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2009年1月

2009.01.01

高知市 「年越しの ビールのアテは カボチャ種……」。

 二〇〇九年一月一日。

 年越しの ビールのアテは
 カボチャ種
 弟、妻との ゆったり時間

 除夜の鐘 終わらぬうちにと
 つぎつぎと
 年賀メールを 送っているよ

 除夜の鐘 方耳で聴き
 ナンクロに 励んでいるよ
 妻の日常

 新年を 確かめてから
 リポートの
 課題の本を 読み始めてる

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2009.01.03

高知市 「イヌ、ネコがいる家のために全国的なイヌ、ネコための公的健康保険制度(1割負担)の創立」を。

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二〇〇九年一月一日。

 昼過ぎから後高知市筆山町の妻の実家で新年会。計十人。

 食べて、飲んで……。

 妻の弟の娘(東京都在住)が、よりチャーミングになっていたのに驚がく。

 妻が中学生のとき、同居していた小学生の従弟(いとこ)に「エルボー攻撃」を加えていたことが判明。やっぱり。

僕が「イヌ、ネコがいる家のために全国的なイヌ、ネコための公的健康保険制度(1割負担)の創立」を提案。おおかたの賛同を得ましたが……。

 なぜか、「街頭右翼の収入源は……」というのが僕の研究テーマになりました。

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高知市 「小宴会 アコーディオンも やってきて 青春歌い 新しい年」。

二〇〇九年一月二日。

 

 午後から、わが家で新年会。

 二十二歳から六十代まで計十一人が参加してくれました(女性は四人)。

 某青年市議がキーボートを弾いて歌ってくれました。

 後半、僕と同年代の女性がアコーディオンを持って「乱入」。青春の歌のオンパレードに。

 僕は「これを最後に宴会参加は終わり。秋までは四年制大学編入試験の合格を目指して一心不乱に勉強する」と、いうことになっていますが、はたして……。

 小宴会 アコーディオンも やってきて 青春歌い 新しい年

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高知市 東京都千代田区・日比谷公園の派遣村のニュース。

 二〇〇九年一月三日。

 「派遣村 三百人が 押しかけた」 トップニュースに 身を引き締める

 

 ここに派遣村のニュースがあります。

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2009-01-03/2009010301_01_0.html

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高知市大津 ご近所のサギ 二〇〇九年の初撮影。

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二〇〇九年一月三日。

 ご近所のサギを撮影しました。

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高知市 「和歌山の 青年ツアー 迎え入れ 高知の戦争 語る正月」。

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 二〇〇九年一月三日。

 和歌山の 青年ツアー 迎え入れ 高知の戦争 語る正月

 午前中、「御前会議でのアジア・太平洋戦争開戦決定の過程」を執筆。

 しかし、もう一冊本がないと解決がつかないことが判明。

 六日に高知県立図書館が開くのを待つことにしました。

 午後、青年ツアーの受け入れに。

総勢十一人。うち男性四人。

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高知市 わんさか、いろんな人から、いろんなものを……。

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二〇〇九年一月三日。

 三十一日から、いろんな人にもらってばかり。

 ○ 三十一日 MO夫妻からユズのしぼり汁、ひょろ長いカボチャ。

 ○ 二日 新年会参加者から。焼酎、ワイン、ビール、お菓子、おつまみ、韓国語の教材。

 ○ 三日 大学の後輩・NAさんからリンゴと歴史学雑誌を大量に。

 ○ 三日 KUさんから自家製の黒砂糖。

 お気づかいいただきありがとうございました。

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高知市大津 「ごんろりと 暖房直下 腹見せて 夢見心地の わが家の子ネコ」。

20090103_cat_020  二〇〇九年一月三日。

 ごんろりと 暖房直下 腹見せて 夢見心地の わが家の子ネコ

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高知市 英文日記 二〇〇九年一月三日。

 二〇〇九年一月三日。

 年末年始の休みは、もうすぐ終わります。
 一月五日から私たちの夜間の短期大学授業が始まります。
 私は、私の学生仲間に会えるのが楽しみです。
 しかし、宿題は、まだ、かなり残っています。

 January 3, 2009.

 The rest at year end and new year ends soon.
 Our junior college class at nighttime starts on January 5.
 For me, being able to meet my student companion is the enjoyment.
 However, homework remains still considerably.

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2009.01.04

高知市 やっと年賀状を書き終えました。

 二〇〇九年一月四日。

 休み。

 ○ 年賀状書き。
 ○ 月刊『高知人 一月号』の二校。
 ○ 英語の勉強。
 ○ 韓国語の勉強。
 ○ 『高知の戦争 証言と調査 三号』の編集。
 ○ あすからの仕事と授業の準備。

 気がついたら午前零時前です。

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高知市 「零時前 歴史の本を 一つ下げ……」。 

 二〇〇九年一月四日。

 零時前

 歴史の本を 一つ下げ

 「さぁ、読んでやる」 ベッドに向かう

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2009.01.05

高知市 ハングルの日記。 생일 축하합니다  センイル チュカハムニダ

 一月六日までに誕生日の歌を覚えるのが宿題です。

 1월6일까지 생일의 노래를 기억하는 것이 숙제입니다. イルウォル ユギルツカジ センイルエ ノレルル キオグハヌン コシ スクチェイムニダ

 こんな歌です。

이런 노래입니다.  イロン ノレイムニダ

 誕生日おめでとう

 생일 축하합니다  センイル チュカハムニダ

 誕生日おめでとう

생일 축하합니다  センイル チュカハムニダ 

愛する 〇〇さん

 

 사랑하는 〇〇 サランハヌン ○○ッシ

 

誕生日おめでとう

생일 축하합니다  センイル チュカハムニダ

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2009.01.06

高知市 「むゆか」「むいか」。「なのか」「なぬか」。どっちかな。

 二〇〇九年一月五日。

 日韓辞典を引いていて気がついたのですが、七日と八日には二つの読み方があるのですね。

 むゆか  →むいか
 なのか  →なぬか

 僕の「好み」は、いずれも前者です。

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高知市 「輝いている顔」に出会いました。

 二〇〇九年一月五日。

 新年からの授業開始。

 ある若い女子学生の表情を見てびっくり。

 「輝いている」というのがぴったり。

 国立大学の三年時編入試験に通ったこともあって人生に自信がついたのだろうと思います。

 いい表情を見ました。

 人間、こうでなくては。

 授業が終わってから「高知短期大学学生歌」の収録。

 女学生八人の歌声。

 何度も録音して、やっぱり最後のものをオーケーに。

 映画用です。

 帰ってから「帰るのを待ってたわよ」という妻に使役されました。

 文書四つ、写真六つの印刷を「やらされた」のです。

 かわりに僕のリポートの校正をやってもらいました。

 しかし、彼女は「こんな文章なんて、何の意味があるの?」。

 ウルルン。

 実は、僕も、そう思いかけていました。

 別のテーマでリポートを書くことにしました。

 なんて素直な僕………。

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2009.01.07

御前会議でのアジア・太平洋戦争開戦決定の過程 その一

  『大元帥 昭和天皇』(山田朗。新日本出版社。一九九四十月三十日)は、日本のアメリカ、イギリスなどにたいする戦争が「一九四一年後半の四回の御前会議をへて決定されていった」(百三十七ページ)としてのべ、その過程をのべています。この指摘にそって御前会議でアジア・太平洋戦争の開戦が、どのように決定されたのか、その過程を私なりにあとづけてみました。

 【昭和天皇のもとでの御前会議の開催状況】

 まず、御前会議とは何でしょうか。
 「御前会議とは、大日本帝国憲法[一八八九年発布]の定めで統治権の総攬者(そうらんしゃ)の地位にあり、また陸海軍の最高統帥者=陸海軍大元帥でもある天皇の臨席のもとで、天皇の国務大権を輔弼(ほひつ)する国務大臣(政府)と統帥(とうすい)権を補佐する幕僚(ばくりょう)長(参謀総長・軍令部総長)らが列席し、対外戦争について国家の最高方針を決定・確認する会議である。」「国務の担当者は統帥にかかわることができず、統帥の担当者は国務を扱えない。天皇のみが国務大権と統帥大権とを一身に兼ね備えていた。そこで、開戦あるいは終戦といった重大な議案については、国務と統帥のそれぞれの代表担当者が天皇=大元帥のまえに列席し、審議し決定するという方式が必要となった。」(『1941年12月8日 アジア太平洋戦争はなぜ起こったか』。江口圭一。岩波書店。一九九一年十一月二十日。百四ページ~百五ページ)。
 昭和天皇のもとでの御前会議の開催状況は、以下のとおりです。( )内は、決定された国策文書名など。
 1 一九三八年一月十一日 (支那事変処理根本方針)
 2 一九三八年十一月三十日 (日華新関係調整方針)
 3 一九四〇年九月十九日 (日独伊三国同盟条約)
 4 一九四〇年十一月十三日 (支那事変処理要綱に関する件ほか)
 5 一九四一年七月二日 (情勢の推移に伴=ともな=う帝国国策要綱)
 6 一九四一年九月六日 (帝国国策遂行要領)
 7 一九四一年十一月五日 (帝国国策遂行要領)
 8 一九四一年十二月一日 (対米英蘭開戦の件)
 9 一九四二年十二月二十一日 (大東亜戦争完遂の為の対支処理根本方針)
 10 一九四三年五月三十一日 (大東亜政略指導大綱)
 11 一九四三年九月三十日 (今後採るべき戦争指導大綱ほか)
 12 一九四四年八月十九日 (今後採るべき戦争指導の大綱ほか)
 13 一九四五年六月八日 (今後採るべき戦争指導の基本大綱)
 14 一九四五年八月九日 (ポツダム宣言受諾の可否について)
 15 一九四五年八月十四日 (ポッダム宣言受諾の最終決定)

 この原稿では「5」から「8」の御前会議を見ていきます。

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御前会議でのアジア・太平洋戦争開戦決定の過程 その二

 【日本がぶつかった日米関係悪化の現実】

 このテーマを考える上で、当時の日米関係をスケッチしておきます。
 日米関係の悪化の根源は、一九三一年九月十八日の柳条湖事件に始まる日本の中国への侵略戦争にありました。
 しかも、その日本は、一九四〇年七月に成立した第二次近衛文麿(このえ・ふみまろ)内閣のもと、「大東亜新秩序」「大東亜共栄圏」の建設を宣言し、武力南進の方針を決めます。
 この状況を見て、これまでは輸出制限などの経済制裁を手控えていたアメリカが、これ以上侵略国への経済支援はできないと、禁輸などの措置を強化してきました。
 七月、航空機用ガソリンを、九月にはクズ鉄の日本への輸出を禁止する措置をとりました。
これが、日本がぶつかった日米関係悪化の現実でした。 
 日本は、なおも、九月二十三日、北部仏印(ハノイ、ハイフォン地域)の武力占領を強行し、九月二十七日にはヨーロッパでの侵略国ドイツ、イタリアと軍事同盟を結びました。
 一九四一年(昭和十六年)一月、松岡外相は、野村吉三郎元外相を大使としてアメリカに送りました。
 アメリカのコーデル・ハル国務長官は、四月の野村との会談で、今後の日米協議の基礎として、(1)領土保全・主権尊重、(2)内政不干渉、(3)機会均等、(4)太平洋現状維持の四原則を提起しました。
 これは、これまでの侵略政策の根本的な再検討を日本に求めたものでした。
 その後の、五月~六月の交渉でも、ハルは「日本は太平洋の西南区域で征服のための武力行使はしないことを保証する用意があるか」「日本政府の心中に中国からの軍隊撤退の時期についてなんらかの決定的な計画はあるか、その撤兵の実際の保証はあるか」「『防共』を名目として日本軍を無期限に駐留させる政策は極度に重大な点だ」など、日米協議の核心にかかわる問題を次々と提起しました。
 しかし、日本の政府・軍部の側には、これらの問題提起に対応する用意はありませんでした。
 そうしたなか、一九四一年六月二十二日、ドイツがソ連攻撃を開始し、独ソ戦が起こりました。

 【一九四一年七月二日の御前会議】

 独ソ戦開始の十日後の一九四一年七月二日、御前会議が開かれました。
 ここでは、事態に対応するための方策として「情勢の推移に伴(ともな)う帝国国策要綱」を決定しています。
 「方針」。
 「一、帝国は世界情勢変転の如何(いかん)に拘(かかわ)らず大東亜共栄圏を建設し以(もっ)て世界平和の確立に寄与せんとする方針を堅持す
 二、帝国は依然支那事変処理に邁進し且(かつ)自存自衛の基礎を確立する為(ため)南方進出の歩を進め又(また)情勢の推移に応じ北方問題を解決す
 (後略)」
 「要領」。
 「(前略)
 二、帝国は其(そ)の自存自衛上南方要域に対する必要なる外交交渉を続行し、その他各般の施策を促進す。
 之(これ)が為(ため)対英米戦準備を整へ、先(ま)ず『対仏印泰(たい)施策要綱』[一九四一年一月三十日連絡会議決定])及(および)『南方施策促進に関する件』[六月二十五日連絡会議決定]に依(よ)り、仏印及(および)泰に対する諸方策を完遂し以(もっ)て南方進出の態勢を強化す
 帝国は本号目的達成の為(ため)対英米戦を辞せず
 (後略)」
 南方と同時にソ連に向かうという南北並進という結論です。
 そして、南方進出のためにアメリカ、イギリスとの戦争も辞せずとしています。
 なお、ここで使われている「自存自衛」という言葉は、日本が南方進出作戦を問題にしだしたころから使われだしました。
 この御前会議のあと、外相が松岡から豊田貞次郎に交代します(七月十八日。第三次近衛内閣)。
 御前会議が決定した戦争準備は着々とすすみました。
 北進については、七月に「関東軍特種(とくしゅ)演習」の名で大軍を「満州国」に結集します。
 南進については、七月二十八日、南部仏印進駐を強行しました。
 南部仏印進駐はアメリカの反撃を招き、アメリカは、八月一日、日本にたいする石油の輸出を全面的に停止しました。
 また、イギリス、オランダも自国内の日本資産を凍結しました。
 日本は、これらから三国で物資を買い付けできなくなりました。
 八月六日、近衛首相は、野村大使を通じて、近衛=ルーズベルト首脳会談での局面打開を提案します。
 この時期は、ルーズベルトが大西洋上でイギリス首相のチャーチルと会談し、世界戦争を終結させる国際的原則について協議している最中でした(大西洋会談)。
 この会談の結論として八月十四日発表された「大西洋憲章」は、いっさいの侵略行為とその結果を認めないことを、「両国国策の共通原則」として内外に明らかにしました。
 「第二に、両者は、関係国民の自由に表明する希望と一致しない領土変更の行われることを欲しない。
 第三に、両者は、すべての国民に対して、彼らがその下で生活する政体を選択する権利を尊重する。両者は、主権及び自治を強奪された者にそれらが回復されることを希望する」
 これは、日本にその侵略政策そのものの再検討を迫るものでした。

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御前会議でのアジア・太平洋戦争開戦決定の過程 その三

 【一九四一年九月六日の御前会議】

 「御前会議の結論はあらかじめ決まっている。その議案は、大本営(だいほんえい)政府連絡会議で原案がつくられ、閣議の承認をへて、天皇に上奏され、天皇の裁可をすでにえているのである」(『1941年12月8日 アジア太平洋戦争はなぜ起こったか』。百六ページ)。 
 近衛首相が、近衛=ルーズベルト首脳会談を提案してから一か月後の九月六日の御前会議のときも、そういう手順が踏まれました。
 前日の九月五日、議案「帝国国策遂行要領」が内奏されました。
 そのとき、天皇は杉山元(はじめ)参謀総長に日米戦はどのくらいで片付くかと質問し、杉山をやりこめました。
 対米戦争はいいが、勝算はあるのかという観点での質問でした。
 そのとき、永野修身(おさみ)軍令部長が助け舟を出し天皇を説得しています。
 永野は説明の後に、議案「帝国国策遂行要領」の第一項の戦争準備の完整と第二項の外交交渉による問題の解決の順序を変更するかどうかと奏聞しました。
その後、つぎのようなやりとりがあったといいます(『アジア・太平洋戦争』。吉田裕。岩波書店。二〇〇七年八月二十一日。四十八ページ)。

 御上(おかみ) よし解つた(御気色和げり)。
 近衛総理 明日の議題を変更しますか。如何(いかが)取計(とりはからい)ませうか。
 御上 変更に及ばず。

 昭和天皇の腹は決まりました。
 翌九月六日午前十時から開かれた御前会議では「帝国国策遂行要領」が決議されました。
 「帝国は現下の急迫せる情勢特に米英蘭[アメリカ、イギリス、オランダ]等各国の執れる対日攻勢『ソ』聯の情勢及(および)帝国国力の弾撥性に鑑(かんが)み『情勢の推移に伴(ともな)う帝国国策要綱』中南方に対する施策を左記に依(よ)り遂行す
 一、帝国は自存自衛を全(まっと)うする為(ため)対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下(もと)に概(おおむ)ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す
 二、帝国は右に竝行(へいこう)して米、英に対し外交の手段を尽(つく)して帝国の要求貫徹に努む
 対米(英)交渉に於(おい)て帝国の達成すべき最少限度の要求事項竝(ならび)に之(これ)に関連し帝国の約諾し得る限度は別紙の如(ごと)し
 三、前号外交交渉に依(よ)り十月上旬頃に至(いた)るも尚(なお)我(わが)要求を貫徹し得る目途なき場合に於(おい)ては直(ただ)ちに対米(英蘭)開戦を決意す
 対南方以外の施策は既定国策に基(もとず)き之(これ)を行い特に米『ソ』の対日連合戦線を結成せしめざるに勉む」
 「別紙」の「最少限度の要求事項」には、こうありました。
 「米英は帝国の支那事変処理に容喙(ようかい。口を出すこと)し又(また)はこれを妨害せざること」
 「米英は極東に於(おい)て帝国の国防を脅威するがごとき行動に出でざること」
 「米英は帝国の所要物資獲得に協力すること」
 中国問題は日本の勝手にまかせて口をだすな、戦争に必要な物資は供給せよ、これが「最少限度の要求」だったのです。
 しかも、十月上旬までにこの要求をアメリカが承認するメドがたたなかったら、「直(ただ)ちに対米(英蘭)開戦を決意す」。
 これが、首脳会談を提案したあとでの、戦争を指導する最高会議における決定でした。
 この御前会議の席で昭和天皇が明治天皇の短歌「四方(よも)の海 みな同胞(はらから)と 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらむ」を読み上げました。
 一部の論者は、このことをもって、昭和天皇が「外交を優先させたいという気持ちを列席者に伝えた」といいます(『1941年12月8日 アジア太平洋戦争はなぜ起こったか』。百十二ページ)。
 これでは、前日、「戦争準備の完整」を優先することを決意した昭和天皇が、翌日には外交交渉による問題の解決を優先する方向に揺れているということになります。
 むしろ、日本は新しい戦争にいぞむのだという昭和天皇の開戦決意の気持ちを、この短歌に託して伝えたと考えるほうが素直なのではないでしょうか。
 『大元帥 昭和天皇』は「昭和天皇は、九月六日の御前会議までは、明らかに対英米戦争に慎重な姿勢をとっていた」(百三十七ページ)と指摘。そして、その理由を「戦争に勝てるか否か、天皇は作戦をつかさどる統帥部の幕僚長(参謀総長と軍令部総長)にたびたび質問したが、いっこうに納得のいく回答がえられなかったからである。」としています。
 昭和天皇は、開戦して「勝てるか否か」に関心があったわけです。
 開戦に向けての天皇の態度がどうだったかの判断は、まさに、七月二日の御前会議、九月六日の御前会議をふくめた四つの御前会議の決定の内容を検討することが基本だと思います。
 九月六日の御前会議の決定をうけて、陸海軍は、ただちに動きだしました。
 海軍の戦争準備は早くから完了していましたが、陸軍についても、大本営陸軍部は、九月十八日、作戦準備の命令を発し、南方作戦兵力の移動を開始しました。
 日米交渉に進展のないまま、十月下旬という期限のせまるなかで、自信を失った近衛は、十月十六日、政権を投げ出しました。
 内(ない)大臣の木戸幸一は、近衛の同意を得て、陸軍大将・東条英機を後続首相に推し、昭和天皇も、これを了承しました。
 そして、十月十八日、東条内閣が成立しました。

 【一九四一年十一月五日の御前会議】

 東条内閣の成立をうけて、十一月五日、御前会議が開かれました。
 ここで「帝国国策遂行要領」が決定されます。戦争の開始を決断した決定でした。
 「一、帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完(まっと)うし大東亜の新秩序を建設する為(ため)此(こ)の際対米英蘭戦争を決意し左記措置を採る
 (一)武力発動の時期を十二月初頭と定め陸海軍は作戦準備を完整す
 (二)対米交渉は別紙要領に依(よ)り之(これ)を行う
 (三)独伊との提携強化を図る
 (四)武力発動の直前泰(タイ)との間に軍事的緊密関係を樹立す
 二、対米交渉が十二月一日午前零時迄(まで)成功せば武力発動を中止す」
 「別紙要領」の交渉案(甲案)は、戦争が終わったあとも、日本軍が中国の北部とモンゴル地域および海南島に居座り続けることを柱としたもので、一九三七年に蒋介石政権に提示して黙殺され、一九四〇年にカイライ汪兆銘政権にようやく押しつけた「講和条件」の焼き直しでした。
 それを、今度はアメリカを仲介役にして中国に押しつけようとする提案です。
 この決定から、陸海軍は戦闘態勢に移行します。
 十一月六日付の大陸令第五五五号によって、南方作戦に参加する各軍の戦闘序列が発令されました。同日付の一連の大陸令・大陸指によって、南方軍総司令官、支那派遣軍総司令官、南海支隊長にたいして攻略準備命令が発令されました。大陸令は大元帥(だいげんすい)としての天皇が陸軍に発する最高統帥命令、大陸指は大陸令にもとづいて参謀総長が発する指示事項です。
 海軍も、十一月五日付の大海令第一号によって作戦準備の「完遂」が発令されました。大海令も、天皇が海軍にたいして発する最高統帥命令です。
 同日、海軍の艦船部隊などを平時状態から戦時状態に移行させる出師(すいし)準備第二着作業が発動されました。
 十一月八日、軍部が天皇に真珠湾攻撃の作戦計画を報告して承認を受けました(『新・日本共産党綱領を読む』。不破哲三。新日本出版社。二〇〇四年十二月十五日。七十五ページ)。
 ハワイの真珠湾急襲の任務を受けた海軍の機動部隊は、瀬戸内海から行動を起こし、十一月二十二日までには南千島・択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾に集結、十一月二十六日、真珠湾に向かって出撃しました。
 「帝国国策遂行要領」に、対米交渉は一応書かれていて、野村大使への援助として、十一月六日、この決定をもって来栖特使がアメリカに派遣されました。来栖特使は、一年前にベルリンで日独伊三国同盟に調印した人物です。
 十一月二十六日、アメリカのハル国務長官は日本側に政府の回答を示します(ハル・ノート)。その要求は、日本軍の中国からの撤兵、汪兆銘政権の否認、三国同盟の空文化、すべての国家の領土および主権の尊重、内政不干渉、通商上の機会均等、紛争の平和的解決という四原則の確認などでした。
 この日は、真珠湾攻撃をめざす日本の機動部隊が南千島から早朝に出撃した日でした。

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御前会議でのアジア・太平洋戦争開戦決定の過程 その四

 【一九四一年十二月一日の御前会議】

 十二月一日、御前会議が開かれ、「対米英蘭開戦に関する件」が決定されました。
 「十一月五日決定の帝国々策遂行要領に基(もとづ)く対米交渉遂(つい)に成立するにに至(いた)らず
 帝国は米英蘭に対し開戦す」
 杉山は、この御前会議について、つぎのように書き残しています。
 「本日は会議に於(おい)て、お上は説明に対して一々頷(うなず)かれ何等御不安の御様子を拝せず、御気色(けしき)麗(うるわ)しきやに拝し、恐懼(きょうく)[おそれかしこまること]感激の至(いた)りなり」(『1941年12月8日 アジア太平洋戦争はなぜ起こったか』。百十六ページ)。

 【十二月八日、アジア・太平洋戦争を開始】

 こうして、十二月八日、日本軍は、東南アジア全域にわたる侵略戦争を開始するとともに、アメリカにたいしては真珠湾に先制攻撃による奇襲をくわえ、太平洋戦争に突入することになりました。
 この日、昭和天皇名で「米英両国に対する宣戦の詔書」が発表されました。

 最後に、太平洋戦争開始をめぐる昭和天皇の統帥と東条首相の関係における出来事について書いておきます。
 先にのべたようにハワイの真珠湾急襲の任務を受けた海軍の機動部隊は、十一月二十六日、真珠湾に向かって出港しました。
 しかし、東条首相は、そのことを知りませんでした。
 「東京裁判での東条自身の証言によると、[一九四一年]一二月の一日か二日ごろ、参謀総長から、『実はこうなっているんだよ』と知らされたとのことです。しかし、首相は、内閣の誰にも話しません。だから、東条内閣の官僚たちは、一二月八日、攻撃が終わって、アメリカ艦隊壊滅という戦果が分かってから、臨時閣議ではじめてそのことを耳にしたのでした。小学生だった私なども、臨時ニュースを朝聞きましたから、真珠湾攻撃を知った時間は、大臣たちも、小学生[実際は、国民学校生]の私とあまり違わなかったのです。」(『新・日本共産党綱領を読む』)七十六ページ。

 文中の[ ]内は藤原の注です。
 一連の御前会議の決定は、『日本外交年表竝主要文書 下』(外務省編纂。原書房。一九六六年一月十五日)から引用しました。ただし、片仮名まじりの文章を平仮名まじりにし、現代仮名遣いにしてあります。

 【文中で紹介していない参考文献】

 ○ 『シリーズ日本近現代史⑥ アジア・太平洋戦争』(吉田裕。岩波書店。二〇〇七年八月二十一日)。
 ○ 『御前会議 昭和天皇十五回の聖断』(大江志乃夫。中央公論社。一九九一年二月十五日)。
 ○ 『天皇の勅語と昭和史』(千田夏光。汐文社。一九八三年二月十五日)。
 ○ 「日本の戦争―領土拡張主義の歴史 不破哲三さんに聞く 第4回 南進作戦と日米交渉」。「しんぶん赤旗」二〇〇六年九月二十四日付。

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高知県 『高知の戦争 証言と調査 第1号』ができました。

 二〇〇九年一月七日。

 『高知の戦争 証言と調査 第1号』が1月7日にできました。
 三十ページ、百円です。
 次号から六十ページ、二百円です。
 引き続き月刊のペースで発行していきたいと思っています。

 あなたも、ご執筆いただけませんでしょうか。
 徴兵や従軍の体験、戦死した父や兄弟のこと、戦争に反対した人のこと、教育現場でのできごと、そのころの暮し、学徒勤労動員のこと、アメリカの空襲の被害、「外地」からの引き揚げ、高知の戦争遺跡の紹介、高知の戦争についての研究……。あなたのテーマで結構です。
 締め切りは「毎月15日」です。
 原稿はできるだけメールで、お願いします。

   『高知の戦争 証言と調査』編集担当
     
     藤原 義一

     メール  bqv01222@nifty.com

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2009.01.08

高知市 「経済的自由の保障の意義とその修正」についてのメモ。

 二〇〇九年一月八日。

 いやーっ、もうすぐ午前二時です。

 七日夜、憲法の問題で四つのテーマが与えられて、考えていました。

 まず、テーマの一つ、「経済的自由の保障の意義とその修正」について、メモをつくり終えました。

 近代憲法の人権宣言においては、財産権(所有権)を中心とする経済的自由権は、人権保障の中核をなす自由として、絶対的な保障が求められました。
 一九八九年八月二十六日の「フランスの人および市民の宣言」一七条が所有権を「神聖で不可侵の権利である」としたことは、その表明でした。
 この経済的自由の絶対的保障は、資本主義経済の発展を支えました。
 資本主義の発展は、やがて、大きな力を持った独占的大資本を生み出し、貧富の差の拡大、経済的弱者の増大など、社会構造にさまざまな矛盾を生じさせることになりました。
 そのため、十九世紀の終わりごろから二十世紀にかけて、絶対的な経済的自由という考え方は、大資本の横暴を許し、社会的・経済的弱者の人間らしい生存を妨げるものでしかないという認識が広まってきました。
 こうして、二十世紀の現代憲法では、経済的自由は、絶対的な保障を受けるものではなく、社会的・経済的弱者の生存を保障する社会権の保障という目的のために制限を受けるべきだとする考え方が定着してきました。
 第一次世界大戦敗北を契機としてぼっ発したドイツ革命によって帝政ドイツが崩壊した後の一九一九年八月十一日にドイツ国憲法・ワイマール憲法が制定されました。
 この憲法によって、経済的自由権に絶対的な価値を見出していた近代憲法から社会権保障を考慮する現代憲法への転換がなされました。
 この憲法の一五一条は「経済生活の秩序は、すべての者に人間たるに値する生活を保障する目的をもつ正義の原則に適合しなければならない」とし、一五三条三項は「所有権は義務をともなう。その公使は、同時に公共の福祉に役立つべきである」と定めました。
 この憲法は、その後に制定された諸外国の憲法の模範となりました。
 日本国憲法も、こうした歴史の流れを受けつぎ、経済的自由権について定める二二条一項(居住、移転、職業選択の自由)や二九条(財産権)で、とくに「公共の福祉」による制約を定めています。

( ̄ー ̄)ニヤリ

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2009.01.09

高知市 三月十五日のTOEICの試験を受けることにしました。

 二〇〇九年一月八日。

 三月十五日のTOEICの試験を受けることにしました。
 本日、費用を払い込みました。この試験を僕の英語学習の「最初のゴール」にしたいと思っています。

 高知短期大学に入る前まではTOEICを受けるなんて考えてもみませんでした。
 この一年の尊敬するY先生の懇切丁寧なご指導で、何か「僕も、何とかなるかもしれない」と思うようになりました。

 受けてみようと思いだした自分を「すっごい」と思っています。

 高知大学を三年生でやめてからの二十歳以降、いくつか試験を受けましたが、何とかなっています。

 といっても、五十CCの試験、中型二輪の試験、アマチュア無線電話級の試験くらいですが……。

 TOEICは、かなり厳しい結果が出るとは思いますが、あと二回ほど受けて、「何とか」のところまでいきたいと思っています。

 努力すれば「一定のところまで」いけるとは思っています。

 何か、僕って過信してますよね。

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高知市 英語日記を書くようにしました。

 二〇〇九年一月八日。

 英語日記を書くようにしました。

 書いたら、添削をしてくれる高知大学で一学年下だった女性に郵送することにしています。

 今夜、一回目ができあがりました。

 いろんな人たちに「お願い」をしながら学力向上をはかっている六十一歳です。

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高知市 大学四年生のIさん(男性)がトーイックの参考書を二冊持ってきてくれました。

 二〇〇九年一月九日。

 「僕は、こういうことをしたいんだ。挑戦したいんだ」

 何か思いついたら、周りの人にいいふらして、そのことで自分を「追い込んでいく」というのが僕のやり方です。

 で、トーイックを受けるということも何人かにいいふらしました。

 そして、きょう、受験申込書を郵送しました。

 その、きょうの午後、大学四年生のIさん(男性)がトーイックの参考書を二冊持ってきてくれました。

 ありがとうございました。

 深く感謝します。

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2009.01.10

高知市 うっへーっ、やりたいことが多すぎて……。

 二〇〇九年一月九日。

 次々に「後期のテストの範囲は、こうこうで……」ということを先生からうかがい、少しパニックに。

 試験までに勉強したり、まとめたりすることが多すぎるのです。

 と、いいながら、あす、あさっては毒ガス島こと大久野島へのツアー、しあさっての夜は新年会……。

 いろいろやりたいことが多すぎるのが僕の欠点です。

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高知市 妻の献身にカンパーイ。

 二〇〇九年一月九日。

 つくづく、わが妻は「すっごい」と思います。

 いまも、『高知の戦争 証言と調査 一月号』の発送作業をやってくれています。

 実は、もう午前零時なのです。

 「なんで私が……」といいながら、夫の「趣味」を支えてくれています。

 何か、もう、頭が上がりません。

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2009.01.11

高知市 毒ガス島への平和の旅の件、以下にアップしました。

http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanoshi/200 9/01/post-e289.html

 いまは人間よりウサギの033多い島です。

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高知市 今夜は、素晴らしい満月ですよ。

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高知市 勉強、宿題、テスト…… 

 君が代の 侵略のさま 解き明かす
 学収めんと
 老いの一徹

 「宿題で、いっぱいいっぱい」
 若い友
 僕の場合は あふれ出ている

 英訳と 論文づくりの 宿題で
 わが冬休み
 とんでいったよ

 十科目 後期試験に 挑む月
 本積み重ね
 あせってきたよ

 着々と
 勉強重ねて いけばいい
 わかっているが 野暮用の山

 大学に 編入したい
 六十一
 試験要項 ネットで探す

 とにかくも
 英語ができなきゃ どもならん
 編入要綱 にらんで思案

 「勉強で 英語日記も つけるから」
 無料添削
 お願いしてる

 「トーイックも 受けてみるんだ」
 人ごとに 吹聴をして
 われを励ます

 「現場踏む 学びも必要」
 いい聞かせ
 毒ガス島への ツアーの輪にいる
    
 学び舎を 描く映画が できました
 あなたのもとに
 お届けしたい

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2009.01.12

高知市 森光子さんのメッセージ、 「どんなことがあっても平和を手放してはいけないということ。……ぜひ、平和を守っていただきたい。……あなたたちの手で、あなたたちの心で守ってください」。

 二〇〇九年一月十二日。

 夜九時からのNHK総合テレビ、「ニュースウォッチ九」で八十八歳の女優・森光子さんが出ていました。

 若者に贈る言葉がすてきでした。

 「どんなことがあっても平和を手放してはいけないということ。……ぜひ、平和を守っていただきたい。……あなたたちの手で、あなたたちの心で守ってください」

 関連記事です。

 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2008/08/post_5cb9.html

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2009.01.13

高知県 月刊誌『高知人』1月号ができました。 

 一月十三日、月刊誌『高知人』1月号ができました。

 さっそくですが、二月号の原稿を募集中です。  締め切りは「一月二十三日」です。
 長い原稿でも短い原稿でも結構です。

 今号は特集的に「こんなことをやっているよ。一緒にやらんかえ」という原稿も募集しています。
 行事のお知らせも載せさせていただきますので、原稿を、どうぞ。
 原稿は、メールでお願いいたします。

     二〇〇九年一月

      月刊『高知人』編集部

           メール  bqv01222@nifty.com

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高知市 妻に「カナーッ」と呼ばれている、わが家のネコさん。

 二〇〇九年一月十三日。

 ネコにまつわる三話。

 ● 木に三メートルくらい昇れるになった、わが家のネコ。元気一杯、家の中を飛び回るので閉口しています。僕は、食事の時間、勉強時間はネコを一階の広間から追い出しています。

 ● うちのネコは「クニョ」という名前です。妻は、しかるとき、ときどき、思わず「カナーッ」とよんでいます。東京で夫、二人の娘と一緒に暮らしている私たちの娘(もう三十六歳)の名前です。クニョのやんちゃぶりが、かつてのカナに似ているからだそうです。

 ● 「一昨日まで、そこに置いておいたあの本はどこへいった」など、失せ物が多くなったわが家。結局は妻と二人、「犯人はネコやろう」ということにしてお互いに和解しています。本日も、ある本を探しまわっているのですが出てきませんが……。

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2009.01.14

高知市大津 英語の勉強していたら「うわーーっ、こんな時間」。

 二〇〇九年一月十四日。

 学校から帰ってから妻と「いいあいこ」していたら、夜中に。

 妻がネコとベッドに去っる前後から英語の勉強。

 気がついたら午前二時半。

 わーーーっ、寝なくては。

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高知市 麻生さん。日本の経済の「みぞゆう」の「ていまい」は、どうも、これまでの自民党、公明党のやり方「ふしゅう」している、あなたのせいですね。麻生さん。あなたにとって漢字勉強は「しゅうびの急」ですね。「はんざつ」に勉強しましょうね。という僕も漢字不得意人間。

 麻生首相に同情しています。
 漢字が読めない政治家だと、おちょくられて……。
 こんなささいなことのようです。

 ● 二〇〇八年五月 中国・四川大地震に触れた、「未曾有(みぞう)」を「みぞゆう」と誤読しました。
 ← たしかに「みぞゆう」と読めます。

 ● 二〇〇八年十一月十二日 母校の学習院大学でおこなわれた日中交流行事のあいさつで、用意された原稿では日中首脳会談にかんし「一年のうちにこれだけ頻繁に首脳が往来したのは過去に例がない」とありたしたが、「頻繁(ひんぱん)」を「はんざつ」と読み誤まった。
 ← 「何回も」くらいでよかったのでは。

 ● 二〇〇八年十一月七日 参院本会議で、政府が過去のアジア諸国への侵略行為を謝罪した「村山談話」を「踏襲(とうしゅう)」というべきところを「ふしゅう」と答弁しました。
 ← 「受けつぎ」でもよかったね。

 ● 二〇〇八年十ニ月十一日  参院財政金融委員会で「低迷(ていめい)」を「ていまい」と誤読しました。
 ← 確か「迷子」のとはき「まいご」でしたよね。

 ● 二〇〇九年一月四日 年頭記者会見で書き初めをした時、色紙に記載した年号が「平成廿十一年」となっていました。「廿」だけでも「にじゅう」と読め、自民党のホームページに掲載された色紙の画像では「十」が消去されています。

 ● 二〇〇九年一月六日午後 衆院本会議での答弁で、バブル崩壊後の日本経済について「低迷(ていめい)」とのべるところを「ていまい」と読み間違えました。

 ← 二度目はまずいぜ。 

 ● 二〇〇九年一月十三日夜 官邸での記者とのやりとりで、景気対策にとりくむ政府の姿勢に関連して「焦眉(しょうび)の急」というべきところを「しゅうびの急」と発言しました。

 ← うーん。難しい言葉は使わない方がいいのでは……。

 本日夕の妻が聞いた、その母と父の発言。

 母 麻生さんは学生のとき、外国で暮らしていたんだよね。それで漢字の勉強が足りんかったがかもね。

 父 そんな悪口ゆうて……。そんなものよと思うちょきゃいいのよ。

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2009.01.15

高知市  GATT、WTOが進められてきた農産物貿易の自由化。あなたは、どう思いますか。

 1993年12月14日未明、細川護煕首相は、WTO(世界貿易機関)GATT(関税および貿易に関する一般協定。1948年に発足)ウルグアイ・ラウンド交渉の合意を受け入れると発表しました。発表文は「部分的とはいえ、コメの輸入に道を開くことは、…まさに断腸の思い」とのべていました。日本のコメへの「ミニマム・アクセス」の適用でした。以来、日本はコメを十分につくっているのに外国からコメを輸入しなくてはならないようになりました。

 翌94年12月8日には、ウルグアイ・ラウンド合意にもとづくWTO(世界貿易機関)協定とその関連法が国会を通過しました。法案を提出したのは、村山富市内閣でした。WTOは、GATTウルグアイ・ラウンドにおける合意にもとづきGATTを発展解消させて95年1月1日に成立しました。

 WTOは、農産物価格支持政策など生産者の経営と所得を支える政策が過剰生産の原因であり、自由貿易を阻害する政策だとし、それからの転換を求めています。基本食料を海外に依存し食糧安全保障のためには自給率の拡大が求められている途上国や日本にも、これが求められています。

 日本政府は忠実に、これを実行し、日本の農業・食料政策の基本をWTO協定に従属させました。国際競争力を理由にした大規模化偏重の農政は、農業と農村から活力を奪い、食料の生産基盤を破壊しました。その結果、日本農業は荒廃し、就業者も農地も国内生産も減り続けています。供給熱量でみた食料自給率は低下し、2006年度に40%になりました。

 世界ではいま、食料を市場まかせにすることによる害悪が明らかになり、各国の食料主権を保障する貿易ルールの確立をもとめる流れが広がっています。食料主権とは、各国が、輸出のためでなく自国民のための食料生産を最優先し、実効ある輸入規制や価格保障などの食料・農業政策を自主的に決定する権利のことです。

 国連人権委員会が2004年に採択した勧告は「各国政府に対し、食料に対する権利を尊重し、保護し、履行するよう勧告する。世界貿易機関(WTO)のアンバランスと不公平に対し、緊急の対処が必要である。いまや『食料主権』のビジョンが提起しているような、農業と貿易に関する新たなオルタナティブ・モデル(代替モデル)を検討すべきときである」とのべています。
この勧告には日本も賛成しました。

 国連の「食料への権利」特別報告官のデシュッター氏は2008年12月17日、国連人権理事会に提出する報告書で、国際貿易では飢餓状態にある人たちに食料供給はできなかったと指摘、発展途上国は新しい通商協定を交渉するよりも食料増産能力を高める努力を行うべきだと主張しました。
 同氏は、現行のWTOの農業協定は食料に関する人権を尊重するのではなく、食料を他の商品と同じように扱っていると批判。この結果、飢餓人口が2005年の8億5千2百万人から今日の9億6千3百万人に増加したとのべました。同氏は「貿易は各国の国民への食料供給能力の構築に代わることはできない」とのべ、「国際貿易をあてにして、持続可能な方法で食料安全保障を達成することはできない」と強調しました。さらに、多くの国の農業は国際競争に耐えるようにはなっていないとのべ、これは富裕国が貿易のための補助金を出して、食料を世界市場でダンピングしているからだけではなく、多くの途上国での農業部門への投資が不足していたためだと指摘しました。

 各国の食料主権を尊重する立場に立って、WTO農業協定を根本から見直すべきです。
 各国が、それぞれの国の農業を伸ばす、価格を安くするために農家への保障もする、どうしても国内で満たされない農産物については、その国の判断で必要な量を適切な関税をかけて輸入する。こうした真の意味で自由な農産物貿易の枠組みをつくる必要があるのではないでしょうか。

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2009.01.16

高知市 「日本国憲法と外国人の人権」を考える。

 憲法施行後、憲法の人権保障は外国人にも及ぶか否かが争点となりましたが、現在では外国人(外国籍保有者)についても、権利の性質上適用可能な人権規定はすべて及ぶものと考えられています。
 権利の性質上というのは「人権というものは人が生まれながらに持っている自然権である」という思想にもとづくものです。
 しかし、現状では、例外的に人権の性格に応じて制約されることもあります。

 外国人といっても旅行者、短期の人、本拠を置く人がありますが、ここでは永住者について現状をみます。
 永住者とは「出入国管理及び難民認定法」により、在日外国人本人の「わが国に永住したい」との申し出を法務大臣によって許可された人です。特別永住者とは、終戦以前に強制連行や移住で日本に渡り、52年のサンフランシスコ平和条約発効で日本国籍を失った後も日本に住み続けている外国人とその子孫で、「出入国管理特例法」(一九九一年五月公布)により、永住許可された人です。

 制約されているのは以下の権利などです。
 ○ 参政権は認められていません。政治活動の自由も制約されています。
 ○ 「公権力の行使または国家意思の形成への参画にたずさわる公務員」にはなれません。
 ○ 経済的自由も制限されることがあります。 
 ○ 入国の自由にも制限があります。

 永住者は、実際に生活している日本において人権が保障されてこそ人間らしい生存が可能になります。永住者には日本国民と変わらない人権保障が求められて当然です。
 これらの人たちは、外国籍であっても、納税をはじめとする一定の義務を負っています。

 当面の改善点として、「住民」が主体となる地方自治体レベルでの選挙権・被選挙権を認める、一定の範囲内での公務就任権を認めるなどの措置が必要だと考えます。

  定住外国人地方自治体レベルでの選挙権・被選挙権については裁判や政治の場でも問題になっています。
 在日外国人の地方参政権について、最高裁判所は「法律でもって地方自治体の長、その議会の議員等に対する選挙権を付与する措置を講ずることは憲法上禁止されているものではない」との判決を出しています(一九九五年ニ月)。
 政治の場では、たとえば日本共産党は、一九九八年十二月国会に「地方自治体の運営は、全住民の参加で、というのが、憲法の保障する地方自治の原則」という立場から、在日外国人永住者の地方参政権を確立することは民主主義の発展につながるとして、在日外国人の投票権だけでなく、被選挙権、住民投票権等を求める「地方参政権法案」を提出しています。
 二〇〇二年三月七日にも、参院に永住外国人に地方参政権を付与する法律案を提出しました。
 また、二〇〇八年一月二十四日には、日本共産党の志位和夫委員長が、国会内で記者会見し、永住外国人に地方参政権を付与することについて、日本共産党が選挙権・被選挙権ともに保障されるべきだと早くから主張し、法案も繰り返し国会に提出してきたことを紹介。「地方自治は地域の住民の声を反映して政治を行うというのが憲法上の大原則。そこから永住外国人を除外する根拠はない」とのべました。そして、「この問題は、民団(在日本大韓民国民団)のみなさんからも、(ニ〇〇五年九月に)訪韓した際に韓国政界の方々からも一致して強い要求がだされた問題でもある。歴史的な経過を考えても一刻も早く前向きの一歩を踏み出す必要がある」と強調しました。

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高知市 日本国憲法の政教分離の原則について考える。

 日本国憲法二〇条は「信仰の自由は、何人に対してもこれを保障する」とし、続いて「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」としています。
 第八九条は「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」としています。

 憲法は、特定の宗教を信じ、または信じないことを信教の自由として保障しています。憲法が、この政教分離の原則を規定しているのは信教の自由を確実なものにするためです。
 その内容は、国教の禁止、特定の宗教団体への特権付与の禁止、宗教団体による政治権力の行使、国家による宗教活動の禁止です。 

 政教分離の原則は、中世のヨーロッパで、政教一致の体制を打ち破るたたかいの中から明確にされてきました。
 当時、ヨーロッパでは、カトリック教会が世俗的な政治権力と結合して、民衆の思想と生活を支配していました。教皇権力は、神聖ローマ帝国の皇帝を「破門」する(カノッサの屈辱)ほど強大でした。
 この教会支配の体制に抗して「宗教改革」がおこなわれましたが、カトリック側も新教=プロテスタント側も政治権力と結んで異教徒を抑圧し、十六世紀フランスのユグノー戦争のような宗教戦争を繰り返し、社会的差別と流血の惨事を生みました。
 こうした歴史の教訓から、信仰の純粋さを保つには異なる信仰と宗派の存在に寛容でなければならない、政治権力は宗教的には中立でなければならず、宗教の側も政治権力と結合してはならないという原則が、民主主義的原則として確認され、近代の権利宣言や憲法にうたわれるようになりました。

 日本でも、祭政一致の時代は長く続きました。
 近代に入っても、天皇制権力の支配を支えるために、神社神道(しんとう)が事実上国教化されて、国家神道という政教一致の体制がつくられ、国民は神社への参拝を強いられました。
 国家神道は、日本が「天皇中心の神の国」だという神国思想の柱となり、信教の自由をふみにじるばかりか、侵略戦争に国民を駆り立てる精神的推進力の役割を果たしました。
 この反省にたって現憲法は、第二〇条、第八九条で信教の自由と厳格な政教分離の原則を定めました。

 この問題については、かつて国家が天皇教というべきものをつくりあげ、これを国民に押し付けてきたことにかかわる靖国神社への首相、大臣の参拝の是非が論じられてきました。

 私は、これに加え、より現実的な問題として、公明党が政権に参加していることの問題が議論されてしかるべきだと思っています。
 ヨーロッパには、いろいろなキリスト教系の宗教政党があります。しかし、これらの政党は、特定の宗派とむすびついたものではなく、キリスト教の一般的な精神を背景に政治をすすめようというものです。ですからこれらの党の政界進出ということは、どの国でも政教一致の問題として問題になりません。
 ところが創価学会・公明党は、これとはまったく異質で、特異な、教団であり政党です。
 その特異性がどこにあるかというと、自分たちの宗教を、国の宗教にして、日本社会を精神的に支配する、これがこの教団が政界進出をはかるさいの唯一の目的だったということです。
 創価学会第二代会長の戸田城聖氏は、当時、「われらが政治に関心を持つゆえんは、三大秘法の南無妙法蓮華経の広宣流布にある。すなわち、国立戒壇の建立だけが目的なのである」といいました。当時の学会の幹部は、「そのためにはどうしても王仏冥合の実現をはからなければなりません。創価学会が政治に関心をもつゆえんは、じつにここに由来する」とのべています。
 これだけが目的であり関心だということを明言して、政界進出をはかったわけです。
 そして、この問題と表裏一体の大問題は、そうした自分たちの目的の障害になるものは、すべて「邪宗教」として「撲滅」の対象にするという立場です。
 池田大作氏は、一九六〇年に会長に就任したときの演説でこういっています。「敵は邪宗教です。邪宗教は人々を地獄に落とす。…恩師戸田城聖先生の邪宗撲滅の大精神を精神として、今、ふたたび門下生一同は、邪宗撲滅に猛然とおそいかかっていきたい」。その当時の聖教新聞の社説では、「これ(国立戒壇の建立)は大折伏の結果国を挙げて日蓮正宗の信徒となってこの吾が国から一切の邪宗教群を一掃し終った際に、国会の議決によって決定されなければならない」とのべています。つまり、ありとあらゆる「邪宗教」をすべて「撲滅」し終わったあとに、彼らの大目的が達成できるんだという位置づけなのです。
 くわえて、これも池田大作氏の講義のなかにあるのですが「邪宗教だけが無間地獄に堕ちるものでない」、自分たちの障害になるものはすべて「天魔」であり、「彼らも、無間地獄に堕ちることを免れないのである」としています。
 彼らからみた「邪思想」も、「撲滅」の対象になるということものべているのです。
 こうした異常な目的と体質が、一九六九年の言論出版妨害事件を引き起こしました。
 彼らは反省を迫られ、表面上は一定の手直しを余儀なくされました。
 しかし、「邪宗教」の「撲滅」という民主主義じゅうりんの主張は、その後も一度も公式に撤回されたことはありません。
 創価学会の新聞には、日蓮正宗の本山を「日顕宗」といって、「日顕宗を撲滅する」のが学会の使命だという立場からの記事が、毎日のようにのっていました。
 「共産党を日本の政治から追いだせ」という攻撃もあります。
 この教団がみずからの障害になるものを、「撲滅」の対象とする体質をもっているということは、そこからもあきらかです。
 選挙の実態にてらして、かつての「政教分離」という公約がまもられたとはとうていいえません。
 「王仏冥合(みょうごう)」については「この理念は変わっていない、生きている」というのが、創価学会が、いまでも取っている公式な立場です。
 これらの点をみますと、創価学会・公明党の政治進出の当初の目的と体質が、今日もなお変わっていない、という深刻な疑惑を呼び起こすのに、十分です。

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高知市 日本国憲法の令状主義を考える。

 犯罪捜査のための強制手段には、原則として裁判所の発行する令状が必要です。これを令状主義といいます。
 逮捕、捜索、押収、身体検査をする場合には、それぞれ逮捕状、捜索令状、押収令状、身体検査令状が必要です。

 令状主義は、日本国憲法、刑事訴訟法に規定されています。
 日本国憲法第三十三条。
 「何人も、現行犯として逮捕される場合を除いては、権限を有する司法官憲が発し、且つ理由となつてゐる犯罪を明示する令状によらなければ、逮捕されない。」
 日本国憲法第三十五条。
 「1 何人も、その住居、書類及び所持品について、侵入、捜索及び押収を受けることのない権利は、第三十三条の場合を除いては、正当な理由に基いて発せられ、且つ捜索する場所及び押収する物を明示する令状がなければ、侵されない。
 2
 捜索又は押収は、権限を有する司法官憲が発する各別の令状により、これを行ふ。」

 令状主義の目的は、犯罪捜査にあたって、捜査権の濫用による不当な人権侵害が生じないように、事前に裁判所に適正な手続きであるかどうかを審査させることにあります。

 令状主義には例外があります。
 憲法上の例外は、三三条に示されているとおり「現行犯として逮捕される場合」です。
 現行犯とは何かについては、刑事訴訟法二一二条につぎのように規定しています。
 「現に罪を行い、又は現に罪を行い終つた者を現行犯人とする。
 2 左の各号の一にあたる者が、罪を行い終つてから間がないと明らかに認められるときは、これを現行犯人とみなす。
 1.犯人として追呼されているとき。
 2.贓物又は明らかに犯罪の用に供したと思われる兇器その他の物を所持しているとき。
 3.身体又は被服に犯罪の顕著な証跡があるとき。
 4.誰何(すいか)されて逃走しようとするとき。」

 刑事訴訟法二一〇条一項にも例外として、準現行犯逮捕、緊急逮捕が規定されています。
 以下のような条文です。
 「検察官、検察事務官又は司法警察職員は、死刑又は無期若しくは長期3年以上の懲役若しくは禁錮にあたる罪を犯したことを疑うに足りる充分な理由がある場合で、急速を要し、裁判官の逮捕状を求めることができないときは、その理由を告げて被疑者を逮捕することができる。この場合には、直ちに裁判官の逮捕状を求める手続をしなければならない。逮捕状が発せられないときは、直ちに被疑者を釈放しなければならない。」
 私は、この規定は、日本国憲法が認める例外は現行犯逮捕だけであるのに、これ以外の例外を認めるものであって憲法違反であると考えています。

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2009.01.17

高知市 後期試験、やっと一科目にめどをつけました。

 二〇〇九年一月十六日。

 後期試験ですが、やっと一科目にめどをつけました。
 後九科目を短時間に勉強しなければ…。

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高知市 職場で、もちつきの用意。

 二〇〇九年一月十六日。

 わが職場は、いろんな多面的な能力が要求されます。
 本日は、翌日の新年会のもちつきの用意。
 もち米五升をといで水につけて……。
 十七日午前十一日から高知市升形の事務所前でもちつきです。
 あなたも、どうぞ。

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高知市 夢。恋愛小説の構想を考えていました。

 二〇〇九年一月十七日。

 十六日、帰りついたら風邪をうつされていました。
 国際経済学の勉強を始めましたが身に入りません。
 で、八時には就寝。
 結局、翌朝の午前八時まで寝てしまいました。
 朝方みた夢。
 『野菊の墓』を下敷きにした恋愛小説を書こうと必死になっている僕。時代を現代にしたい、ハッピーエンドにしたい……。
 悩んで悩んで目が覚めました。

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2009.01.18

高知市 卒業ブルーの、わが先輩。

 二〇〇九年一月十八日。

 「もうあとは テストだけだわ」
 卒業を 悲しんでるよ
 わが先輩は

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高知市 「あんた勉強といっといて」。妻のしっ責。

 二〇〇九年一月十八日。

 「勉強と いって引っ込み 寝てるのね」
 あわれ教科書
 手から離れて

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高知市 わが家のネコ、クニョは「水まわり」が大好き。

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 二〇〇九年一月十八日。

 わが家のネコ、クニョは「水まわり」が大好き。

 人間どもが風呂に入っているとのぞき込んで興味深げにしています。

 お湯の流れ落ちる所に手を伸ばしてちょっかいを出しているときも。

 風呂のふたに乗って気持ちよさそうにまどろんでいることもあります。

 台所、洗面台の「水まわり」も最近の探検対象です。

 学齢前から数々のネコを飼ってきた妻も「こんなに水の好きなネコは初めて」といっています。

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2009.01.20

高知市大津 「アチミスル」を、一緒に歌ってみませんか。

http://jp.youtube.com/watch?v=2uI1C1fHqas

아침이슬〉 アチミスル

긴밤 지새우고 キンバムチセウゴ

풀잎마다 맺힌 プリマダメチン

진주보다  고운 チンジュポダゴウン

아침이슬처럼 アチミスルチョロム

내맘에 설움이 マメソルミ

알알이 맺힐때 アラリメチル

아침 동산에 올라 アチムドンサネオルラ

작은 미소를 배운다 チャグンミソルルペウンダ

태양은 묘지위에 テヤグンミョジウィエ

붉게 떠오르고 プルケットオルゴ

한낮에 찌는 더위는 ハンナジェチヌントウィヌン

나의 시련일지라 ナエシリョニルジラ

나이제 가노라 イジェカノラ

 거친 광야에 チョゴチンクァンヤエ

서러움 모두 버리고 ソロウムモドゥポリゴ

나이제 가노라 イジェカノラ

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2009.01.22

高知市 週一で昼間、英語のレッスンを受け始めました。

 二〇〇九年一月二十一日。

 本日から週一で昼間、英語のレッスンを受けています。

 先生は二十六歳の男性。
 生徒は僕と十九歳の男性。
 というより、十九歳の男性が教えてもらおうとしていたに、僕が押しかけの生徒になったというのが実際です。

 この日はテスト。
 文法。
 聴きとり。
 翻訳。
 聴きとりは二人とも百点でした。
 高校入試の過去問題でしたが……。

 楽しい二時間でした。

 次回はあいさつと発音です。

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高知市 後期テストに初日です。

 二〇〇九年一月二十二日。

 後期テストに初日です。

 が、風邪をひいてしまいました。
 午前中の陶芸教室を欠席。
 とにかく寝ました。

 よたよたしながら午後四時半には学校へ。

 六時からテスト。
 まず英語初級。
 ぜんぶ書けました。
 しかし、時間ぎりぎりになって確かめ直したら、三つも間違っていました。
 頭の命令と手がちぐはぐに動いていたのです。
 危ない、危ない。

 二時間目は、本日付の某新聞の社説を要約し、意見をのべるというテスト。制限は六百文字です。
 みごと六百字ピッタリで書けました。
 しかし、それからが大変。
 消しゴムで消したり、書いたり……。

 家へのお土産はマグロのアラ。海辺に住む学友が学校でくれたものです。

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2009.01.23

高知市 オバマ大統領就任演説を読んで考えたこと。

 アメリカのオバマ大統領の就任演説を読みました。

 

  「私は、ブッシュ大統領の我が国への奉仕‥‥に感謝する。」 ← ブッシュ大統領はアメリカに奉仕したのでしょうか。まさに、その政治を「チェンジ」するとしたのでは‥‥。

  「我々の国家は、暴力と憎悪の広範なネットワークを相手に戦争を行っている。‥‥」 ← アメリカがやってきたのは、そのようなものではなく侵略です。

  「我々の経済は、ひどく弱体化している。一部の者の強欲と無責任の結果であるだけでなく、厳しい決断をすることなく、国家を新しい時代に適合させそこなった我々全員の失敗の結果である。」 ← なぜ「我々全員の失敗の結果」なのでしょうか。為政者、支配者の失敗ではないのですか。

  「家は失われ、職はなくなり、ビジネスは台無しになった。我々の健康保険制度は金がかかり過ぎる。荒廃している我々の学校はあまりにも多い。」 ← それをどう解決するかが語られなくてはなりません。

  「さらに、我々のエネルギーの消費のしかたが、我々の敵を強化し、我々の惑星を脅かしているという証拠が、日増しに増え続けている。」 ← 「我々の敵」って何ですか。何を敵としているのですか。

  「我々の国はまだ若いが、聖書の言葉には、子どもじみたことをやめるときが来たとある。我々の忍耐に富んだ精神を再確認し、より良い歴史を選び、貴重な才能と、世代から世代へと引き継がれてきた尊い考えを発展させるときが来た。尊い考えというのは、すべての人は平等で、自由で、あらゆる手段により幸福を追求する機会を与えられるという、神からの約束のことである。」 ← 政治に特定宗教の考え方を持ちこむのはどうでしょうか。

  「我々の旅には、仕事より娯楽を好み、富と名声の喜びだけを望むような、臆病者のための道筋はなかった。」 ← 「仕事より娯楽を好み」が、なぜ「臆病者」につながっていくのですか。

  「我々のために、彼らは、わずかな財産をまとめ、新たな生活を求めて大洋を旅した。
 我々のために、彼らは、劣悪な条件でせっせと働き、西部に移住し、むち打ちに耐えながら、硬い大地を耕した。」 ← 以前からアメリカにはアメリカ人がいました。他国から乗り込んできて、それらの人たちから土地を奪い、迫害して、そこに白人の国をつくった。黒人奴隷を使い超え太ってきた。ニューアメリカは、そのような恥じるべき建国史を持っています。

  「我々のために、彼らは、(独立戦争の戦場)コンコードや(南北戦争の)ゲティスバーグ、(第2次大戦の)ノルマンディーや(ベトナム戦争の)ケサンのような場所で戦い、死んだ。」 ← あのひどかったアメリカのベトナム侵略戦争まで美化するのですか。いくらなんでも、ひどすぎますよ。

  「米国は依然として地球上で最も繁栄し、力強い国だ。我々の労働者は今回危機が始まった時と同様、生産性は高い。我々は相変わらず創意に富み、我々が生み出す財やサービスは先週や先月、昨年と同様、必要とされている。能力も衰えていない。」 ← 何たる大国主義。あなたたちの繁栄は他国を侵略し、支配することによって維持されてきたのではなかったでしょうか。

  「なすべき仕事は至る所にある。米国経済は、大胆かつ迅速な行動を求めている。そして我々は新規の雇用創出のみならず、新たな成長の礎を整えることができる。道路や橋を造り、電線やデジタル通信網を敷き、商業を支え、我々を一つに結び付ける。科学を本来あるべき地位に戻し、医療の質を引き上げながら、そのコストは減らす。太陽、風や土壌を利用して自動車を動かし、工場を動かす。新時代の要請に合うよう学校や単科大、大学を変えていく。我々はすべてのことを成し遂げられるし、行っていく。」 ← やっていくことでイメージがわくのは「太陽、風や土壌を利用して自動車を動かし、工場を動かす」という点だけですね。

  「‥‥今回の(経済)危機は、監視がなければ、市場は統制を失い、豊かな者ばかりを優遇する国の繁栄が長続きしないことを我々に気づかせた。我々の経済の成功はいつも、単に国内総生産(GDP)の大きさだけでなく、我々の繁栄が広がる範囲や、機会を求めるすべての人に広げる能力によるものだった。慈善としてではなく、公共の利益に通じる最も確実な道としてだ。」 ← 国民全体が豊かになる方向で経済をコントロールしようということでしょうか。

  「我々の共通の防衛については、安全と理想とを天秤(てんびん)にかけるという誤った選択を拒否する。‥‥今日(の就任式を)見ている他国の国民や政府ら。巨大都市から私の父が生まれた小さな村まで。米国が平和と尊厳の未来を求めるすべての国々、すべての男女と子供の友人であり、我々がもう一度、指導力を発揮していく用意があると、知ってほしい。
 前の世代は、ファシズムや共産主義と、ミサイルや戦車だけではなく、強固な同盟と強い信念を持って対峙(たいじ)したことを思い出してほしい。彼らは、我々の力だけでは我々を守れず、好きに振る舞う資格を得たのではないことも理解していた。代わりに、慎重に使うことで力が増すことを理解していた。我々の安全は、大義の正当性や模範を示す力、謙虚さ、自制心からいずるものだ。
 我々は、この遺産の番人だ。こうした原則にもう一度導かれることで、我々は、一層の努力や、国家間の一層の協力や理解が求められる新たな脅威に立ち向かうことができる。我々は、責任ある形で、イラクをイラク国民に委ね、苦労しながらもアフガニスタンに平和を築き始めるだろう。古くからの友やかつての敵とともに、核の脅威を減らし、地球温暖化を食い止めるためたゆまず努力するだろう。
 我々は、我々の生き方について謝らないし、それを守ることを躊躇(ちゅうちょ)しない。テロを引き起こし、罪のない人を殺すことで目的の推進を図る人々よ、我々は言う。我々の精神は今、より強固であり、壊すことはできないと。あなたたちは、我々より長く生きることはできない。我々は、あなたたちを打ち破るだろう。‥‥
 イスラム世界よ、我々は、相互理解と尊敬に基づき、新しく進む道を模索する。紛争の種をまいたり、自分たちの社会の問題を西洋のせいにしたりする世界各地の指導者よ、国民は、あなた方が何を築けるかで判断するのであって、何を破壊するかで判断するのではないことを知るべきだ。腐敗や欺き、さらには異議を唱える人を黙らせることで、権力にしがみつく者よ、あなたたちは、歴史の誤った側にいる。握ったこぶしを開くなら、我々は手をさしのべよう。」 ← これはアメリカは世界支配の野望は持ち続けるという宣言ではないでしょうか。

 「神が、我々に定かではない運命を形作るよう命じているのだ。」 ← また「神」ですか。

 (インターネット上の読売新聞の訳を使わせてもらいました)

  2009.1.21

 My fellow citizens:

 I stand here today humbled by the task before us, grateful for the trust you have bestowed, mindful of the sacrifices borne by our ancestors.

  I thank President Bush for his service to our nation, as well as the generosity and cooperation he has shown throughout this transition.

 Forty-four Americans have now taken the presidential oath. The words have been spoken during rising tides of prosperity and the still waters of peace.

 Yet, every so often, the oath is taken amidst gathering clouds and raging storms. At these moments, America has carried on not simply because of the skill or vision of those in high office, but because We the People have remained faithful to the ideals of our forebearers, and true to our founding documents.

 So it has been. So it must be with this generation of Americans.  That we are in the midst of crisis is now well understood. Our nation is at war, against a far-reaching network of violence and hatred. Our economy is badly weakened, a consequence of greed and irresponsibility on the part of some, but also our collective failure to make hard choices and prepare the nation for a new age. Homes have been lost; jobs shed; businesses shuttered. Our health care is too costly; our schools fail too many; and each day brings further evidence that the ways we use energy strengthen our adversaries and threaten our planet.

 These are the indicators of crisis, subject to data and statistics. Less measurable but no less profound is a sapping of confidence across our land -- a nagging fear that America's decline is inevitable, and that the next generation must lower its sights.  Today I say to you that the challenges we face are real. They are serious and they are many.

 They will not be met easily or in a short span of time. But know this, America: They will be met.

 On this day, we gather because we have chosen hope over fear, unity of purpose over conflict and discord.

 On this day, we come to proclaim an end to the petty grievances and false promises, the recriminations and worn-out dogmas, that for far too long have strangled our politics.

 We remain a young nation, but in the words of Scripture, the time has come to set aside childish things.

 The time has come to reaffirm our enduring spirit; to choose our better history; to carry forward that precious gift, that noble idea, passed on from generation to generation: the God-given promise that all are equal, all are free, and all deserve a chance to pursue their full measure of happiness.

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高知市 「勉強しいや」。妻の叱責。

 二〇〇九年一月二十二日。

 夜、高知短期大学から家に帰り着いて、たまっているいろんなことをやっているとき妻がいいました。

 「勉強しいや」
 「目の前の困難から逃げちゅう」

 あすのテストの勉強をしなくてはだめだよというです。

 そういえば、勉強しなさいといわれたのは生まれて初めてです。

 中学校のときから親には「勉強しなや。高校にはやれんし」といわれてきました。

 六十二歳になって妻から勉強をしなさいといわれる、なんか妙な気分です。  

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2009.01.24

高知市 ちょっと不思議な光景でした。

 二〇〇九年一月二十四日。

 ちょっと不思議な光景でした。

 高知市のわが家。
 妻が、いつものように一階のテーブルに向ってナンクロをといています。
 幸せそうな表情です。
 僕は、近くで正面から彼女を見ているのですが、彼女は僕の存在に気がついていません。
 はっと気がつきました。
 「そういえば、僕は、一月十九日に、この世からおさらばしたんだ」

 シーンが変わりました。
 東京都です。
 前に勤めていた渋谷区の職場に、また勤務するようになりました。
 午後四時からの勤務です。
 勤務の前に奥多摩で里歩きを楽しむ僕。
 道で職場の仲間、二人に出合いました。
 少し立ち話をしました。
 「ところで、いま何時」
 午後三時四十五分でした。
 「しまった。わーっ、とうてい間に合わない」
 せめて駅までタクシーで……。
 しかし、タクシーなど走っている場所ではありません。
 あせる僕。
 そこで、はっと気がつきました。
 「そういえば、僕は、一月十九日に、この世からおさらばしたんだった。仕事に何か、いかなくてもいいんだった」

 起きると、まだ生きていました。
 が、出なければいけない時間までに三十分しかありません。
 まずは、急いで朝風呂。
 出てくると妻がタオルで背中をふいてくれました。
 「何か、優しすぎるなぁ……」
 外に出ると雪が降っていました。
 オートバイで香美市へ。
 つくっていただいていた僕の短歌集の軸をいただいてきました。
 家で作業している所に来客。
 あいさつもそこそこに高知市内の職場へ。
 滑り込みセーフ。

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高知市大津 ブロック塀の「塀画」をリリューアルしてくれました。

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 二〇〇九年一月二十四日。
   
 高知県四万十市の若きアーチィストが来訪。
 寒風吹きすさぶ中、何時間もかけて、わが家のブロック塀の「塀画」をリニューアルしてくれました。

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2009.01.26

高知市大津 十二時間勉強しましたが……。

 午前十一時から午前二時まで勉強しました。後期試験のためです。実質十二時間も勉強しました。

 しかし、「成果」はわずか。

 いつものことですが、いままでに、もっと勉強しておけばよかった。

 きょうの試験は問題をぜんぶ書き込むことができでしょうか。

 うーん。

 

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高知市  「I WANT TO HOLD YOUR HAND」を聴いて。

 二〇〇九年一月二十六日。

 ビートルズの作品、「I WANT TO HOLD YOUR HAND」を女性が歌っているCDを聞いてひきこまれました。

 あらためて歌詞を読みました。
 いい詩ですよねー。

     I WANT TO HOLD YOUR HAND

      Oh yeah,I'll tell you something
      I think you'll understand
      Then l'll say that something
      I wanna hold your hand
      I wanna hold your hand
      I wanna hold your hand

      Oh please say to me
      You'll let me be your man
      And please say to me
      You'll let me hold your hand
      Now let me hold your hand
      I wanna hold your hand

      And when l touch you l feel happy inside
      It's such a feeling
      That my love l can't hide
      I can't hide, l can't hide
      Yeah, you got that something
      I think you'll understand
      When l say that something
      Repeat*

      Repeat*

      Yeah, you got that something
      I think you'll understand
      When l feel that something
      Repeat*

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高知市 つらかった二時間目の試験。「????」。

 二〇〇九年一月二十六日。

 期末テスト三日目。
 一時間目。
 ねばりました。
 四十問中の一問、間違って回答しているのを発見し直しました。
 二時間目。経済系です。
 十二問中三問、「????」。
 不勉強でした。
 やっぱり経済は僕の弱点です。
 来年は、もっと経済系の科目をとって経済に強くなりたい。

 家に帰りついたら午後九時四十分。

 しばらくすると妻から電話。

 仲間と勉強していて、三十分後に帰り着くとのことです。

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2009.01.27

高知市 うーん、韓国語……。

 二〇〇九年一月二十七日。

 うーん、やっぱいけませんでした。
 本日夜の韓国語のテストです。
 まず韓国語の文章を日本語訳する問題と日本語の文章を韓国語訳する問題を始めましたが、日本語訳のほうを少し残して時間切れ。
 ほかの問題には手がまわりませんでした。
 でも、時間をかけて辞書を引けば易しい韓国語なら訳すことができるということだけは判明しました。
 いやーっ、時間がかかりすぎましたが……。
 新学期から、もう一度、韓国語に一から挑戦することにしましょう。

 横で妻が「そんなことかきなや。すんだことはしょうがない。はよう勉強しいや。明日も試験やろう」といっています。

 期末戦争、いや、期末テストでした、は、明日の二科目でお終い。

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2009.01.28

高知市 英語であいさつ。ABC。

 この間習った英語のあいさつをメモにしました。

 【初対面】

 Nice to meet you.

 How do you do?

 I’m happy to meet you.

 I’m glad to meet you.

 You are so lucky to meet me. 

 【返事】

 Nice to meet you too.

 How do you do?

 【自己紹介】

 My name is Yoshikazu Fujihara.

 I’m Yoshikazu Fujihara. 

 It’s quite hard to remenber.

 Just call me Yoshi.

 【相手のことを聞く】

 What is your name?

 【別れ】

 You are so lucky to have met me.
 
 【元気ですか】

 Hello.

 H! ハイ

 How are you.

 what’s up?

 やりゆうかえ

 How are you going?

 How is it going?

 How is going man?

 若い人が使う

 How are you guy(s)?

 女性にも使う

 【返事】

 I’m fine.
 
 Fine.

 Not (too) bad.

 悪くないね

 God.

 I’m pretygood.

 【悪い場合】

 Bad.

 So so.

 普通

 Not good.

 【その日が悪い】

 It’s bad day today.

 It’s my unlucky day today.

 【相手の様子を聞く】

 And you.

 How about yow.

 You.

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高知市 僕の写真の載った新聞記事をラミネート加工してもってきてくれました。

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 仕事は休み。 

 午後は英語塾の二回目。

 夜、学校にいったら学生のRIさんが、この間、僕の写真の載った新聞記事をラミネート加工してもってきてくれました。
 朝日新聞二十三日付の「戦争遺跡保存ネットワーク高知 体験、証言まとめ発刊 風化防止へ第1号」という見出しの記事です。
 ありがとう。RIさん。大事にします。

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高知市 クッキー、ケーキ、パイ。ひさしぶりに甘いものを食べました。

 本日は期末試験二科目。

 一時間目。予想がピタッと当たりました。
 しかし、その量の多さに悪戦苦闘。

 二時間目。
 試験用紙の裏までびっしり書き込みました。
 これは「いけた」と思います。

 この日で、ほとんどの学生は期末試験終了。
 で、試験終了後のコミュニケーションルームには開放感がいっぱい。
 女性の学生がクッキーを持ってきてくれました。
 もう一人の女性の学生はケーキとパイをたくさんつくってきてくれました。
 居合わせた人たちで、それをいただいていい気分に。
 久しぶりに甘いものを食べました。

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2009.01.29

高知市 ひさしぶりに陶芸教室に。

 二〇〇九年一月二十九日。

 朝、ひさしぶりに陶芸教室に。
 素焼きしてもらっていた四点に釉薬(ゆうやく)を塗りました。
 そして、粘土で茶碗を一つつくりました。
 陶芸の時間って何か落ち着きますねー。
 やっぱり僕は物をつくるのが好きです。

 次回は、これを削ってスマートなものに仕上げていく予定です。

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高知市 僕の子どもよりずーっと若い先輩の親切。

 二〇〇九年一月二十九日。

 トーイックを受けると公言する僕を心配して二年生の女性が参考書をもってきてくれました。
 ありがとう。僕の子どもよりずーっと若い先輩。

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高知市 「$28・86」。うーっ、何て読むんだっけ??

 二〇〇九年一月二十九日。
 
 夜は「英語初級」の授業。

 英文の音読で困ったのは
 $28・86
 の読み方です。
 読めないのです。
 「ポイントをつけるのかなぁ……」
 なんか、低レベルですみません。

 「先生!」と質問してしまいました。
 ツエンティエイト・ドラーズ・エイティシックス・セント
 だ、そうです。
 先生。ありがとうございました。

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高知市 「勝利の日まで」の歌を聞くことができるサイト。

 「通りすがり」さんが、「勝利の日まで」の歌を聴くことができるサイトを教えてくれました。

 ここです。

 http://jp.youtube.com/watch?v=2VKjmdyAGOA&feature=related

 「関連動画」には

 「出征兵士を送る歌」もありました。

 http://jp.youtube.com/watch?v=uBFnFHbOIms&feature=related

 「露営の歌」も、ありました。

 http://jp.youtube.com/watch?v=_O5uEVr99Ds&NR=1

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2009.01.30

高知市 いろんな軍歌・軍国歌謡を聴いていて、国民を侵略戦争に動員したHさんの「不始末」を考えています。

 Youtube で

 いろんな軍歌・軍国歌謡を聞いています。

 こうして国民を侵略戦争に動員したHさんは、

 何の責任もとらずに、

 まわりのHさんに忠実だった人々に責任を押し付けて、

 戦後も、

 優雅に暮らし続けたことに

 激しい憤りを感じました。

 一人の人間としても、これは、いけません。

 彼が、のほほんと生き抜いだけに、

 彼に忠誠を誓って、彼の心を心として「がんばった」

 東條さんが、あわれにも見えます。

 僕は、別に東條さんのファンではありませんが……。

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高知市 「真っ赤な誓い」。おもしろかったよ。

 ここです。

http://jp.youtube.com/watch?v=7rPCy55nKYE

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2009.01.31

高知市大津 わおーっ、朝、目が覚めると外は嵐でした。

 二〇〇九年一月三十一日。

 朝、目が覚めると外は嵐でした。
 すごい風です。

 起き上がると妻が、
 「(駐車場の)オートバイがひっくりかえっちゅう」
 「えっ、それでほおっちゅうが。直してくれんと」
 「おもたいき、できんも」
 急いで、起こしにいきました。

 きのうあたりから妻が僕にケンカを売ってきて二人はイガイガしている最中です。

 そのうち妻がいいました。
 「ズボンの安売りがあるので、あなたのを買ってくる」
 何も頼んでいないのに……。

 こういう形でケンカの「手打ち」に持ち込む作戦のようです。

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