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2008年8月

2008.08.01

高知市 やっほほほほーーーーーっ。試験が終わりました。

  二〇〇八年七月三十一日。
 
 十代と 二十、三十 六十代
 テーブル囲む
 試験直前
 
 三十一日夜、試験が終わりました。
 やっほほほほーーーーーっ。
 結構つらかった。

 娘と孫二人が東京からきてるのに「よしかずくんは、試験だから」と、いっさい相手にしていませんでした。
 だめジイでした。
 そろそろ、愛されるジイに変身しなくては。

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2008.08.02

高知市 高知短期大学のテストが終わりました。

 二〇〇八年七月三十一日。
 
 高知短期大学のテストが終わりました。
 短大分の十科目
 女子大分の三科目
 ハードでしたがやりきりました。
 優の見込みは二科目。
 可もありそうです。
 夏休みに、どう勉強するか。いろいろ考えているところです。

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高知市 「高知短大存続を求める学生の会」の集まり。

 二〇〇八年七月三十一日。

 高知短期大学のテストが終わったその日の夜、「高知短大存続を求める学生の会」の集まりが開かれました。
 僕も、この会に加わりました。

 この運動をどう発展させるか。これも僕の夏休みの課題です。

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2008.08.03

高知市 高知短期大学存続の運動を発展させるためどうしたらいいか。考え、行動した一日でした。

 二〇〇八年八月二日。

 夏休みです。
 ずーっと、高知短期大学存続の運動を発展させるためにどうするかを考え、そのために夜中まで行動した一日でした。

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高知市 あるホームページをつくりあげました。激闘、三日間でした。

 二〇〇八年八月三日

 やっと、あるホームページをつくりあげました。八月一日からの三人がかりの仕事でした。激しい注文に耐え、完成させてくれた I さん。感謝。感謝。

 夜、「こんなホームページができたよ」と、多くの人にお知らせしています。

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2008.08.04

高知市 娘、孫娘たちは、明日の朝、東京へ。うるるん……。

 二〇〇八年八月四日。

   娘、八歳の孫娘、四歳の孫娘

 ボラが飛ぶ 浦戸の海の 遊覧船
 しぶきの中の
 三世代乗せ

 さっと手を 差し出したりして
 愛情を 表現できてる
 得な四歳

 妹が みんなの愛を 独り占め
 四歳上の
 かわいい焼きもち

 「パパ、パパ」と 会いたくて泣く 八歳は
 父と離れて
 十数日だが

 食欲の 旺盛な子が みたりきて
 トイレあふれて
 レスキューを呼ぶ

 要求が 受け入れられない
 八歳は
 「おとなって変。わかんないわね」

 子や孫と まわるプールで 遊んでる
 天向いて浮き
 青い空見る

 わが庭の スイカずいぶん 役立った
 毎日、孫らの
 おやつになったよ

 三世代 しめて四人の 女らが
 くるくるまわり
 寝ている景観
 
 三日は、午後、浦戸にいき、夕方から、ひいじいさん、ひいばあさんらと食事。
 四日は、午後からプールへ。
 夜、やっと経済学の本を少し読みました。
 娘、八歳の孫娘、四歳の孫娘は、あす午前中、東京都に向けて出発します。

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高知市 「あんたって、本当に本を読むねー」の妻の言葉の意味。

 二〇〇八年八月四日。

 「あんたって、本当に本を読むねー」
 夜、寝ころんで経済学の本を読んでいたら、妻の、この声。
 子や孫がきて、あれこれと大変なのに自分だけ、悠々と本を読んで……という意味のようです。
 ま、ゆるしてたも。

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ホームページ「高知短期大学存続を求める学生の会」の「快進撃」。

 二〇〇八年八月四日。

  http://www.kochijin.com/f0f0tandai/

  ホームページ「高知短期大学存続を求める学生の会」の接続先です。
 八月三日に公開されました。

 ある専門家は、インターネットで「高知短期大学存続を求める学生の会」と打って「検索」して、このページまでくるようになるには一週間ほどかかるでしょうねといっていました。

 ところが、ところが、公開の翌日から、それが可能になりました。

 このホームページ、さいさきのいい出だしとなりました。

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2008.08.05

高知市 「これから毎日、僕が新聞を切り抜くから、あんたがA4の用紙にはっちょいてくれるかよ」。

 二〇〇八年八月五日。

 「これから毎日、僕が新聞を切り抜くから、あんたがA4の用紙にはっちょいてくれるかよ。それで、どこかボックスに入れておいて二人で使おう」

 本日午後、こういって、たまっていた切り抜きを妻に見せました。

 「何で私が、そんなことをせないかんが。自分のことは自分でやりや」
 こう、激怒するとおもいきや、なぜか反撃はありませんでした。

 夜、高知短期大学のサークル活動から帰ると、パソコンの上に切り抜きをはったのがバサっと載せてありました。

 うちの妻は女神のような優しい人です。

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2008.08.07

高知市 爆睡していて夜の会議に遅刻。なんたることか……。

二〇〇八年八月六日。

 また、やってしまいました。

 午前、作業。電話したり、パソコンで文書をつくってホームページにアップしたり……。

 そのうち、すぐ近くで某党の県、市議が街頭演説をしていたので、写真を撮って記事にしました。


 午後、義父、妻と野市へ。

 妻は、そのまま義父と市役所などへ。

 僕は、家に帰って寝ころんで明治天皇の数人の側室がどうのこうのという本を読んでいました。そしたら、、つい、ムムムムムム……。

 夜七時半ころ電話。
 「なにしゆうが。七時からはじまっちゅうに」
 日程表を見ると、確かに、そうなっています。
 八時ころに到着。

 なんとも様にならない六十一歳でした。

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2008.08.08

高知県 「学ぶとは、こういうことだったのか」。「高知短期大学存続を求める学生の会」のホームページの投書を読んで。

 二〇〇八年八月七日。

 「高知短期大学存続を求める学生の会」のホームページに同校の学生や卒業生の投書が載りはじめています。

 私も投書していますが、ほかのかたの投書を読んで触発され、「学ぶとは、こういうことだったのか」と、あらためて考えました。

 この会のホームページには、左上のリンクから飛べます。

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2008.08.09

高知市 ありゃまあ。恐るべき「尋人」事件のてんまつ。

 二〇〇八年八月八日。

 最近の出来事です。

 ある所で僕が、わが夫婦の名前を署名しました。
 そのとき、妻の名前を「尋人」と書いてしまいました。
 妻の名は「尋子」なのです。

 僕にも、どうしてそうしたのかは不明です。
 一瞬、どこか別の次元にワープしていたのでしょうね。
 これも「老い」の一現象でしようか。

 ところで、後ろにいて、「きっ」となった妻は、とっさに筆で「人」をバババっと消し、「子」に書きかえてしまいました。
 まわりの人は、ポカーンとしていました。

 「おじいさん」と「おばあさん」は、後は、お互いに何もなかったかのようなふりをしておりました。

 後で、ぞーっとしました。
 もし、「尋人」でなくて、「昔の恋人」(いたかな……)の名前でも書いてしまっていたら、尋子さんから鉄拳制裁を受けていたかもしれません。

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高知県 高知短期大学存続をの運動。ゴー、ゴーです。

 二〇〇八年八月八日。

 午前中から午後にかけて、独りで高知短期大学存続をの運動を広げる作業。

 夜は高知短期大学存続をの運動をどう広げるかの集まりに。
 一年生の仲間たち、二年生の仲間たち、先輩の安芸市の知り合いの女性、同じく先輩の高知市の近所の男性などもきていて、わいわい。
 一年生が積極的。五人は発言しました。
 明るい攻めの雰囲気でした。
 具体的に仕事の分担もしました。

 ゴー、ゴーです。

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高知市大津 「失せもの」は、夫婦仲を裂く。

 二〇〇八年八月八日。

 夜中に家に帰って妻と二人、「失せもの」の捜索。

 午前一時前になって、「あると思っていた場所」で発見。

 その間、二人で責任をなすりあったり(おもに僕が「口撃」しましたが)、敵対的状態に。

 失せものは恐ろしい。

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高知市大津 ある六十一歳の眠れない夜のこと。

 二〇〇八年八月八日。

 眠れない夜を過ごしています。

 早朝から名古屋市にいかなくてはなりません。
 戦争遺跡の研究会に出席するためです。

 しかし、もう午前二時近く。
 寝てしまうとの夕方まで起きそうにありません。

 でも、眠い……。

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2008.08.12

【愛知県で その一】 名古屋駅の改札を出た所のトイレ、地下鉄の構内のトイレにトイレットペーパーがありませんでした。

 二〇〇八年八月十一日。

 九日から十一日まで愛知県に。
 名古屋市の名古屋大学を会場に開かれた第十二回戦争遺跡保存全国シンポジウム愛知大会に参加のためです。

 三日間、ひさしぶりに愛知にいて、いくつかの発見がありました。

 その一。
 名古屋駅の改札を出た所のトイレ、地下鉄の構内のトイレにトイレットペーパーがありませんでした。
 ペーパー切れではなく、ペーパーを設置する所自体がないのです。
 いまどき、こんな駅ってありでしょうか。

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【愛知県で その二】 名古屋大学には平和憲章というものがあったんですね。 

 二〇〇八年八月十一日。

 その二。
 名古屋大学には平和憲章というものがあったんですね。
 感激しました。

 名古屋大学平和憲章

 わが国は、軍国主義とファシズムによる侵略戦争への反省と、ヒロシマ ・ナガサキの原爆被害をはじめとする悲惨な体験から、戦争と戦力を放棄 し、平和のうちに生存する権利を確認して、日本国憲法を制定した。
 わが国の大学は、過去の侵略戦争において、戦争を科学的な見地から批 判し続けることができなかった。むしろ大学は、戦争を肯定する学問を生 みだし、軍事技術の開発にも深くかかわり、さらに、多くの学生を戦場に 送りだした。こうした過去への反省から、戦後、大学は、「真理と平和を 希求する人間の育成」を教育の基本とし、戦争遂行に加担するというあや まちを二度とくりかえさない決意をかためてきた。
 しかし、今日、核軍拡競争は際限なく続けられ、核戦争の危険性が一層 高まり、その結果、人類は共滅の危機を迎えている。核兵器をはじめとす る非人道的兵器のすみやかな廃絶と全般的な軍縮の推進は、人類共通の課 題である。
 加えて、節度を欠いた生産活動によって資源が浪費され、地球的規模で の環境破壊や資源の涸渇が問題となっている。しかも、この地球上におい て、いまなお多くの人々が深刻な飢餓と貧困にさらされており、地域的お よび社会的不平等も拡大している。「物質的な豊かさ」をそなえるように なったわが国でも、その反面の「心の貧しさ」に深い自戒と反省がせまら れている。戦争のない、物質的にも精神的にも豊かで平和な社会の建設が、 切に求められている。
 今、人類がみずからの生みだしたものによって絶滅するかもしれないと いう危機的状況に直面して、われわれ大学人は、過去への反省をもふまえ て、いったい何をなすべきか、何をしうるか、鋭く問われている。
 大学は、政治的権力や世俗的権威から独立して、人類の立場において学 問に専心し、人間の精神と英知をになうことによってこそ、最高の学府を もってみずからを任じることができよう。人間を生かし、その未来をひら く可能性が、人間の精神と英知に求められるとすれば、大学は、平和の創 造の場として、また人類の未来をきりひらく場として、その任務をすすん で負わなければならない。
 われわれは、世界の平和と人類の福祉を志向する学問研究に従い、主体 的に学び、平和な社会の建設に貢献する有能な働き手となることをめざす。
 名古屋大学は、自由濶達で清新な学風、大学の管理運営への全構成員の 自覚的参加と自治、各学問分野の協力と調和ある発展への志向という誇る べき伝統を築いてきた。このようなすぐれた伝統を継承し、発展させると ともに、大学の社会的責任を深く自覚し、平和の創造に貢献する大学をめ ざして、ここに名古屋大学平和憲章を全構成員の名において制定する。
 一、平和とは何か、戦争とは何かを、自主的で創造的な学問研究によって 科学的に明らかにし、諸科学の調和ある発達と学際的な協力を通じて、平和な未来を建設する方途をみいだすよう努める。
 その成果の上に立ち、平和学の開講をはじめ、一般教育と専門教育の両 面において平和教育の充実をはかる。
 平和に貢献する学問研究と教育をすすめる大学にふさわしい条件を全構 成員が共同して充実させ、発展させる。
 二、大学は、戦争に加担するというあやまちを二度とくりかえしてはなら ない。われわれは、いかなる理由であれ、戦争を目的とする学問研究と教 育には従わない。
 そのために、国の内外を問わず、軍関係機関およびこれら機関に所属す る者との共同研究をおこなわず、これら機関からの研究資金を受け入れな い。また軍関係機関に所属する者の教育はおこなわない。
 三、大学における学問研究は、人間の尊厳が保障される平和で豊かな社会 の建設に寄与しなければならない。そのためには、他大学、他の研究機関、 行政機関、産業界、地域社会、国際社会など社会を構成する広範な分野と の有効な協力が必要である。
 学問研究は、ときの権力や特殊利益の圧力によって曲げられてはならな い。社会との協力が平和に寄与するものとなるために、われわれは、研究 の自主性を尊重し、学問研究をその内的必然性にもとづいておこなう。
 学問研究の成果が人類社会全体のものとして正しく利用されるようにす るため、学問研究と教育をそのあらゆる段階で公開する。
 社会との協力にあたり、大学人の社会的責任の自覚に立ち、各層の相互 批判を保障し、学問研究の民主的な体制を形成する。
 四、われわれは、平和を希求する広範な人々と共同し、大学人の社会的責務を果たす。平和のための研究および教育の成果を広く社会に還元することに努める。
 そして、国民と地域住民の期待に積極的に応えることによって、その研究および教育をさらに発展させる。
 科学の国際性を重んじ、平和の実現を求める世界の大学人や広範な人々との交流に努め、国際的な相互理解を深めることを通じて、世界の平和の確立に寄与する。
 五、この憲章の理念と目標を達成するためには、大学を構成する各層が、 それぞれ固有の権利と役割にもとづいて大学自治の形成に寄与するという 全構成員自治の原則が不可欠である。
 われわれは、全構成員自治の原則と諸制度をさらに充実させ、発展させる。
 われわれは、この憲章を、学問研究および教育をはじめとするあらゆる 営みの生きてはたらく規範として確認する。そして、これを誠実に実行す ることを誓う。

(1987年2月5日 名古屋大学豊田講堂にて制定宣言)

 以下、関連のホームページ。

 http://www.geocities.jp/heiwakensyou2006/

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【愛知県で その三】 半田市の中島飛行機衣糧倉庫跡の北側の外壁には、アメリカ軍機の機銃掃射の弾痕が生々しく残っています。

Photo

 二〇〇八年八月十一日。

 その三。
 半田市の中島飛行機衣糧倉庫跡の北側の外壁には、アメリカ軍機の機銃掃射の弾痕が生々しく残っています。

 案内看板から。

 機銃掃射弾痕

 半田市への本格的な空襲は、昭和20年(1945年)7月15日、硫黄島基地を発進した米軍のP51(ムスタング)戦闘機10数機によって行われました。3機から6機編隊に分かれたP51が、三波にわたり、半田市上空に飛来し、超低空からの攻撃を繰り返しました。
 市内とその周辺地域に急降下による機銃掃射を浴びせ、8名の市民の犠牲者を出しました。当時、中島飛行機の衣糧倉庫として使われていたこの「旧カブトビール工場」も激しく銃撃され、火災が発生し、一部が損傷しました。今もなお、その時の機銃掃射による多数の弾痕が北側壁面に残っています。

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【愛知県で その四】 『ごん狐』の新美南吉(にいみ・なんきち)に『ひろった らっぱ』という平和を願う作品があるそうです。

 二〇〇八年八月十一日。

 その四。
 半田市出身の新美南吉(にいみ・なんきち。1913年7月30日~1943年3月22日。満29歳没)に『ひろった らっぱ』という平和を願う思いを込めた作品があるそうです。
 新美は、『ごん狐』(1932年)などの作者です。

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2008.08.13

【愛知県で その五】 九十二体の軍人像。「童顔の 兵の像あり ああ、君は 死ぬ時なんと 叫んだろうか」。

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 二〇〇八年八月十一日。

 その四。

 愛知県南知多町の中之院(たぬき寺。石田公美住職)の境内の奥に九十二体の軍人像が並んでいます。
 一九三七年八月、中国での上海上陸作戦で戦死した名古屋の歩兵第六連隊の将兵の像です。
 同年七月七日の盧溝橋(ろこうきょう)事件で日中戦争開戦。急きょ派兵された歩兵第六連隊は中国軍の抵抗に遭い苦戦。戦死者一千人、負傷者二千人、死傷率80%に達しました。
 これらの軍人像は、遺族が戦死者への一時金をつかって、生前の写真をもとにつくらせたものです。
 高さ一㍍前後、軍装も表情も一体一体異なります。
 もとは名古屋市千種区月ケ丘にまつられていました。しかし、一九九四年に土地の所有者から立ち退きを迫られ、縁があって同院に移転したのです。

 境内の 九十二体の 戦死者像
 侵略の日の
 むごさを語る
 
 勲章を 光らせている 兵もいる
 その死で得たか
 軍人の像

 童顔の 兵の像あり
 ああ、君は
 死ぬ時なんと 叫んだろうか

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高知市 最近の短歌。「高知短大はテストの季節」。 

 二〇〇八年八月十三日。

  かなり前に送った短歌雑誌の原稿。

 本日、編集部にいったら着いていませんでした。

 そこで、妻の添削を得て、再送しました。

   高知短大はテストの季節

土、日と考え抜いて「おお、やっと」 「古事記の宇宙」リポートになる

裏表(うらおもて)記述式のみ十一問 二問残して無情のチャイム

「どうだった?」 テストの苦労ともにして同志になってく夜の学生

十代と二十、三十 六十代が テーブル囲む試験直前

見せ合うと二点負けてた このテスト まあ僕なりの金メダルだよ

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2008.08.15

高知市 第十歌集を出すことになりました。

 二〇〇八年八月十四日。

 なんと、第十歌集を出すことになりました。

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2008.08.16

高知市 「永国寺町の夜の教室から」の本の原稿ができました。

 二〇〇八年八月十五日。

 夕方まで、新しい本の原稿の編集。
 一度やって、また、作り直しました。
 結局、「永国寺町の夜の教室から」というタイトルの、この四月からのエッセイ、小論文集になりました。

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高知市 「現在日本資本主義の実態」の勉強。

 二〇〇八年八月十六日。
 
 八月十五日夜から夜中にかけて「現在日本資本主義の実態」の勉強。
 十六日も朝から正午まで、その勉強の続き。

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高知市 なかなかすごいぞ。最近の妻の発言から。

  二〇〇八年三月十六日。

 「篤姫(あつひめ)じゃ ないんだからね。そう変えな(着がえないで)」
 洗濯担当
 妻のいいよう

 「シャワーはね、水でやってね」
 そういって
 妻は自分は 湯を使ってる

 「年金は 明後日だからね」
 庭採れの 野菜ばかりが
 並ぶ食卓

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2008.08.17

高知市 高知短期大学存続を求める学生の会がホームページで「高知短期大学存続についての要望書」の署名活動を開始。

 二〇〇八年三月十六日。

 本日から高知短期大学存続を求める学生の会がホームページで「高知短期大学存続についての要望書」の署名活動を始めました。

 早速、何人か署名されています。

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高知市 赤い花のマンジュシャカの球根。咲かせたいですね。

 二〇〇八年三月十七日。

 「あんた、これ、何買ったの」
 妻の「レシート点検」が、きびしい。

 実は、昨日、十六日、赤い花のマンジュシャカの球根、ハクサイの種を買ったやつでした。
 もう、わが家のプランターや菜園に。

 マンジュシャゲ。好きな花です。わが家で咲かせたいですねえ。

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2008.08.18

高知市 何だか、朝から突っ走りました。

 二〇〇八年三月十七日。

 何だか、朝から突っ走りました。

 ● ホームページの「世話」。
 ● 買い物に。
 ● 本のゲラをもらいました。
 ● 歌会に出席。
 ● ゲラの校正。
 ● 妻の書いた原稿の添削や印刷。
 ● 歌会記の原稿書き。
 ● 戦争もののテレビ番組の視聴。

 さて、韓国行きの準備をして寝ましょうか。

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高知新聞朝刊、十四面の「ローカルジャーナル」に僕の短歌が一首載っていました。

  二〇〇八年八月十八日。

 高知新聞朝刊、十四面の「ローカルジャーナル」に僕の短歌が一首載っていました。
 以下の作品です。

 黒板の端から端へすべるよに動きまわって熱く説く人

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高知市 文学同人誌の入力、編集実務を担当することになりました。

  二〇〇八年八月十八日。
 
 おお、やっと歌会記の原稿が完成。ファクスで送信しました。

 そして、高知市の某所に向かい計五人で話し合い。

 古本二冊、ゲット。

 ある文学同人誌の入力、編集実務を担当することになりました。
 ソフトをゲット。

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2008.08.19

高知市 いま韓国行きの「追い込み」です。

 二〇〇八年八月十九日。

 いま韓国行きの「追い込み」です。
 高知短期大学の国際交流です。

 とにかく、「みなさんの前で、あいさつぐらいは、できなくては」ということで、あいさつ文をつくりました。

 内容は、つぎのとおりです。

 はじめまして。
 お会いできてうれしいです。
 藤原義一です。
 高知短期大学一年生です。
 四七年二月二十三日生まれです。
 高知の平和団体の研究員です。
 この国のトンマッコルを愛しています。
 (トンマッコルは、韓国映画「トンマッコルへようこそ」に出てくる架空の「あらそいを知らない、子どものように純朴な村」の名前です)
 日本の天皇の侵略戦争が、この国に与えた被害について、リアルに知りたいと思っています。
 ぜひ、事実を教えてください。
 よろしく、お願いいたします。
 
 これを、韓国語プラス英語でしゃべることにしています。
 どうしても韓国語でうまく発音できそうもない所が英語になりました。

 このあいさつ文、韓国語の先生、韓国に留学している学生、大学時代の後輩の英語の専門家に教えてもらって、やっとつくりました。
 いま、辞書を引いて発音の練習をしています。

 本日の夜中に高知市から夜行バスで大阪へ。そして、プサンへという予定です。
 僕と入れ替わりにカンボジア、ベトナムを旅行していた弟が帰国し、東京都の息子と、その「つれあい」が高知市にやってくることになっています。

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「大東亜戦争」の時代 高知県の二十二人に話を聞きました その一

 二〇〇五年七月から二〇〇七年七まで、戦争中、高知県の子どもや青年は、どういう状況に置かれ、何を考えていたのかを知りたいと何人もの人たちから話を聞いてきました。まとめてみたら二十二人から聞いていました。こんな話です(引用は、いずれも「しんぶん赤旗」です)。

 【召集され中国戦線に投入された人】

 土佐清水市の矢野川俊喜さんは召集され中国戦線に投入されました。
 「一九四四年に徴兵検査を受け、同年九月に陸軍二等兵(歩兵)で中国にいきました。
 行って民衆の苦痛を目の当たりにし『ああ、これがはたして聖戦か』と思うことが多々ありました。
 中国人虐殺の現場にも立ち会いました。
 いった直後、初年兵教育を受けている時でした。上官から、後ろ手にされて立っている中国人の心臓を銃剣で突けといわれました。誰も応じる者がなく古い兵隊が突きました。
 行軍の途中、食料の補給がないものですから、中国の農家から食糧を奪いました。
 何回も日本軍が通過していますから大きな道の周辺の家にはもうとるものがありませんでした。
 武装して何キロも離れた山あいの集落へ略奪にいったことが二度ありました。子どもと年寄りの女性しかいませんでした。倉庫に入ってひっくりかえして米をさがしました。すると年寄りの女性が出てきました。私は彼女に銃剣を突きつけました。『食料は出すから命だけは助けてくれ』と彼女はいいました。
 戦争というのは勇ましいことしか宣伝されませんが、実態はこれかと思いました。その時にふるさと、三崎(現・土佐清水市)を思い出しました。三崎がこういう目にあったらと思い、『勇敢なる戦士』が戦意を喪失しました。」(二〇〇五年十月二十八日、中四国版)。

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「大東亜戦争」の時代 高知県の二十二人に話を聞きました その二

 【エンジン部分の前に穴が開いている戦闘機】

 高知市の瀬戸鉄男さんは、海軍に志願します。
 「私は、兵庫県の川西航空機鳴尾製作所の工員でしたが、海軍に志願しました。一九四三年五月のアッツ島の日本軍守備隊が『玉砕』した直後でした。
 忠君愛国の思いからでしたが、一方では『どうせ軍隊に入るなら、せめて自分で兵科を選択したい。徴兵で陸軍にいって玉砕はたまらない。志願して海軍の整備兵になりたい』という思いでした。
 四四年九月、神奈川県の第二相模野海軍航空隊に入隊することになり、高知市御畳瀬(みませ)の自宅から出征しました。
 生きて帰れるようにゲンをかつぎました。北の方向から出なさい、家を出たら母が私の名を呼ぶが振り向いてはいけない…。『鉄男よーっ』の声に振り向かないでいきました。この時の悲壮感は生涯忘れません。
 第二相模野海軍航空隊で三カ月間、新兵教育を受けました。一人、逃亡者が出ました。みんなで探し出して、営倉に放り込まれました。もう一人は便所で首をつって自殺しました。
 翌年一月から隣の第一相模野航空隊へ変わりました。三カ月で練習生を卒業して修理の担当になりました。まともな戦闘機はありませんでした。弾丸を受けて胴体や主翼に穴が開いていました。
 エンジン部分の前に穴が開いている戦闘機もありました。
 班長に『これは穴の開いた個所が重要な場所だけに(ジュラルミンの)補強を当てても意味がないですよ。全体を変えないと』というと、『そんなことは、どうでもよい。片道だから』といわれました。
 『そうか。これに乗っていくのは特攻兵だな』と思いました。
 川西航空機にいた時、戦利品のアメリカ軍の戦闘機を見ましたが、撃たれても発火しないように分厚い生ゴムで燃料タンクを防護してありました。それとはえらい違いでした。」(二〇〇六年一月十二日、中四国版)。

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「大東亜戦争」の時代 高知県の二十二人に話を聞きました その三

 【アメリカの戦車の下に飛びこむ訓練を……】

 高知市の市川昌(あきら)さんが、海軍少年飛行兵になったのも、瀬戸鉄男さんが海軍に志願したのと同じころでした。
 市川さんは、一九四一年十二月八日の太平洋戦争開戦の時は十六歳。開戦を知って「早く戦争にいってお国のために役に立ちたい」と思ったといいます。
 「高知県下半山村(しもはんやまむら。今は津野町)の農家の息子です。十七歳で海軍少年飛行兵を受験しました。
 三度目に合格し、一九四三年六月、鹿児島市の鹿児島海軍航空隊に入隊しました。二十二期乙種飛行予科練習生です。
 四五年三月、アメリカの空襲で鹿児島海軍航空隊の兵舎は焼けてしまいました。基地もなし、私たちの乗る飛行機もないということで、私たちの航空兵としての訓練はできなくなりました。
 県下の国分(こくぶ)基地、鹿屋(かのや)基地、第二国分基地を転戦しました。丘陵に掘った壕(ごう)で生活し、アメリカ軍機の空爆の合間をぬって、上陸してくるアメリカの戦車を攻撃する訓練をしました。
 爆弾に見立てた物を背負ってたこつぼに潜みます。戦車に見立てたものがきたら、爆弾に見立てた物を持ってはっていってキャタピラの下に飛び込みます…。
 毎日のように、先輩少年兵が腹に二百五十㌔爆弾を抱いた零戦で沖縄県沖のアメリカ軍の艦船に体当たりするために飛び立ちました。燃料は片道です。飛び立って体当たりするまで二時間くらいです。
 ある先輩の少年兵は『死ぬまでに二本あればいい』といって、たばこの残りを見送っていた私たちにくれて飛び立っていきました。
 兄は三十歳を過ぎてから召集で海軍に入隊し、四五年三月三十一日、長崎県大村でアメリカ軍機の爆撃にあい戦死しました。
 私たちの村でも多くの家から一人から三人の戦死者がでました。」(二〇〇五年十二月八日、中四国版)。

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「大東亜戦争」の時代 高知県の二十二人に話を聞きました その四

 【第一乙種合格者も徴兵されて……】

 土佐市の小川健次郎さんが語ります。
 「私は高知県立弘岡農業学校の助手をしていましたが、四四年一月、陸軍に志願し高知の連隊に入隊しました。十九歳でした。そして、四五年二月、福岡県の基地で独立迫撃砲大隊の小隊長として服務しました。
 衛生状態が悪く、入隊して幾月もたたない若い兵隊がチフスやコレラに倒れました。
 同年七月ころ、福岡第一陸軍病院に亡くなった兵隊の遺体を受領しにいきました。
 病棟はほとんどつぶされていて、連隊の武徳館らしき建物の中に五百人近い患者がいました。寝台は五つくらいしかなく、板張り床に毛布一枚を敷いた上にやせこけて目がうつろになった兵隊がぎっしり横たわっていました。上半身はシャツ一枚をはおり、下半身はなにもつけていませんでした。腰の下には血の混じった汚物がへばりついていました。毛布にも通路にも汚物がいっぱいでした。」(二〇〇六年一月十二日、中四国版)。
 十九歳のとき徴兵検査を受け、近視で第一乙種合格だった高知市の渡邉進さんも、一九四五年八月十三日、高知市朝倉の西部第三四部隊に入隊しました。
 「いずれ戦死するのだ、死ぬのは時間の問題だと思っていました」(二〇〇五年八月十八日付、中四国版)。

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「大東亜戦争」の時代 高知県の二十二人に話を聞きました その五

 【戦争の波に呑まれていく教師と子ども】

 高知市の坂本安さんは、戦争の進展の中で学校も、その波に呑まれていったことを教えてくれました(二〇〇六年十一月二十九日、中四国版)。
 坂本さんは一九三八年四月、高知県土佐郡朝倉村(今は高知市)の朝倉尋常高等小学校の訓導(教師)になりました。
 同校は、四一年四月には国民学校に。
 「この年十月、朝倉国民学校は近くの歩兵第四四連隊に占拠されました。召集兵が兵舎に入り切れなくなったという理由でした。学校は兵舎になり運動場は練兵場になりました。児童は製紙工場や寺、神社に分散して授業を受けました」
 その二カ月後、十二月八日、天皇はアメリカ、イギリスなどと太平洋戦争を開始しました。
 坂本さんは、産休をとり、四二年一月に学校に復帰。子どもたちは学校に帰っていましたが、学校の雰囲気はガラリと変わり、小型の軍隊のようになっていました。
 子どもたちは毎日のように運動場に出て足を高く上げ兵隊のように行進しました。校長は壇上に立ち、その前を通るものに「校長先生にカシラー、右」をさせます。子どもたちは朝倉神社への戦勝祈願に動員されました。出征する兵士を見送りに朝倉駅へいき、「英霊」を迎えにいきました。
 高知市の森本憲二郎さんは、国民学校ので子どもたちに早く兵隊にと説いていました。
 「私は一九四一年四月、高知県土佐郡土佐町の石原国民学校の教師になりました。尋常小学校が国民学校になった時です。
 当時の教育は、国家の統制や命令の下にありました。県の視学が学校を巡り授業が国の定めた目的どおり行われているかチェックしました。
 各教科の内容は国家主義、軍国主義で貫かれ、その根幹には教育勅語がありました。私たちは、いざという時には戦争に行って天皇のために死を恐れず突進する勇気をもちなさいと教えました。
 日本軍の占領地が増えるたびに教室の前の大きな世界地図に「日の丸」の小旗をはり、戦意高揚につとめました。
 学校に『少年兵何人』『満州開拓に何人』と募集人員を割り当て、目標達成をうながしてきました。私たち教師は、この国策にこたえて校区の家庭を訪ね、父母と子どもに『行け。少年兵』『めざせ。満州へ』と説得してまわりました。そして、教え子六人を少年兵に、三人を満州開拓戦士として送りました。
 体力がなくて乙種第二合格だった私も四四年春、高射砲部隊に召集されました。」(二〇〇六年十一月十六日、中四国版)。

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「大東亜戦争」の時代 高知県の二十二人に話を聞きました その六

 【戦争の中、子どもたちはどうしていたでしょうかの】

 そのころ子どもたちにも、話を聞きました。、
 高知市の植田幸作さんは「私も戦中の、いざというときには戦争にいって天皇のために死になさいという『教育勅語』の教育を受けました。」と、語ります。
 「高知市の小高坂(こだかさ)国民学校に通っていました。毎朝、校門を入った所にある昭和天皇、皇后の写真が入った奉安殿(ほうあんでん)に『気を付け。礼』をしました。毎月八日の太平洋戦争『完遂』の決意を固めあう『大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)』の朝には全校児童が講堂に集められました。校長がうやうやしく『教育勅語』を読み上げるのをうつむいて聞きました。」(二〇〇六年十一月十日、中四国版)。
 高知市の住む宮本尚(ひさし)さんは、一九四五年春、高知県上倉村(あげくらむら。今の南国市)奈路の第二国民学校五年生になりました。当時のことを教えてくれました(二〇〇六年七月十五日付、中四国版)。
 朝礼では、皇居の方を向いて深く礼をし、天皇の世よ続けという「君が代」を斉唱、そして、校長の指導で、戦争で命をかけて天皇を守れという「教育勅語」「青少年学徒に賜(たま)わりたる勅語」を唱和しました。体操の時間には木銃を構えて突撃訓練、「爆弾」がわりの枕を持って「敵」の戦車に飛び込む訓練もしました。「米軍がきたら突っ込む」。尚少年は、そう思っていました。
 課外活動は、午前中は神社での出征兵士を送る会で「万歳」を唱え、午後は役場近くで白木の箱に入れられた「無言の兵士」に最敬礼をしました。家に帰れば供出用のコウゾ、クワの皮むき…。
 香美市の岡崎桜雲さんは、一九四五年春のことを語ってくれました。
 「私は山田町(今の土佐山田町)に住んでいました。傘づくり仕事をしていた父は、徴用されて広島県の呉海軍工廠(こうしょう)で働かされていました。四学年上の兄は、満蒙開拓青少年義勇軍に入りましたが脱走中でした。姉の夫は、徳島の陸軍に徴兵されていました。
 私は、母と山田町に住み、山田国民学校の六年生でした。前年秋から右足の骨髄炎が発病して、苦しんでいました。
 山田町もアメリカ軍の艦砲射撃に襲われるということで避難勧告が出ました。私は、姉と一緒に瓶岩村外山(かめいわむらとやま)=今の南国市=の山の中の親せき宅に疎開しました。
 家族が、それぞればらばらの地で苦しんでいました。」(二〇〇五年九月三日、四国版)
 高知市の岡崎清恵さんは、一九四五年夏は、高知市長浜に住んでいました。市内の県立海南中学校の三年生でした。同校の様子を教えてくれました(二〇〇六年七月十六日、中四国版)。
 学校の教育は国家の意思を子どもに押しつけるものでした。日本を「神の国」とし、他国民を蔑視(べっし)し、「万世一系の天皇のために名誉の戦死を!」ということを教えました。
 「♪散るべき時に 清く散り 皇国(みくに)に薫れ 桜花」という「戦陣訓の歌」を、銃を持っての全生徒の夜行軍の時などにうたいました。
 毎日の朝礼では宮城(きゅうじょう)を遥拝し、校長や配属将校の戦況などの話を聞きました。
 教室の黒板の上には「戦陣訓」の額が掲げられていました。「死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。生死を超越し一意任務の完遂に邁進(まいしん)すべし…」。生徒たちは、朝に夕に教室で唱和しました。
 軍隊は天皇が統率しているという「軍人勅諭」も覚えさせられました。

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「大東亜戦争」の時代 高知県の二十二人に話を聞きました その七

 【本土決戦に巻き込まれていく高知県の変化の中で】

 高知市の茂松延章さんは、地域が本土決戦の準備に巻き込まれていった様子を語ってくれました。
 「三里地域は太平洋戦争の時、本土決戦の準備で地域ごと特攻態勢に巻き込まれました。
 海軍が、畑をつぶし松林の墓地を共同墓地に移して浦戸海軍航空隊を開隊しました。一九四四年十一月一日のことです。
 しかし、私が飛行場から飛んだ練習機を見たのは一回だけです。翼を布で張った飛行機でした。
 いまその跡にある碑には、四五年五月に入り、ここの練習生は「敵を水際に撃破すべく日夜陸戦特攻訓練に終始し」たとあります。
 そこの兵隊だったかどうかわかりませんが、三里国民学校に十代らしい海軍兵たちが二十人くらい駐屯していました。
 毎日のように私の家の畑などに国民学校から浜に移動するための散兵壕(さんぺいごう)を掘っていました。
 浜の松林で特攻訓練もしていました。
 四人が木でつくったアメリカの戦車を持ってかけました。松の木の根っこにつくったタコツボに潜んでいた一人が木でつくった爆弾を持って、その戦車に飛び込んでいくのです。
 私は海南中学校の一年生で、三里国民学校のすぐ近くに住んでいました。兵隊たちは、昼すぎには私の家にきて『おばちゃん。何か食べる物ちょうだい』といっていました。
 兵たちの姿を見て私も四年生になったら海軍兵学校に入って後に続こうと思っていました。」(二〇〇七年五月十九日、中四国版)。
 一九四五年春。土佐湾の海岸線には陸軍のトーチカが並び、海軍の人間魚雷「回天」、ベニヤのボートの先のほうに爆弾を積んだ水上特攻艇「震洋(しんよう)」、魚雷艇が配備されていました。
 高知市の下司孝さんは、当時、高知市帯屋町の町田病院精神科の科長と郊外あこめの海岸沿いの精神病保養院精華園の園長をつとめました。
 「四五年になって園の東にある海岸に海軍の特別攻撃艇『震洋(しんよう)』の基地ができました。御畳瀬(みませ)の北側です。その時、海軍は園の南の山の松の大木を何本も切って徴発しました。園長の私にも無断でした。艇を隠す横穴壕(ごう)の支えにするつもりだったのでしょうか。
 米軍航空機が北から急降下して園を爆撃し、園の南の山を越した所に落ちました。私は二十㍍の違いで最悪の事態を免れることができました。
 食糧不足でした。園内菜園の補給では追いつかず、栄養失調になり、腹がふくれて死亡する患者が出ました。」(二〇〇六年八月十日、中四国版)。
 前出の岡崎清恵さんが語ります。
 「料理屋だった私の家の二階にも魚雷艇の兵隊が十人ほど寝泊まりしていました。
 私も動員され、高知市の五台山の赤松を二㍍の長さで切り出しました。陸軍が海岸に塹壕(ざんごう)をつくるためのものでした。
 七月四日午前二時ころ、アメリカ軍の爆撃機が高知市を空襲しました。夜が明けて、歩いて学校にいきましたが、兵器庫など木造の建物はすべて焼け、講堂と鉄筋の本館のビルだけが残っていました。本館の屋上には、いたるところに焼夷(しょうい)弾の落ちた跡がついていました。
 毎日のように空襲警報があって落ち着いて寝られず、その上、食糧不足にも悩まされました。」(二〇〇六年七月十六日、中四国版)。
 高知市朝倉の窪田一郎さんは、山にも横穴が掘られたことを教えてくれました。
 「……朝倉のいまの高知大学、養護学校、印刷局は陸軍歩兵第四四連隊の兵舎でした。
 私の家は、兵舎のすぐ近くでした。家の前を朝、夕、兵隊が隊歌を歌いながら行進していきました。近辺には、あらゆる戦争訓練をする練兵場、実弾訓練をする射的場、塹壕戦(ざんごうせん)の訓練をする作業地、陸軍病院、陸軍墓地(現存)の陸軍施設がありました。
 一九四五年四月、満州(中国東北部)にいた四四連隊が本土決戦に備えるということで高知に帰ってきました。
 私たち朝倉在住の中学生(一年―三年)は、五月ころから朝倉のアジロ山(網代山)の北斜面に陸軍のトラックを隠す横穴を掘りました(この十四日にいったら、横穴が三つ残っていました)。」(二〇〇七年五月十七日、中四国版)。

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「大東亜戦争」の時代 高知県の二十二人に話を聞きました その八

 【一九四五年六月七日の空襲で高知女子医学専門学校予定地が全焼】

 前出の下司孝さんは、七月八日に高知市に開校する高知女子医学専門学校の教授にと請われ、出向することになりました。戦地に取られて人手不足になった内地の医師養成です。
 しかし、校舎に予定していた所が六月七日の空襲で全焼しました。
 「空襲を予感した私は前夜に佐川町の知人宅に疎開していました。校舎焼失を知り、すぐ町内の国民学校、青年学校、寺を探して医専疎開を交渉しました。高知市に引き返し城東中学にいた知事と校長に報告して即決で佐川で開校となりました。」(二〇〇六年八月十日、中四国版)。

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「大東亜戦争」の時代 高知県の二十二人に話を聞きました その九

 【一九四五年七月四日、アメリカ軍爆撃機の高知市空襲】

 一九四五年七月四日、アメリカ軍のボーイングB29爆撃機百二十五機は、高知市を空襲しました。午前一時五十二分から約一時間、じゅうたんをしきつめるように焼夷弾(しょういだん)を落としました。
 高知市の仁尾京子さんは、六十一年前の一九四五年夏、五歳で高知市弘岡町(現・南はりまや町)に住んでいました。母と赤ん坊の弟と三人暮らしでした。父は、四二年に海軍の兵隊として出征していました。
 アメリカの空襲がひどくなり、毎日のように空襲警報が出ました。
 「七月四日夜中、『空襲警報発令』の声でとび起きました。母、弟と一緒に鏡川の河原の町内の共同の防空壕(ごう)に逃げ込み、奥のほうに座り込んでほっとしました。
 壕の外はズドーン、バリバリという音がしていました。その時、壕の外の戸を激しくたたきながら『開けて、開けて。熱い、熱い』という女性の叫び声がしました。男性が「もう戸は開けれんき、外と内の戸のすき間にもぐり込め」と、怒鳴りました。みんな黙り込み、私は『開けちゃったらいいに』と思いながらもすくみあがりました。
 戸をたたく音、『開けてくれ』の叫びが続いていました。『あっ! あの声は電車通りの女学生のお姉さんだ』
 やがて、空襲が終わり、二重扉が開けられました。熱風が吹きつけてきました。向こう岸の土手の木がごうごうと音をたてて燃え上がっていました。鏡川は人々で埋めつくされていました。
 母に手をひっぱられて、倒れている人につまずきながら下ばかり見てヨロヨロ歩きました。そんな時、倒れている誰かの目が動いた気配がしました。真っ黒に焦げた人間が、私の目をじっと見ていました。
 お姉さんでした。私の目を見たまま『水、水ちょうだい』と、つぶやいて目を閉じました。
 自宅も焼け、市内の借家に引っ越しました。」(二〇〇六年八月十三日、中四国版)。
 高知市の岡村正弘さんは、高知市立第一国民学校二年生でした。空襲を受けた体験を聞きました(二〇〇六年六月月二十三日、中四国版)。
 その夜、正弘さんは、市内掛川町の家で父、母、商業学校二年生の兄、国民学校六年の姉、二歳の妹と一緒に寝ていました。空襲が始まり岡村さんは母、妹と五十㍍ほど先の畑の中の町内の共同の防空壕(ぼうくうごう)へいきました。
 ぎゅうぎゅうづめで息苦しくなった正弘さんは「ここにおらんといかん」という母の手を振り切って家に帰りました。家では父、兄が火を消していました。父の「川へいけ」の声で、姉と一緒に近くの鏡川の北の河原に逃げました。
 河原は人でいっぱいでした。ここで初めて空を見ました。飛行機の音、爆弾の落ちてくるゴーという音、バーンという爆発音。対岸は、ぜんぶが焼け上がり、背後の炎が迫ってきます。川でも焼夷弾が燃えています。「おかあちゃーん。おかあちゃーん」と泣きながら河原をさまよいました。
 目の前を体に火がついた人が走ってきて川に飛び込みました。まわりの人が引き揚げ、戸板に乗せました。共同の防空壕の責任者の男性でした。父が「防空壕には、まだ人がおったか」というと「おった」とうなずいて亡くなりました。
 まだ地面が熱いうちに、その防空壕にいきました。焼けて、つぶれて煙が出ていました。まわりの人や兵隊が掘ると、出入り口の階段に十人くらいが重なっていました。
 正弘さんは、すぐ近くで息を殺して見ていました。母の遺体も出てきました。焼けただれて誰かわからない状態でしたが、着物の一部が残っていて母とわかりました。妹を抱きしめていました。
 高知市の穂岐山禮(ほきやま・れい)さんは、当時、高知県立第二高等女学校二年生。一家は、高知市小津町の寺田寅彦邸の一棟を借りて住んでいました。
 「突然、頭上で爆音が響いて六角形の焼夷(しょうい)弾が、かやぶき屋根を貫いて、寝ていた母と私の布団の周りの畳に何発も突き刺さりました。逃げおおせて火の手が収まってから帰ってみると、街は焼け野原でした。わが家は焼けてしまっていて、百五十坪余りの敷地に二百発以上の焼夷弾が落ちていました。
 道端は焼けただれた死体でいっぱいでした。市内九反田の親せき宅にいったら、母の母、母の姉、その姉の息子が焼け死んでいました。」(二〇〇六年六月二十一日、中四国版)。
 国民学校三年生の植田幸作さんは、この空襲で、高知工業学校建築科一年生だった兄を失いました。アメリカが高知市に落とした焼夷(しょうい)弾の不発弾が破裂し、その破片が兄の腹に刺さったのです(二〇〇六年十一月十日、中四国版)。

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「大東亜戦争」の時代 高知県の二十二人に話を聞きました その十

 【一九四五年八月九日午前零時、ソ連が参戦】

 一九四五年八月九日午前零時、ソ連が参戦します。
 四万十市の谷崎等さんは、一九四四年一月に陸軍に召集され、満州(中国東北部)のソ連との国境近くに駐屯しました。
 「ソ連軍が攻め込んできて日本軍は総崩れになりました。銃声、砲声が鳴り響き、周囲は火の海。その中を、夜十時ころ、逃げ遅れた若い日本人の母親が背中に子どもをおぶい、もう一人の幼児の手を引いて、とぼとぼと歩いていました。今でも、その姿を忘れません。」(二〇〇六年六月十日、中四国版)。

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「大東亜戦争」の時代 高知県の二十二人に話を聞きました その十一

 【一九四五年八月十五日、終戦】

 一九四五年八月十五日、終戦。
 前出の瀬戸鉄男さんが、語ります。
 「八月十五日の終戦の時は、海軍が接収した静岡駅前のデパートの地下室にいました。ここが派遣隊になっていて、戦闘機のエンジンの組みたてをやっていました。
 終戦の『玉音放送』を聞き『やれやれ、これでやっと命が拾えた。これでおふくろに安心させてやれる』と思いました。」
(二〇〇六年八月十一日、中四国版)。
 八月十三日、高知市朝倉の西部第三四部隊に入隊していた渡邉進さんは、二日後の十五日午後、行軍から帰る途中、伊野町(いのちょう)で敗戦を知りました。
 「とまどいました。一緒に入隊した軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)をすっかり暗唱するほどの者に『どうしたらいいだろう』と聞いたら、彼は『僕は、いぬる(家に帰る)」といいました。
 おおそうか、『いぬる』という手があったのか。その一言は『生きては帰れない』と覚悟していた私を軍国の呪縛(じゅばく)から解き放してくれました。」(二〇〇五年八月十八日付、中四国版)。
 下司孝さんが語ります。
 終戦の放送は、高知女子医学専門学校講堂で下司が代表で聞きました。すぐに生徒たちに話しました。
 「われわれは、これから何をなすべきか。日本を復興するには科学によるしかない。フランスのパスツールを学ぼう。彼は細菌学者であるが、生物の自然発生論を打破しブドウ酒の低温殺菌を発見して、国の産業を興し、狂犬病予防法発見のほか、パスツールの予防接種で牧畜業者の福音となるなど医者のみならず広い分野で活躍してフランスを救った。彼に学んで日本を再建しよう。…」
 「生徒たちは泣く暇はありません。すぐに勉強を始めました。こうして私の戦後は始まりました。」(二〇〇六年八月十日、中四国版)。
 仁尾京子さんは、高知市内の借家のラジオで天皇の放送を聞きました。 祖母が「戦争が終わったがやろうか」と、いいました。
 それを聞いて「もう逃げるにようばん(逃げる必要がない)」と、うれしかったことを覚えています(二〇〇六年八月十三日、中四国版)。
 岡崎桜雲さんは、終戦を知って「『終わった』と、思いました。『これで何か新しい天地が始まるという感じだったと思います。」と、いいます(二〇〇五年九月三日、四国版)。
 「数日して、ついていた二本の松葉づえを谷川に捨て、一人で歩いて、休み休みしながら、ようやく山田の家に帰り着いたのを印象深く覚えています。」
 宮本尚(ひさし)さんは、天皇の敗戦のラジオ放送を聞いても「『負けた』ということの感覚がしばらくわかりませんでした」。
 「物心ついた時から、こうした愛国心、戦争することを何とも思わない心を植えつけられることは恐ろしいことです」と、述懐します(二〇〇六年七月十五日付、中四国版)。
 香美市の猪野睦さんは、日本が植民地にしていた朝鮮に住んでいました。
 「日本が植民地にしていた朝鮮に住んでいました。
 一九四五年八月十五日の終戦のときは十四歳。師範学校に通っていました。玄海灘をぼろ漁船に十日間近く乗って同年十月末に帰国。列車で土佐山田に向かいました。博多駅、広島駅、岡山駅、高松駅…、街はアメリカの空襲で焼かれてのっぺらぼうでした。」(二〇〇五年十一月三十日)。

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「大東亜戦争」の時代 高知県の二十二人に話を聞きました その十二

 【帰ってこなかった多くの人々のこと】

 戦地から帰ってこなかった人たちもいました。
 高知市の今井光枝さんの夫も戦争にとられました。
 「高知市の製紙工場の事務をとりながら詩誌『南方文学』、『南方詩脈』などをだしていました。私たちは詩作が縁で一緒になりました。夫は、昭和十八年(一九四三年)、三十四歳のとき、軍の紙をつくるために事務員としてフィリピンのマニラにわたり、現地召集で陸軍二等兵として比島派遣軍10686部隊に配備されました。
 昭和二十二年(四七年)秋、戦争が終わってルソン島から帰還したという数人の兵に夫の消息を尋ねました。彼らは骨と皮、日焼けした黒い肌で、目ばかりぎょろりと光らせてぼそぼそと話してくれました。
 その部隊は、マニラより山奥へ敗走し、爆弾やマラリアで多数死んだ、ヘビ、ミミズ、草の根まで食べたと…。
 同年冬、高知県知事名の「死亡告知書」が届きました。四五年六月三十日、フィリピンルソン島ラグナ州イボで戦病死したということでした。
 「昭和二十二年 冬/還ってきた遺骨箱の軽さに愕然(がくぜん)/ひと握りの土が白紙に包まれて/ひっそりと何かを語っていた…」
 昨年書いた「抗(あらが)い」という詩の一節です(詩誌『花粉帯』五号に掲載)。
 娘は十二歳。息子は三歳。夫は息子の顔を見ないまま亡くなりました。」(二〇〇七年六月三日、中四国版)。
 高知市の中内理津子さんは「私は父の顔を覚えていません。父は私が生まれる前に徴兵され、そして、戦死しました」といいます(二〇〇七年七月十七日、中四国版)。
 「父・阿佐義盛の長男あての『戦死の公報届きし後開くべし』とした遺書が十二年前、『妻よ、子どもたちよ、最後の祈り 昭和の遺書②』(辺見じゅん編。角川書店)に載りました。兄が提供したものですが、私は、この本で初めて遺書のことを知りました。
 『お父様は世紀の変革、東亜を否之(いなこの)日本を征服して我々を、そして子や孫を奴隷の様に扱かわうとする横着(おうちゃく)な奴等(やつら)を退治する為の聖い尊い戦に行つて…』とのべ、『一億の我も一人ぞ 大君の/醜(しこ)の御盾(みたて)と往(いゆ)き散りなん』の短歌を書いていました。
 侵略戦争だった太平洋戦争を聖戦とし、昭和天皇のために死ぬなんて…、すごくだまされていたんだなぁと思います。
 父は、徳島県出身で、高知県大川村の日本鉱業株式会社白滝鉱山に勤めていました。母、母のおなかの中の私、五つ上の長兄、三つ上の次兄を残して徴兵されました。
 終戦後の四八年、父の戦死の公報が届きました。陸軍フィリピン派遣威第一八九一六部隊野村隊上等兵で四四年九月二十四日、フィリピンで戦死したと。三十三歳でした。」
 高知市の川村高子さんが、語ります。
 「私は、五人きょうだいです。私が一番上で、次が弟・河野春生(こうの・はるお)。陸軍に召集され朝鮮で猛朝部隊に入隊しました。四三年ころから便りがこなくなり心配していました。
 その下の妹・勝巳(かつみ)は結婚して岡山市にいましたが、四五年六月二十九日午前二時四十分ころから約二時間のアメリカによる岡山大空襲で殺されました。
 高知から妹を捜しに出かけた父が妹の遺体を発見しましたが、全身黒こげだったといいます。脇の下に焼け残った小さな布で妹と確認できました。妊娠二か月、二十二歳でした。
 四六年七月、高知地方世話部長名で、春生の『死亡告知書』が父のもとに届きました。四四年一月二十九日、『東部ニューギニアガリ方面』で戦死、腹部砲弾破片創とありました。亡くなった時は、二十四歳でした。
 父と私で高知市の昭和国民学校に遺骨をとりにいきました。受け付けで『お見舞金です』と五百円を渡されましたが、父は『大事な総領息子と五百円を引き替えにしたか』と大粒の涙をぽたぽたと落としました。
 父母の悲しみを見るにつけ、私は、子どもの片手、片足をもいででも戦争にはいかさないと思いました。「戦争は絶対反対」の思いで生きてきました。」(二〇〇七年七月十九日、中四国版)。
 国民学校の教師だった森本憲二郎さんは、いいます。
 「終戦後の四五年十一月、元の学校に復職しました。そこで、私たちが戦地に送った少年兵が二人、満州開拓戦士のうち一人が帰らぬ人となっていたのを知りました。」(二〇〇六年十一月十六日、中四国版)。

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「大東亜戦争」の時代 高知県の二十二人に話を聞きました その十三

 【日本国憲法第九条の平和への思い】

 窪田一郎さんは、終戦の翌年二月に朝倉の部隊長の息子だった級友が「(アメリカが日本に落とした)原子爆弾に勝る新兵器を発明してアメリカ、イギリスに報復する」という作文を書いた時のことを覚えているといいます(二〇〇七年五月十七日、中四国版)。
 国語の時間に教師がこの作文を読み上げ「日本の軍国主義は間違っていた。こういうことをやってはいかんのや」と平和の日本の道を説きました。
 その教師の思いが、その年十一月三日に公布された憲法の交戦権を否定した九条に実っていました。
 憲法ができてから学校で黄色い表紙の『あたらしい憲法のはなし』を学びました。教師は熱心に解説してくれました。
 「みなさん、あのおそろしい戦争が、二度とおこらないように、また戦争を二度とおこさないようにいたしましょう」と書いてありました。
 このころ、夕刊を出していた高知日報社が新憲法キャンペーン用の標語を募集しました。
 岡崎桜雲さんは、これに応募してました。
 「みんなの憲法 明るい日本」
 この標語が三等に入選しました。
 川村高子さんは、一九四七年五月三日、日本国憲法施行の日の出来事を鮮明に覚えています。
 「当時、私は、高知県大杉村(現・大豊町)の村立大杉小学校の教師でした。
 その日の一時間目、講堂に全校児童、教員が集められ、校長先生が『日本の国は戦争に負けて、いままでと全然変わった国の決まりができました。それは憲法というもので、それには、これからは日本は絶対に戦争はしません。平和を求めていきます。いままで兵器や軍事に使っていたお金は、これからは、みなさんの教育費や国民の暮らしに使うことにします。これから日本は戦争のない平和な国になります』と話しました。
 その時の校長先生の少し上を見つめ、希望に満ちた輝かしい面持ちが目に焼きついています。
 『ああ、これから戦争はないんだ。暮らしも豊かになるんだ』と思いました。いまも、その感激が忘れられません。」(二〇〇七年七月十九日、中四国版)。
 ここに登場した人たちは、いま、戦争放棄、戦力保持の禁止、交戦権の否認を定めた日本国憲法第九条を守っていこうと、それぞれの場で努力しています。
(おわり)

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2008.08.25

高知短期大学 韓国チンジュ(晋州)市、二泊三日のホームステイ

 高知短期大学韓国語受講生とチンジュ(晋州)市のチンジュ産業大学との交流に参加しました。二〇〇八年八月のことです。一番感動したのは、この中の二泊三日のホームステイでした。

    韓国語がほんの少ししかわかりませんが……

 八月二十日午後、私たち高知短期大学の一行は韓国プサンの金海国際空港(キメクッチェゴンハン)に到着しました。メンバーは十七人。教員、学生、履修生、卒業生です。
 空港には産業大学の先生や学生が迎えにきてくれていました。私たちの学校の韓国語の先生(女性、プサン出身)、先生の娘さん(東京の大学の四年生)、高知短期大学で韓国語を履修した後、プサン大学に留学中のNさん(男性。六十歳)もいて、安心しました。
 学生たちのうち十一人が十軒のお宅に二泊三日のホームステイをすることになっています。
 なお、私は、まだ韓国語がほんの少ししかわかりません。

    ホームステイ先のIさんと英語での会話に

 産業大学の大型バスに乗って、産業大学→チンジュ城→産業大学へ。
 産業大学に帰って教室で休んでいるとホームステイ先の人たちが迎えに来てくれました。
 私を泊めてくれるIさん(男性。一九六四年生まれ)も来て、早速、対話が始まりました。
 私が韓国語ができないことを知って、Iさんは、英語で話し始めました。私もカタコトの英語でおうじました。
 Iさんは製造会社のマネージャーをしています。
 私は四七年生まれですが、彼にも四八年生まれの長兄がいるそうです。
 「メクチュ(ビール)は好きですか」と聞くと「好きだ」とのこと。二度、日本に行き、そのときに日本のビールも飲んだとのことです。何だか安心しました。 

    「自己紹介の用紙の二枚目、三枚目がない」

 この日夜、レストランで産業大学長招待の夕食会。Iさんも参加してくれました。
 学生たちが演壇で自己紹介することになりました。もちろん韓国語で。
 なぜか、私が最初です。
 A4三枚に書いてきているので安心です。
 で、始めました。
 「チョウム ペッケッスムニダー。マンナソ パンガプスムニダー。
 チョヌン フジワラヨシカズ イムニダー。チョヌン イルハンニョン イムニダ(はじめまして。お会いできてうれしいです。ふじはらよしかずです。私は、一年生です)」
 一枚目オーケー。
 しかし、二枚目、三枚目をあけてびっくり。用意してきたのとは違う用紙ではありませんか。たくさん持ってきたので、別の原稿をとってしまったのです。
 で、後はムニャムニャ。
 大失敗でした。
 続く学生たちは立派に自己紹介をやってのけました。発音が正確で拍手がわくケースも。

     高校一年生の娘さんの日本語が素敵でした

 夕食会の後、Iさんの乗用車でIさんのお宅へ。
 三十分ほどの所でした。高層の団地です。
 暗証番号を押して中へ入り、エレベーターで十五階へ(ぜんぶで十六階)。いくつも部屋のあるお宅です。
 奥さん、娘さん、息子さんが出迎えてくれました。
 Iさんは、私の十八歳からの友人・空手をやっていた「平川くん」のような顔で、しゃべりかたもそっくり。奥さんは「平川くん」の奥さんのような目のぱっちりした素敵な人です。娘さんは高校一年生。息子さんは小学校六年生。
 Iさんは、ビールと、キキョウの根をつけこんだ酒を出してくれました。
 それをいただきながらテーブルをはさんで床に座り込んで話をしました。
 娘さんが電子辞書を持ってきました。
 日本語ができることがわかり、通訳をしてもらいました。素敵な発音です。
 ほとんど辞書は必要ありません。
 学校で習っていて、いま二年目だといいます。
 日本のアニメ、NHKテレビ、フジテレビ(これはインターネットで)を見ているとのことです。

   『万葉集』って……、娘さんが調べました

 まずは、私がホームステイ先の自己紹介用に韓国語で書いてきた三枚のメモを見せました。
 以下のような内容です。

 私の名前は「ふじはらよしかず」です。
 高知短期大学社会科学部一年生です。
 一九四七年二月二十三日生まれ。六十一歳です。
 私が、いま一番関心を持っていることは日本の天皇の侵略戦争の実際について、もっとリアルに知りたいということです。
 天皇の侵略戦争が、海外にどんな爪跡を残しているかを見聞してきました。そのために、私は、数年前から、テニアン、フィリピン、マレーシャ、タイ、ベトナム、中国、内モンゴル、韓国などを訪れています。
韓国は、今度で四回目の訪問です。
 日本の国内、とくに、私たちが住んでいる高知県で、その時代にどんなことがあったかも調べています。
 高知県は、この春、訪問した済州島と同じで、海岸線や山の中に当時の日本軍の特別攻撃のための基地の跡がいくつも残っています。
 もう一つ。私は、短歌が大好きです。
 七世紀から八世紀に日本の支配層がつくった『万葉集』についての、韓国のイヨンヒさんの本を何冊か読みました。
 『万葉集』は、その当時の朝鮮の言葉で書かれているんですよ、当時は、朝鮮からやってきた人たちが日本を支配していたのですよということを書いています。
 いつか朝鮮の当時の言葉を学びたいと思っています。
 そして、私も、『万葉集』を新しい視点で読みなおしてみたいと思っています。
 私の得意はボディランゲージで、韓国語は、まだほとんどできません。夢だけは大きいのが私の特徴です。
 よろしく、お願いいたします。

  「『万葉集』って何だろう」と、Iさん。娘さんがインターネットで調べ、Iさんに教えました。
 私の本、『この星に同じ時代にやってきて 藤原義一歌集』を贈呈しました。
 娘さんが、この表紙に刷り込んだ「この星に 同じ時代に やってきて おもしろかったね 『さぁ、これからも』」の意味を、お母さんたち説明してくれました。
 「『短歌の花だより』というブログをやっています」というと、娘さんがインターネットで検索。すぐ到達しました。
 「このブログの藤原さんの写真がいいですねー」と、娘さん。

   バスでは娘さんが横に座ってくれました

 個室を貸してくれました。
 ベッドで朝までぐっすり寝ました。
 遠くからのコケコッコーの鳴き声で目覚めました。
 Iさん、奥さん、息子さんと朝食。
 娘さんの姿が見えません。まだ寝ているのでしょうか。
 Iさんの乗用車で四人で産業大学へ向かいます。
 途中、女子高校の所で待っていた娘さんを乗せました。
 朝、一時間授業があったとのことです。
 五人で産業大学に。
 この日は、みんなで、産業大学の大型バスに乗せてもらって全羅北道のマイサン(馬耳山)、全州市の伝統的韓屋村へ。
 奥さん、娘さん、息子さんも同行してくれました。
 奥さん、息子さんは私の斜め右の座席、娘さんは電子辞書を持って私の隣の座席です。
 ふかしたトウモロコシやジュースのサービスがありました。
 「トウモロコシは何ていうんですか」
 「オクススです」
 と、いった感じでいろいろ教えてもらいました。
 私が「韓国映画『ヨッキー チョギン クニョ』(猟奇的な彼女)を見て韓国映画が大好きになりました。その映画は二十回くらい見ています」というと、奥さんが乗り出してきて「私は、その映画の最後のシーンで泣きました」。
 テーブルの下で彼女と彼氏が手をつないでいるシーンです。
 チョン・ジヒョンのよく変化する表情が素敵でした。
 昼食のシクタン(食堂)でも四人でテーブルを囲みました。
 「箸(はし)は」
 「○○です」
 私がチッターラとメモ帳に書くと、娘さんがボールペンで「タ」を「ガ」に直してくれました。
 茶色の豆腐のようなものは、トットリム(ドングリのゼリー)。
 スイカは、スーパク。
 鍋に残ったご飯に水を入れてゆっくり炊いたスープがスンニュン。
 息子さんも食事の後、みなにヨウジを配るなど気配り。
 韓屋村で何だか後ろが涼しいなと思ったら彼が扇子であおいでくれていました。
 息子さんが、ここで買ったお面の小物をプレゼントしてくれました。
 帰りのバスの中でも勉強が続きました。
 途中で娘さんに「私たちの対応で何か不足していることがありませんか」と聞かれ、何だか涙が出そうになりました。

   「Тhe life is studying.I think」というIさんの言葉

 夜は、日本側とホームステイ側の数組が集ってレストランで夕食会。
 Iさん、奥さん、息子さんも一緒でした(後で知ったのですが娘さんは夜は「学園」で勉強だったそうです)。
 Iさん宅に帰ってビールを飲みながら対話。
 そのうち娘さんも帰ってきました。
 Iさん、奥さんからチョンチョンヒー(急がずに)、パリパリ(急いで)という言葉を教えていただきました。
 Iさんは産業大学を卒業しているそうです。「大学院へ行きたい」といっていました。
 「Тhe life is studying.I think」
 Iさんの素敵な言葉でした。
 Iさんや娘さん、息子さんはテコンドーをやっているそうです。
 娘さんは三段、息子さんは初段です。
 娘さんは「歴史が好き。韓国やヨーロッパの歴史を学びたい。将来は先生になりたい」と、いいます。
 きっと素晴らしい先生になることでしょう。

   「ピーガ オンミダ」 別れの雨です

 二十二日朝は、Iさん、奥さん、娘さんの四人で出発。
 娘さんは毎日、午前零時に寝て、午前六時に起きる生活だといいます。「睡眠時間が短いですね」と心配すると、休みのときは午前九時ころまで寝ることがあるといっていました。
 途中、女子高校で娘さんが下車。
 「藤原さん、お元気で」
 美しい日本語の別れのあいさつを残して彼女は登校していきました。
 Iさんによると「一時間目にイングリッシュのエグザミネーションがある」のだということでした。
 雨が降ってきました。
 「ピーガ オンミダ」と、Iさん。
 「雨が降っています」という意味です。
 別れの雨です。
 車のラジオからは「サラゲー」という歌声が流れています。
 Iさんと奥さんと三人で市場へ。
 食堂で「おじや」を食べました。
 完食。
 その後、三人で産業大学へ。
 ここから産業大学の大型バスに乗ってプサン方面へ向かいます。
 奥さんから、お土産をいただきました。
 例のキキョウの根のお酒二本、お茶でした。
 Iさん、奥さんたちに見送られてプサン方面へ。
 ありがとう。みなさん。

   今度、Iさんたちとお会いできるときには韓国語で

 二十二日、二十三日はプサンのホテルに泊まりました。
 そして、二十四日、関西国際空港着。
 高知に向かう途中、大阪市の梅田の古本店で『韓国語変遷史』、『人物 朝鮮の歴史』などをごっそり買い込みました。
 来年二月には産業大学の人たちが高知市に来られます。
 今度、Iさんたちとお会いできるときには韓国語で話せるようになっていたいと思います。

                (二〇〇八年八月二十五日)

「ハングルは、しゃべれません」に

驚いて

英語で話す 新しい友

「ハングルで あいさつするぞ」と 張り切るが

メモが失せたよ

言葉が、言葉が……

高一の 巧みな日本語 聞いている

韓国教育

実力を知る

「人生は、勉強ですね」の 言葉聞く

ホームステイの

宿の二日目

高一が 付き添い通訳 してくれて

ホームステイの

三日が終わる

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高知市 なんと五十円。僕の文庫本、『永国寺町の夜の教室から』ができました。

 二〇〇八年八月二十五日。

 二十四日夜、高知市の高知人書店のIさんが、拙宅にできあがった本を持ってきてくれました。
 文庫本『永国寺町の夜の教室から』です。
 百二十八ページです。
 僕が、この四月から書いた随筆や小論文を収めました。
 初版一版は、なんと五十円です。

 ご連絡いたただければ、無料で差し上げます。
 もっと校正をして次の版は二百円にしたいと思っています。

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高知市 庭を見たらマンジュシャゲが一つ咲いていました。

015

 二〇〇八年八月二十五日。

 朝、庭を見たら、この間、植えたばかりのマンジュシャゲが一つ咲いていました。
 季節は秋に向かっています。
 近く山里にマンジュシャゲの花を撮りにいくことにしましょう。

 ところで、妻、僕の弟、息子、息子の「つれあい」は高知県の四万十市へ一泊旅行に。
 僕は、あす午後、夜と予定があるので、本日は「お留守番」です。
 「朝露」を聴きながらゆっくりしています。

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広告 この夏、僕は「自分の本を普及する」を仕事にしながら学んでいく決意をしました。高知短期大学一年生の藤原義一です。

 こんな本を出しています。

 ご購読いただければ幸いです。

 『永国寺町の夜の教室から』。

 高知短期大学に入学した二〇〇八年四月から八月までの随筆、小論文をおさめています。二〇〇八年八月発行。高知人書店。百二十八ページ。二百円。

 『この星に同じ時代にやってきて 藤原義一歌集』。

 二〇〇八年四月発行。西村謄写堂。百三十一ページ。五百円。

 『あなたに贈る短歌の花束』。

 リポート「ムクゲの花を圧迫した人たち」も収録。二〇〇四年六月発行。さがらブックス。三百五十ページ。千円。

 『歌集 今日もサワッディー』。

 リポート「手塚治虫さんの戦争反対の情熱」も収録。二〇〇三年五月発行。さがらブックス。三百四十九ページ。千円。

 『歌集 春への季節』。

 高知県立高知追手前高校を舞台にした小説「囚人バッジは、いらないよ」も収録。二〇〇二年一月発行。さがらブックス。二百八十三ページ。千円。

 『歌集 長野からの風』。

 

 二〇〇〇年十月発行。ユニオンプレス。三百四十九ページ。千円。

 『歌集 空は、ひゅうひゅうの青。』。

 一九九九年四月発行。さがらブックス。百七十五ページ。千円。

 『歌集 妻への手紙』。

 小論文「宮本百合子の短歌」も収録。一九九八年一月発行。さがらブックス。二百三ページ。二千五百円。 

 ご注文は以下の所へ。

 メール    bqv01222@nifty.com

 ファクス  088(803)8878

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2008.08.27

高知市 大学って何のためにあるのか、学問って何なのか。

 二〇〇八年八月二十六日。

 夜、高知短期大学存続問題で話し合い。
 大学って何のためにあるのか、学問って何なのか。
 そうしたテーマのつきつめが必要だと痛感しました。

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2008.08.29

高知市大津 わが菜園の収穫物。いまはイチジクです。

 二〇〇八年八月二十九日。

 スイカ、ウリ そしてイチジク

 これからは カキが控える

 菜園の妙

 今は毎朝のようにイチジクを食べています。

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歌人・与謝野寛と朝鮮王朝の王妃・閔妃(ミンビ)暗殺事件

 以前から気になっていたのは歌人・与謝野寛(よさのひろし。一八七三年二月二十六日~一九三五年三月二十六日)が、朝鮮王朝の王妃、閔妃(ミンビ。一八五一年十月十九日~一八九五年十月八日)の暗殺(乙未事変)の計画に参加したという説です。与謝野鉄幹の足取りを見ながら、なぜ、そのような事件にかかわったのか、その後の彼はどうだったかをスケッチしてみました。

 【与謝野の、それまで】

 与謝野寛は、京都府岡崎(現・京都市左京区)に与謝野礼厳、初枝の四男として生まれました。礼厳は西本願寺支院、願成寺の僧侶。初枝、京都の商家の出です。
 一八八三年、大阪府住吉郡の安養寺の安藤秀乗の養子となり、一八九一年までその姓を名乗りました。
 一八八九年、西本願寺で得度の式をあげました。その後、山口県徳山町の兄・照幢の寺に赴き、照幢が経営する徳山女学校の教員となり、同寺の布教機関紙『山口県積善会雑誌』を編集しました。
 一八九〇年、鉄幹の号をはじめて用いました。
 さらに、一八九一年養家を離れ与謝野姓に復しました。
 山口県徳山市(現・周南市)の徳山女学校で国語の教師を四年間勤めます。女子生徒・林滝野との間に問題を起こし、退職。その滝野と同棲して一子、萃(あつむ)をもうけました。
 一八九二年、徳山女学校を辞して京都へ帰ります。十一月ごろ上京して、落合直文の門に入ります。
 一八九三年十月二十六日、国粋主義的な社風の二六新報社が創刊されると、与謝野は直文から推挙されて、記者となります。
 編集や大組の実務に従事し、一八九四五月十日から十八日まで、短歌論「亡国の音(おん)」を「二六新報」に連載しました。
 一八九四年八月、日本政府は、日清戦争開始します。
 日本軍は、最初に朝鮮王宮を襲撃し、国王をとらえて清国との戦いで日本に協力することを約束させることから始めました。
 朝鮮では王宮攻撃に怒りが広がり、清国・日本の介入を避けようとして政府軍と「和約」を結んで収拾していた東学農民軍が再蜂起します。
 日本軍は、鎮圧軍を派遣して、大本営の指揮下にせん滅にあたり、三万人といわれる農民を殺害しました。
 日本軍は、朝鮮半島から清国軍を駆逐したあと、清国領に攻め入り、南満州から遼東半島へと軍をすすめ、北京・天津をふくむ直隷平野での決戦(講和条約によって実行に至らず)と台湾・澎湖島の占領をめざす南方作戦計画を立て、澎湖島を占領したところで講和し、澎湖島、台湾を割譲させました。
 台湾は激しく抵抗し、日本軍によって殺された中国人は一万七千人を上回るといわれています。
 与謝野は、この年から翌年にかけて「二六新報」に国民士気鼓舞の詩歌をしきりに掲載します。

 【閔妃暗殺と与謝野】

 一八九五年四月、「二六新報」の記者だった与謝野は、鮎貝房之進の招きに応じて朝鮮に向けて出発しました。
 途中、大阪にある豊臣秀吉の祠(ほこら)に参拝した彼は、

 きこしめせ御国の文をかの国に 今はさづくる世にこそありけれ

 と、詠みました。
 豊臣秀吉は、一五九二年、十六万の軍勢を朝鮮に出兵、一五九七年、十四万人の軍を朝鮮へ再度出兵しています。
 与謝野は、鮎貝が総長・校長だった日本語学校・乙末義塾の分校の一つ、桂洞学堂を任されることになりました。
 そのときには、

 から山に桜を植えてから人に やまと男子の歌うたはせむ

 という歌を詠んでいます。
 「しかし、半年もたたないうちに鉄幹は閔妃(朝鮮国王・高宗の妻)殺害連座して、広島に護送された」(高崎宗司『植民地朝鮮の日本人』。岩波書店。岩波新書。二〇〇二年六月二十日)。
 この事件の計画は三浦梧桜(ごろう)・駐朝公使(陸軍中将)が、杉村濬(ふかし)・公使館一等書記官、岡本柳之助・朝鮮政府軍部兼宮内府顧問らと練ったとされています(海野福寿『韓国併合』。岩波書店。岩波新書。一九九五年五月二十二日)。
 宮廷内の親ロシア、アメリカ派を排除するために王妃と敵対していた大院君(高宗の父)をかつぎ出し、解散がとりだたされていた日本人教官指導の洋式軍隊である訓練隊をそそのかして、大君院とともに王宮の景福宮に侵入せるというこのです。実行主力は、漢城駐在の日本軍守備隊、領事館員、警察、居留日本人「壮士」たちでした。
 十月八日未明、計画は実行に移されました。
 漢城郊外の孔徳里(コンドクリ)に隠遁していた大院君の連れ出しには岡本ら三十数人の日本人があたりました。
 後備歩兵独立第一八大隊の四百五十人、兎範善(ウボムソン)指揮の第二訓練隊が景福宮を占拠しました。
 光化門(クワンハムン)から侵入した第一中隊は、王宮を警備していた第一訓練隊と銃撃戦をまじえ、指揮していた洪啓薫を戦死させ、待衛隊の抵抗を排除して王宮を制圧しました。
 「壮士」の一群は、王妃を求めて探しまわり、常殿で王妃を斬殺しました。
 そして、荻原秀次郎・領事館警部の指示で遺体を松原にはこび、焼き捨て来ました。
 この事件のことが国際的にもあきらかになり、苦境にたたされた日本政府は、三浦公使の解任召還、関係日本人の撤去を決定します。
 ホームページ「おたまじゃくし」は、「その年(1895年)、10月、朝鮮でクーデターが起こり、鉄幹も巻き込まれそうになりますが、腸チフスで入院中であったことから、広島に護送されて帰国します。」としています。
 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』は、つぎのように書いています。
 「……鉄幹は日本に送られ広島の地方検察庁で裁かれた。当時、鉄幹は落合直文の弟、鮎貝槐園とともに朝鮮の日本人学校、乙未義塾の教師として当地に在留していたが、事件当日は槐園たちと木浦に出かけていて事件の起きた京城(現・ソウル特別市)にはいなかったことにより不起訴となった。」
 しかし、与謝野は、その年の十二月、ふたたび朝鮮にわたっています。
 帰国した軍人八人は第五師団の軍法会議に、四十八人を広島地裁の予審にふされます。翌一八九六年一月十四日の軍法会議は、日本軍の行動を無罪としました。二十日の広島地裁の予審終結決定も、証拠不十分として三浦以下全員を免訴しました。

 【反クーデターを画策して失敗】

 ふたたび朝鮮に行った与謝野は、どうしたでしょうか。
 「(一八九六年)二月にクーデター(俄館播遷)が起こると、反クーデターを画策して失敗し、帰国した」(高崎宗司『植民地朝鮮の日本人』)。
 俄館播遷は、一八九六年二月十一日から一八九七年二月二十日まで、李氏朝鮮の第二十六代王・高宗がロシア公使館に移り朝鮮王朝の執政をとったことをいいます。
 与謝野の帰国は、同年四月十六日、落合直文の招電によるものでした。
 与謝野は、同年、出版社明治書院の編集長となります。そのかたわら跡見女学校で教えました。同年七月歌集『東西南北』、翌一八九七年、歌集『天地玄黄』を世に出します。

 【与謝野の三度目の朝鮮行き】

 この一八九七年七月三十一日にも、与謝野は朝鮮に行きます。
 しかし、「人参(にんじん)売買で洋行費用を作ろうとして失敗している」((高崎宗司『植民地朝鮮の日本人』)と、いいます。
 これについては朝鮮行きは「朝鮮民謡の研究」のためとする説もあります(ホームページ「おたまじゃくし」)。
 一八九九年、与謝野は、東京新詩社を創立。同年秋、最初の夫人・浅田信子と離別し二度目の夫人・林滝野と同棲、麹町区に住みます。
 一九〇〇年、「明星」を創刊。若手歌人・鳳晶子(のち寛夫人)との不倫が問題視されます。与謝野は、晶子の歌集『みだれ髪』作成をプロデュースし、妻・滝野と離別、一九〇一年、晶子と再婚します。
 一九〇一年八月、『みだれ髪』刊行。一九〇八年、『明星』は第百号をで廃刊。一九二一年、第二次『明星』が創刊し、一九二七年に廃刊します。
 結婚後の与謝野は、極度の不振に陥ります。一九一一年、晶子の計らいでパリへ行きます。のち晶子も渡仏、フランス国内からロンドン、ウィーン、ベルリンを歴訪します。しかし、鉄幹は依然不振を極めていました。
 一九一五年、第十一回総選挙で京都市選挙区から無所属で出馬しましたが、落選しました。
 一九三一年、雑誌「冬柏」を創刊。

 【上海事件に勢いづいて……】

 一九三二年一月二十八日、日本は関東軍の謀略で上海事変おこします。
 日本海軍陸戦隊の兵力は約二千人と第十九路軍とのたたかいになりました。
 上海事変後、日本軍は苦戦を強いられました。
 陸軍中央部は白川義則大将を司令官とする上海派遣軍を増援しました。金沢の第九師団と久留米の第十二師団より編成した混成旅団の総兵力は約一万七千人にのぼりました。
 二月二十日から二十五日まで、日本軍は上海市北郊の大場鎮、江湾鎮方面で第十九路軍に総攻撃をかけました。
 しかし、市街地に塹壕を築き、鉄条網を幾重にも張りめぐらせ自動小銃で抵抗する第十九路軍の猛攻で、日本軍は死傷者が続出しました。
 こうした背景のもと「爆弾三勇士」の物語が出現します。
 二月二十四日、日本の商業紙は、いっせいに「爆弾三勇士」の記事を掲載しました。
 東京朝日、「〝帝国万歳″を叫んで我身は木端微塵、三工兵点火せる爆弾を抱き、鉄条網に躍りこむ」。
 大阪朝日、「これぞ真の肉弾! 壮烈無比の爆死、志願して爆弾を身につけ鉄条網を破壊した三勇士」。
 大阪毎日、「肉弾で鉄条網を撃破す、点火した爆弾を身につけ、躍進した三人の一等兵、忠烈まさに粉骨破身」。
 東京日日、「世界比ありやこの気塊、点火爆弾を抱き鉄条網を爆破す、廟行鎮攻撃の三勇士」。
 国家、マスコミ一体となった「爆弾三勇士」づくりが始まりました。
 朝日、毎日は、二月二十八日、それぞれ「肉弾三勇士の歌」、「爆弾三勇士の歌」を懸賞募集する社告を出しました。
 一九三二年三月一日、日本は、日本のかいらい政権である「満州国」をつくります。
 こんな中の三月十五日、朝日、毎日に「肉弾三勇士の歌」、「爆弾三勇士の歌」の入選作が発表されました。
 毎日の「爆弾三勇士の歌」には与謝野鉄幹の作品が選ばれました。

 一、廟行鏡の敵の陣
   我れの友隊すでに攻む
   折から凍る二月の
   二十二日の午前五時

 二、命令下る、正面に
   開け、歩兵の突撃路
   装置の間なし、点火して
   破壊筒をば抱き行け

 三、答へて「はい」と工兵の
   作江、北川、江下ら
   凍たる心三人が
   思ふことこそ一つなれ

 四、我等が上に戴くは
   天皇陛下の大御稜威
   後ろに負ふは国民の
   意志に代れる重き任

 与謝野鉄幹は、一九三五年、気管支カタルがもとで死去。

 【文中で紹介した以外の参考文献】

 ○ 伊藤之雄『元老 西園寺公望 古希からの挑戦』。文春文庫。文藝春秋。二〇〇七年十二月二十日。

(二〇〇八年八月二十九日)

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「ご自由にお召し上がり下さい」は、ハングルでどういうのでしょうか。

 「ご自由にお召し上がり下さい」は、ハングルでどういうのでしょうか。

 「마음대로 드세요」(マウムデロ トゥセヨ)

 だ、そうです。

 「마음대로(マウムデロ)」は、「好きなように気の向くままに」という意味です。

 以上、データは 知ってトクする「シゴトの韓国語」<第230号> から。

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『暗殺 近現代日本政治に見る』なんて本が必要ではないかと思います。

 二〇〇八年八月二十九日。

 明治、大正、昭和の政治史の本を読んでいると政治家の暗殺の事例がかなり出てきます。
 暗殺というのは、「(主に政治的な理由で要人を)ひそかにねらって殺すこと」(三省堂「大辞林 第二版」)だそうです。

 しかし、どういう理由で、どういう傾向の誰が暗殺したのがは僕のいま読んでいる何冊かの本では書かれていません。

 しかし、これは日本の政治史を考える上では、大事な要素ではないかと思っています。
 『暗殺 近現代日本政治に見る』なんて本が必要ではないかと思います。
 もちろん、暗殺に批判的な観点から。

 たとえば、山本宣治も、治安維持法改悪に反対して活躍中、右翼により暗殺されています。
 このことも犯人の判決なども調べてきちんと背景を書いておくべきだと思っています。

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2008.08.30

土佐弁の「愛して愛して愛しちゃったのよ」。

 二〇〇八年八月三十日。

 夜、テレビで「愛して愛して愛しちゃったのよ」を歌っていました。
 大学のとき、熊本県出身の史学専攻の一年後輩NAさんが土佐弁で歌っていたのを思い出しました。

 愛しちゅうがやき 愛しちゅうがやき
 おまんばあを 死ぬばあに
 愛しちゅうがやき 愛しちゅうがやき
 ねてもさめてね ただおまんだけ
 生きているのが
 つろうなるよな長い夜
 愛しちゅうがやき 愛しちゅうがやき
 おまんだけを 生命(いのち)をかけて

 いやーっ、これは名曲ですね。

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高知市・その昔 うたごえ喫茶「ヴォストーク」のこと。

 二〇〇八年八月三十日。

 先輩のOさんがグログをつくっているという話を本人から聞きました。
 昔、高知市で、うたごえ喫茶「ヴォストーク」をやっていた男性です。
 いまも合唱団の団長をやっています。
 「ヴォストーク」といえば、これは僕の青春です。
 「あじさい」も、よく歌いましたね。
 ここにつどっていた、いろんな人たちの笑顔を思い出します。
 みんな若くて輝いていました。

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waさんへ たぶん、あなたと高校で一緒だったプサンの男性のこと。 

 二〇〇八年八月三十日。

 メールがうまくいかないので、ここで書かせていただきます。
 
 この間、プサン方面に行きました。
 NAさんという六十歳の男性と行動をともにしました。
 二日間はホテルで同室でした。

 彼は、いまプサンの大学に留学中です。
 話していて、妻と高知市の高校でクラスが一緒だということがわかりました。
 ということは、あなたも一緒では……。
 いま東京で詩人として活躍している、当時の先生の話もでました。

 ということで、お知らせまで。

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高知市 ネット世界を泳いでいた妻の言葉を見つけました。

 二〇〇八年八月三十日。

 対話のひどく少ない夫婦ですが、

 http://www.kakusinkon.org/koe.htm

 に、妻の「お言葉」が載っていることに今夜、気づきました。

  ★じりじりと陽射しが痛い高知ですが、家の周りの田んぼでは早くも稲刈りが。革新懇のような運動も、この勢いで広まり、強まるといいですね。東京からの帰省先でがんばります。(藤原尋子 無職 高知市 60歳)

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高知市 三十数年前の森光子さんへのインタビューのときのこと。ありがとうございました。森光子さん。

 二〇〇八年八月三十日。

 いまテレビに森光子さんが出ています。
 八十八歳だそうです。

 僕がテレビ・芸能記者として初めてインタビューしたのが、この人。
 彼女が、テレビドラマの「時間ですよ」に出ていたころのことです。
 「森さんに、こういうことでインタビューを」と、いわれてテレビ局でインタビューしました。
 しかし、途中で、「質問項目」がなくなってしまいました。
 事前の勉強が、あまりにも不足していました。
 たらーり、たらーりとあぶら汗が……。

 「この子は……」
 と、思ったのでしょう。
 森さんは、こころえたもので、僕が心の奥底で聞きたいと思っていたことを次々と語ってくれました。

 で、記事のほうは何とかセーフ。
 あのときの森さんの優しさは、いまでも忘れていません。
 ありがとうございました。森さん。

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2008.08.31

高知県南国市片山の山中の太平洋戦争

 
 昨年、二〇〇七年の夏、僕は高知県南国市片山の低山をはうようにしてさまよっていました。「位置関係からして、この山に太平洋戦争のときの日本軍の陣地が眠っているに違いない」――。そう思っての行動です。
 山の道を降りてきた男性に、「もしや」と思って聞いたら「上のほうにはありません。こっちです」と、案内してくれました。
 登り口から二十メートルくらいの山道を右にいって登った所に、深く掘り下げた塹壕(ざんごう)がありました。
 「すごいものが残っていた」
 胸が高鳴りました。
 その男性と別れて、考えました。
 「関連施設があるはずだ」
 今度は左側に分け入ってみました。
 ありました。コンクリート製のトーチカのような建造物です。まわりには、一面、迷路のように壕(ごう)が掘られています。
 さらに十メートルほどいくと、窓のあるコンクリート製の建造物がありました。
 「何かわからないけど、こんなのが残っていたよ」
 ほうぼうで、この戦争遺跡のことを話し、ここにも案内しました。
 研究者たちや大学生のIさんが、調査してくれました。
 そして、ついに、平和資料館・草の家(岡村正弘館長。高知市升形)が、こんな戦争遺跡があるとマスコミに発表してくれました。今年六月三十日午前のことです。
 記者たちに研究者の調査結果のメモを配布し、現地にきてもらって説明しました。
 説明には、岡村館長、窪田充治さん、金井明さん、それに私があたりました。
 その日の夕方、サンサンテレビの「SUNSUN(サンサン)スーパーニュース」が「南国市の山中で戦争遺跡 『旧日本軍の施設跡』発見」と、施設の全体像を映像で紹介しました。
 放映された同館の岡村正弘館長のコメントが素敵でした。「高知も戦争があったと実感できる教材が発見された。身近に感じてもらう教材ということで大変重要だと思う」
 翌七月一日の高知新聞、朝日新聞、毎日新聞の朝刊にも載りました。高知新聞は、二十面トップで「南国市片山 山腹に地下壕二カ所 大戦末期の見張り施設か 草の家発表 山全体 要塞の可能性も」。
 「旧日本軍が本県での本土決戦に、どう臨もうとしていたのかを解明する手掛かりになる」という僕のコメントも載せてくれました。
 さっそく、高知市の自由民権記念館で開会中の「戦争と平和を考える資料展」(主催は「ピースウェイブ二〇〇八inこうち実行委員会」)にも、一日から、この陣地の写真パネルが展示されました。
 高知短期大学の授業にいったら「高知新聞に出ちょったねー」。
 この戦争展の展示、片山での草の家の記者会見の様子が、四日夕の高知放送テレビ「こうちeye」で放送されたようです。これには片山の現場での僕へのインタビューも入っていたようです。
 友人二人から電話や携帯電話のメールで「テレビに出ちょったねー」の声。高知短期大学の「韓国語Ⅰ」の授業にいったら、女性から「あんた、藤原さん、テレビにでちょったねー」。
 あらためてマスコミの力に驚かされました。
 ちなみに僕は、高知短期大学一年生で、平和資料館・草の家研究員(理事)をやっています。

 【参考 平和資料館・草の家館長・岡村正弘さんの記者会見の資料】

 記者会見資料 08年6月30日 平和資料館・草の家 館長・岡村正弘

 南国市片山の太平洋戦争中の陣地跡の発見

 1 所在地

 南国市片山(セイレイ工業駐車場西の山)

 2 戦争遺跡の種類と数

 砲兵隊の観測所と交通壕、退避壕がセットになって二箇所(北側を片山1号、南側を片山2号)で確認されました。

 3 立地

 下田川の西側に迫る山塊の山腹部に立地し標高は15m前後。周囲は墓地や雑木林となっています。
 1号は山道のすぐ南側の墓地の中にあります。
 2号は1号の南50mほどの地点にあり1号よりも高い位置にあります。

 4 内容

 (1) 片山1号

 コンクリート作り地下式の構造。
 幅60cmほどの入り口を地下に3mほど入ると左右に小部屋が作られています。
 右側(南側)の部屋は一辺130cmほどの四角形の部屋で、南壁の上に観測用と考えられる30cm前後の穴があけられています。
 左側北の部屋は一辺1m前後でやや小さい。
 また、階段を下りたところの天井には一辺28cmの四角い穴が設けられています。ここでコンクリートの厚さを測ったところ82cmありました。
 この観測所は、交通壕で後の山に掘られた退避壕に繋がっていました。交通壕は現在埋まっていますが痕跡をとどめています。

 (2)片山2号

 山の稜線部分をL字状に削って構築しています。コンクリート製。
 幅75cm、高さ147cmの入り口(扉が設けられていた)を入ると一辺2mほどの四角い部屋があり、南に幅58cmの階段が上に伸びています。
 8段の階段を上ると一辺160cmほどの部屋があり南と東に観測用の窓が設けられています。南の窓は海が見渡せ、東の窓は飛行場(当時・高知海軍航空隊)が望めます。
 この観測所も後に岩盤を掘削した退避壕が作られていて、やはり交通壕で繋がっています。
 1号と同様に、敵の艦砲射撃を壕の中でしのぎ、敵が上陸を始めたらこの観測所に入って味方の砲兵陣地に電話で砲撃の指示を出すために作られました。

 5 どんな部隊がいたのか。

 陸軍第11師団山砲兵11連隊(錦2465部隊)がこの付近に配備されていました。
 連隊長・小幡實大佐。
 1945年8月15日現在の兵力3,148人。

 6 片山にあった、そのほかの軍事施設

 この陣地跡の真下にあった海軍の工作所跡
 その右手にあった海軍の発電所跡

 7 発見と調査の経緯

 昨年夏、戦跡調査中の平和資料館・草の家の会員が発見しました。
 2008年5月、6月に平和資料館・草の家研究員が調査しました。

 8 部隊設置の背景

 大戦末期、本土決戦が現実味を帯びてきた1945年4月には、四国防衛の部隊として第55軍が編成され司令部が香美市土佐山田町新改に置かれ、四国には9万の野戦部隊が投入されました。
 米軍の上陸が想定されていた高知平野にはそのうちの7万の兵隊が配備されました。
 高知平野を中心に海岸線や沿岸に近い山塊には数多くの陣地か構築されました。
 物部川を挟んだ平野部を主戦場として、上陸してくる米軍に東の三宝山と西の片山や金比羅山に陣地を構え、挟み撃ちにして、そこに土佐山田方面から攻撃をして撃退する作戦であったと考えられます。
 もしも米軍が上陸していたら多くの住民を巻き込み沖縄と同じ出来事が高知を襲っていました。
 今回発見された観測所は、戦争末期の高知平野で何が準備され、何が起ころうとしていたのか、ということを具体的に示す戦争遺跡です。
 高知平野は中国・四国で最も多くの陣地が作られた所であり、今でも多くの戦争遺跡が残っています。
 戦争を風化させないためには常に戦争の実相と向き合わなければならないと考えます。
 戦争体験者が少なくなり戦争の悲惨さ愚かさを直接伝えることが難しくなりつつある今、戦争遺跡の存在は大きな意義を持っています。

  9 その他

 この陣地跡の写真などを自由民権記念館で開催中の「戦争と平和を考える資料展」(主催・ピースウェイブ2008inこうち。6日まで)で展示する予定です。

                   (二〇〇八年七月)

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