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2008.08.19

「大東亜戦争」の時代 高知県の二十二人に話を聞きました その七

 【本土決戦に巻き込まれていく高知県の変化の中で】

 高知市の茂松延章さんは、地域が本土決戦の準備に巻き込まれていった様子を語ってくれました。
 「三里地域は太平洋戦争の時、本土決戦の準備で地域ごと特攻態勢に巻き込まれました。
 海軍が、畑をつぶし松林の墓地を共同墓地に移して浦戸海軍航空隊を開隊しました。一九四四年十一月一日のことです。
 しかし、私が飛行場から飛んだ練習機を見たのは一回だけです。翼を布で張った飛行機でした。
 いまその跡にある碑には、四五年五月に入り、ここの練習生は「敵を水際に撃破すべく日夜陸戦特攻訓練に終始し」たとあります。
 そこの兵隊だったかどうかわかりませんが、三里国民学校に十代らしい海軍兵たちが二十人くらい駐屯していました。
 毎日のように私の家の畑などに国民学校から浜に移動するための散兵壕(さんぺいごう)を掘っていました。
 浜の松林で特攻訓練もしていました。
 四人が木でつくったアメリカの戦車を持ってかけました。松の木の根っこにつくったタコツボに潜んでいた一人が木でつくった爆弾を持って、その戦車に飛び込んでいくのです。
 私は海南中学校の一年生で、三里国民学校のすぐ近くに住んでいました。兵隊たちは、昼すぎには私の家にきて『おばちゃん。何か食べる物ちょうだい』といっていました。
 兵たちの姿を見て私も四年生になったら海軍兵学校に入って後に続こうと思っていました。」(二〇〇七年五月十九日、中四国版)。
 一九四五年春。土佐湾の海岸線には陸軍のトーチカが並び、海軍の人間魚雷「回天」、ベニヤのボートの先のほうに爆弾を積んだ水上特攻艇「震洋(しんよう)」、魚雷艇が配備されていました。
 高知市の下司孝さんは、当時、高知市帯屋町の町田病院精神科の科長と郊外あこめの海岸沿いの精神病保養院精華園の園長をつとめました。
 「四五年になって園の東にある海岸に海軍の特別攻撃艇『震洋(しんよう)』の基地ができました。御畳瀬(みませ)の北側です。その時、海軍は園の南の山の松の大木を何本も切って徴発しました。園長の私にも無断でした。艇を隠す横穴壕(ごう)の支えにするつもりだったのでしょうか。
 米軍航空機が北から急降下して園を爆撃し、園の南の山を越した所に落ちました。私は二十㍍の違いで最悪の事態を免れることができました。
 食糧不足でした。園内菜園の補給では追いつかず、栄養失調になり、腹がふくれて死亡する患者が出ました。」(二〇〇六年八月十日、中四国版)。
 前出の岡崎清恵さんが語ります。
 「料理屋だった私の家の二階にも魚雷艇の兵隊が十人ほど寝泊まりしていました。
 私も動員され、高知市の五台山の赤松を二㍍の長さで切り出しました。陸軍が海岸に塹壕(ざんごう)をつくるためのものでした。
 七月四日午前二時ころ、アメリカ軍の爆撃機が高知市を空襲しました。夜が明けて、歩いて学校にいきましたが、兵器庫など木造の建物はすべて焼け、講堂と鉄筋の本館のビルだけが残っていました。本館の屋上には、いたるところに焼夷(しょうい)弾の落ちた跡がついていました。
 毎日のように空襲警報があって落ち着いて寝られず、その上、食糧不足にも悩まされました。」(二〇〇六年七月十六日、中四国版)。
 高知市朝倉の窪田一郎さんは、山にも横穴が掘られたことを教えてくれました。
 「……朝倉のいまの高知大学、養護学校、印刷局は陸軍歩兵第四四連隊の兵舎でした。
 私の家は、兵舎のすぐ近くでした。家の前を朝、夕、兵隊が隊歌を歌いながら行進していきました。近辺には、あらゆる戦争訓練をする練兵場、実弾訓練をする射的場、塹壕戦(ざんごうせん)の訓練をする作業地、陸軍病院、陸軍墓地(現存)の陸軍施設がありました。
 一九四五年四月、満州(中国東北部)にいた四四連隊が本土決戦に備えるということで高知に帰ってきました。
 私たち朝倉在住の中学生(一年―三年)は、五月ころから朝倉のアジロ山(網代山)の北斜面に陸軍のトラックを隠す横穴を掘りました(この十四日にいったら、横穴が三つ残っていました)。」(二〇〇七年五月十七日、中四国版)。

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