「赤虫が蝶なて飛ばば遺念ともて 琉球の悲劇の文学者 平敷屋朝敏覚書」 沢村 昭洋 【そのニ】
朝敏の歩んだ道
平敷屋朝敏は、琉球が薩摩に侵略されてからおよそ90年以上たった1700年、首里金城村で生まれた。尚真王の嫡子、尚維衡の7代目の子孫にあたるといわれる。祖父は大宜味(おおぎみ)間切の総地頭(間切の領地を持つ)で、父・朝文は勝連(かつれん)間切の総地頭という出自である。間切(まぎり)とは今の町村ほどの単位になる。琉球は、中国の文化の影響が強かったが、薩摩の支配下におかれた近世の琉球では、日本の和文学が推奨されていた。大和の文学に親しみ、教養を身に付けることは、首里の士族(サムレー)にとって大切な資格だったそうだ。首里王府に仕官する条件として重視されていた。
朝敏は、8歳の頃から和語と和文学を学んだという。1718年、18歳でときの徳川幕府の八大将軍・吉宗の慶賀のために派遣された慶賀使の越来(ごえく)王子に随行して江戸上りをしている。すでに王府の何らかの役職についていたのだろう。江戸上りは、大和の芸能、文学など文化に接せるまたとない機会である。江戸滞在中に仏教や和文学(源氏物語、伊勢物語、短歌)を学んだという。朝敏の文学の多くが、平安朝の文章に似せた擬古文で書かれた和文学であり、和文学への深い教養が素地になっている。といっても、擬古文の原文は当て字の漢字が多用されとても読みにくい。口語訳が出ていて助かった。
朝敏の生涯にとって、重要な出来事がその後、起きてくる。その文学的な形成の上でも、影響を与えることになる。というのは、21歳で結婚したが、首里城内の高貴な女性(時の尚敬王の王妃といわれる)が密かに訪ねてきて、絹の上下衣を朝敏に贈ったという噂が広がった。彼は美男子で女性からとてももてたらしい。それが国王や著名な政治家・蔡温(さいおん)らの知るところとなり、朝敏はその責任を問われ、家屋敷を没収され、職も失った。一家はあちこち転々とし、自分が脇地頭(今の字にあたる村を領地に持つ)をつとめる勝連間切の平敷屋村に移り住んだ。やがて、嫌疑が晴れて朝敏は再び、職を得て首里に帰ってきた。その後、仕事のかたわら、創作を行ったという。朝敏を悲劇の文学者といったのは、この経歴ではない。
1734年、当時、琉球を支配する薩摩が那覇に置いていた監督機関である在番奉行の横目(監視役)、西川平左衛門宅に再三にわたって投書があった。内容は王府を風刺したものだったらしい。朝敏は、王府きっての英才といわれた友寄安乗(ともよせあんじょう)ら和文学の仲間とともに15人が捕らえられた。蔡温によってついに6月26日、安謝(あじゃ)港で15人の若者らが処刑された。さらに朝敏の長男は多良間(たらま)島、二男は与那国島、三男は水納(みんな)島に島流しになったのである。朝敏の妻のまなびは、身分を百姓に落とされ、高離島(いまの宮城島)に流されたという。事件の真相は記録が残されていないためによくわからないが、投書をしただけでこんなに集団処刑になるのは、稀有のことである。
(つづく)
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