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2008年12月

2008.12.01

高知市 なんとなくせわしいこのごろのこと。

 二〇〇八年十一月三十日。

 忙しい日曜日でした。
 午前八時、起床。
 午前九時、来客あり。僕が風呂にいっていたため妻が応対。
 午前十時から高知市の県民ホールで映画鑑賞。
 世界全体の経済状態、経済の国々のからみあいについててのひらに乗せてみたいと強く思いました。
 正午、高知市の、ひろめ市場前での高知短期大学存続をの署名とビラ配布に参加。
 終わってから、ひろめ市場で食事。先輩の女性から韓国語の宿題で教えをこいました。
 食事の後、近くの店ででエプロンをかいました。
 その後、職場に顔を出しました。
 午後四時半、高知市での韓国料理のつどいに。
 エプロンをして、いざ、いざ。
 四十人くらいの参加で男性は三人。
 お腹いっぱい食べました。
 参加者の二人に高知短期大学受験をすすめました。
 家に帰ってアメリカの新聞の論評記事を和訳。妻の知恵も借りて。
 いくつか、どうしても訳せない所が三箇所あってイライラ。
 午前二時近くに就寝。

 二〇〇八年十二月一日。

 午前七時半、目覚ましのベルが鳴る。
 僕が起きないので、妻が「ほれ」と僕にメガネをほおって起床をうながす。
 起床して風呂。
 そのうちに朝食をとる時間がなくなってしまいました。
 午前九時ぎりぎりに職場に到着。
 季刊の小冊子づくりのためパソコンのお客様に。
 昼休みは雑誌『高知の戦争 証言と調査』のための写真取材。
 夕方、やっと小冊子のめどがつきました。
 いざ、高知短期大学へ。
 途中で食料を買い込み、学校に着いたとたんにガツガツ。
 ゼミの女性から「ゼミのコンパを」との提案あり。もちろん賛成。
 六日の高知短期大学存続シンポジウムのことで、ある学生に依頼。
 一時間目。政治学。
 二時間目。国際経済。後ろの席の女性は活発に授業に参加していました。
 食事をとったせいか、二時間とも授業中は睡魔とのたたかいでした。
 帰宅して和訳の再検討。うーん。だめだ。
 妻と協力して地域老人会のニュースづくり。
 本日は午前一時には寝たい。

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2008.12.02

高知市 Joe the Plumber 「配管工のジョー」 って何だ? 悩んだ末に……。

 二〇〇八年十二月二日。

 November , 2008

 Op-Ed Columnist

 Beyond Election Day

 By BOB HERBERT

 という英文を、この間から訳していました。

 つぎの所でつまっていました。

It’s in that atmosphere that voters today will be choosing between the crisis-management skills of Senator Obama, who has enlisted Joe Biden as aide-de-camp, and those of Senator John McCain, who is riding to the rescue with Sarah Palin and  Joe the Plumber  in tow.

 Joe the Plumber

 の意味がわからないのです。

 「配管工のジョー」

 って、なんだ。なぜ、ここででてくるのな。

 思い余ってぐーんと年下の英語に堪能なUさんに聞きました。

 すぐにこたえがかえってきました。

 「配管工のジョー」でOK。どんな意味かは、この日本語でインターネット検索をやると出てきますよ。

 そうしました。

 すぐわかりました。

 要するに、今度のアメリカ大統領選挙の経過をきちんと追っていなかったのでわからなかったのですね。    

 Uさん、ありがとうございました。

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「赤虫が蝶なて飛ばば遺念ともて 琉球の悲劇の文学者 平敷屋朝敏覚書」 沢村 昭洋 【その一】

 高知県立高知短期大学の先輩で、いま沖縄県に住んでいる沢村昭洋さんから、この文章をいただきました。ご本人の了解を得て、このブログに載せさせていただきます。

   はじめに

 沖縄に移住してまだ1年足らずのうちに、NHK沖縄テレビで初めて組踊(くみおどり)を観た。組踊は歌三線、演劇、踊りを総合した楽劇である。沖縄の誇りある伝統芸能として名高い。この時観た作品が「手水の縁」だった。その時に強い衝撃を受けた。作品内容はあとから紹介するが、最初に戸惑ったのは髪を洗っている女性を見染めて、水を汲んでほしいと頼み、断られるとその場で飛び込み死ぬとまで言うーーそのあまりの唐突さだった。しかし、そのストーリーは、親の許さない恋愛を死罪にするという封建的な義理、倫理を乗り越えて二人が結ばれるという内容だった。封建時代にこのような大胆な恋の物語は、大和の浄瑠璃にもない主題なのだ。すごい作者がいるものだと感心した。その名を平敷屋朝敏(へしきやちょうびん)という。しかも朝敏は、政治犯としてはり付けの処刑にされているという解説にまた驚いた。ただものではないことだけは確かだ。ただし、その解説では、この作品を本当に朝敏が書いたのかどうか、後年に他の人物によって書かれたのではないか、という説があるということだった。
 この3つの点が強いインパクトをもち、記憶に残った。その後、機会を見ては、朝敏に関連する文献、資料を県立、市立図書館で探して読んでみた。読めば読むほど、彼が琉球王朝の時代を代表する文学者の一人であり、また歴史上も異色の悲劇の人物であることがわかった。沖縄では高い評価を受けていて、少なくない研究がある。でも全国的にはあまり知られていない。知る人ぞ知るという程度だ。もっともっと沖縄以外の人たちにも知ってほしい文学者であり、作品群だということを強く感じだ。この覚書は、こういう問題意識から、いまの時点で自分流に知り得たことをまとめたものである。まあ、興味がなければ意味のない文章であるが、少しでも読めるところがあれば眺めてほしい。それだけである。

(つづく)

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「赤虫が蝶なて飛ばば遺念ともて 琉球の悲劇の文学者 平敷屋朝敏覚書」 沢村 昭洋 【そのニ】

   朝敏の歩んだ道

 平敷屋朝敏は、琉球が薩摩に侵略されてからおよそ90年以上たった1700年、首里金城村で生まれた。尚真王の嫡子、尚維衡の7代目の子孫にあたるといわれる。祖父は大宜味(おおぎみ)間切の総地頭(間切の領地を持つ)で、父・朝文は勝連(かつれん)間切の総地頭という出自である。間切(まぎり)とは今の町村ほどの単位になる。琉球は、中国の文化の影響が強かったが、薩摩の支配下におかれた近世の琉球では、日本の和文学が推奨されていた。大和の文学に親しみ、教養を身に付けることは、首里の士族(サムレー)にとって大切な資格だったそうだ。首里王府に仕官する条件として重視されていた。
 朝敏は、8歳の頃から和語と和文学を学んだという。1718年、18歳でときの徳川幕府の八大将軍・吉宗の慶賀のために派遣された慶賀使の越来(ごえく)王子に随行して江戸上りをしている。すでに王府の何らかの役職についていたのだろう。江戸上りは、大和の芸能、文学など文化に接せるまたとない機会である。江戸滞在中に仏教や和文学(源氏物語、伊勢物語、短歌)を学んだという。朝敏の文学の多くが、平安朝の文章に似せた擬古文で書かれた和文学であり、和文学への深い教養が素地になっている。といっても、擬古文の原文は当て字の漢字が多用されとても読みにくい。口語訳が出ていて助かった。
 朝敏の生涯にとって、重要な出来事がその後、起きてくる。その文学的な形成の上でも、影響を与えることになる。というのは、21歳で結婚したが、首里城内の高貴な女性(時の尚敬王の王妃といわれる)が密かに訪ねてきて、絹の上下衣を朝敏に贈ったという噂が広がった。彼は美男子で女性からとてももてたらしい。それが国王や著名な政治家・蔡温(さいおん)らの知るところとなり、朝敏はその責任を問われ、家屋敷を没収され、職も失った。一家はあちこち転々とし、自分が脇地頭(今の字にあたる村を領地に持つ)をつとめる勝連間切の平敷屋村に移り住んだ。やがて、嫌疑が晴れて朝敏は再び、職を得て首里に帰ってきた。その後、仕事のかたわら、創作を行ったという。朝敏を悲劇の文学者といったのは、この経歴ではない。
 1734年、当時、琉球を支配する薩摩が那覇に置いていた監督機関である在番奉行の横目(監視役)、西川平左衛門宅に再三にわたって投書があった。内容は王府を風刺したものだったらしい。朝敏は、王府きっての英才といわれた友寄安乗(ともよせあんじょう)ら和文学の仲間とともに15人が捕らえられた。蔡温によってついに6月26日、安謝(あじゃ)港で15人の若者らが処刑された。さらに朝敏の長男は多良間(たらま)島、二男は与那国島、三男は水納(みんな)島に島流しになったのである。朝敏の妻のまなびは、身分を百姓に落とされ、高離島(いまの宮城島)に流されたという。事件の真相は記録が残されていないためによくわからないが、投書をしただけでこんなに集団処刑になるのは、稀有のことである。

(つづく)

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「赤虫が蝶なて飛ばば遺念ともて 琉球の悲劇の文学者 平敷屋朝敏覚書」 沢村 昭洋 【その三】

   朝敏のいくつかの作品

 朝敏が「手水の縁」の創作に至るまでに、書いた作品を見てみよう。初期の作品に「若草物語」がある。大阪の住吉を舞台とした貧しい武士と遊女・若草の悲恋の物語である。金持ちの大名に連れて行かれた若草を奪い返そうとするが、取り返される。若草は、愛する人と別れ、生きがいのない日々を送り、物思いが積り死ぬ。彼もその後を追う。和歌を織り交ぜた小説世界は、「源氏物語」を意識しているようであるし、近松門左衛門の心中物を思わせる主題である。時代から言えば、すでに近松の浄瑠璃が人気をよんでいたので、接する機会はあっただろう。近松の何らかの影響があったと見る人もいる。
 次の「苔の下」という作品は、琉球の社会の現実の中に題材を求めている。琉歌の二大女流歌人である、遊女・よしやつると仲里按司(あじ)をモデルとした悲恋の物語である。貧しい彼は、恋人を身請けできない。つるの義母は、お金持ちの黒雲につるを売り渡す。彼女は食事も湯水さえ飲まず死ぬ。彼もその後を追う。前作と同じ悲恋物であるが、薄幸の遊女や貧しい主人公への作者の同情がある。以上の2作品は朝敏27,28歳頃の作品という。よしやは「お金のために人の愛を破らないで下さい」と叫ぶ。男女の愛情が金の力でねじ曲げられることへの反発が根底に感じられる。
 主題から言えば近松の何らかの影響があったかもしれないが、覚書の結論にかかわるが、朝敏のすごいところは、この近松的な悲恋を乗り越える作品世界を作りあげたことにある。当初、影響を受けたにせよ、それにとどまらない地平に立つことを意味する。

 「貧家記」は、首里を追われ、平敷屋で失意の生活を送った体験を日記風につづった物である。「あはれその畑打ち返す せなかより 流るる汗や 瀧つ白波」。働く農民を見て詠んだ和歌である。自分は貧しいがまだ安楽に暮らせるだけ農民より恵まれていると感じる。首里を追われた士族の貧しさと民・百姓の悲哀が映し出されている。そこには、この境遇を強いられているものとして、現実社会への厳しい目と弱者に対して注がれる愛情が感じ取られる。こうした体験を通して、政治に対する鋭い現実感覚が養われたのだろう。それは、たんに傍観者として見るだけではなく、後々に行動となって現われる。
 朝敏は、脇地頭として在任中、この平敷屋に滞在した折に、農民の水不足を解消するために、用水池を掘り、その土を盛りつけてタキノー(小高い丘)を造ったと伝えられている。この地には、朝敏を偲んで1986年、歌碑と碑が建てられた。碑文には、次のように記されている。「朝敏は、薩摩支配下における苦難の時代に、士族という自らの自分におごることなく、農民を始めとした弱い立場の人たちに暖かい眼差を向けることの出来た、沖縄近世随一の文学者でありました。思えば、朝敏の憂き目は、当時の封建支配の原理道徳に背を向けようとする、人間としての優しさゆえの到達点であった、と言い得ることである」。
 「萬歳」という作品は、首里に帰ってきて数年後のものだ。安里(あさと)の按司の息子・白太郎は勝連の浜川殿の真鍋樽金という姫君を一目見て恋に落ちるがすでに姫はある地頭の息子に嫁ぐことが決まっていた身。白太郎は海辺で自殺をはかり、倒れた彼を見つけた姫も身を投げようとする。その時、姫が祈りをする御嶽(うたき)の神の化身が現れて二人を助け、二人はめでたく結ばれる。前の2作のように心中という絶望的な結末ではなく、それを乗り越える新たな境地が生まれている。「萬歳」というのは村々を回る乞食のことだ。白太郎は「萬歳」から美しい姫のことを教えてもらったことからこの題名にしているが、「萬歳」はまた「ばんざーい」という愛が実った喜びの表現ともとれる。二重の意味を込めているのではないか。
 ここには自分の意思を無視した婚約という封建的な義理を神の啓示の形で真っ向から否定する姿勢がある。当時の人間をしばっていた義理、倫理を拒否し、個人の自由な恋愛をなによりも優先し、それを成就させるというこの小説の主題は、封建社会の道徳に対する不同意の意思が示されている。そして、朝敏の思想的な大きな変化が表れている。
 又吉洋士氏は「現実と対決する姿勢がみられる」「彼は封建社会への批判を<恋愛>という社会的な具体性をもっていないもので撃ち、後年それを現実的な社会批判として実行に移した」と述べている。(「平敷屋朝敏―琉球独立論の系譜」)。
 仲原裕氏は「平敷屋朝敏作品集」の解説でこう指摘している。「18世紀初頭の琉球の社会で最もみじめな存在は、貧士貧民殊にその婦女子であった。服従することを善とする考え方によれば、郭に売られた女は、義母の命にしたがって嫌いな男にでも買われてゆくことを善としなければならない。しかし、人間は、いくら封建社会であっても、好きなものは好き、嫌いなものは嫌いなのである。この封建的義理と人間的情愛の葛藤をテーマにし、人間を義理の犠牲から助けようとしたのが、平敷屋朝敏の作品であろう」「時の政治権力や金権に対するレジスタンスの心を作品にしたのではないかと思われる」。
 それをさらに大きく歩を進めたのが組踊「手水の縁」である。音楽、演劇、舞踊を総合した組踊は、今から290年ほど昔に誕生した。1719年9月、琉球国王を任命するため中国から皇帝の代理として来た冊封使を歓迎する「重陽の宴」で初めて上演された。組踊は冊封使を歓待するために創作されたという。その生みの親は、玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)といわれる。首里王府の踊奉行に3度任命された。踊奉行という役職が王府にあったこと自体、琉球ではいかに芸能を重視していたのかがうかがわれる。朝薫は、「二童敵討」「執心鐘入」など「五番」と呼ばれる五つの作品を創作し、いまでもよく上演される組踊の代表的な作品となっている。この朝薫より16年遅く生まれたのが平敷屋朝敏であった。

(つづく)

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「赤虫が蝶なて飛ばば遺念ともて 琉球の悲劇の文学者 平敷屋朝敏覚書」 沢村 昭洋 【その四】

   組踊「手水の縁」の誕生

 波平村の大主(村の支配者)の息子・山戸(やまと)という若者が瀬長山で花見した帰り波平玉川で髪を洗っている美しい娘・玉津(たましん)と出会う。玉津にひかれた山戸は、昔から男女の縁結びの行為といわれた手水で水を汲んでほしいと玉津に頼む。いったん断った玉津も山戸の熱い思いを受け入れる。二人は心が結ばれ、やがて忍びあう恋人になる。山戸は玉津の家に忍び込むが、門番に見つかってしまう。玉津の父親は、親の認めない恋に落ちた、娘を許すことができず家来に殺すことを命じる。いま処刑にされようとするその時、山戸が駆けつけて、玉津を助けてほしい。もしできないなら一緒に殺してほしいと命がけで訴える。二人の純粋な愛情に心うたれた家来は、二人を逃し、二人は結ばれる。
  山戸が語るセリフにこうある。「いかな天竺の 鬼立の御門も 恋の道やれば 開きどしゆゆる」。どんな天竺の鬼といえども、命をかけた若い男女の恋の道はとどめられない、という意味だ。山戸は「恋忍ぶことや世界にある習い」とも叫ぶ。若い男女が恋慕うことは世界で当たり前のことではないか、という主張だろう。こういうセリフにも、この組踊の主題が集約されているようだ。
 最初テレビで観た時に、二人の馴れ初めに戸惑いがあったが、最後まで観ると、これはすごい物語だと驚いた。琉球でも封建社会は、「士階級に恋愛の自由はなかった」のだ。「士にとって逢い話す自由も得られる異性は遊女だけであった。親の承認しない恋愛には女は足枷(あしかせ)をかけて圧服され、男は一門親類の訴えによって、平等所(裁判所)で遠島を申し渡された」(比嘉春潮氏)という時代だった。親が認めない恋愛は不義そのものであった。それが儒教の道徳であり、社会的な秩序でもあった。
 それは、恋に落ちた二人が陥った危機になにより表れている。つまり、親の許さない不義をした彼女は、たんに無理やり引き離されるのでない。親によって斬り殺される。命を奪われるのである。恋をしただけで、自分の愛する娘まで殺さなければ親の世間体がない。そこに、この時代と封建社会の道徳支配の非情な貫徹をみることができる。
 山戸が自分の危険をかえりみず、命を賭して彼女を処刑から救い、自分たちの恋愛を成就させるというこの作品の内容は、いつくかの点で、同時代の組踊、文学とは次元を異にする画期性を有している。
 朝敏は、「手水の縁」を書き上げると尚敬王に差し出したが、封建的義理の否定が主題となっているため、王は非常に驚き、重大な問題として下臣に謀ったところ、秩序を乱す者として処刑と決定したが、彼の和文学の指導を受けたことのある一五人役(各長官で構成)の一人の多嘉良(たから)親方(うぇーかた、間切の領地を有する)の弁明でやっと助かった、というといういきさつがあったとも伝えられる(玉栄清良著「組踊 手水の縁の研究」)。
 この「儒教道徳思想が最も忌み嫌い、法度とする恋愛を声高らかに唱えて、組踊化した朝敏の姿勢は、敬服に値するものである」と當間一郎氏は強調している。
 ここには、理不尽な儒教道徳、倫理を否定しようとする姿勢がある。それはまた、その道徳を基本的な支柱としている封建社会の秩序に対する抵抗にもつながる。その道徳と秩序とは、人間が本来的に持っている愛情、その一つである男女の恋愛という、もっとも豊かな人間感情を押し殺すことにたいする根本的な異議申し立てである。そこには、本来、誰も奪うことのできない人間の本性に対する自覚がある。自我への芽を見ることができる。「人間は誰でも恋愛の自由をもっているんだぞ!」という朝敏の叫びが聞こえてくるようだ。
 重要なことは、封建的な縛りを超えた男女の愛情を、この世では成就できないからと、死出の旅に出るとか、来世で成就するとかという現実逃避に終わらせていないことである。つまり二人の強い意志によって、封建道徳と秩序をも突き動かし、打ち破って恋愛を現世で成就させていることである。恋愛の自由に対する大らかな讃歌が読み取れる。この点で、近松門左衛門の心中物の浄瑠璃などでの限界をはるかに超えた地点に立っているといって過言ではない。ただし、あくまでも、戯曲としての芸術的な完成度、評価は無視して、その主題についてだけで言えばということではある。
 このような封建社会の秩序をなす儒教道徳にたいする挑戦とこれを乗り越えることを公然と主題にした作品世界を作り上げるということは、時の支配者に対する朝敏の感覚にも深いかかわりがあるだろう。首里王府の政治に対する批判精神なしには書きえない内容である。ただし、「手水の縁」も、玉津が処刑されようとする際に、遺言をのべる際に、山戸が男として生まれたからには「国王にご奉公を」というセリフがある。組踊は国王に差し出しており、その限界を当然、認識した上での表現であるだろう。

(つづく)

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「赤虫が蝶なて飛ばば遺念ともて 琉球の悲劇の文学者 平敷屋朝敏覚書」 沢村 昭洋 【その五】

 
   この作品にたいする評価から

 この組踊に対して,識者はどう見ているのか。いくつか読んでみたが、必ずしも的確な評価と言えない批評がある。評価をしていても、「恋愛至上主義」という次元にとどまっている批評もある。もっとも的確だと思われるのは玉栄清良氏の著作である。そのなかの「平敷屋朝敏の文学」では次のようにのべている。
 封建社会の支柱である道徳が見事に踏倒され、不義が堂々と通ったのである。こうして確立された人間性は封建社会の礎を激しくゆさぶったと言えよう⋯貨幣経済の発展は農民、貧窮武士の階層分解を押進めていた、必然的に“内面的抵抗”も高まっていた。それを圧迫する手段としての義理道徳は⋯民衆の行動を厳しく監視し、間接には儒教によって彼らの内面まで強く拘束していた。そのような情況下にあって人間性をかくも強烈に押出した「手水の縁」は、日本の近代文学が未だ十分には果たし得ぬと思われる課題をすでに封建社会の梗塞(こうそく)のなかで達成して見せたことになり、その文学的成果は琉球文学においては勿論、日本文学史上“特筆”に値すること、と言えるだろう。人間性に目覚め封建的義理を否定した者が、封建社会の象徴である王への忠誠を思うという矛盾は上演を考慮したための余儀ない虚構であったと思われる。
 「手水の縁」の文学的価値はその高度な写実主義にある⋯⋯天竺という神秘の世界(朱子学思想に立つ義理)の否定であり、人間の生の力の根源からの強い肯定であり、人間の自然な愛情は何よりも尊重されるのだという生の確かな思想が強く主張されている。
 井原西鶴や近松も義理と人情にはさまれて苦悩する人間は描いたが、義理を乗り越えて人間の自然の生の姿を歪めずに描くことはできなかった。彼らは心中する男女を描くことによって消極的な抗議にとどまった。悲劇の背後の歴史の本質には目が届かなかった。同時代の琉球の代表的作家も封建的秩序への疑問も弱く唯一人、朝敏が人間を“封建社会の本質において“とらえ、その矛盾の打破に進み出る人物を描いたことは驚くべき人間認識であり、“社会認識”であり、またそれの“文学的達成”であった。
 多少持ちあげすぎの感がなきにしもあらずだが。この玉栄氏の主張を批判する評者もいる。嘉味田宗栄氏は「平敷屋という人物の政治上の事実を、文学作品としての手水の縁に直結して混乱させている」「自我の確立、秩序への対決といった近代用語で形容するにふさわしい戯曲とは思えない」「近代的自我と恋の熱情をいっしょにする前に、古代から近代にかけての恋人たちの情熱の激しさを思いみるべきである」などと反論している。
これはいささか的外れではないかと思う。平敷屋朝敏の政治行動と文学作品には、地下茎でつながっているものがある。自我など用語は近代用語ではあっても、その芽生えというべき意識を見るのは無理なこじつけではない。「古代から近代にかけての恋の情熱の激しさ」がいくらあっても、それを当時の儒教道徳を真っ向から否定する内容の組踊作品に仕上げること、その上、その作品を王府に提出することは、凡庸な文学者ができることではない。その証拠に、「手水の縁」のような戯曲・文学が他に類例がないことを見ても明らかではないだろうか。

(つづく)

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「赤虫が蝶なて飛ばば遺念ともて 琉球の悲劇の文学者 平敷屋朝敏覚書」 沢村 昭洋 【その六】

   組踊の中で「手水の縁」が占めている位置

  「手水の縁」が琉球の特有の芸術である組踊の中でも、出色の位置を占めている。それは、約60種類に分類される組踊全体を見れば明らかになる。當間一郎氏の「組踊研究」によれば、最も多いのは、仇討や戦さなどを扱った仇討ち物で30数種に及ぶ。親子や夫婦などの人間関係の深さ、厳しさ、世話物風が20数種に及ぶという。
 例えば組踊の創始者、玉城朝薫作の「二童敵討」は、アマオヘ(実在の阿麻和利がモデル)に攻め滅ぼされた護佐丸(ごさまる)の息子二人が親の仇を討つという忠孝物語である。「執心鐘入」という作品は、大和の「道成寺」の琉球版のような話で、女の情念と道義の葛藤を描いている。大城學氏は「組踊のテーマは、封建倫理の徳目である<忠><考>が中心であり、それに王府が介入することが強調されている」「琉球王府は支配の論理を組踊のなかに具現化させてみせた」(沖縄芸能史概論)と指摘している。それは首里王府が管理する組踊であるから、ある意味では当然の帰結ではあるのだろう。 
 そのなかで「『手水の縁』は恋愛を主題とした唯一の組踊」(比嘉春潮氏)といわれる。純粋な恋愛物の組踊は、ほとんど他にない。しかも、士族と遊女といったような関係ではなく、村の大主(支配者)という家柄の生まれの男女の恋愛である。封建的な道徳・倫理のしがらみ、桎梏を打ち破って男女の自由な恋愛を賛美し、それが成就するという主題が、どんなに時代を突き破った画期的な物語世界であり、作品であるのが明らかである。
 この「手水の縁」が初演されたのは、一八六六年に中国から来た冊封使を歓待するためだったらしい。実に創作されてから一三〇数年もたっている。これがいまのところ確認できる最古の上演だという。もう琉球王朝としては最後の国王の冊封の時である。朝敏が国家に対する反逆の政治犯であり、儒教道徳に反するような内容から、上演がされなかったといわれる。
 當間氏も、この作品が「男女の情事を忌憚なく写したということと罪人の作だということが、公の晴れの場所で演じられぬ原因」となったという。しかしながら、「この組踊は他の諸作と趣を異にし、男女の情事を描いたのだから、儒教主義の当時の人には表向きは好まれなかったが、その代り若い人々の血を躍らすものがある」と指摘している
 當間一郎氏は「古い頃にはまったく上演されず、台本を読むことさえタブー視されたのだが、村芝居がさかんになると人気をあつめた組踊の一つになって、観る人たちの心をとらえたのである」とのべている。

(つづく)

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「赤虫が蝶なて飛ばば遺念ともて 琉球の悲劇の文学者 平敷屋朝敏覚書」 沢村 昭洋 【その七】

   「手水の縁」は朝敏の作ではないのか?

 組踊「手水の縁」の作者について、琉球大学の池宮正治氏は、これは平敷屋朝敏の作ではない、後世の作品ではないかという疑問を投げかけている。その理由は、組踊は冊封使を歓待するための芸能として出発し、王府から任命された踊奉行が作演出を行ったが、朝敏は踊奉行には任命されていないからだということだ。
 組踊は冊封使を歓待するための芸能であることは事実だ。といっても、初めて玉城朝薫が組踊を上演した冊封使歓待は1719年で、次に冊封使が来たのは1756年なので、この間、実に37年もたっている。朝薫によって創作された組踊という芸能をしっかり継承し、発展させていくには、この間に訓練を重ね、上演することも必要だろう。冊封使が来ない間でも、王府のなかで上演される機会があったと考える方が自然だ。また、37年の間には、朝薫以外にも組踊を創作する人物が現れたことも十分考えられる。平敷屋朝敏が踊奉行に任命されていなくても、才能豊かで文学作品を作っている朝敏が創作した可能性は十分ありうるのではないか。
 なにより大切なのは、この作品の内容の分析そのものが、作者が平敷屋であるのか否かという問題について回答を与えている、ということだ。
 つまり、一つは「手水の縁」の主題が当時の琉球の組踊ばかりか文学全体のなかで占める特異な位置である。他に比類のない作品が他の人に簡単に書けるのか。しかも、当時の封建道徳と社会秩序に反逆するような内実を持つ作品を、他の人物が容易に書けるとは到底思えない。もう一つは、平敷屋朝敏の作品の流れの中での位置づけである。先に紹介したように、朝敏の一連の作品を読むと、そこには一貫した流れがある。単に恋愛をテーマにしているとか、恋愛至上主義というレベルの問題ではない。若い時代の「若草物語」「苔の下」にみられるような、この世では結ばれない二人が死出の旅にでる結末から、「萬歳」に見られるように、神の啓示、助けではあっても、封建的な義理、桎梏を乗り越えて結ばれるという画期的な結末に向かう。ここには一大飛躍の世界がある。そして「手水の縁」である。この流れの延長線に登場するのがこの作品である。ここには朝敏の赤い糸のような熱い問題意識とその発展がある。「手水の縁」のような、他に類を見ない作品が、他の作品とかけ離れて突然変異のように生まれるわけがない。そういう意味でも、朝敏だからこそ書けたのだということが、理解できる。
 さらに言えば、この作品が封建社会の儒教道徳の否定であり、そこにはさらに当時の社会秩序、政治に対する抵抗や異議申し立ての思いが込められていると見られる。首里王府に提出する組踊をそういう主題をもった内容とするのには、とっても勇気がいることだ。その後、朝敏が処刑になるような政治行動をとった勇気ある人間であり、政治的人間であったことからも、この作品が書けたのだろうと容易に納得がいくところである。
 池宮氏の所説にはすでに強い反論が出されている。「組踊を聴く」の著者、矢野輝雄氏は、冊封使が来た時だけではなく、組踊が上演されたことはあるし、「踊奉行以外のものが、組踊を作ることはあり得ないことではな(い)」という。朝敏を作者とする最大の理由として、その作品そのものの内容を分析している。「文体にみられる緊張感や和文学による修辞法などの多用も、他に類似を見出し得ない⋯⋯恋愛至上主義を謳いあげるところに主題がある。⋯⋯(玉城朝薫の「中城若松」など)模倣作という域を超えて、平敷屋朝敏独自の文学世界を打ち立てているのを見ることができる」。「和文学の影響を受けた強烈な作風こそ、他の作者たちの組踊作品と明瞭な一線を画するものと見るべきであり、その特異性こそ平敷屋朝敏作の可能性に導くものであろう」とのべている。このように、作品の内容をきちんと分析すれば、朝敏の作以外にはありえないという結論に達するのである。
 當間一郎氏は、「玉城朝薫は当時の思想背景のなかで登場人物を設定し、つねに首里王府というバックボーンとつなげていくという手法がどの作品にも投入されているのに対して、朝敏は、それを可能なかぎり払拭しようと努力して、わずかながら脱け出している」「朝薫の世界では考えられぬ思想といえよう」と指摘している。さらに「当時の社会にあって若き男女の愛をあつかい、それを破たんさせるのではなくて成就させていく構成にしたのは、あっぱれという他はない。このような結末にするのは、当時としてはたいへん度胸のいることで、ずいぶん思い切った作品を完成させてくれたのである」とのべている(「沖縄芸能論考」)。これはとりもなおさず、この作品が誰にでも書けるような内容ではなく、朝敏のような思想をもち、それを作品世界に投影し、しかも誰に気兼ねもせずに貫く勇気をもっていなければ到底書けない組踊であることを示しているのである。

(つづく)

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「赤虫が蝶なて飛ばば遺念ともて 琉球の悲劇の文学者 平敷屋朝敏覚書」 沢村 昭洋 【その八】

   政治犯として処刑された平敷屋朝敏

 友寄安乗(57)、朝敏(34)らは、時の政治家・蔡温の政治に不満を抱いていた。薩摩の在番奉行の役人、川西平左衛門の館に再三にわたり、文書が投げ込まれた。蔡温が調査に乗り出し、やがてこの落書が友寄、朝敏らグループの行動として摘発された。そして、15人全員が安謝港で処刑された。友寄、朝敏は「八付」(はりつけ)の刑に処せられた。はりつけの中でも、とくに重刑の罪人に適用される串刺しにより行われた。串刺しのなかでも、いろいろあり、朝敏はとがった木で体を貫いて殺す方法が60人によって行われたという。それでもなかなか落命しないので、最後は母とともに立ち会うことが許されていた長男・朝良がとどめを刺したと伝えられている(「平敷屋自治会のホームページ」で紹介されている)。
 薩摩への告発文書の内容がどういうものであったのか、詳しい記録がまったく残されていないからわからない。だが平敷屋朝敏の系譜(家譜)によれば、平敷屋は友寄と組み、「無筋の事申し立て」、つまりありもしない事をでっち上げ、薩摩役人に落書し「国家の難題なる儀」を相たくらんだ「悪逆無道の族者(やから)」だとして裁かれたという。落書の内容が時の政治に対する批判の内容であったことがうかがえる。朝敏らが何を主張したのか、なぜかくも残忍な極刑に処せられたのか、さまざまな見方がある。
 朝敏らは和文学を通したつながりであり、時の権力者、蔡温は、中国からの移住者が住む久米村の出身であることから、そこに対立の原因を見ようとする見解がある。
 「蔡温一派の漢学者は万事支那思想を鼓吹して漢学者勃興を即し⋯⋯随って漢学者は時を得て続々重要なる地位に推薦せられたが、国学を修めし平敷屋の一派は頭が上がらなかった」「支那思想の権化たる蔡温を排斥することは平敷屋等多年の間要望するところである」「藩庁を動かすは藩庁以上の大勢力に頼らざる可からずと」「彼等の眼は⋯⋯琉球政務の監督者に向かって注がれたのである」(真境名=まじきな=安興氏)
 ただし、蔡温は薩摩に抵抗したのではなく、「薩摩のおかげで今の琉球がある」というように薩摩に忠誠をつくすことが基本スタンスであった。この見方は少し違うようだ。別の 角度の見解もある。
 「自国琉球の政治について薩摩側に密告、あるいはその権力を借りようとしたのが処刑の理由である」(山里永吉氏)「問題は平敷屋らが薩摩側の権力を引き出そうとしたことにある。批難した事実が単に和漢の思想の相異や王府の国内施策にかかることではなく対外の問題、つまり薩摩に対する姿勢のあり方が中傷されたのではあるまいか」(新里、田港、金城氏)。
 「新琉球王統史」を書いた与並岳生氏は、投書の内容は「蔡温が人の意見を聞き入れず、独断的に国政を進め、このためにさまざまな弊害を生み、王府重役たちの不信感も増大し、疑心暗鬼は渦巻、人心を撹乱し、このことは国政の停滞を招くものである」というものではなかったか。しかも蔡温には尚敬王がついているので打つ手がなく、薩摩の力を借りて蔡温を罷免してもらうことを狙っての投書だったと思われる(「尚敬王の下」)という見解をのべている。
 朝敏らは薩摩の支配に立ち向かったという見解もある。例えば「薩摩の非人間的な抑圧、不断の収奪から琉球を救うには社会状況を変革する必要があり⋯⋯政治行動を起こそうとしたのではなかろうか」という見方である(又吉洋士氏「平敷屋朝敏―琉球独立論の系譜」)。これは自己の「琉球独立論」の主張に無理やり引き付けようとする説で、あまり説得力はない。薩摩の役人に抗議文を投げ入れて何かことが解決できるほど、薩摩の支配は甘くはない。それよりも、蔡温の悪行を薩摩に告発して、その力を借りようとしたと見る方が自然だろう。
 いずれにしても、薩摩に政治的な投書をしたことは、朝敏などのグループが当時の首里王府の政治、国王の信任の厚い蔡温の行う政治に対して批判をもち、それを告発することによって正すことを薩摩に期待した、というのが最も妥当な見方だろう。ただし、期待に反して薩摩はこれを取り上げなかった。蔡温が極刑に処したことは、薩摩との相談があったのか、独自の判断なのかわからないが、首里王府と蔡温の政治に対する許しがたい反逆と映ったのだろう。それにしても、投書をしただけで、はり付けとは極めて異例の処置である。
 朝敏が生きた社会はどのような時代だったのか。独立の王国だった琉球に薩摩が侵略してきたのが、1609年なので、それから100年余りたっている。薩摩は琉球の中国貿易に介入し、琉球全土の検地を行って、その支配と収奪を強めた。そのもとで、貧しい農民はさらに貧しくなり、子女を遊女に売ったり、富農の下男下女になる人も出た。士族も増え、よいポストは王族やその縁故者が優先されるので、職につけない貧しい士族が生まれた。また金持ちと貧乏人の格差は大きくなり、社会の矛盾は激しくなっていた時代だったという。朝敏の作品には、このような社会状況を反映したところがあるし、彼の行動の背景ともなっているといえよう。
 ここで、朝敏を処刑した蔡温の名誉のためにひと言ふれておくと、蔡温は琉球王朝の時代に傑出した政治家として、有名な人物であることだ。14歳で王位をついだ尚敬王のもとで、中国からの留学帰りの蔡温は師となり、国師といわれる職につき、さらに、官僚トップの三司官までのぼりつめた。彼は窮乏化する農村では、百姓が都市に移ることを禁止し、完全に王府の統制のもとにおき、農業生産をあげるために全力をあげるようにさせた。荒れた山の植林と山林保護を重視し、治水や港湾整備なども進めた。増加する士族の対策として、士族の商工業への転職を奨励し、那覇の商業の活性化をはかった。またウコンや黒砂糖の専売制度を強化して、王府の財政の立て直しをはかったという。また、中国からの帰化人の子孫といっても、彼は「薩摩のおかげで今の琉球がある」という立場で、薩摩の指導に従うことが発展の道であることを説いたのである。
 この蔡温の政治は、庶民からみれば厳しい締め付けと収奪の強化につながっただろう。平敷屋朝敏ら対立する人々からは、尚敬王に重用された蔡温の強引な政治は独善で横暴、傍若無人の振る舞いとして、映ったのだろう。

(つづく)

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「赤虫が蝶なて飛ばば遺念ともて 琉球の悲劇の文学者 平敷屋朝敏覚書」 沢村 昭洋 【その九】

 
   和歌に込められた思い

 朝敏にはたくさんの和歌があるが、そこには彼の思い、思想がにじみ出ているのでいくつか紹介したい。
 「誰のほれ者の 筆とやい書ちゃが 酒や昔から 恋の手引き」。
 どこのバカ者が筆をとって書いたのか、酒は昔から恋の手引きであるのに、という意味だ。当時、禁酒という尚敬王の直筆の碑文に対して、朝敏が風刺したものという。
 「四海波立てて 硯水なちも 思事やあまた 書きもならぬ」。
 四方の海を波立つ海水をずべて硯(すずり)の水にしても、なお思うことは多すぎてとても書きつくせないという意味である。それほど世のあり方に言いたいことが山積していたのだろうか。
 「乱れ髪さばく 世の中のさばき 引きがそこなたら あかもぬがぬ」。
 乱れ髪のような世の中の乱れをきちんとさばかなければ、さばき損ねたらはかどらない、というような意味だろう。この時代、尚敬王の信任をうけていた蔡温の強引な政治に対する朝敏の批判が込められているようだ。
「たとひなま死じも 誰がつれて行きゆが この世やみなちゅて 一人さらめ」。
 たとえ今死んでも誰が死をともにしてくれるだろうか 政治が悪く世の中を闇にしているが 救済する者はいなく、自分一人で死んでいくだろう、という意味である。
 「赤木赤虫が 蝶(はべる)なて飛ばば 平敷屋友寄の 遺念ともれ」。
 赤木の赤虫が蝶になって飛べば、朝敏、友寄の無念の魂の化身と思ってほしい、という意味だろう。処刑が決まった時に詠んだ和歌だという。その昔、蝶は死者の魂、化身と思われていた。彼の処刑の日には、ハンタン山の赤木に蝶が天をおおうくらいに、飛びまわったと伝えられる。平敷屋、友寄ら15人の無念の気持ちを思い浮かばせる歌である。

 朝敏の妻まなびの詠んだ和歌もある。妻は、朝敏が処刑されたあと、身分を士族から百姓に落とされ、娘とともに、高離島に流されたという。
  「高離島や 物知らせどころ にや物知やべたん 渡ちたぼうれ」。
  この島はさまざまなことを教え悟らせてくれたところ。離島の苦しみ、人の情けはもう十分に知ることができました。私の生まれ育った彼の地へ命あるうちに帰り付けることを願っていますというような意味であり、その思いを込めた歌だ。母とともに流された幼い長女は、栄養失調で間もなく亡くなった。まなびは、先島に流された男の子どもたちとは、ついに会う機会をえないままこの島で亡くなったという。
 こうした和歌を読んでも、感じるのは、朝敏の和歌にも、小説にも、組踊にも、彼が何を考え、何を思い、何を主張し、どのように生きたかったのか、共通の土壌があることである。だから、組踊の作品だけを切り離して、他の者が創ったと考えるのは無理があるというか、朝敏だらこそ創作できたのだということがいっそうよくわかる。彼がみずからの信念を実践に移したことで、悲劇的な結末を迎え、自分の人生に幕を引く結果となった。
 この朝敏の悲劇は「当時の封建支配の原理道徳に背を向けようとする、人間としての優しさゆえの到達点であった」(朝敏の追悼碑文から)といえるだろう。組踊は、琉球王朝の時代は、首里王府の独占物であったが、明治維新とその後の廃藩置県によって、琉球王朝は解体され、地方へ、離島へと流れて行った士族たちによって、組踊、歌三線なども広がっていった。村踊りなどで組踊が上演されるようになり、「手水の縁」もよく上演されたという。大正時代に一時、上演禁止になったことはあるが、再び上演を許され、沖縄民衆の熱い共感と支持を得たのである。今日でも人気の組踊の一つであり、高い評価をうけていること自体、その先駆性を示している。朝敏は、34歳の若さで短い生涯を終えたが、その作品は永遠の生命を得て生き続けているのである。

(終わり。くしくも6月26日、平敷屋朝敏の命日に)

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高知市 こんなテーマでなら、お話できます。講演をさせていただけませんか。

 二〇〇八年十二月二日。

 どこかで講演させてくれないかなぁ。

 こんな、ずうずいしいことを考えてます。

 今年になってから話させてもらったのは「ブログって楽しい」です。

 まだまだ、いっぱい話したいことがあります。

 伝えたいことがあります。

  短歌を詠む楽しさ。僕のような素人でも、詠めるし、詠むと心がすきっとする。

  学ぶって楽しい。「六十一歳の夜の短期大学生」からのメッセージ。

  自分を殺して「敵」に打撃を与える特別攻撃が強いられた時代のこと。義父の水中特攻訓練の体験を取材して。

  アメリカ軍が高知県に上陸しようとしていた日々。県民を巻き込んだ自滅戦術が準備されていた一九四五年夏のこと。

こんなテーマでなら、いつでもOK。

ご連絡を、お待ちしています。

「なんて、あつかましいやつだ」と、自分でも思っています。

でも、本人は「調べる、書く、話す」を、これからのメーンにしたいと思っていますので。

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2008.12.05

高知市 また、FUさんと高知県四万十町宮内の高知海軍航空隊の格納庫跡の調査。

 

 二〇〇八年十二日三日。

 

 FUさんと高知県四万十町宮内の高知海軍航空隊の格納庫跡の調査。

 前回に続いて次々と格納庫跡を発見。

 高知海軍航空隊の「引渡目録」の地図どおりです。

 一つだけ急傾斜地対策の工事でわからなくなっいるものがありました。

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高知市 「もし私が一億円手にいれることができたら‥‥」。

 二〇〇八年十二月四日。

 英語の時間に「もし私が~だったら~するのに」という構文がでてきました。

 「もし私が一億円手に入れることができたら、現代史の本をかきあつめて、私だけの図書館をつくりたい」

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高知市 早朝のゴロゴロゴロゴロという雷。

 二〇〇八年十二月五日。

 早朝。目が覚めてしまいました。

 ずっごい雨に加えてゴロゴロゴロゴロという雷。

 頭の上に落ちたのかと思いました。

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高知市 先輩、よかったね。よかったね。

 二〇〇八年十二月五日。

 自分のことのようにひやひやしました。

 本日は、ある先輩(高知短期大学二年生)の四年生大学編入試験の合否発表日。

 「どうでしたか」と、聞きたい。

 でも、聞いて落ちていたら何といおうか…。

 迷いに迷った末に、電話しました。

 通ったとのこと。すっごーーーい。

 いままで、霧のようなものに覆われていた世界から晴天の視界のいい場所に立った。そんな思いではないでしょうか。

 先輩、おめでとうございます。

 新しい人生を大股で歩いて行ってください。

 ずいぶん年上の後輩(一年生)も続きます。

 先輩の合格の報を聞いてから私も受験の参考書を買いに行きました。

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2008.12.07

高知市大津 ザクロの、おしゃべり。【きょうの写真】

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 二〇〇八年十二月六日。

 写真は、わが家の菜園のザクロ。
 なんだかおしゃべりしているような感じですね。

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高知市 【写真で見る】 高知県南国市の向山戦争遺跡。その一 薬きょうなど。

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 二〇〇八年十二月七日。

 午後、高知県南国市の向山戦争遺跡の現地説明会がおこなわれました。
 同説明会は、高知県教育委員会、高知県文化財団埋蔵物文化財センター
の主催です。
 同遺跡は、各種壕(ごう)二十基、陣地遺構十三基、坑道一本、交通壕七本からなっています。アジア・太平洋戦争中の日本陸軍のものと見られます。
 まずびっくりしたのは見学者が多かったこと。三百人以上はいたと思います(写真上)。
 山の下の受付の所に出土品が展示されていました。
 小銃の薬きょう(写真下)、かすがい、金づち、釘、チヌなどです。

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2008.12.08

高知市 【写真で見る】 高知県南国市の向山戦争遺跡。その二 山道を登る左側の壕(ごう)。

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213  二〇〇八年十二月七日。

 さぁ、現場へ。
 山に登っていくと左手にいくつも壕(ごう)がありました。

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高知市 【写真で見る】 高知県南国市の向山戦争遺跡。その三 延長百十メートルの坑道。

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 二〇〇八年十二月七日。

 さて、延長百十メートルの坑道です。

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高知市 【写真で見る】 高知県南国市の向山戦争遺跡。その四 延長百十メートルの坑道の上の交通壕(こうつうごう)。

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 200 二〇〇八年十二月七日。

 延長百十メートルの坑道の上に交通壕(こうつうごう)がありました。

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2008.12.09

月刊『Kochjin(高知人)』に執筆をお願いします。

 2009年1月1日より、月刊『Kochjin』(高知人)を発行したいと思っています。高知県の活字文化の活性化と、既存のメディアでも見えてこない情報を発信するのが主な目的です。

 くわしくは、ここに。

http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanoshi/2008/12/post-2b8a.html

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2008.12.11

高知市 「二〇〇九年の面白シーン」。

二〇〇九年の面白シーン

表現の意欲あふれるこの秋は「フィールドづくろう」 提案、協議

戦争の実態伝える月刊誌 創刊号はパソコンの中

「月刊誌『高知人』かよ」「よし出そう」話が決まった 青年と飲む

「学び舎を映画にしようよ」「そうしよう」

衆議一決 「さぁ、明日からだ」

二雑誌と映画が一つ生まれます 〇九年の面白シーン

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高知市 このところ、カメラをかついで過激な行動が続きました。

 二〇〇九年十二月十日。

 このところ、カメラをかついで過激な行動が続きました。

 【七日】

 午後一時から高知県南国市の山中のアジア・太平洋戦争期の戦争遺跡の撮影。

 【八日】

 午前二時半、起床。

 車に乗せていただいて高知県東部へ。陸上自衛隊の武装行軍の写真撮影。

 【九日】

 午前十時半から高知城の撮影。お知らせビラ用。

 【十日】

 午前五時、起床。車に乗せてもらって兵庫県姫路市へ。姫路市平和資料館の展示品などを撮影。

 とうとう、高知短期大学の一時間目は欠席に。

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2008.12.14

高知市  「ハングルで日記を書きますので添削していただけませんか」というあつかましいお願い。

 二〇〇九年十二月十日。

 「ハングルで日記を書きますので添削していただけませんか」

 こんなあつかましいお願いをハングル学習の先輩にしました。

 この先輩は、「しゃべることができる」人です。

 OKしてくれました。

 ヤッホー。

 早くハングルを使えるようになりたい。僕の痛切な願いです。

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2008.12.15

ハングル日記 二〇〇八年十二月十日

오늘, 나는 한국어의 선생님을 만났습니다. オヌル、ナヌン ハングゴエ ソンセンニムル マンナッスムニダ (きょう、韓国語の先生に出会いました)。

각오를 결정했습니다. カゴルル キョルチョンヘッスムニダ(覚悟を決めました)

힘내라. 노인. ヒムネラ。ノーイン。(がんばれ。老人)

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ハングル日記 二〇〇八年十二月十二日

우리 집에는 암컷 고양이가 있습니다.  ウリ チベエヌン アムコッ コヤンイガ イスムニダ(わが家には雌ネコがいます)。

이름은 그녀 입니다.  イルムン クニョ イムニダ(名前はクニョです)

한국어로 그녀 입니다.  ハングゴロ クニョ イムニダ (韓国語で彼女のことです)。

한국 영화 “ 엽기적인 그녀 ” 로부터  름습니다. ハング ヨンファ ヨッキジョギンクニョ ロブト イルムスムニダ (韓国映画「猟奇的な彼女」からつけました)。

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2008.12.18

高知市 サンタクロースはオートバイに乗って。

 二〇〇八年十二月十八日。

きょうは、親と子のクリスマス会に出演しました。

 サンタクロースの役です。

 遅れそうになってオートバイを飛ばしました。

 やっと会場に着きました。かっちり定時です。

衣装をきて、ベルとプレゼントの入った袋を持って登場。

会場には二十人の赤ちゃん、幼児とそのお母さんやお父さんがいました。

まずはサンタクロースに質問がありました。

「サンタクロースさんは、どこに住んでいるんですか」

「空の向こうの百人サンタクロースのいるまちです」

「遅かったけど、どうしたんですか」

 「空を飛行機がたくさん飛んでいてぶつかりそうになって大変でした」

「トナカイはどこに置いてきたのです」

「この建物の屋根の上です」

 「好きな食べ物は何ですか」

「卵焼きです」

「奥さんがつくってくれるのですか」

「いえ、私は自分でつくります」

「おいくつですか」

「百歳です。ちょうど、きょうが誕生日です。サンタクロースのまちの最高齢者は百十五歳です」

で、子どもたち一人ひとりの名前を読み上げて、プレゼントをあげます。

それから、みんなと記念撮影。

そして、希望者と記念撮影。

サンタクロースは大もてです。

帰りに主催者からお菓子の袋をいただきました。

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2008.12.20

高知市 いまかかえている「宿題」。「いっぱいいっぱい」以上です。

  二〇〇八年十二月十八日。

 いまかかえている「宿題」。

 韓国語 誕生日の歌を覚えてくる、次の章を読めるようにしてくる。

 外書購読 あるアメリカの新聞の論評記事を訳してパソコンで打ってくる。

 歴史学 本を一冊以上読んでリポートを提出。

 専門ゼミ ある文章を読んで二百字か三百文以内にまとめる、五つの文章。

 ある若い女子学生が、宿題が次々出てくるので「いっぱいいっぱい」といっていました。

 本当にそんな感じです。

 彼女も働いているのでたいへんです。

 僕の場合は「いっぱいいっぱい」どころではなく、すでにあふれ出しています。

 短い冬休みには六教科にめどをつめる(後期の試験のために)のを目標にしています。

 ● 韓国語 教科書を読み返しながら「ハングル日記」を続けていく。

 ● 英語初級A 教科書を読み返し文法をつかむ。

 ● 社会保障・福祉論 教科書を読む。

 ● 歴史学 教科書を読み終える、できれば何冊か関連の本を読む。

 ● 政治史  高度成長期を中心に戦後の政治史の本を二冊は読む。

 ● 国際経済  二冊は本か専門雑誌を読む。

 ● 専門ゼミ 裁判員制度について概要をつかむ。

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高知市 「レギュラーガソリン一リットル」九十円の店も出現しています。

  二〇〇八年十二月十九日。

 ガソリンの値段というのはいったいどうなっているのでしょうか。

 僕が通勤、通学している高知市の大津バイパス沿いでは、御座あたりに「レギュラーガソリン一リットル」九十円の店も出現しています。

 わーっと上がったり、下がったり‥‥何が基準になっているのでしょうか。

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高知市 僕のオートバイは「入院」中です。トホホ‥‥。

 二〇〇八年十二月十九日。

 この間、オートバイで走行中、猛スピードの車を避けようとしてオートバイをこかしてしまいました。右ブレーキの所が壊れてしまいました。

 なぜか、人間様は何の毛賀もりませんでした。

 よくよくオートバイを見ると、タイヤもすり減っています。

 では、ということで「入院」させました。

 全面的に整備してください、タイヤもかえてくださいということで数日間、経過を見ることになりました。

 で、いま路面電車で動いていますが、何か大変です。

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高知市 高知短期大学をアピールする映画、撮影が進んでいます。

 二〇〇八年十二月二十日。

 高知短期大学学友会、同存続を求める会、同存続を求める学生の会は、映画「窓辺に燃ゆる夕日影 高知短期大学で学ぶ」(仮題)を撮影中です。

 誰かが十二月七日に「映画をつくろう」といいだして、「それはいい、私も前からそう思うちょった」、「うんやろう」と、とんとん拍子に話が進みました。

 五人が製作委員に選ばれ、カメラマンにも依頼し‥‥。

 猛スピードです。  

 十四日に、高知市ひろめ市場前の存続署名の様子、十二月十七日昼間にはには高知短期大学の学生たちへのインタビュー、夜は学内の様子と順調に撮影が進んでいます。

 本日は、高知短期大学存続を求める学生の会の「望年会」の様子の撮影です。

 くわしくは、ここを見てください。

 http://www.kochijin.com/f0f0tandai/yoru/20081217.html

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2008.12.24

冬休みになったとたん「午前三時様」になってしまいました。

 二〇〇八年十二月二十四日。

 冬休みになったとたん「午前三時様」になってしまいました。
 二十三日も午前三時過ぎ。
 きょう二十四日も午前三時過ぎ。

 これから少し本を読んで眠りにつくことにしましょう。
 本日は仕事も休みで宿題デーの予定です。

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高知市 宿題 その一 「裁判員制度 まず、尋ねることから」の要旨づくり。。

 二〇〇八年十二月二十四日。

 本日は、宿題を、がつがつやりました。

 その一。

 「裁判員制度 まず、尋ねることから」(朝日新聞、20081124付「社説」)の要旨づくり。

 いつ裁判員にあたるかもしれない素人の立場から裁判員制度の意味を考えたい。自白調書が重視され冤罪も生んだ刑事裁判を、法廷での証言をめぐるやり取り中心にしたものにする必要がある。制度導入はそのためである。したがって裁判員は生活感覚や社会体験にもとづく意見や疑問を率直にのべればいい。分からないこと、疑問は、そのつど尋ねるにかぎる。社会や企業には、裁判員に選ばれた市民を支援する態勢や措置がほしい。

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高知市 宿題、その二 「結果の平等か機会の平等か 『結果の平等』に固執すれば、社会の成長力は確実に失われる」(竹中平蔵氏)の要旨のまとめ。。

 二〇〇八年十二月二十四日。

 宿題、その二。

 「結果の平等か機会の平等か 『結果の平等』に固執すれば、社会の成長力は確実に失われる」(竹中平蔵氏)の要旨のまとめ。

 どの社会にも、成長と安定の適度なバランスを保つことが求められる。グローバリゼーションとIТ革命は、ハイリスク・ハイリターンの市場を作り出す。こうした成長の新たなチャンスを活かすためには、頑張った者が報われる仕組みを作ることが望ましい。競争の激化のなかで従来以上に所得格差がついてくることはもはや避けられない。結果の平等を維持しようとすれば社会全体の成長圧力を根こそぎそいでしまうことになるだろう。

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高知市 宿題、その三 「結果の平等か機会の平等か 『機会の平等』が、けっして普遍的価値観ではないことを証明する」(内橋克人氏)の要旨のまとめ。

二〇〇八年十二月二十四日。

 宿題、その三。

 「結果の平等か機会の平等か 『機会の平等』が、けっして普遍的価値観ではないことを証明する」(内橋克人氏)の要旨のまとめ。

 「機会の平等」論を強調する改革唱導者は、「結果の平等」重視は悪平等であり、経済の停滞と活力喪失の元凶をなしているとしている。「機会の平等」は、「不平等」是認もしくは奨励の経済論として出現した。その登場はアメリカ建国史に至るアメリカ独特の伝統的概念で、機会は平等なのに結果が不平等になるのは個人の努力不足のせいだとするのである。日本経済団体連合は、労働の分断・対立・競争を提唱している。いま「働く自由」なのか「働かせる自由」なのかが問われている。

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高知市 宿題、その四 「オバマ氏当選-米国刷新への熱い期待」の要旨のまとめ。

 二〇〇八年十二月二十四日。

 宿題、その四。

 「オバマ氏当選-米国刷新への熱い期待」(朝日新聞、2008116付「社説」)の要旨のまとめ。

 

民主党のオバマ氏が史上初めて黒人の米国大統領に選ばれた。イラクとアフガニスタンの戦争と金融危機の「非常時」に、国民は彼に米国の再生を託した。勝利の背景にはマイノリティー人口の増加をはじめとする社会の構造的変化がある。「強い米国」を掲げて軍事力を強化し、「小さな政府」路線を進めたレーガン政権以来の新自由主義の挫折だ。ブッシュ時代に露呈したその失敗は共和党支持者をも失望させた。米国の一極支配の時代は、軍事と経済の両面で終わりを迎えている。

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高知市 宿題、その五 あるアメリカの新聞の記事の和訳。

 二〇〇八年十二月二十四日。

 宿題、その五。

 あるアメリカの新聞の記事の和訳。

 

このクリスマスでのあなたのご寄付のお願い

ポール・バレリィ

2007年12月4日 火曜日

ファトマタは、4人に1人の赤ん坊が5歳になる以前に死んでしまう国に生まれました。彼女は、今までずっと私たちのクリスマスの寄付金によって希望を与えられてきました。昨年、読者のみなさんは世界中の貧しくてより所のない人々に大きな支援を惜しみませんでした。今年も、あなたの援助でさらに多くの子どもたちを笑顔にさせてください。                                          

このクリスマスであなたのご寄付を。

ファトマタは、すでに非常に申し分ない状態です。彼女は、地球で最も困難な所に生まれました。そして、四カ月生き延びています。写真で見る限り彼女は健康で幸せそうに見えます。それは、いいニュースです。さて、注意を要する状況があります。

それは、彼女が世界の中で乳児の生存率が最も低いシエラレオルに生きているからです。西アフリカのこの地域では、4人に1人の赤ん坊が5歳になる前に亡くなっています。そして、このことは、ひとり両親の悲しみにとどまらず、私たちのテレビカメラが注視しなかったからといって長い間ひどい荒れ地のままに放置してきた西側諸国の無関心への告発ともなっています。

 ファトマタの母親のグベサリィは悩みの種があります。ファントマの兄弟のイブラハムは、たくさんの病魔に襲われています。彼のひ弱な体格は、シエラレオルの5歳未満の子どもの4分の1以上が標準以下の体重であるという厳然たると統計値の証明です。また、ほとんど3人に1人は身長の点でも標準に達していません。

ノミ屋は、イブラハムのような男の子は四十歳までは生き延びないだろうと一方的な賭け率を設定します。グベサリィのような女性たちが6、7人の子どもを持っていて、イギリスの平均の1・7人と比べると、ちょっとした驚きです。多くの子どもが死にますが、その両親は自分の老年を保障するに足るだけの大家族を養わなくてはなりません。そして、一家は、発展途上国では、たきぎと水を集め、ヤギを駆り立て、作物を手入れし、そして、生活のためにほかの日常の仕事のすべてをやりとげなければなりません。

ファトマタは、は幸せです。彼女の村―シエラレオルのカイラフム地方のペンデブではセイブザチルドレンの診療所が先ごろ建てられました。ここでは母親たちに妊娠中の健康管理を指導していて、これは粉ミルクの使用を説得しようとしている既得権者に逆らうことになるのですが、母乳による育児の指導も含まれています。ファントマは、イブラハムが生まれたときには使えない免疫を持っています。家族は、いま、カヤを持っていて、カヤをつって眠っています。

診療所は少数の人々によって支えられていて、この6年間、シエラレオルを荒らした戦争によって深刻に衰えさせられた国家の健康管理の不備をなんとかしようとしています。今日、国際的な国家間の救援プログラムがあるにもかかわらず、国家健康管理システムにおいては医療スタッフは不足し、医療設備は絶えず財政不足に陥っています。

子どもを救うことは今年の重要なクリスマスの寄付の三つのうちの第一のものです。それは今日始まったところです。第二には、インターナショナルチルドレンズラスト(ICT)で、これは地球上で最も貧しい所に住む子どもたちに3大陸を通じて科学の、教育の、社会的また心理学的な必要を説いていく共同経営の組織です。

第三に、ゴリラオーガナイゼィション(GO)があります。世界中で絶滅しかかっているゴリラを救おうというものです。このすばらしい動物が、彼らの生息地に人間が入り込むことによって絶滅の危機に瀕しています。GOは原住民の生活を成り立たせる    道を援助し、それによってゴリラの依拠している生息地にダメージを与えない方法を工夫しています。

いくつかの問題について、私たちは新しく提案します。少年兵のことはたいていの人が読んで知ってるでしょうが、セイブザチルドレンの救援活動の中でリベリアにおける少女兵のことをいわねばなりません。彼女たちは帰還するさいに決まって家族や隣人から拒絶されるのです。新しく解決した事例もあります。シエラレオルの北部では、同じ寄付でエイズの急速な流行への対策をとっています。それは身の上相談解答者の予期しないようなやり方でやられています。

別の企画では基金を手助けしてくれる読者たちが古くからの問題にも新しい観点を与えてくれるでしょう。エクアドルのスラムでは、母親はしばしば家族を養うために売春をし、一方であらゆる種類の児童虐待が肉体的にまた性的な暴力となっています。解決策は、ICTのエクアドルのパートナー・ジュコニが見つけています。それは、自然環境を変えたり子どもたちをそこから引き離すことではなくて、スラムの考え方を変えることです。この詳細を知るのには、じっくりとしためんどうな読書が必要です。

われわれの寄付金は、大見出しの後ろに、つまり目立たぬ方に使われるでしょう。ジンバブエと南アフリカの国境ではセイブザチルドレンのスタッフが、南アフリカのよりよい暮らしを望んで、ムカベ政権のもとで、ぶらぶら歩いていたり、ひとりぼっちだったり、餓死しそうになっていたりする7歳くらいの子どもたちに救援の手をさしのべています。ビルマではセイブザチルドレンは最近、仏教僧侶によるデモを支持して、本当のことを語っています。

彼らは、いかにも小さく、そして、つながっていますが、われわれのもろい惑星は必要とされる問題の解決に向かっています。ルワンダでは、性能のよいストーブを紹介することで80%もマキの使用量を減らし、そればかりか山林伐採のスピードをゆるめ、子どもの胸の感染症を屋内の煙を減らすことによって減少させています。

われわれの仕事では、最も危険なところで働くのは当たり前になっています。そんな場所に彼らは希望を提供しています。そして、かぼそいキズナを強くしています。細い、でもさけることのできないかかわりがあなたと私の何かがファトマタに届いたとき、シエラレオルの四カ月の元気な彼女に、この関係が、まさに今、生まれていくと思います。

                

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高知市 午前中に「歴史学」のリポート用の本を一冊読み終わりました。

 二〇〇八年十二月二十四日。

 この日、午前中に「歴史学」のリポート用の本を一冊読み終わりました。

 テーマが三つ浮かんできました。

 ● アジア・太平洋戦争開戦決定までの何回かの御前会議の検討。

 ● ガダルカナルの日本、アメリカの戦闘の過程の整理。

 ● ある日本軍の幹部の戦闘と逃亡の軌跡。

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高知市  『高知の戦争 証言と調査』第二号のゲラ、『高知人』第一号のゲラ。

 二〇〇八年十二月二十四日。

 午後六時、若い「相棒」が、わが家に到着。

 『高知の戦争 証言と調査』第二号のゲラ、『高知人』第一号のゲラを届けてくれたのです。

 さて、校正作業です。

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2008.12.26

高知市 勤務は休みで授業もないのんびりした日のはずでしたが……。

 二〇〇八年十二月二十五日。

 きょうは、本当は勤務は休みで授業もないのんびりした日のはずでした。
 しかし、……。

 午前中、高知市旭の陶芸教室へ。何か、うまくいきませんでした。

 帰りに、高知市上町の古本屋に行って本を買い込みました。

 午後、高知市升形の職場へ。みんなが集中して旬刊の印刷物(僕も編集に参加したもの)の発送作業をしているはずなので、やっぱり足が向いてしまいました。印刷物をつめた数百の封筒に圧倒されました。

 一区切りついて、高知市内のある短歌の月刊誌の編集室へ。すでに作業は始っていました。校正を手伝いました。

 途中で、呼び出しがあり、ふたたび職場へ。

 夜は、みんなで撮っている映画の撮影の続き。スタッフは女性二人、男性三人。

 家に帰ってから月刊の総合雑誌『高知人』の校正作業。

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2008.12.27

高知市 「妻は女神だ」と僕が感激のあまり論じる訳。 

 二〇〇八年十二月二十六日。

 午前九時から勤務。

 夜、妻は、高知駅発の高速バスで東京に向かいました。
 この間まで住んでいた東京の家が売れそうなので、その手続きに。
 売ったお金は、僕の四年制大学編入後の学費、生活費にしてくれるとのこと。妻は、女神のようです。こんな、わけのわからない夫に……。
 妻の言い残した言葉。「クニョ(うちの子ネコ)が心配。今夜も、明日も、一緒に寝ちゃってよ」

 夕方、勤務が終わってから高知市の中心地の古本屋と、その近くの「新本屋」に。また、買い込みました。

  学校に行ったら、休みにもかかわらず学生たちが試験対策の勉強をしていました。観劇。

 妻が高速バスのシートで揺られているころ、僕は、いまつくっている映画の試写会にいました。議論百出。的確な意見ばかりです。議論を経て、追加の撮影などの手配も決まりました。

 家に帰ってから月刊の総合雑誌『高知人』の校正を続行。初校終了。やっほーっ。

 あすの予定。
 午前中、病院に行く。郵便物を出す。
 午後から職場。
 夜は勉強。絶対、勉強するぞー。

 夜中に、映画の編集の作業の続きがあるはずです。

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2008.12.28

高知市 パソコンコーナー、デジカメコーナーの誘惑とたたかいました。

 二〇〇八年十二月二十七日。

 午前中、医者。

 午後、職場。

 終わってから買い物。
 電器店を二カ所まわりました。
 パソコンコーナー、デジカメコーナーの誘惑とたたかいました。
 誘惑に勝てるわけがありません。
 つぎに中古ビデオの店に。
 ここでも誘惑に勝てませんでした。
 品物を出したら店主いわく。
 「この間、妻と見た韓国映画『ラブストーリー』がよかった。きれいだねえ。日本のは違う」

 帰ってきて、食事をつくって、ネコと遊んで、映画づくりの作業をして、年賀状の文章を考えて、(いまごろ……)、韓国映画「僕は彼女をはなさない」を見て、英語を少し勉強してと、年の暮れにふさわしく、だらだらと過ごしました。

 「僕は彼女をはなさない」は、一九七〇年代を舞台にしたもので、夜間外出禁止令など背景がえがかれていて興味深かった。

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2008.12.29

高知市 妻は、子ネコの体調を気にしていますが……。

 二〇〇八年十二月二十九日。
 
 朝。

 妻がしきりに子ネコの体調を気にしています。
 食欲がないというのです。
 「風邪でも引いたのかな。それにしても、僕が風邪をひいても、そんなには心配しないなぁ」
 「ワッハッハハハ。そうねえ」
 その心は「あんたはほっといても生きていけるけど、子ネコは私のケアーがないと生きていけないから」ということのようです。

 その妻が午前九時過ぎに外出。「帰ってくるのは午後三時ころかな」。女性団体の打ち合わせのようです。

 さて、ご飯、ご飯。
 ところが、どこにもおかずがありません。
 妻は、例のようにコーヒーとパンですませているようです。
 で、ブタの細切れと白菜を炊いておかずをつくり、かゆをつくりました。

 妻は、僕が風邪をひいていて腹ぐわいも相当悪いことには気もついていません。

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高知市 ハングル日記 僕は風です。

 二〇〇八年十二月二十八日。

 今晩、DVDで韓国映画「青春漫画 僕らの恋愛シナリオ」を見ました。

 途中、東京にいっていた妻が帰ってきましたが、数秒話しただけで、引き続き見てしまいました。

 この熱い思いを伝える映画を見ながら、こんな詩が生まれました。

 風。

 僕は風です。

 どこにでも、吹き抜けて行く。

 そうです。

僕は風です。

 どこにでも、吹き抜けて行く。

 あなたの心の中にも。

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高知市 庭のビワの木に花が咲いているのに気付きました。

044

 二〇〇八年十二月二十九日。

 短歌の月刊誌の発送作業を終えて、家に帰ったら庭のビワの木に花が咲いているのに気付きました。

 近くてきちんとビワの花を見たのは初めてです。

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2008.12.31

高知市 二〇〇八年の僕。

095

 二〇〇八年十二月三十一日。

 昨年十二月に四十年勤めた職場を退職しました。持病の睡眠時無呼吸症が悪化したためです。
 高知市に、いつきました。
 そして、退職二日後に二〇〇八年。
 二〇〇八年は僕にとって、どんな年だったのかか。
肯定的なことのみのべます。

 ○ 高知市の平和資料館・草の家の研究員にさせていたただきました。

 ○ 土をこねてつくるということを始めました。彫塑の教室に行き、女性の頭像を一つ完成させました。その後、週一回の陶芸の教室に行き始めました。

 ○ 春、短歌集を発行しました。

 ○ 春、弟と韓国の済州島、牛島へいきました。

 ○ 四月、県立高知短期大学に入学しました。夏には韓国でのホームスティという、すばらしい体験しました。前期は、一科目以外は、「まあまあ」の成績でした。後期の試験は、これから。なかなか厳しい状況です。

 ○ 高知県の月刊短歌誌の編集委員になりました。

 ○ 五月七日。東京都で公立中学校の教師をやっていた妻が、定年退職して高知市の「わが家」にやってきました(実は、妻が買った家ですが……)。結婚してから四分の一の時間は、僕が単身赴任し、別居生活でした。一応、これで別居は終わりです。

 ○ 夏休み前に「高知短期大学存続を求める学生の会」に入りました。会のホームページづくり、ビラづくり、知事との話し合いへの参加、存続をの街頭署名でのハンドマイクでの演説、映画づくりへの参加と、いろんな新しい体験をしました。

 ○ 高知市で開かれた戦争展で、高知県四万十町の高知海軍航空隊第三飛行場についての展示を担当させていただきました。

 ○  平和資料館・草の家が、僕が前年に発見した高知県南国市片山の山中の日本軍陣地について記者会見してくれました。

 ○ 東京から娘、孫娘二人、息子と、その「つれあい」が遊びにきました。

 ○ 地域の老人会の副会長になりました。 

 ○ 小論文、エッセイの本を出版しました。

 ○ 高知短期大学の友人宅から子ネコが養女に。クニョ(韓国語で彼女と名付けました)。

 ○ 九月から、高知市の平和資料館・草の家に勤務するようになりました。

 ○ 『高知の戦争 証言と調査』という雑誌の編集長になりました(来年一月に一号を発行)。

 ○ 『高知人』という雑誌の編集長になりました(来年一月に一号を発行)。

 ○ ハングル学習の先輩が「ハングル日記」の添削をしてくれることになりました。うれしーっ。

 ○ 高知大学の後輩が「英語日記」の添削をしてくれることになりました(十二月三十一日に)。

 ○ この一年、新しい友だちがたくさんできました。

 さて、二〇〇九年は……。

 (写真は、わが家と、隣の家の境界線のエノキの木です)

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高知市 二〇〇九年を、ご一緒に、いい年にしたいですね。 藤原 義一

 あけましておめでとうございます。
 あなたは、元気で新年を迎えましたか。
 二〇〇九年を、ご一緒に、いい年にしたいですね。

 僕は、いま、高知市で、妻、ネコと暮らしています。
 僕の健康は、少し急いで歩くと息遣いが荒くなるという状態です。
 医者は、こういいます。
 「やせれば治ります」
 以前は、体重は六十キロでした。
 いまは、八十五キロです。

 二月二十三日に、六十二歳を迎えます。
 しかし、気持ちは青春です。
 昼間、高知市の、平和資料館・草の家で働いています。
 そして、夜、高知短期大学に通っています。
 一月三日が、仕事始めです。
 この日には、関西の若い先生がたの平和ツアーを迎えます。

 一月には、四つのものを、世の中に送りだせそうです。
 高知短期大学の仲間でつくってる映画が完成します。
 アジア・太平洋戦争の時の高知県をテーマにした雑誌の創刊号が出ます。
 高知ローカルの総合雑誌の創刊号も出ます。
 いずれも数十ページのものです。
 学生生活をテーマにした手づくりの薄い短歌集も出したいと思っています。
 四月には、高知短期大学の二年生になります。
 四年制大学の編入試験が夏ころからあります。それに備えなければなりません。
 大学で、日本の戦争と平和の歴史を学びたいと思っています。
 「年寄りなのに、大学にいくの?」と、まわりの人は本気にしてくれません。
 しかし、僕が本気だと理解した妻は、学資の調達に走ってくれています。

 あなたは、どのようにお暮らしでしようか。
 あなたの近況を、教えていただければ幸いです。
 
     二〇〇九年元旦

          藤原 義一

 January 1, 2009
 A Happy New Year!
 I hope that you are fine and we will make 2009 a good year together. 

 I live with my wife and a cat now in Kochi City.
 When I walk slightly hastily, I tend to lose my wind.
 The doctor said,  "You will be all right if you lose weight."
 The weight was 60 kilos before, but it is 85 kilograms now.

 On February 23, I became 62 years old.
 However, I still feel that I am young.
 I work at the Grass Roots House  Peace Museum  in KochiCity in the daytime .
 And I go to the Kochi Junior College at night.
 January 3 is the day to start work.
 On this day, I will welcome young teachers from Kansai at Grassroots House.

 In January I seem to be able to make a movie and publish three booklets.
 First, a movie which I am making with my friends of  Kochi Junior College will be completed.
 Secondly, the first issue of the magazine which featured the theme of Kochi in the case of Asia /the Pacific  Wars  will be published.
  Thirdly, a local magazine on Kochi will start to be published.
Each will have dozens of pages.
 Fourthly, I would like to publish a handmade short songbook which features a theme of my student life.
 In April, I will become a sophomore of Kochi Junior College.
 There will be an entrance examination to transfer to a University in summer. I must prepare for it.
 At a university, I want to learn the history of Japanese War and Peace.
 My friends do not take it seriously saying "You are old, but are you going to go to the university?"   
 However, my wife who understands me well supports me and trying to get enough expenses.

 How have you been?
 I would be happy if I hear from you.
 Have a happy New Year!

       Fujihara  Yoshikazu

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