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2008.08.19

「大東亜戦争」の時代 高知県の二十二人に話を聞きました その六

 【戦争の中、子どもたちはどうしていたでしょうかの】

 そのころ子どもたちにも、話を聞きました。、
 高知市の植田幸作さんは「私も戦中の、いざというときには戦争にいって天皇のために死になさいという『教育勅語』の教育を受けました。」と、語ります。
 「高知市の小高坂(こだかさ)国民学校に通っていました。毎朝、校門を入った所にある昭和天皇、皇后の写真が入った奉安殿(ほうあんでん)に『気を付け。礼』をしました。毎月八日の太平洋戦争『完遂』の決意を固めあう『大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)』の朝には全校児童が講堂に集められました。校長がうやうやしく『教育勅語』を読み上げるのをうつむいて聞きました。」(二〇〇六年十一月十日、中四国版)。
 高知市の住む宮本尚(ひさし)さんは、一九四五年春、高知県上倉村(あげくらむら。今の南国市)奈路の第二国民学校五年生になりました。当時のことを教えてくれました(二〇〇六年七月十五日付、中四国版)。
 朝礼では、皇居の方を向いて深く礼をし、天皇の世よ続けという「君が代」を斉唱、そして、校長の指導で、戦争で命をかけて天皇を守れという「教育勅語」「青少年学徒に賜(たま)わりたる勅語」を唱和しました。体操の時間には木銃を構えて突撃訓練、「爆弾」がわりの枕を持って「敵」の戦車に飛び込む訓練もしました。「米軍がきたら突っ込む」。尚少年は、そう思っていました。
 課外活動は、午前中は神社での出征兵士を送る会で「万歳」を唱え、午後は役場近くで白木の箱に入れられた「無言の兵士」に最敬礼をしました。家に帰れば供出用のコウゾ、クワの皮むき…。
 香美市の岡崎桜雲さんは、一九四五年春のことを語ってくれました。
 「私は山田町(今の土佐山田町)に住んでいました。傘づくり仕事をしていた父は、徴用されて広島県の呉海軍工廠(こうしょう)で働かされていました。四学年上の兄は、満蒙開拓青少年義勇軍に入りましたが脱走中でした。姉の夫は、徳島の陸軍に徴兵されていました。
 私は、母と山田町に住み、山田国民学校の六年生でした。前年秋から右足の骨髄炎が発病して、苦しんでいました。
 山田町もアメリカ軍の艦砲射撃に襲われるということで避難勧告が出ました。私は、姉と一緒に瓶岩村外山(かめいわむらとやま)=今の南国市=の山の中の親せき宅に疎開しました。
 家族が、それぞればらばらの地で苦しんでいました。」(二〇〇五年九月三日、四国版)
 高知市の岡崎清恵さんは、一九四五年夏は、高知市長浜に住んでいました。市内の県立海南中学校の三年生でした。同校の様子を教えてくれました(二〇〇六年七月十六日、中四国版)。
 学校の教育は国家の意思を子どもに押しつけるものでした。日本を「神の国」とし、他国民を蔑視(べっし)し、「万世一系の天皇のために名誉の戦死を!」ということを教えました。
 「♪散るべき時に 清く散り 皇国(みくに)に薫れ 桜花」という「戦陣訓の歌」を、銃を持っての全生徒の夜行軍の時などにうたいました。
 毎日の朝礼では宮城(きゅうじょう)を遥拝し、校長や配属将校の戦況などの話を聞きました。
 教室の黒板の上には「戦陣訓」の額が掲げられていました。「死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。生死を超越し一意任務の完遂に邁進(まいしん)すべし…」。生徒たちは、朝に夕に教室で唱和しました。
 軍隊は天皇が統率しているという「軍人勅諭」も覚えさせられました。

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