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2008.08.29

歌人・与謝野寛と朝鮮王朝の王妃・閔妃(ミンビ)暗殺事件

 以前から気になっていたのは歌人・与謝野寛(よさのひろし。一八七三年二月二十六日~一九三五年三月二十六日)が、朝鮮王朝の王妃、閔妃(ミンビ。一八五一年十月十九日~一八九五年十月八日)の暗殺(乙未事変)の計画に参加したという説です。与謝野鉄幹の足取りを見ながら、なぜ、そのような事件にかかわったのか、その後の彼はどうだったかをスケッチしてみました。

 【与謝野の、それまで】

 与謝野寛は、京都府岡崎(現・京都市左京区)に与謝野礼厳、初枝の四男として生まれました。礼厳は西本願寺支院、願成寺の僧侶。初枝、京都の商家の出です。
 一八八三年、大阪府住吉郡の安養寺の安藤秀乗の養子となり、一八九一年までその姓を名乗りました。
 一八八九年、西本願寺で得度の式をあげました。その後、山口県徳山町の兄・照幢の寺に赴き、照幢が経営する徳山女学校の教員となり、同寺の布教機関紙『山口県積善会雑誌』を編集しました。
 一八九〇年、鉄幹の号をはじめて用いました。
 さらに、一八九一年養家を離れ与謝野姓に復しました。
 山口県徳山市(現・周南市)の徳山女学校で国語の教師を四年間勤めます。女子生徒・林滝野との間に問題を起こし、退職。その滝野と同棲して一子、萃(あつむ)をもうけました。
 一八九二年、徳山女学校を辞して京都へ帰ります。十一月ごろ上京して、落合直文の門に入ります。
 一八九三年十月二十六日、国粋主義的な社風の二六新報社が創刊されると、与謝野は直文から推挙されて、記者となります。
 編集や大組の実務に従事し、一八九四五月十日から十八日まで、短歌論「亡国の音(おん)」を「二六新報」に連載しました。
 一八九四年八月、日本政府は、日清戦争開始します。
 日本軍は、最初に朝鮮王宮を襲撃し、国王をとらえて清国との戦いで日本に協力することを約束させることから始めました。
 朝鮮では王宮攻撃に怒りが広がり、清国・日本の介入を避けようとして政府軍と「和約」を結んで収拾していた東学農民軍が再蜂起します。
 日本軍は、鎮圧軍を派遣して、大本営の指揮下にせん滅にあたり、三万人といわれる農民を殺害しました。
 日本軍は、朝鮮半島から清国軍を駆逐したあと、清国領に攻め入り、南満州から遼東半島へと軍をすすめ、北京・天津をふくむ直隷平野での決戦(講和条約によって実行に至らず)と台湾・澎湖島の占領をめざす南方作戦計画を立て、澎湖島を占領したところで講和し、澎湖島、台湾を割譲させました。
 台湾は激しく抵抗し、日本軍によって殺された中国人は一万七千人を上回るといわれています。
 与謝野は、この年から翌年にかけて「二六新報」に国民士気鼓舞の詩歌をしきりに掲載します。

 【閔妃暗殺と与謝野】

 一八九五年四月、「二六新報」の記者だった与謝野は、鮎貝房之進の招きに応じて朝鮮に向けて出発しました。
 途中、大阪にある豊臣秀吉の祠(ほこら)に参拝した彼は、

 きこしめせ御国の文をかの国に 今はさづくる世にこそありけれ

 と、詠みました。
 豊臣秀吉は、一五九二年、十六万の軍勢を朝鮮に出兵、一五九七年、十四万人の軍を朝鮮へ再度出兵しています。
 与謝野は、鮎貝が総長・校長だった日本語学校・乙末義塾の分校の一つ、桂洞学堂を任されることになりました。
 そのときには、

 から山に桜を植えてから人に やまと男子の歌うたはせむ

 という歌を詠んでいます。
 「しかし、半年もたたないうちに鉄幹は閔妃(朝鮮国王・高宗の妻)殺害連座して、広島に護送された」(高崎宗司『植民地朝鮮の日本人』。岩波書店。岩波新書。二〇〇二年六月二十日)。
 この事件の計画は三浦梧桜(ごろう)・駐朝公使(陸軍中将)が、杉村濬(ふかし)・公使館一等書記官、岡本柳之助・朝鮮政府軍部兼宮内府顧問らと練ったとされています(海野福寿『韓国併合』。岩波書店。岩波新書。一九九五年五月二十二日)。
 宮廷内の親ロシア、アメリカ派を排除するために王妃と敵対していた大院君(高宗の父)をかつぎ出し、解散がとりだたされていた日本人教官指導の洋式軍隊である訓練隊をそそのかして、大君院とともに王宮の景福宮に侵入せるというこのです。実行主力は、漢城駐在の日本軍守備隊、領事館員、警察、居留日本人「壮士」たちでした。
 十月八日未明、計画は実行に移されました。
 漢城郊外の孔徳里(コンドクリ)に隠遁していた大院君の連れ出しには岡本ら三十数人の日本人があたりました。
 後備歩兵独立第一八大隊の四百五十人、兎範善(ウボムソン)指揮の第二訓練隊が景福宮を占拠しました。
 光化門(クワンハムン)から侵入した第一中隊は、王宮を警備していた第一訓練隊と銃撃戦をまじえ、指揮していた洪啓薫を戦死させ、待衛隊の抵抗を排除して王宮を制圧しました。
 「壮士」の一群は、王妃を求めて探しまわり、常殿で王妃を斬殺しました。
 そして、荻原秀次郎・領事館警部の指示で遺体を松原にはこび、焼き捨て来ました。
 この事件のことが国際的にもあきらかになり、苦境にたたされた日本政府は、三浦公使の解任召還、関係日本人の撤去を決定します。
 ホームページ「おたまじゃくし」は、「その年(1895年)、10月、朝鮮でクーデターが起こり、鉄幹も巻き込まれそうになりますが、腸チフスで入院中であったことから、広島に護送されて帰国します。」としています。
 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』は、つぎのように書いています。
 「……鉄幹は日本に送られ広島の地方検察庁で裁かれた。当時、鉄幹は落合直文の弟、鮎貝槐園とともに朝鮮の日本人学校、乙未義塾の教師として当地に在留していたが、事件当日は槐園たちと木浦に出かけていて事件の起きた京城(現・ソウル特別市)にはいなかったことにより不起訴となった。」
 しかし、与謝野は、その年の十二月、ふたたび朝鮮にわたっています。
 帰国した軍人八人は第五師団の軍法会議に、四十八人を広島地裁の予審にふされます。翌一八九六年一月十四日の軍法会議は、日本軍の行動を無罪としました。二十日の広島地裁の予審終結決定も、証拠不十分として三浦以下全員を免訴しました。

 【反クーデターを画策して失敗】

 ふたたび朝鮮に行った与謝野は、どうしたでしょうか。
 「(一八九六年)二月にクーデター(俄館播遷)が起こると、反クーデターを画策して失敗し、帰国した」(高崎宗司『植民地朝鮮の日本人』)。
 俄館播遷は、一八九六年二月十一日から一八九七年二月二十日まで、李氏朝鮮の第二十六代王・高宗がロシア公使館に移り朝鮮王朝の執政をとったことをいいます。
 与謝野の帰国は、同年四月十六日、落合直文の招電によるものでした。
 与謝野は、同年、出版社明治書院の編集長となります。そのかたわら跡見女学校で教えました。同年七月歌集『東西南北』、翌一八九七年、歌集『天地玄黄』を世に出します。

 【与謝野の三度目の朝鮮行き】

 この一八九七年七月三十一日にも、与謝野は朝鮮に行きます。
 しかし、「人参(にんじん)売買で洋行費用を作ろうとして失敗している」((高崎宗司『植民地朝鮮の日本人』)と、いいます。
 これについては朝鮮行きは「朝鮮民謡の研究」のためとする説もあります(ホームページ「おたまじゃくし」)。
 一八九九年、与謝野は、東京新詩社を創立。同年秋、最初の夫人・浅田信子と離別し二度目の夫人・林滝野と同棲、麹町区に住みます。
 一九〇〇年、「明星」を創刊。若手歌人・鳳晶子(のち寛夫人)との不倫が問題視されます。与謝野は、晶子の歌集『みだれ髪』作成をプロデュースし、妻・滝野と離別、一九〇一年、晶子と再婚します。
 一九〇一年八月、『みだれ髪』刊行。一九〇八年、『明星』は第百号をで廃刊。一九二一年、第二次『明星』が創刊し、一九二七年に廃刊します。
 結婚後の与謝野は、極度の不振に陥ります。一九一一年、晶子の計らいでパリへ行きます。のち晶子も渡仏、フランス国内からロンドン、ウィーン、ベルリンを歴訪します。しかし、鉄幹は依然不振を極めていました。
 一九一五年、第十一回総選挙で京都市選挙区から無所属で出馬しましたが、落選しました。
 一九三一年、雑誌「冬柏」を創刊。

 【上海事件に勢いづいて……】

 一九三二年一月二十八日、日本は関東軍の謀略で上海事変おこします。
 日本海軍陸戦隊の兵力は約二千人と第十九路軍とのたたかいになりました。
 上海事変後、日本軍は苦戦を強いられました。
 陸軍中央部は白川義則大将を司令官とする上海派遣軍を増援しました。金沢の第九師団と久留米の第十二師団より編成した混成旅団の総兵力は約一万七千人にのぼりました。
 二月二十日から二十五日まで、日本軍は上海市北郊の大場鎮、江湾鎮方面で第十九路軍に総攻撃をかけました。
 しかし、市街地に塹壕を築き、鉄条網を幾重にも張りめぐらせ自動小銃で抵抗する第十九路軍の猛攻で、日本軍は死傷者が続出しました。
 こうした背景のもと「爆弾三勇士」の物語が出現します。
 二月二十四日、日本の商業紙は、いっせいに「爆弾三勇士」の記事を掲載しました。
 東京朝日、「〝帝国万歳″を叫んで我身は木端微塵、三工兵点火せる爆弾を抱き、鉄条網に躍りこむ」。
 大阪朝日、「これぞ真の肉弾! 壮烈無比の爆死、志願して爆弾を身につけ鉄条網を破壊した三勇士」。
 大阪毎日、「肉弾で鉄条網を撃破す、点火した爆弾を身につけ、躍進した三人の一等兵、忠烈まさに粉骨破身」。
 東京日日、「世界比ありやこの気塊、点火爆弾を抱き鉄条網を爆破す、廟行鎮攻撃の三勇士」。
 国家、マスコミ一体となった「爆弾三勇士」づくりが始まりました。
 朝日、毎日は、二月二十八日、それぞれ「肉弾三勇士の歌」、「爆弾三勇士の歌」を懸賞募集する社告を出しました。
 一九三二年三月一日、日本は、日本のかいらい政権である「満州国」をつくります。
 こんな中の三月十五日、朝日、毎日に「肉弾三勇士の歌」、「爆弾三勇士の歌」の入選作が発表されました。
 毎日の「爆弾三勇士の歌」には与謝野鉄幹の作品が選ばれました。

 一、廟行鏡の敵の陣
   我れの友隊すでに攻む
   折から凍る二月の
   二十二日の午前五時

 二、命令下る、正面に
   開け、歩兵の突撃路
   装置の間なし、点火して
   破壊筒をば抱き行け

 三、答へて「はい」と工兵の
   作江、北川、江下ら
   凍たる心三人が
   思ふことこそ一つなれ

 四、我等が上に戴くは
   天皇陛下の大御稜威
   後ろに負ふは国民の
   意志に代れる重き任

 与謝野鉄幹は、一九三五年、気管支カタルがもとで死去。

 【文中で紹介した以外の参考文献】

 ○ 伊藤之雄『元老 西園寺公望 古希からの挑戦』。文春文庫。文藝春秋。二〇〇七年十二月二十日。

(二〇〇八年八月二十九日)

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