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2009年5月

2009.05.02

高知市 右胸に腫瘍がある疑いでした。

 高知短期大学の健康診断で胸のレントゲンをとってもらったら、再検査に。

 本日午前、検査を受けにいきました。
 腫瘍がある疑いだったようですが、結果は、異常なし。

 生き延びたという感じがしました。

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高知市 「召集令状の受領書をもっている男性がいるよ」と聞きました。

 午後、「召集令状の受領書をもっている男性がいるよ」と聞きました。
 その話を聞いて早速、取材を申し入れました。
 近々、会ってもらえることになりました。

 受領書の表は、こんなことが書いてあるようです。

   受領書

 昭和廿年壱月六日 中部第八十七部隊 へ召集ノ臨時召集状
 右 受領 ス

   昭和  年  月 後前  時  分
             後

   帰休兵 歩兵 陸軍二等兵 ●● ●●

  本人ニ代リ受領シタル者ハ左ニ記名捺印スヘシ

    高知連隊区司令部御中

 裏には「受領証記入心得」が印刷されています。

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高知市 山口市の友だちから「夕方のテレビに出ていましたね」と電話。

 夜、山口市の友だちから電話がありました。
 「夕方のテレビに出てましたね。『北村君を支援していきたい』といっていました。藤原義一、六十二歳と字幕もついていましたね」

 TBSテレビ系の報道特集のことのようです。
 テーマは県立高知短期大学に入学した北村君のことだったそうです。

 残念ながら見てませんでした。

 インターネットで検索したら「報道特集NEXT」の  「シリーズいのち/雷に撃たれた高校生 13年戦いと新たな試練」という特集だったようです。

  http://tvtopic.goo.ne.jp/program/77/12290/238564/0/0/1/index.html

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2009.05.03

奈良・興福寺の阿修羅像の三つの顔のうち、左の顔、右の顔。

 夜、NHK総合テレビの「ワンダー×ワンダー」の阿修羅の番組を見ました。
 初めて奈良・興福寺の阿修羅像の三つの顔のうち、左の顔、右の顔を見ました。

 髪と首が一つで、同じ男性の三つの顔を表現している阿修羅像。
 それぞれに成長の過程が刻み込まれているといいます。成長の順にいくと、つぎのようになります。

 ● 左の顔 下くちびるをかみしめています。くやしいという表情です。
 ● 右の顔 うつむきかげんで悩んでいる様子です。
 ● 正面の顔 何かを訴えている表情です。

 耳が四つなんですねえ。

 木枠をつくり粘土で型をつくり、その上に布を乗せてウルシで何度も塗り、できあがったら中の粘土を出し、そしてウルシにニレの皮を砕いたものを入れたもので塗りながら仕上げをやるという工程でつくられたようです(この部分、正確でないかもしれません)。

 この像をつくることを命じたのは光明皇后だといいます。

 【参考】

http://www.kohfukuji.com/property/cultural/001.html

http://www.higan.net/blog/feature/2009/04/ashura_2.html

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%98%8E%E7%9A%87%E5%90%8E

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高知市 忌野清志郎(いまわのきよしろう)さん逝く。

 忌野清志郎(いまわのきよしろう)さんが亡くなったことを朝のテレビ番組で知りました。

 高知新聞ではどうかと思って見てみると社会面の三段見出し。僕の気持ちの中では一面トップです。

 ステージは一度しか見たことがありませんが、ラジオでCDで、常に身近にいてくれたという感じです。

 忌野清志郎さんについては、以前に、こんな記事を書きました。

  http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2005/04/post_8392.html

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高知市 五月五日は高知市から山口県岩国市にいきます。

 五月五日は高知市から山口県岩国市にいきます。

 九人乗りのジャンボタクシーを予約しました。

 四日二十四時、高知駅前を出発。五日午前十時までに岩国駅前着です。

 現在、七人が予約。

 あと二人です。

 ご連絡をお待ちします。

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2009.05.04

高知市 岩国ツアー、いまさっき九人のフルメンバーに。

 本日二十四時からの岩国ツアー、いまさっき九人のフルメンバーに。
 うれしいですねー。
 いま資料二枚をつくりあげました。

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高知市 風船爆弾をつくっていた、当時、高知県立第一高等女学校の生徒のインタビューをビデオにおさめました。

 本日午後は、風船爆弾をつくっていた、当時、高知県立第一高等女学校の生徒のインタビューをビデオにおさめました。
 直径十メートルの風船です。同校講堂での満球テストのときには天井につかえる状態だったといいます。

 帰ってから妻と一緒に高知の風船爆弾の資料づくり。昨日からやっているのですが、かなりのページになりそうです。

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高知市 わが家のアマリリス。

Photo  ことしも咲いたよ。アマリリス。

 一鉢にいくつもの花が咲いて、「これでもか。きれいやろう」という感じです。

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高知市 わが家のジャガイモの花。すっごくいい。

Photo_4  昨年も今年も庭の菜園でジャガイモを育てていますが、実は、この花がみたいがためです。

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2009.05.05

高知駅から岩国駅へ。六時間半で着いたよ。

 客九人のジャンボタクシーでのツアーです。

 小学五年生の女の子から六十歳代まで。二十歳代前半の男性もいます。

 主催者は僕。Oさんがナビゲーターです。

 岩国市内に入ると、すごーい渋滞。土浦、横浜、福岡などのナンバーもあります。

 午前六時半にJR岩国駅に到着。

 高知駅から六時間半で着いたよ。

 九時半に集合ということにして、九人は、それぞれの行動を。

 駅前二箇所で弁当を売っていました。

 米軍基地開放にくる客を身目当てにしたものです。

 私たち七人はインターネット喫茶へ。

 編入試験のための勉強をしました。

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岩国市にて ヤマシャクヤクの花のスケッチ。

 いまNIIさんからヤマシャクヤクの花のスケッチを見せていただいています。

 この花、チャンスがあれば植えてみたいと思っています。

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2009.05.06

岩国市 米軍岩国基地で見たもの。

 五月五日。

 在日アメリカ軍岩国基地を見学。この間、ずーっと考えていたのは「ふるあめりかぬらじ」という言葉でした。

 Photo_3 Photo_4 Photo_5

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高知県 「散歩」の途中に見た花たち。

Photo_8  Photo_9

 午後から妻とふたりで「散歩」。

 妻は自転車で僕は250CCオートバイでという変な取り合わせ。

 その過程で見た花の光景です。

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2009.05.07

高知市 「朝っから ダウンしちゃった わがパソコン……」。 

パソコンとニ十年数年つきあって 大親友に なったこのごろ

「老人会、総会やります」ニュース刷る パソコンさんにお世話になってる

「〇」に「ふ」の記号打ち込む連れ合いの ワードの技法、本物になる

朝っからダウンしちゃったわがパソコン ひとまず置いて陶芸にいく

「ていねいにつくらなくてはできません」 、言葉穏やか陶芸の師は

二時限の授業のさなか 「パソコンを、どうなおそうか」片隅にあり

「なにゆえに真っ黒画面か」 立ち向かいパソコンなおる夜十時半

編入の小論文のデータ無事を確認 「つぎにいけるぞ」  

データをハードディクスにとりこんで 次の故障に備えてる夜

「ああ、ついに完璧ダウン。修理行き」 わがパソコンと、しばしの別れ

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2009.05.09

高知県 龍河洞の部隊にいた兵士の話。

 今日は土曜日、授業は休みです。

 ● 午前中は、受験勉強を手伝ってほしいとある男性に懇願。手伝ってくれることになりました。うれしい。

 ● 職場の会議に出ました(会食つき)が、途中、十二時半に退席し、南国市の勉強会に。

 勉強会の後、そこの参加者の一人から戦争中の話を聞くことができました。

 高知県の龍河洞にいた部隊にいたそうです。

 この間、戦争中に高知県の龍河洞にいた部隊に伝令にいったという兵士の話を聞いたばかりです。

 なんか話がつながってきて、当時のことが見えてきました。

 ● 帰ってから短歌の月刊誌に送る短歌の原稿を書きました。

 締め切りは明日ですのできわどい作業です。

 ● さて、これからですが、同学年の男性の二十歳のお祝いの会に出席します。

 ● 夜中に明日の文学の会のためのレジュメをつくる必要があります。

 なんかせわしくやっている今日このごろです。 

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2009.05.10

高知市 ホースから湯が出てきました。

 高知市

 午前十時ころ、ホースで野菜に水をやろうとしたら湯が出てきました。

 もうそんな季節になったのです。

 

 

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2009.05.11

アメリカ空爆用自動飛行体が高知でもつくられていました 調査のための文献 【その一】 丸の内高校、土佐女子高校などのみなさん、先輩たちの話ですよ。

 一九四四年(昭和十九年)から四五年(昭和二十年)にかけて、日本ではアメリカ空爆用自動飛行体・風船爆弾がつくられていました。
 高知でも風船部分がつくられていました。
 そのことを示す文献を集めました。このことを、もっとくわしく調査するうえで役立ててほしいという思いからです。
 その前に、少し風船爆弾の概略を書きます。
 関東の第九陸軍研究所で研究していました。
 気球に爆弾を積み、一万メートル前後の上空に上げ、偏西風に乗せて、約八千キロ離れたアメリカへ飛ばして、爆弾の雨を降らせようという計画でした。
 初めて飛ばしたのは四四年十一月三日。福島、茨城、千葉の各県の十四カ所から翌年二月にかけて約一万五千個が空に消えていきました。
 なお[ ]内は記者の注です。

 【土佐高等女学校での風船爆弾づくり】

  『五十年のあゆみ』(一九五二年十月三十日発行。発行者・土佐女子高等学校、土佐女子中学校。編集者・山崎熊吉)

 
  (前略) 本県で作つたものは紙の風船で、本校【土佐高等女学校】の外第一高女、高坂高女などに作業が課せられた。その作業は原料たる楮(かうぞ)の表皮を除くいわゆる「くさへぐり」から、工場ですいた原料紙の検査、更にこんにやく糊(のり)をつかつて原料紙を直径十米の大風船に貼(はり)合わせる作業である、四五年生が動員されてからは、三年生以下で之を行い、講堂を工場に代用し、校庭で之に高圧の空気を充たして強度を実験するなどもやつた。後には市内旭町に工場が出来て、そこに通勤した。本校生徒の製作成績は常に良好であつた。(後略)

 注・同校では、一九四四年十一月、四年生は兵庫県加古川の日本毛織加印工場に、五年生が兵庫県伊丹の大阪機工猪名川工場に動員されました。いずれも軍需工場です。

 【バルーンの満球試験工場を建設して……】

  『土佐紙業史』(一九五六年三月三十一日発行。編著者・清水泉。発行所・高知県和紙協同組合連合会)

 (前略)当時の日本紙業界の動向を見てみると、まづ昭和十九年三月には生紙と名づけられた純楮製薄葉紙の生産が挙国的に行はれた。最も此の生紙は、本県の徳平元太郎氏が最初やまと紙と称して之れが一般に通用していたが、土佐では和紙統制会社を代表する土佐和紙共販株式会社が同社の倉庫を陸軍需品廠の生紙倉庫に当てて県内産紙の取扱いに任じ、更に其の七月には、高知市旭町三丁目九四番地(現西日本パルプ敷地)に科学加工紙株式会社を設立すると共にバルーンの満球試験工場を建設して所謂風船爆弾の製造に著手した。
 此のバルーンは当時東京都蒲田区にあった国産科学工業株式会社代表者小林三男氏が国吉貞吉,浜田裕両氏の援助を受けて製造し、其の生産高は日産三十球と云はれた。従つて生紙の生産は益々急を要し、業者は殆んど昼夜兼行の状態にあつたが、一方原料方面に於ても、生紙の生産と並行して多事多端となり、原料商畠中宗太郎,西川庄太郎両氏が主となって各家庭に黒楮皮を割りあて、知事、市長夫人はもとより、凡そ高知市に家を持つ者に対しては、殆ど全部に此の皮へぐりの労役が課せられた。
 此の皮へぐりの労役は、独り高知市のみでなく、漸次軍の命令によって高岡、伊野、佐川等の製紙工場を持つ地域に対しても課せられたが、当時科学加工紙株式会社に,巴塘,玉水新地等の遊女が動員されて、不器用な手つきで皮へぐりの労役に就事したのは、戦争の生んだ逸話としてあまりにも最名である。
 県立第一高等女学校の講堂及び土佐高等女学校の校庭は、生紙の加工、風船玉の製造に使用せられ、女学生が此の作業に当つていたが、此処へはたとへ警察署長と雖も絶対に立ち入る事を許されなかつた。
 勤労動員の事務所は、時の陸軍兵器行政本部高知監督班長西本務が、絶対権力を行使して県立紙業試験場に置き、勤労動員課長橋田光明氏が軍の管理官を兼ね、又紙業試験場長高橋亨氏も臨時陸軍技師に兼務されて、科学試験を使命とする紙業試験場も全く軍一色となり、サーベルと軍靴の音で明けては暮れた。
 高岡、伊野、安芸、香宗、久礼田等の各加工工場も、勿論軍部の指揮下におかれたが、高岡の福原弥太郎、森沢栄喜氏らが海燃衛帯原紙並びに蒸気パイプ保温紙を製造したのも此の頃であり、また伊野町の土井昌左衛門氏が、海軍省経理部の命により動員女工に与える綿紙を造つたのも此の頃であつて、当時の土佐紙業界が軍と関連を持つに非らざれば、仕事が出来なかつたのは言を俟つまでもない。
 紙業試験場が軍靴のもとに蹂躙された十九年六月二十六日,同試験場の西隣にあつた典具帖紙加工組合は、其の調薬室から火を発して加工工場を全焼し、再び起つ能はざる打撃を蒙る等、土佐紙業界は全く騒然たるものがあつたが、また一方には、軍の要請によって紙製品による新しい軍需品が、工業化すると否とにかかはらず次々に考案された。即ち高知航空工業株式会社の純楮を以て抄造した手漉西の内一号によるガソリン補助タンクの製造がそれであり、又高岡郡越知町百瀬竹紙工業所の、アルカリ法による竹の粗製紙等もそれであつて、前者は工業化の域に達せず、後者は少量の塵紙を海軍に納入したのみでいづれも廃止したが、これ等は其の巧拙は別として、資源に乏しい我が国将来への研究課題の一つとして好個の例ではあるまいか。

 
 【第一高等女学校 朝から晩まで日曜も返上して……】

  『蛍雪八十年』 (一九六七年二月二十六日発行。永富実。発行・高知県立高知丸の内高等学校同窓会)

  (前略) 十九年五月本校[高知県立第一高等女学校]は軍需品生産の下請け工場に指定されたゆえ県外にゆかない居残り組は二班にわかれ体育館で軍需品の生産にあたった。一斑は体育館にミシン百台をすえつけて軍服、シヤツ、袴下をつくった。白鉢巻をしめてミシンを踏んで競争させられたものである。あわてて手にミシンをかけた生徒もいるほどであったが皆緊張して働いた。他の一斑は講堂を工場として当時秘密兵器とされていた「風船爆弾」をつくった。勿論授業はなく朝から晩まで日曜も返上して働いた。この頃は艦載機の空襲も度々あったので登校時は頭巾をかぶり米一合、ほうたい、ヨーチンら自分でつくったカバンに入れ、これをかけて登校した。(後略)

 【土佐高等女学校グラウンドなどで張り合わせて……】

 『土佐和紙物語』(一九七三年九月一日発行。西沢弘順、
朝日新聞高知支局。発行所・高知県製紙工業会)

  (前略) モンペにゲタ、「神風」と染め抜いたはち巻をしめた女学生がもくもくとある作業を続けた。場所は、校庭。作業の手順はまず、畳一枚大の板にコンニャクノリを塗って紙を張る。太陽でかわかし、その上にまたノリを塗って紙を重ねていく。それをつなぎ合わせ巨大な袋に。作業は早朝から夜遅くまで続いた――昭和十九年から二十年にかけてのこと。これこそ「ふ号兵器」の名で呼ばれた風船爆弾づくり風景だった。(中略)
 気球用紙の材料に土佐和紙もとりあげられた。県紙業試験場には、陸軍兵器行政本部高知監督班の事務所が置かれた。当時の試験場長だった高橋亨さん(七〇)が臨時陸軍技官として、紙づくりの指導に、軍の監督官補(曹長)だった土佐市高岡町京間の製パン会社社長高石馨さん(五六)が、紙の検査主任になった。二人の話をもとに風船爆弾のてん末をつづってみると――。
 手すき業者は当時、約八百戸もあったが、十八年九月ごろから、すべてコウゾを原料とした気球用の生紙(きがみ)すきを命じられた。高知市など全家庭の主婦が、コウゾの皮へぐり(黒い表皮を取除く作業)に動員された。すきあがった紙は、県内の主な二十工場、高知市旭町三丁目の国産工場(旧高知パルプ敷地)や第一高等女学校(丸の内高校)土佐高等女学校(現土佐女子高校)グラウンドなどで張合わせて原紙をつくった。
 風船の直径は十メートル、重さ七十五-八十キロ。ラッカーで迷彩塗装し、月に十-十五個ずつ東京へ送られた。水素ガスでふくらませた風船に親指大のロープで五キロの焼い弾四個と十五キロの爆弾がつるされた。アメリカに到着する時間を計算して自動爆破する装置をつけた。別に、重さ二キロの砂袋を三十二個ぶらさげた。どうしても水素ガスは少しずつ風船の表面から逃げるので、途中で一定以上に高度が下がった場合、自動的に砂袋を落として風船が偏西風帯に戻る工夫もした。(後略)

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アメリカ空爆用自動飛行体が高知でもつくられていました 調査のための文献 【その二】 

 【元主計大尉・鈴木正二さんの証言】

 『写真記録 風船爆弾 乙女たちの青春』(一九八五年三月発行。編集・林えいだい。発行所・あらき書店)

  鈴木生紙の調達

  大阪陸軍需品支廠元主計大尉 鈴木正二

 風船爆弾のことを我々は○ふ作戦と呼んでいました。
 終戦と同時に、上部の命令により○ふ作戦に関する一件書類その他、証拠となると思われるものは総て急いで焼却しました。さらに、米国本土を爆撃した唯一の兵器(米国ではこれこそ本当の無差別盲爆撃だと非難していたと聞かされていましたので)でありました。
 あの有名な七三一部隊(石井部隊)と同じく、幹部将校は戦犯に指名逮捕されるのではないかとの心配もあり、風船爆弾に関する物証は私の手元に残っておりません。
 昭和十九年の五月か六月頃、突然、陸軍需品本廠長より私(大阪需品支廠勤務、主計中尉)に対して、至急上京せよとの極秘命令があり、驚いて東京本廠に向かいました。
 これが秘密兵器○ふ作戦の原料和紙である生紙(きがみ)の生産整備命令でありました。
 例の如く型通りの戦意高揚激励の後、帝国緒戦の華々しい勝利は残念ながらどこへやら、正直いって次第に劣勢となりつつあり、いまや守戦一方に転じた現在の戦局を、一気に挽回できる新兵器が、こんど第九陸軍技術研究所(登戸)で開発完成された。それは直径十メートルにおよぶ紙製の風船爆弾である。一万メートルの上空を恒常的に、西から東に流れる亜成層圏気流に乗せて飛ばし、これに時限爆弾を装備して米本土上空で爆発するように仕掛けた。
これを風船爆弾と呼び、○ふ作戦と命名した……云々。いうまでもなく極秘作戦である故、その点は十分注意すること。
 ついては紙類の調達整備を所管する需品本廠に、原紙生紙の生産調達を命じられた。君がその責任担当官だということでありました。
 これには本当に驚き、非常に緊張したことをいまでも憶えております。当時、本廠の直接担当責任者は、慶応大学出身の若い井手佐重少尉でした。
○ふ作戦に関しては、廠長以外は極めて少数の関係者だけで、同部隊内でも知る者ものは殆どいなかった筈です。勿論、大阪支廠に於ても同様で、支廠長高木大佐、調達科長田中大尉、直接担当の鈴木中尉三人のみでした。

 風船一球に六百枚   

 その後、直ちに全国の各生産県への割り当て数量、月別の配分量などについて細かい打ち合わせを何回か行いました。
 風船一個に要する生紙が六百枚で、風船の第一次目標数が二万五千個か、二万個くらいだったと思います。
 日本に於ける生紙の主要生産地が、私の大阪支廠管内に集中していたのです。高知県(土佐紙)、鳥取県(因州紙)、岐阜県(美濃紙)の三県です。
従ってこれら三県にあった県立紙業試験場長を、それぞれ軍の嘱託にしていろいろと現地での技術の指導援助を仰ぎました。高知場長は高橋技師、鳥取場長は小(こう)位(じ)技師、岐阜場長は加藤技師の三人でした。
 生産数量の割り当ては、従来の三県の実績、設備その他に照らして、およそ高知七、鳥取二、岐阜一の割合にしたと思います。従って、生産割り当ての多かった高知県が、その中で一番苦労が多かったでしょう。
 私も高知県には毎月一回は情報収集、生産督励に出張しました。高橋場長は生粋の土佐人でお酒が好きなので、貴重な配給の酒を目立たないように、水筒に詰めて持参したものでした。
 また、手漉き工場の工員さんには、無理して少しばかりの石鹸を土産に持って行き喜んでいただきました。
 高知県では、時の高橋知事婦人も寒中冷たい小川の流れにはいって、コウゾの皮むき精製に率先して従事されたことを高橋場長から聞いて、すごく感激したこともあります。
 和紙の生産業者は、殆ど零細企業の家内工業的でありましたので、先ず第一に苦労したのは、いままでと違って規格がぐっと大きいことでありました。とても手漉きでは無理だとの声もありましたが、なにぶんにも軍の絶対命令ということでみんな頑張ったわけです。
 そのため業者によっては、原液の水槽から簀の子から全部揃えねばなりませんでした。
 紙を漉くということは全身の力を要する重作業でしたので、女性には重労働だったと思います。それでも、お国のために敵本土を爆撃する新兵器の原紙の材料をつくるのだと、みなさんが頑張ってくれたので、納期に遅れたことは一度もありませんでした。
 前述した通り私の管内主力は高知県でしたので、同地での仕事始めの激励会には、支廠長高木六郎大佐も同行していただき訓示されました。
 その中で高木大佐が、「我が国は神国である。紙は神に通じるのです。昔から日本人は和紙を非常に尊い神聖な物として大切に扱ってきました。神社の御幣や奉書に、そして巻物に……。いま、この紙が神となって神国の危機を救おうとしているのです」と訓示しました。このことが強く印象に残っています。
月末の納期近くなると、心配で落ち着かず、各地を回って督励と情況の把握に努めました。
 また、後半には高知に下士官一人を常駐させ、自転車で駆け回ってもらいました。
 二十年になると、手漉きだけでは間にあわず、機械漉きも始めるとの内命があり、兵庫県の三菱製紙高砂工場に調査打ち合わせに出張、報告書作成中に○ふ作戦は中止となり、機械漉きの件は実現しませんでした。

 【佐川高等女学校の生徒たちも動員されて……】

 『いま「記憶の証言」送ります あの日8月15日』(一九八八年発行。編・自分史かわら版編集室。発行・永野和宏)

   佐川高女の生徒と私

      坂口 智恵(旧姓細木)

 (前略) 昭和十八年に東京女子体操音楽学校を卒業した私は、その四月から私立神戸野田高女に勤め、昭和十九年からは、母校である佐川高女に勤めていました。昭和十九年の第一学期は寮の舎監をしながら授業を行いました。それが、佐川高女の生徒が学徒勤労動員の対象となってからは、私は生徒と共に学校の外に出ることが多く、同僚は五、六人しか覚えておらず、もっぱら働く生徒たちの姿を見ることにとどまりました。生徒の仕事は次の三つなのです。
伊野の製紙工場での皮そぎ、泉大津での飛行機のプロペラづくり、三つ目は朝倉の営所での看護婦の仕事でした。
 伊野の製紙工場へ通い始めたのは、昭和十九年の九月からでした。まずは自転車で通える人が選ばれ、汽車で通った人もいました。
 仕事の内容はコウゾやミツマタの樹皮の、紙になる白い部分を取り出すわけですが、表皮はぶ厚く、枝分かれした部分はやりにくいのです。節もあります。注意深く見つめながら、何度か同じところをやらないと、プツンと黒っぽい皮が残ってしまうのです。こうして出来た白い部分を小さく切断し、煮沸させて薄い丈夫な紙をつくっていくのですが、この紙で風船爆弾をつくって遠くまで飛ばすとなると、このプツンと残った黒い部分から空気がもれるわけで、この点がもっとも厳密にチェックされ、何度もやりなおしをさせられることかあるのです。(中略)
コウゾやミツマタは、生徒のゴムの前かけの上にのせられるまでに長時間蒸され、柔らかくなって、水びたしのまま運ばれてきます。それを一本ずつ膝の上にのせ、右手に鋭い刃物を持って押しつけ、左手で強く引っぱりながらこそいでいくのです。両手ともに相当な力をこめなければできない作業でした。同じ姿勢で同じ動作を繰り返しながら、やがて秋は深まり、水は容赦なく彼女らの身体を冷やしました。
 この仕事は生徒にとって、もちろん初めての仕事ではありましたが、仕事に馴れるまでには好奇心があり、あれこれ会話をかわしながら楽し気にやっていましたが、次第に言葉は少なくなっていきました。疲れとあきらめだったのでしょうか。勝たねばという思いだったのでしょうか。
 この頃のことで忘れられないことがあります。通い始めた頃は学習への意欲が旺盛で、教科書を持って工場へ出掛け、時間があれば勉強していたのです。それが、ある日、はっと気が付いたのは、手に持っている本が教科書から雑誌の類にかわっていることでした。また、作業中の静けさにくらべて、休み時間のにぎやかさ、工員たちと仲良くなり、言葉使いがそっくり工員風になっていたのです。環境の影響を思いながら、やりきれない淋しさを感じたものです。
 熾烈な戦争の真っ直中で、こんな仕事をしても大して役にはたたないだろうと思われましたが、ほんの僅かでも、戦争のために、日本のために働いているという意識が、生徒や私を支えてくれたのであろうと考えられます。(後略)

 【陸軍航空本部より輸出和紙株式会社に軍命】

 『私本土佐和紙物語』(一九九二年四月二十日発行。河野剛久。発行・河野製紙株式会社)

 (前略) 我が国はこの未曾有の大戦争を遂行するために、国力の全てを軍需生産に集中したが、アメリカ軍潜水艦の攻撃による南方地域との海上交通の途絶が致命的で原料、資材は払底し、兵役のために国内の労働力不足も深刻であった。
 主原料である化学パルプは戦時体制下では製紙以外の用途も多く、十四年にはすでに入手困難となり、政府は国家統制による配給機構の確立を急いだが、これに先立ち高知県においては自主的にパルプ売捌業者の統合を計り、十五年二月一日高知県製紙用パルプ商業組合の設立が認可された。同組合は十九年七月に、商工組合法が実施せられて組合存続の意味を失うまで活動した。
 同じころ、パルプ同様に入手の難しかった苛性曹達、曹達灰、晒粉などの薬品についても、円滑な供給を目的としてそれぞれ高知県製紙用曹達工業薬品配給組合と高知県製紙用晒粉組合が設立された。
 こうした厳しい状況の中、高知製紙は陸軍及び海軍の指定工場となったので、優先的に原料や資材の割り当てを受け、薄葉紙類を中心に呉工廠、光工廠、大阪福崎倉庫などへ向けて連日旭駅から製品を送りだした。
 十九年の初め、陸軍航空本部より輸出和紙株式会社に対し、丸フ(まるふ)作戦に協力するよう軍命が下り、同社の山岡茂太郎氏は久原某氏ほか女子従業員十名を伴って東京蒲田の国産科学工業株式会社に赴き、内密の訓練を受けた。輸出和紙(株)は日本紙業と三浦商工の両社の典具帖紙部が昭和十六年に合併して設立された会社で漉き槽の数も多く技術も高かったので、丸フ作戦の主役として期待されていた。埼玉県小川町の製紙試験所で、楮一〇〇パーセントの「生紙(きがみ)」と呼ばれた厚手典具帖紙の製造指導を受けて帰高した両氏は、秘密裏にいわゆる風船爆弾の気球原紙の手漉きによる試験漉きを行うとともに、生産手段の確保を急いだ。
 河野楠一はこの情報をキャッチするや、得意の「因州美濃四幅」の技術を駆使し伊野工場において機械漉きに成功、直ちに機械漉きの一巻を背に、東京へと急いだ。
 陸軍航空本部にこの試験漉きを見せると、しばらく待たされた後、憲兵に連行された楠一は、情報の入手等に関して二、三日取り調べを受けた。後に楠一は「後にも先にも、あれほど怖かったことはなかった」と当時を語った。
 その後、陸軍航空本部の了解のもとに伊野工場において生紙の製造を行い、巻き取りを関東方面に出荷し続けたが、生紙の機械漉きに成功したのは全国で高知製紙ただ一社であったと聞く。
 これが縁となって、楠一は軍部との関係を深め、頻繁に出入りして軍関係の仕事を受注するとともに、資材の配給等に関して特権を与えられることもあった。
 ともあれ、生紙増産の軍命に、知事、市長夫人をはじめ全家庭の主婦に楮の黒皮へぐりが割り当てられ、遊女までがこの作業に動員された。また、第一高女や土佐女子の校庭は直径十メートルの風船玉の貼り合わせ加工に使用された。
 この生紙には後日談があって、終戦直後この紙が残っていると戦時犯となるという噂が流れ、周章狼狽、巻き取りを障子紙や半紙版に裁断した会社もあったという。 (後略)

 【南国市国府の城東製紙でも……】

 『南国史談 第十二号』(一九九二年四月。発行・南国史談会)

   国府地区の製紙業について

      西田 楠男

 ○城東製紙工場
(前略) 昭和十八年に軍需工場に指定され、風船爆弾用紙の製造が終戦まで行われた。(後略)

 【「奉仕活動で最初にやったのは気球爆弾作りです」】

 『語りつぐもの――国府地区戦争体験記』(二〇〇五年四月一日発行。編・国府地区戦争体験記編集委員会。発行・国府地区地域活性化協議会)

   戦争と平和

      大石 千恵子(昭和3年生)

  (前略) 高知市の学校へ通学するようになった時に太平洋戦争が始まり、私達学徒は奉仕活動に行くことになりました。毎日のように警報のサイレンが鳴ると、敵のB29が一万メートル上空を通ります。はじめのうちは幸い上空を通過するだけでしたが、飛行機の音を聞いただけで本当に恐ろしく戦争は嫌だとつくづく思いました。
 奉仕活動で最初にやったのは気球爆弾作りです。何十人もの生徒が一列に並びコンニャク糊で外張りをします。直径十メートル程もある大きな風船ですから大変です。外張りが完全に乾いたら次は“万球”です。出来た風船を膨らましてみることを万球と言っていました。このように大変な作業もお国の非常時と思えば皆一生懸命でした。しかしこれが米国まで飛んで行って害を与えることがあったでしょうか。私達は知る由もありません。
 そういう毎日の活動に出るのに一番困ったのは足でした。当時靴は配給制で入手困難ですし自転車はノーパンですから使いものになりません。仕方なく毎朝六時前に家を出て下駄履きで後免駅まで歩きました。往復十キロメートル程歩くので下駄も長持ちしません。半月に一足の割で下駄が必要でした。今から六十年も前の事で、ちなみに後免高知間の汽車賃は半年間で十五円六十銭でした。満員の汽車にゆられ勝つことを信じて毎日通ったことでした。(後略)

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アメリカ空爆用自動飛行体が高知でもつくられていました 調査のための文献 【その三】。

 【県立高知第一高等女学校での風船爆弾づくり】

 『高知・20世紀の戦争と平和』(二〇〇五年八月十五日発行。編・「高知・20世紀の戦争と平和」編集委員会、高知・空襲と戦災を記録する会。発行・平和資料館・草の家)

 風船爆弾    池川 順子  

 聖戦遂行、勝利への大きな切り札の一つとして、それは考えられていた。私たちの間では「風船爆弾」などという言葉は使われなかったが、作業をしていく中で、そういうものだということは直ぐに分かった。単純だけれども珍しい仕事だった。
 女学校3年の15歳だった。これからは毎日学校へ出てきて作業をしてもらいます、ということで始まった。思い出しても、軍部が学校に入ってくることはなく、民間の紙会社の人の出入りで行われた。
 3年生の甲乙丙丁の4組のうち、2組が軍服づくりを体育館にミシンを持ち込んでやっていたが、「被服ぐみ」と呼ばれていた。あとの2組が風船爆弾づくりである。
 教室の机や椅子をうしろに積み上げて床を広くして、南側に5人、北の廊下側に5人が、ぞれぞれ1メートルの間隔をあけて座り、この2組は向き合っていた。各人の横には、直径12~13センチ、深さ8センチぐらいのブリキの缶が置かれ、その中に、あめ色のこんにゃく糊がたっぷり入っている。各人の後ろには、それぞれのサイズの青緑色の透明がかった紙風船の断片が置かれている。風船の半球の部分を5人が調子を合わせて貼っていく。テープ状に巻かれた「かすがい」を適当に手でちぎりながら、貼りあがったら5人が一斉に掛け声を掛けて、前へ繰り出し、向こう側の列も同じ作業を行う。真ん中の教壇近くに、工場から出張して監督に座っている女工さんが、時々少なくなったこんにゃく糊の補給をする。
 紙風船にかすがいがきちんと糊付けされて、そこに水ぶくれのような気泡ができないよう10本の指で強く押し出すのだが、これがとても疲れる。手の関節に力が入るので、ここが硬く大きくなって、5本の指が閉じなくなり、皆5本の指を広げて、フランケンシュタインのような感じで歩いていた。
 来る日も来る日もこのような作業の繰り返しで、唯一の気晴らしは、昼食後、教室の真ん中に車座に集まって歌謡曲を歌うことしかなかった。軍歌などを歌う気分ではなく、昭和16年に作られた「蘇州夜曲」などの甘いメロディに涙を流しながら繰り返し皆で歌っていた。なぜ皆は涙を出していたのだろう。戦意高揚などとあおられ、またそれに従う姿勢を示しながら、心の中が索漠と荒れて、干天の慈雨のような甘さを求めていたのだった。
 教室の各サイドで作り上げた半球を真ん中で張り合わせると、直径10メートルほどの風船になる。それを皆で折りたたんで、かついで講堂に持って行き、それをまた広げてふくらませる。講堂の天井の高さが足りなくてつかえるので、完全な満球にはならない。そこここがしわの半満球の風船を、空気がもれないかと大ざっぱに検査して、最後は大勢で足で踏みつぶしたりして空気を押し出す。それを「某所」へ送り出し、テストをして、爆弾、焼夷弾、起爆装置等の装備装着をして、関東の発射台に向かうのだった。  (中略)
 今でも不思議でならないのは、数ヶ月続いたこの風船爆弾づくりの最初の1か月目に製紙会社から給料をもらったことである。たしか13円だったと記憶しているが、生まれて初めてもらった給料だというので、それを神棚に祭り、母はロウソクをたてて拝んだ。しかし給料はその一回だけで、あとは一銭も受け取らなかった。想像するに、何か手ちがいがあったのかもしれない。つまり、軍部が民間の紙会社に風船爆弾づくりを委託して、その仕事の一端を手伝った私たち女学生に会社が賃金を払った……。アウトソーシング、民間委託のやり方があの頃あったのだろう。軍部、勤労動員の女学生、総動員体制、と考えると、私たちに給料を払うことなど、会社は軍部に厳しく叱責され、それ以後はピタリと止んだのだろうか。とにかく、民間が一枚入るということで、少しのんびりした印象のある作業だった。
 会社に原紙が足りなくなったのか、風船爆弾づくりはだんだんヒマになってきた。この作戦計画そのものの変更もあったのか。このような秘密兵器を作っている、ということと、その材料が足りなくなってきた、というようなことで、日本は本当に大丈夫だろうか、との心配と、連日のB29の来襲の恐ろしさで、厭戦気分も深まってきていた。それに、これほど学校で勉強する機会を奪われることに対する不安、というより飢餓感に近いものもあった。(中略)
 紙がないので、また出征兵士の留守家庭へ農作業の勤労動員に出かけた。朝倉の四四連隊近くの農家だったが、昭和20年6月7日の昼前、私たちの第一高女がB29の空襲で全焼するのが山の上から見えた。7月4日の大空襲の前だったが、6月のもかなり大きな攻撃で、死者、家屋の焼失等、大きな犠牲を出した。
 こうした田植え、草取り、稲刈りにはかなりの勤労作業が当てられた。本当に農村には働き手がいなくなっていた。戦後、復員兵が帰ってきて、また農地改革も行われ、農作業のやり方も変わってきた。しかし、私には働き手のいないあの頃の農村の原風景が思い浮かんで、日本の農業の衰退には、戦争が大きく関わっているとの感が否めない。
 水田に入ると、水面に接するふくらはぎが、黒い輪でぐるりと囲まれたようになり、一体これはなんだろうとよく見ると、肌に食いついた「ひる」である。今でも水田にあれほどひるはいるのだろうか。
 また、ひもじい思いをしている食べたい盛りの私たちが農家へ勤労作業に行って何より嬉しいのは、昼ごはんを出してくれることだった。大きなおひつに白いごはんを山もり入れて、「さあ、たくさん食べてくださいよ」と置いてくれる。するとたちまち、ごはんの白い部分が見えないほど、真っ黒くなる。付近の牛舎からどっと飛んできた蠅の大群である。それを皆で忙しく手で払いながら平らげたものだった。
 朝倉での農作業のあとは、校舎も焼失し、風船づくりもできないので紙づくり作業になった。旭の紙工場へ出かけて、和紙づくりをやった。しかし、これが風船爆弾の原紙づくりなのかどうかよく分からなかった。風船爆弾による攻撃は昭和19年11月から20年4月初旬まで、と記録にあるから、その兵器製造は止まっていたと想像される。紙をつくってどうするのか、説明のない、理解できないことばかりであった。溶かした糊の中で和紙をすいていくのだが、工場の中は50度の暑さだった。中庭には手押しポンプが一台あり、私はそのポンプの水を頭からかぶっていつも耐えていた。
 8月15日の午前、工場長がふれて廻った。正午に大事なラジオ放送があるから、中庭に出るように。生徒も女工も入り交じって中庭に出た。私はポンプの前に立っていた。ラジオからは聞き取りにくいとぎれとぎれの声が流れてきて、戦争の終結を告げた。 

 【私も風船爆弾づくりに動員されました】

 『わが戦争体験の日々 往時を生きた89人の記憶』(二〇〇六年八月十五日発行。編集・『わが戦争体験の日々』編集委員会。発行・高知ペンクラブ) 

  紙風船    大谷 美壽

 昭和一九年、戦雲急を告げ、勤労令及び女子挺身勤労令が発令されて、男子一八歳以上は兵役に編入されることとなった。
女学校でも四年生全員、兵庫県の軍需工場へ徴用されていった。
三年生にも学徒動員令が施行され、県内工場(学校内)で作業を行うこととなる。
 厚い防空頭巾に血液型を表示した布を縫いつけ、胸に青い学徒動員章と名札をつける。
 通学には高知鉄道と省線を併用、高知駅には七時二〇分頃に着く。四時半起きで炊いたご飯に卵焼き弁当がちょっぴり暖かい。
三年生の半数は軍網作業で、桟橋通りの日本軍網会社より迷彩色された軍網が届き、用途に応じて切断、接合するなどしてカモフラージュを取りつける。先づこれを高知警察署と高知駅へこっぽり被せた。軍網は草原の偽装を凝らして敵の目を欺くもので、大部分は戦地に送られた。
 他の半数の生徒は、本館二階に隔離されて紙作業に従事する。これは風船爆弾の風船を作るもので、軍の機密漏洩防止のために、憲兵中尉が配属されていた。軍刀を引っ提げ、長靴の音高く周辺を睥睨して、余人の出入りを許さず、終日警戒の歩を緩めない。
 旭町の日本紙業が軍需工場として使用され、特製和紙が製造された。青々と透きとおり、滑らかに粘り強く分厚い上に防水加工が施されていた。
糊係が蒟蒻粉を水で溶き、大釜で根気よく練り合わせ煮詰めたものを各自に配る。
 作業工程の指導は女工の筒井さんであった。
 毎朝、朝礼があって廊下に整列して点呼を受ける。まず畏まって宮城遙拝し最敬礼。兵士のご苦労を偲べと真冬でもみな素足である。白鉢巻のいでたちで、誓詞を大声で斉唱。中尉殿の気に入らぬ時は、もっと気合いを入れんか、弛んどる、と怒鳴られて、寒さに身震いしながら幾度でもやり直しされた。
 運ばれた用紙は、半径が教室の入り口より出口までの長さで、一三、四人が横に並んで、延べられた原紙ともう一枚の原紙を貼り合わせるのだが、張り方が独特で、互いの糊代を打ち合わせて貼る時、糊代に糊をたっぷりつけて、貼った部分に糊が残ってはならぬという。両手指に渾身の力をこめて必死に糊を押し出す。派遣女工の気に入るまで、両手で押し広げては突き出す。彼女は自負と責任感から妥協は許さない。しっかり押して押して、真っ赤な指が反り返って元に戻らぬほどに繰り返して糊を出す。責任感で殺気立つほど緊張して、みな戦士の容貌である。
 やっと半円を貼り終わると、隣の教室の半円とを同じ要領で貼り合わせて球状とする。
 この風船に爆弾を仕掛け、水素を詰めて空高く揚げ、地球の自転作用によって目的地で爆発させるというものだったらしい。朝礼で中尉殿が、その成果を兵士たちが涙して喜んだと話すものだから、国のお役に立っているのかと、また精魂こめて作業に勤しんだ。
 やがて軍は、非効果的風船爆弾に見切りをつけたのか作業は中止され、県立蚕業試験場に駐屯する陸軍中隊へ壕掘り要員として派遣された。敵前上陸を視野に兵士と共に畚を担ぎ塹壕や蛸壺を掘る。戦闘状態は緊迫を告げ、海岸線添いに軍を配属強化、迎撃の構えである。(後略)

  空  襲   秋沢 淳子

 (前略) 旭の日本紙業工場へ紙風船作りに行く。工場の中は蒸気がみなぎり、その中で三角柱の鉄板の上に長方形の和紙を置く。コンニャク糊を大きな羽毛でのばし、上下、左右に塗ると羽毛で鉄板を押す。ぐるんと廻り二面の鉄板が出て来る。同じく塗り廻し三面にもまた塗る。三角柱の中には熱い蒸気が通り、始めの一面の紙は乾燥しているので、はがし集積場に持って行く。バケツに糊を一杯入れ持って来ては繰り返し和紙に糊をつけ羽毛で鉄板を押す。押すのにも力を必要とし熱い鉄板が空廻りする。正位置に戻しては和紙に糊を塗るが、パンと張った厚い丈夫な紙が出来る。隣の部屋では大きな風船に仕上げてゆく。これに爆弾を乗せ気流に乗り目的地のアメリカに落とす構想だった。(後略)

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高知市 詩 「ひさしぶりに会えた君のこと」。

 ひさしぶりに会えた君。

 娘より、一回り年下。

 「元気?」

 「元気です」

 でも、なんだか、顔がいつものように輝いていませんでした。

 失業中というから無理もありませんね。

 君のことだから、一生懸命に働いてきたと思います。

 しかし、何カ月か雇用して、ポイするシステムの中にいてうまくいっていません。

 ひどいよね。

 しばらく、僕たちと「未来をつくる仕事」をしませんか。

 こころよく参加してくれている君。

 すっごく、いい人だなと思います。

 涙が出るほどうれしい。

 今度、彼氏やみんなと一緒に飲みたいね。

 飲まないとだんまりの僕だけど、飲むとおしゃべり。

 君も少しアルコールが入ると陽気になるタイプみたいだから、ちょうどいい。

 いっぺん、陽気にやりましょう。

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2009.05.12

高知市 詩「クニョさん、ごめんよ」。

 きょうの昼間、君は、勝手な人間に連れて行かれて避妊手術を受けさせられてしまいました。
 人間どもは知らなかったようだけど、もう、君のお腹の中には子どもがいたのに。

 その日の夜中。
 「夜の学校」から帰ってきた「お父さん」は、よたよたと歩く君を見て両目に涙さえためていました。
 「ひどいことをしてしまったなぁ。ごめんよ。クミョ」
 

 でも、だまされてはいけません。
 「はよう、手術をしちゃって。妊娠して、子どもを産んだら、その子たちを処分するのがつらい」
 こういって、「お母さん」に君を手術台に乗せることをせかしたのは「お父さん」なんだ。

 

 人間どもの勝手で、ネコである君の幸せは、わやくちゃにされています。

 「お父さん」が寝ているうちに、君の鋭い爪を彼の首にグッサーッとたててやるがいい。

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2009.05.14

高知市 県立高知短期大学一年生の北村光寿さん(二八)の言葉。「死ぬ前に悔いが残らないような生き方をしたい」。

 夜中に、県立高知短期大学一年生の北村光寿さん(二八)が主人公の番組をDVDで見ました(TBSテレビ)。

 僕は、その短期大学の二年生で、六十二歳です。

 番組の中の、北村さんの言葉に感動しました。

 「命は無限ではないし、救ってもらったこの命だけど、いつか終わる日が来ると思うし、死ぬ前に悔いが残らないような生き方をしたい」

 両目から涙が噴き出ました。

 「死ぬ前に悔いが残らないような生き方をしたい」

 これは、ずーっと僕も考えてきたことです。
 妻は、僕の、この言葉を、いつも聞かされてきています。
 妻は、僕に、そのような人生を送らせてあげたいと思って、ずいぶんケアしてくれています。感謝。感謝。
 実は、この六月にも他の県の四年制大学への編入試験を受けるのですが、まあ、支援してくれています。
 ちなみに僕は六十二歳です。 

 それにしても、すごいね。この番組のスタッフ。
 何分もないコーナーでしたが、これほどの感動を発信できるなんて。
 
 僕もビデオカメラを、毎日のように持ち歩いていますが、こんな感動を伝える番組をつくりたいな。

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2009.05.17

高知市 県立高知短期大学の「春の広場」で「腕相撲大会」。

 昨日は県立高知短期大学では「春の広場」が開かれました。
 僕たちのサークルは「腕相撲大会」を主催しました。
 賞品はサークルの人の持ち寄りです。
 女子の一位は、僕より少し下かなと思われる一年生でした。
 そんなに強いと思わなかったので、「すっごーい」という感じでした。
 男子の一位は、十八歳の僕くらい体重がありそう人(ちなみに僕は八十五キロです)。ひょいという感じで迎うところ敵なしでした。
 ちなみに僕は一回戦で敗退しました。トホホホ……。

 その上、大会が終わった後、わがサークルの会長(僕よりかなり年下の女性)と腕相撲をやっていたとき、強い力でクイとやられて右腕を痛めてしまいました。トホホホ……。
 
 その後、後片付けをしていたら電気の延長コード(?)の巻きつけに失敗。
 同い年くらいの男性に「あんたは、乳母日傘(おんばひがさ)やからなぁ」といわれてしまいました。

 とんでもない。貧困家庭に乳母がいるはずはありません。
 「何にもできない」のは事実ですが、僕のは、この四十年来、妻におぶさって生きてきたことことが原因になっていてます。
 わが家では力仕事は妻の役割です。

 【注・乳母日傘】

 乳母が抱き、日傘をさしかけるように大切に、恵まれた環境で子どもを育てること。

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高知市 地域の老人会の総会が開かれました。

 午前中から地域の老人会の総会が開かれました。
 会長に選ばれました。
 「仕事もしていますので、妻もセットで会長ということでお願いします」
 と、いうことで了承していただきました。

 この老人会、僕たち夫婦が六十二歳で最年少。
 九十歳代の人もいます。
 県立短期大学では十八歳の人とも付き合っています。
 このところ、付き合いの年齢層が、かなり広くなりました。

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高知市 五時間かけて裏表のビラを完成させました。

 地域の老人会の総会が終わって、職場へ。
 前から懸案になっていた裏表のビラの仕上げです。

 データがいっぱいつまったビラです。
 二人の女性に校正などを手伝ってもらいました。
 間違いが、いっぱい見つかりました。
 五時間後に完成しました。

 かなり疲れました。
 しかし、充実感はあります。 

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2009.05.18

高知市 風船爆弾やーい。愛媛県四国中央市に。

 午前七時半に飛び出て、乗用車に乗せてもらって高知市から四国中央市へ。

 終戦時に満州(中国東北部)、同じく満州の高等女学校の生徒だった人、それに戦後生まれ、六十二歳の僕の三人組です。

 七月に高知市で開かれる「戦争と平和を考える資料展」の「高知の風船爆弾工場の少女たち」のコーナーの準備のためです。

 このテーマでの先進地・四国中央市でいろいろ教えてもらいました。

 ありがとうございました。

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高知市 夜の短期大学の「三時間目」のテーマは銭湯の歴史でした。

 午後から職場へ。

 裏表ビラの原稿の直し。

 万単位で印刷するビラの原稿です。

 しつこく直しています。

 「戦争と平和を考える資料展」の準備のための取材のお願い、二件。

 マスコミの取材依頼への対応。

 と、やっていたら、もう五時半。

 急いで県立高知短期大学へ。

 途中で、ラーメンセットを十分で食べました。

 六時の一時間目の開始にセーフ。

 本日は「三時間目」がありました。

 サークル「お湯部」の勉強会。

 部長が、銭湯の歴史を講義してくれました。

 「へーっ」「そうなんだ」という感じでした。

 

 今夜も妻は実家に「お泊り」。

 ネコのクニョと「二人」の藤原家です。

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高知市 勉強したい。でも、もう寝たい。うーーーん。「老年勤労学生」の悩み。

 いやはや、「老年勤労学生」の悩みは深い。

 いま県立高知短期大学の二年生です。

 昼間は、仕事や取材で飛んでます。

 夜は高知短期大学社会科学科の授業。

 そして、六月二十七日には、志望している四年制大学の編入試験があります。

 高知短期大学で学んでいる分野とは異なる学科への受験ですので、独自の勉強が必要です。

 で、夜中の三時ころまで勉強をやっています。

 が、つぎの日がしんどい。

 で、パタンと、すべてを放り投げて寝ることも……。

 うーん。

 今夜は、これから明日の英会話の授業の予習です。

 ばっちり勉強したい。

 でも、寝たい。

 うーん。

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2009.05.19

高知市 懸案の裏表のビラとポスターの原稿を印刷所に入れました。

 午前中、職場で。
 懸案だった裏表のビラとポスターの原稿を完成。印刷所にいれました。
 「やったーーっ」という感じです。

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高知市 風船爆弾工場に勤労動員されていたYOさんの知的好奇心。 

 午後、高知師範学校女子部の生徒として風船爆弾工場に勤労動員されていたYOさんが事務所にこられました。

 風船爆弾づくりのことを知っている男性二人に会ったことを話してくれました。
 さっそく、その二人に連絡をとり、YOさんと一緒によりくわしいことを聞きに行くことにしました。

 YOさんとは、この件の調査で、この間、いの町にも行きました。
 知的探究心がものすごく強くて、ひきずられてついていくという感じになっています。

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高知市 出会った素敵な女性は、恩師のお孫さんでした。恩師を思い出して涙、涙……。 

 午後、YOさんの来訪の後に、妙齢の素敵な女性が事務所にきてくれました。

 いろいろ、「こんなことも」、「このことも」と、最近とりくんでいることを話しました。

 最後のほうで、僕が高知大学の史学の学生だったこと、四年生になる前にやめたこと、経済学のSE先生にお世話になったことを話していたら、衝撃的な言葉が返ってきました。
 「SEは、私の祖父です」
 SE先生の「娘の娘」だというのです。

 実は、SE先生は、学生のころ講義を受講したというだけではなく、僕が学生自治会委員長などをつとめていた文理学部学生自治会の活動に精神的援助をしてくださったこと、教職員と学生が手を携えて大学の生活協同組合結成に向けての運動をやったときの「同志」だったこと……と僕にとって、とても大切な先生でした。

 僕は、「授業料滞納による除籍」の後、しばらくして、僕は、東京都で仕事につきました。その僕が同じ大学の一学年下の女性(東京都の公立中学校教師)と結婚するときに仲人をしてくれたのもSE先生夫妻でした。

 話していて、いまは亡きSE先生のことを思い出して僕の目は、涙、涙になってしまいました。

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高知市 二十三歳の未婚の女子学生からの「なぜ、結婚したのですか?」という質問。

 夜間の高知短期大学の授業が終わってから、屋外の喫煙所で、静かな議論が起きていました。

 二十三歳の未婚の女子学生から「なぜ、結婚したのですか?」という質問が発せられました。

 三十歳前半の幸せ女性が、答えていました。

 彼女より年下の結婚している男性の先生も議論に参入しました。

 六十二歳の自称「ロープ」で、ただいま学生の僕は「アルコールが入らないといえません」。

 いつか、「なぜ、結婚したのですか?」に正面から、きちんと答えたいものです。

 結婚してから、もう何年でしょうか……。

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2009.05.21

高知市 妻の一言 「私、新しいパソコン、買ったわよ」。

五月二十日。

 妻がいいました。

 「私、新しいパソコン、買ったわよ」

 ひえーっ。

 年金生活者なのに妻も大胆な……。

 一週間以上も前に注文したといいます。

 午後には、もう現物を手に入れてうれしそうにしていました。

 

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高知市 庭のビワが実りました。うれしい。

 庭のビワが実りました。

 二つちぎって、その場で食べました。

 「うまい」

 庭に果物の木があって、それを食べることができる。そんな暮らしが夢でした。

 夢が少しずつ実現していっています。

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2009.05.22

本日の高知新聞朝刊の十四面に「戦争体験者の証言 後世に  戦争遺跡保存ネット高知が小冊子」という記事が載りました。

 本日の高知新聞朝刊の十四面に「戦争体験者の証言 後世に  戦争遺跡保存ネット高知が小冊子」という記事が載りました。

 この雑誌の発行元は、わが職場。

 朝から問い合わせ、注文の電話がかなりかかってきたようです。

 僕は休みでしたが、職場から電話がかかってきました。

 「一号、三号はあるけど二号の在庫がない」

 「正午までに家にある分を持って上がります」

 職場について在庫を渡して、これからの取材の件で高知師範学校女子部で風船爆弾をつくっていたYOさんに電話すると「載っていましたね。私にもわけてください」。

 午後、二十五歳の女性・NAさんと、土佐高等女学校で風船爆弾をつくっていたNEさん宅に取材にいったら、NEさんが「出てましたね」。

 贈呈しました。

 この記事のおかげで、うれしい一日でした。

 そういえば、この間、TBSテレビ系の番組で僕の姿がほんの少し出たことがありました。

 県立短期大学の英会話の授業を一緒に受けている高知女子大学の学生からも「出ていましたね」。

 マスコミの力は本当にすごいですね。

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2009.05.23

高知市 十九歳の男性・HIさんからの電話 「ビザ、取れました。イギリスに行きます」。

 夕方、いま大阪にいる十九歳の男性・HIさんから携帯電話がかかってきました。

 「ビザ、取れました。六月にイギリスに行きます」

 何年か、働きながら見聞してくるそうです。

 英会話は「まだまだ」という彼ですが、「まだまだ」のまま行くというのがすごいですね。

 何年かして、いま以上にパワーを増した彼に再会したい。

 いまも、すっごいパワーです。

 彼が僕についていってくれたことを思い出します。

 「いま夜の短大にいっていて、これから大学に編入したいという藤原さんを見ていると、人生はけっこう永く楽しめるものなんだということを発見しました」(以上、正確でないかもしれませんが意訳です)

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高知市 六点入力音声パソコンに初めて触らせてもらいました。

 五月二十二日夜、六点入力音声パソコンに初めて触らせてもらいました。

 「すっごい」の一言です。

 しくみがわかりたいと思っています。

 【参考】

 http://members2.jcom.home.ne.jp/oomachi-komachi65/guidebook/mokuji.html

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高知市 終戦から十日くらいたったとき、神田(こうだ)で聞いた若い朝鮮人男性の美しい歌声。

  昨日、聞いた話です。

 アジア・太平洋戦争の最中、終戦の後の話です。

 高知市神田(こうだ)に朝鮮人の集落がありました。

 狭くて人々は横になって寝ることもできず、両足をかかえて座って寝ていました。

 終戦から十日くらいたったときのことです。

 神田に住む土佐女学校四年生の所へ、同級生が遊びに行きました。

 二人は田んぼの中で遊んでいました。

 すると土手のほうから若い朝鮮人男性の美しい歌声が聞こえてきました。「ララララ…」と響きわたる声でした。

 そして、彼は「日本、負けたね。ハハハ」と、だれにいうとなく、大きな声でいいました。

 あたりには彼女たちしかいませんでした。

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2009.05.24

高知県 伊野中学校の同窓会に誘われた夢。

 わけのわからない夢にうなされて起きました。

 高知県いの町へいったら道で会った女性から「藤原君やろう。伊野中学校で同級やった●●●●よ。あさって、担任の橋詰先生の追悼も兼ねて同窓会をやるき、きてや」。

 この女性も橋詰先生も思い当たることがありません。

 担任いうたら三年生のときの坂本先生は覚えちゅうが他の先生の名前は……。

 というところで目覚めました。

 起きてから考えました。

 坂本先生の下の名前も覚えていません。

 一、二年生のときの担任の名前も覚えていません。

 生徒たちも、ごく親しかった人十人ほどのことしか覚えていません。

 体操部の部長で一年上の三宮さん。

 以下、同年。

 津野君。

 野球部の見元君。

 卓球部の田村君。

 のちに町議になった岡田君。

 友草君。

 亡くなった藤岡君。

 家が店をやっていた沢田さん

 高校も一緒だった笠原さん。

 高校も一緒だった町田さん。

 高校も一緒だった●●さん。

 のちに教師になった●●さん。

 だいたい、卒業写真帳がわが家にあるのでしょうか。

 台風の土砂崩れで、実家の一部が埋まり、大学時代までの文書類はほとんどなくなっています。

 中学校三年間の記憶を再生したいなと思いました。 

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2009.05.25

高知県 八十二歳の女性・YOさんの知的好奇心に脱帽。

 五月二十四日。日曜日。

 八十二歳の女性・YOさんと、いの町へ風船爆弾の取材に。

 彼女が探し出した取材対象です。

 最初は、当時、高知県立城東中学校の生徒だった男性に。
 伊野国民学校の教室で城東中学校の計四人とともにコウゾの皮をむく作業をやったということでした。

 次に、いの町鹿敷に。その家にあった製紙工場で風船爆弾用の紙をつくっていたという話でした。お父さんの時代のことです。
 このテーマのほかに、すっごい話を聞きました。
 一九四五年一月、高知市の朝倉の連隊に召集になりましたが、練兵場でタコつぼを掘り、「爆弾」を持って本物の戦車(日本軍の中古のもの)に突撃する訓練をしていたということでした。

 高知師範学校女子部の生徒のとき、高知市旭の風船爆弾工場で風船爆弾づくりの作業をしていたというYOさんは、話を聞いていて「面白い」「面白い」を連発。自分がやっていたことの位置づけや関連がわかってきて感動しているというのです。

 この人、僕が新聞社の社長なら取材記者として採用したいと思いました。
 強烈な知的好奇心がある。これが新聞記者の最も大事な要素です。

 この人に引きずられるようにして六十二歳、男性も走っています。

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高知市 父親が高知県宿毛市の特別攻撃基地に国民兵として配属されていたという男性。

 高知市の平和資料館・草の家に広島県福山市から十人の来訪者あり。

 その中の一人が、すっごい話をしてくれました。
 父親が高知県宿毛市の特別攻撃基地に国民兵として配属されていたというのです。
 話をしていると、このかたは、父親からかなり聞き取ってました。

 一度、じっくり、この人のお話をお聞きしたいと思っています。

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高知市 きょう電話をいただいた山口県のかたへ。

 きょう電話をいただいた山口県のかたへ。

 すみません。
 実は「僕のパソコン事情」で、「この間」、あなたのアドレスもブログの接続もわからなくなっています。

 メールで、接続先を教えていただけませんか。

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高知市 六十二歳と十八歳が隣に座っての授業。

 夜、高知県立高知短期大学で。

 廊下で、後ろから「ドス」と圧迫してくる人がいます。
 「いってーなぁ。誰だ」

 十八歳の女性、TAさんでした。
 この間は僕のでっぱっているお腹をたたくし……。ま、これが彼女の「こんばんわ」のあいさつです。

 二時間目は一緒の授業。
 教室に入っていくと、すでに座っている彼女が「おいで、おいで」をします。
 隣に座りなさいというのです。
 で、隣に座って授業を受けました。

 なにせ僕は六十二歳。
 まわりにも珍妙なコンビとうつったことでしょう。

 二人の授業の受け方も違っていました。
 僕は先生のおっしゃったことを「すべて」メモをします。
 たぶん、ノートを見ながらだと先生の授業を再現できます。
 彼女は、メモは「ちょつこん」。
 でも、乗りのりで授業に参加していて、「感想カード」にもすごいことを書いていました。
 ふーんという感じでした。

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2009.05.26

高知市 六月六日に「世界反核平和運動 最新報告 スティーブン・リーパー氏講演会」。

 世界反核平和運動 最新報告 スティーブン・リーパー氏講演会

 
 6月6日(土曜日)午後1時~3時

 高知大学朝倉キャンパス共通教育棟2号館212番教室

 無料。どなたでも参加できます。

 主催=高知大学人文学部、高知大学経済学会

  【藤原のコメント】

 スティーブン・リーパーさんは日本語OKです。

 以下、スティーブン・リーパーさんについてのフリー百科事典『ウィキペディア』のデータ。

 1947年、生まれ。アメリカ・イリノイ州出身。

 父の仕事で、子どものころは東京で育った。

 大学時代はフロリダ 徴兵を回避するため平和主義者宣言を行った。

 ウェストジョージア大学大学院(臨床心理学修士課程)修了。

 日本語を学ぶため1984年に来日。

 1985 - 1986 年 広島YMCA 英語教師。

 1986年、広島市で、翻訳・通訳会社、有限会社トランズネットを設立。

 1998年 反核市民団体グローバル・ピースメーカーズ・アソシエーションを結成。

 2002 -2003 年 平和市長会議事務局 ニューヨーク連絡員。

 2003 -2007 年 広島平和文化センター 専門委員。

 2007年 広島平和文化センター理事長就任。


 父親ディーン・リーパーは、アメリカのYMCAから協力主事として戦後日本に派遣された。

 1954年9月26日、洞爺丸事故で日本人家族を助けるために自己の救命胴着を渡し犠牲となった。

 【関連記事】

http://mainichi.jp/select/wadai/heiwa/talk/news/20070806ddf012070007000c.html

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2009.05.27

高知市 高知市展に出品した写真、二枚。

 五月二十四日朝、高知市展出品のため写真を二枚、市展会場に持って行きました。「搬入」です。

 一つは、十九歳の男性の顔を正面からアップで撮ったものです。「十九歳、『僕のテーマは平和』」。

 もう一つは、ヤマシャクヤクの花の局部をアップしたものです。「花の中の語らい」。

 自分では傑作のつもりです。

 高知市展に、見に来ていたただけませんか。

 【高知市展について】

http://www.bunkaplaza.or.jp/jishu/09/siten/siten09.html

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高知県 こんなページがありました。僕の後ろ姿が写真に写っていました。

 http://www.news.janjan.jp/area/0904/0904141548/1.php

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高知県 こんなページもありました。ここでは僕の正面からの写真が載っていました。

http://mytown.asahi.com/kochi/news.php?k_id=40000130901230001

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2009.05.28

高知市 何とか朝型にしようと努力しています。

 最近、朝型にしようと努力しています。

 本日は、午前六時過ぎに起きて、昨夜の「経済学Ⅱ」のノートの整理をしました。

 六時半からはじめて午前八時に終了。

 さて、これからは老人会関係の集まりがあります。

 それからパソコン教室。

 授業。

 帰ったら次の日の「経営学」の試験の勉強をする予定です。

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高知市 スイカの収穫目標五十個。さて、うまくいくか……。

 夕方、またスイカの苗を買ってきて菜園に植えました。

 収穫目標五十個。

 さてうまくいくか……。

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2009.05.29

高知市 どなたか、模範解答をお寄せいただけませんでしょうか。「日本のコーポレートガバナンスにはどのような特徴がありますか」、「エージェンシー理論について説明してください」。

 何か頭が痛い。

 頭が論理的にできていないのか、「理屈」をのべなければならない問いに、うまくこたえられません。

 今夜の難問は、つぎの二つ。どなたか、模範解答をお寄せいただけませんでしょうか。

 1、日本のコーポレートガバナンスにはどのような特徴がありますか。

 2、エージェンシー理論について説明してください。

 いま午後十一時過ぎ、四年制大学への編入のための志望理由書を書いています。書き直しです。

 こんな弱い頭で合格できるでしょうか。

 トホホホホ……。

 ひとまず、今夜は日本史の本を楽しんでから夢の国にいくことにしましょう。

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2009.05.30

高知市 「わが庭の アジサイたちが 色づいて……」。

 わが庭の アジサイたちが 色づいて

 なんかいいこと

 ありそうな朝

 玄関先のテッポウユリも、今日か明日に咲きそうです。

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高知県 勾玉(まがたま)をつくったよ。いいでしょ。

 このところ高知県埋蔵物文化財センター(南国市)の講座にいっています。

 本日、三回目は勾玉(まがたま)づくりです。
 こんな石をけずって、こんな勾玉ができました。

 いま悦に入って首にかけています。Photo

Photo_2

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2009.05.31

高知市 わおーーっ、平和運動の人たちの飲み会で息子の恩人に出会いました。

 昨夜、平和運動の人たちが高知市柳町の某居酒屋の二階にあつまっているということでしたので押しかけました。

 二階に上がってびっくりしました。
 僕の知らない青年が三人参加していたのです。

 一人は大阪の女性MAさん、大阪の男性SEさん、そして高知の女性TAさん。
 女性MAさん、男性SEさんは新婚旅行の途中だといいます。
 MAさんとTAさんは東京の同じ大学にいっていたとのことです。
 

 SEさんは立命大学で政治学を学び、民科政治というサークルに入っていて……。
 年齢は少し上ですが、息子と同じ学科、サークルです。
 「もしかして……」と思って聞いたら息子が大変お世話になった、恩人でした。
 東京でおこなわれた息子の結婚式にも来てくださっていたそうです。
 二人は、息子夫婦の「動向」についてもくわしく知っていました。

 結婚のお祝いに、MAさんに、僕が午後につくった勾玉(まがたま)をプレゼントしました。
 

 TAさんは高知で働いている明るい人で、僕の知り合いの妹さんでした。

Photo

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