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2008.08.19

「大東亜戦争」の時代 高知県の二十二人に話を聞きました その十一

 【一九四五年八月十五日、終戦】

 一九四五年八月十五日、終戦。
 前出の瀬戸鉄男さんが、語ります。
 「八月十五日の終戦の時は、海軍が接収した静岡駅前のデパートの地下室にいました。ここが派遣隊になっていて、戦闘機のエンジンの組みたてをやっていました。
 終戦の『玉音放送』を聞き『やれやれ、これでやっと命が拾えた。これでおふくろに安心させてやれる』と思いました。」
(二〇〇六年八月十一日、中四国版)。
 八月十三日、高知市朝倉の西部第三四部隊に入隊していた渡邉進さんは、二日後の十五日午後、行軍から帰る途中、伊野町(いのちょう)で敗戦を知りました。
 「とまどいました。一緒に入隊した軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)をすっかり暗唱するほどの者に『どうしたらいいだろう』と聞いたら、彼は『僕は、いぬる(家に帰る)」といいました。
 おおそうか、『いぬる』という手があったのか。その一言は『生きては帰れない』と覚悟していた私を軍国の呪縛(じゅばく)から解き放してくれました。」(二〇〇五年八月十八日付、中四国版)。
 下司孝さんが語ります。
 終戦の放送は、高知女子医学専門学校講堂で下司が代表で聞きました。すぐに生徒たちに話しました。
 「われわれは、これから何をなすべきか。日本を復興するには科学によるしかない。フランスのパスツールを学ぼう。彼は細菌学者であるが、生物の自然発生論を打破しブドウ酒の低温殺菌を発見して、国の産業を興し、狂犬病予防法発見のほか、パスツールの予防接種で牧畜業者の福音となるなど医者のみならず広い分野で活躍してフランスを救った。彼に学んで日本を再建しよう。…」
 「生徒たちは泣く暇はありません。すぐに勉強を始めました。こうして私の戦後は始まりました。」(二〇〇六年八月十日、中四国版)。
 仁尾京子さんは、高知市内の借家のラジオで天皇の放送を聞きました。 祖母が「戦争が終わったがやろうか」と、いいました。
 それを聞いて「もう逃げるにようばん(逃げる必要がない)」と、うれしかったことを覚えています(二〇〇六年八月十三日、中四国版)。
 岡崎桜雲さんは、終戦を知って「『終わった』と、思いました。『これで何か新しい天地が始まるという感じだったと思います。」と、いいます(二〇〇五年九月三日、四国版)。
 「数日して、ついていた二本の松葉づえを谷川に捨て、一人で歩いて、休み休みしながら、ようやく山田の家に帰り着いたのを印象深く覚えています。」
 宮本尚(ひさし)さんは、天皇の敗戦のラジオ放送を聞いても「『負けた』ということの感覚がしばらくわかりませんでした」。
 「物心ついた時から、こうした愛国心、戦争することを何とも思わない心を植えつけられることは恐ろしいことです」と、述懐します(二〇〇六年七月十五日付、中四国版)。
 香美市の猪野睦さんは、日本が植民地にしていた朝鮮に住んでいました。
 「日本が植民地にしていた朝鮮に住んでいました。
 一九四五年八月十五日の終戦のときは十四歳。師範学校に通っていました。玄海灘をぼろ漁船に十日間近く乗って同年十月末に帰国。列車で土佐山田に向かいました。博多駅、広島駅、岡山駅、高松駅…、街はアメリカの空襲で焼かれてのっぺらぼうでした。」(二〇〇五年十一月三十日)。

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