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2009.06.28

日本史あれこれ ⑱ 平賀源内

 1728年~1780124日。江戸時代の本草学者、蘭学者、医者、作家、発明家、画家(蘭画家)です。

 讃岐国寒川郡志度浦(いまの香川県さぬき市志度)に生まれました。平賀氏は高松藩の足軽身分の家でした。

 幼少のころには掛け軸に細工をして「お神酒天神」を作成したとされ、その評判が元で13歳から藩医の元で本草学を学び、儒学を学びます。

 俳諧グループに属して俳諧などもおこないます。

 1748年、父の死により後役として藩の蔵番となります。

 1752年ころに1年間長崎へ遊学し、本草学とオランダ語、医学、油絵などを学びます。

 留学の後に藩の役目を辞し、妹に婿養子を迎えさせて家督を放棄します。

 大阪、京都で学び、さらに1756年には江戸に出て本草学者・田村元雄に弟子入りして本草学を学び、漢学を習得するために林家にも入門して聖堂に寄宿します。

 2回目の長崎遊学では鉱山の採掘や精錬の技術を学びます。1761年には伊豆で鉱床を発見し、産物のブローカーなどもおこないます。

 物産博覧会を度々開催し、1762年には物産会として第五回となる「東都薬品会」を江戸の湯島にて開催します。

 高松藩の家臣として再登用されますが、学問に専念するために辞職します。

 1763年、『物類品隲』を刊行。オランダ博物学に関心を持ち、洋書の入手に専念します。源内は語学知識がなく、オランダ通詞に読み分けさせて読解に務めます。

 産業起業的な活動もおこない、1773年には秋田藩の佐竹義敦に招かれて鉱山開発の指導をし、また、秋田藩士小田野直武に蘭画の技法を伝えます。

 秩父における炭焼、荒川通船工事の指導などもおこないます。

 1776年、長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を修理して復元します。科学者としての業績には、火浣布の開発もあります。

 浄瑠璃作家としては時代物を多く手がけ、作品の多くは五段形式や多段形式で、世話物の要素が加わっていると評価されます。

 鈴木春信と共に絵暦交換会を催し、浮世絵の隆盛に一役買ったほか、博覧会の開催を提案、江戸湯島で日本初の博覧会「東都薬品会」が開催されました。

 江戸に狂歌が流行するきっかけとなった大田南畝の『寝惚先生文集』に序文を寄せているほか、後世に傑作として名高い『長枕褥合戦』や『萎陰隠逸伝』などの春本も残しています。

 「夏バテ防止の為に土用の丑の日にウナギを食べる」風習は、夏場の売り上げ不振に悩んだ鰻屋に請われて、平賀源内が考案した「本日土用丑の日」という広告キャッチコピーが元との説が1822年の『明和誌』にあります。

 1769年にはCMソングとされる、歯磨き粉「漱石膏」の作詞作曲を手がけ、1775年には音羽屋多吉の清水餅の広告コピーを手がけてそれぞれ報酬を受けています。

 文章の「起承転結」を説明する際によく使われる「京都三条糸屋の娘 姉は十八妹は十五 諸国大名弓矢で殺す 糸屋の娘は目で殺す 」の作者との説もあります。

 平賀焼などの焼き物を作成したりもしました。

 男色家であったため、妻帯せず、歌舞伎役者らをひいきにして愛したといいます。

 衆道関連の著作として、1764年に『菊の園』、1775年に『男色細見』の陰間茶屋案内書を著わしました。

 17791121日、誤って(一説に、「乱心して」)2人を殺傷して投獄され、1218日獄死、享年52

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