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2008.12.02

「赤虫が蝶なて飛ばば遺念ともて 琉球の悲劇の文学者 平敷屋朝敏覚書」 沢村 昭洋 【その六】

   組踊の中で「手水の縁」が占めている位置

  「手水の縁」が琉球の特有の芸術である組踊の中でも、出色の位置を占めている。それは、約60種類に分類される組踊全体を見れば明らかになる。當間一郎氏の「組踊研究」によれば、最も多いのは、仇討や戦さなどを扱った仇討ち物で30数種に及ぶ。親子や夫婦などの人間関係の深さ、厳しさ、世話物風が20数種に及ぶという。
 例えば組踊の創始者、玉城朝薫作の「二童敵討」は、アマオヘ(実在の阿麻和利がモデル)に攻め滅ぼされた護佐丸(ごさまる)の息子二人が親の仇を討つという忠孝物語である。「執心鐘入」という作品は、大和の「道成寺」の琉球版のような話で、女の情念と道義の葛藤を描いている。大城學氏は「組踊のテーマは、封建倫理の徳目である<忠><考>が中心であり、それに王府が介入することが強調されている」「琉球王府は支配の論理を組踊のなかに具現化させてみせた」(沖縄芸能史概論)と指摘している。それは首里王府が管理する組踊であるから、ある意味では当然の帰結ではあるのだろう。 
 そのなかで「『手水の縁』は恋愛を主題とした唯一の組踊」(比嘉春潮氏)といわれる。純粋な恋愛物の組踊は、ほとんど他にない。しかも、士族と遊女といったような関係ではなく、村の大主(支配者)という家柄の生まれの男女の恋愛である。封建的な道徳・倫理のしがらみ、桎梏を打ち破って男女の自由な恋愛を賛美し、それが成就するという主題が、どんなに時代を突き破った画期的な物語世界であり、作品であるのが明らかである。
 この「手水の縁」が初演されたのは、一八六六年に中国から来た冊封使を歓待するためだったらしい。実に創作されてから一三〇数年もたっている。これがいまのところ確認できる最古の上演だという。もう琉球王朝としては最後の国王の冊封の時である。朝敏が国家に対する反逆の政治犯であり、儒教道徳に反するような内容から、上演がされなかったといわれる。
 當間氏も、この作品が「男女の情事を忌憚なく写したということと罪人の作だということが、公の晴れの場所で演じられぬ原因」となったという。しかしながら、「この組踊は他の諸作と趣を異にし、男女の情事を描いたのだから、儒教主義の当時の人には表向きは好まれなかったが、その代り若い人々の血を躍らすものがある」と指摘している
 當間一郎氏は「古い頃にはまったく上演されず、台本を読むことさえタブー視されたのだが、村芝居がさかんになると人気をあつめた組踊の一つになって、観る人たちの心をとらえたのである」とのべている。

(つづく)

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