絶対の侵略主義、洗脳、強圧政権の政治的帰結でもありました。
 世襲の特定個人に一国の政治の権力を集中し、国民を、その家来として支配するという政治制度の破たんでもありました。

(以上)

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