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2009.05.11

アメリカ空爆用自動飛行体が高知でもつくられていました 調査のための文献 【その三】。

 【県立高知第一高等女学校での風船爆弾づくり】

 『高知・20世紀の戦争と平和』(二〇〇五年八月十五日発行。編・「高知・20世紀の戦争と平和」編集委員会、高知・空襲と戦災を記録する会。発行・平和資料館・草の家)

 風船爆弾    池川 順子  

 聖戦遂行、勝利への大きな切り札の一つとして、それは考えられていた。私たちの間では「風船爆弾」などという言葉は使われなかったが、作業をしていく中で、そういうものだということは直ぐに分かった。単純だけれども珍しい仕事だった。
 女学校3年の15歳だった。これからは毎日学校へ出てきて作業をしてもらいます、ということで始まった。思い出しても、軍部が学校に入ってくることはなく、民間の紙会社の人の出入りで行われた。
 3年生の甲乙丙丁の4組のうち、2組が軍服づくりを体育館にミシンを持ち込んでやっていたが、「被服ぐみ」と呼ばれていた。あとの2組が風船爆弾づくりである。
 教室の机や椅子をうしろに積み上げて床を広くして、南側に5人、北の廊下側に5人が、ぞれぞれ1メートルの間隔をあけて座り、この2組は向き合っていた。各人の横には、直径12~13センチ、深さ8センチぐらいのブリキの缶が置かれ、その中に、あめ色のこんにゃく糊がたっぷり入っている。各人の後ろには、それぞれのサイズの青緑色の透明がかった紙風船の断片が置かれている。風船の半球の部分を5人が調子を合わせて貼っていく。テープ状に巻かれた「かすがい」を適当に手でちぎりながら、貼りあがったら5人が一斉に掛け声を掛けて、前へ繰り出し、向こう側の列も同じ作業を行う。真ん中の教壇近くに、工場から出張して監督に座っている女工さんが、時々少なくなったこんにゃく糊の補給をする。
 紙風船にかすがいがきちんと糊付けされて、そこに水ぶくれのような気泡ができないよう10本の指で強く押し出すのだが、これがとても疲れる。手の関節に力が入るので、ここが硬く大きくなって、5本の指が閉じなくなり、皆5本の指を広げて、フランケンシュタインのような感じで歩いていた。
 来る日も来る日もこのような作業の繰り返しで、唯一の気晴らしは、昼食後、教室の真ん中に車座に集まって歌謡曲を歌うことしかなかった。軍歌などを歌う気分ではなく、昭和16年に作られた「蘇州夜曲」などの甘いメロディに涙を流しながら繰り返し皆で歌っていた。なぜ皆は涙を出していたのだろう。戦意高揚などとあおられ、またそれに従う姿勢を示しながら、心の中が索漠と荒れて、干天の慈雨のような甘さを求めていたのだった。
 教室の各サイドで作り上げた半球を真ん中で張り合わせると、直径10メートルほどの風船になる。それを皆で折りたたんで、かついで講堂に持って行き、それをまた広げてふくらませる。講堂の天井の高さが足りなくてつかえるので、完全な満球にはならない。そこここがしわの半満球の風船を、空気がもれないかと大ざっぱに検査して、最後は大勢で足で踏みつぶしたりして空気を押し出す。それを「某所」へ送り出し、テストをして、爆弾、焼夷弾、起爆装置等の装備装着をして、関東の発射台に向かうのだった。  (中略)
 今でも不思議でならないのは、数ヶ月続いたこの風船爆弾づくりの最初の1か月目に製紙会社から給料をもらったことである。たしか13円だったと記憶しているが、生まれて初めてもらった給料だというので、それを神棚に祭り、母はロウソクをたてて拝んだ。しかし給料はその一回だけで、あとは一銭も受け取らなかった。想像するに、何か手ちがいがあったのかもしれない。つまり、軍部が民間の紙会社に風船爆弾づくりを委託して、その仕事の一端を手伝った私たち女学生に会社が賃金を払った……。アウトソーシング、民間委託のやり方があの頃あったのだろう。軍部、勤労動員の女学生、総動員体制、と考えると、私たちに給料を払うことなど、会社は軍部に厳しく叱責され、それ以後はピタリと止んだのだろうか。とにかく、民間が一枚入るということで、少しのんびりした印象のある作業だった。
 会社に原紙が足りなくなったのか、風船爆弾づくりはだんだんヒマになってきた。この作戦計画そのものの変更もあったのか。このような秘密兵器を作っている、ということと、その材料が足りなくなってきた、というようなことで、日本は本当に大丈夫だろうか、との心配と、連日のB29の来襲の恐ろしさで、厭戦気分も深まってきていた。それに、これほど学校で勉強する機会を奪われることに対する不安、というより飢餓感に近いものもあった。(中略)
 紙がないので、また出征兵士の留守家庭へ農作業の勤労動員に出かけた。朝倉の四四連隊近くの農家だったが、昭和20年6月7日の昼前、私たちの第一高女がB29の空襲で全焼するのが山の上から見えた。7月4日の大空襲の前だったが、6月のもかなり大きな攻撃で、死者、家屋の焼失等、大きな犠牲を出した。
 こうした田植え、草取り、稲刈りにはかなりの勤労作業が当てられた。本当に農村には働き手がいなくなっていた。戦後、復員兵が帰ってきて、また農地改革も行われ、農作業のやり方も変わってきた。しかし、私には働き手のいないあの頃の農村の原風景が思い浮かんで、日本の農業の衰退には、戦争が大きく関わっているとの感が否めない。
 水田に入ると、水面に接するふくらはぎが、黒い輪でぐるりと囲まれたようになり、一体これはなんだろうとよく見ると、肌に食いついた「ひる」である。今でも水田にあれほどひるはいるのだろうか。
 また、ひもじい思いをしている食べたい盛りの私たちが農家へ勤労作業に行って何より嬉しいのは、昼ごはんを出してくれることだった。大きなおひつに白いごはんを山もり入れて、「さあ、たくさん食べてくださいよ」と置いてくれる。するとたちまち、ごはんの白い部分が見えないほど、真っ黒くなる。付近の牛舎からどっと飛んできた蠅の大群である。それを皆で忙しく手で払いながら平らげたものだった。
 朝倉での農作業のあとは、校舎も焼失し、風船づくりもできないので紙づくり作業になった。旭の紙工場へ出かけて、和紙づくりをやった。しかし、これが風船爆弾の原紙づくりなのかどうかよく分からなかった。風船爆弾による攻撃は昭和19年11月から20年4月初旬まで、と記録にあるから、その兵器製造は止まっていたと想像される。紙をつくってどうするのか、説明のない、理解できないことばかりであった。溶かした糊の中で和紙をすいていくのだが、工場の中は50度の暑さだった。中庭には手押しポンプが一台あり、私はそのポンプの水を頭からかぶっていつも耐えていた。
 8月15日の午前、工場長がふれて廻った。正午に大事なラジオ放送があるから、中庭に出るように。生徒も女工も入り交じって中庭に出た。私はポンプの前に立っていた。ラジオからは聞き取りにくいとぎれとぎれの声が流れてきて、戦争の終結を告げた。 

 【私も風船爆弾づくりに動員されました】

 『わが戦争体験の日々 往時を生きた89人の記憶』(二〇〇六年八月十五日発行。編集・『わが戦争体験の日々』編集委員会。発行・高知ペンクラブ) 

  紙風船    大谷 美壽

 昭和一九年、戦雲急を告げ、勤労令及び女子挺身勤労令が発令されて、男子一八歳以上は兵役に編入されることとなった。
女学校でも四年生全員、兵庫県の軍需工場へ徴用されていった。
三年生にも学徒動員令が施行され、県内工場(学校内)で作業を行うこととなる。
 厚い防空頭巾に血液型を表示した布を縫いつけ、胸に青い学徒動員章と名札をつける。
 通学には高知鉄道と省線を併用、高知駅には七時二〇分頃に着く。四時半起きで炊いたご飯に卵焼き弁当がちょっぴり暖かい。
三年生の半数は軍網作業で、桟橋通りの日本軍網会社より迷彩色された軍網が届き、用途に応じて切断、接合するなどしてカモフラージュを取りつける。先づこれを高知警察署と高知駅へこっぽり被せた。軍網は草原の偽装を凝らして敵の目を欺くもので、大部分は戦地に送られた。
 他の半数の生徒は、本館二階に隔離されて紙作業に従事する。これは風船爆弾の風船を作るもので、軍の機密漏洩防止のために、憲兵中尉が配属されていた。軍刀を引っ提げ、長靴の音高く周辺を睥睨して、余人の出入りを許さず、終日警戒の歩を緩めない。
 旭町の日本紙業が軍需工場として使用され、特製和紙が製造された。青々と透きとおり、滑らかに粘り強く分厚い上に防水加工が施されていた。
糊係が蒟蒻粉を水で溶き、大釜で根気よく練り合わせ煮詰めたものを各自に配る。
 作業工程の指導は女工の筒井さんであった。
 毎朝、朝礼があって廊下に整列して点呼を受ける。まず畏まって宮城遙拝し最敬礼。兵士のご苦労を偲べと真冬でもみな素足である。白鉢巻のいでたちで、誓詞を大声で斉唱。中尉殿の気に入らぬ時は、もっと気合いを入れんか、弛んどる、と怒鳴られて、寒さに身震いしながら幾度でもやり直しされた。
 運ばれた用紙は、半径が教室の入り口より出口までの長さで、一三、四人が横に並んで、延べられた原紙ともう一枚の原紙を貼り合わせるのだが、張り方が独特で、互いの糊代を打ち合わせて貼る時、糊代に糊をたっぷりつけて、貼った部分に糊が残ってはならぬという。両手指に渾身の力をこめて必死に糊を押し出す。派遣女工の気に入るまで、両手で押し広げては突き出す。彼女は自負と責任感から妥協は許さない。しっかり押して押して、真っ赤な指が反り返って元に戻らぬほどに繰り返して糊を出す。責任感で殺気立つほど緊張して、みな戦士の容貌である。
 やっと半円を貼り終わると、隣の教室の半円とを同じ要領で貼り合わせて球状とする。
 この風船に爆弾を仕掛け、水素を詰めて空高く揚げ、地球の自転作用によって目的地で爆発させるというものだったらしい。朝礼で中尉殿が、その成果を兵士たちが涙して喜んだと話すものだから、国のお役に立っているのかと、また精魂こめて作業に勤しんだ。
 やがて軍は、非効果的風船爆弾に見切りをつけたのか作業は中止され、県立蚕業試験場に駐屯する陸軍中隊へ壕掘り要員として派遣された。敵前上陸を視野に兵士と共に畚を担ぎ塹壕や蛸壺を掘る。戦闘状態は緊迫を告げ、海岸線添いに軍を配属強化、迎撃の構えである。(後略)

  空  襲   秋沢 淳子

 (前略) 旭の日本紙業工場へ紙風船作りに行く。工場の中は蒸気がみなぎり、その中で三角柱の鉄板の上に長方形の和紙を置く。コンニャク糊を大きな羽毛でのばし、上下、左右に塗ると羽毛で鉄板を押す。ぐるんと廻り二面の鉄板が出て来る。同じく塗り廻し三面にもまた塗る。三角柱の中には熱い蒸気が通り、始めの一面の紙は乾燥しているので、はがし集積場に持って行く。バケツに糊を一杯入れ持って来ては繰り返し和紙に糊をつけ羽毛で鉄板を押す。押すのにも力を必要とし熱い鉄板が空廻りする。正位置に戻しては和紙に糊を塗るが、パンと張った厚い丈夫な紙が出来る。隣の部屋では大きな風船に仕上げてゆく。これに爆弾を乗せ気流に乗り目的地のアメリカに落とす構想だった。(後略)

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