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2008年11月

2008.11.02

高知市 激楽しかった高知短期大学のお祭り。

 ニ〇〇八年十一月一日。

 前日は授業が終わってからの高知短期大学祭の準備に参加。体育館にシートを張ったり、テニスコートに模擬店用のテントを張ったり、机を出したり……。

 きょうは、午前九時に学校へ。
 模擬店の準備。まずは二つのサークルなどの荷物運び。つぎはゼミのものの手伝い。

 正午、開会。
 ゼミの店のことは、そこそこに任せてフラフラフラフラ(だいぶ冷たい視線を受けましたが……)。
 体育館のライブでは、トリのバンドの演奏に感激。聞いているうちに体中が熱くなりました。イエーィ。
 「高知短期大学学生歌」の合唱団には先生も二人参加してくれて、テニスコートで二回歌いました。
 最後のビンゴゲームでは一等賞。五キロ入りのお米をいただきました。 

 終わってからゼミの仲間、先生三人と先生のゼミの奥さんの計九人で食事。
 そして、その後、全員でボーリングに。
 僕は四十年ほど前、東京で一回やったきりです。
 僕と同じゼミのRIさんは「いまいち」ですが、その他の人はグッド。
 でも、僕も楽しかった。

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高知市 高知市三里(みさと)墓地公園の一九四四年(昭和十九年)十一月の「納骨塔」が告発すること。【きょうの写真】

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 ニ〇〇八年十一月ニ日。

 高知短期大学祭から一夜が明けました。
 で、本日は、地元の老人クラブのことで打ち合わせ。

 そして、午後からはオートバイで。高知市仁井田へ。戦争遺跡の調査です。仁井田の県道14号脇の高知市三里(みさと)墓地公園の右手の角の「納骨塔」の写真撮影です。

 高知市役所三里出張所長・細川恒久さんが一九四四年(昭和十九年)十一月に建立したものでした。
 こんな文章が掘り込まれていました。
 「池及(および)仁井田地域ニ海軍施設ノタメ区域内ノ墓地移転ヲ命セラレタル所(ところ)工事ノ急速ヲ要セシタメ墓地所有者ヲ精密ニ調査スルノ遑(いとま)ナク当時引取人ナキ墳墓ヲ発掘シ此所(ここ)ニ納骨ス」

 アジア・太平洋戦争(一九四一年十二月八日~四五年八月十五日)下、日本帝国海軍は、高知市池、仁井田地域に浦戸海軍航空隊と高知海軍航空隊高知第二飛行場の建設しました。
 そのときのことです。
 これを端緒に、当時のことを調べていきたいと思っています。

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2008.11.03

高知市 「戦争はいや!」。生協高知・平和憲法・九条を考える会の意見広告。【きょうの写真】

008   二〇〇八年十一月三日。

 高知新聞朝刊に、こんな意見広告が載りました。

 生協高知・平和憲法・九条を考える会の出したものです。

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高知市 高知市五台山の竹林寺客殿。わきあがった一九六六年夏のシーン。

 ニ〇〇八年十一月三日。

 午前十一時、高知市五台山の竹林寺客殿に到着。
 午後三時半からのコンサートの準備です。
 スタッフ十数人。
 いす、ピアノなどを運んで会場設営をします。
 終わったらいす、ピアノを元あった所に返し、ふすまを入れ、舞台をしまう……。
 一日の高知短期大学祭に続く肉体労働です。

 ところで、作業しているとき思い出したシーンがあります。
 一九六六年夏のことです。
 僕は、高知大学文理学部一年生で、文理学部学生自治会の執行委員でした。
 自治会の合宿学習会の会場が、ここでした。
 ベトナムの『あの人の生きたように』もテキストでした。
 渡辺さんがいました(亡くなりました)。村上さんがいました(愛知県にいます)。ゆみちゃんがいました(埼玉県にいます)。ひろこさんがいました(わが家にいます)。
 二十人ほどいたと思います。
 たしか、そのときの写真が一枚、どこかにあったと思います。
 この日は、ひろこさんの人生が変った日でした。

 終わってから事務所で、ご苦労さん会。目一杯食べました。
 でも、アルコールはノー。
 明日も早朝から山にいって肉体労働です。

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2008.11.04

高知県 「憲法の森」への道 その一。道端の看板。

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 ニ〇〇八年十一月四日。

 午前八時半前、高知市升形の平和資料館・草の家に到着。
 次々とメンバーが集まってきて乗用車三台に分乗してスタート。
 目的地は県下大豊町立川下名(たちかわしもみょう)の草の家の「憲法の森」です。
 運転は著名なカメラマン。僕は後部座席で、ずーっとムムムムムム……。
 起きたら着いていました。
 山間の道の左手に、こんな看板がありました。

 すっごく、じーんとくる文章です。

 一九九五年五月三日。

 僕は、東京都から広島市に単身赴任していました。

 高知市の草の家のことは知っていましたが、「憲法の森」をつくっていたことは知りませんでした。

 (つづく)

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高知県 「憲法の森」への道 そのニ。「憲法の森」の看板。

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 ニ〇〇八年十一月四日。

 高知県大豊町立川下名(たちかわしもみょう)の「憲法の森」は、その看板の反対側です。
 看板が見えます。
 きょうの作業は、この看板の塗り直し、まわりの木を整備して道路からよく見えるようにすることです。

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高知県 「憲法の森」への道 その三。備え付けの丸太橋を渡して……。

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 ニ〇〇八年十一月四日。
 
 「憲法の森」への道はけわしかった。
 まず、ずるずるずると井出川へ降りました。
 備え付けの丸太橋を渡して、それを伝って(僕は、おっかなびっくりで…)山側へ。
 「道なき道」を登って左手に「憲法の森」の看板がたっていました。

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高知県 「憲法の森」への道 その四。さぁ、塗料を塗るぞ。

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 ニ〇〇八年十一月四日。
 
 さぁ、「憲法の森」の看板の整備です。
 草を刈り、立木を整備し……。
 地元の人が下準備をしてくれていましたので、その上に塗料を塗ります。
 十九歳の男性や学齢前の子ども二人も参加しての作業です。
 鳩もいくつか取り付けました。

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高知県 「憲法の森」への道 その五。「憲法の森」の看板のリニューアル完成。

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 ニ〇〇八年十一月四日。
 
 「憲法の森」の看板のリニューアル完成。
 みんな、がんばりました。

 近くの屋根つき橋の下の河原に降りて、昼食。おいしかったですよー。

 

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2008.11.06

高知市 東京都在住の息子が三十四歳になりました。

 二〇〇八年十月六日。

 東京都清瀬市に住む息子の誕生日です。

 きのうの午前中、仕事で高知市に立ち寄るというので妻の父、妻、私で「現場」に出向きお祝いを渡しました。

 妻の父はチョコレートを。

 妻と私は、息子の歳、「三十四」にちなむ額の現ナマをプレゼント。

 他の人もいたせいか、息子はクールに当然であるかのように受け付けて、さっさと次の仕事の場所(県外)に向かいました。

 「『ありがとう』もいわん。なんて『せい』のないやつだ」とぶつぶついっていたら、パソコンに、「ありがとうメール」がきていました。

 「いちおう、人間なんだなぁ」

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高知市 「こねてると 形になってく 面白さ……」。

 二〇〇八年十一月六日。

 こねてると 形になってく 面白さ

 一輪ざしが

 二つできたよ

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2008.11.09

高知市 友人たちが「平和憲法を守る在米日本人の会」のホームページを立ち上げています。

 二〇〇八年十一月九日。

   友人の薄井雅子さん(セントポール, MN)たちが、「平和憲法を守る在米日日本人の会」のホームページを立ち上げています。

 ぜひ、こちらへ。

 http://www.jpkenpo.us/

 【追記】

 このページのミスを指摘していただいたHAさん、ありがとうございました。

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2008.11.11

高知市 短歌、「永国寺町の夜の教室から」。

 二〇〇八年十一月十日。

満月に「わーっ、きれい」と声上げる 授業を終えた夜の学生

繰り返しハングル発音してくれて「よくできたわね」 友のねぎらい

意気込んで答えた内容「ミスですよ」「ええっ、そうなのか」 ハングル授業

夜学いく僕より遅く帰宅する 妻の自転車、空飛ぶ勢い

「ライブつき望年会をやらんかよ」 夜の学生、爆発しょうぜ

オバマ氏の勝利の評価それぞれで この夜の授業、食いついて聞く

編入の合格はまだ、悩む友 あす最終の「決戦」と聞く

いまごろはビジネスホテルで調整中 「面接試験、大きな声でね」

正月を試験勉強に予定する 勤労学生、六十一は

大学か大学院に行きたくて「ウン、ウン」悩む六十一が

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2008.11.13

高知市 六十一歳は、お忙し。こんなはずではなかったのですが……。

 二〇〇八年十一月十二日。

 午前中。

 故障したオートバイを修理。よーっし。

 いつものように入浴。ネコがやってきたので、ネコにも入浴させました。

 食事。

 高知短期大学学生四人で、ある県議と懇談。

 午後。

 高知短期大学学生四人で、ある県議と懇談。

 四人で、遅い昼食をとったあと、僕は学校へ。

 学生の一人からハモのヒモノをもらいました。

 そのあと、ひたすら予習。

 夜。

 六時から九時過ぎまで授業。

 ある学生と、あす午後、一緒に勉強する約束を取りつけました。

 授業のあと、先生、先輩、学生で打ち合わせ。計画中の集いのポスター、ビラ、はがきの原稿づくりをおおせつかる。

 帰宅後、妻から、地域での活動予定を聞きました。なかなか参加できそうにありませんが……。

 食事。

 そのあと、ある新聞記者からのメール、アメリカの男性からのメールに返事を書きました。

 で、ダウン。

 あすも、朝からぎっしりです。

 六十一歳は、なかなか、ゆったりした生活はいとなめません。

 こんなはずではなかったのですが……。

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2008.11.14

高知市 マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの「I have a dream」(私には夢がある)の演説を聞きました。

 二〇〇八年十一月十二日。

 マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの(Martin Luther King, Jr、1929年1月15日 - 1968年4月4日)の演説「I have a dream」(私には夢がある)の全文がほしくてインターネットを検索しました。
 ありました。
 ここです。

 http://dreamer1.hp.infoseek.co.jp/dream.html

 音声もありました。
 ありがたく聞かせていたただきました。

 なお、キングは、アメリカ合衆国のプロテスタントバプティスト派の牧師でアフリカ系アメリカ人公民権運動の指導者的役割を果たしました。
 「I have a dream」は、1963年8月、ワシントン大行進での演説です。人種差別の撤廃と各人種の協和という理想を伝えています。

 【以下、全文】

Martin Luther King's Speech -- I Have A Dream!
August 28, 1963

I am happy to join with you today in what will go down in history as the greatest demonstration for freedom in the history of our nation.

Five score years ago, a great American, in whose symbolic shadow we stand today, signed the Emancipation Proclamation. This momentous decree came as a great beacon of hope to millions of slaves, who had been seared in the flames of withering injustice. It came as a joyous daybreak to end the long night of their captivity. But one hundred years later, the colored America is still not free. One hundred years later, the life of the colored American is still sadly crippled by the manacle of segregation and the chains of discrimination.

One hundred years later, the colored American lives on a lonely island of poverty in the midst of a vast ocean of material prosperity. One hundred years later, the colored American is still languishing in the corners of American society and finds himself an exile in his own land So we have come here today to dramatize a shameful condition.

In a sense we have come to our nation's capital to cash a check. When the architects of our great republic wrote the magnificent words of the Constitution and the Declaration of Independence, they were signing a
promissory note to which every American was to fall heir.

This note was a promise that all men, yes, black men as well as white men, would be guaranteed to the inalienable rights of life, liberty, and the pursuit of happiness.

It is obvious today that America has defaulted on this promissory note insofar as her citizens of color are concerned. Instead of honoring this sacred obligation, America has given its colored people a bad check, a
check that has come back marked "insufficient funds."

But we refuse to believe that the bank of justice is bankrupt. We refuse to believe that there are insufficient funds in the great vaults of opportunity of this nation. So we have come to cash this check, a check that will give us upon demand the riches of freedom and security of justice.

We have also come to this hallowed spot to remind America of the fierce urgency of Now. This is not time to engage in the luxury of cooling off or to take the tranquilizing drug of gradualism.

Now is the time to make real the promise of democracy.

Now it the time to rise from the dark and desolate valley of segregation to the sunlit path of racial justice.

Now it the time to lift our nation from the quicksand of racial injustice to the solid rock of brotherhood.

Now is the time to make justice a reality to all of God's children.

It would be fatal for the nation to overlook the urgency of the moment and to underestimate the determination of it's colored citizens. This sweltering summer of the colored people's legitimate discontent will not pass until there is an invigorating autumn of freedom and equality. Nineteen sixty-three is not an end but a beginning. Those who hope that the colored Americans needed to blow off steam and will now be content will have a rude awakening if the nation returns to business as usual.

There will be neither rest nor tranquility in America until the colored citizen is granted his citizenship rights. The whirlwinds of revolt will continue to shake the foundations of our nation until the bright day of justice emerges.

We can never be satisfied as long as our bodies, heavy with the fatigue of travel, cannot gain lodging in the motels of the highways and the hotels of the cities.

We cannot be satisfied as long as the colored person's basic mobility is from a smaller ghetto to a larger one.

We can never be satisfied as long as our children are stripped of their selfhood and robbed of their dignity by signs stating "for white only."

We cannot be satisfied as long as a colored person in Mississippi cannot vote and a colored person in New York believes he has nothing for which to vote.

No, no we are not satisfied and we will not be satisfied until justice rolls down like waters and righteousness like a mighty stream.

I am not unmindful that some of you have come here out of your trials and tribulations. Some of you have come from areas where your quest for freedom left you battered by storms of persecutions and staggered by the winds of police brutality.

You have been the veterans of creative suffering. Continue to work with the faith that unearned suffering is redemptive.

Go back to Mississippi, go back to Alabama, go back to South Carolina go back to Georgia, go back to Louisiana, go back to the slums and ghettos of our modern cities, knowing that somehow this situation can
and will be changed.

Let us not wallow in the valley of despair. I say to you, my friends, we have the difficulties of today and tomorrow.

I still have a dream. It is a dream deeply rooted in the American dream.

I have a dream that one day this nation will rise up and live out the true meaning of its creed. "We hold these truths to be self-evident: that all men are created equal."

I have a dream that one day out in the red hills of Georgia the sons of former slaves and the sons of former slave owners will be able to sit down together at the table of brotherhood.

I have a dream that one day even the state of Mississippi, a state sweltering with the heat of oppression, will be transformed into an oasis of freedom and justice.

I have a dream that my four little children will one day live in a nation where they will not be judged by the color of their skin but by their character.

I have a dream today.

I have a dream that one day down in Alabama, with its vicious racists, with its governor having his lips dripping with the words of interposition and nullification; that one day right down in Alabama little black boys and black girls will be able to join hands with little white boys and white girls as sisters and brothers.

I have a dream today.

I have a dream that one day every valley shall be engulfed, every hill shall be exalted and every mountain shall be made low, the rough places will be made plains and the crooked places will be made straight and the glory of the Lord shall be revealed and all flesh shall see it together.

This is our hope. This is the faith that I will go back to the South with. With this faith we will be able to hew out of the mountain of despair a stone of hope.

With this faith we will be able to transform the jangling discords of our nation into a beautiful symphony of brotherhood.

With this faith we will be able to work together, to pray together, to struggle together, to go to jail together, to climb up for freedom together, knowing that we will be free one day.

This will be the day when all of God's children will be able to sing with new meaning "My country 'tis of thee, sweet land of liberty, of thee I sing. Land where my fathers died, land of the Pilgrim's pride, from every mountainside, let freedom ring!"

And if America is to be a great nation, this must become true. So let freedom ring from the hilltops of New Hampshire. Let freedom ring from the mighty mountains of New York. Let freedom ring from the
heightening Alleghenies of Pennsylvania. Let freedom ring from the snow-capped Rockies of Colorado. Let freedom ring from the curvaceous slopes of California. But not only that, let freedom, ring from Stone
Mountain of Georgia. Let freedom ring from every hill and molehill of Mississippi and every mountainside.

When we let freedom ring, when we let it ring from every tenement and every hamlet, from every state and every city, we will be able to speed up that day when all of God's children, black men and white men, Jews and Gentiles, Protestants and Catholics, will be able to join hands and sing in the words of the old spiritual,

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2008.11.16

高知市 韓国語が飛び交う楽しい集いでした。

 二〇〇八年十一月十五日。

 午後は事務所。

 MIさんなど何人かの訪問者あり。

 ビラを千数百枚刷りました。

 夜は、高知短期大学の韓国語履修の関係の夕食会。

 参加者十六人。気がついたら男性は僕だけです。

 韓国語が飛び交う楽しい集いでした。

 僕は、まだ、ほとんど韓国語を理解していませんが……。

 さて、明日は、ひさしぶりに、いの町へ。

 中学校のときの友人宅へ遊びにいきます。

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2008.11.17

高知県いの町 おいしいイノシシ鍋をいただきながらのひととき。

 二〇〇八年十一月十六日。

 高知県いの町鹿敷(かしき)のお祭りということで、その地の中学時代の友人・TOさんの自宅の「お客」に招かれました。
 午後二時、いの駅前集合。
 男性五人の集まりでした。
 TOさんの、ものすごくおいしいイノシシ鍋をいただきながらの楽しいひとときでした。
 食べ過ぎてお腹がポンポコポン。

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2008.11.18

高知県いの町 この町の宴会システム。

 二〇〇八年十一月十六日。

 お客(宴会)で思い出したのですが、高知県いの町の宴会システムです。
 お祝いごとや法事で自宅で三十人ほどの宴会をやることがあります。
 五十代まで、いの町に行き来したのですが、宴会のシステムに驚いたことがあります。

 魚屋さん(「まなべ」、「ともくさ」など)に頼むと、「さわち」のほかに座り机、皿、茶碗、座布団などを持ってきてくれるのです。
 今は、どうなっているのかわかりませんが、とっても便利なシステムでした。

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高知県いの町 「ザンをやるき、きいや」という言葉。

 二〇〇八年十一月十六日。
 
 高知県いの町での集まりで、話していて知らなかった土佐弁をしりました。
 「ザンをやるき、きいや」
 宴会(お客)のつぎの日くらいに「宴会の残り物で宴会をやるから、おいでください」というものです。

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高知市 【きょうの写真】 街角の秋の色。

001 057

 027 二〇〇八年十一月十八日。

 午前中で仕事は終わり。

 帰りにいろんな秋の色を写真に撮りました。

 赤い花は本日買い込んだガーベラ。

 家に帰って一休み、予習をして、高知短期大学へという日程です。

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2008.11.19

高知市  「そういえば、ほざいていたわね。あんたがね」。これがピュアーな乙女だった妻の、きょうの発言です。なんだか感動しました。

 二〇〇八年十一月十八日。

 「そういえば、ほざいていたわね。あんたがね」

 ピュアーな乙女の

 数十年後

 この発言の後、

 「肉でも焼こうか。食べるかえ」

 と、声をかけると、

 「それは、私に肉を焼けといっているのね」

 と、僕が台所に立とうとするのを制して、肉を揚げて食卓に運んできました。

 なんかすなおじゃないですね。この人は。

 夫には、いいたい放題

 わが妻が

 ネコなぜ声で 子ネコをあやす

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高知市 「このときに 国際経済 学んでる 意味かみしめて……」。

 二〇〇八年十一月十八日。

 このときに 国際経済 学んでる

 意味かみしめて

 切り抜きつくる

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高知市 「アメリカ発の金融危機」から国民の暮らしをを守る道。

 二〇〇八年十一月十九日。

 「アメリカ発の金融危機」から国民の暮らしをを守る道は……。

 それを考えるためには以下の記事がよかった。

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-11-12/2008111205_01_0.html

 この記事は、つぎのような書き出しで始まっています。

 アメリカ発の金融危機は、世界経済の大混乱を引き起こし、日本経済にも深刻な影響を与えています。いま起きていることは、単なるバブルの崩壊ではありません。極端な金融自由化と規制緩和をすすめ、投機マネーを異常に膨張させ、世界有数の巨大金融機関が先頭にたって、ばくちのような投機=マネーゲームに狂奔する――「カジノ資本主義」が破たんしたのです。世界の経済と金融のあり方の根本が問われています。

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高知市 チンチン電車の地味目のピアスの運転手。

 二〇〇八年十一月十九日。

 運転手 地味目のピアス 愛らしく チンチン電車 街ぬっていく

 十六日午後の、見聞です。

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高知県 『高知の戦争 証言と調査』第一号(二〇〇八年十二月)、近日発売!!!

 二〇〇八年十一月十八日。

 きのうの夜の韓国語の授業で先生から「あなたは、昨夜、何時に寝ましたか」という質問がありました(もちろん韓国語で)。 「午前三時に寝ました」 実は、そのため、かなり疲弊していました。 昨夜は、『高知の戦争 証言と調査』第一号(二〇〇八年十二月)をパソコンで編集していました。 データを再度編集して印刷をしてくれる人の所にメールで送って寝たのが、この時間でした。

 以下、その内容。

 創刊のあいさつ  岡村 正弘

 勢いよく手を挙げて特別攻撃隊に志願した時  明神  節

 戦争に明け暮れる歳月の小、中学校  岡﨑 清恵

 私たちの学校は帝国陸軍に占領されていた 窪田 允治

 本土決戦と高知県幡多地方  大西 正祐

 高知県南国市の砂中のトーチカ  福井 康人

 【表紙の写真】 土の兵隊  藤原 義一

              ☆ ☆ ☆

 編  集  戦争遺跡ネットワーク高知

  発  行  平和資料館・草の家

        高知市升形九の一一

        電話 088(875)1275

 印  刷  高知人書店

       高知市針木西一三〇一

 定  価  二百円

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高知市 いきいき体操をはじめました。

 二〇〇八年十一月十九日。

 午後一時から地域の公民館でやられているミニデーに。

 約二十人の集まり。ここも男性が少数派で計四人。

 いきいき百歳体操をやりました。

 初めてです。

 けっこうきつい。

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高知市 詩「僕は、どんな人間を素晴らしいと思って生きてきたのか」。 

 二〇〇八年十一月十九日。

        僕は、どんな人間を素晴らしいと思って生きてきたのか

 あなたと話していて、考えました。
 僕は、どんな人間を素晴らしいと思って生きてきたのかと。

 成績のいい人、頭のいい人、「出世」している人、お金持ち……
 うーん、そんなのが基準ではないなぁ。
 もちろん成績のいい人、頭のいい人、「出世」している人、お金持ちにも素晴らしい人はいるけど……。
 やっぱり人々の幸せのために行動できる人、そうした行動に自分の幸せを見出せる人。そんな人が僕が思っている素晴らしい人です。 

 あなたは、これから羽を広げて飛び立とうという前に傷ついて挫折したことがあったそうですね。
 挫折は挫折を呼び込み、だんだん行き先をなくしてしまうものです。
 しかし、あなたは、その挫折を乗り越えました。
 挫折の代償として、人の心の痛みを包み込める優しい心を得ました。
 自分を成長させる道を歩み始めました。

 そして、いま、「新しい自分」を育てる課題に果敢に立ち向かっています。
 僕は、あなたの、そんな姿を素敵だなと思って見ています。
 見ているだけで手を差し伸べることがなかなかできないのが口惜しいです。
 一人でがんばろうとして、少しうまくいかなかったあなた。
 でも、この数週間のあなたは、人を頼り、人の手を借りて自分を成長させるということを知りました。
 このことは、きっと、あなたの、これからの人生の財産になることでしょう。

 きょう、はからずも、あなたの目から大粒の涙が流れるのを見てしまいました。
 たぶん、自分が「ありたいとする自分」に到達できていないことへの憤りの涙だったのではないでしょうか。

 涙は乾きましたか。
 もう午前零時前です。
 もしかしたら、あなたは、いまパソコンに向かっているかもしれませんね。
 羽を大きく広げてパタパタさせながら。
 「きっと、舞い上がってみせる」
 そんな熱い思いを胸に秘めながら。

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2008.11.20

高知市 苑翠子さんの「火の毬(まり)」の短歌。

 二〇〇八年十一月十九日。

 火の毬(まり)を つきそこねてる わが歩み 掌(て)の烙印は ありやなしやと

 何かわからない短歌が生まれました。

 今晩の授業で苑翠子さんの、つぎの短歌を知って詠みました。
   
 火の毬(まり)を つきて遊びし つかのまの 記憶わが掌(て)に 烙印となる

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高知市 サツマイモの葉が黒ずんで枯れていました。

 二〇〇八年十一月十九日。

 きのうあたりから、すっごく寒くなりました。
 昨日は、ぶ厚いコートを着こんでオートバイで通学。
 衣服ってありがたいなぁとつくづく思いました。
 このコートがなければ、震えあがっていたことでしょう。

 きょうの朝、菜園を見たらサツマイモの葉が黒ずんで枯れていました。
 霜のせいでしょうか。

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2008.11.21

高知市 ソーッとしました。下手をしたら、いまごろ「天国」からブログをアップしているところでした。

 二〇〇六年十一月二十一日。

 朝、オートバイで走行中、オートバイが道の真ん中でガクンと止まってしまいました。

 しまった。

 すぐ後ろに異常事態の合図をしてオートバイを無理やり道端に持って行きました。

 危ないところでした。

 チェーンが外れてしまったのです。

 かなりゆるくなっていました。

 昼休みにオートバイの店に持って行きました。

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高知市 やかましい目覚まし時計を手に入れました。

 二〇〇六年十一月二十一日。

 今朝はあわてましたら。起きたら午前八時でした。

 いつもは午前七時半に起きているのですが(いや、妻に起こしてもらっているのですが……)。

 出勤時間に間に合うには午前八時二十分には家をでなくてはなりません。

 シャワーをしながら髪を洗い、歯をみがいて……。

 で、時計店にいって

 「できるだけ小さくて、できるだけやかましい目覚まし時計をください」

 ベルがジャンジャン鳴る、いいのが手に入りました。

 さて、明日は午前六時には起きなくてはいけません。

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高知市 アメリカ、イギリスの少年少女の手紙の「×××」の意味。

 二〇〇六年十一月二十一日。

 昨夜、こんなことを教えてもらいました。

 アメリカやイギリスの少年少女の手紙に最後に「×××」と書いてあることがあります。

 ×はキスの意味で「チュッ、チュッ、チュッ。大好き」ということだそうです。 

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高知市 軍歌「雪の進軍」の「どうせ生かして還さぬ積り」の歌詞。

 二〇〇八年十一月二十一日。

 「雪の進軍」(作詞・作曲:永井建子)という軍歌があります。
 一八九五年二月中旬にできました。
 作者が、大山巌大将率いる第二軍司令部付の軍楽隊の軍楽次長として山東半島の虎山という寒村に二週間駐営したときにつくったものです。
 歌の最後の文句「どうせ生かして還さぬ積り」は、昭和に入ると不穏当だと軍の横槍が入って、「生きて還さぬ積り」に改めさせられました。

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「軍歌」には、こう書かれています。
 
 ……厭戦(えんせん)歌そのもののような、軍歌としては異色の歌詞が特徴。長らく将兵に愛唱されていたが「勇壮でない」とされ、昭和に入り歌詞が一部改訂(「どうせ生かして還さぬ積り」という歌詞が「どうせ生きては還らぬ積り」に直された)され、さらに太平洋戦争中には歌唱禁止とされていた。……

 一、雪の進軍氷を踏んで
   どれが河やら道さえ知れず
   馬は斃(たお)れる捨ててもおけず
   ここは何処(いずく)ぞ皆敵の国
   ままよ大胆一服やれば
   頼み少なや煙草が二本

 二、焼かぬ乾魚(ひもの)に半煮(はんに)え飯に
   なまじ生命(いのち)のあるそのうちは
   こらえ切れない寒さの焚火(たきび)
   煙(けむ)いはずだよ生木が燻(いぶ)る
   渋い顔して功名噺(ばなし)
  「すい」というのは梅干一つ

 三、着の身着のまま気楽な臥所(ふしど)
   背嚢(はいのう)枕に外套かぶりゃ
   背(せな)の温(ぬく)みで雪解けかかる
   夜具の黍殻(きびがら)シッポリ濡れて
   結びかねたる露営の夢を
   月は冷たく顔覗き込む

 四、命捧げて出てきた身ゆえ
   死ぬる覚悟で吶喊(とっかん)すれど
   武運拙(つたな)く討死(うちじに)にせねば
   義理にからめた恤兵真綿(じゅっぺいまわた)
   そろりそろりと頚(くび)締(し)めかかる
   どうせ生かして還さぬ積り*


 恤兵は、物品を送って、戦地の兵士を慰問することです。

 【参考文献】

 ● 『CDブック 戦争と流行歌 君死にたまふことなかれ』(矢沢寛。社会思想社。一九九五年八月三十日)。

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2008.11.23

高知市 高知短期大学経済学クラブの一泊の研修旅行。その一。いやーっ、「老人度」が進んでいました。

 二〇〇八年十一月二十二日。

 高知短期大学経済学クラブの一泊の研修旅行に参加しました。

 午前七時半、高知市の県立美術館前でバスに乗る予定です。
 午前六時、起床。午前中、午前七時、出発。
 「危ないかな。タクシーでいこうか」
 「何いってるのよ。歩いて十五分よ」
 で、テクテク。

  急ぎすぎて心臓パクパク。
 

  結局、三十分以上かかって、みんなに迷惑をかけてしまいました。

 計ニ十六人の参加。
 まずは、一路、広島市へ。

 といっても、途中は、ほとんどム、ム、ム、ム……。

 隣の席の女性は「この人は何て……」という感じで呆れ気味、

 真後ろの二人の女性は、終始、楽しげな会話を楽しんでいました。

 ときどき眼がさめて「ああ、こんなに、絶え間なく会話が話しできたらすてきだろうな」と思いました。

 実は、家では妻に「あんたは『会話しょうよ』なんて声をかけておいて、ほとんど自分ではしやべらんき対話が成立せん」と苦情をいわれています。

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高知市 高知短期大学経済学クラブの一泊の研修旅行。その二。お好み焼き。

 二〇〇八年十一月二十二日。

 高知短期大学経済学クラブの一泊の研修旅行。その二。

 昼食は広島市の「お好み村」。
 以前、三年半、単身赴任していた事務所の近くです。
 ドドドンと盛り上げた食材が、圧縮されて「お好み焼き」になっていく過程を見学して何か感動しました。
 広島市は、妻が小学校を卒業したまちでもあります。何だか懐かしい所です。

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高知市 高知短期大学経済学クラブの一泊の研修旅行。その三。「広島県の地産地消運動と産直運動の現状について」。

 二〇〇八年十一月二十二日。

 高知短期大学経済学クラブの一泊の研修旅行。その三。

 広島市で専門家の講義を聞きました。
 テーマは「広島県の地産地消運動と産直運動の現状について」。
 足で稼いだ、すっごい講義でした。

 質問の時間があり、僕も手を挙げました。
 「高度成長から一九八〇年代までの日本の経済を成功したという議論と付き合っていますが、農村が疲弊してきたことを見ると、そうとは思えません。農村を歩いている研究者としては、このテーマをどう考えていますか」
 ていねいに答えていただけました。
 何だかジーンとしました。

 その後、広島市平和記念資料館へ。 

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2008.11.24

高知市 高知短期大学経済学クラブの一泊の研修旅行。その四。ミーティングでは自己紹介も。

 二〇〇八年十一月二十二日。

 高知短期大学経済学クラブの一泊の研修旅行。その四。

 夜は食事の後、ミーティング。
 自己紹介もありました。
 これまでに付き合ったことのない人がたくさんいたので、「ふーん。そうなのか」と楽しくお話を聞かせていただきました。

 その後、「あること」で夜の広島市を歩きまわりました。
 街はクリスクス用なのでしょうか、いろんな電飾の飾り物でいっぱい。何か東京のJR新宿駅南口のような感じです。
 確かにきれいですが、僕は、そんな「きれい」があまり好きではありません。
 何かひねくれているのでしょうか。

 部屋は二十代の男性二人、四十代の公務員の男性の計四人。

 焼酎の小瓶を買ってきました。

 みんなで飲もうと思ったのですが、みなアルコールはあまり好きでないとのこと。一人で飲みました。

 途中で、公務員の男性の買ってきたカップめんを一つもらってズーズー。夕食はカキづくしで、お腹ペンペコポンだったのに、これが入るのが不思議です。

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高知市 高知短期大学経済学クラブの一泊の研修旅行。その五。ホテルの「若おかみ」がかいたという花の絵。

 二〇〇八年十一月二十三日。

 高知短期大学経済学クラブの一泊の研修旅行。その五。

 広島市での朝。
 ホテルの「若おかみ」がかいたというホテル内に飾られた絵を、もう一度見て回りました。
 ザクロの花、ユリの花……と、花をセクシャルにえがいています。
 ザクロの花は女性の性を、ユリの花は両性のそれを……。
 僕はユリの花の色づかいに「疑問」あり。「若おかみ」と、そのことについて議論してみたかったのですが、「若おかみ」の顔を見ることもありませんでした。

 午前七時、食事。おかわりもして腹いっぱい食べました。 
 午前八時、バスで出発。

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高知市 高知短期大学経済学クラブの一泊の研修旅行。その六。八時十五分で止まったままの時計。

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 二〇〇八年十一月二十三日。

 高知短期大学経済学クラブの一泊の研修旅行。その六。

 おお、前日、講義の後、広島市の広島平和記念資料館へいったことを書き忘れていました。
 八時十五分で止まったままの時計にくぎ付けになりました。

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高知市 高知短期大学経済学クラブの一泊の研修旅行。その七。広島県の厳島神社で見たもの。

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 二〇〇八年十一月二十三日。

 高知短期大学経済学クラブの一泊の研修旅行。その七。

 広島県の厳島神社にやってきました。
 ここでの写真を何枚か紹介します。

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高知市 高知短期大学経済学クラブの一泊の研修旅行。その八。山口県岩国市の錦帯橋へ。

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 二〇〇八年十一月二十三日。

 高知短期大学経済学クラブの一泊の研修旅行。その八。

 そして、そして、山口県岩国市の錦帯橋へ。
 ここは、確か三回目です。

 柔らかな 笑顔の女性(ひと)との
 再会も あるかも知れぬ
 錦帯橋ゆく

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高知市 高知短期大学経済学クラブの一泊の研修旅行。その九。宇野千代生家の表にかかっていた宇野さんの言葉の看板。

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 二〇〇八年十一月二十三日。

 高知短期大学経済学クラブの一泊の研修旅行。その九。

 山口県岩国市の宇野千代生家へ。
 表にかかっていた看板の宇野さんの言葉に感激しました。
 ここでも、何枚か写真をアップします。

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高知市 高知短期大学経済学クラブの一泊の研修旅行。その十。愛媛県の大三島に。

 二〇〇八年十一月二十三日。

 高知短期大学経済学クラブの一泊の研修旅行。その十。

 最後に愛媛県の大三島に。
 いろいろと思い入れのある場所です。
 言葉がまとまらないので、ここは、また後ほど。

 帰りも、またム、ム、ム、ム、ム……。

 実際は、みんなともっともっと話したかったのですが……。

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2008.11.26

高知市 ひたすら環境論のリポート執筆にとりくみました。

 二〇〇八年十一月二十四日。

 仕事も学校も休み。
 午前十一時からひたすら環境論のリポート執筆にとりくみました。
 テーマは四つ。
 できあがったら夜になっていました。

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高知市 高知海軍航空隊第三飛行場の格納庫跡 二十ほどを確認しました。

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 二〇〇八年十一月二十五日。

 午前中、高知市の事務所で仕事。
 午後零時、FU青年が三菱自動車製のジープで登場。
 助手席に乗せてもらって高知県四万十町の宮内へ。
 二時間で到着。
 四十ほどあったとみられる高知海軍航空隊第三飛行場の格納庫跡を探すためです。
 高知海軍航空隊の文書の図面には四十六の格納庫がえがかれています。
 歩いていて出会った終戦当時、国民学校一年生だった男性が、案内してくれました。
 当時の彼の家の前に軍の検問所があったといいます。
 上空を毎日のように艦載機群れをなして飛んでいったといいます。
 その上をB29がグワン、グワンという音をたてて飛んでいったといいます。
 この人のおかげで格納庫跡を十ほど確認。
 山を掘り込んだ物です。
 当時は、練習機・白菊を後ろから入れ、その上を木の枝などで擬装していたといいます。
 彼から、別の場所を知っている男性を紹介され、次へ。
 その男性は、二つの横穴壕に案内してくれました。
 そして、格納庫跡にも案内してくれました。
 畑になっているもの、そこにすっぽりと家が建っているものなど十ほどを確認しました。
 後二ヵ所いきたかったのですが時間切れ。

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2008.11.27

高知市 アメリカ英語で、John Hancock(ジョン・ハンコック)がSignature (署名)である訳。

 二〇〇八年十一月二十七日。

 夜の授業前に懸命に英文和訳。
 これまでわからなかった所が一つの言葉の意味がわかったことでうまく和訳できました。
 それは、つぎの言葉です。
 
 John Hancock (ジョン・ハンコック)

 辞書を引くと、アメリカ英語で、

 Signature (署名)

 という意味だったのです。

 授業のとき、当たったのが、ここの部分。おかげてわりとすらすらと訳せました。

 【John Hancock=Signature の訳】

 ジョン・ハンコック
 出典: フリー百科事典『ウィキペディア』から

 ジョン・ハンコック(英:John Hancock、1737年1月12日(ユリウス暦) - 1793年10月8日(グレゴリオ暦))は、アメリカ合衆国の政治家である。第二次大陸会議および連合会議の議長を務め、マサチューセッツ州の初代知事となった。アメリカ独立宣言に最初に署名した人である。

  生い立ち

 ジョン・ハンコックは、マサチューセッツの現在はクィンシー市となった町の一角ブレイントリーで生まれた。ハンコックの父親はハンコックが幼い時に亡くなったので、ニューイングランドで非常に成功していた商人で父方の叔父トマス・ハンコックに育てられた。ボストン・ラテン学校を卒業すると、ハンコックはハーバード大学に進み1754年17歳の時に経営学の学位を受けた。卒業後は叔父のところで働いた。1760年から1764年まで、ハンコックはイギリスに渡り、叔父の造船業の顧客や納入業者との関係を作り上げた。ハンコックがイギリスから戻った直後に叔父が死に、ハンコックは叔父の遺産と事業を引き継ぐことになり、当時のニューイングランドで最も富裕な者となった。
 ハンコックはドロシー・クィンシーと結婚した(ドロシーの叔母は作家オリバー・ウェンデル・ホームズの曾祖母である)。

  独立戦争以前

 ボストンの都市行政委員とマサチューセッツ議会議員となったハンコックは、植民地の交易を制限することになる印紙法が彼の事業にも脅威となったので、法の施行に抗議することになった。
 印紙法は撤廃されたが、他にもタウンゼント諸法など幾つかの法が日用品にまでの課税を義務づけることになった。その結果ハンコックの海運事業が難しくなってきたので、ガラスや鉛、紙、紅茶の密貿易を始めた。 1768年、ハンコックの所有するスループ船リバティがイギリスから戻って来たとき、所得法違反の廉でイギリス税関の役人に取り押さえられた。これが原因で積荷を期待していたボストン市民が激高し暴動になった。
 ハンコックの通常商業貿易と密貿易の収入がイギリス当局に対する地域の反抗を金の面で支えていたので、ボストンの人々は「サミュエル・アダムズが新聞に文書を投稿し、ジョン・ハンコックがその切手を支払う」というジョークを作った。

  アメリカ独立戦争

 ハンコックは当初、拡大する反抗の財政的援助者であったが、後にイギリス支配に対する公的な批判者となった。1774年3月5日、ボストン虐殺事件から4年が経った日に、ハンコックはイギリスを激しく非難する演説を行った。同じ年にハンコックはマサチューセッツ植民地議会の議長に満場一致で選ばれ、その中の安全委員会も主宰した。ハンコックのもとでマサチューセッツ民兵が組織できるようになり、東インド会社によって輸入される紅茶のボイコットが結果的にボストン茶会事件につながった。
 1775年4月、イギリス軍の意図が見えてきたので、ハンコックとサミュエル・アダムズはイギリス軍の逮捕から逃れるためにボストンを抜け出し、レキシントンのハンコック=クラーク・ハウスに滞在していた。夜中にポール・リビアが二人を起こしにきて、イギリス軍が夜明けに到着することを告げた。レキシントン・コンコードの戦いが起こった。このとき、イギリスの総督トマス・ゲイジ将軍はハンコックとアダムズを反逆罪で逮捕するように命じていた。戦闘の後で、ゲイジはイギリス王室に対する忠誠を表明する者には恩赦を下す旨宣言したが、ハンコックとアダムズだけは例外であった。
 1775年5月24日、ハンコックは第二次大陸会議で、ペイトン・ランドルフの後を受けて第3代議長に選ばれた。ハンコックは1777年10月30日までその職にあり、ヘンリー・ローレンスに引き継いだ。
 ハンコックが議長になって1ヶ月足らずの6月19日、ジョージ・ワシントンを大陸軍の総司令官に任命した。1年後、ハンコックはワシントンに、独立を求める7月4日決議とアメリカ独立宣言の写しを送った。
 ハンコックは7月4日に独立宣言に署名した唯一の人である。他の55名の代議員は8月2日に署名した。ハンコックはワシントンに大陸軍の兵士の前で独立宣言を読み上げるよう依頼した。一般に伝えられる話では、ハンコックはイギリス王ジョージ3世が眼鏡を掛けずに読めるように大きくはっきりと署名した。このことでハンコックの名前は合衆国の中で署名の代名詞になった。しかし、他の文書をあたると、ハンコックはいつもこれと同じやり方で署名している。
 1780年から1785年まで、ハンコックはマサチューセッツ州知事を務めた。ハンコックの演説者および議長としての技量は多くの賞賛を呼んだ。アメリカ独立戦争中はハンコックの資金を集めて軍隊に物資を供給する能力が一番求められた。ハンコックの商業貿易の腕をもってしても、飢えた軍隊に牛肉用牛を送りたいという大陸会議の要求には悩まされた。1781年1月19日、ワシントンがハンコックにあてて警告書を送った。
 多くの物資を繰り返し申請して貴殿を煩わせるべきではないと思うが、この川のこの基地での安全と、軍隊の存続そのもののより小さな目標はステーキである。昨日届いたヒース少将の手紙を抜粋して同封するが、我々の現況と将来の見通しがお解りになると思う。それ故に貴殿の州からの議会要求になる牛肉用牛の供給が通常軍隊のためではないというのならば、ウエストポイントの守備兵を養っていくこと、あるいは戦場でのたった一つの連隊を続けていくことも私では責任をとれないと考えています。
 ハンコックは1785年11月30日から約半年間、連合会議の議長を務めた後、1787年5月からマサチューセッツ州知事に復帰した。ハンコックは1793年10月8日、現職の知事のまま病に倒れ不帰の人となった。

 独立宣言書(the Declaration of Independence)に署名されたサインの中では、ジョン・ハンコックのサインが一番大きかったため、アメリカでは「ジョン・ハンコック」が「サイン」の代名詞として用いられることもある。
  ex) The president had to put his John Hancock to the nondisclosure contract in order to get more technical specifications.
  (技術仕様書がもっと欲しいので、社長は機密保持契約にサインしなければならかった。) 

 などのように使われる。

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2008.11.29

高知市 「しびる」という土佐弁の意味は……。

 二〇〇八年十一月二十八日。

 「しびる」という言葉を知りました。

 土佐弁だそうです。

 僕も土佐弁の話者ですが、この言葉は知りませんでした。

 「凍ってダメになる」の意味といいます。

 一度、土佐弁について本格的に学んでみようと思っています。

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高知市 僕が「四年生大学に編入したい」とまわりの人に話したら……。

 二〇〇八年十一月二十八日。

 「来年は四年生大学の年なのでせめて四月からは勉強に専念したいと思っています」

 昼間、こういうと、ある先輩の女性は、ニッター。

 「いけるかよ?」

 そんな学力があるの? という意味のようです。

 その後、後輩の男性にはなすと、「ふーん。うちも大学生の息子が大学院にいきたいといっているので、困っている」。

 夜、一時間目と二時間目の間に、後輩の敬愛する女性と電話で会話。

 「えらいねー。○○大学にしいや。あんたやったら絶対通るわ」

 涙が出るほどうれしかったですね。

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高知市 「七千と 六百円なの。これなーに?」。妻のレシートチェック。

 二〇〇八年十一月二十八日。

 sun「七千と 六百円なの。これなーに?」

 レシートチェックの

 妻も年金

 sunオートバイのグローブ(てぶくろ)のレシートでした。

 実は一万数千円の本のレシートもあったのですが、それは黙認してくれています(というか、それは、まだ見ていないのかもしれません)。

 前日の妻の発言。

 「私が集めた、あなたのレシート分だけでも、あなたの年金分を超えているわよ」

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高知市 「万札が さいふにあるか 確かめる……」。三割負担、大変ですねー。

 二〇〇八年十一月二十九日。

 sun万札が さいふにあるか 確かめる

 受診に出向く

 朝の習慣

 sun三割負担、大変ですねー。

 以前は一割負担でしたねー。

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高知市 【高知の戦争を掘る 史料と研究】 『昭和十二年 支那事変記念写真帖 第一輯 和知部隊特輯』を読んで。

 二〇〇八年十一月二十九日。

 本日は前からじっくり読んでみたいと思っていた本を読みました。

  『昭和十二年 支那事変記念写真帖 第一輯 和知部隊特輯』です。

 一九三七年(昭和十二年)七月七日から始まった日中戦争に参加した高知県の陸軍部隊、和知部隊の写真記録集です。
 同部隊は同年八月下旬、揚子江岸に上陸。そして、羅店鎮などを転戦。十一月十一日、「敵が堅塁を誇りし南翔を陥落、然も一番乗りの殊勲をたてた」といいます。
 ここに収録された写真は、高知新聞社の従軍記者・宮崎孝男さんの「出征から南翔攻略迄(まで)」のものです。

 たとえば、以下のような写真が掲載されています。
 出征のため高知市の路面電車通りを行軍する兵士たちと見送る群衆。 
 高知駅前で出征の兵士たちを送る群衆。
 「敵前上陸」する兵士たち。
 突撃寸前の兵士たち。
 海軍機の掩護(えんご)爆撃。
 「残敵掃蕩(ざんてきそうとう)」の市街戦。
 「決死白襷(しろだすき)隊」の突入。 
 羅店鎮の「白壁の家」の「敵」への攻撃。
 捕獲品を点検する和知部隊長。
 羅店鎮の「惨憺(さんたん)たる闘(たたかい)の跡」。
 陣地の構築。
 手榴弾(しゅりゅうだん)を投げる「支那」兵。
 戦死者たちの「沈黙の凱旋(がいせん)」。
 朝倉駅前の告別式。
 高知市葬。
 銃後の愛国婦人会の「活躍」。

 もちろん、和知部隊かくかかかえりといった本ですが、日本の侵略戦争のすさまじさの一端を知ることができます。

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