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2008.08.19

「大東亜戦争」の時代 高知県の二十二人に話を聞きました その三

 【アメリカの戦車の下に飛びこむ訓練を……】

 高知市の市川昌(あきら)さんが、海軍少年飛行兵になったのも、瀬戸鉄男さんが海軍に志願したのと同じころでした。
 市川さんは、一九四一年十二月八日の太平洋戦争開戦の時は十六歳。開戦を知って「早く戦争にいってお国のために役に立ちたい」と思ったといいます。
 「高知県下半山村(しもはんやまむら。今は津野町)の農家の息子です。十七歳で海軍少年飛行兵を受験しました。
 三度目に合格し、一九四三年六月、鹿児島市の鹿児島海軍航空隊に入隊しました。二十二期乙種飛行予科練習生です。
 四五年三月、アメリカの空襲で鹿児島海軍航空隊の兵舎は焼けてしまいました。基地もなし、私たちの乗る飛行機もないということで、私たちの航空兵としての訓練はできなくなりました。
 県下の国分(こくぶ)基地、鹿屋(かのや)基地、第二国分基地を転戦しました。丘陵に掘った壕(ごう)で生活し、アメリカ軍機の空爆の合間をぬって、上陸してくるアメリカの戦車を攻撃する訓練をしました。
 爆弾に見立てた物を背負ってたこつぼに潜みます。戦車に見立てたものがきたら、爆弾に見立てた物を持ってはっていってキャタピラの下に飛び込みます…。
 毎日のように、先輩少年兵が腹に二百五十㌔爆弾を抱いた零戦で沖縄県沖のアメリカ軍の艦船に体当たりするために飛び立ちました。燃料は片道です。飛び立って体当たりするまで二時間くらいです。
 ある先輩の少年兵は『死ぬまでに二本あればいい』といって、たばこの残りを見送っていた私たちにくれて飛び立っていきました。
 兄は三十歳を過ぎてから召集で海軍に入隊し、四五年三月三十一日、長崎県大村でアメリカ軍機の爆撃にあい戦死しました。
 私たちの村でも多くの家から一人から三人の戦死者がでました。」(二〇〇五年十二月八日、中四国版)。

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