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2009.05.11

アメリカ空爆用自動飛行体が高知でもつくられていました 調査のための文献 【その一】 丸の内高校、土佐女子高校などのみなさん、先輩たちの話ですよ。

 一九四四年(昭和十九年)から四五年(昭和二十年)にかけて、日本ではアメリカ空爆用自動飛行体・風船爆弾がつくられていました。
 高知でも風船部分がつくられていました。
 そのことを示す文献を集めました。このことを、もっとくわしく調査するうえで役立ててほしいという思いからです。
 その前に、少し風船爆弾の概略を書きます。
 関東の第九陸軍研究所で研究していました。
 気球に爆弾を積み、一万メートル前後の上空に上げ、偏西風に乗せて、約八千キロ離れたアメリカへ飛ばして、爆弾の雨を降らせようという計画でした。
 初めて飛ばしたのは四四年十一月三日。福島、茨城、千葉の各県の十四カ所から翌年二月にかけて約一万五千個が空に消えていきました。
 なお[ ]内は記者の注です。

 【土佐高等女学校での風船爆弾づくり】

  『五十年のあゆみ』(一九五二年十月三十日発行。発行者・土佐女子高等学校、土佐女子中学校。編集者・山崎熊吉)

 
  (前略) 本県で作つたものは紙の風船で、本校【土佐高等女学校】の外第一高女、高坂高女などに作業が課せられた。その作業は原料たる楮(かうぞ)の表皮を除くいわゆる「くさへぐり」から、工場ですいた原料紙の検査、更にこんにやく糊(のり)をつかつて原料紙を直径十米の大風船に貼(はり)合わせる作業である、四五年生が動員されてからは、三年生以下で之を行い、講堂を工場に代用し、校庭で之に高圧の空気を充たして強度を実験するなどもやつた。後には市内旭町に工場が出来て、そこに通勤した。本校生徒の製作成績は常に良好であつた。(後略)

 注・同校では、一九四四年十一月、四年生は兵庫県加古川の日本毛織加印工場に、五年生が兵庫県伊丹の大阪機工猪名川工場に動員されました。いずれも軍需工場です。

 【バルーンの満球試験工場を建設して……】

  『土佐紙業史』(一九五六年三月三十一日発行。編著者・清水泉。発行所・高知県和紙協同組合連合会)

 (前略)当時の日本紙業界の動向を見てみると、まづ昭和十九年三月には生紙と名づけられた純楮製薄葉紙の生産が挙国的に行はれた。最も此の生紙は、本県の徳平元太郎氏が最初やまと紙と称して之れが一般に通用していたが、土佐では和紙統制会社を代表する土佐和紙共販株式会社が同社の倉庫を陸軍需品廠の生紙倉庫に当てて県内産紙の取扱いに任じ、更に其の七月には、高知市旭町三丁目九四番地(現西日本パルプ敷地)に科学加工紙株式会社を設立すると共にバルーンの満球試験工場を建設して所謂風船爆弾の製造に著手した。
 此のバルーンは当時東京都蒲田区にあった国産科学工業株式会社代表者小林三男氏が国吉貞吉,浜田裕両氏の援助を受けて製造し、其の生産高は日産三十球と云はれた。従つて生紙の生産は益々急を要し、業者は殆んど昼夜兼行の状態にあつたが、一方原料方面に於ても、生紙の生産と並行して多事多端となり、原料商畠中宗太郎,西川庄太郎両氏が主となって各家庭に黒楮皮を割りあて、知事、市長夫人はもとより、凡そ高知市に家を持つ者に対しては、殆ど全部に此の皮へぐりの労役が課せられた。
 此の皮へぐりの労役は、独り高知市のみでなく、漸次軍の命令によって高岡、伊野、佐川等の製紙工場を持つ地域に対しても課せられたが、当時科学加工紙株式会社に,巴塘,玉水新地等の遊女が動員されて、不器用な手つきで皮へぐりの労役に就事したのは、戦争の生んだ逸話としてあまりにも最名である。
 県立第一高等女学校の講堂及び土佐高等女学校の校庭は、生紙の加工、風船玉の製造に使用せられ、女学生が此の作業に当つていたが、此処へはたとへ警察署長と雖も絶対に立ち入る事を許されなかつた。
 勤労動員の事務所は、時の陸軍兵器行政本部高知監督班長西本務が、絶対権力を行使して県立紙業試験場に置き、勤労動員課長橋田光明氏が軍の管理官を兼ね、又紙業試験場長高橋亨氏も臨時陸軍技師に兼務されて、科学試験を使命とする紙業試験場も全く軍一色となり、サーベルと軍靴の音で明けては暮れた。
 高岡、伊野、安芸、香宗、久礼田等の各加工工場も、勿論軍部の指揮下におかれたが、高岡の福原弥太郎、森沢栄喜氏らが海燃衛帯原紙並びに蒸気パイプ保温紙を製造したのも此の頃であり、また伊野町の土井昌左衛門氏が、海軍省経理部の命により動員女工に与える綿紙を造つたのも此の頃であつて、当時の土佐紙業界が軍と関連を持つに非らざれば、仕事が出来なかつたのは言を俟つまでもない。
 紙業試験場が軍靴のもとに蹂躙された十九年六月二十六日,同試験場の西隣にあつた典具帖紙加工組合は、其の調薬室から火を発して加工工場を全焼し、再び起つ能はざる打撃を蒙る等、土佐紙業界は全く騒然たるものがあつたが、また一方には、軍の要請によって紙製品による新しい軍需品が、工業化すると否とにかかはらず次々に考案された。即ち高知航空工業株式会社の純楮を以て抄造した手漉西の内一号によるガソリン補助タンクの製造がそれであり、又高岡郡越知町百瀬竹紙工業所の、アルカリ法による竹の粗製紙等もそれであつて、前者は工業化の域に達せず、後者は少量の塵紙を海軍に納入したのみでいづれも廃止したが、これ等は其の巧拙は別として、資源に乏しい我が国将来への研究課題の一つとして好個の例ではあるまいか。

 
 【第一高等女学校 朝から晩まで日曜も返上して……】

  『蛍雪八十年』 (一九六七年二月二十六日発行。永富実。発行・高知県立高知丸の内高等学校同窓会)

  (前略) 十九年五月本校[高知県立第一高等女学校]は軍需品生産の下請け工場に指定されたゆえ県外にゆかない居残り組は二班にわかれ体育館で軍需品の生産にあたった。一斑は体育館にミシン百台をすえつけて軍服、シヤツ、袴下をつくった。白鉢巻をしめてミシンを踏んで競争させられたものである。あわてて手にミシンをかけた生徒もいるほどであったが皆緊張して働いた。他の一斑は講堂を工場として当時秘密兵器とされていた「風船爆弾」をつくった。勿論授業はなく朝から晩まで日曜も返上して働いた。この頃は艦載機の空襲も度々あったので登校時は頭巾をかぶり米一合、ほうたい、ヨーチンら自分でつくったカバンに入れ、これをかけて登校した。(後略)

 【土佐高等女学校グラウンドなどで張り合わせて……】

 『土佐和紙物語』(一九七三年九月一日発行。西沢弘順、
朝日新聞高知支局。発行所・高知県製紙工業会)

  (前略) モンペにゲタ、「神風」と染め抜いたはち巻をしめた女学生がもくもくとある作業を続けた。場所は、校庭。作業の手順はまず、畳一枚大の板にコンニャクノリを塗って紙を張る。太陽でかわかし、その上にまたノリを塗って紙を重ねていく。それをつなぎ合わせ巨大な袋に。作業は早朝から夜遅くまで続いた――昭和十九年から二十年にかけてのこと。これこそ「ふ号兵器」の名で呼ばれた風船爆弾づくり風景だった。(中略)
 気球用紙の材料に土佐和紙もとりあげられた。県紙業試験場には、陸軍兵器行政本部高知監督班の事務所が置かれた。当時の試験場長だった高橋亨さん(七〇)が臨時陸軍技官として、紙づくりの指導に、軍の監督官補(曹長)だった土佐市高岡町京間の製パン会社社長高石馨さん(五六)が、紙の検査主任になった。二人の話をもとに風船爆弾のてん末をつづってみると――。
 手すき業者は当時、約八百戸もあったが、十八年九月ごろから、すべてコウゾを原料とした気球用の生紙(きがみ)すきを命じられた。高知市など全家庭の主婦が、コウゾの皮へぐり(黒い表皮を取除く作業)に動員された。すきあがった紙は、県内の主な二十工場、高知市旭町三丁目の国産工場(旧高知パルプ敷地)や第一高等女学校(丸の内高校)土佐高等女学校(現土佐女子高校)グラウンドなどで張合わせて原紙をつくった。
 風船の直径は十メートル、重さ七十五-八十キロ。ラッカーで迷彩塗装し、月に十-十五個ずつ東京へ送られた。水素ガスでふくらませた風船に親指大のロープで五キロの焼い弾四個と十五キロの爆弾がつるされた。アメリカに到着する時間を計算して自動爆破する装置をつけた。別に、重さ二キロの砂袋を三十二個ぶらさげた。どうしても水素ガスは少しずつ風船の表面から逃げるので、途中で一定以上に高度が下がった場合、自動的に砂袋を落として風船が偏西風帯に戻る工夫もした。(後略)

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