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2009.05.11

アメリカ空爆用自動飛行体が高知でもつくられていました 調査のための文献 【その二】 

 【元主計大尉・鈴木正二さんの証言】

 『写真記録 風船爆弾 乙女たちの青春』(一九八五年三月発行。編集・林えいだい。発行所・あらき書店)

  鈴木生紙の調達

  大阪陸軍需品支廠元主計大尉 鈴木正二

 風船爆弾のことを我々は○ふ作戦と呼んでいました。
 終戦と同時に、上部の命令により○ふ作戦に関する一件書類その他、証拠となると思われるものは総て急いで焼却しました。さらに、米国本土を爆撃した唯一の兵器(米国ではこれこそ本当の無差別盲爆撃だと非難していたと聞かされていましたので)でありました。
 あの有名な七三一部隊(石井部隊)と同じく、幹部将校は戦犯に指名逮捕されるのではないかとの心配もあり、風船爆弾に関する物証は私の手元に残っておりません。
 昭和十九年の五月か六月頃、突然、陸軍需品本廠長より私(大阪需品支廠勤務、主計中尉)に対して、至急上京せよとの極秘命令があり、驚いて東京本廠に向かいました。
 これが秘密兵器○ふ作戦の原料和紙である生紙(きがみ)の生産整備命令でありました。
 例の如く型通りの戦意高揚激励の後、帝国緒戦の華々しい勝利は残念ながらどこへやら、正直いって次第に劣勢となりつつあり、いまや守戦一方に転じた現在の戦局を、一気に挽回できる新兵器が、こんど第九陸軍技術研究所(登戸)で開発完成された。それは直径十メートルにおよぶ紙製の風船爆弾である。一万メートルの上空を恒常的に、西から東に流れる亜成層圏気流に乗せて飛ばし、これに時限爆弾を装備して米本土上空で爆発するように仕掛けた。
これを風船爆弾と呼び、○ふ作戦と命名した……云々。いうまでもなく極秘作戦である故、その点は十分注意すること。
 ついては紙類の調達整備を所管する需品本廠に、原紙生紙の生産調達を命じられた。君がその責任担当官だということでありました。
 これには本当に驚き、非常に緊張したことをいまでも憶えております。当時、本廠の直接担当責任者は、慶応大学出身の若い井手佐重少尉でした。
○ふ作戦に関しては、廠長以外は極めて少数の関係者だけで、同部隊内でも知る者ものは殆どいなかった筈です。勿論、大阪支廠に於ても同様で、支廠長高木大佐、調達科長田中大尉、直接担当の鈴木中尉三人のみでした。

 風船一球に六百枚   

 その後、直ちに全国の各生産県への割り当て数量、月別の配分量などについて細かい打ち合わせを何回か行いました。
 風船一個に要する生紙が六百枚で、風船の第一次目標数が二万五千個か、二万個くらいだったと思います。
 日本に於ける生紙の主要生産地が、私の大阪支廠管内に集中していたのです。高知県(土佐紙)、鳥取県(因州紙)、岐阜県(美濃紙)の三県です。
従ってこれら三県にあった県立紙業試験場長を、それぞれ軍の嘱託にしていろいろと現地での技術の指導援助を仰ぎました。高知場長は高橋技師、鳥取場長は小(こう)位(じ)技師、岐阜場長は加藤技師の三人でした。
 生産数量の割り当ては、従来の三県の実績、設備その他に照らして、およそ高知七、鳥取二、岐阜一の割合にしたと思います。従って、生産割り当ての多かった高知県が、その中で一番苦労が多かったでしょう。
 私も高知県には毎月一回は情報収集、生産督励に出張しました。高橋場長は生粋の土佐人でお酒が好きなので、貴重な配給の酒を目立たないように、水筒に詰めて持参したものでした。
 また、手漉き工場の工員さんには、無理して少しばかりの石鹸を土産に持って行き喜んでいただきました。
 高知県では、時の高橋知事婦人も寒中冷たい小川の流れにはいって、コウゾの皮むき精製に率先して従事されたことを高橋場長から聞いて、すごく感激したこともあります。
 和紙の生産業者は、殆ど零細企業の家内工業的でありましたので、先ず第一に苦労したのは、いままでと違って規格がぐっと大きいことでありました。とても手漉きでは無理だとの声もありましたが、なにぶんにも軍の絶対命令ということでみんな頑張ったわけです。
 そのため業者によっては、原液の水槽から簀の子から全部揃えねばなりませんでした。
 紙を漉くということは全身の力を要する重作業でしたので、女性には重労働だったと思います。それでも、お国のために敵本土を爆撃する新兵器の原紙の材料をつくるのだと、みなさんが頑張ってくれたので、納期に遅れたことは一度もありませんでした。
 前述した通り私の管内主力は高知県でしたので、同地での仕事始めの激励会には、支廠長高木六郎大佐も同行していただき訓示されました。
 その中で高木大佐が、「我が国は神国である。紙は神に通じるのです。昔から日本人は和紙を非常に尊い神聖な物として大切に扱ってきました。神社の御幣や奉書に、そして巻物に……。いま、この紙が神となって神国の危機を救おうとしているのです」と訓示しました。このことが強く印象に残っています。
月末の納期近くなると、心配で落ち着かず、各地を回って督励と情況の把握に努めました。
 また、後半には高知に下士官一人を常駐させ、自転車で駆け回ってもらいました。
 二十年になると、手漉きだけでは間にあわず、機械漉きも始めるとの内命があり、兵庫県の三菱製紙高砂工場に調査打ち合わせに出張、報告書作成中に○ふ作戦は中止となり、機械漉きの件は実現しませんでした。

 【佐川高等女学校の生徒たちも動員されて……】

 『いま「記憶の証言」送ります あの日8月15日』(一九八八年発行。編・自分史かわら版編集室。発行・永野和宏)

   佐川高女の生徒と私

      坂口 智恵(旧姓細木)

 (前略) 昭和十八年に東京女子体操音楽学校を卒業した私は、その四月から私立神戸野田高女に勤め、昭和十九年からは、母校である佐川高女に勤めていました。昭和十九年の第一学期は寮の舎監をしながら授業を行いました。それが、佐川高女の生徒が学徒勤労動員の対象となってからは、私は生徒と共に学校の外に出ることが多く、同僚は五、六人しか覚えておらず、もっぱら働く生徒たちの姿を見ることにとどまりました。生徒の仕事は次の三つなのです。
伊野の製紙工場での皮そぎ、泉大津での飛行機のプロペラづくり、三つ目は朝倉の営所での看護婦の仕事でした。
 伊野の製紙工場へ通い始めたのは、昭和十九年の九月からでした。まずは自転車で通える人が選ばれ、汽車で通った人もいました。
 仕事の内容はコウゾやミツマタの樹皮の、紙になる白い部分を取り出すわけですが、表皮はぶ厚く、枝分かれした部分はやりにくいのです。節もあります。注意深く見つめながら、何度か同じところをやらないと、プツンと黒っぽい皮が残ってしまうのです。こうして出来た白い部分を小さく切断し、煮沸させて薄い丈夫な紙をつくっていくのですが、この紙で風船爆弾をつくって遠くまで飛ばすとなると、このプツンと残った黒い部分から空気がもれるわけで、この点がもっとも厳密にチェックされ、何度もやりなおしをさせられることかあるのです。(中略)
コウゾやミツマタは、生徒のゴムの前かけの上にのせられるまでに長時間蒸され、柔らかくなって、水びたしのまま運ばれてきます。それを一本ずつ膝の上にのせ、右手に鋭い刃物を持って押しつけ、左手で強く引っぱりながらこそいでいくのです。両手ともに相当な力をこめなければできない作業でした。同じ姿勢で同じ動作を繰り返しながら、やがて秋は深まり、水は容赦なく彼女らの身体を冷やしました。
 この仕事は生徒にとって、もちろん初めての仕事ではありましたが、仕事に馴れるまでには好奇心があり、あれこれ会話をかわしながら楽し気にやっていましたが、次第に言葉は少なくなっていきました。疲れとあきらめだったのでしょうか。勝たねばという思いだったのでしょうか。
 この頃のことで忘れられないことがあります。通い始めた頃は学習への意欲が旺盛で、教科書を持って工場へ出掛け、時間があれば勉強していたのです。それが、ある日、はっと気が付いたのは、手に持っている本が教科書から雑誌の類にかわっていることでした。また、作業中の静けさにくらべて、休み時間のにぎやかさ、工員たちと仲良くなり、言葉使いがそっくり工員風になっていたのです。環境の影響を思いながら、やりきれない淋しさを感じたものです。
 熾烈な戦争の真っ直中で、こんな仕事をしても大して役にはたたないだろうと思われましたが、ほんの僅かでも、戦争のために、日本のために働いているという意識が、生徒や私を支えてくれたのであろうと考えられます。(後略)

 【陸軍航空本部より輸出和紙株式会社に軍命】

 『私本土佐和紙物語』(一九九二年四月二十日発行。河野剛久。発行・河野製紙株式会社)

 (前略) 我が国はこの未曾有の大戦争を遂行するために、国力の全てを軍需生産に集中したが、アメリカ軍潜水艦の攻撃による南方地域との海上交通の途絶が致命的で原料、資材は払底し、兵役のために国内の労働力不足も深刻であった。
 主原料である化学パルプは戦時体制下では製紙以外の用途も多く、十四年にはすでに入手困難となり、政府は国家統制による配給機構の確立を急いだが、これに先立ち高知県においては自主的にパルプ売捌業者の統合を計り、十五年二月一日高知県製紙用パルプ商業組合の設立が認可された。同組合は十九年七月に、商工組合法が実施せられて組合存続の意味を失うまで活動した。
 同じころ、パルプ同様に入手の難しかった苛性曹達、曹達灰、晒粉などの薬品についても、円滑な供給を目的としてそれぞれ高知県製紙用曹達工業薬品配給組合と高知県製紙用晒粉組合が設立された。
 こうした厳しい状況の中、高知製紙は陸軍及び海軍の指定工場となったので、優先的に原料や資材の割り当てを受け、薄葉紙類を中心に呉工廠、光工廠、大阪福崎倉庫などへ向けて連日旭駅から製品を送りだした。
 十九年の初め、陸軍航空本部より輸出和紙株式会社に対し、丸フ(まるふ)作戦に協力するよう軍命が下り、同社の山岡茂太郎氏は久原某氏ほか女子従業員十名を伴って東京蒲田の国産科学工業株式会社に赴き、内密の訓練を受けた。輸出和紙(株)は日本紙業と三浦商工の両社の典具帖紙部が昭和十六年に合併して設立された会社で漉き槽の数も多く技術も高かったので、丸フ作戦の主役として期待されていた。埼玉県小川町の製紙試験所で、楮一〇〇パーセントの「生紙(きがみ)」と呼ばれた厚手典具帖紙の製造指導を受けて帰高した両氏は、秘密裏にいわゆる風船爆弾の気球原紙の手漉きによる試験漉きを行うとともに、生産手段の確保を急いだ。
 河野楠一はこの情報をキャッチするや、得意の「因州美濃四幅」の技術を駆使し伊野工場において機械漉きに成功、直ちに機械漉きの一巻を背に、東京へと急いだ。
 陸軍航空本部にこの試験漉きを見せると、しばらく待たされた後、憲兵に連行された楠一は、情報の入手等に関して二、三日取り調べを受けた。後に楠一は「後にも先にも、あれほど怖かったことはなかった」と当時を語った。
 その後、陸軍航空本部の了解のもとに伊野工場において生紙の製造を行い、巻き取りを関東方面に出荷し続けたが、生紙の機械漉きに成功したのは全国で高知製紙ただ一社であったと聞く。
 これが縁となって、楠一は軍部との関係を深め、頻繁に出入りして軍関係の仕事を受注するとともに、資材の配給等に関して特権を与えられることもあった。
 ともあれ、生紙増産の軍命に、知事、市長夫人をはじめ全家庭の主婦に楮の黒皮へぐりが割り当てられ、遊女までがこの作業に動員された。また、第一高女や土佐女子の校庭は直径十メートルの風船玉の貼り合わせ加工に使用された。
 この生紙には後日談があって、終戦直後この紙が残っていると戦時犯となるという噂が流れ、周章狼狽、巻き取りを障子紙や半紙版に裁断した会社もあったという。 (後略)

 【南国市国府の城東製紙でも……】

 『南国史談 第十二号』(一九九二年四月。発行・南国史談会)

   国府地区の製紙業について

      西田 楠男

 ○城東製紙工場
(前略) 昭和十八年に軍需工場に指定され、風船爆弾用紙の製造が終戦まで行われた。(後略)

 【「奉仕活動で最初にやったのは気球爆弾作りです」】

 『語りつぐもの――国府地区戦争体験記』(二〇〇五年四月一日発行。編・国府地区戦争体験記編集委員会。発行・国府地区地域活性化協議会)

   戦争と平和

      大石 千恵子(昭和3年生)

  (前略) 高知市の学校へ通学するようになった時に太平洋戦争が始まり、私達学徒は奉仕活動に行くことになりました。毎日のように警報のサイレンが鳴ると、敵のB29が一万メートル上空を通ります。はじめのうちは幸い上空を通過するだけでしたが、飛行機の音を聞いただけで本当に恐ろしく戦争は嫌だとつくづく思いました。
 奉仕活動で最初にやったのは気球爆弾作りです。何十人もの生徒が一列に並びコンニャク糊で外張りをします。直径十メートル程もある大きな風船ですから大変です。外張りが完全に乾いたら次は“万球”です。出来た風船を膨らましてみることを万球と言っていました。このように大変な作業もお国の非常時と思えば皆一生懸命でした。しかしこれが米国まで飛んで行って害を与えることがあったでしょうか。私達は知る由もありません。
 そういう毎日の活動に出るのに一番困ったのは足でした。当時靴は配給制で入手困難ですし自転車はノーパンですから使いものになりません。仕方なく毎朝六時前に家を出て下駄履きで後免駅まで歩きました。往復十キロメートル程歩くので下駄も長持ちしません。半月に一足の割で下駄が必要でした。今から六十年も前の事で、ちなみに後免高知間の汽車賃は半年間で十五円六十銭でした。満員の汽車にゆられ勝つことを信じて毎日通ったことでした。(後略)

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