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2009.01.16

高知市 日本国憲法の政教分離の原則について考える。

 日本国憲法二〇条は「信仰の自由は、何人に対してもこれを保障する」とし、続いて「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」としています。
 第八九条は「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」としています。

 憲法は、特定の宗教を信じ、または信じないことを信教の自由として保障しています。憲法が、この政教分離の原則を規定しているのは信教の自由を確実なものにするためです。
 その内容は、国教の禁止、特定の宗教団体への特権付与の禁止、宗教団体による政治権力の行使、国家による宗教活動の禁止です。 

 政教分離の原則は、中世のヨーロッパで、政教一致の体制を打ち破るたたかいの中から明確にされてきました。
 当時、ヨーロッパでは、カトリック教会が世俗的な政治権力と結合して、民衆の思想と生活を支配していました。教皇権力は、神聖ローマ帝国の皇帝を「破門」する(カノッサの屈辱)ほど強大でした。
 この教会支配の体制に抗して「宗教改革」がおこなわれましたが、カトリック側も新教=プロテスタント側も政治権力と結んで異教徒を抑圧し、十六世紀フランスのユグノー戦争のような宗教戦争を繰り返し、社会的差別と流血の惨事を生みました。
 こうした歴史の教訓から、信仰の純粋さを保つには異なる信仰と宗派の存在に寛容でなければならない、政治権力は宗教的には中立でなければならず、宗教の側も政治権力と結合してはならないという原則が、民主主義的原則として確認され、近代の権利宣言や憲法にうたわれるようになりました。

 日本でも、祭政一致の時代は長く続きました。
 近代に入っても、天皇制権力の支配を支えるために、神社神道(しんとう)が事実上国教化されて、国家神道という政教一致の体制がつくられ、国民は神社への参拝を強いられました。
 国家神道は、日本が「天皇中心の神の国」だという神国思想の柱となり、信教の自由をふみにじるばかりか、侵略戦争に国民を駆り立てる精神的推進力の役割を果たしました。
 この反省にたって現憲法は、第二〇条、第八九条で信教の自由と厳格な政教分離の原則を定めました。

 この問題については、かつて国家が天皇教というべきものをつくりあげ、これを国民に押し付けてきたことにかかわる靖国神社への首相、大臣の参拝の是非が論じられてきました。

 私は、これに加え、より現実的な問題として、公明党が政権に参加していることの問題が議論されてしかるべきだと思っています。
 ヨーロッパには、いろいろなキリスト教系の宗教政党があります。しかし、これらの政党は、特定の宗派とむすびついたものではなく、キリスト教の一般的な精神を背景に政治をすすめようというものです。ですからこれらの党の政界進出ということは、どの国でも政教一致の問題として問題になりません。
 ところが創価学会・公明党は、これとはまったく異質で、特異な、教団であり政党です。
 その特異性がどこにあるかというと、自分たちの宗教を、国の宗教にして、日本社会を精神的に支配する、これがこの教団が政界進出をはかるさいの唯一の目的だったということです。
 創価学会第二代会長の戸田城聖氏は、当時、「われらが政治に関心を持つゆえんは、三大秘法の南無妙法蓮華経の広宣流布にある。すなわち、国立戒壇の建立だけが目的なのである」といいました。当時の学会の幹部は、「そのためにはどうしても王仏冥合の実現をはからなければなりません。創価学会が政治に関心をもつゆえんは、じつにここに由来する」とのべています。
 これだけが目的であり関心だということを明言して、政界進出をはかったわけです。
 そして、この問題と表裏一体の大問題は、そうした自分たちの目的の障害になるものは、すべて「邪宗教」として「撲滅」の対象にするという立場です。
 池田大作氏は、一九六〇年に会長に就任したときの演説でこういっています。「敵は邪宗教です。邪宗教は人々を地獄に落とす。…恩師戸田城聖先生の邪宗撲滅の大精神を精神として、今、ふたたび門下生一同は、邪宗撲滅に猛然とおそいかかっていきたい」。その当時の聖教新聞の社説では、「これ(国立戒壇の建立)は大折伏の結果国を挙げて日蓮正宗の信徒となってこの吾が国から一切の邪宗教群を一掃し終った際に、国会の議決によって決定されなければならない」とのべています。つまり、ありとあらゆる「邪宗教」をすべて「撲滅」し終わったあとに、彼らの大目的が達成できるんだという位置づけなのです。
 くわえて、これも池田大作氏の講義のなかにあるのですが「邪宗教だけが無間地獄に堕ちるものでない」、自分たちの障害になるものはすべて「天魔」であり、「彼らも、無間地獄に堕ちることを免れないのである」としています。
 彼らからみた「邪思想」も、「撲滅」の対象になるということものべているのです。
 こうした異常な目的と体質が、一九六九年の言論出版妨害事件を引き起こしました。
 彼らは反省を迫られ、表面上は一定の手直しを余儀なくされました。
 しかし、「邪宗教」の「撲滅」という民主主義じゅうりんの主張は、その後も一度も公式に撤回されたことはありません。
 創価学会の新聞には、日蓮正宗の本山を「日顕宗」といって、「日顕宗を撲滅する」のが学会の使命だという立場からの記事が、毎日のようにのっていました。
 「共産党を日本の政治から追いだせ」という攻撃もあります。
 この教団がみずからの障害になるものを、「撲滅」の対象とする体質をもっているということは、そこからもあきらかです。
 選挙の実態にてらして、かつての「政教分離」という公約がまもられたとはとうていいえません。
 「王仏冥合(みょうごう)」については「この理念は変わっていない、生きている」というのが、創価学会が、いまでも取っている公式な立場です。
 これらの点をみますと、創価学会・公明党の政治進出の当初の目的と体質が、今日もなお変わっていない、という深刻な疑惑を呼び起こすのに、十分です。

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