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2009.06.28

日本史あれこれ ⑬ 摂関政治

 平安時代に、藤原氏(藤原北家)の良房一族が、代々、摂政や関白あるいは内覧となって、天皇の代理者、または天皇の補佐者として政治の実権を独占し続けた政治形態のことをいいます。

 摂関政治の足がかりを作ったのは藤原冬嗣です。冬嗣は、810年、天皇の筆頭秘書・官蔵人頭(新設官庁である蔵人所の長官)に就任し、一大法令群である弘仁格式を撰上しました。この功績により、次世代における藤原北家台頭の足がかりができました。

 冬嗣の子・藤原良房は、857年に太政大臣へ、866年には摂政へに就任しました。良房の採った政治手法は大きく二つあります。一つは、他の有力貴族を失脚させることで、藤原北家への対抗心を削ぐこと。二つ目は、天皇家に娘を嫁がせ子を産ませ、天皇の外祖父として権力を握ることでした。この、娘を天皇家に嫁がせる手法は、藤原北家の伝統となり、天皇の代理者・補佐者としての地位の源泉ともなっていきました。

 藤原北家の勢力が最も盛んであったのは11世紀の藤原道長(ふじわらのみちなが)と、その子・頼通(よりみち)の時代です。藤原道長は4人の娘を次々に皇后や皇太子妃とし、30年にわたって朝廷で大きな権勢をふるいました。「此の世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることも無しと思へば」という道長の和歌は藤原氏の栄華をあらわしています。

 後一条(ごいちじょう)、 後朱雀(ごすざく)、後冷泉(ごれいぜい)の3代の天皇はみな道長の外孫で、頼通は、この3天皇の時代、約50年間にわたって摂政・関白をつとめました。

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