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2009.06.28

日本史あれこれ ⑧  藤原不比等

 659年~720年、奈良時代初期の上級貴族官僚。藤原鎌足の二男で、母は車持君與志古娘(くるまもちのきみよしこのいらつめ)。父・鎌足のたまわった藤原姓は不比等とその子孫が継承することになって、中臣朝臣氏から独立した藤原朝臣氏が確立しました。717年には政府首班の地位を確立しました。

 父・鎌足(614年~669年)は、中大兄皇子(天智天皇)の腹心。中大兄皇子とともにクーデター(645612日の乙巳の変-いっしのへん)を起こし、権力の中枢にいた蘇我入鹿を暗殺しました。翌日には蘇我蝦夷がみずからの邸宅に火を放ち自殺。蘇我体制に終止符を打ちました。

 藤原の姓は、死を目前とした中臣鎌足が天智天皇から賜ったとされています。

 鎌足が亡くなったのは不比等が11歳のときです。その後、不比等は、鎌足の後継者として認められ藤原不比等を名乗りました。後に持統天皇(天智天皇、天武天皇の次の天皇)の側近になります。娘の宮子を文武天皇に嫁がせ、首皇子(聖武天皇)を産ませています。さらに娘である光明子(後の光明皇后)を聖武天皇に嫁がせました。みずからは中納言(ちゅうなごん)から大納言、ついで補佐の功により食封(じきふ)5000戸を賜りましたが、辞退して2000戸にとどまります。708年には右大臣に進みます。718年、みずから中心となって養老(ようろう)律令の編纂(へんさん)に着手しましたが、完成を待たずに720年に没しました。 

 不比等は、710年の平城遷都に際し、氏寺の山階寺を奈良に移し興福寺と改めました。

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