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2009.01.07

御前会議でのアジア・太平洋戦争開戦決定の過程 その三

 【一九四一年九月六日の御前会議】

 「御前会議の結論はあらかじめ決まっている。その議案は、大本営(だいほんえい)政府連絡会議で原案がつくられ、閣議の承認をへて、天皇に上奏され、天皇の裁可をすでにえているのである」(『1941年12月8日 アジア太平洋戦争はなぜ起こったか』。百六ページ)。 
 近衛首相が、近衛=ルーズベルト首脳会談を提案してから一か月後の九月六日の御前会議のときも、そういう手順が踏まれました。
 前日の九月五日、議案「帝国国策遂行要領」が内奏されました。
 そのとき、天皇は杉山元(はじめ)参謀総長に日米戦はどのくらいで片付くかと質問し、杉山をやりこめました。
 対米戦争はいいが、勝算はあるのかという観点での質問でした。
 そのとき、永野修身(おさみ)軍令部長が助け舟を出し天皇を説得しています。
 永野は説明の後に、議案「帝国国策遂行要領」の第一項の戦争準備の完整と第二項の外交交渉による問題の解決の順序を変更するかどうかと奏聞しました。
その後、つぎのようなやりとりがあったといいます(『アジア・太平洋戦争』。吉田裕。岩波書店。二〇〇七年八月二十一日。四十八ページ)。

 御上(おかみ) よし解つた(御気色和げり)。
 近衛総理 明日の議題を変更しますか。如何(いかが)取計(とりはからい)ませうか。
 御上 変更に及ばず。

 昭和天皇の腹は決まりました。
 翌九月六日午前十時から開かれた御前会議では「帝国国策遂行要領」が決議されました。
 「帝国は現下の急迫せる情勢特に米英蘭[アメリカ、イギリス、オランダ]等各国の執れる対日攻勢『ソ』聯の情勢及(および)帝国国力の弾撥性に鑑(かんが)み『情勢の推移に伴(ともな)う帝国国策要綱』中南方に対する施策を左記に依(よ)り遂行す
 一、帝国は自存自衛を全(まっと)うする為(ため)対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下(もと)に概(おおむ)ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す
 二、帝国は右に竝行(へいこう)して米、英に対し外交の手段を尽(つく)して帝国の要求貫徹に努む
 対米(英)交渉に於(おい)て帝国の達成すべき最少限度の要求事項竝(ならび)に之(これ)に関連し帝国の約諾し得る限度は別紙の如(ごと)し
 三、前号外交交渉に依(よ)り十月上旬頃に至(いた)るも尚(なお)我(わが)要求を貫徹し得る目途なき場合に於(おい)ては直(ただ)ちに対米(英蘭)開戦を決意す
 対南方以外の施策は既定国策に基(もとず)き之(これ)を行い特に米『ソ』の対日連合戦線を結成せしめざるに勉む」
 「別紙」の「最少限度の要求事項」には、こうありました。
 「米英は帝国の支那事変処理に容喙(ようかい。口を出すこと)し又(また)はこれを妨害せざること」
 「米英は極東に於(おい)て帝国の国防を脅威するがごとき行動に出でざること」
 「米英は帝国の所要物資獲得に協力すること」
 中国問題は日本の勝手にまかせて口をだすな、戦争に必要な物資は供給せよ、これが「最少限度の要求」だったのです。
 しかも、十月上旬までにこの要求をアメリカが承認するメドがたたなかったら、「直(ただ)ちに対米(英蘭)開戦を決意す」。
 これが、首脳会談を提案したあとでの、戦争を指導する最高会議における決定でした。
 この御前会議の席で昭和天皇が明治天皇の短歌「四方(よも)の海 みな同胞(はらから)と 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらむ」を読み上げました。
 一部の論者は、このことをもって、昭和天皇が「外交を優先させたいという気持ちを列席者に伝えた」といいます(『1941年12月8日 アジア太平洋戦争はなぜ起こったか』。百十二ページ)。
 これでは、前日、「戦争準備の完整」を優先することを決意した昭和天皇が、翌日には外交交渉による問題の解決を優先する方向に揺れているということになります。
 むしろ、日本は新しい戦争にいぞむのだという昭和天皇の開戦決意の気持ちを、この短歌に託して伝えたと考えるほうが素直なのではないでしょうか。
 『大元帥 昭和天皇』は「昭和天皇は、九月六日の御前会議までは、明らかに対英米戦争に慎重な姿勢をとっていた」(百三十七ページ)と指摘。そして、その理由を「戦争に勝てるか否か、天皇は作戦をつかさどる統帥部の幕僚長(参謀総長と軍令部総長)にたびたび質問したが、いっこうに納得のいく回答がえられなかったからである。」としています。
 昭和天皇は、開戦して「勝てるか否か」に関心があったわけです。
 開戦に向けての天皇の態度がどうだったかの判断は、まさに、七月二日の御前会議、九月六日の御前会議をふくめた四つの御前会議の決定の内容を検討することが基本だと思います。
 九月六日の御前会議の決定をうけて、陸海軍は、ただちに動きだしました。
 海軍の戦争準備は早くから完了していましたが、陸軍についても、大本営陸軍部は、九月十八日、作戦準備の命令を発し、南方作戦兵力の移動を開始しました。
 日米交渉に進展のないまま、十月下旬という期限のせまるなかで、自信を失った近衛は、十月十六日、政権を投げ出しました。
 内(ない)大臣の木戸幸一は、近衛の同意を得て、陸軍大将・東条英機を後続首相に推し、昭和天皇も、これを了承しました。
 そして、十月十八日、東条内閣が成立しました。

 【一九四一年十一月五日の御前会議】

 東条内閣の成立をうけて、十一月五日、御前会議が開かれました。
 ここで「帝国国策遂行要領」が決定されます。戦争の開始を決断した決定でした。
 「一、帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完(まっと)うし大東亜の新秩序を建設する為(ため)此(こ)の際対米英蘭戦争を決意し左記措置を採る
 (一)武力発動の時期を十二月初頭と定め陸海軍は作戦準備を完整す
 (二)対米交渉は別紙要領に依(よ)り之(これ)を行う
 (三)独伊との提携強化を図る
 (四)武力発動の直前泰(タイ)との間に軍事的緊密関係を樹立す
 二、対米交渉が十二月一日午前零時迄(まで)成功せば武力発動を中止す」
 「別紙要領」の交渉案(甲案)は、戦争が終わったあとも、日本軍が中国の北部とモンゴル地域および海南島に居座り続けることを柱としたもので、一九三七年に蒋介石政権に提示して黙殺され、一九四〇年にカイライ汪兆銘政権にようやく押しつけた「講和条件」の焼き直しでした。
 それを、今度はアメリカを仲介役にして中国に押しつけようとする提案です。
 この決定から、陸海軍は戦闘態勢に移行します。
 十一月六日付の大陸令第五五五号によって、南方作戦に参加する各軍の戦闘序列が発令されました。同日付の一連の大陸令・大陸指によって、南方軍総司令官、支那派遣軍総司令官、南海支隊長にたいして攻略準備命令が発令されました。大陸令は大元帥(だいげんすい)としての天皇が陸軍に発する最高統帥命令、大陸指は大陸令にもとづいて参謀総長が発する指示事項です。
 海軍も、十一月五日付の大海令第一号によって作戦準備の「完遂」が発令されました。大海令も、天皇が海軍にたいして発する最高統帥命令です。
 同日、海軍の艦船部隊などを平時状態から戦時状態に移行させる出師(すいし)準備第二着作業が発動されました。
 十一月八日、軍部が天皇に真珠湾攻撃の作戦計画を報告して承認を受けました(『新・日本共産党綱領を読む』。不破哲三。新日本出版社。二〇〇四年十二月十五日。七十五ページ)。
 ハワイの真珠湾急襲の任務を受けた海軍の機動部隊は、瀬戸内海から行動を起こし、十一月二十二日までには南千島・択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾に集結、十一月二十六日、真珠湾に向かって出撃しました。
 「帝国国策遂行要領」に、対米交渉は一応書かれていて、野村大使への援助として、十一月六日、この決定をもって来栖特使がアメリカに派遣されました。来栖特使は、一年前にベルリンで日独伊三国同盟に調印した人物です。
 十一月二十六日、アメリカのハル国務長官は日本側に政府の回答を示します(ハル・ノート)。その要求は、日本軍の中国からの撤兵、汪兆銘政権の否認、三国同盟の空文化、すべての国家の領土および主権の尊重、内政不干渉、通商上の機会均等、紛争の平和的解決という四原則の確認などでした。
 この日は、真珠湾攻撃をめざす日本の機動部隊が南千島から早朝に出撃した日でした。

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