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2008.12.02

「赤虫が蝶なて飛ばば遺念ともて 琉球の悲劇の文学者 平敷屋朝敏覚書」 沢村 昭洋 【その八】

   政治犯として処刑された平敷屋朝敏

 友寄安乗(57)、朝敏(34)らは、時の政治家・蔡温の政治に不満を抱いていた。薩摩の在番奉行の役人、川西平左衛門の館に再三にわたり、文書が投げ込まれた。蔡温が調査に乗り出し、やがてこの落書が友寄、朝敏らグループの行動として摘発された。そして、15人全員が安謝港で処刑された。友寄、朝敏は「八付」(はりつけ)の刑に処せられた。はりつけの中でも、とくに重刑の罪人に適用される串刺しにより行われた。串刺しのなかでも、いろいろあり、朝敏はとがった木で体を貫いて殺す方法が60人によって行われたという。それでもなかなか落命しないので、最後は母とともに立ち会うことが許されていた長男・朝良がとどめを刺したと伝えられている(「平敷屋自治会のホームページ」で紹介されている)。
 薩摩への告発文書の内容がどういうものであったのか、詳しい記録がまったく残されていないからわからない。だが平敷屋朝敏の系譜(家譜)によれば、平敷屋は友寄と組み、「無筋の事申し立て」、つまりありもしない事をでっち上げ、薩摩役人に落書し「国家の難題なる儀」を相たくらんだ「悪逆無道の族者(やから)」だとして裁かれたという。落書の内容が時の政治に対する批判の内容であったことがうかがえる。朝敏らが何を主張したのか、なぜかくも残忍な極刑に処せられたのか、さまざまな見方がある。
 朝敏らは和文学を通したつながりであり、時の権力者、蔡温は、中国からの移住者が住む久米村の出身であることから、そこに対立の原因を見ようとする見解がある。
 「蔡温一派の漢学者は万事支那思想を鼓吹して漢学者勃興を即し⋯⋯随って漢学者は時を得て続々重要なる地位に推薦せられたが、国学を修めし平敷屋の一派は頭が上がらなかった」「支那思想の権化たる蔡温を排斥することは平敷屋等多年の間要望するところである」「藩庁を動かすは藩庁以上の大勢力に頼らざる可からずと」「彼等の眼は⋯⋯琉球政務の監督者に向かって注がれたのである」(真境名=まじきな=安興氏)
 ただし、蔡温は薩摩に抵抗したのではなく、「薩摩のおかげで今の琉球がある」というように薩摩に忠誠をつくすことが基本スタンスであった。この見方は少し違うようだ。別の 角度の見解もある。
 「自国琉球の政治について薩摩側に密告、あるいはその権力を借りようとしたのが処刑の理由である」(山里永吉氏)「問題は平敷屋らが薩摩側の権力を引き出そうとしたことにある。批難した事実が単に和漢の思想の相異や王府の国内施策にかかることではなく対外の問題、つまり薩摩に対する姿勢のあり方が中傷されたのではあるまいか」(新里、田港、金城氏)。
 「新琉球王統史」を書いた与並岳生氏は、投書の内容は「蔡温が人の意見を聞き入れず、独断的に国政を進め、このためにさまざまな弊害を生み、王府重役たちの不信感も増大し、疑心暗鬼は渦巻、人心を撹乱し、このことは国政の停滞を招くものである」というものではなかったか。しかも蔡温には尚敬王がついているので打つ手がなく、薩摩の力を借りて蔡温を罷免してもらうことを狙っての投書だったと思われる(「尚敬王の下」)という見解をのべている。
 朝敏らは薩摩の支配に立ち向かったという見解もある。例えば「薩摩の非人間的な抑圧、不断の収奪から琉球を救うには社会状況を変革する必要があり⋯⋯政治行動を起こそうとしたのではなかろうか」という見方である(又吉洋士氏「平敷屋朝敏―琉球独立論の系譜」)。これは自己の「琉球独立論」の主張に無理やり引き付けようとする説で、あまり説得力はない。薩摩の役人に抗議文を投げ入れて何かことが解決できるほど、薩摩の支配は甘くはない。それよりも、蔡温の悪行を薩摩に告発して、その力を借りようとしたと見る方が自然だろう。
 いずれにしても、薩摩に政治的な投書をしたことは、朝敏などのグループが当時の首里王府の政治、国王の信任の厚い蔡温の行う政治に対して批判をもち、それを告発することによって正すことを薩摩に期待した、というのが最も妥当な見方だろう。ただし、期待に反して薩摩はこれを取り上げなかった。蔡温が極刑に処したことは、薩摩との相談があったのか、独自の判断なのかわからないが、首里王府と蔡温の政治に対する許しがたい反逆と映ったのだろう。それにしても、投書をしただけで、はり付けとは極めて異例の処置である。
 朝敏が生きた社会はどのような時代だったのか。独立の王国だった琉球に薩摩が侵略してきたのが、1609年なので、それから100年余りたっている。薩摩は琉球の中国貿易に介入し、琉球全土の検地を行って、その支配と収奪を強めた。そのもとで、貧しい農民はさらに貧しくなり、子女を遊女に売ったり、富農の下男下女になる人も出た。士族も増え、よいポストは王族やその縁故者が優先されるので、職につけない貧しい士族が生まれた。また金持ちと貧乏人の格差は大きくなり、社会の矛盾は激しくなっていた時代だったという。朝敏の作品には、このような社会状況を反映したところがあるし、彼の行動の背景ともなっているといえよう。
 ここで、朝敏を処刑した蔡温の名誉のためにひと言ふれておくと、蔡温は琉球王朝の時代に傑出した政治家として、有名な人物であることだ。14歳で王位をついだ尚敬王のもとで、中国からの留学帰りの蔡温は師となり、国師といわれる職につき、さらに、官僚トップの三司官までのぼりつめた。彼は窮乏化する農村では、百姓が都市に移ることを禁止し、完全に王府の統制のもとにおき、農業生産をあげるために全力をあげるようにさせた。荒れた山の植林と山林保護を重視し、治水や港湾整備なども進めた。増加する士族の対策として、士族の商工業への転職を奨励し、那覇の商業の活性化をはかった。またウコンや黒砂糖の専売制度を強化して、王府の財政の立て直しをはかったという。また、中国からの帰化人の子孫といっても、彼は「薩摩のおかげで今の琉球がある」という立場で、薩摩の指導に従うことが発展の道であることを説いたのである。
 この蔡温の政治は、庶民からみれば厳しい締め付けと収奪の強化につながっただろう。平敷屋朝敏ら対立する人々からは、尚敬王に重用された蔡温の強引な政治は独善で横暴、傍若無人の振る舞いとして、映ったのだろう。

(つづく)

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