日本史あれこれ ⑩ 鑑真
鑑真(がんじん。688年~763年)は、奈良時代の帰化僧で、日本における律宗の開祖です。
唐の揚州江陽県の生まれ。14歳で出家し律宗・天台宗を学びます。揚州(現・江蘇省)の大明寺の住職であった742年、日本から唐に渡った僧栄叡、普照らから仏教者に戒律を授ける導師、伝戒の師として日本に招請されました。
戒律とは規範といった意味で、仏教者が日常生活上守らなければならない事柄です。出家者が正式の僧となるためには戒壇という施設で、有資格者の僧から具足戒(出家僧侶の守るべき戒)を受けなくてはならないことになっていましたが、当時(8世紀前半)の日本には正式の戒壇はなく、戒律を授ける資格のある僧も不足していました。
僧栄叡、普照らからの要請を受けた鑑真は、弟子に問いかけましたが、誰も渡日を希望する者がいませんでした。そこで、鑑真みずからら渡日することを決意し、それを聞いた弟子21人も随行することとなりました。743年夏以来、日本への渡海を5回試みましとたがことごとく失敗しました。5回目の航海では中国最南端の海南島まで流され、みずからは失明しました。753年12月、薩摩(鹿児島県)坊津(ぼうのつ)に到着、訪日を果たすことができました。66歳になっていました。
754年1月、鑑真は平城京に到着し、聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住むこととなりました。聖武(しょうむ)上皇はその労をねぎらい、詔(みことのり)して鑑真に授戒伝律の権限を委任し、みずから鑑真を戒師として東大寺大仏の前で登壇受戒しました。
4月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築きました。
759年、新田部親王(にいたべしんのう、天武天皇第7皇子)の旧邸宅跡(広さは4町)を朝廷から譲り受け唐招提寺(奈良市五条町。律宗の総本山)を創建し、戒壇を設置しました。鑑真は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、日本にこれらの知識も伝えた。悲田院をつくり貧民救済にもにとりくみました。
763年、唐招提寺で死去しました。76歳。弟子の忍基は鑑真の彫像を造りました。これは現代まで唐招提寺に伝わっています(国宝唐招提寺鑑真像)。
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