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2009.06.28

日本史あれこれ ⑫ 平安遷都

 79410月に、桓武天皇が実施した長岡京から平安京への遷都のことです。

 桓武天皇は、784年に平城京から長岡京を造営して遷都しましたが、これは天武天皇系の政権を支えてきた貴族や寺院の勢力が集まる大和国から脱して、新たな天智天皇系の都を造る意図があったといわれます。しかし、それから9年後の7931月、桓武天皇は臣下を集め、再遷都を宣言します。場所は、長岡京の北東10km、二つの川に挟まれた山背国北部の葛野でした。事前に桓武天皇は京都市東山区にある将軍塚から葛野を見渡し、都に相応しいか否か確めたといわれています。日本紀略には「葛野の地は山や川が麗しく四方の国の人が集まるのに交通や水運の便が良いところだ」と桓武天皇の言葉が残っています。

 長岡京が廃棄された理由は、だかさなる洪水にみまわれるなど都市機能が十分でなかったことや、藤原種継(たねつぐ)暗殺事件に連座して廃された早良(さわら)親王(桓武天皇の同母弟)の怨霊を桓武天皇が畏怖したことが指摘されています。

 平安京は、つぎのような都でした。

 都の中央を貫く朱雀大路の一番北に、どこからでも見えるように大極殿をつくり、天皇の権威を示しました。

 都のかたわらの川沿いには、淀津や大井津などの港を整備しました。これらの港を全国から物資を集める中継基地にして、そこから都に物資を運び込みました。運ばれた物資は都の中にある大きな二つの市(東市、西市)に送り、人々に供給されます。このように食料や物資を安定供給できる仕組みを整え、人口増加に対応できるようにしました。

 長岡京で住民を苦しめた洪水への対策も講じ、都の中に自然の川がない代わりに東西にそれぞれ、水量の調整ができる人工の「堀川」(現在の堀川と西堀川)をつくり、水の供給を確保しながら洪水を抑えようとしました。

 長岡京で認めなかった仏教寺院の建立を認めました。仏教の知識と能力に優れ、政治権力とは無縁の僧である空海たちを迎え、東寺と西寺の力で災害や疫病から都を守ろうと考えました。

 桓武天皇は、平安京を、さらに堅固に守るために、怨霊の出入り口である東北を呪術的に封じています。延暦寺、鞍馬寺、貴船神社を配したのがそれであり、御所の背後や周辺には、強力な鬼神を奉る大将軍社を置きました。

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