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2008.08.19

「大東亜戦争」の時代 高知県の二十二人に話を聞きました その五

 【戦争の波に呑まれていく教師と子ども】

 高知市の坂本安さんは、戦争の進展の中で学校も、その波に呑まれていったことを教えてくれました(二〇〇六年十一月二十九日、中四国版)。
 坂本さんは一九三八年四月、高知県土佐郡朝倉村(今は高知市)の朝倉尋常高等小学校の訓導(教師)になりました。
 同校は、四一年四月には国民学校に。
 「この年十月、朝倉国民学校は近くの歩兵第四四連隊に占拠されました。召集兵が兵舎に入り切れなくなったという理由でした。学校は兵舎になり運動場は練兵場になりました。児童は製紙工場や寺、神社に分散して授業を受けました」
 その二カ月後、十二月八日、天皇はアメリカ、イギリスなどと太平洋戦争を開始しました。
 坂本さんは、産休をとり、四二年一月に学校に復帰。子どもたちは学校に帰っていましたが、学校の雰囲気はガラリと変わり、小型の軍隊のようになっていました。
 子どもたちは毎日のように運動場に出て足を高く上げ兵隊のように行進しました。校長は壇上に立ち、その前を通るものに「校長先生にカシラー、右」をさせます。子どもたちは朝倉神社への戦勝祈願に動員されました。出征する兵士を見送りに朝倉駅へいき、「英霊」を迎えにいきました。
 高知市の森本憲二郎さんは、国民学校ので子どもたちに早く兵隊にと説いていました。
 「私は一九四一年四月、高知県土佐郡土佐町の石原国民学校の教師になりました。尋常小学校が国民学校になった時です。
 当時の教育は、国家の統制や命令の下にありました。県の視学が学校を巡り授業が国の定めた目的どおり行われているかチェックしました。
 各教科の内容は国家主義、軍国主義で貫かれ、その根幹には教育勅語がありました。私たちは、いざという時には戦争に行って天皇のために死を恐れず突進する勇気をもちなさいと教えました。
 日本軍の占領地が増えるたびに教室の前の大きな世界地図に「日の丸」の小旗をはり、戦意高揚につとめました。
 学校に『少年兵何人』『満州開拓に何人』と募集人員を割り当て、目標達成をうながしてきました。私たち教師は、この国策にこたえて校区の家庭を訪ね、父母と子どもに『行け。少年兵』『めざせ。満州へ』と説得してまわりました。そして、教え子六人を少年兵に、三人を満州開拓戦士として送りました。
 体力がなくて乙種第二合格だった私も四四年春、高射砲部隊に召集されました。」(二〇〇六年十一月十六日、中四国版)。

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