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2008.08.31

高知県南国市片山の山中の太平洋戦争

 
 昨年、二〇〇七年の夏、僕は高知県南国市片山の低山をはうようにしてさまよっていました。「位置関係からして、この山に太平洋戦争のときの日本軍の陣地が眠っているに違いない」――。そう思っての行動です。
 山の道を降りてきた男性に、「もしや」と思って聞いたら「上のほうにはありません。こっちです」と、案内してくれました。
 登り口から二十メートルくらいの山道を右にいって登った所に、深く掘り下げた塹壕(ざんごう)がありました。
 「すごいものが残っていた」
 胸が高鳴りました。
 その男性と別れて、考えました。
 「関連施設があるはずだ」
 今度は左側に分け入ってみました。
 ありました。コンクリート製のトーチカのような建造物です。まわりには、一面、迷路のように壕(ごう)が掘られています。
 さらに十メートルほどいくと、窓のあるコンクリート製の建造物がありました。
 「何かわからないけど、こんなのが残っていたよ」
 ほうぼうで、この戦争遺跡のことを話し、ここにも案内しました。
 研究者たちや大学生のIさんが、調査してくれました。
 そして、ついに、平和資料館・草の家(岡村正弘館長。高知市升形)が、こんな戦争遺跡があるとマスコミに発表してくれました。今年六月三十日午前のことです。
 記者たちに研究者の調査結果のメモを配布し、現地にきてもらって説明しました。
 説明には、岡村館長、窪田充治さん、金井明さん、それに私があたりました。
 その日の夕方、サンサンテレビの「SUNSUN(サンサン)スーパーニュース」が「南国市の山中で戦争遺跡 『旧日本軍の施設跡』発見」と、施設の全体像を映像で紹介しました。
 放映された同館の岡村正弘館長のコメントが素敵でした。「高知も戦争があったと実感できる教材が発見された。身近に感じてもらう教材ということで大変重要だと思う」
 翌七月一日の高知新聞、朝日新聞、毎日新聞の朝刊にも載りました。高知新聞は、二十面トップで「南国市片山 山腹に地下壕二カ所 大戦末期の見張り施設か 草の家発表 山全体 要塞の可能性も」。
 「旧日本軍が本県での本土決戦に、どう臨もうとしていたのかを解明する手掛かりになる」という僕のコメントも載せてくれました。
 さっそく、高知市の自由民権記念館で開会中の「戦争と平和を考える資料展」(主催は「ピースウェイブ二〇〇八inこうち実行委員会」)にも、一日から、この陣地の写真パネルが展示されました。
 高知短期大学の授業にいったら「高知新聞に出ちょったねー」。
 この戦争展の展示、片山での草の家の記者会見の様子が、四日夕の高知放送テレビ「こうちeye」で放送されたようです。これには片山の現場での僕へのインタビューも入っていたようです。
 友人二人から電話や携帯電話のメールで「テレビに出ちょったねー」の声。高知短期大学の「韓国語Ⅰ」の授業にいったら、女性から「あんた、藤原さん、テレビにでちょったねー」。
 あらためてマスコミの力に驚かされました。
 ちなみに僕は、高知短期大学一年生で、平和資料館・草の家研究員(理事)をやっています。

 【参考 平和資料館・草の家館長・岡村正弘さんの記者会見の資料】

 記者会見資料 08年6月30日 平和資料館・草の家 館長・岡村正弘

 南国市片山の太平洋戦争中の陣地跡の発見

 1 所在地

 南国市片山(セイレイ工業駐車場西の山)

 2 戦争遺跡の種類と数

 砲兵隊の観測所と交通壕、退避壕がセットになって二箇所(北側を片山1号、南側を片山2号)で確認されました。

 3 立地

 下田川の西側に迫る山塊の山腹部に立地し標高は15m前後。周囲は墓地や雑木林となっています。
 1号は山道のすぐ南側の墓地の中にあります。
 2号は1号の南50mほどの地点にあり1号よりも高い位置にあります。

 4 内容

 (1) 片山1号

 コンクリート作り地下式の構造。
 幅60cmほどの入り口を地下に3mほど入ると左右に小部屋が作られています。
 右側(南側)の部屋は一辺130cmほどの四角形の部屋で、南壁の上に観測用と考えられる30cm前後の穴があけられています。
 左側北の部屋は一辺1m前後でやや小さい。
 また、階段を下りたところの天井には一辺28cmの四角い穴が設けられています。ここでコンクリートの厚さを測ったところ82cmありました。
 この観測所は、交通壕で後の山に掘られた退避壕に繋がっていました。交通壕は現在埋まっていますが痕跡をとどめています。

 (2)片山2号

 山の稜線部分をL字状に削って構築しています。コンクリート製。
 幅75cm、高さ147cmの入り口(扉が設けられていた)を入ると一辺2mほどの四角い部屋があり、南に幅58cmの階段が上に伸びています。
 8段の階段を上ると一辺160cmほどの部屋があり南と東に観測用の窓が設けられています。南の窓は海が見渡せ、東の窓は飛行場(当時・高知海軍航空隊)が望めます。
 この観測所も後に岩盤を掘削した退避壕が作られていて、やはり交通壕で繋がっています。
 1号と同様に、敵の艦砲射撃を壕の中でしのぎ、敵が上陸を始めたらこの観測所に入って味方の砲兵陣地に電話で砲撃の指示を出すために作られました。

 5 どんな部隊がいたのか。

 陸軍第11師団山砲兵11連隊(錦2465部隊)がこの付近に配備されていました。
 連隊長・小幡實大佐。
 1945年8月15日現在の兵力3,148人。

 6 片山にあった、そのほかの軍事施設

 この陣地跡の真下にあった海軍の工作所跡
 その右手にあった海軍の発電所跡

 7 発見と調査の経緯

 昨年夏、戦跡調査中の平和資料館・草の家の会員が発見しました。
 2008年5月、6月に平和資料館・草の家研究員が調査しました。

 8 部隊設置の背景

 大戦末期、本土決戦が現実味を帯びてきた1945年4月には、四国防衛の部隊として第55軍が編成され司令部が香美市土佐山田町新改に置かれ、四国には9万の野戦部隊が投入されました。
 米軍の上陸が想定されていた高知平野にはそのうちの7万の兵隊が配備されました。
 高知平野を中心に海岸線や沿岸に近い山塊には数多くの陣地か構築されました。
 物部川を挟んだ平野部を主戦場として、上陸してくる米軍に東の三宝山と西の片山や金比羅山に陣地を構え、挟み撃ちにして、そこに土佐山田方面から攻撃をして撃退する作戦であったと考えられます。
 もしも米軍が上陸していたら多くの住民を巻き込み沖縄と同じ出来事が高知を襲っていました。
 今回発見された観測所は、戦争末期の高知平野で何が準備され、何が起ころうとしていたのか、ということを具体的に示す戦争遺跡です。
 高知平野は中国・四国で最も多くの陣地が作られた所であり、今でも多くの戦争遺跡が残っています。
 戦争を風化させないためには常に戦争の実相と向き合わなければならないと考えます。
 戦争体験者が少なくなり戦争の悲惨さ愚かさを直接伝えることが難しくなりつつある今、戦争遺跡の存在は大きな意義を持っています。

  9 その他

 この陣地跡の写真などを自由民権記念館で開催中の「戦争と平和を考える資料展」(主催・ピースウェイブ2008inこうち。6日まで)で展示する予定です。

                   (二〇〇八年七月)

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