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2009年6月

2009.06.02

高知市 僕が県立高知短期大学の新入生HOさんのことをうたった短歌が高知新聞に載っていました。

僕が、県立高知短期大学の新入生HOさんのことをうたった短歌が高知新聞五月十五日付朝刊、学芸欄「ローカルジャーナル」に載っていたそうです。

 六月一日夜、気づきました。

 作品は、以下のとおりです。

 入学の四日目にして呼びかけてサークルつくったすごい十八

 勝手に主人公になってもらっていました。

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高知市 息子の恩人夫婦と、わが家で飲みました。

 五月三十一日夕方、Оさんが新婚の妻MAさん、夫SEさんを、わが家に連れてきてくれました。

 主に夫SEさんとビールを飲みました。

 二人ともいい人でした。

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2009.06.03

高知市 今夜の短歌。「仲間との 心のもつれが あったよう 元気十八 迷いの最中(さなか)」。

 六月ニ日は、いろんなことがありました。
 僕の中の結論は、「若い衆も、わが世代も前を向いて歩んでいこうよ」。

 万を超す ビラを届ける いとなみで わが夕までの 仕事が終わる
 
 編入の 試験の手続き 面倒で 仕事の合間 ジリジリしてる

 仲間との 心のもつれが あったよう 元気十八 迷いの最中(さなか)
 
 「ああ、つらい」 年上の友 落ち込んで なぐさめる術(すべ) 検索してる

 「高齢化、いいことだよね。長寿でね」 社会進歩の 大きなうねり

 「ツレだから やって当然」 いいたげな 妻に駆使され 夜中の印刷

 ツレには、彼女が十八歳のころから、本当にお世話になっています。

 僕が、ほんの少し協力することなどちっぽけな恩返しだとは思いますが……。

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高知市 県立高知短期大学存続を求める学生の会の新しい方針。

 県立高知短期大学存続のための運動をやっています。

 二日夜、県立高知短期大学存続を求める学生の会の新しい方針が決まりました。

 それをメールをやりとりして、いま、それを具体化する文書を仕上げました。

 三日午前一時過ぎです。

 夜には学内でビラが配布される予定です。

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高知市 「キャンディ キャンディ」に感動。

 真夜中にアニメの主題歌を語るテレビ番組にひきつけられて寝れないでいます。
 とくに「キャンディ キャンディ」に感動。

 【伴奏を聴けて歌詞のわかるサイト】

 http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/candycandy.html

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2009.06.05

高知県 高知県政は、一県議の「とんでもない思い込み」のために高知短期大学をつぶすのですか。

 私は、県立高知短期大学の学生の一人として「存続を」の運動をしてきました。

 六月三日、県の「県立大学改革にかかる永国寺キャンパス検討会」の会議が開かれました。このなかで高知短大は廃止することを前提とした県当局の案が出され、複数の委員から「存続を」の意見が出ました(これは傍聴者から聞いたことです)。

 県は、これまでも廃止の方向をしめしてきましたが、「なぜ廃止するか」の適切な理由を示せないできています。
 それもそのはずです。それが、ある県議たちの「とんでもない思い込み」から出た方針だからです。

 私が、そのことを知ったのは、二月四日のことでした。高知短期大学存続を求める学生の会の五人(私もふくめて)が、この日午前、高知県議会で森田英二県議(自由民主党)と、高知短期大学存続運動について懇談しました。その席上、私たちの「あなたは、なぜ高知短期大学をなくそうとしているのか」という質問に、森田県議は、つぎのように答えました。
 「高知短大が偏向した教育をしてきちゅう。共産党しか育たん。県費を投入して偏った人間が育ってくる。純粋な気持ちで来た人が、教べんをとる人にすりこまれるのはかなわん。公費を投入する先生が色をつけてもろうては困る」
 唖然(あぜん)としました。
 私は、そういう「とんでもない思い込み」でこのことにのぞむのは間違いだということ、「偏向」うんぬんは事実として存在しないことを指摘しましたが、彼は納得しませんでした。

 この森田議員、昨年九月三十日午前の高知県議会本会議の質問で、高知短期大学について、つぎのようにのべました。
 「加えて永国寺キャンパスには短大問題があります。
 高知短大は夜間の短大として勤勉意欲にあふれる多くの学生を集め、これまで本県の人材養成に大きな役割を果たしてきました。
 しかしながら、全国的に短大への進学率は低下し続け、高知短大も学生確保に苦慮しているのが実態のようであります。
 さらに、職業についている学生の率も50%ほどとなり、高齢の学生が増えるなど、その役割も近年、変化してきているようであります。
 私は、現在、この短大が果たしている役割というのは、これまでの社会人教育から、若者にとっては四年制大学へのステップ、また、高齢者にとっては生涯学習の場へと変化してきているように思います。
 このようなことから、以前のような高知短大の役割はすでに終わっており、私たちとしましては、当然、今回の大学改革の中で廃止もふくめて見直しが必要だと考えておりますが、知事の、ご所見を、おうかがいいたします」

 私は、この質問にたいして「高知短期大学存続を求める学生の会」のホームページで、つぎのように反論しました。

 ひとこと、いわせてください。
 「高知短大は夜間の短大として勤勉意欲にあふれる多くの学生を集め、これまで本県の人材養成に大きな役割を果たしてきました」
 これは、そのとおりですね。
 「しかしながら、全国的に短大への進学率は低下し続け……」と、議員はおっしゃいます。私は、そのデータは知りませんが、短期大学一般でものをいうのは、どうかと思います。「県立で、夜間で、社会科学を学ぶ」、そういう高知短期大学のような短期大学が、どういう動向なのか、それを示すべきだと思います。
 「職業についている学生の率も50%ほどとなり、高齢の学生が増えるなど」と、おっしゃいましたね。
 「50%ほど」というのは、どうも合点がいきません。
 私も調べてみましたが、どうも、これは、高知短期大学が、新入生の入学手続きの際に調べたデータのようです。
 十代、二十代の学生たちは、その後に、仕事についています。
 私の実感では、ほとんどの学生が、何らかの形で働いています。
 貧しい日本、高知の現実が、それを強いています。夜間の短期大学生が働かずに学べるほど、日本の現実は甘くありません。
 「高齢」の私自身、貧しすぎる年金では食べていけなくて午前九時から午後五時半までの仕事をしているのですから。
 「この短大が果たしている役割というのは、これまでの社会人教育から、若者にとっては四年制大学へのステップ、また、高齢者にとっては生涯学習の場へと変化してきて」、だから……とおっしゃいましたね。
 ことしの入学者の百三人を年齢別に紹介します。
 1 二十歳未満            四十人。
 2 二十歳から二十四歳    二十四人。
 3 二十五歳から二十九歳  五人。
 4 三十歳から五十九歳    二十三人。
 5 六十歳から六十九歳   八人。
 6 七十歳以上          三人。
 1、2の学生たちの中で四年制大学を目指している人が多いのは事実です。
 経済的的理由などで高校卒業時に大学に進学できなかった人たち、高校を卒業せず大学入学資格検定を受けて合格した人たち……が一生懸命勉強してチャレンジしています。
 私は「一生懸命みずからの道を切り開こうとしてい、すごいなぁ」と、尊敬の心を持って、そうした若い学生の姿に接しています。そんな姿に接して感激の日々を過ごしています。
 こうした学生たちの存在を「高知短大の役割はすでに終わっており…」の理由の一つにするのですか。
 4の人たちもがんばっています。「経済人」といわれる人、経営者もいます。公務員もいます。スキルアップのために、四年制大学への進学のためにと奮闘しています。
 私は5、6に入っています。十一人中の一人です。あなたのいわれる「高齢者」でしょうか。この中には、ずーっとあなたに投票し続けてきた学生もいます。
 この歳になって短大で勉強なんて……と、いわれるのでしょうか。
 私は、やっぱり、少し年上のこの世代の学生と濃い付き合いをしていますが、この世代の「ここで学んで、これからに生かしたい。できれば四年制大学にも」という気迫には圧倒されています。
 「若い世代」、「働き盛りの世代」、「もうひと働きの世代」の、どの世代にとっても、高知県立高知短期大学はチャーミングな学び舎です。

 でも、森田県議の「本音」は、「偏向」うんぬんにあったのです。
 「私たちは、こんなとんでもない思い込みの議論と対じしていたのか」
 この議論が橋本県政の議論になり、いまの尾崎県政の議論になっている。何とも嘆かわしいことではないでしょうか。
 高知短期大学の存続は、正当な理由もなしに「とんでもない思い込み」で、輝いてる学び舎をなくすのか、それとも……という民主主義の問題として問われています。
 
 なお、高知短期大学存続を求める会のホームページは、つぎのところにあります。ご訪問いただければ幸いです。

 http://www.kochijin.com/f0f0tandai/

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2009.06.06

高知市大津 わが庭にイタチ(?)がいたという情報。

 夜、わが家に帰り着いて一息ついているとネコの「クニョ」がものすごい勢いで庭から家に突進してきました。

 妻は「イタチとたたかっていたのでは……」。

 妻は、午前九時前、二階からイタチが庭の菜園をするするすると走っている姿を見たといいいます。

 わが庭にイタチが生息していたのか。
 一度、お合いしたいものです。

 以下、イタチについての解説。

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%81

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高知市 ちばてつやさんの素敵な言葉。「戦争の『残酷な現実』を、できる限り後世に伝えていきたい」。

 妻も僕も、「しんぶん赤旗」日曜版の玄間太郎記者のファンです。
 妻は「これは…、というインタビュー記事を見たら『玄間太郎記者』と書いてある」と、いいます。

 六月七日の「しんぶん赤旗」日曜版の「ひと インタビュー」、漫画家の、ちばてつやさんも玄間さんの記事でした。
 記事の最後の、ちばさんの言葉が素敵でした。

 「戦争は残酷なものです。憲法9条を変えようという動きもあります。改憲したら、戦後大切にしてきたものが、がらがらと崩れてしまうのが怖いのです。戦争の『残酷な現実』を、できる限り後世に伝えていきたい」

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2009.06.07

高知市大津 「うちにある全身指圧マッサージ機をあげる。WAさんが、あんたんくへ運んでくれる」。

 午前中からオートバイで高知市の某居酒屋のおかみさんの自宅へ。
 乗用車のWAさん(この居酒屋で知り合った女性)と一緒です。

 「うちにある全身指圧マッサージ機をあげる。WAさんが、あんたんくへ運んでくれる」
 ということでしたので、甘えてしまいました。

 WAさんに、わが家に運んでいただいたマッサージ機、使ってみたらいい感じ。
 気持ちよくって寝てしまいそう。

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高知市 アメリカ人の夫婦の高知市訪問。

 六日、七日とアメリカ人の夫婦が高知市を訪問。

 六日夜、お二人を居酒屋へ案内したり(十数人の集まりになりました)、翌日午後、奥さんを計三人で桂浜に案内したりというのが僕の役回りでした。

 ご夫婦とも日本語で話されるのですが、英語の達者な人とは英語で話しています。
 僕も早く「英語使い」になりたいものだと思いました。

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高知市 庭の二本のヤマモモの木に実がなりました。

 わおーーっ、うちの庭の二本のヤマモモの木に実がなりました。
 七個を初収穫。まだ、ちょっとすっぱかった……。

 高知に帰ってきた数年前、高知市九反田に住んでいたころ日曜市で買った木です。

 庭のビワ木の実は、もうなくなりましたので、今度はヤマモモが僕のごちそうです。

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高知市大津 うちの前の田んぼにシロサギが五羽きていました。

 午後二時、うちの前の田んぼにシロサギが五羽きていました。

 この地では、しばらくは、アオサギ一羽だけで、その後、シロサギもニ羽来始めていました。
 「例年に比して少ないなぁ」と思っていましたが、五羽とはうれしいことです。

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高知市 県外の四年制大学文化財科に願書を郵送しました。

 四年制大学の編入試験が目の前です。

 午後、県外の四年制大学文化財科に願書を郵送しました。
 第一志望の大学です。

 いまのところ、「大丈夫。あなたなら通りますよ」といってくれているのは一人だけ。あとは「まぁ、無理やろうけんど……」。

 夜はつめた勉強をしようと思っています。

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2009.06.08

高知市 僕の小学校三年生の友だち、SA君。

 僕(六十二歳)には小学校三年生の友だちがいます。SA君です。

 職場の昼休みに彼と二人で弁当を持って高知市の城西公園にいきました。
 二人とも自転車です。

 屋根のある所で食事しました。うまい、うまい。
 「ちょっと待って、いいことがある」
 しばらくして彼は、彼の自転車のカゴに乗せてあったに真っ赤に熟れたヤマモモの実をもってきました。
 「一つだけ、あげる」
 とっても優しいヤツです。

 彼は一年生の途中から学校にいっていません。
 その原因はわかりませんが、釣りとかいろんなことを楽しんでいる彼を見ていると、彼にとっては、学校にいくよりもっと楽しいことがあるからではないかと思えてなりません。

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高知県 年上の同級生・K子さんの勉学への姿勢に学びたい。 

 年上の同級生・つまり、わが「夜の学び舎」の二年生のK子さんのことを書きます。
 確か六十二歳の僕よりかなり上です。
 おだやかな女性です。

 昼間の仕事で疲れているとは思いますが、どの授業も前のほうで一生懸命聞いています。

 土曜日夜のサークルの会のとき、報告者は彼女でした。
 配布された彼女の報告書を見て、びっくりしました。
 ワードですが、いろんな技法をこらしたカラーのとっても見やすいものでした。

 一年生の前期に情報処理の授業を一緒に受けましたが、そのときの彼女は初心者という感じでした。
 その後、すごい努力をしたのだと思います。

 月曜日のきょう、二時間目の授業でいっしょになりました。
 かなり疲れた様子でした。
 聞くと一時間目の授業の報告者になっていて前夜、「一睡もしないで」報告書をつくったといいます。
 何てことを。十八の娘さんではあるまいし……。
 授業が終わってから、彼女の一時間目の報告書を見せてもらいました。
 ばつぐんのものでした。

 課題に向かって全身をぶっつけるように努力するK子さん。すごい。
 でも、今夜は、ぐっすりと眠ってください。

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2009.06.09

高知市 尊敬する先輩、梅原憲作さんが、六月八日に逝去されました。

 尊敬する先輩、梅原憲作さんが、六月八日午後十時亡くなりました。

 現職は、高知・空襲と戦災を記録する会会長、平和資料館・草の家顧問、ピースウェイブ2009in高知実行委員会顧問です。

 三月に、梅原さんの戦争体験をビデオ撮影させていたただきました。
 私が編集長をつとめる雑誌『高知人』に梅原さんの歌集を載せさせていたただいたばかりです(この号は校了になっていて印刷を待っています)。
 
 通夜、十日夜六時から
 葬儀、十一日午前十時~十一時
 会場、高知市鴨部のベルモニー(土佐道路の北、西高校の南)

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高知市大津 隼人(はいと)老人クラブの「月刊 ほがらか」一号。

 わが地域の隼人(はいと)老人クラブの「月刊 ほがらか」一号が十日付で発行されました。
 A4判裏表のささやかな新聞ですが、地域のきずなを結びあうミニコミになっていくと思います。

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2009.06.10

高知市 短歌十首 「六月十日の朝のこと」。

 六月十日の朝のこと

休館日、勉強デーと心得て どっからやろうか思案している

絶好の雨に打たれて いまスイカたちツルを広げる

雨の中、庭のヤマモモ少し採り 朝飯前のお腹に入れる

「小論文、添削送る」 先生のメールがあって「次へ進もう」

「わが会のニュースつくって」先達の依頼の電話 つい引き受る

「受験票、いま着いたとこ」 本番に臨む思いを胸に織り込む

フキ、ミズナ、豚肉などもぶち込んで わが朝食はいま鍋の中

「朝のうち、あと一問を解いとくか」 参考書など集めて積んでる

仏像の本読み解いて 二時間で修羅立像わが稿に立つ

「あんた、きょう、短歌の締め切り。わかっちゅう?」 妻にいわれてうたの世界に

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高知市 僕と「クニョ」と妻との関係。

 ネコの「クニョ」が僕にまつわりついてきました。

 「もしかして、クニョは僕が好きなのかしら」(なぜか、このごろ女言葉です)

 「違う。あんたの持ってる(あぶった)スルメが好きなだけ」

 これは、男っぽい妻の発言です。

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2009.06.11

高知市 植民地時代の朝鮮のこと。

 陶芸教室に行ってから、四万十町へいきました。

 ある女性から、植民地時代の朝鮮のことを聞きました。

 「ああ、こういうふうだった」と思いました。

 詳細は、のちほど。

 夜、高知短期大学へ。

 家に帰ったら妻はいませんでした。

 そういえば、実家に泊まるといっていました。

 少し勉強をして、映画を見ました。

 「僕の大事なコレクション」。

 ちょっと不思議な映画でした。

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2009.06.12

高知市 「啄木の父 石川一禎(いってい)終焉(しゅうえん)の地に歌碑」の建設予定地。

Photo_2

 JR高知駅南口の「啄木の父 石川一禎(いってい)終焉(しゅうえん)の地に歌碑」の建設予定地を見に行きました。

 写真の案内板が立っていました。
 「啄木の父 石川一禎終焉の地に歌碑を建てる会」(会長・高橋正。高知ペンクラブ会長)が立てたものです。

 同会は九月に歌碑を建設する予定です。
 歌碑に刻む短歌は次の二首です。

 寒むけれど衣かるべき方もなし
 かゝり小舟に旅ねせし夜は

                 一禎         
 
 よく怒(いか)る人にてありしわが父の
 日ごろ怒らず
 怒れと思ふ

                 啄木
    
 募金を振り込むには、以下の3口座のいずれかでどうぞとのことです。

 * ゆうちょ銀行(郵便局) 01610・8・84517(啄木の父 石川一禎終焉の地に歌碑を建てる会)
 * 四国銀行 本店 普通口座 1733670(高橋 正)
 * 高知銀行 本店 普通口座 3002386(高橋 正)

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2009.06.13

高知市 Can & can’t と聞かれて「できないことばかり……」。

 「英会話初級」の授業の予習をやっています。
 「Can & can’t」の所です。
 いろんな項目がありますが、できることがほとんどありません。

 【できること】

 お好み焼きをつくること(最近は、やっていませんが…)
 日本語を話すこと(土佐弁ですが…)

 【少しならできること】

 水泳(昨夏、一回、プールで泳いでから泳いでいませんが…)
 ボウリング(昨年から二回やりました)
 歌うこと
 絵を描くこと(昨年、彫塑をやったときデッサンしたら、それなりの絵になっていましたが…)
 腕立て伏せ十五回(やってみたら、できました)

 【できないこと】

 ダンス
 将棋(子どものころは、やっていましたが…)
 サッカー(高校のときは、授業でしょっちゅうやっていましたが…)
 ミシンかけ(子どものころは、やっていましたが…)
 アイススケート
 ゴルフ
 バスの運転
 スケートボード
 スキー(一度やって、こりました)
 ケーキを焼くこと(やればできると思いますが、やったことがありません)
 中国語を話すこと
 剣道
 三キロ走ること
 二十キロ走ること
 英語で歌うこと
 空手

 六十二歳。いままで、何をやってきたのでしょうか。シクシク…。
 これから少しずつ「できること」を増やしていきたいと思いました。

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2009.06.14

高知市 藤原義一、六十二歳の近況。 

 メールありがとうございました。
 ごぶさたしています。
 いかがお過ごしですか。
 近況を書かせていただきます。

 二〇〇七年十二月に四十年つとめた職場を退職しました。
 
 いまの仕事は、平和資料館・草の家(高知市)の事務局員です。
 七月に高知市で開かれる戦争と平和を考える資料展に「高知の風船爆弾高場の少女たち」を展示する予定で、数人で準備しています。
 今年から雑誌『高知の戦争 証言と調査』を出し始めました。今月、やっと四号がでました。

 水曜日が休館ですが、その日は英語を教えてもらいにいっています。先生と生徒二人です。この日はパソコン教室にもいっています。いまはパワーポイントを学んでいます。

 夜は、県立高知短期大学社会科学科にいっています。二年生です。
 勉強の方は、今週は三科目試験があって少しあわてています。
 それと、あせっているのは四年制大学の編入試験の準備です。県外の文化財学科です。実は二十七日が試験日で、もう受験票も手元にあります。しかし、まだ自分でも合格地点に立っていないことを実感しています。 

 県立高知短期大学大学存続の運動もやっています。
 以下のページをご覧ください。

 http://www.kochijin.com/f0f0tandai/

 インターネット署名をしていただけれは幸いです。
 十六日締め切りで文集をつくる予定で、その編集を担当しています。

 それと、この五月から、地域の老人会の会長もつとめています。

 陶芸教室にもいっています。どうしても自己流になってしまい、なかなかいいものができません。
 短歌は、月一回、月刊誌に投稿しています。
 写真は、本日終わった高知市展にも二点出展していました。この分野でもいい作品をと思っていてます。

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2009.06.15

高知市 「本土決戦下の高知」での上陸用舟艇や戦車に爆弾を抱えて飛びこむ訓練。

 アジア太平洋戦争のときの「本土決戦下の高知」で兵士はどんな訓練をしていたかを調べています。

  何人ものかたから「上陸してくるアメリカ軍の上陸用舟艇や戦車に爆弾を抱えて飛びこむ訓練をしていた」と聞きました。

 高知市の浦戸海軍航空隊の陸戦隊長だった岡村虎彦さんは、四十人ほどの兵士に、こうした訓練をさせていたといいます。

丸亀中部一四九部隊護土二二七五六部隊浅野隊本部幹部候補生だった竹内務さんは、戦車に特攻する訓練の様子を日記に書きとめていました。

 高知市朝倉の陸軍連隊に召集された大西正之さんの一九四五年六月十一日の日記にも、その様子が書かれています(『高知の戦争 証言と調査』第三号。戦争遺跡ネットワーク高知)。

 「練兵場で間接照準の演習をやる。直ぐ傍[かたわら]で戦車肉迫攻撃を演習している。……」

 別の兵士によると、ここにあった旧式の日本陸軍の戦車を相手に爆弾を抱いて突っ込んでいく訓練だったそうです。

 大西さんは、七月五日、錦第二四四五部隊に転属になり、県下新宇佐町に駐屯します。ここで、みずからも戦車肉迫攻撃を繰り返しています。

 あの日本の戦争は、このように兵士の命を消耗品と考えたものだったのか。調べが進んでいくごとに悪寒を覚えます。

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2009.06.17

高知市 雑誌 『高知の戦争 証言と調査』六号は、ストーリー漫画です。

 雑誌『高知の戦争 証言と調査』(ことし一月創刊)は、ようやく四号が出て普及中です。
 いま五号が校了になっています。

 六号を、六月十五日から編集中です。
 この号は、A5判、三十二ページのストーリー漫画です。
 高知大空襲の被害者の証言を「戦争を知らない世代」の女性が「聞き描き」してくれました。
 七月三日発行。
 値段は二百円の予定です。

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高知市 苦手な科目の小テスト。結果は……。

 十六日夜、二時間目は小テストでした。
 苦手な科目だったので、準備が大変でした。

 ● 娘と同じくらい歳の学生にノートを借りて、自分のノートと照らし合わせました。
 ● ノートと資料などを見ながら分からない用語などをインターネットで調べて、「脈絡」がわかるようにしました(これが前夜のことでした。というか、午前三時ころまで……)。
 ● 十六日、職場を一時間ほど早引けさせていただきました。一時間半ほど懸命の勉強。
 ● 小テストは二十分。「うーん、うーん」とうなりながら書きました。

 結果は十五問中、ミスは一か所。うっれしーーーっ。

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2009.06.18

高知市 二十七日に四年制大学への三年次編入試験をひかえている身なのに……。

 いやーっ。僕は何をしているんだろう……。

 二十七日に四年制大学への三年次編入試験をひかえている身なのに、ちっとも、そのことに集中できていません。
 たとえば、休館日で仕事が休みの、十七日の動き方。

 ● 「学生の会」の文集の原稿をメールでもらって、メールでやりとり。
 うーん、午前三時、寝るしかない。

 ● 妻は、早朝から東京へ。
 僕は食事もとらないでオートバイで高知市升形の職場へ。

 ● 午前九時半、職場で二人と話し合い。高知大空襲を絵にする件。

 ● 午前十時、職場で二人と話し合い。高知大空襲を漫画にする件。

 ● 午前十一時、英語の勉強。先生一人、生徒二人。

 ● 午後一時過ぎ、職場で高知県の風船爆弾づくりの展示について打ち合わせ。

 ● 職場で弁当を食べていた女性に少しわけてもらって空腹をいやしました。

 ● うどん屋に駆け込んで、うどんをかきこみます。

 ● 高知市福井へ。文学関係のニュースづくりの打ち合わせ。

 ● 高知市大津の自宅に帰って、一時間ほど昼寝。

 ● 韓国旅行のための文書を作成。

 ● 文集の原稿を入力。

 ● 夜の学校へ。

 ● 前日、若い女子学生からかりた某大学の三年次編入試験の問題集をコピー。

 ● Iさんから文集の原稿を受け取りました。

 ● 一時間目、経済学。

 ● 休み時間にUさんから文集の原稿を受け取りました。

 ● 二時間目。英語。

 ● 韓国旅行のための文書を提出。

 ● Rさんと編入について対話。

 ● コンビニで食料などを買い込みました。

 ● 帰宅。まずは、菜園の水やり。

 ● 文学関係のニュースの版下を完成させました。

 ● 編入のための勉強、約二時間。

 ● Sさんからメールで文集の原稿。文集編集のための作業。

 ● 編入のための勉強。

 うーっ、もうすぐ午前三時です。

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高知市 高知短期大学の学生たちの文集のゲラつくり。 

 午前中、高知短期大学の学生たちの文集のゲラつくり。

 この文集、A4判で五十ページになりました。
 来週前半には完成にこぎつけたいものですが……。

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高知市 「江戸時代の鎖国について、知っていることをできるだけ詳しく記述し、あわせて自分の考えを述べよ。」。

 今夜は、「江戸時代の鎖国について、知っていることをできるだけ詳しく記述し、あわせて自分の考えを述べよ。」という問題を考えています。

 一応書きました。
 しかし、いまいちです。
 これから本を一冊読んで、明日、書きなおそうと思っています。

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2009.06.19

高知市 藤原家語辞典 ① 「みみごぜごぜ」。

 最近、造語に、こっています。

 まずは、これ。
 「みみごぜごぜ」。  

 この何年間か妻との間だけで使っている単語です。

 使用するのは、だいたいが朝風呂あがりのときです。

 「みみごぜごぜ、ある」
 「所定の位置」
 「あんたの所定の位置はどこよ。いっつもかわっちゅうけど」
 という感じで使っています。

 耳をほぜる綿棒のことです。

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高知市 藤原家語辞典 ② 「歯ぁ、ごぜごぜ」。

 「歯ぁ、ごぜごぜ」。

 これも、妻にしか通用しない言葉です。

 ツマヨウジのことです。

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高知市 藤原家語辞典 ③ 「余裕くしゃくしゃ」。

 「余裕くしゃくしゃ」。

 余裕がなくなって、頭の中が、くしゃくしゃなっている状態です。
 「余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)」の反対です。

 現在の僕の状態です。
 追いまくられて、余裕をなくし、何が何だかわからない状態を指します。

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2009.06.20

高知市 わっ、東京にいるはずの妻が帰っていました。

 十九日夜、家に帰ると様子が変。

 なんと、東京にいっていた妻が帰っていました。

 何だ、何だ、帰ってきたんだという感じでした。

 東京では息子夫婦の家、娘夫婦の家と泊まり歩いたとのこと。

 様子を聞いていると娘夫婦の長女・ユリのことが面白い。

 何か僕の「気質」を受けついでいる感じです。

 がんばれ、ユリ。いつか、君は研究者として生きていくことになると思うよ。ずーっと、父母の世話になりながら……。

 ところで妻は、東京都に住んでいたころの妻名義の家の売却の手続きをしてきたそうです。

 そして、お金もゲットしたようです。

 妻の明言によれば、このお金が僕の、あと二年間の勉学の費用になるはずです。

 つつしんで、いただきます。

 そのまえに、何としても四年制大学の編入試験に合格しなくては……。

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2009.06.21

高知市 一泊で、某県の大学にいってきました。僕? 受験生です。

  一泊で、某県の大学にいってきました。
 ニ十一日のオープンキャンバスに参加しました。
 二十七日に文化財学科の編入試験を受ける所です。

 いやーっ、いたれりつくせりの歓迎でした。

 ● 受付で大学の資料と、ペットボトルのお茶をもらいました。

 ● 文化財科のコーナーで、先生の一人が、いろんな質問にこたえてくれました。

 ● 近くにいた学部長に声をかけ、親しくお話ししました。僕の知っている人の親類でした。

 ● 学部についての説明会も学部長の話など触発されるものでした。ここで、ペットボトルのお茶をもらいました。二本目。

 ● 食堂に案内されて昼食。無料でした。

 ● 昼食をとりながら、案内してくれた学生に文化財学科のこと(古文書を読み解くさいの辞書のことなど)をいろいろ教えてもらいました。

 ● 教室にいって文化財科の先生から江戸時代の文献を見せていただき解説を聞きました。別の先生から掛軸(かけじく)、巻子(かんす)の取り扱い方について、ていねいに教えていただきました。

 ● 最初の先生の地理学についての講演を聞かせていただきました。

 ● 帰りは、大学の差し向けた高知行のバスに乗ってせてもらいました。教職員、学生たちがバスを見送ってくれて感激しました。

 ● バスの中で、これまでとは別の先生からペットボトルのお茶をもらいました。三本目。バスの中で、その先生と長話ができました。

 学内に書店がない、授業料などがかなり高いということのほかはOK、OK。

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高知市 父の日。息子のツレから「富山名産 特選 鱒(ます)の寿(す)し」が届きました。

 東京都に住む息子のツレから「富山名産 特選 鱒(ます)の寿(す)し」が届きました。
 父の日のお祝いのようです。

 よく気がつくツレです。ありがとう。

 夜中、息子から電話がありました。
 「届いたかい」
 「いや、まだ……」

 で、食べ始めました。
 まいう!!!

 息子とツレ。幸せに。

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2009.06.23

高知市 「君は合格する」。そんな呪文をかけていただけませんか。

 二十七日に四年制大学の編入試験をひかえ、勉強しなくてはならないのに、それがうまくいかなくて、かなりあせっています。

 誰か呪文をかけてくれませんか。
 たとえば、「大丈夫、君なら合格する。この六十二年、一生懸命生きてきたもの」なんて……。

 まわりの人は、妻をふくめて「大丈夫、合格はないからと」と「安心ムード」です。

 いまのところ、「大丈夫。がんばれ」と、いってくれているのは年下の僕が学びたい学問分野の先輩・DEさんだけです。

 おっと、もうすでに「つぎの日」になっています。
 寝ないと「あす」が大変です。
 寝ます。
 みなさんの、呪文を待っています。

 なお、志望の大学は県外ですので、これまでやってきたこととは、しばらく「バイバイ」という感じになってしまいます。

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2009.06.24

高知市 「……編入試験は 三日後の朝。」

 新しい 筆箱買って 仕度する 編入試験は 三日後の朝

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2009.06.25

高知市 「鉛筆を 九本削り おさめてる 受験目の前 心といでる」。

 鉛筆を 九本削り おさめてる 受験目の前 心を削る

 もう、「あさって」になりました。

 

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高知市 志望校 「受けたい科目に ○をする ほとんど○で 埋まってしまった」。

 志望校 受けたい科目に ○をする ほとんど○で 埋まってしまった

 やっぱり僕は文化財科で学びたいんだと、つくづく思います。

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高知市 某四年制大学の編入試験の過去問題に頭を悩ましています。

 繰り返し 過去問(これまでの出題)解いて なおしてる 大学の門 「開けゴマ、ゴマ」


(ひら)け胡麻(ごま)

アラビアの説話「アリババと四十人の盗賊」で、盗賊団の宝をかくした洞窟(どうくつ)の扉(とびら)を開ける呪文(じゅもん)


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2009.06.28

日本史あれこれ ① 前方後円墳

 3世紀中葉過ぎから6世紀末までにつくり続けられた、平面が円形と方形の墳丘を組み合わせた形状の規模の大きい墳墓です。憤丘、埋葬施設、副葬品、封土固めの葺石、祭祀用の土器・埴輪など外表施設などから成っています。

 最も大きなものは大仙陵古墳(5世紀。大阪府堺市)です。墳丘の全長が486メートル、高さが36メートル、周りには、三重の周濠を巡らしています。

 日本列島の広範囲に分布しており、北は岩手県奥州市から南は鹿児島県にまで及んでいます。前方後円墳の存在が明確でないのは北海道、青森県、秋田県、沖縄県の4県です。他の43の都府県では数百基から12基の前方後円墳が知られています。離島の対馬、壱岐、隠岐などにも存在する一方で、これまでのところ淡路では存在が確認されていません。

 弥生時代末期には、北部九州を中心とする政治勢力と奈良盆地東南部を中心とする政治勢力が存在していたことがわかっています。このいずれかが母体となって3世紀半ばまでにヤマト王権が成立したと考えられています。前方後円墳はヤマト王権が倭の統一政権として確立してゆくなかで、各地の豪族に許可した形式であると考えられています。

 朝鮮半島にも前方後円墳が存在します。これらは、いずれも5世紀後半から6世紀中葉に成立したものであり、百済の国境沿いに近い伽耶の地のみに存在し、墳丘長は80メートルないし100メートル規模で、円筒埴輪や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった遺物をともなうことが知られています。

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日本史あれこれ ② 埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の銘文が刻まれた鉄剣

 埼玉県行田市の埼玉(さきたま)古墳群内にある稲荷山古墳(前方後円墳。築造は5世紀後半)の115文字の銘文が刻まれた鉄剣についてのべます。

 後円部分から発掘されたものです。表に57字、裏に58字の銘文が刻まれています。鉄剣に文字を刻み、そこに金線を埋め込んでいます。国宝に指定されています。

 貴重なのは刻まれている内容です。それは「私、オワケノオミの祖先は代々、杖刀人(身分の高い人物を護衛する武官)の首を務めてまいりました。私はワカタケルノオオキミがシキノミヤで天下を治めたとき、このオオキミを補佐してきました。そこで辛亥(かのとい)年7月に、これまでの輝かしい功績を剣に刻んで記念とします」というものです。

 私も、埼玉古墳群近くの埼玉県立さきたま史跡の博物館で、この鉄剣を見ましたが、「これは、すごいものだ。日本古代史を知る上で、基準点になりうる史料だ」と思いました。

 「辛亥年」については471年とする説、531年とする説があります。いずれにせよ、この時代にシキノミヤにワカタケルという大王がいて、その支配は北関東におよんでいたことがわかります。

 この銘文の発見で、熊本県和水町の江田船山古墳(前方後円墳。5世紀末から6世紀初頭に築造)から出土した鉄剣の銀の銘文75文字中の「ワ□□□ルオオキミ」という文字もワカタケルノオオキミである可能性が出てきました。もし、そうであるならば、ワカタケルノオオキミの権力が九州~北関東までおよんでいたことになります。

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日本史あれこれ ③ キトラ古墳

 奈良県明日香村阿部山にある壁画古墳です(直径約14メートルの円墳。7世紀末ころ)。特別史跡に指定されています。古墳の天井には天文図が描かれていましたが、これは東アジア最古の現存例です。壁には、四つの方位を象徴する神獣、青竜(東壁)、白虎(西壁)、朱雀(南壁)、玄武(北壁)が描かれ、四神の下に人身獣首の十二支像も描かれていました。なお、この神獣は、古代中国で考え出されたものです。

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日本史あれこれ ④ 法隆寺

 奈良県斑鳩町にある聖徳宗総本山。創建年は607年、開基は、推古天皇・聖徳太子とされています。金堂、五重塔などがある西院と、夢殿などのある東院に分かれます。西院伽藍(7世紀後半~ 8世紀初の建立)は、現存する世界最古の木造建築物群です。法隆寺地域の仏教建造物は、世界遺産に登録されています。なお、法隆寺は、7世紀中期~後半作の木造仏像彫刻・百済観音を所蔵しています。

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日本史あれこれ ⑤  屋島

 香川県高松市北東部にある南北5キロメートル、東西2キロメートルの島。標高290メートル。白村江(はくすきのえ)のたたかい敗戦後の667年、天智天皇の命で、ここに古代山城の屋嶋城(やしまのき)を築きました(『日本書紀』)。唐、新羅の日本侵攻を恐れてのことでしょう。1184年の一の谷のたたかいに破れた平宗盛らが安徳天皇を奉じて本拠地を置きました。1185年、ここの平家の追討のため、源義経ひきいる源氏勢は屋島に殺到、平家の軍勢は、屋島を捨てて西海に落ちのびました。屋島は、国の史跡に指定されています。

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日本史あれこれ ⑥ 平城京

 710年から784年までの奈良時代の都です(740年、恭仁京への遷都によって平城京は一時的に放棄されるが、745年には再び平城京に遷都)。広さは120万平方メートル余で、現在の奈良県奈良市、大和郡山市近辺に位置していました。 南北に長い長方形で、基盤目状の条坊制の都市計画です。市街地の宅地は、位階によって大きさが決められていました。平城京跡は、埋蔵文化財ということで世界遺産に登録されています。

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日本史あれこれ ⑦ 奈良市の興福寺の阿修羅立像

 奈良市の興福寺の阿修羅(あしゅら)立像(奈良時代の734年にできています。国宝)についてのべます。

 藤原家出身の光明皇后は、母・橘三千代が7331月に亡くなると、1周忌の供養のため興福寺に西金堂を建立し、釈迦如来、釈迦の十大弟子、四天王、八部衆像などの28体の像、また菩提樹や金鼓(こんく)などの荘厳具を安置しました。釈迦の浄土を立体的にあらわそうとしたものです。堂づくりは、皇后に仕える役所であった皇后宮職をあげての仕事であったといいます。

 阿修羅像は、八部衆像の一つです。阿修羅像は、インド神話では軍の神です。

 この阿修羅立像の造像は百済(くだら)からきた仏師・将軍万福(しょうぐんまんぷく)、彩色は画師・秦牛飼(はたのうしかい)とされています。

 脱活乾漆造(だっかんかんしつづくり)、彩色で、像高1534センチ。髪と首が1つで、顔が3つ、耳が4つ。細い胴体から細く長い6本の腕を空間に差し伸べて立っています。写実性のある像です。なお、脱活乾漆造はつぎのような技法です。木製の芯木(しんぎ)で骨組みをつくる→その上に粘土を盛りつけて原型をつくる→この上に麻布をウルシではり重ねて像の形をつくる→できた張り子の像の上にウルシを盛り上げて細部を形づくる→形が完成した後、目立たない部分を切開して粘土をかき出す→補強と型崩れ防止のために内部に木枠を組む。

 三つの顔には、同じ男性の成長の過程が刻み込まれているといいます。成長の順にいくと、つぎのようになります。

 1 下くちびるをかみしめています。くやしいという表情です。

 2 うつむきかげんで悩んでいる様子です。

 3 何かを訴えている表情です。まゆを寄せ遠くを見つめる目をしています。。真っ直ぐ世の中を見つめる少年のような表情です。

 阿修羅像は、激しい怒りを表すのが一般的ですが、興福寺の像に激しさはどこにも見られません。私には、3の表情は、「たたかいはもうやめなさい」と訴えているように見えます。

 この時代に、このように思想性の高い作品をつくった作家がいたことに驚嘆します。興福寺には何度も足を運びましたが、可能なら何時間で見つめて心の中で対話していたい像です。

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日本史あれこれ ⑧  藤原不比等

 659年~720年、奈良時代初期の上級貴族官僚。藤原鎌足の二男で、母は車持君與志古娘(くるまもちのきみよしこのいらつめ)。父・鎌足のたまわった藤原姓は不比等とその子孫が継承することになって、中臣朝臣氏から独立した藤原朝臣氏が確立しました。717年には政府首班の地位を確立しました。

 父・鎌足(614年~669年)は、中大兄皇子(天智天皇)の腹心。中大兄皇子とともにクーデター(645612日の乙巳の変-いっしのへん)を起こし、権力の中枢にいた蘇我入鹿を暗殺しました。翌日には蘇我蝦夷がみずからの邸宅に火を放ち自殺。蘇我体制に終止符を打ちました。

 藤原の姓は、死を目前とした中臣鎌足が天智天皇から賜ったとされています。

 鎌足が亡くなったのは不比等が11歳のときです。その後、不比等は、鎌足の後継者として認められ藤原不比等を名乗りました。後に持統天皇(天智天皇、天武天皇の次の天皇)の側近になります。娘の宮子を文武天皇に嫁がせ、首皇子(聖武天皇)を産ませています。さらに娘である光明子(後の光明皇后)を聖武天皇に嫁がせました。みずからは中納言(ちゅうなごん)から大納言、ついで補佐の功により食封(じきふ)5000戸を賜りましたが、辞退して2000戸にとどまります。708年には右大臣に進みます。718年、みずから中心となって養老(ようろう)律令の編纂(へんさん)に着手しましたが、完成を待たずに720年に没しました。 

 不比等は、710年の平城遷都に際し、氏寺の山階寺を奈良に移し興福寺と改めました。

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日本史あれこれ ⑨  藤原京

 藤原京(ふじわらきょう)は、女帝・持統天皇のもと690年に着工、飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや、あすかきよみがはらのみや。いまの奈良県明日香村)から694年に遷都されました。奈良県橿原市(かしはらし)に所在する都城です。ここは畝傍山、耳成山、香具山に囲まれた平野で、都は、条坊制(じょうぼうせい)をしいた中国風都城でした。周囲を5メートルほどの高さの塀で囲み、東西南北の塀にはそれぞれ3か所、全部で12か所に門が設置されていました。南の中央の門が正面玄関に当たる朱雀門(すざくもん)です。710年に平城京に遷都されるまで持統、文武、元明の三天皇が16年間、居住しました。

 持統天皇は、天智天皇の娘で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘、遠智娘(おちのいらつめ)。同母姉の大田皇女とともに、父の同母弟である大海人皇子(のちの天武天皇)の妃となり、草壁皇子をもうけました。

 天智天皇の晩年には、皇位継承をめぐって夫・大海人皇子と父・天智天皇の仲が悪化。大海人皇子は東宮(皇太子)を辞し、天智の死後は大和国吉野に逃れました。持統はともに吉野へ落ち、壬申の乱(じんしんのらん)まで吉野で過ごしました。

 なお、壬申の乱とは、672年に起きた天智天皇の太子・大友皇子(おおとものみこ)に対し皇弟・大海人皇子(おおあまのみこ。後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえした内乱で、反乱者である大海人皇子が勝利しました。

 夫が即位するとその皇后となりました。夫の没後は、姉(大田皇女)の皇子・大津皇子を謀反の嫌疑をかけて殺し、自分の息子である草壁皇子を皇太子としましたが、草壁は即位する前に早世。690年、自身が女帝として690年、飛鳥浄御原宮で即位しました。

 そして、694年に、かねてから造営していた藤原宮に遷都しました。

 『万葉集』巻1雑歌28に藤原宮御宇天皇代(高天原廣野姫天皇 元年丁亥11年譲位軽太子尊号曰太上天皇)天皇御製歌として

 春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣干したり 天香具山

 の和歌が載っています。

 当時の支配者内部の層の血で血を洗う殺りくの中から生まれ出た都です。

 この都が中国風都城であったことは、中国のような、確固とした支配の態勢を築きたかった当時の支配者の思いの反映でしょうか。

7103月、都は平城京にうつりました。藤原京はわずか16年間で首都の役割を終えました。廃都になった藤原京は建物を解体し、柱・瓦・礎石など再利用できる物資は、すべて平城京へ運ばれました。貴族や役人たちも、新しい都へうりつり住みました。そして、藤原宮は廃墟となりました。

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日本史あれこれ ⑩ 鑑真

 鑑真(がんじん。688年~763年)は、奈良時代の帰化僧で、日本における律宗の開祖です。

 唐の揚州江陽県の生まれ。14歳で出家し律宗・天台宗を学びます。揚州(現・江蘇省)の大明寺の住職であった742年、日本から唐に渡った僧栄叡、普照らから仏教者に戒律を授ける導師、伝戒の師として日本に招請されました。

 戒律とは規範といった意味で、仏教者が日常生活上守らなければならない事柄です。出家者が正式の僧となるためには戒壇という施設で、有資格者の僧から具足戒(出家僧侶の守るべき戒)を受けなくてはならないことになっていましたが、当時(8世紀前半)の日本には正式の戒壇はなく、戒律を授ける資格のある僧も不足していました。

 僧栄叡、普照らからの要請を受けた鑑真は、弟子に問いかけましたが、誰も渡日を希望する者がいませんでした。そこで、鑑真みずからら渡日することを決意し、それを聞いた弟子21人も随行することとなりました。743年夏以来、日本への渡海を5回試みましとたがことごとく失敗しました。5回目の航海では中国最南端の海南島まで流され、みずからは失明しました。75312月、薩摩(鹿児島県)坊津(ぼうのつ)に到着、訪日を果たすことができました。66歳になっていました。

 7541月、鑑真は平城京に到着し、聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住むこととなりました。聖武(しょうむ)上皇はその労をねぎらい、詔(みことのり)して鑑真に授戒伝律の権限を委任し、みずから鑑真を戒師として東大寺大仏の前で登壇受戒しました。

 4月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築きました。

 759年、新田部親王(にいたべしんのう、天武天皇第7皇子)の旧邸宅跡(広さは4町)を朝廷から譲り受け唐招提寺(奈良市五条町。律宗の総本山)を創建し、戒壇を設置しました。鑑真は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、日本にこれらの知識も伝えた。悲田院をつくり貧民救済にもにとりくみました。

 763年、唐招提寺で死去しました。76歳。弟子の忍基は鑑真の彫像を造りました。これは現代まで唐招提寺に伝わっています(国宝唐招提寺鑑真像)。

 

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日本史あれこれ ⑪ 桓武天皇

 桓武天皇(かんむてんのう。737年~80649日)は、日本古代の天皇(在位781806)。白壁王(のちの光仁天皇)の第一皇子。母は百済(くだら)系渡来氏族の出の高野新笠(たかののにいがさ)です。

 白壁王の天皇即位後、侍従、大学頭、中務卿などを歴任しました。藤原氏などを巻き込んだ政争によって異母弟である皇太子・他戸親王(おさべしんのう)とその母であった皇后・井上内親王が突如廃されて、77312日に立太子しました。

 781415日、即位。平城京における奈良仏教各寺の影響力の肥大化をきらい、784年、山背(やましろ)国(京都府)の長岡京への遷都を断行しました。

 翌年、造営の中心人物・藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が造宮監督中に矢で射られ、翌日亡くなりました。暗殺犯として大伴竹良らが逮捕され、取調べの末、大伴継人、佐伯高成ら十数人が捕縛されて首を斬られました。事件に連座して五百枝王、藤原雄依、紀白麻呂、大伴永主などが配流となりました。事件は桓武天皇の皇太子であった弟早良親王(さわらしんのう)の廃嫡、配流と憤死にまで発展します。

 その後、親王の怨霊(おんりょう)の所為とされる近親の死亡が相次いだため、794年には同じ山背の葛野(かどの)に遷都、平安京と命名しました。

 蝦夷(えみし)の支配する東北地方に侵攻し、802年には胆沢(いさわ)城(岩手県)を築き、蝦夷を平定しました。

 造都と征夷の二大事業には惜しみなく人民の労力と国家の財力とを投入しました。しかし、晩年、蝦夷平定と平安京の建設の政策は行き詰まりました。805年、参議・藤原緒嗣(おつぐ)の「今、天下の人々が苦しんでいるのは、蝦夷平定と平安京の建設です。この二つを止めればみんな安心します」という建議によって造都と征夷の事業を中止しました。

 この翌年70歳で死亡しました。

 今の天皇が、20011218日、天皇誕生日前の記者会見で「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」と発言し、注目されました。

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日本史あれこれ ⑫ 平安遷都

 79410月に、桓武天皇が実施した長岡京から平安京への遷都のことです。

 桓武天皇は、784年に平城京から長岡京を造営して遷都しましたが、これは天武天皇系の政権を支えてきた貴族や寺院の勢力が集まる大和国から脱して、新たな天智天皇系の都を造る意図があったといわれます。しかし、それから9年後の7931月、桓武天皇は臣下を集め、再遷都を宣言します。場所は、長岡京の北東10km、二つの川に挟まれた山背国北部の葛野でした。事前に桓武天皇は京都市東山区にある将軍塚から葛野を見渡し、都に相応しいか否か確めたといわれています。日本紀略には「葛野の地は山や川が麗しく四方の国の人が集まるのに交通や水運の便が良いところだ」と桓武天皇の言葉が残っています。

 長岡京が廃棄された理由は、だかさなる洪水にみまわれるなど都市機能が十分でなかったことや、藤原種継(たねつぐ)暗殺事件に連座して廃された早良(さわら)親王(桓武天皇の同母弟)の怨霊を桓武天皇が畏怖したことが指摘されています。

 平安京は、つぎのような都でした。

 都の中央を貫く朱雀大路の一番北に、どこからでも見えるように大極殿をつくり、天皇の権威を示しました。

 都のかたわらの川沿いには、淀津や大井津などの港を整備しました。これらの港を全国から物資を集める中継基地にして、そこから都に物資を運び込みました。運ばれた物資は都の中にある大きな二つの市(東市、西市)に送り、人々に供給されます。このように食料や物資を安定供給できる仕組みを整え、人口増加に対応できるようにしました。

 長岡京で住民を苦しめた洪水への対策も講じ、都の中に自然の川がない代わりに東西にそれぞれ、水量の調整ができる人工の「堀川」(現在の堀川と西堀川)をつくり、水の供給を確保しながら洪水を抑えようとしました。

 長岡京で認めなかった仏教寺院の建立を認めました。仏教の知識と能力に優れ、政治権力とは無縁の僧である空海たちを迎え、東寺と西寺の力で災害や疫病から都を守ろうと考えました。

 桓武天皇は、平安京を、さらに堅固に守るために、怨霊の出入り口である東北を呪術的に封じています。延暦寺、鞍馬寺、貴船神社を配したのがそれであり、御所の背後や周辺には、強力な鬼神を奉る大将軍社を置きました。

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日本史あれこれ ⑬ 摂関政治

 平安時代に、藤原氏(藤原北家)の良房一族が、代々、摂政や関白あるいは内覧となって、天皇の代理者、または天皇の補佐者として政治の実権を独占し続けた政治形態のことをいいます。

 摂関政治の足がかりを作ったのは藤原冬嗣です。冬嗣は、810年、天皇の筆頭秘書・官蔵人頭(新設官庁である蔵人所の長官)に就任し、一大法令群である弘仁格式を撰上しました。この功績により、次世代における藤原北家台頭の足がかりができました。

 冬嗣の子・藤原良房は、857年に太政大臣へ、866年には摂政へに就任しました。良房の採った政治手法は大きく二つあります。一つは、他の有力貴族を失脚させることで、藤原北家への対抗心を削ぐこと。二つ目は、天皇家に娘を嫁がせ子を産ませ、天皇の外祖父として権力を握ることでした。この、娘を天皇家に嫁がせる手法は、藤原北家の伝統となり、天皇の代理者・補佐者としての地位の源泉ともなっていきました。

 藤原北家の勢力が最も盛んであったのは11世紀の藤原道長(ふじわらのみちなが)と、その子・頼通(よりみち)の時代です。藤原道長は4人の娘を次々に皇后や皇太子妃とし、30年にわたって朝廷で大きな権勢をふるいました。「此の世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることも無しと思へば」という道長の和歌は藤原氏の栄華をあらわしています。

 後一条(ごいちじょう)、 後朱雀(ごすざく)、後冷泉(ごれいぜい)の3代の天皇はみな道長の外孫で、頼通は、この3天皇の時代、約50年間にわたって摂政・関白をつとめました。

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日本史あれこれ ⑭ 狂言

 物真似などの滑稽芸を中心にした猿楽から発展した芸能で、猿楽の滑稽味を洗練させた笑劇。室町時代(1336年~1573年)に成立しました。能も猿楽から発展した芸能で、面(おもて)という仮面を使う音楽劇で、その内容は悲劇的なものが多い。それにたいして狂言は、一部の役柄を除いて面を使用せず、猿楽の持っていた物まね・道化的な要素を発展させたもので、内容は風刺や失敗談など滑稽さのあるものを主にあつかいます。

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日本史あれこれ ⑮ 千利休

 中世末期、戦国時代、安土桃山時代の茶人。茶道千家流の始祖。1522年、和泉の国堺の商家の生まれ。家業は倉庫業。16歳で茶の道に入りました。織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われ、のち豊臣秀吉に仕えました。秀吉の聚楽城内に屋敷を構え聚楽第の築庭にもかかわり、碌も三千石を賜わりました。1591年、秀吉の勘気に触れ、切腹を命じられました。

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日本史あれこれ ⑯ 江戸時代の鎖国

 鎖国(さこく)は、江戸幕府が日本人の海外交通を禁止し、外交・貿易を制限した政策のことです。幕府は、封建支配のさまたげになると考えられたキリスト教の禁止を徹底させ、また、西日本の大名が貿易によって勢力を強めることをふせいで、幕府が貿易の利益を独占としようとしました。

 江戸幕府は、貿易の利益のため、はじめはキリスト教を黙認しましたが、1613年に全国的にキリスト教の禁止を命じました。

 1616年にはヨーロッパ船の来航を平戸、長崎に限定し、1624年にはスペイン船の来航を禁じました。1633年には奉書(ほうしょ)船(朱印状のほかに老中奉書という許可証をもった船)以外の海外渡航を禁止し、1635年には日本人の海外渡航と帰国を禁止しました。1637?38年の島原・天草一揆の後、639年に第3代将軍・徳川家光はポルトガル船の来航を禁止して鎖国を完成させ、1641年には平戸のオランダ商館を長崎の出島にうつしました。

 鎖国という言葉は江戸時代の蘭学者である志筑忠雄が1801年の『鎖国論』においてはじめて使用しました。エンゲルベルト・ケンペルという人が、江戸参府旅行を経て帰国後書いた著書『日本誌』(1712年刊)の中の、巻末の一章にあたる「日本国において自国人の出国、外国人の入国を禁じ、又此国の世界諸国との交通を禁止するにきわめて当然なる理」という題名を、志筑が「鎖国論」と変更しました。この鎖国という言葉は、その際の新造語です。

 私は、鎖国については、幕府が貿易の利益を独占しようとしたという論点が大事だと思います。

 幕府は、管理貿易をおこない収益を独占しました。

 鎖国の下、外国に向けてあけられた4つの窓口を四口などと呼びました。

 長崎口 長崎は幕府の直轄地として幕府の直接管理で貿易がおこなわれました。

 対馬口 対馬藩の宗氏は中世から対朝鮮の外交、貿易の中継ぎをになってきました。江戸時代に入っても、対馬藩にはその権限が引き続き認められ、幕府の対朝鮮外交を中継ぎする役割をにないました。

 薩摩口(琉球口) 薩摩藩が琉球を攻略、支配したことで、琉球を通じての貿易が認められました。

 蝦夷口 松前藩の松前氏は蝦夷地で北方貿易をおこなってきた。その権限は江戸時代に入っても引き続き認められ、松前藩の収入のほとんどは北方貿易によって支えられています。

 松前藩、対馬藩や薩摩藩では、幕府の許容以上の額を一種の密貿易(抜荷)としておこない、それ以外にも領内を大洋に接する諸藩でも密貿易を度々おこなっていました。これに対して、歴代の幕府首脳はこうした動きにたびたび禁令を発して取締りを強めてきましたが、諸藩による密貿易は続けられていました。なかには石見浜田藩のように、藩ぐるみで密貿易に関った上に、自藩の船団を仕立てて東南アジアにまで派遣していた例もありました。

 1792年のロシアの正使・ラックスマンの来航以来、諸外国の船がたびたび来航して日本への開国要求を強めました。1853年、浦賀にアメリカ東インド艦隊司令長官のペリー率いる黒船が来航、翌年には日米和親条約が締結されました。その後、1858年の日米修好通商条約の締結によって鎖国は幕を閉じました。

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日本史あれこれ ⑰ 島原の乱

 江戸時代初期、肥前国島原と肥後国天草の領民による大規模な一揆です。

 島原は松倉氏、天草は肥前国備前唐津藩寺沢氏の領地で、ともに年貢などの収奪強化が進められていました。

 過酷な取立てに耐えかねた島原の領民は、武士身分から百姓身分に転じて地域の指導的な立場に立っていた旧有馬氏の家臣の下に組織化、密かに反乱計画を立てていました。肥後天草でも小西行長、佐々成政、加藤忠広の改易により発生していた浪人を中心にして一揆が組織されていました。島原・天草の一揆の首謀者たちは湯島で会談をし、キリシタンの間でカリスマ的な人気を得ていた16歳の少年天草四郎(本名・益田四郎時貞)を一揆軍の総大将とすることを決めて決起しました。

 一揆軍は、一時、優勢でしたが、幕府側の討伐軍の攻撃、長崎奉行の依頼を受けたオランダ船デ・ライプ号、ベッテン号が島原の砲撃の前に鎮圧されました。

 幕府側の攻撃とその後の処刑によって一揆軍は最終的に老若男女37,000人が死亡しました。

 『細川家記』『天草島鏡』など同時代の記録は反乱の原因を年貢の取りすぎにあると書いていますが、領主・勝家はみずからの失政を認めず、反乱を起こした一揆がキリシタン信仰を結束の核としていたことをもってこれを反抗的なキリシタンの暴動と主張しました。幕府も以後、島原の乱をキリシタン弾圧の口実としました。

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日本史あれこれ ⑱ 平賀源内

 1728年~1780124日。江戸時代の本草学者、蘭学者、医者、作家、発明家、画家(蘭画家)です。

 讃岐国寒川郡志度浦(いまの香川県さぬき市志度)に生まれました。平賀氏は高松藩の足軽身分の家でした。

 幼少のころには掛け軸に細工をして「お神酒天神」を作成したとされ、その評判が元で13歳から藩医の元で本草学を学び、儒学を学びます。

 俳諧グループに属して俳諧などもおこないます。

 1748年、父の死により後役として藩の蔵番となります。

 1752年ころに1年間長崎へ遊学し、本草学とオランダ語、医学、油絵などを学びます。

 留学の後に藩の役目を辞し、妹に婿養子を迎えさせて家督を放棄します。

 大阪、京都で学び、さらに1756年には江戸に出て本草学者・田村元雄に弟子入りして本草学を学び、漢学を習得するために林家にも入門して聖堂に寄宿します。

 2回目の長崎遊学では鉱山の採掘や精錬の技術を学びます。1761年には伊豆で鉱床を発見し、産物のブローカーなどもおこないます。

 物産博覧会を度々開催し、1762年には物産会として第五回となる「東都薬品会」を江戸の湯島にて開催します。

 高松藩の家臣として再登用されますが、学問に専念するために辞職します。

 1763年、『物類品隲』を刊行。オランダ博物学に関心を持ち、洋書の入手に専念します。源内は語学知識がなく、オランダ通詞に読み分けさせて読解に務めます。

 産業起業的な活動もおこない、1773年には秋田藩の佐竹義敦に招かれて鉱山開発の指導をし、また、秋田藩士小田野直武に蘭画の技法を伝えます。

 秩父における炭焼、荒川通船工事の指導などもおこないます。

 1776年、長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を修理して復元します。科学者としての業績には、火浣布の開発もあります。

 浄瑠璃作家としては時代物を多く手がけ、作品の多くは五段形式や多段形式で、世話物の要素が加わっていると評価されます。

 鈴木春信と共に絵暦交換会を催し、浮世絵の隆盛に一役買ったほか、博覧会の開催を提案、江戸湯島で日本初の博覧会「東都薬品会」が開催されました。

 江戸に狂歌が流行するきっかけとなった大田南畝の『寝惚先生文集』に序文を寄せているほか、後世に傑作として名高い『長枕褥合戦』や『萎陰隠逸伝』などの春本も残しています。

 「夏バテ防止の為に土用の丑の日にウナギを食べる」風習は、夏場の売り上げ不振に悩んだ鰻屋に請われて、平賀源内が考案した「本日土用丑の日」という広告キャッチコピーが元との説が1822年の『明和誌』にあります。

 1769年にはCMソングとされる、歯磨き粉「漱石膏」の作詞作曲を手がけ、1775年には音羽屋多吉の清水餅の広告コピーを手がけてそれぞれ報酬を受けています。

 文章の「起承転結」を説明する際によく使われる「京都三条糸屋の娘 姉は十八妹は十五 諸国大名弓矢で殺す 糸屋の娘は目で殺す 」の作者との説もあります。

 平賀焼などの焼き物を作成したりもしました。

 男色家であったため、妻帯せず、歌舞伎役者らをひいきにして愛したといいます。

 衆道関連の著作として、1764年に『菊の園』、1775年に『男色細見』の陰間茶屋案内書を著わしました。

 17791121日、誤って(一説に、「乱心して」)2人を殺傷して投獄され、1218日獄死、享年52

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日本史あれこれ ⑲ 伊能忠敬

 江戸時代の日本の商人・測量家。現在の千葉県の生まれ。1745211日~1818517日。酒、醤油の醸造、貸金業、利根水運などにかかわりましたが、179412月、50歳の時に隠居。翌年、江戸に出て幕府の天文方・高橋至時に師事し、測量・天文観測などを修めました。55歳(1800年)から71歳(1816年)まで10回にわたり全国各地を測量。この測量から「大日本沿海輿地全図」をつくりました(完成したのは忠敬没後の1821年)。

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日本史あれこれ ⑳ 地租改正

 1873年(明治6年)に明治政府がおこなった土地・租税制度の改革です。それまでの封建的重層的な土地所有制度を私的所有制度に転換させ、土地所有者に地券を交付するとともに、公定地価の3%を地租として課税しました。

 江戸時代までの貢租は米による物納制度であり、生産者が納税義務者でした。その制度は全国で統一したものではなく、地域ごとに違いがありました。このような制度を、地租改正により、土地の価値に見合った金銭を所有者に納めさせる全国統一の課税制度に改ためました。

 税率を地価に対する一定率とすることにより、従前のように農作物の豊凶により税収が変動することなく、政府は安定した収入を確保することができるようになりました。農作物の価格変動リスクを、政府から農民へ転嫁したものといえます。しかも、「旧来の歳入を減じない」という方針によって3%という高額な税率が算定されました。

 これは大多数の農民の負担を高めることにつながり、また土地の所有者がおらず納税が困難な入会地が事実上、政府に没収されたことなどから伊勢暴動、真壁暴動など一揆(地租改正反対一揆)がひんぱつしました。このため1877年、税率が2.5%に引き下げられました。

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日本史あれこれ 21 大正デモクラシー

 大正時代(1912年~1926年)おこった日本全体を巻き込む民主主義的あるいは自由主義的な風潮・思潮の総称です。

 政治面においては普通選挙制度や言論・集会・結社の自由に関しての運動、外交面においては生活に困窮した国民への負担が大きい海外派兵の停止を求めた運動、社会面においては団結権、ストライキ権、男女平等、部落差別解放運動などの獲得運動、文化面においては自由教育の獲得、大学の自治権獲得運動、美術団体の文部省支配からの独立など、さまざまな方面からさまざまな自主的集団による運動が展開されました。

 1925年には、普通選挙法が成立しましたが、同時に「国体」への批判を圧迫する治安維持法が制定されました。

 こうして、再び強権的な政治が支配的になっていきました。

 「大正デモクラシー」という名称は信夫清三郎(歴史学者)が1954年に自著でその呼称を提唱して以来定着したものです。

 明治維新で強権的、侵略的な明治政権が生まれました。その政権下で、明治時代の議会の開設、地租の軽減、不平等条約の改正、言論と集会の自由の保障などの要求を掲げた自由民権運動が盛り上がり、政権中枢に革命の危機を感じさせるほどでした。しかし、明治政権は、明治十四年(1881年)政変という運動沈静化のための手を打ち、運動をしぼませました。

 大正天皇の時代になり、自由民権運動でつちかわれててきたエネルギーが再び、「大正デモクラシー」として発揮されたのではないでしょうか。

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日本史あれこれ 22 国立国際美術館

 独立行政法人国立美術館が管轄する大阪市北区中之島にある美術館。ポール・セザンヌ、パブロ・ピカソ、マックス・エルンスト、藤田嗣治、国吉康雄らの代表的な作家の作品がいくつかある以外は、すべてアジア太平洋戦争後の作品です。設立は1977年。大阪府吹田市の万博記念公園にありましたが、2004年に現在地へ移転しました。

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2009.06.29

高知市 わが高知短期大学は前期の試験シーズンに入っていました。

 先週は、四年制大学への編入試験で、ほかのことはいっさい「拒絶」といった状態でした。

 で、そろそろ「正気」に戻りました。

 月曜日の六月二十九日、学校にいくと、わが夜間の高知短期大学は前期の試験シーズンに入っていました。

 RIさん(年下の女性)から、

 「自然科学の試験の課題が出てるわよ。MAさん(年上の女性)が、あなたのプリントをもらっていたから、もらいなさい」

 二時間目にMAさんと一緒になり、  プリントをもらいました。

 「うん、僕は、相対性理論について書こう」

 そう、「決意」しました。

 この二時間目の国際経済学でも、試験の内容が発表されました。

 いくつかの選択肢がありましたが、僕は、これから授業でやる分野で小論文を書くことにしました。

 すでに課題が出ているのは英会話のテストの内容。

 これも何とかしなくては……。

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